2020/12/18 - 2020/12/18
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しにあの旅人さん
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日本書紀28巻天武天皇紀上、壬申紀。天武天皇の周囲には舎人クラスの若い男たちがいっぱいおりました。
天武チルドレンと名付けます。
この中には、その後の日本古代史を左右する大物はおりません。ヤマト中央の古い豪族はもちろん、古くに日本にやって来た渡来系、あるいは遠い地方の豪族の子弟もいたようです。生年は誰一人分かりません。飛鳥時代の平均寿命は30才だそうですから、若い頃から活動を始めていたでしょう。皆さん、年齢は20~25くらいではないか。
また名前が一カ所にあるだけで、壬申の乱で特に活躍したとは書かれていない人物もおります。戦場で、時期と場所も分からず戦死したのかもしれません。
1348年前、天武天皇の手足となって、奈良、三重、滋賀の野を駆け抜けた若者たちの、青春の物語を追ってみたいと思います。
天武チルドレン1としましたが、2以降はコロナ次第、いつ旅行に行けるかわかりません。
国史(りっこくし)とは古代日本の律令国家が編纂した歴史書の総称です。
記述する時代は、
「日本書紀」(成立720年)が神代から持統天皇(697年)まで。
「続日本紀」(797年)文武天皇(697年)~桓武天皇(791年)
「日本後紀」(840年)桓武天皇(792年)~淳和天皇(833年)
「続日本後紀」(869年)仁明天皇の代(833年~850年)
「日本文徳天皇実録」(879年)文徳天皇の代(850年~858年)
「日本三代実録」(901年)清和天皇(858年)~光孝天皇(887年)
今回は飛鳥、奈良がメインですから、日本書紀、続日本紀のお世話になりました。
原文は漢文ですが、参考、引用するのは、原則として碩学による現代語訳です。
今回の旅行記では次の資料を使用しました。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
「全現代語訳・日本書紀」宇治谷孟・講談社学術文庫
「全現代語訳・続日本紀」宇治谷孟・講談社学術文庫
「新版言語訳付き・古事記」中村啓信・角川ソフィア文庫
「万葉集・全訳注原文付」中西進・講談社学術文庫、引用では「万葉集中西」
「折口信夫全集第4巻・口約万葉集」中央公論社、引用では「万葉集折口」
「日本書紀」日本古典文学大系・坂本太郎他・岩波書店/読み下し文、漢文原文が必要な場合は本書を引用しました
「壬辰の乱」椎屋紀芳・毎日新聞社
「決定版・柳田国男全集(全60作品)・近代日本文学電子叢書」柳田国男、近代日本文学電子叢書編集部/引用では「柳田国男全集電子版」
「道路の日本史」服部健一・中公新書電子版
「古代道路の謎」近江俊秀・祥伝社新書
「古代甲斐国の交通と社会」大隅淸陽・六一書房
「日本古代の道と駅」木下良・吉川弘文館
「日本古代道路辞典」古代交通研究会編・八木書店
4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
●朴井雄君
天武元年夏5月、朴井雄君(えのいの・おきみ)が美濃を旅し、近江朝廷が美濃、尾張で兵を動員しているのを目撃、天武天皇(当時は大海人皇子)に吉野攻撃の準備をしていると報告しました。貴重な情報を探り出した雄君ですが、その後壬申の乱には活躍の記録がありません。戦場で軍を率いる軍人ではなく、情報将校だったのでしょう。
★天武5年6月、
物部雄君連は急病で卒した。天皇は驚かれ、壬申の年に車駕にお供して東国に入り、功績があったので、内大紫の位を賜り、物部の氏上の地位を与えられた。★
とあります。貴重な情報をもたらしたのですから、当然です。
ヤマトの大豪族物部の出身でした。
天武は雄君の情報に基づき、吉野脱出を決意しました。
●村国連男依
6月22日、村国連男依(むらくにの・むらじ・おより)は和珥部君手(わにべの・きみて)、身毛広(むげつの・ひろ)とともに吉野より美濃に出発。天武より美濃で兵を集めるように指示をうけます。
