2021/11/23 - 2021/11/23
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しにあの旅人さん
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大分歴史資料館。
2011年11月、展覧会「大分の君、飛鳥と豊後をつないだ人」が開催されました。主人公は大分君恵尺(おほきたの・きみ・えさか)。
恵尺は壬申の乱の直前、大海人皇子(のちの天武天皇)の命令で、飛鳥から近江に駈け、高市皇子、大来皇女、大津皇子を救い出した、と日本書紀にあります。
恵尺の故郷は現在の大分市郊外で、死後古宮(ふるみや)古墳に葬られたと言われています。
大分歴史資料館で、古宮古墳の詳しい資料をいただきました。
飛鳥から大分まで、天武チルドレンの一人、恵尺の足跡をたどる旅です。
壬申の乱のとき、天武天皇の手足となって、奈良、三重、滋賀の野を駆け抜けた若者たちがおりました。私たちは彼らを天武チルドレンと呼んでおります。
文祢麻呂(ふみの・ねまろ)、村国男依(むらくにの・おより)に続く3人目です。
詳しくは、恐縮ですが、下記をご覧下さい。
一書に曰く、
文祢麻呂、村国男依は、既に、それぞれゆかりの地を訪れました。
すると、なんとなくその人柄、容貌などが浮かんできました。
文祢麻呂は、大柄な、逞しい温厚な人、村国男依は、中肉中背の知性的な明朗な人だったような。
祢麻呂は、息子も出世したし、幸せな人生を全うしたようです
男依は壬申の乱の後、五年で、故郷で亡くなっております。by夫は、30歳くらいだったのではないか、と申しております。
この頃の平均寿命は、このくらいだったらしいです。
この故郷の村国の郷が、実に良いところでした。
岐阜の各務原ですが、こんなに良い所で育った人が、非業の死を遂げるはずはありません。
とか言っちゃうby妻ですが、ここは関ヶ原の近くでしたが、それは後世のことですからね。
いいのです!いいところなんですよ。
では、今回の大分君恵尺は、どんな人だったのか。
どのような容貌の,どのような人生をおくった人なのだろう。
見極めるつもりで出かけた旅でした。
というのは大嘘で、いつものように、by夫に引きずられてでかけた大分旅行でした。
でも嘘から出た実、ヒョウタンから駒。
最後には、恵尺という人が浮かびあがってきたのです。
By妻
六国史の旅 天武チルドレン1 文祢麻呂(ふみの・ねまろ)
https://4travel.jp/travelogue/11696567
六国史の旅 天武チルドレン2 村国男依・上、近江を駆ける
https://4travel.jp/travelogue/11705308
六国史の旅 天武チルドレン3 村国男依・下、村国神社
https://4travel.jp/travelogue/11705714
参考、引用した資料は上記「六国史の旅 天武チルドレン1 文祢麻呂(ふみの・ねまろ)」をご覧下さい。
投稿日:2022年8月20日。
数回の旅行の結果ですので、旅行日は最後の大分旅行の日とします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
飛鳥守衛は高坂王(たかさかの・おおきみ)でした。
書紀によると、天武元年(672年)6月24日朝、恵尺は高坂王に、飛鳥から近江に行く駅馬使用の許可証である駅鈴を要求したが、高坂王は渡さなかった、となっています。
しかしこれは間違いなく書紀のウソです。
壬申の乱は、大海人皇子は近江方から挑発されて、やむを得ず蜂起した正当防衛だ、と書紀は言い張ります。
事前に周到な準備、工作があったとは書けないのです。高坂王は、この時すでに大海人皇子に内通していたのです。
このあたりは、
「六国史の旅 飛鳥の姉弟7 大来大津近江脱出」
https://4travel.jp/travelogue/11678122
をご覧になってください。
大海人皇子の吉野脱出の天武元年6月24日は、西暦672年7月24日です。この日の奈良の日の出は5時01分、黎明を4時30分として、以下の時間を推定しております。詳しくはやはり↑でしつこく計算しております。
6時
▲▼
恵尺は駅鈴をもらい、飛鳥留守司の役所を出発し、近江に向かいました。時間との勝負です。大海人皇子本隊の吉野脱出はいずれ大津宮に伝令が行く。その前に大来大津姉弟、高市皇子に合流し、3人を近江から脱出させなければならないのです。
高坂王の役所はどこにあったか。
5日後、
書紀天武元年(672年)6月29日、
