京田辺旅行記(ブログ) 一覧に戻る
更新記録:投稿日記入<br />投稿日:2022/9/17<br /><br />恵尺の飛鳥から瀬田へのルートを調べるため、橘諸兄(たちばなの・もろえ)の本拠地、京都府綴喜(つずき)郡井手町に行ってきました。<br />恵尺シリーズに組み込もうと思いましたが、<br /><br />「恵尺と諸兄の時代は60年くらい差がある。4トラの読者の方が全部この時代のマニアじゃないんだから、60年行ったり来たりじゃ、ついてくるのにくたびれるわよ。」<br /><br />たまにはBy妻もいいことを言う。<br />「恵尺」から諸兄訪問記を切り離しました。<br />京都府綴喜郡井手町の、橘諸兄の遺跡訪問記です。<br />例によって、<br />「遺跡だぞ!」<br />「ふ~~ん」<br /><br />恵尺の時代には、橘諸兄はまだこの世におりません。天武天皇13年(684年)生まれです。<br />その系図は栗隈王(くりくまの・おおきみ、生年?-676年)-美努王(みぬの・おおきみ、生年?-708年)-橘諸兄となります。<br />つまり綴喜郡井手は、諸兄が栗隈王、美努王から引き継いだ根拠地なのです。<br /><br />井手町でその決定的な証拠をつかんだ、と思った。<br />ところが、ここで椿井(つばい)文書なるけったいなモノに出会いました。<br /><br />参考、引用した資料は上記「六国史の旅 天武チルドレン1 文祢麻呂(ふみの・ねまろ)」をご覧下さい。<br />

六国史の旅 天武チルドレン7 番外編、橘諸兄の綴喜郡井手と椿井文書

42いいね!

2021/07/08 - 2021/07/08

25位(同エリア260件中)

旅行記グループ 天武チルドレン

14

24

しにあの旅人

しにあの旅人さん

更新記録:投稿日記入
投稿日:2022/9/17

恵尺の飛鳥から瀬田へのルートを調べるため、橘諸兄(たちばなの・もろえ)の本拠地、京都府綴喜(つずき)郡井手町に行ってきました。
恵尺シリーズに組み込もうと思いましたが、

「恵尺と諸兄の時代は60年くらい差がある。4トラの読者の方が全部この時代のマニアじゃないんだから、60年行ったり来たりじゃ、ついてくるのにくたびれるわよ。」

たまにはBy妻もいいことを言う。
「恵尺」から諸兄訪問記を切り離しました。
京都府綴喜郡井手町の、橘諸兄の遺跡訪問記です。
例によって、
「遺跡だぞ!」
「ふ~~ん」

恵尺の時代には、橘諸兄はまだこの世におりません。天武天皇13年(684年)生まれです。
その系図は栗隈王(くりくまの・おおきみ、生年?-676年)-美努王(みぬの・おおきみ、生年?-708年)-橘諸兄となります。
つまり綴喜郡井手は、諸兄が栗隈王、美努王から引き継いだ根拠地なのです。

井手町でその決定的な証拠をつかんだ、と思った。
ところが、ここで椿井(つばい)文書なるけったいなモノに出会いました。

参考、引用した資料は上記「六国史の旅 天武チルドレン1 文祢麻呂(ふみの・ねまろ)」をご覧下さい。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配
  • 「橘諸兄公旧趾」<br />なんとか位置が特定できました。グーグルさんのナビをたよりに農道を最徐行でやってくると、左側にこの石碑。<br />農道の端っこにやっと1台分のスペースを見つけて駐車。<br />

    「橘諸兄公旧趾」
    なんとか位置が特定できました。グーグルさんのナビをたよりに農道を最徐行でやってくると、左側にこの石碑。
    農道の端っこにやっと1台分のスペースを見つけて駐車。

  • 農道から竹藪に開かれた小路を上がります。

    農道から竹藪に開かれた小路を上がります。

  • 奇妙なモノが写っております。<br />かなりの傾斜で雨上がり、滑る道でした。傘を杖にヨチヨチと。<br />

    奇妙なモノが写っております。
    かなりの傾斜で雨上がり、滑る道でした。傘を杖にヨチヨチと。

  • 道は舗装されており、以外に広い。四駆なら車で上がれないことはありません。

    道は舗装されており、以外に広い。四駆なら車で上がれないことはありません。

  • やがて左に旧趾参道。

    やがて左に旧趾参道。

  • これが雨に濡れて非常に滑りやすかった。

    これが雨に濡れて非常に滑りやすかった。

  • 石碑があるあたりは丘の頂上で、後代のお城の本丸のような感じでした。この時代にそのようなものはまだありませんが、軍事的な防御を考えた砦のようでした。<br />ここに何があったのか、定説はないようです。諸兄の墓であったという説もあり、建物があった可能性もあるとか。<br />建物とすれば、藤原京や平城京の平地の邸宅ではなく、この地に勢力をもった地つきの豪族の砦ではないか。栗隈王(くりくまの・おおきみ、生年?-676年)、美努王(みぬの・おおきみ、生年?-708年)の館を諸兄が引き継いだのかな。<br />

    石碑があるあたりは丘の頂上で、後代のお城の本丸のような感じでした。この時代にそのようなものはまだありませんが、軍事的な防御を考えた砦のようでした。
    ここに何があったのか、定説はないようです。諸兄の墓であったという説もあり、建物があった可能性もあるとか。
    建物とすれば、藤原京や平城京の平地の邸宅ではなく、この地に勢力をもった地つきの豪族の砦ではないか。栗隈王(くりくまの・おおきみ、生年?-676年)、美努王(みぬの・おおきみ、生年?-708年)の館を諸兄が引き継いだのかな。