男依はこのあと美濃兵3000を集め、不破の関の封鎖に成功。その後も近江戦線の天武軍の先頭に立ち、連戦連勝、瀬田の唐橋も奪取し、7月23日大友皇子を包囲しました。大友皇子はここで自殺し、壬申の乱は終了しました。
★天武5年秋7月、
この月、村国連雄依が卒した。壬申の年の功により、外小紫の位を賜った。★
雄依は壬申の乱の英雄なのですが、なぜか雄君より賜られた位が低い。外〇〇という位は地方豪族に贈られるものです。
天武さん、ひどくないですか。地方豪族とはいえ、前線で命をはった将軍が、雄君より評価が低いのはあんまりです。やはり、天武天皇でもヤマトの豪族は無視できないのですかね。 -
作者:恭パパ。このファイルはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承 4.0 国際ライセンスのもとに利用を許諾されています。
村国雄依を祀る岐阜県各務原市の村国神社です。ここに雄依の墓が伝承されております。
いつの日かこの神社を訪れてブログを書きたいと思っています。
書紀によれば乱の後、3回に分けて論功行賞が行われています。
★天武元年(672年)8月27日、
「武勲を立てた人々に勅して、功をほめ恩賞を賜った」★
★天武元年(672年)12月4日、
「武勲を立てた人々を選んで、冠位を加増され、小山位以上の位をそれぞれに応じて与えられた」★
小山位というのは当時の26階の16位くらいで、真ん中より下。どのくらい偉いのか分かりません。
★天武2年2月29日、
勲功のあった人々に、それぞれ爵位を賜った。★
壬申の乱で手柄を立てた人々は、このどこかで恩賞を受けるか、冠位を加増されたことでしょう。
しかし天武チルドレンについては、もうちょっと何かあってもいいのではないかと思います。 -
6月24日早朝天武の命令で飛鳥に行き、飛鳥守衛の高坂王に駅鈴を求めました。高坂王は拒否したことになっていますが、これは書紀のウソ。
●大分君恵尺(おおいたの・きみ:えさか)
このあと近江に直行し、高市皇子、大来大津姉弟の脱出の指揮をとります。
●黄書造大伴(きふみの・みやつこ・おおとも)
このあと大伴連馬来田(おおともの・むらじ・まぐた)と共に安騎で天武本隊に合流。
●逢臣志摩(あうの・おみ・しま)
このあと吉野に戻って駅鈴が得られなかったと天武に報告、天武は脱出を開始しました。
脱出メンバーに名がありません。吉野または飛鳥に残留したことになります。
没年不明。 -
天武元年(672年)6月24日、天武天皇は吉野を脱出、北伊勢に向かいました。それに従ったとして、11人の名前があります。吉野イレブン。
●朴井雄君(えのいの・おきみ)前述の美濃、近江の実情を天武に報告した人物。
●県犬養連大伴(あがたの・いぬかいの・むらじ・おおとも)
彼は脱出直後自分の馬を天武に差し出しました。壬申の乱ではその後活躍の記録なし。
★天武9年(680年)秋7月5日、
天皇は犬養大伴の家においでになり、病を見舞われた。恵み深いお言葉を賜って云々といわれた。★
自分の馬を使わせただけで天皇が家まで見舞いに行くはずもないので、きっと乱ではなにか大きな功績があったのでしょう。
★続日本紀大宝元年(文武天皇5年、701年)1月29日、
直広壱県犬養宿禰大伴が卒した。浄広慄の夜気王らをその邸に遣わして、詔を告げさせ、正広参(正三位相当)の位を追贈された。壬申の乱の功績のためである。★
皇族を葬儀に送っている。天武チルドレンで彼だけ。すごい優遇です。追贈したのは文武天皇ですから、その祖母菟野皇女が感謝するような功績があったのは間違いない。菟野皇女つまり持統天皇は703年没で、701年には太上天皇として存命です。太上天皇の指示でしょうね。
●佐伯大目(さえきの・おおめ)
●大伴友国(おおともの・ともくに)
●稚桜部五百瀬(わかさくらべの・いおせ)
●書首根摩呂(ふみの・おびと・ねまろ)
●書直智徳(ふみの・あたい・ちとこ)
●山背直小林(やましろの・あたい・おばやし)
●山背部小田(やましろべの・おだ)
●安斗連智徳(あとの・むらじ・ちとこ)
●調首淡海(つきの・おびと・おうみ)
吉野出発の時はいませんが、途中4人が加わりました。