★留守司の高坂王(たかさかの・おおきみ)と、近江の募兵の使いの穂積臣百足(ほづみの・おみ・ももたり)らは、飛鳥寺の西の槻の木下に、軍営を構えていた。★ -
飛鳥寺西門跡の案内板です。内容はkummingさんが書き起こしております。私のは写真が悪くて読めませんでした。
「まほろばの国♪ 2日目 2」
https://4travel.jp/travelogue/11752619
5枚目「飛鳥寺西門跡」の写真のあと
現場案内板はほかにない情報が書かれているので、書き起こしは縦の旅トラベラーには貴重です。
案内板によれば、「672年の壬申の乱の時には、広場を軍隊が埋め尽くした」とあります。軍隊とは近江方、高坂王の兵です。
役所は飛鳥寺西門の近くだと思われます。
なおこのあとすぐ高坂王は寝返って、大海人皇子の飛鳥方面軍に加わります。
近江から派遣された穂積臣百足(ほずみの・おみ・ももたり)は殺されているのに、書紀だと「また高坂王・稚狭王(わかさの・おおきみ)を呼んで軍に従わせた」となっています。見え見えです。
そのうえ、
書紀天武12年(684年)6月6日、
★三位高坂王が薨じた。★
追贈ではなく、生前に三位でありました。三位とは大変な高位です。開戦後寝返ったのではなく、初めから大海人皇子派で、近江朝内部から協力していたと考えた方が筋が通ります。
恵尺の旅の出発地です。 -
このファイルはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植ライセンスのもとに利用を許諾されています。作者kansai explorerさん。
この時代、飛鳥から奈良盆地を北上する官道は3本ありました。恵尺は上ツ道を通ったはずです。飛鳥寺の近くから山田道で直接上ツ道に入れます。現在の県道15に相当します。その後現在の東大寺あたりまで真っ直ぐです。現在の国道169がだいたいその後を継いだようです。もちろんこの時代東大寺も興福寺もまだありません。 -
6時20分
▲▲▲▲
恵尺が飛鳥寺を出て5kmちょっと、馬の巡航最高速度時速16kmだと、20分くらいで、右手に板塀または土塀に囲まれた邸あとの前を通ったはずです。
後年大津皇子宮となります。 -
現在の戒重春日神社です。近鉄大阪線の線路を地下道でくぐってすぐ右。
一書に曰く、
まず、日本書紀に描かれた大分君恵尺をご覧下さい。
まだ恵尺の姿はわかりません。
馬上の人の黒い影ばかりです。
By妻 -
大津皇子宮以前には、敏達天皇訳語田幸玉宮(おさだ・さちたまの・みや)がありました。
恵尺は、これから自分が救出に行く大津皇子が、やがてここに宮を構え、山辺皇女と短くも幸せな結婚生活を過ごすことになるとは知りません。
ましてや、14年後持統元年(686年)冬10月3日、謀反の疑いをかけられ、この宮で皇子が自害に追い込まれることなど、そしてそれがあの菟野皇女の謀略であることなど、片鱗すら予想できなかったのです。
この日黎明、吉野宮で、吉野脱出を数時間後に控えた菟野皇女と、飛鳥にむかう恵尺は言葉をかわしたはずです。
大津皇子事件については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1,2」を読んでいただければ幸いです。「六国史の旅 飛鳥の姉弟7」と同じシリーズです。 -
6時30分
▲▼▲▼
敏達天皇訳語田幸玉宮跡から2.7km、恵尺の馬だと10分くらいで右手に現在箸墓古墳と言われる古墳が見えてきたはず。
このあたりは7月2日壬申の乱大和戦線の決戦場となります。
書紀天武元年(672年)7月2日(続き)、
★この日、三輪君高市麻呂、置始連兎(おきそめの・むらじ・うさぎ)は上道の守りに当たっていて、箸陵(はしの・はか)のほとりで戦った。★
とあります。当時からこの古墳は箸陵とよばれていました。
この池の周囲が戦場だったのです。 -
書紀7月2日続き、
★大いに近江軍を破り、勝ちに乗じて鯨(くじら、近江の将軍)の軍の後続を断った。(中略)鯨は白馬に乗って逃げたが、馬は深田にはまって進むことができなかった。★
周囲は一面の田んぼだったことがわかります。 -
箸墓古墳は卑弥呼の古墳ではないかと、今日議論が盛り上がっております。
築造当時は現在のような森ではなく、葺石で覆われていたようです。築造は早ければ西暦260年~280年、箸陵の戦いのころはまだ400年しかたっておりません。
恵尺の時代にはこの古墳はだれのお墓であるか、みんな知っていたのではないか。
上ツ道の一部は幅40mを超える広い道路だったそうです。
新暦8月上旬です。恵尺は、青々と稲の茂った田んぼを一直線に突っ切る広い道路を、駅鈴を響かせながらひたすら北上しました。
一書に曰く、
恵尺,カッコイイ!