    橘諸兄公旧跡 名所・史跡

    橘諸兄公旧跡、駐車むずかしい。 by しにあの旅人さん
  • 石碑の前にあるのは由緒です。

    石碑の前にあるのは由緒です。

  • よくまとまっているので書き起こします。数字は算用数字に書き換え、句読点は補充しました。<br /><br />★橘諸兄公由緒<br />公は天武13年(684)生、父美努王、母県犬養美千代。敏達天皇五世の孫、光明皇后の異父兄である。本の名は葛城王のち母の氏を賜って橘諸兄。井手に住して井手左大臣と号す。天平10年(738)より右大臣同15年(756)左大臣となり、天平天平勝宝8年(756)致仕するまで奈良時代の全盛期を首班として生きた大官である。この間に聖武天皇の相楽別業(諸兄の井手にあった別荘)・玉井頓宮への行幸、恭仁京遷都、大仏建立・開眼供養などがあった。<br />また、この地には別業のほか、井堤寺を建立、清涼な玉川を愛し山吹を植え続けたので、多くの文学に見える「名所井手の里」を生み出した。聖武天皇崩御翌年天平勝宝8年(756)正月6日薨ず。齢74。<br />平成12年10月 井堤保勝会★<br /><br />初期万葉集の編者とも云われている、当代きっての文化人でした。大伴家持が尊敬していたようです。<br />万葉集に残る家持の最後の歌は759年、諸兄の死後3年です。万葉集編纂という諸兄の仕事を引き継ぎ、それに没頭して創作は諦めたとすると、年代の計算はあいます。<br />

    よくまとまっているので書き起こします。数字は算用数字に書き換え、句読点は補充しました。

    ★橘諸兄公由緒
    公は天武13年(684)生、父美努王、母県犬養美千代。敏達天皇五世の孫、光明皇后の異父兄である。本の名は葛城王のち母の氏を賜って橘諸兄。井手に住して井手左大臣と号す。天平10年(738)より右大臣同15年(756)左大臣となり、天平天平勝宝8年(756)致仕するまで奈良時代の全盛期を首班として生きた大官である。この間に聖武天皇の相楽別業(諸兄の井手にあった別荘)・玉井頓宮への行幸、恭仁京遷都、大仏建立・開眼供養などがあった。
    また、この地には別業のほか、井堤寺を建立、清涼な玉川を愛し山吹を植え続けたので、多くの文学に見える「名所井手の里」を生み出した。聖武天皇崩御翌年天平勝宝8年(756)正月6日薨ず。齢74。
    平成12年10月 井堤保勝会★

    初期万葉集の編者とも云われている、当代きっての文化人でした。大伴家持が尊敬していたようです。
    万葉集に残る家持の最後の歌は759年、諸兄の死後3年です。万葉集編纂という諸兄の仕事を引き継ぎ、それに没頭して創作は諦めたとすると、年代の計算はあいます。

  • 井手には橘諸兄にまつわる遺跡がほかにもあります。<br />その一つ「六角井戸」です。<br />

    井手には橘諸兄にまつわる遺跡がほかにもあります。
    その一つ「六角井戸」です。

    六角井戸 名所・史跡

    六角井戸、駐車場なし。徒歩で行って下さい。 by しにあの旅人さん
  • 京都府綴喜(つづき)郡井手町宮ノ本93

    京都府綴喜(つづき)郡井手町宮ノ本93

  • 現地案内板を書き起こします。<br /><br />★六角井戸<br />天平時代の左大臣・橘諸兄公は、“井手左大臣”とも呼ばれたように、ここ井手町に別荘を構え住まれていました。この六角形に組まれた珍しい井戸は、諸兄公の館-玉井頓宮のなごりとして今に伝わるもので、“公の井戸”として語り継がれています。<br />玉井頓宮には、聖武天皇が平城京から恭仁京へ遷都される旅の終わりに、仮り宮として訪ねられた他(天平12年(740年))、数度に渡って行幸されたと伝えられます。★<br /><br />続日本紀天平12年(740年)5月10日、<br />★天皇は右大臣(橘諸兄)の相楽の別荘(京都府綴喜郡井出町)に行幸された、酒宴を行って宴酣になった時、右大臣の男子で無位の奈良麻呂に従五位を授けた。<br />5月12日車駕(天皇)は平城京に帰還した。★<br />

    現地案内板を書き起こします。

    ★六角井戸
    天平時代の左大臣・橘諸兄公は、“井手左大臣”とも呼ばれたように、ここ井手町に別荘を構え住まれていました。この六角形に組まれた珍しい井戸は、諸兄公の館-玉井頓宮のなごりとして今に伝わるもので、“公の井戸”として語り継がれています。
    玉井頓宮には、聖武天皇が平城京から恭仁京へ遷都される旅の終わりに、仮り宮として訪ねられた他(天平12年(740年))、数度に渡って行幸されたと伝えられます。★

    続日本紀天平12年(740年)5月10日、
    ★天皇は右大臣(橘諸兄)の相楽の別荘(京都府綴喜郡井出町)に行幸された、酒宴を行って宴酣になった時、右大臣の男子で無位の奈良麻呂に従五位を授けた。
    5月12日車駕(天皇)は平城京に帰還した。★

  • 平城京朱雀門-玉井頓宮は現在の徒歩コースで13.8km、車駕つまり輿でも半日あれば十分です。非公式みたいですから、馬でくれば二時間ちょっとです。10日着12日発、2泊3日ばっちり天皇は諸兄邸にいたことになります、<br />「酒宴を行って宴酣になった時」と書いてあります。飲んだんでしょうね、聖武さんも諸兄さんもいける口だった。<br />

    平城京朱雀門-玉井頓宮は現在の徒歩コースで13.8km、車駕つまり輿でも半日あれば十分です。非公式みたいですから、馬でくれば二時間ちょっとです。10日着12日発、2泊3日ばっちり天皇は諸兄邸にいたことになります、
    「酒宴を行って宴酣になった時」と書いてあります。飲んだんでしょうね、聖武さんも諸兄さんもいける口だった。