●大伴連馬来田(おおともの・むらじ・まぐた)
●黄書造大伴(きふみの・みやつこ・おおとも)
2人は吉野から追いかけてきました。馬来田は大豪族大伴氏の首長です。2人は別働隊として、吉野の近江朝監視役が近江に送った伝令を阻止したというのが私達の推測です。
●土師連馬手(はじの・むらじ・まて)
安騎で脱出直後の天武一行に食事を提供しています。その後天武一行に従ったことになります。
●大伴朴本連大国(おおともの・えのもとの・むらじ・おおくに)
甘羅村で20人の猟師を率いて合流しました。柳田国男は國栖(くず)のことではないかと述べています。
★山人考(柳田国男全集電子版)
『天武天皇紀』の吉野行幸の条に、二十余人云々、または■者之首などとあるのは、國栖のことでありましょう。★
「天武天皇紀」の吉野行幸というのは、吉野脱出行のことだと思います。また■は「犭」編に「葛」、詳細分かりませんでした。
國栖というのはいわゆる山の民のことです。
つまり、大国は吉野の山の民の長ではないか。あり得ると思います。このあと菟田郡の屯倉で伊勢の湯沐(ゆ、大海人皇子私領)から米を運んできた駄馬50頭と合流するのですが、「米をすてさせ、徒歩の者を乗らせた」とあります。伊勢で採った塩だとするとどうでしょう。山の民に50頭分の塩は大変な貴重品です。ここでかれらに約束の塩を渡した。吉野、鈴鹿、菟田の山の民と天武とのディールで、山の民は天武一行の安全を保障し、道案内をします。名張川の渡河も、彼らなら安全な渡河点を知っていた。書紀には行軍中の補給の記述がないのですが、山の民が要所で補給所を構えていたとすると、必要ありません。
このあと大国の活動記録はなし。吉野鈴鹿の山中を近江軍が追跡してきたなら、ゲリラ戦による遅滞作戦で追跡を妨げる、という計画だったかもしれませんが、近江の動きが鈍く、追跡はありませんでした。
大国が天武チルドレンか、疑問ですが、魅力のある人物です。手がかりがあれば跡を追ってみたいと思います。 -
積殖の山口で高市皇子が天武本隊と合流したとき、7人が従っていました。護衛部隊でしょうね。このグループで没年が分かるのは1人だけ。上記の恩賞、加増は受けたでしょうが、死に際しての追贈はなかった。
●民直大火(たみの・あたい・おおひ)
★続日本紀大宝3年(文武天皇、703年)7月23日、
「従五位下の民忌寸大火に正五位上を(中略)追贈した。また両者ともに使いを遣わして、物を贈り弔わせた。壬申の乱の時の功績のためである」★
●赤染造徳足(あかぞめの・みやつこ・とこたり)
赤染衛門(956年?-1041年)という平安時代の女流歌人がいます。紫式部(970年?-1019年?)と同じ時代です。
★やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの 月を見しかな★
という歌が百人一首にあります。
父は赤染時用(ときもち)ですが、この時用が徳足の子孫という説があります。赤染氏は渡来系で、文字通り染色技術をもってヤマト朝廷に仕えていたと考えられます。珍しい氏ですから、可能性は充分あると思います。
●大蔵直広隅(おおくらの・あたい・ひろすみ)
●坂上直国麻呂(さかのうえの・あたい・くにまろ)
●古市黒麻呂(ふるいちの・くろまろ)
●竹田大徳(たけだの・だいとく)
●胆香瓦臣安倍(いかごの・おみ・あへ)
★天武元年7月2日、
「村国連男依(むらくにの・むらじ・おより)・書首根摩呂(ふみの・おびと・ねまろ)・和珥部君手(わにべの・きみて)・胆香瓦臣安倍を遣わし、数万の兵を率い不破から出てまっすぐに近江に入らせた」☆
近江戦線の4人の将軍の1人でした。しかし没年はわかりません。
壬申の乱で最も大事な近江戦線の将軍は、4人とも天武チルドレンです。
遠く東国にまで駆けて、その土地の豪族に挙兵を迫った人物もおりました。
山背部小田(やましろべの・おだ)、安斗連阿加布(あとの・むらじ・あかふ、智徳と同一)は東海道に。
稚桜部五百瀬(わかさくらべの・いおせ)、土師連馬手(はじの・むらじ・まて)は東山道に。
他の若者たちも、琵琶湖の周囲で、あるいは鈴鹿やヤマトを駆け巡ったのであります。 -