映画なら、
ここいらあたりで、恵尺の姿がぼんやりと浮かんできます。
まだ若いです。
若者が、まなじりを決して馬を駆っていったのです。
でも、まだ彼の顔、姿はわかりません。私たちに見えるのは,ただ恵尺の
全体のシルエットと、目もとばかりです。
聞こえるのは、激しい息づかいと馬の蹄の音。
わたしは、ここの恵尺は,少年にしたかったのですがね。
目的に一途に突っ走るのは、若ければ若い方が相応しいように思えるので。
けれど、十なん人の部下を持つからには、少年というわけにはいきません。
これでも故郷では,若殿様ですからね、若くとも部下は持てるでしょうが、15,6才というわけにはいかないようです。
ま、二十歳そこそこってところかな。
高市皇子と同年配というところ。
By妻 -
私たちが、恵尺は上ツ道経由で近江に向かったと推定する根拠は、このコースはこの時代まだ存在しない東大寺付近を通って、栗隈王(くりくまの・おおきみ)の本拠地、現在の京都府綴喜(つづき)郡井手町に至るからです。ほぼ直線。
-
壬申の乱の時栗隈王は、筑紫大宰として九州におりました。後の大宰府長官です。
大海人皇子シンパと見なされておりました。
書紀日付不明、しかし大海人皇子吉野脱出のあと、
★(大友皇子または近江朝廷は)佐伯連男(さえきの・むらじ・おとこ)を筑紫に遣わした。「筑紫大宰栗隈王と、吉備国守当摩公広嶋(たぎまの・きみ・ひろしま)の2人は、元から大皇弟(大海人皇子)についていた。どうかすると背くかも知れない。もし従わないような顔色を見せたらすぐ殺せ」といわれた。(中略)男は筑紫に行った。★
栗隈王は大友皇子の命令書(官符)を読んでも出兵を拒否しました。筑紫大宰の役目は唐、新羅への防備であり、内戦には出兵できない、というのが理由でした。
男は栗隈王を殺そうとしましたが、2人の息子三野王(みのの・おおきみ、美努王の別表記)武家王(たけいえの・おおきみ)が、太刀を佩き離れませんでした。男は暗殺を諦めました。
栗隈王の出兵拒否の理由は筋が通っていますが、口実。
大海人皇子派なのです。
その栗隈王一族の本拠地、綴喜郡井手に入れば、恵尺は安全であり、近江へ急ぐ助けを期待できます。
私は、これは事前に話はついていたと想像しています。 -
恵尺ほど九州での事前工作に適任はおりません。
飛鳥では大海人皇子のしがない舎人ですが、九州では大分氏の若族長なのです。
舎人は地方豪族の若い子弟です。大分氏の族長が、中央政府とのコネ作りと修行のために若い息子を送り出した。
大分(おおきた)氏は九州の名門です。なお大分が「おおいた」と読まれるようになったのは平安時代だそうです。
古事記神武天皇紀の最後に、
★神八井耳命(かんやい・みみの・みこと、2代綏靖(すいぜい)天皇の兄)は、(中略)火の君・大分(おほきた)君・阿蘇君・筑紫の三家(みやけ)の連(中略)らの祖先である。★
これが史実であるかは別問題です。しかし古代では九州では名の知られた名族であったのです。P328
大海人皇子の吉野逼塞から蜂起まで8ヵ月ありました。この間皇子は地方に密使を送って周到に準備をしたはずです。九州に密使を送るなら、最適任は大分君恵尺です。
栗隈王のもとに大海人皇子の指示をもって現れたのは、ただの舎人ではなく、大分氏の若族長恵尺でありました。
佐伯連男(さえきの・むらじ・おとこ)が大友皇子の命令で九州に行ったのが吉野蜂起のあとでは間に合いません。飛鳥-大宰府は最短でも5日かかるのです。事前に近江朝廷も栗隈王に工作を行ったということでしょう。それより前、大海人皇子は機先を制して密使を送り対処法を指示した、ということではないでしょうか。
ついでに「近江の使節は刺客でもあるので、警戒を怠るな」と付け加えた。
二人の息子が太刀を佩いて男を睨んでいたのは、男の意図を知っていたからです。
密使が恵尺であった可能性はきわめて大です。
このとき恵尺も栗隈王一族とコネを作り、綴喜郡井手には何度か行き、留守を守る一族の有力者に事前に協力を依頼しておいた、という推定は無理がありません。 -