  • 六角井戸の北1kmほどに井堤寺跡があります。

    六角井戸の北1kmほどに井堤寺跡があります。

    井提寺(井手寺)跡 名所・史跡

    井手寺跡、駐車場ありませんが、なんとかなります。 by しにあの旅人さん
  • 京都府綴喜郡井手町井手東高月

    京都府綴喜郡井手町井手東高月

  • 現地案内板は腐食がひどく写真だと読みにくいので、書き起こします。<br /><br />★井堤寺は、円堤寺(井手寺)とも称され、天平時代の左大臣・橘諸兄公が、母・三千代の一周忌にちなみ創建した氏寺と伝えられています。<br />造営の折り諸兄公は、金堂の四面に山吹を植え、黄金色の花・山吹が水に映る風情を楽しめるよう工夫されたとのことです。<br />現在は偲ぶよすがもありませんが、付近一帯には、通称名として薬師堂・トウノウエ等の地名が残されており、奈良時代の井堤寺は、七堂伽藍の壮大な威容を誇っていたと考えられます。<br />この他井堤寺には、小野小町が出家して当寺で余生を過ごしたなどと、小町ゆかりの伝説も伝わっています。<br />井堤寺跡からは、礎石の他、銅銭、海獣葡萄鏡、軒瓦等が出土しています。出土した蓮華文の丸瓦と唐草文の平瓦を復元し、この四阿(あずまや)の軒瓦として用いています。<br />右の古絵図は「山城国井堤郷旧地全図」と呼ばれ、原図は平安時代の康治2年(1143年)に描かれたものです。<br />この絵図に見るように付近一円には、井堤寺の他、玉井頓宮、諸兄山荘等が描かれ、橘氏の別業地として栄えた往時が偲ばれます。いにしえの井手の町の姿を知る手がかりとして下さい。★<br /><br />椿井文書<br />▲▼▲▼<br /><br />ここで今回のハイライト。<br />案内板にある「山城国井堤郷旧地全図」<br />

    現地案内板は腐食がひどく写真だと読みにくいので、書き起こします。

    ★井堤寺は、円堤寺(井手寺)とも称され、天平時代の左大臣・橘諸兄公が、母・三千代の一周忌にちなみ創建した氏寺と伝えられています。
    造営の折り諸兄公は、金堂の四面に山吹を植え、黄金色の花・山吹が水に映る風情を楽しめるよう工夫されたとのことです。
    現在は偲ぶよすがもありませんが、付近一帯には、通称名として薬師堂・トウノウエ等の地名が残されており、奈良時代の井堤寺は、七堂伽藍の壮大な威容を誇っていたと考えられます。
    この他井堤寺には、小野小町が出家して当寺で余生を過ごしたなどと、小町ゆかりの伝説も伝わっています。
    井堤寺跡からは、礎石の他、銅銭、海獣葡萄鏡、軒瓦等が出土しています。出土した蓮華文の丸瓦と唐草文の平瓦を復元し、この四阿(あずまや)の軒瓦として用いています。
    右の古絵図は「山城国井堤郷旧地全図」と呼ばれ、原図は平安時代の康治2年(1143年)に描かれたものです。
    この絵図に見るように付近一円には、井堤寺の他、玉井頓宮、諸兄山荘等が描かれ、橘氏の別業地として栄えた往時が偲ばれます。いにしえの井手の町の姿を知る手がかりとして下さい。★

    椿井文書
    ▲▼▲▼

    ここで今回のハイライト。
    案内板にある「山城国井堤郷旧地全図」

  • これは、<br /><br />★原図は平安時代の康治2年(1143年)に描かれたものです。★<br /><br />となっています。<br />

    これは、

    ★原図は平安時代の康治2年(1143年)に描かれたものです。★

    となっています。

  • 案内板の「山城国井堤郷旧地全図」です。<br />1:井堤寺 2:玉井頓宮 3:井堤左大臣橘(改行)諸兄公館地 4:美努王館地<br />現在の玉川は「井堤玉川」となっています。<br />

    案内板の「山城国井堤郷旧地全図」です。
    1:井堤寺 2:玉井頓宮 3:井堤左大臣橘(改行)諸兄公館地 4:美努王館地
    現在の玉川は「井堤玉川」となっています。

  • 現代の地図と比べます。玉川の向きに合わせて回転させました。<br />1:井堤寺跡 2:玉井頓宮(六角井戸)<br />ほぼ対応します。<br />現在の3.橘諸兄旧跡は、「井堤左大臣橘諸兄公館地」より地図では上方にずれています。<br />しかし現在の橘諸兄旧跡近くに諸兄の館があり、その近くに美努王の館があったことになります。<br />「美努王館地」に注目します。<br />このあたり一帯が栗隈王・美努王一族の根拠地であった証拠、か?<br /><br />ところが、なんと<br />▲▼▲▼▲▼▲▼<br /><br />なんと、なんと、この絵図は、享和3年(1803年)に、椿井(つばい)政隆が偽造したモノなのです。<br />彼が偽造した一連の文書、絵図はまとめて椿井文書といわれます。<br />椿井文書の研究者・馬部(まべ)隆弘(歴史学者、大阪大谷大学准教授)の「椿井文書」(中公新書/2020年)の「はじめに」より引用です。<br /><br />★椿井文書とは山城国相楽郡椿井村(京都府木津川市)出身の椿井政隆(権之助、1770-1837)が依頼者の求めに応じて偽作した文書を総称したものである。中世の年号が記された文書を近世に写したという体裁をとることが多いため、見た目には新しいが、内容は中世のものだと信じ込まれてしまうようである。しかも近畿一円に数百点もの数が分布しているというだけでなく、現代に至っても活用されているという点で他に類例を見ない存在といえる。分布の範囲やその数、そして研究者の信用を獲得した数のいずれにおいても、日本最大級の偽文書といっても過言ではないと思われる。★<br />                                                                                                                   <br />「依頼者の求めに応じて偽作した」というところが泣かせます。「こうあってほしいなあ」という依頼者の希望にそって、それを証明する歴史文書を偽造したということです。<br />有料でした。<br /><br />この絵図を根拠に派手な旅行記をぶち上げようと目論んだのですが、残念無念。<br />井堤寺跡や六角井戸は大丈夫かね?と思いましたが、発掘研究もあるので、信用してもいいみたい。<br /><br />一書に曰く、<br />椿井さんという人は、小説家だったってことですかね。<br />by妻も、なんかそういう傾向がありまして、by夫にいわれて、何か書かなくては!と、ない智慧を振り絞って、というか歯磨きチューブの最後を無理矢理出しきるように、小さな灰色の脳細胞を総動員してでたらめを作り出しているのでございます。<br />が、不思議なことに、こうやって字にしてしまうと、なんといいますか、本当みたいに思えてしまいます。<br />一回目に読み返すと、本当(みたい)と、みたいがあったはずなのに、二回目、三回目と回を重ねるごとに、だんだんに(みたい)が、消えてしまいまして、(ちがいない)が、代わりに入ったりしてしまいます。<br />あな おそろし。なんまんだぶ<br />By妻<br />

    現代の地図と比べます。玉川の向きに合わせて回転させました。
    1:井堤寺跡 2:玉井頓宮(六角井戸)
    ほぼ対応します。
    現在の3.橘諸兄旧跡は、「井堤左大臣橘諸兄公館地」より地図では上方にずれています。
    しかし現在の橘諸兄旧跡近くに諸兄の館があり、その近くに美努王の館があったことになります。
    「美努王館地」に注目します。
    このあたり一帯が栗隈王・美努王一族の根拠地であった証拠、か?