大来皇女、大津皇子が近江を脱出したとき、9人が護衛で従っておりました。
恵尺、大分君稚臣以外没年がわかりません。
●大分君恵尺(おおきたの・きみ・えさか)
6月24日近江に急行、天武本隊が吉野を脱出したことを高市皇子、大来大津に告げ、近江脱出の指揮をとります。26日姉弟を護衛して、迹太川の遙拝所で天武天皇に引き合わせました。
天武4年(675年)6月23日没 -
このファイルはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承 4.0 国際ライセンスのもとに利用を許諾されています。
作者:ゴーヤーズさん。
大分市にある古宮古墳は恵尺の墓と言われております。ここもできれば今年の秋、コロナ騒ぎが収まり、私達がワクチンの接種をうけていれば、是非行って、ブログを書きたいと思っています。
●難波吉士三綱(なにわの・きし・みつな)
聖徳太子が派遣した遣隋使が帰ってきたとき、同じ氏の人物が登場します。
★推古16年(608年)夏4月、
大唐の使人裴世清と下客(しもべ)十二人が、妹子に従って筑紫についた。難波吉士雄成(なにわの・きし・おなり)を遣わして、大唐の客(まろうど)裴世清らを召された。★
雄成は裴世清が帰るとき、小野妹子とともに隋まで送っています。雄成は中国語ができたみたいですから、おそらく難波吉士氏は渡来系です。
たぶん三綱は雄成の子孫でしょう。64年後ですから孫かひ孫。
●駒田勝忍人(こまたの・すぐり・おしひと)
●山辺君安摩呂(やまべの・きみ・やすまろ)
●小墾田猪手(おはりたの・いて)
●埿部眡枳(はつかしべの・しき)
●根連金身(ねの・むらじ・かねみ)
●漆部友背(ぬりべの・ともせ)
●大分君稚臣(おおきたの・きみ・わかみ)
壬申の乱、最前線の英雄です。雄依らの率いる天武軍は瀬田の唐橋に迫りました。近江の将軍智尊(ちそん)は橋に細工をし、橋の通過を阻止しました。そのとき、橋を突破して壬申の乱の趨勢を決める手柄を立てたのが稚臣です。
天武8年(679年)3月6日没。
「大分君」というので、恵尺と同族でありましょう。
大分県大分市に「大分社」という神社があり、大分君稚臣が祀られています。これも是非行ってみたいと思います。恵尺の古宮古墳から6kmくらいのところです。 -
前置きが長くなりました。今回の主人公です。
吉野イレヴンの1人、書首根摩呂(ふみの・おびと・ねまろ)と同じ人物です。
彼の墓誌には「文祢麻呂」と書かれていますので、以降この名で統一します。
天保2年(1831年)9月29日、現在の宇陀市榛原八滝の山中で、耕作中の農民が偶然墓誌が入った銅箱、金銅壺などを発見しました。金銅壺のなかには火葬骨が入ったガラス壺が収められていました。
このとき発掘されたものは、現在国立博物館に収められており、国宝です。国立博物館によれば、発見の経緯は、現存する代官所の調書により詳しく知ることができるそうです。
話は横道に。
江戸時代天明4年(1784年)2月23日、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で農民が農作業中に偶然金印を発見しました。有名な「漢委奴国王」の印です。純金だそうで、金槌で叩きのめせば、ただの金塊になります。そのままポケット、江戸時代だからふところにいれてもわかりません。それをこのお百姓さんは正直に代官所にとどけました。
それから150年後の宇陀のお百姓さんも、発見物を代官所に申告しております。
落とし物をお巡りさんに届けるというのは、このころからの日本人の美徳だったようです。
私も小学校に上がる前、拾った5円玉を交番にとどけたことがあります。お巡りさんは大変褒めてくれました。いいきもちでした。
拾った物を、ぽっぽに入れないのは現在も、世界中から賞賛される日本の美徳のひとつであります。
ですが、わざわざそれが、「美徳」として伝えられているということは、現実には、結構ネコババしちゃう人がいたってことではないですかね。
としたら、他にもあった「金印」をつぶして、飲んだ悪党がいたのかも。食べたかもしれないけど、、、
金印をもらったのは、委奴国王だけではなかった?!