現在の京都府綴喜(つづき)郡井手町が栗隈王、美努王の本拠地だというのは、後年の橘諸兄がこの地に館を構えていたという史実からの類推です。その系図は栗隈王(くりくまの・おおきみ、生年?-676年)-美努王(みぬの・おおきみ、生年?-708年)-橘諸兄(676年生まれ)となります。
井手町に行ってきました。 -
「橘諸兄旧趾」の石碑。
-
丘の麓は広大な農地。
-
木津川とその両岸に広がる平野を見下ろす要害の地です。飛鳥と近江の往復を監視するには絶好です。
栗隈王の一族はここを押さえていたことになります。 -
恵尺の北上ルートに戻ります。
箸墓古墳から青谷川にいたる直線状のルートに、橘諸兄にまつわる遺跡がいくつもあります。同時に栗隈王、美努王の遺跡と考えます。
その一つ「六角井戸」です。 -
さらには、六角井戸の北1kmほどに井堤寺跡があります。諸兄が母三千代に捧げた氏寺です。なんの縁りもないところに氏寺は作らないので、恵尺の時代にも何かその前身になるものがあった。
8時30分
▲▼▲▼
時間を壬申の乱に戻します。
後年の六角井戸あたりには栗隈王一族の何かがあった。
直線ルート上ですから、恵尺が駆け込むには好都合。
飛鳥寺から41km、16kmごと2回官道の駅で馬を替えたと考えます。高坂王からもらった駅鈴が威力を発揮しています。所要時間2時間半。8時30分ごろ着です。
馬を替えると共にしばし休憩。ここまで飲まず食わずです。
少し休んでもいいでしょう。
9時
▲▼
この地で恵尺には護衛の騎馬隊がつき、さらに北上を続けた、と想像しました。全騎替え馬を曳いています。
大津宮はもう近いのです。近江朝廷の警戒の密度も濃くなります。 -
青谷川という川にこだわってきました。
古代官道では、綴喜郡より近江朝廷の本拠地大津宮に行くのは宇治、山科を経由するのが本道でした。
しかしもう1本、田原道というバイパスがありました。青谷川あたりで東に進路を変え、後世の禅定寺近くを通り、瀬田川をどこかで渡り、瀬田の唐橋の東側に出ます。詳しいルートは分かっておりません。 -
田原道は大半が山の中です。今も昔もルートに選択の余地はあまりありません。これは国道422の立木観音の近くです。このあたりから瀬田川を右にみて渓谷沿いの道になります。
-
川は奥から手前に流れます。つまり奥が琵琶湖。
恵尺と、その前後を守る栗隈王配下の若い騎兵を想像してください。 -
10時20分
▲▼▲▼▲
六角井戸から20km、恵尺、護衛の騎馬隊も全騎1度馬を替えているでしょう。
通過10時20分ごろ。
11時
▲▲
ここから瀬田川をどこかで渡河し、東岸を北上、唐橋まで7.5kmです。30分。
到着は11時前後となります。
飛鳥寺から約70km、5時間の騎馬の旅。馬を替えるときと栗隈王本拠地でのしばしの休憩以外休み無しでした。
恵尺は若くてタフで、乗馬の名人だったことになります。
おれが歴史を作っているんだ!ということで、アドレナリンが体内を駆け巡っていた、ということにいたしましょう。
俗に言う火事場のバカ力。
唐橋の東岸
▲▼▲▼▲
私は、この時、大来大津姉弟、高市の皇子はあらかじめ瀬田の唐橋の東岸にいたと確信しています。
もし大津宮に3人がいたとすると、大海人皇子との戦に備えて、琵琶湖近くには近江軍が充満していたはずです。恵尺が無事に通れるはずがない。また3人と合流できたとしても唐橋までたどり着くのは不可能です。11歳と9歳の2人の子供連れなのです。しかも2人とも子供ながら馬に乗っております。目立ちます。
このあたりのいきさつは↓で妄想を逞しくしております。
「六国史の旅 飛鳥の姉弟7 大来大津近江脱出」の「姉弟はどこか」あたり。
https://4travel.jp/travelogue/11678122
ママン倭姫
▲▼▲▼▲
大来大津の近江脱出では、亡き天智天皇の后倭姫が活躍したのではないか。