    ところが、なんと
    ▲▼▲▼▲▼▲▼

    なんと、なんと、この絵図は、享和3年(1803年)に、椿井(つばい)政隆が偽造したモノなのです。
    彼が偽造した一連の文書、絵図はまとめて椿井文書といわれます。
    椿井文書の研究者・馬部(まべ)隆弘(歴史学者、大阪大谷大学准教授)の「椿井文書」(中公新書/2020年)の「はじめに」より引用です。

    ★椿井文書とは山城国相楽郡椿井村(京都府木津川市)出身の椿井政隆(権之助、1770-1837)が依頼者の求めに応じて偽作した文書を総称したものである。中世の年号が記された文書を近世に写したという体裁をとることが多いため、見た目には新しいが、内容は中世のものだと信じ込まれてしまうようである。しかも近畿一円に数百点もの数が分布しているというだけでなく、現代に至っても活用されているという点で他に類例を見ない存在といえる。分布の範囲やその数、そして研究者の信用を獲得した数のいずれにおいても、日本最大級の偽文書といっても過言ではないと思われる。★
                                                                                                                       
    「依頼者の求めに応じて偽作した」というところが泣かせます。「こうあってほしいなあ」という依頼者の希望にそって、それを証明する歴史文書を偽造したということです。
    有料でした。

    この絵図を根拠に派手な旅行記をぶち上げようと目論んだのですが、残念無念。
    井堤寺跡や六角井戸は大丈夫かね?と思いましたが、発掘研究もあるので、信用してもいいみたい。

    一書に曰く、
    椿井さんという人は、小説家だったってことですかね。
    by妻も、なんかそういう傾向がありまして、by夫にいわれて、何か書かなくては!と、ない智慧を振り絞って、というか歯磨きチューブの最後を無理矢理出しきるように、小さな灰色の脳細胞を総動員してでたらめを作り出しているのでございます。
    が、不思議なことに、こうやって字にしてしまうと、なんといいますか、本当みたいに思えてしまいます。
    一回目に読み返すと、本当(みたい)と、みたいがあったはずなのに、二回目、三回目と回を重ねるごとに、だんだんに(みたい)が、消えてしまいまして、(ちがいない)が、代わりに入ったりしてしまいます。
    あな おそろし。なんまんだぶ
    By妻

  • 三千代ゆかりの地<br />▲▼▲▼▲▼▲▼<br /><br />美努王(みぬの・おおきみ)は、壬申の乱の時筑紫大宰であった父栗隈王を、近江方の刺客から護った強者です。<br />乱のあと父と共に筑紫から帰ってきて、この地に住み、三千代を娶ったことになります。二人の間に生まれたのが、今回の橘諸兄です。<br />ですから、時代は、一世代後のこととなります。<br />戦後世代ということですね。<br />「三千代」とは、天平の猛女にして黒幕、あの橘三千代です。<br />美努王と離婚後、再婚したのが藤原不比等。夫と息子に古代日本の宰相を務めさせました。娘の安宿媛(あすかべひめ)はのちの光明皇后。<br /><br />年齢をたどります。生年不明。<br />679年 最低15歳。これを基準とします。<br />美努王と結婚、年齢不明<br />684年 20歳 橘諸兄出産 他に2人1男1女出産<br />美努王と離婚<br />不比等と再婚、年齢不明<br />701年 安宿媛出産、36歳。このとき不比等42歳。<br />次女藤原多比能(たびの)出産、年齢不明<br />733年 没 679年15歳として、74歳<br /><br />30代後半までに5人の子を産んでおります。安宿媛以降は当時としては大変な高年齢出産です。強靱な体力をもった女性であります。<br />子供3人つれて婚家をおん出て、その子を出世させました。<br />不比等との再婚は35歳前後となります。<br />このころ不比等はすでに政界の大物ですから、女には困らなかったはず。<br />その不比等が惚れ込んだということは、大変な美人だったのか。<br />天皇側近の女官として黒幕能力を買ったのか。<br />逆に三千代が、安宿媛妊娠を理由に不比等を攻め落としたか。<br />黒幕と黒幕の結婚ですから、まっくろくろであります。<br />2人の本音は闇の彼方。<br />不比等を黒幕というのは甘い。黒幕の背後にはさらに黒幕が。<br />

    三千代ゆかりの地
    ▲▼▲▼▲▼▲▼

    美努王(みぬの・おおきみ)は、壬申の乱の時筑紫大宰であった父栗隈王を、近江方の刺客から護った強者です。
    乱のあと父と共に筑紫から帰ってきて、この地に住み、三千代を娶ったことになります。二人の間に生まれたのが、今回の橘諸兄です。
    ですから、時代は、一世代後のこととなります。
    戦後世代ということですね。
    「三千代」とは、天平の猛女にして黒幕、あの橘三千代です。
    美努王と離婚後、再婚したのが藤原不比等。夫と息子に古代日本の宰相を務めさせました。娘の安宿媛(あすかべひめ)はのちの光明皇后。

    年齢をたどります。生年不明。
    679年 最低15歳。これを基準とします。
    美努王と結婚、年齢不明
    684年 20歳 橘諸兄出産 他に2人1男1女出産
    美努王と離婚
    不比等と再婚、年齢不明
    701年 安宿媛出産、36歳。このとき不比等42歳。
    次女藤原多比能(たびの)出産、年齢不明
    733年 没 679年15歳として、74歳