かも。
By妻 -
金銅壺のなかのガラス製の骨壺。現地案内板より。以下も同じ。
-
発見された銅箱。中の墓誌には、2行にわたり、
-
「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻/呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」
と刻まれていました。文字が読めるように画像処理をしています。
「壬申の年の将軍、左衛士府督、文祢麻呂忌寸(ふみの・ねまろの・いみき)、慶雲4年(707年)丁未9月21日卒」と読みます。
書首根摩呂の墓だったのです。
書紀では、近江戦線の将軍の一人で雄依などと転戦しました。
その後、
★続日本紀慶雲4年(元明天皇、707年)冬10月24日、
「従四位下の文忌寸禰摩呂が卒した。使いを遣わして詔をのべさせ、正四位上を贈り、合わせてあしぎぬ・麻布を賜った。壬申の年に立てた功績によってである」★
墓誌とは死んだ日がちがいます。
左衛士府(さえじふ)は藤原京の警護にあたる部隊で、督はその長官です。
文祢麻呂は渡来系の西文(かわちのあや)氏出身だそうです。ヤマトの古い豪族出身ではない天武チルドレンとしては、出世頭でしょう。壬申の乱のとき25才として60才でした。 -
吉野脱出コース、菟田の安騎と菟田の屯倉の近くです。すごい山の中。でもグーグルさんが知っていて、ちゃんと案内してくれました。途中から「祢麻呂墓」という表示が出てきました。手作り感のある表示で、地元ががんばっている。ただし道は狭いので、だんだん不安になります。最後の集落を過ぎて左折、山中の上りにかかります。
グーグルさんは、道の狭さ、状態は考えないのは皆さんご存知。私たちはこれで何回も怖い思いをしています。 -
谷側はこういう感じ。やばいと思って、空き地があったので車をおいて歩きました。
-
道はしっかりしているけれど、あの先はきっと・・・
-
あれれ、そうでもない。
-
それらしきものがあります。
-
「史跡 文祢麻呂墓」と立派な石碑。
-
振り返ると、緑の芝生に見えるのが駐車場です。緑はこけ。一段小高く、民家があります。もう人は住んではいないようです。
-
トイレまで完備。
グーグルさん、疑ってごめんなさい。でも、日頃の行いが悪いからなあ。
宇陀市、この史跡の整備にいやに力が入っていました。 -
石碑の上、一段高いところに墓があります。
-
河内の豪族出身の祢麻呂の墓がどうして宇陀の山中にあるか。椎屋の「壬申の乱」には、榛原町が立てたガイド板に次の記述があったとしていますが、祢麻呂の墓の近くには見つけられませんでした。
「・・・大海人皇子が吉野に隠棲中、舎人たちは命を受けて吉野や宇陀の豪族を味方に引き入れるべく活躍した。文氏もこの辺の豪族と接触があり、忘れられない第二の故郷としたのではないか」 -
妥当な解釈だと思います。
-
このあたりは古市場という地名です。宇陀のかつての中心で栄えたそうです。文祢麻呂が天武のために奔走しているさなか、土地の豪族の娘と恋仲になり、乱のあと京師につれていって妻とした。晩年妻の故郷に戻って死んだという想像、充分ありえます。
豪族を味方に引き入れるべくその娘を籠絡した可能性もあります。
文氏は渡来系で、ヤマト朝廷に文書、つまり漢文、中国語ができるということで重用されたそうです。文祢麻呂が日中バイランゲージ、当時最先端の唐文化を体現したイケメン青年というなら、若い娘が夢中になるのは無理もない。
宇陀の豪族が、天武の勝ちと見越して、先行投資で娘を天武側近に押しつけたケースもある。みやこで優美な飛鳥美人を見慣れた青年は、ほっぺの真っ赤な田舎の娘に「え~っ!」と思ったが、これが素直ないい娘だった。
いずれのケースでも、祢麻呂は彼女を妻とし、息子をもうけ、最後はこの地に落ち着いたわけですから、誠実な男だった。
息子は文馬養(ふみの・うまかい)という万葉集に歌を2首残す歌人でした。役人としても、筑後守、鋳銭長官(じゅせんし、造幣局長)までやっております。できはわるくはなかった。
天武チルドレンはみな若者でした。
雄依、恵尺、稚臣のような戦場や、皇子の脱出行の物語ばかりではなく、その陰に咲いた恋のお話も、またあってしかるべきかと。
30分ほどおりましたが、往復の山道を含め、だれも来ませんでした。あたりには鹿のフンなどもちらばり、のどかな静かな墓所でありました。
一書に曰く、
ブンヤのマロ?フンヤのマロ?もしかして吹くからに秋の草木のしをるれば、、、の文屋康秀と関係ある?なんて考えたりしました。
フミのネマロと読むそうです。ははあ。初めて知りました。
壬申の乱の勇士のひとりだそうですよ。
なんとかセブンとか、かんとかナインだとか、By夫は、うれしがっておりますが、私には初めて知ることばかりです。
いよいよ大河っぽくなってきました。
大河なら忠臣蔵か新撰組。はたまた戦国ものですか。
男ばかりの出演者。壬申の乱も男ばっかりだけど猛女と猛少女が出てきますがね。
さて、そうすると、この文祢麻呂は、どういった役なのでしょうかね。
忠臣蔵なら、堀部安兵衛か、大高源五か?あ、このふたりと文祢麻呂に共通点があるなんてことはないです。四十七人もいる中からたまたま思いついただけですから。
新撰組なら、斉藤一?戦国ものなら、石田三成の島左近かな?