母太田皇女の亡き後、天智天皇から幼い姉弟の養育を任されたのは、倭姫という説もあります。
倭姫には子供がいませんでした。降って湧いたような聡明で美しい姉弟に、彼女が夢中になったのは理解できます。二人のためなら何でもする。近江脱出の準備だってしちゃう。
大友皇子から一言何か言われたら、100倍言い返す。
「もういいです。好きにして下さい」
イタリア映画のママンを想像してください。
一書に曰く、
恵尺は、大来皇女、大津皇子の姉弟が、高市皇子、倭姫に庇われるように立っているさまを見つけます。
この幼い,高貴な姉弟は、いかにも心細げに見えました。
気強くあらねばと、唇を引き締めているさまも,痛々しい。
倭姫に、そして高市皇子にすがりつきたい思いをこらえている様子も、健気です。
倭姫は、この幼い姉弟とは、ここで別れたのでないか。
この一か八かの脱出行に、女性が一人加わることは、負担が増えすぎだったでしょうから。
別れの言葉も短く、幼い姉弟はすぐに出発です。
慌ただしく、倭姫と大来皇女が握り合った手と手を引きちぎるようにして、馬は出て行かねばなりません。
その別れを、恵尺はじっと見ております。
が、急がねば。
by妻といたしましては、ここは、おさない姉弟は、馬には乗れずに、逞しい武将の懐に抱かれて、または背中にすがって馬に乗る方が、「絵」になると思ったのですが、by夫によって、×。バツ。
二人は、この当時の上流階級の子弟の教育の一環として乗馬もあったので、上手に馬に乗れたはずだそうです。
へいへい、ピアノもやったんですかね。
ということで、
場面は、馬上の大来皇女が身を乗り出して、倭姫に別れを惜しむのを、周囲の兵は、早く早くとせかします。
倭姫は、さすがにおとな。きっぱりと涙をふいて、
さあ、行きなさい!
馬は跳ぶように走り出しました。
By妻
このあと恵尺は大来大津姉弟、高市皇子を護衛して近江を脱出。16人の護衛部隊を指揮しておりました。
6月24日夕方までに鹿深(かふか)、現在のJR草津線甲賀駅あたりにいたり野営。翌25日黎明7人を護衛につけて高市皇子を先発させ、積殖(つむえ)の山口で吉野を脱出した天武本隊と合流させました。
恵尺自身は、高市グループに遅れ、9騎で姉弟を護衛して鹿深発。25日夜は鈴鹿の関で冷雨に打たれながら姉弟を守り野営。
詳細は↑をご覧下さい。
そして、時、場所。
「二十六日、朝、朝明郡(あさけの・こおり、三重県三重郡)の迹太川(とおがわ)のほとり」
この前後は、
「六国史の旅 飛鳥の姉弟6 天武菟野吉野脱出行・下、2泊3日無理ムリ~ 謎の6月23日」
https://4travel.jp/travelogue/11676620
でしつこくやりましたので重複をさけます。 -
日本書紀天武元年(672年)6月26日続き、
★このとき益人が到着して奏上し、「関においでになったのは、山部王、石川王ではなく、大津皇子でありました」といった。やがて益人の後から大津皇子が参られた。大分君恵尺(おおきたのきみ・えさか)(以下9名氏名略)らがお供をしてきた。天皇はおおいに喜ばれた★
恵尺の旅は終わりました。
Mission completeであります。
一書に曰く、
この危険な旅も、終わってしまえば、鼻高だかな冒険になりました。
幼い高貴な姉弟が、この心身ともに健やかな恵尺という青年に,全幅の信頼を寄せるようになったのは当然でしょう。
恵尺もまた、この幼い人達を、身分を越えて愛しく思ったのも当然すぎることです。
大来皇女、大津皇子も恵尺も、素直な賢いひとたちでしたから。
これは、戦いの中の、束の間の幸せなひとときでした。
By妻
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この旅行記へのコメント (6)
-
- 前日光さん 2022/08/22 23:14:24
- 倭姫は、おデブではありませんよー(T_T)
- なんで、そういうキャラになるのですか?