    30代後半までに5人の子を産んでおります。安宿媛以降は当時としては大変な高年齢出産です。強靱な体力をもった女性であります。
    子供3人つれて婚家をおん出て、その子を出世させました。
    不比等との再婚は35歳前後となります。
    このころ不比等はすでに政界の大物ですから、女には困らなかったはず。
    その不比等が惚れ込んだということは、大変な美人だったのか。
    天皇側近の女官として黒幕能力を買ったのか。
    逆に三千代が、安宿媛妊娠を理由に不比等を攻め落としたか。
    黒幕と黒幕の結婚ですから、まっくろくろであります。
    2人の本音は闇の彼方。
    不比等を黒幕というのは甘い。黒幕の背後にはさらに黒幕が。

  • ★井堤寺は、円堤寺(井手寺)とも称され、天平時代の左大臣・橘諸兄公が、母・三千代の一周忌にちなみ創建した氏寺と伝えられています。★<br /><br />とありました。<br />三千代は婚家をおん出たとはいえ、美努王家との縁は切らなかった。というより元婚家を乗っ取ったということでしょうか。三千代さんならありえる。<br /><br />一書に曰く、<br />諸兄が橘姓を名のるのは、母橘三千代からなのです。<br />ということで、諸兄の出世は、母親の七光り、そして母親の後の夫の七光りのように思われているのではないか。<br />でも実は、、、ということはないでしょうか。<br />美努王は、無能なつまらない男だったから、不比等に乗り換えられた。<br />そうかな?<br />壬申の乱前夜の太宰府でのキッパリとした対応など、時代の読みはただしいし、また決然たる行動力もあり、政治家として優秀な親子です。<br />三千代が15才ちょっとで美努王と結婚したとして、そのとき美努王はいくつだったのだろう。<br />太宰府事件のとき、美努王が仮に20才頃とすると、その後7年から8年ですから、美努王は30才くらいだったでしょうか。<br />この時、美努王が、もっと年上か、または若かったとしても、例えば病身だったとかで、自分自身が頑張れない理由があったとします。<br />すると、話はスムーズに行くのですがね。<br />ま、とにかく美努王は、この幼い妻を教育したことでしょう。<br />若紫ですわね。<br />そして類い希な才能を持つ、この幼い妻は、教えられたことをぐんぐん吸収していったのです。<br />美努王は、四世の王と言われております。王族のしっぽもしっぽ。<br />三千代も、県犬養三千代と言われるように、中流のさえない階級の出です。<br />宮廷で、重要な地位 (例えば乳母)に就けたのは、やはり王族に連なっているからこそ。<br />わずか一代で、権力の頂点に立てるなんて、運も良かったし能力もあった。そして、何より野望があった。<br />その野望を吹き込んだのは、だれだったのでしょうか。<br />そして、そのままなら、下級貴族にすぎない息子を天下の権力者にまで押し上げた、その黒幕は誰だったのでしょうか。<br />野心家の男がいて、野心家の女がいて、二人が結婚して、その娘が人臣最高位の皇后に、歴史上初めて就いてって、まるでシナリオではないですか。<br />ライターは、だれ?<br />だから、離婚したあとも三千代は美努王家と縁が切れなかった。<br />ってことは、ないでしょうかね。<br />By妻<br /><br />三千代はリンダか<br />▲▼▲▼▲▼▲▼<br /><br />ということは、黒幕の後ろの黒幕にはさらに黒幕がいた、ということ?<br />美努王さん、不比等が妻にその気があるのを知って、むしろ差し出したんじゃないかと。<br />三千代さん、ふつうなら泣いて怒るところですが、そこは古代史に燦然と輝く猛女です。怒るどころか「おもしろい、ここは女の腕の見せどころ」と、うららうららとリンダみたいに歌いながら、勇躍不比等邸に乗り込んだ。<br />三千代の不比等との再婚が700年頃とします。そのあとモト夫は左京大夫、摂津大夫とトントン拍子に出世。卒したときは従四位下という高位。<br />日本書紀、続日本紀を素直に(?)読むと、こういういけずなお話になります。<br /><br />椿井クン、偽書を作るなら、こういうお話も作ってほしかった。<br />ダメか、彼はタダでは書かない。依頼主がいません。<br />

    ★井堤寺は、円堤寺(井手寺)とも称され、天平時代の左大臣・橘諸兄公が、母・三千代の一周忌にちなみ創建した氏寺と伝えられています。★

    とありました。
    三千代は婚家をおん出たとはいえ、美努王家との縁は切らなかった。というより元婚家を乗っ取ったということでしょうか。三千代さんならありえる。

    一書に曰く、
    諸兄が橘姓を名のるのは、母橘三千代からなのです。
    ということで、諸兄の出世は、母親の七光り、そして母親の後の夫の七光りのように思われているのではないか。
    でも実は、、、ということはないでしょうか。
    美努王は、無能なつまらない男だったから、不比等に乗り換えられた。
    そうかな?
    壬申の乱前夜の太宰府でのキッパリとした対応など、時代の読みはただしいし、また決然たる行動力もあり、政治家として優秀な親子です。
    三千代が15才ちょっとで美努王と結婚したとして、そのとき美努王はいくつだったのだろう。
    太宰府事件のとき、美努王が仮に20才頃とすると、その後7年から8年ですから、美努王は30才くらいだったでしょうか。
    この時、美努王が、もっと年上か、または若かったとしても、例えば病身だったとかで、自分自身が頑張れない理由があったとします。
    すると、話はスムーズに行くのですがね。
    ま、とにかく美努王は、この幼い妻を教育したことでしょう。
    若紫ですわね。
    そして類い希な才能を持つ、この幼い妻は、教えられたことをぐんぐん吸収していったのです。
    美努王は、四世の王と言われております。王族のしっぽもしっぽ。
    三千代も、県犬養三千代と言われるように、中流のさえない階級の出です。
    宮廷で、重要な地位 (例えば乳母)に就けたのは、やはり王族に連なっているからこそ。
    わずか一代で、権力の頂点に立てるなんて、運も良かったし能力もあった。そして、何より野望があった。
    その野望を吹き込んだのは、だれだったのでしょうか。
    そして、そのままなら、下級貴族にすぎない息子を天下の権力者にまで押し上げた、その黒幕は誰だったのでしょうか。
    野心家の男がいて、野心家の女がいて、二人が結婚して、その娘が人臣最高位の皇后に、歴史上初めて就いてって、まるでシナリオではないですか。
    ライターは、だれ?
    だから、離婚したあとも三千代は美努王家と縁が切れなかった。
    ってことは、ないでしょうかね。
    By妻