そういう、何にも知らない状態で、お墓に向かいます。
いつものことですが、山道をゆきます。人もいません。
道はくねくね曲がりまして、結構、山深くに入って行く感じですが、最近では、わたしも無人の荒野ならぬ沃野を進んで行くことになれてきましたからね。鼻歌です。
ぽつんと何たらに、ぜひ雇って下さい。人っ子ひとりいないところに行っても、車が崖道から落ちかかろうと、びくともしませんから。
しかし、文祢麻呂なんぞマイナーな人物のお墓は、さぞ見つけにくいことだろうと思い込んでいましたら、うそでしょう?
道しるべがあるのです!
訪問者が多いのでしょうか。マイナーだと勝手に決めつけて、誠に誠に失礼いたしました。
しかも、その道しるべは、適切なところに適切にあるのです。
そして、手書きらしき字で、文祢麻呂のお墓と分かりやすく書いてあるのです。やさしいなあ。
きっと、この集落に住む、元小学校長先生とかがして下さったのかもしれない。それとも役場に勤める新卒の女性が、実際に自分で運転しながら、ここに置くと分かりやすい。字はこの大きさがいいなど考えながらなさった仕事かもしれません。
山道を抜けると、田圃が広がっていまして、その傍らに農家住宅が何軒かありますが、人影は無し。田圃の向こうに、山があります。
この山が目的地です。
農家の前を通り過ぎ、曲がりながら向こうの山に入って行きます。しっかり整備されております。道は狭まってゆくので、適当なところで駐車して歩きました。
着いたら、立派な駐車場がありました。
が、歩いたってたいした距離ではありません。道は歩きやすいし、長時間のドライブの後ですから気持ちいいくらいでした。
歩いて行くと、またもや人家がありました。シンとして無人のようでした。観光シーズンは、ここが茶店になるのかな?トイレもありまして、村の定年退職の校長先生が、ここをボランティアで世話しているというのは、無し。ちゃんとお役所がしている仕事だとわかりました。
お墓は、要するに山です。言われなきゃ分からない。
言われたって、山です。
近隣の人々が、聖なる墓所とした風でもないらしい。いや、最初は聖なるところだったのかも。
公園のようによく整備されていて、歴史考古学何たらなのか、お役所なのか、とにかく一生懸命だということが、よくわかりました。
日本のトップはともかく、現場はがんばっております。
祢麻呂さんは、ここが出身地ではないそうです。今なら、外国で生きて、その地で亡くなる人もいます。そういう感じなのでしょうか。
第二次大戦の後、例えばインドネシアでは、戦後日本に引き揚げないで、現地人と結婚して子供も持ち、そしてその地で亡くなった方々がおいでです。そういう人は、寂しくはなかったのでしょうか。
「やまとは くにの まほろば」ということは、なかったのでしょうか。
中世ベニスでは、男の子は、成年に達すると、海に出て行きました。するともう、いつ帰るかわからないそうです。例えば15才で出て行って、30才で帰ってくるか、来ないか。それが当たり前だったそうですから、おそろしい。
イギリスに、ダニーボーイという歌がありますが、あれは、出て行った息子を思う歌ですね。置いて行かれたお母さんの哀しみの歌。
私が死んで埋葬されたその墓に、息子は跪いて、愛していると言うだろう。なんて詩が続きます。
死ぬまで会えないと思っているんだ。
昔のお母さんは、息子を一人前の男にするためには、覚悟をしてたんですねえ。
そして、置いて出て行った息子に、例えば現代人のC・W・ニコルという、ナチュラリストがいます。
この人は、19才か二十歳の時に故郷ウエールズを出てから、30年帰らなかったそうです。
私が読んだ記事には、19歳で家を出てから、母親には会っていないとありました。だいぶん前に読んだ新聞ですので不確かですけれど。
その間の母の気持ちは、まさしくダニーボーイの歌詞そのままだったことでしょう。
確か、お母さんが亡くなる前に、会えたようです。
よかった!
ですが、お母さんも、びっくりしたでしょうね、ほっそりした少年が、白髪まじりのでっぷり中年になって現れたのですから。
彼は、日本を愛し日本人になって、昨年日本で亡くなりました。
人種、国籍が違っても、生育した土地ではないところで、受け入れられ、愛され、幸せに人生を送ったというところは、祢麻呂もC・W・ニコル氏も同じです。
C・W・ニコル氏のこのエピソードを読んだとき、一人息子の母親としては、非常に衝撃を受けまして、男の子の親は、かくあらねば。と、肝に銘じました。
はい、息子は、立派に親離れしまして、今や他所のおじさんとなっておりますよ。
By妻
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この旅行記へのコメント (4)
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- 前日光さん 2021/06/15 00:01:25
- 女の子の親も、かくあらねば?
- こんばんは、しにあさん&by妻さん(^-^)
そうですか、天武チルドレンって、こんなにたくさん(@_@)
一度しか名前が出てこなかったり、死亡年がはっきりしなかったり、功多き割に労いは寡だったり。
それにしてもまぁ、よく調べられましたね(゜Д゜)
その根気と集中力に脱帽いたします。
「日本書紀」「続日本紀」なんて、聞いただけで読む気が失せます。
「日本三代実録」は、面白そうですがねぇ。
しかし古人の名前の読み方がややこしいこと!
バカの壁降臨となってしまいます(^^;)
この時代の平均寿命は30歳くらい?
信長の時代が人間50年ですからねぇ。
これだけ短い人生だと、親の介護なんてこともあまり問題にならなかったのかも。
でもせめて平均40歳くらいまで生きてないと、人生のおもしろみもへったくれもない内に一生が終わってしまいますね。
反対に今は長生きし過ぎで、いろんな問題が続出ですね。
さてby妻さんの「気持ちのよい子離れぶり」、想像がつきます。
ベタベタしてないところが素敵!
我が家は女の子二人ですが、どちらも大学に行く時点でさっさと東京へと旅立ち、上の子は早や20年、下の子も15年も経ってしまいました!
どちらも割に実家には戻ってきません。
基本、子どもとのつきあいは18年と思っていました。
覚悟はできていましたが、下の子の部屋が空っぽになった時、ちょっとばかり感傷的にはなりました。しかし案外すぐに慣れました。
今はニャン=^_^=が子ども代わり、ニャンも思い通りにはなりませんが、ツンデレぶりを眺めていると飽きません。
「ダニーボーイ」が、母親の男の子への思いを歌っていたなんて知りませんでしたよ。
C・W ニコルさんとか、ベニシアさんとかも、日本で一生を過ごしていますよね。
こういう人たちの「覚悟」は、見習いたいものです。
覚悟をきめるって、カッコイイ!ですよね?
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/06/16 05:23:10
- Re: 女の子の親も、かくあらねば?
- 天武チルドレン
天武チルドレンでも何がしかの情報がある方が少ないのです。赤染衛門はすぐ思いつきましたが、難波吉士三綱(なにわの・きし・みつな)は、もっか厩戸皇子(聖徳太子)を次のシリーズで書いているので、雄成、お、いるじゃん、という感じでした。続きがらを調べようがないのですが、子孫で間違いないだろうと、直感です。
書紀の編集者もこれを意識していたかわかりません。意識していなかったら、みっけた、やったぜ!という感じ。
意識して、なんのコメントもなく難波吉士氏2人を出したのなら、うーん、すごい才能です。バルザックなんかの体系的な大河小説があります。いろんなところに同じ人物、または一族が出てくる。それを8世紀初めにやったことになります。その300年後に源氏物語を書いた民族ですから、そのくらいの構成力は持っていたのかもしれません。
日本書紀は、文学作品としても、侮れないかもしれませんよ。
大伴朴本連大国、柳田国男がくずの長と言っている人物、興味ワクワクなのですが、これ以外材料がない。吉野の浄見原神社でも行ったら何か資料があるかと思いますが、遠いなあ。
雄依、恵尺、稚臣はいずれやります。本当は連続して書きたいのですが、もっか資料不足。チルドレンシリーズは一時中断です。
7月の奈良旅の計画を立てています。続日本紀に移ろうと思っているのですが、なかなか飛鳥から出られません。
続日本紀は、歴史資料としてはいいらしいですが、つまらないのです。誰それが、五位のなんとかになったというような、人事院の公報みたいな記事がどさっと出てきます。
でも詳しいので、隙間を意地悪く読むと、週刊誌的スキャンダルらしきものも出てきます。実はこれ、嫌いじゃない。
By妻は、いつものようにしっかり読んでいただいて嬉しい、と言っております。
ただ締切を作って、さあ書け、と言わないと書かないのは、困ったものです。
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- kummingさん 2021/06/12 16:36:54
- 戦隊モノ?
- 今回も参考文献の多さ(°_°)実証主義のしにあさんがどれほどの下調べ、読み込みをされたのか?想像を絶するものがあり、コメントするのも緊張ものですが…。いいねポチは2人目という快挙?!に浮かれてしまった(笑)
3人衆、セブン、ナイン、イレブン、といえば、子供に人気の戦隊モノを連想してしまう、という不謹慎m(._.)m
息子に自分が好きだったサンダーバード、ウルトラマンシリーズ、ゴジラシリーズ、機関車トーマス、などを見せたり買い与えていましたが、子どもにしてみればある時から、当時現世代子どもに人気の戦隊モノ、いわゆるレンジャー系に興味を持つのは当然の成り行き、友だちと同じモノで遊ぶようになりました。赤、青、黄、緑、白、と必ず紅一点のピンクレンジャーだけが女子、という構成で、今だに続いているらしいです。
ふみのねまろさんのお墓、手作り感満載で見事に管理保存されていた由、ほんにこんな処にも日本人の故人を称え愛する心がみられて、嬉しいですね。道中一緒に探してる気になってドキドキ♪
私が訪れた朝倉も、人っ子1人いない、たぶんコロナ禍前からそうだったに違いない、人気のない場所でしたが、朝倉市としては、観光客呼び込みに熱心だったんだろうな~、と思われるような痕跡、案内板や地図、説明書きなどが随所にありました。
by妻さん、ぽつんと~、スタッフへのヘッドハンティング、あるかもしれない?!
ところで、ワクチンの有効期間ってどれくらいなんでしょうか?半年~1年とか…?
4tra に参入してはじめの2年はともかく、後半2年はコロナ禍で身動き出来ない我が身を哀れむこの頃。
とりとめのないカキコでm(_ _)m
- しにあの旅人さん からの返信 2021/06/13 05:26:13
- Re: 戦隊モノ?
- おはようございます。
高市セブンとか、大来大津ナインとか思いついた段階で、ウキウキしちゃって、By妻が呆れておりました。別にどーってことはないのですが。
朝倉も案内板がありましたか。
現地の案内板って、非常に充実していて、驚きます。ネットにない情報まで細かく書かれていることが多いのです。写真やイラストなども豊富。しかもこれを写真に撮るぶんには著作権とかの問題もありません。私はいつも案内板は丁寧に写真に撮ります。
これで得したのは、イエジのFD2博物館。あそこのパネルは、どんな資料より良くできていました。
やっぱり現地に行かないとだめですね。当たり前じゃ。
コロナのファイザーのワクチンの有効期限は半年はまちがいなけれど、そこから先はわからないそうです。理由は単純で、アメリカで接種が始まったのは昨年の12月で、6ヶ月有効は間違いない。そこから先は、私たちが実験台。
専門家がそう言っているそうですが、なんだ当たり前じゃんか。
まあ、年内いっぱいは大丈夫だろうと思えばいいのではないかと。
2回目終わって1週間たったら、国内は旅行したいと思います。私たちの場合、行くのはどっちみち人のいない遺跡とか古墳ですから、あまり関係ないのですが。
奈良と九州はなんとかしたいと思っております。行ったら1年分くらいの材料は仕入れてくるつもりです。
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