2021/11/23 - 2021/11/23
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しにあの旅人さん
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2011年11月、展覧会「大分の君、飛鳥と豊後をつないだ人」が、大分歴史資料館で開催されました。主人公は大分君恵尺(おほきたの・きみ・えさか)。
カタログが刊行されました。大分歴史資料館に電話して、入手できるかと聞きましたが、資料館でも保存用しかないそうです。
「そちらにお伺いすれば、写真をとることができますか?」
「もちろんです」
2021年11月23日、福岡空港に着いて、レンタカーで大分まで直行しました。
参考、引用した資料は上記「六国史の旅 天武チルドレン1 文祢麻呂(ふみの・ねまろ)」をご覧下さい。
投稿日:2022/9/1
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
12時半頃資料館着。
受付で要件を告げると、話は通じていて、すぐに担当のキュレーターがおいでになりました。
写真を撮るため、会議室を用意して下さいました。カタログは本当に保存用なので、折り目をつけてはいけません。この用途に使うのでしょう、透明の重い定規を2本貸していただきました。見開き頁の両端を押さえて写真をとります。iPhoneを横にすると、1頁がちょうど入ります。1時間ほどかけて、全ページを撮影しました。 -
もはや入手不可能な貴重な資料です。
このあと恵尺が葬られたといわれる古宮(ふるみや)古墳に行きました。古墳の詳細なデーターの出典は、このカタログです。
恵尺の死
▲▼▲▼
時間は飛鳥時代に戻ります。
日本書紀天武4年(675年)6月23日、
★大分君恵尺は病が重くなり、天皇は大いに驚かれて詔し、「恵尺よ、お前は滅私奉公して身命を惜しまず、雄々しい心で壬辰の乱に勲功を立てた。自分はいつもお前の努力に報いたいと思っていた。お前がもし死んだとしても、子孫に手厚く賞を与えよう」といわれた。外小紫の位に昇進させられた。いくばくもなく自宅で薨じた。★
「小紫(しょうし)」とは天智天皇の冠位26階(664年)の6階目です。後年の三位に相当し、大臣クラスの極めて高い位です。「外」となっているので、地方の豪族に与えられる名誉位階ではありますが、天武天皇は恵尺の仕事を高く評価したことが分かります。
壬申の乱近江戦線の将軍村国男依も、死後外小紫を追贈されました。戦場の英雄と同じ仕事をしたと、天皇は考えたわけです。
なにより驚くのは、天皇の言葉の長さと内容。天武天皇の肉声が感じられます。その場にいただれかが、天皇の言ったことをそのまま記録したのではないかと、思われるほどです。
「滅私奉公して身命を惜しまず」と言っています。6月24日黎明から26日朝まで、不眠不休で飛鳥、近江、三重を駆け巡りました。25日夜は鈴鹿の関で冷雨に打たれております。
想像ですが、恵尺はこの時急性肺炎などで体をこわし、以降再起できなかったのではないか。
3年後には死んでおります。
その場所
▲▼▲▼
恵尺は壬申の乱のあと、故郷大分に帰り、そこで死んだのではないか。
県犬養連大伴(あがたの・いぬかいの・むらじ・おおとも)も天武チルドレン。吉野脱出時に天武天皇を護衛した11人の一人です。
書紀天武9年(680年)秋7月5日、
★天皇は犬養大伴の家においでになり、病を見舞われた。恵み深いお言葉を賜って云々といわれた。★
壬申の乱の功臣が病気になると、天武天皇は自ら見舞いに行くこともありました。恵尺が危篤に陥ったのが飛鳥の都であれば、かならずや天皇は駆けつけたでありましょう。
しかし大分では、見舞いに行けません。代わりに6月23日の詔をもった使者を送った。
使者が恵尺の死の前に着いていたらいいな。
天武5年(676年)秋7月、
★この月、村国連雄依が卒した。壬申の年の功により、外小紫の位を賜った。★
村国男依の死のときも、天皇は動いておりません。
男依も故郷、美濃国各務(かがみ)郡で死んだと思われます。現在の岐阜県各務市おがせ町には、男依の墓と伝承される小さな古墳があります。 -
覆屋の中に小さな古墳があるのでしょう。
-
詳しくは、
「六国史の旅 天武チルドレン3 村国男依・下、村国神社」
https://4travel.jp/travelogue/11705714
恵尺もまた故郷大分で死去、古宮古墳に葬られたと考えてもいい。
これほどの功臣が故郷に帰るのは、やはり病気だったのではないか。 -
古宮古墳は大分駅から直線約1.8km、道なり2.7kmほど。新しい住宅地の一隅にあります。
1979年(昭和54年)に偶然発見されました。
この辺りの小字は宮畑、また古宮(ふるみや)と称されていたそうです。小字は非常に古い地名です。古墳以外に、宮と呼ばれるような高位の人物の邸があったのではないか。
古墳は標高73mの丘の中腹、標高53mにあります。
古墳直下は擁壁で、駐車はできません。
丘を行き過ぎて、右折。道なりに坂を上ると駐車場がありました。 -
古墳を含む丘全体が公園になっていました。
-
住宅地の真ん中です。古墳はこの丘の向こう側。ワクワクしながら丘のスロープを上りました。今回の九州旅行のメインテーマです。
-