    三千代はリンダか
    ▲▼▲▼▲▼▲▼

    ということは、黒幕の後ろの黒幕にはさらに黒幕がいた、ということ?
    美努王さん、不比等が妻にその気があるのを知って、むしろ差し出したんじゃないかと。
    三千代さん、ふつうなら泣いて怒るところですが、そこは古代史に燦然と輝く猛女です。怒るどころか「おもしろい、ここは女の腕の見せどころ」と、うららうららとリンダみたいに歌いながら、勇躍不比等邸に乗り込んだ。
    三千代の不比等との再婚が700年頃とします。そのあとモト夫は左京大夫、摂津大夫とトントン拍子に出世。卒したときは従四位下という高位。
    日本書紀、続日本紀を素直に(?)読むと、こういういけずなお話になります。

    椿井クン、偽書を作るなら、こういうお話も作ってほしかった。
    ダメか、彼はタダでは書かない。依頼主がいません。

  • ★造営の折り諸兄公は、金堂の四面に山吹を植え、黄金色の花・山吹が水に映る風情を楽しめるように工夫されたとのことです。★<br /><br />山吹が植えられておりました。奈良時代の井堤寺は七堂伽藍の壮大な寺域をもっていたそうです。<br /><br />

    ★造営の折り諸兄公は、金堂の四面に山吹を植え、黄金色の花・山吹が水に映る風情を楽しめるように工夫されたとのことです。★

    山吹が植えられておりました。奈良時代の井堤寺は七堂伽藍の壮大な寺域をもっていたそうです。

  • ★井堤寺跡からは、礎石の他、銅銭、海獣葡萄鏡、軒瓦等が出土しています。出土した蓮華文の丸瓦と唐草文の平瓦を復元し、この四阿(あずまや)の軒瓦として用いています。★

    ★井堤寺跡からは、礎石の他、銅銭、海獣葡萄鏡、軒瓦等が出土しています。出土した蓮華文の丸瓦と唐草文の平瓦を復元し、この四阿(あずまや)の軒瓦として用いています。★

  • これですね。

    これですね。

42いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

この旅行記へのコメント (14)

開く

閉じる

  • 前日光さん 2022/10/02 00:02:13
    橘諸兄
    こんばんは。
    家持は諸兄とは親しかったですよね?
    お互いにどこか惹かれるものがあったように思います。

    諸兄のお墓の石碑を見ていたら、「伝小野妹子の墓」を思い出しました。
    ここに行くのはなかなか大変でした。
    一度「伝小野妹子の墓」という標示があったので、きっと近くだろうと思ったら、遠い遠い、しかも最後に石段を登らなくてはならず。。。(^^;)
    遺跡・お墓あるあるですが、寺社も含めて階段を見ると気力が失せます。
    妹子と比べると、まだ諸兄のお墓の方が立派ですね。
    妹子は皇族じゃないし、「伝」だからなのか、けっこう荒れていました。
    周囲の落ち葉なんかが、そのままになっていました。

    諸兄は、確かに母が橘三千代ですから、不比等なども煙たいとは思いながらも、粗雑には扱えなかったでしょうね。
    この二人、本心ではお互いをどんな風に思っていたのでしょうね。
    血縁関係が入り乱れていて、親子兄弟が血で血を洗う戦が度々ありました。
    実はわれわれ現代人が考えるような深刻なものではなくて、親子兄弟ではあるが仕方あるまい!手段を選んでいる場合か!てなもんで、割り切っていたのでしょうかねぇ?
    ドラマ化しずらいと言われる理由の一つに、この入り乱れた系図とそれが皇室に繋がるものだからなんていう説もありますね。

    でも系図を見ただけで、不比等と三千代が、策略で繋がっていたのだろうなとか、確かにお互いの腹の中は真っ黒々すけだったろうななどとは思います。
    一筋縄ではいかない二人なのですが、少女漫画の中の不比等は、俄然カッコイイ!のです!これでは氷高皇女がボーっとなっても仕方ないだろうというレベルのかっこ良さです。大昔の俳優「高橋幸治」(「太閤記」で織田信長をやってました)の若い頃に、不比等を演じさせてみたいと思ってます(またも妄想です^^;kummingさんなんかは、高橋幸治、知らないかも?)

    「椿井文書」なるアヤシゲな文書が出て来て、ますます妄想が膨らみますね!
    諸兄を見ていると、長宗我部元親みたいに、歴史に一瞬の光芒を放って消え去った人というイメージがあって、そういうのがまたいい!なんて思ってしまう私です。
    すみません(~_~;) まとまりがありません、いつものことですが。


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2022/10/02 19:24:32
    Re: 橘諸兄
    小野妹子のお墓は確か池坊が面倒見ているはずですよね。それでもそんなに荒れているとは。
    我が家のお墓も、石屋さんにねん3回の掃除は頼んではいますが、秋にしか行きません。池坊は3回の掃除もしないのでしょうかね。

    少女コミックの不比等がイケメンというのは、やや理解できないものがあります。白子町の図書館で取り寄せたいのは山々なれど、もっか堀辰雄と青木繁と群馬県古代史の本で、夫婦合計月4冊ではなかなか順番が回ってきません。

    せめてkummingさんの久留米クラスの図書館が欲しい。あそこは延長可能らしいですが、我が町は2週間厳守。ただ千葉県立図書館に蔵書があることを確認してリクエストすると1週間で取り寄せてくれます。
    白子図書館の司書さんは美人ばかりです。司書になるのは容貌の試験もあるのですか。