長岡良子氏の「夢の奥津城」の倭姫は、それは気高くて美しい女性です。
天智による父親殺害の件で天智を怨みながらも、いつしかそれが愛に変化していく姫の心理状態を重厚に描いております。
こんばんは、しにあさん&by妻さん。
倭姫は、もちろん大津・大来を大変に愛し育て上げます。
壬申の乱の際の別れは、だからとてもつらかったと思います。
大友皇子を辟易させるほどの、お説教おばあちゃんではありませんよ、断じて(`_´)
で、本題は「恵尺」ですよね。
ここでいつもの妄想モードに入りますと、
そうですね。賀来賢人(賀来千香子の甥)は大分出身だから、実は大分の男子はあんな感じなのかと思いつつ、賢人くんはちょっと斜め向いてるイメージがあるので、「洗濯男子」(CMの)の中からキャスティングするとすれば、松坂桃李あたりが、恵尺の役どころかななんて思ったりして。
あの桃李くんが、幼い大津・大来を馬に乗せて(戦の時に、子どもが乗馬してるとは思えないので、by妻さんに一票!)、颯爽と天武に引き渡したのであります。
それにしても恵尺、いい感じですね!
大分を旅してのイメージもとてもよかったので、私はしにあさんがオスところの天武チルドレン(文祢麻呂、村国男依、恵尺)の中では、この恵尺に最も惹かれます。
背が高くて、逞しかったのではないでしょうか?
賀来賢人くんだと逞しさには欠けるので、桃李君は適役かと(^^;)
毎日蒸し暑いので、イケメン妄想モードに浸っていると、少しは涼しくなるような気が。。。(~_~;)
しょうもないコメントで申し訳ありません<(_ _)>
現在「判断停止の快感」状態でして、ご容赦のほどを。
蛇足ですが、kummingさんが触れておられる長岡良子氏の作品は、現在一般書店には置いてないと思われます。
ご本人が、あまり作家活動をされていないようですので、作品もよほどマニアックな書店でも無い限り扱っていないのでしょう。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2022/08/24 08:01:25
- Re: 倭姫は、おデブではありませんよー(T_T)
- 私の大来さんのイメージは、ハイティーンで身長174センチ、松島菜々子みたいな感じ。菜々子さんも11歳で多分150はあったでしょう。
若い頃の和田あき子はめちゃくちゃ評判悪くて取り下げ。
現代の乗馬スクールのHPだと、身長は125あれば馬に乗れて、子供の方が馬に逆らわないので早く上達するそうです。特に女の子は馬とコミュニケーションを取るのがうまい。
大津くんも大きかったはずで、運動神経抜群。
「お馬さん、あっち行こ」とかいいながら、大人以上にうまく馬を操り、近江を駆け抜けた、のじゃないかな~
「夢の奥津城」は白子町の図書館に頼んでみます。取り寄せは月に2冊ですが、いまのところ青木繁と北関東の資料で枠がいっぱいです。
ただ、少女コミックを読んでいると近所のガキ大将に因縁をつけられた少年時代のトラウマもこれあり、やや図書館に頼みにくい。By妻に借りてもらおう。
恵尺はいいキャラクターです。
次回の恵尺のお墓参りをご期待ください。By妻が何やら張り切っている。中身、教えてくれません。
- 前日光さん からの返信 2022/08/24 17:59:55
- RE: Re: 倭姫は、おデブではありませんよー(T_T)
- しにあさん、ちょっとひと言。
まずコミックのタイトルですが、「夢の奥津城」ではなく、「夢の奥城」でした。
長岡良子 古代幻想ロマンシリーズ?(秋田書店)
いっしょに氷高皇女の「天(そら)ゆく月船(ふね)」も収録されています。
ただこれ、文庫本サイズなので、私たちの世代にはツライものがあります。
老婆心ながら、明るいところで昼間読む方がいいと思います。
ぜひご一読いただけると嬉しいです。
でもシニアさんが読むと、少女趣味で最後まで読破できないかも。
by妻さんだったら、きっと喜んでいただけるかと(^◇^;)
以上、付記させていただきました!
前日光
-
- kummingさん 2022/08/22 10:19:14
- 物語を紡ぐ♪
- 懐かしの「天武チルドレン」シリーズ再登場♪
シリーズ続投稿のあの頃、臨場感にワクワクしたのを思い出しました。今回昔のブログを開いてはおりませんが、縦(時系列)と横(地理)の糸を繋ぎ、多面的に展開、物語る手腕は健在^o^
「672年壬申の乱の時には、広場を軍隊が埋め尽くした」の記述が、しにあさんby妻さんの縦と横の旅の起点になれて、幸いでした。事実の羅列ですまさず、一つ一つを繋げ積み重ねて意味のある一連のストーリーにする力技♪ 案内板の記述をそのまま写しただけで、ちっと知った気になる浅はかさを思い知る(ーー;)
恵尺さんの高市皇子、大来大津姉弟を連れての脱出行の実証の中で、ちょっと知ってるヶ所に限定でコメントさせて頂きます。栗隈王については、太宰府に送られた近江側の使者を太刀で追い払った2人の息子の内の1人が美努王で、美努王は橘美千代が不比等と結婚する前の夫、という絡みで、この太宰府に派遣された大友皇子の出兵要請が拒否されたエピソード、要は不比等絡みで知っていた(笑)美努王は橘諸兄の実夫ですね。
栗隈王に、事前工作のための密使として遣わされたのが恵尺さんで、栗隈王が大海人皇子側で恵尺一行の逃避行に一役かった、という展開。
ママン倭姫、この方は、前日光さんオシのコミックの一つでヒロインとして登場、天智に父親殺されたのに、色々あって(中略)天智に添い遂げ、子宝に恵まれずもその性格故か、薄幸の大来大津姉弟の養育を任された方? 逃避行の際、姉弟が其々騎乗したか?
コミック版では、by妻さん説だったような?(←要確認)
昨日、久々に本気出して部屋のお掃除していたら、腰のあたりがぐきっ(;o;) この1年忘れてしまうほどだった腰痛再発、夏場老体に鞭打って、テニスやプールで酷使したツケが出た模様(-。-;
毎度、なんのこっちゃ?コメントでm(._.)m
- kummingさん からの返信 2022/08/22 10:23:08
- 訂正m(_ _)m
- 美努王は橘諸兄の実父親、です。投稿前にチェックしたつもりが、繰り返しやらかしてしまい(ーー;)
- しにあの旅人さん からの返信 2022/08/22 15:24:53
- Re: 物語を紡ぐ♪
- 案内板の書き起こし役に立ちました。これがあるとないとで、話の出だしの締まりが違います。ありがとうございました。
これって、けっこう面倒なのは私も経験済み。でも後続の4トラベラーさんの役に立つように、できるだけ書き起こすようにしています。
栗隈王、美努王の話、実は井手ですごく面白いものをみっけたのですが、危なく椿井文書というケッタイなものの引っかかるところでした。このお話は、あとでまとめてブログにします。
三千代さん36歳、不比等さん42歳、おばさんとおっさんの恋物語まで話は広がります。
しっかし、日本のおばさんは、古代からすごかった。奈良だから、大阪のおばさんの一種でいいかと。
ママン倭姫は、おデブというのが私のイメージです。コロッコロのおばあさんに言いまくられて、大友皇子が辟易する。
前日光さんオシのコミックに出てくるのですか?
おデブかな。
近隣の本屋で立ち読みしようと思ったのですが、この手の高級なコミックは全く置いてありません。
ギックリ腰、あれはしんどい。私も最近やらかしました。迷わずお医者。注射を2か所に打ったら、2日でケロと治りました。
ご自愛ください。
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