丘のてっぺんからこのような階段を少し下ると、
-
古宮古墳です。
南北12.45m、東西12.15mのほぼ正方形。27度という丘の傾斜地に南面して築造されています。
丘を下りきると住吉川です。
カタログおよび現場の案内板によると、
★古宮古墳のある場所は、南側に川があり背後に山を背負うという風水の考え方に合っており、これに基づいて造られたのではないかと考えられています。★ -
この古墳はいくつかの根拠から、被葬者は大分君恵尺と考えられています。
造築年代は出土遺物から7世紀後半となります。恵尺の死は675年です。 -
この古墳の石槨は、横口式石槨という特異な形式です。
カタログによればその特徴は、
★1.棺を入れる石室に底石があり、側石が底石の上に設置される。
2.石室幅、高さがその前の通路(羨道)よりも狭く、高さも低い。
3.1人の人を埋葬するための構造で、横から棺を挿入する。★ -
石槨入口拡大。
-
石槨透視図。カタログより
石槨規模:長さ2.16m・幅0.81m・高さ0.92m
横口式石棺は7世紀後半に盛んに造られるようになり、畿内の石棺は中級あるいはそれ以上の官人の墓でありました。地方のこの形式の古墳も、畿内でも活躍した中級官人の墓であると考えられているそうです。
九州では、この古宮古墳が唯一の横口式石棺であります。
ということは中央で活躍した中級以上の官人の墓となります。
大分出身で、該当するのは、大分君恵尺と大分君稚臣(わかみ)です。
稚臣は天武8年(679年)3月6日の死に際し、「外小錦上(との・しょうきん・じょう)」の位が追贈されています。
これは正五位相当になります。高級貴族ではあります。
恵尺は「外小紫」です。後年の三位です。「外」ですから、名誉位階ではありますが、皇族以外では最高位、大臣クラスです。
大化2年(646年)の「大化の薄葬令」というものがありました。身分によってつくるべき墓の規模を細かく規定したものです。それによると古宮古墳の規模は「上臣(たかき・まえつ・きみ)の基準に相当するそうです。
恵尺の位、小紫は「上臣」に相当します。
一方稚臣の「小錦上」は「下臣(ひくき・まえつ・きみ)」にとどまり、この規模の墓は造れないことになるのです。
したがって古宮古墳は大分君恵尺の墓であるという有力な根拠とされています。
なお「大化の薄葬令」は実在せず、日本書紀編纂時に後付けされたという学説もあります。しかし7世紀以降大規模な古墳は築造されず、半ばからは古宮古墳のような小規模な、古墳とも言えない大きめのお墓が主流を占めるのは考古学的事実ですから、なんらかの基準があったのは間違いないと思います。
3枚の写真があります。 -
カタログより。1981年(昭和56年) 発見が1979年ですから、直後ということです。
大体赤丸のあたりでしょう。道筋も変わっております。擁壁もまだありません。 -
現場案内板より。「整備前の古宮古墳」とあります。年代不明。
古墳は擁壁の上ですから、ほぼ赤丸の位置。竹藪の中でした。 -
カタログより。年代不明ですが、カタログ刊行の2011年直前でしょう。
赤丸の中に古墳開口部が見えます。
この一帯は明治以前に開墾され、この古墳は、1925年(大正14年)に大分県史跡名勝天然記念物調査会が「大分市における特異な古墳」として報告していました。
カタログによれば、
★墳丘部分もまた当時の開墾によって削り取られたり、長い間に土砂が流出し、現状では羨道部之天井石が露出し、ほとんど古墳の外観を留めない状態でした。★
つまり1979年の発見は厳密にいうと、「再発見」だったのです。
発見当時は、鬱蒼とした竹林でありました。写真「整備前の古宮古墳」の状態でした。
この竹林は昭和の初め頃植えられたものだそうです。
おかしな話です。南面した、果樹園にしたらいい斜面なのに、なぜ竹なんか。
竹林は一度はびこってしまうと、完全に抜根するのが大変なのです。100坪100万円かかると聞いたことがあります。
見たことがある。大型のユンボで地面を1メートルくらいすくい上げて、土を払って竹の根だけをふるい分けます。
もしかするとここに竹を植えた人は、古墳を開発から保護する気だったのではないか。急な斜面の竹林なんか、だれもほしくありません。
なにか、古い言い伝えがあったのではないかな。 -
この古墳は27度の傾斜地にあるとカタログにありましたが、現場に立ってみると、とても27度には見えない。
手すりとフェンスのむこう、道路に赤い車の屋根が見えます。
手すりがなかったら下を見下ろすのは怖い。体感ほぼ垂直という感じです。
この立地は古墳を造ったころと変わらない。
なぜこんな不便なところに造ったのでしょう。
横口式石槨は巨大な凝灰岩をくりぬいて造ったものです。古墳から3kmほど南の、永興(りょうご)あるいは尼ケ城近辺から運んできたと、考えられているそうです。
この古墳を造った大分(おほきた)氏の族長は、ここに恵尺の墓をどうしても造りたかったのです。
それが恵尺の生前の希望だったのか、父親の思いだったのか、今となってはわかりません。
文祢麻呂(ふみの・ねまろ)のお墓のように、銅板の墓誌は絶対あったと思います。それも失われて久しい。 -
一書に曰く、
古宮古墳は公園になっていて、手入れされてさっぱりしておりました。
古墳の傍に立つと、日当たりも良く、このこんもりと小ぶりに丸い古墳はのどやかでした。
見晴らしがいい!
穏やかな町並みが、下に見え、その上を白い雲がゆったりと流れてゆきます。
それを見ている内に、この古墳の被葬者は、この景色のような人だった気がしてきました。
壬申の乱の後、若くして亡くなったという恵尺という青年は、こういう人だったように思えるのです。
By妻 -
丘陵下の住吉川まで250m、対岸の丘まで400mほどです。
かつては二流れの丘陵の間は川原で、毘沙門川とよばれた川がのどかに流れていたでありましょう。 -
一書に曰く、
壬申の乱の時、恵尺が命がけで脱出させた大来皇女、大津皇子は、彼のことをどのように思っていたでしょう。
文字通りの命がけの日々だったのですから、お互い忘れようにも忘れるはずは、なかった。
お互い、忘れることのできない思いを、生涯持ち続けたのは、まずまちがいないでしょう。
私は、大来皇女が、生涯独身だったことが不思議なのです。
まあ、あの時代、女性は、政略結婚の道具だったのですから、天智天皇と天武天皇の血を受け、天武天皇の、最初の正妃の娘であり、養い母は、天智天皇の正妃という、恐ろしいばかりに高貴な身分の女性は、へたに動かせなかったということでしょうか。
たぶん、草壁皇子との結婚は、考えられたかもしれません。
他の皇子、例えば高市皇子は、生母の身分が低いという理由で、皇位継承権は、三番目ですが、この人に、大来皇女が嫁すると、高市皇子は絶大なる権力を手にしてしまいます。
持統天皇が許すはずがない。
高市皇子がダメなら、他の皇子、ましてや臣下なぞ問題外の外ですわね。
やっぱり、唯一成立してもいいのは、草壁皇子との結婚でしょうか。
なのに。
なぜ成立しなかったのでしょうね。
また、私が不思議に思うのは、この時代の男性は、正妃は正妃として、他に愛人と言いますか、身分の低い女性とも結婚しております。
例えば、壬申の乱の敵側の大友皇子、そして高市皇子、刑部皇子など、身分の低い母から生まれました。
なら、逆はあったのか?
身分の高い女性と低い男性の恋。
あったって、いいのではないですかね。
海音寺潮五郎の「春宮怨」という、大納言家の姫君と舎人の恋と、その悲しい結末を描いた美しい短編小説があります。
大来皇女にだって、心寄せる青年がいたっていいじゃないの。
そして、もしもそういう青年があったのなら、この恵尺ではないかと思うのです。
きっと、高市皇子は、頭の良い優秀な人だっただろうけれど、だからこそ、母の身分によるコンプレックスを抱える、ちょっとひがみっぽいひとだったかも。
草壁皇子は、おとなしいばっかりの、何考えているんだか。
そういう皇子達の傍らに、健康で誠実で明朗で、温厚な青年。
なにせクニでは、若殿様ですからね。
恵尺は、大納言の姫君が、舎人に心ひかれたように、大来皇女の心をとらえたかも知れません。
脱出行の時、大来皇女は、11才くらいだったはず。
その後、二人に接点はなかったかも知れませんが、大来皇女の心の中で、恵尺は育っていったのかも知れません。
だからこそ、草壁皇子との結婚なんか、、だったのかも。
それくらいあったっていいじゃないですか。
大来皇女のあまりにも彩りのない人生。これくらいあって欲しいです。
まさか、いくら私でも、伊勢からどんぶらこっこ。大分まで会いに行ったとまでは言いませんが。
うーん、船に乗ったら、案外近いのかもしれませんが、そこまで言うと、先頃亡くなった、某尼さん作家になっちゃいます。
By妻
この説は、案外あり得るかもしれません。
大来皇女のまわりは、みんな血のつながりのある似たような男達ばかり。恵尺は遠い九州育ちで新鮮な人物だったはず。しかもどこか異国の香りもあった。
大分は、朝鮮半島、中国からの渡来人が多く住み着いたところです。
恵尺が、感受性豊かな大来の心に強烈な印象を残したことは、想像できます。
大津皇子は、「性格はのびのびとし、自由に振る舞って規則などには縛られなかった」と懐風藻に書かれています。大来は2才違いの同母姉、性格も似ていたはずです。
恵尺にしても、11才ながら長身で、めちゃくちゃ気が強く、乗馬に巧みな美少女を、一時も忘れることはなかった。 -
カタログにあった、整備以前の石槨開口部です。1979年の古墳再発見時でありましょう。築造時と同じはずです。
-
整備後の現在。
恵尺を葬った父親もこの位置に立ったでありましょう。
なにを思ったか。 -
私たちはこの日、日本の古代史に実在した青年のお墓の前にいたのであります。
彼は天武元年(672年)6月24日黎明から26日朝まで、彗星のように輝きました。 -
天武4年(675年)6月23日、もう一度強烈な閃光を放ちました。
その後正史がその名を語ることはありません。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 前日光さん 2022/09/03 23:15:56
- 新説!
- こんばんは、しにあさん&by妻さん!
恵尺、そうでしたか、675年没ですか。。。
まだ20代?でしょうか?
南国の太陽のように明るい眼差しをした青年は、馬上姿も凜々しく。。。
近江脱出に駆けつけたその青年の勇姿が、皇女の目にどう映ったのか?
日頃皇女の周囲では見かけない南の国のにおいを持った青年は、皇女の心に強く焼き付けられたのでしょうね。
たった11歳でも、昔の11歳は現在よりももっと大人だったでしょう。
by妻さんの説、大来が生涯独身だった理由は、恵尺への幼い思いがずっと続いていたからという説、そういうの、好きですよー(~o~)
まるで長岡良子さんの作品みたいです。
少女漫画だと、世界が妄想の中で、皇女の魂が大分まで飛んで行ってしまうのです。
そして少なくても、亡くなる前の恵尺の眼前に立ち現れるのですよ。
二人は妄想の中で魂が触れあうのです(>_<)
↑
少女趣味はエエ加減にせぇという声が聞こえてきますが、妄想が趣味なのでご容赦のほどを( ̄∇ ̄)
表紙の写真、古宮古墳の石槨に、日が射していますね。
まるで恵尺を讃えているかのような光景です。
とても良い写真だと思います。
12月に奈良に行く予定ですが、残念ながら今回はクラブツーリズムのツアーです。
ものすごく典型的な所にしか行けません。
春日大社、法隆寺、東大寺、長谷寺、慈光院等々、奈良ホテル2泊というものです。
でも奈良は何度行っても、その時々に素晴らしいので、今度もきっとと期待しています。
3日目の午後1時、近鉄奈良駅集合までの半日間は自由行動です。
これをどう使おうかと考慮中です。
朝夕涼しくなってきました。
季節の変わり目、ご自愛くださいませ。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2022/09/04 16:02:42
- Re: 新説!
- 地方豪族出身の舎人というのは、若い頃、多分15くらいで、修行に都に上がるみたいです。恵尺も5年くらい大海人皇子のところで修行して、この頃20前後という設定です。平均寿命が30の時代ですから、なんでも早く始めないとものになりません。
近江から高市皇子、大来大津を護衛した16人も似たようなものでしょう。
大来ちゃんは、屈強な青年に守られて、あるいは従えて、近江、甲賀、鈴鹿を駆け抜けたのは、多分爽快だったのではないかな。
若い男はこういう逞しいモノだと知っちゃうと、草壁くんなど同年齢の少年は、馬鹿に見えたかもしれません。
恵尺への幼い思い説、いけるんじゃないですか。
少女趣味、大いに結構です。
古墳に陽の光が射している、言われて気がつきました。ハレーション起こしていて、邪魔だなと思っていました。なんと、石廓の入り口に差し込んでいるではないですか。
怪我の功名です。
全く偶然。そもそもそんな高級な撮影できません。こういうこともあるのですね。
12月奈良いいなあ。しかも奈良ホテル。
法隆寺など、入ったら自由ですか? 下手にガイドされたら、かえって困るでしょう。
旅行記期待しています。
涼しくなってきました。小諸1泊しましたが、朝は19度でした。
藤村記念館、いらしたことありますか。口コミ書きました。「新生」の島崎こま子の写真がありました。
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