    椿井文書は要注意です。特に近畿一帯で面白げな絵図、古文書らしきものに準拠する史跡と称するものに出っくわしたら、要確認。

    kumming

    kummingさん からの返信 2022/10/02 23:11:20
    キャスティングの件♪
    前日光さん、横レスで失礼しますm(_ _)m
    不比等さまは、反町隆史くんか長谷川博己、あたりにやっていただけないかしらん? と常々1人あたためている案♪ 
    ぜひ、しにあさん、by妻さんに長岡先生コミック、読んで頂きたいですよね~
    イケメン不比等のイメージがわかないらしいので。

    しにあさんちの図書館、月に4冊?! しかも夫婦合算で(*_*)自慢ぢゃあありませんが、こちらは一度に10冊まで2週間借りられますが? 夫婦合算だと20冊、てか、合算するシステムになっていないと思われます。長期休館中などは、1人20冊借りれます! かつ、次に借りたい人のリクエストが入っていなければ、更に2週間延長出来ます。だから、下手すると何度も、無期限に延長、私物化可能なシステム♪

    2週間越えても、特に罰則なく、ただ催促のメールが来たり、あまり長期間私物化していると、以前は督促状が来てましたが、最近は直接電話で催促されます。

    なぜ知っているのか?
    長期私物化の常習犯、多分ブラックリスト入りしているから(笑) 
    最近はこまめに借り換えに行く様に心がけております♪

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2022/10/07 07:07:40
    Re: 橘諸兄
    不比等に反町くんね、相棒ですね。あんな感じか。
    これは少女コミックを読まないと、時勢においてゆかれそう。普通の時勢ならどうでもいいのですが、古代人物のイメージとなると、聞き置きならぬ。

    とはいうもの図書館が!!!
    一度に10冊ですか!
    いいなあ。さすが久留米。
    我が白子町では、図書館にある本は5冊ですが、私は今まで図書館にある本を借りたことがありません。常にリクエストで、それが2冊。しかも1ヶ月に1度だって。県立図書館でもすぐ送ってくるところを見ると、誰も手を触れないような蔵書でしょう。
    この前「神道集」の現代語訳を借りたら、表紙裏の貸し出し記録だと、10年くらい読まれた形跡がありませんでした。

    人口1万を切った限界町ですから、仕方がないか。東京近郊なのに(直線70km)町内に電車の駅がない珍しい町です。隣には千葉県に二つしかない村がある。
    町唯一のスーパーが撤退して、車のない年寄りは買い物に困っています。来年4月からは移動スーパーが回るとか。山ん中のマジ限界村ぽい。

    前日光

    前日光さん からの返信 2022/10/09 23:04:27
    RE: キャスティングの件♪
    kummingさん、こんばんは。
    今はどこの空の下なのでしょうか?
    素早い動きについていけません(>_<)

    > 不比等さまは、反町隆史くんか長谷川博己、あたりにやっていただけないかしらん? と常々1人あたためている案♪ 

    →なるほど!
    反町くんね!(全く関係ないけど、私がかかっている整形外科のドクターは反町先生と言います。気のせいか、イケています^^;)
    これは、いいキャスティングね。
    長谷川君も捨てがたい。
    でも大昔の高橋幸司様も諦めきれないわ。
    あ、でも高橋様には「聖徳太子」様を演じていただきたいとも思っています。
    どうもキャスティングの話になると、乗ってしまって恥ずかしい(^^;)

    図書館の話ですが、私、実は図書館行かない派なのよね。
    借りるのも返すのもメンドクサイの。
    「借りるくらいなら買っちゃう」とか思っちゃうのよね。
    アマゾンで。

    > 2週間越えても、特に罰則なく、ただ催促のメールが来たり、あまり長期間私物化していると、以前は督促状が来てましたが、最近は直接電話で催促されます。

    →そうそう、特に返却日の期限を間違いなく無視するタイプで、督促状のヤマか、もしくは度重なる電話催促になりそう。
    こんな私には、図書館は向いてないのよ。
    クリーニングも、何ヶ月も放りっぱなしなので、取りに行くときには罪滅ぼしにたくさんの洗濯物を持って行ってごまかしたりして(^◇^;)
    自分でもビックリするくらいのルーズさんなのよね。

    ま、もしまだ海外にいらっしゃるようでしたら、無事帰国されますように。
    感染していませんように(んな心配はいらないか!)


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2022/10/10 17:13:06
    Re: 橘諸兄
    小諸です。
    「小諸なる古城のほとり、そば食べられなく遊子悲しむ」
    小諸では、そば屋さんは昼しかやってません。遅くてもオーダーストップ17時。
    名物信州そばおしぼり食べられません。悲しい。
    委細後日。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2022/10/10 20:13:53
    Re: 橘諸兄
    佐久の島崎藤村旧居を、ぐーぐるマップは島崎ふじむらと読みました。中学生以下かと。

    kumming

    kummingさん からの返信 2022/10/14 02:28:36
    島崎ふじむら(笑)
    それって、AIが藤子不二雄みたいに2人の名前と思ったのかしらん?

    ローマ侮るなかれ!
    やっぱりTravel with troubleでした~
    それまではトラブル未遂、で来ていたのに、やっぱりね? という感じ(;O;)

    ネタとしては最高の材料を仕込みました(笑)さて、どう料理したものか?

    外での稼働時間が7→9時間に増えまして、腰痛とも仲良くやっています?!?

    新作は、帰ってからのお楽しみ、ゆっくり拝見させて頂きますね♪

    そばおしぼり?私もまだアマトリチャーナ食べてないです!

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2022/10/15 08:17:30
    Re: 橘諸兄
    帰ってきました。

    小諸だけじゃなく、信濃追分でもそば屋は昼だけ。18号沿いの峠のソバ屋に、オーダーストップ14:30のところ14:25に駆け込んで、やっとありつけました。食べ終わる前に掃除が始まりました。
    おしぼりソバはメニューになく、結局食べ損ね。長野とか、北信州の食べ方みたいです。蕎麦つゆではなく、味噌をダイコンのしぼり汁で食べるとか。

    ローマのトラブルも、結局無事切り抜けたみたいで、ネタでよかった。旅行記楽しみにしています。

    アマトリチャーナって、トマトソースにベーコンなんか混じったやつかな。似たようなものを食べた記憶がありますが、もはや記憶はごちゃごちゃ。

    「島崎ふじむら旧居」はグーグルナビを使っている分にはわかりますので、特に困らない。グーグルさんに注意喚起しようかとおもいましたが、このままほっておいて、AIくんを笑いモノに晒すことにしました。
  • ryujiさん 2022/09/22 20:29:14
    六国史の旅7・橘諸兄公について!
     こんばんは、しにあの旅人さん。 ご無沙汰しております。

     タイトルの旅行記を見せて頂きました。 橘諸兄を中心とした旅行記で、とても興味深い内容に感服しました。 まさに天平時代を牽引した男、幸運にも恵まれ申し分のない人生を送った。 小生はこのように理解しております。 藤原氏一位の人、不比等公との円満なお付き合いは母(県犬養美千代)のおかげで、これはおっしやる通りですね。 改めて、藤原氏との深い姻戚関係に感じた次第です。

     ちょっとだけ、話の方向を変えて・・・。 小生が不思議に思った事を述べさせてください。 この時代の結婚ですが、血族結婚の濃さです。 草壁皇子・大津皇子の(叔母)、天武天皇の(姪)、少し前の敏達天皇・推古天皇の(兄妹)があります。 当時の結婚感で兄妹(二親等)であっても同母でなけれはOKだったようです。

     その不思議な事ですが、今回の橘諸兄さんです。 しにあの旅人さんがご紹介の通り、お母さんは橘美千代です。 奥さんは?、不比等の後妻になった美千代腹の藤原多比能です。 この時代、同母の子同士の婚姻はタブーです。 小生はこれは「おかしい?」と思っています。 まして、二人に生まれた息子が奈良麻呂だなんて。 信じられない話です。

     甚だ好き勝手な事を申しました、お許しください。
                          ryuji       

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2022/09/24 07:27:14
    Re: 六国史の旅7・橘諸兄公について!
    おはようございます。
    房総は台風15号で大雨です。

    おっしゃる通りの多比能は変な話です。古来歴史学者さんもこれで悩んだみたい。
    考えられる筋としては、不比等がよその女に産ませた子供を、三千代が自分の子として育てた、という線です。当時では公然の秘密で、みんな知っていた。730年ごろの話で、続日本紀が書かれた8世紀末でも、その裏の記憶は残っていたと考えると、辻褄は合います。実質異母兄妹。
    続日本紀の作者も疑問に思わなかったのでしょうね。
    真実は闇の中。不比等と三千代です。なんでもあり。
    証拠、なし。

    同母兄妹の恋の悲劇は古事記や日本書紀にもあるくらいで、このお話は8世紀では紅涙(黒涙も?)を絞ったはず。ダブーですよ。
    「おかしい」と思うのが当然で、同母兄妹じゃなくなるケースを色々想像するのが、楽しいです。

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2022/09/24 08:05:26
    Re: 六国史の旅7・橘諸兄公について!
     おはようございます、しにあの旅人さん。

     わざわざのご返信を頂きありがとうございます。 小生のつまらない事項にお付き合い頂き感謝しております。 御意見の程、小生と全く同じ思いであります。 又、要所要所の御説明には深い納得感が得られました。

     改めてありがとうございます。 又、宜しくお願い致します。
                          ryuji
  • kummingさん 2022/09/17 20:38:54
    僭越ながらm(._.)m
    しにあさん、by妻さん、おこんばんは♪
    9月になっても猛暑続きの九州ですが、隔週で台風が近づいています。外回りをお片付けしなきゃ~、なのに、毎回の「オオカミが来るど~!」と危機感煽られ作戦の逆効果で、ぎりぎりまで動かざる事、岩の如し(笑)

    さて、最初は(たぶん)こうだったんじゃ?が次第に→(きっと)そうだったかも?→(絶対)そうだった(に違いない)、と変遷して行く過程、とっても共感♪

    しか~し、ですね、今回のby夫by妻説には疑義を申したてとうござる!栗隈王→美努王→橘諸兄の所縁の地を、いつものように道なき道、滑りそうな階段をものともせずに訪ね歩かれた、その労苦はさておいて、ちょ、聞き捨てならぬ説に、僭越ながらもひと言。

    で処を忘れたのですが(その根拠とか信憑性とか言われると困る(-。-;)、確か美努王は太宰府に任じられていた時に、隼人征伐に関して、事前に交渉(賄賂を献上したり策を講じてして懐柔する)しなかったとかで、中央から叱責されたはず。そんであまりの無能ぶりに、不比等の片腕だった粟田真人がその尻拭いに太宰府に任じられて、事なきを得た。
    これはエピソードの1つにすぎないにしても、美努王が不比等より人として政治家として男として上手(うわて)だったとは、絶対に思えません。不比等と三千代の結合は実に野心と欲望の真っ黒くろな結びつきですが、三千代さんが美努王の籍を抜かなかっとしたら、それは遠くても皇族の血統を維持するためでは?美努王の階級が上がったのも、わいわい騒ぎ立てないように、との口封じ、かつ、実質的に力のない権力から遠い、名ばかり役職だったのでは?
    黒幕の黒幕の黒幕説、意義あり!(←なんと、生意気な(-。-;

    ホンモノは名より実をとるのです♪

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2022/09/21 20:04:00
    Re: 僭越ながらm(._.)m
    強力な不比等ファンが現れました。
    古代史に輝く英傑、かついい男だったらしいので、やむを得ないかな。
    最近、不比等は冷徹な仕事人から、評価が変わってきているのですな。

    三千代さんと不比等さんのお話は、古代史で私が最も興味あるところなのです。ところが三千代さんはあまり表面に出てきません。でも何かやっている。
    持統さん以降女帝が続きますから、その側近で活躍した。女は女同士でしか話せないこともあるでしょう。そういう時に話し相手になるのが三千代さんとすると、理解できます。
    そういう話は不比等に筒抜けになるわけで、これは最強のコンビです。

    諸兄さんも色々母親からアドバイスを受けたんでしょうね。
    「それ、ちょっと言いにくいんで、お母さんから天皇に言ってくんないかな・・・」てな感じで。

    諸兄さんが母親のために立派なお寺を建てたのも、むべなるかな。

しにあの旅人さんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP