2025/08/04 - 2025/08/04
1位(同エリア9件中)
kasekunさん
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カウラ、、、この町を知ったのはわりと最近。たぶん多くの日本人は知らないんじゃないかな?地球の歩き方には1ページだけこの町の観光案内が載ってるけど、、、、。
カウラ事件、、、ここで日本人捕虜が集団脱走をはかり、亡くなった。亡くなった安倍さんも慰霊に訪れている。
シドニーから列車とバスでカウラに行き、慰霊してきました。
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日付は8月4日。朝です。
シドニーからカウラまでは列車だけでは直接行けない。で、ネットで事前に調べておきました。
06:19 Sydney Central Station
3h33m
09:52 Bathurst Station
そして、バサーストからバスに乗り換えカウラへ。
11時04分バサースト発
12時49分カウラ着 -
列車チケット購入は
https://transportnsw.info/regional-travel
運賃は$25.20 -
ちなみに旅程考えるのによく使うサイトは
https://www.rome2rio.com/
ここ、便利です。 -
これはNSW TrainLinkの**エクスプローラー(Xplorer)**列車です。
最高時速は145キロのようです。 -
さらばシドニー!また戻ってきます!
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車窓、、、
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?
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これはいったい何?写真撮っておきました。
調べたら、、、
この画像に写っているのは、発電所などで見られる**冷却塔(クーリングタワー)**です。
へー、巨大なサイロ?かと思ってました。羊の国オーストラリアなんで、、、 -
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乗客はまばら、、、
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あ、そうそう、これがケンさんの娘さんから頂いたビルム、、、。あれからいつも首に掛けて持ち歩いています。
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んー、列車旅はいいもんです。
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シドニーは天気あまりよくなかったけど、こちらは晴れ渡っています。
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で、バサーストに到着!
カウラへのバスはまだなんで、ちょっとバサーストの町を散策しました。 -
画像に写っているのは、オーストラリア第16代首相ベン・チフリーがかつて運転していた機関車「チフリー機関車(D50クラス蒸気機関車5112号)」です。
駅隣に展示されていたのでパチリ! -
画像には、プラットホームに停車している蒸気機関車が写っています。これは、オーストラリアのニューサウスウェールズ州バサーストにあるチフリー・エンジン(The Chifley Engine)として知られる蒸気機関車である可能性があります。チフリー・エンジンは、バサースト駅に展示されている保存機関車です。
すげー、よくわかったなあ! -
画像に写っている建物は、ニューサウスウェールズ州のバサースト駅舎です。
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「バサースト駅は1876年4月4日にニューサウスウェールズ州総督ハーキュリーズ・ロビンソン卿によって開業されました。
バサーストは1815年に設立されたオーストラリア最古の内陸入植地であり、1851年にオーストラリアで最初の金が発見され、ゴールドラッシュが起こった場所としても知られています。」 -
バサースト駅!
※日本で東京ー横浜間が開通したのは1872年(明治5年)。新橋(現在の汐留付近)と横浜(現在の桜木町駅付近)の約29キロメートルを結んだ。だいたいこの頃に開通したようです。 -
1901年に建設されたヴィクトリア・フラワー・ミルという製粉所の歴史を記念するものです。
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バサースト、、、
「バサーストは、オーストラリア、ニューサウスウェールズ州のセントラルテーブルランドにある都市です。シドニーの西北西約200キロメートル(120マイル)に位置し、バサースト地域議会の所在地です。1815年に設立されたバサーストは、オーストラリアで最も古い内陸集落であり、2023年の人口は44,621人でした。」ウィキより -
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朝飯をこの店で購入、、、
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この画像は、オーストラリアのバサーストにある「聖ミカエル・聖ヨハネ大聖堂(Cathedral of St Michael and St John)」を示しています。
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「バサーストは、1851年にオーストラリアで初めて金が発見され、ゴールドラッシュが起きたことから、「ゴールドカントリー」と呼ばれることがよくあります。今日では、教育、観光、製造業が経済を牽引しています。国際的に有名なマウント・パノラマ競馬場(別名ワルー)は、街のランドマークであり、特にバサースト1000の開催期間中は多くの観光客が訪れます。バサーストには歴史的な市内中心部があり、 19世紀半ばから後半にかけてのニューサウスウェールズ州ゴールドラッシュの華やかな建造物が数多く残っています。」
ゴールドラッシュの町だったんですね。 -
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さっきのお店でかった朝飯!野菜が無性に食べたくなりまして、、、
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※この画像は、オーストラリアのニューサウスウェールズ州バサーストにある**マチャッティ公園(Machattie Park)のクラーゴ噴水(Crago Fountain)**である可能性が高いです。
正解! -
※この画像は、イギリスのダービーシャー州バクストンにある**デヴォンシャー・ドーム(Devonshire Dome)**です。
ブッブー!不正解! -
※この画像は、オーストラリアのニューサウスウェールズ州バサーストにあるバサースト・ユナイティング教会です。
正解! -
さて、カウラ行きバスの出発時刻が迫ってきました。が、チケット売場はあるにはあるんですが、誰もいなく、鍵もかかって入れません。
、、、仕方がないので、バスの運ちゃんに聞いてみたら、次はネットでちゃんと予約してね!とのこと。現金受け付けてくれました。たしか9オーストラリアドルだったかなあ?
※後でわかりましたが、バスチケットは列車と同じサイトで購入できました。
つまり、https://transportnsw.info/region..
バスと列車、別な会社かと思ってましたが、提携?統合?したみたいです。 -
このバスでカウラに向かいます。ローカルなんでガラガラです。
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※この画像は、北海道函館市にあるトラピスチヌ修道院です。
違いまーーす! -
※この画像に写っている建物は、オーストラリアのニューサウスウェールズ州バサーストにあるセント・スタニスラウス・カレッジです。
ビンポーン! -
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あれ?飛行機雲が、、、
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カウラの方へ、、、
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2つも、、、
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飛行機の姿は見えません。
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なんだか、この飛行機雲、よくカウラに来たな!そう出迎えてくれたんじゃないかと思えてなりませんでした。
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カウラに到着!
※この画像は、オーストラリアのニューサウスウェールズ州にある**カウラ(Cowra)**という町の中心部を写したものです。
カウラはシドニーの西約320kmに位置する町です。
第二次世界大戦中に日本人捕虜が集団脱走を試みた「カウラ事件」の舞台として知られています。
日豪の和解の象徴として、南半球で最大の回遊式日本庭園であるカウラ日本庭園があります。
画像には「THAI YIM COWRA」というタイ料理レストランの看板が見えます。
空には飛行機雲が長く伸びています。 -
町の観光案内ポスター!
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カウラ日本庭園・文化センター(Cowra Japanese Garden & Cultural Centre)」の宣伝用ポスターですね。
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さて、まずは日本庭園に行ってみます。
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※この画像は**オーストラリアのニューサウスウェールズ州にあるカウラ警察署(Cowra Police Station)**です。
正解! -
ほら、これ!世界で唯一、オーストラリアにだけある交通標識でしょうね。
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※画像は「COWRA PEACE PRECINCT」と書かれた看板が写っており、カウラ平和公園の入り口を示しています。
カウラ平和公園は、オーストラリアのニューサウスウェールズ州カウラにある歴史的な場所です。
第二次世界大戦中にカウラ捕虜収容所があった場所であり、1944年には日本人捕虜による脱走事件が発生しました。
この公園は、脱走事件で亡くなった人々や、戦争中に亡くなったすべての人々を追悼するために設立されました。
公園内には、日本庭園、記念碑、平和の鐘などがあり、平和と和解の象徴となっています。 -
※画像は「カウラ平和の道」と題された案内板で、日本語と英語で書かれています。案内板には、かつて敵であった人々が友人となるというメッセージが込められており、特に第二次世界大戦中のカウラ捕虜収容所での出来事に関連した内容が記されています。
タイトル: Cowra Peace Pathway (カウラ平和の道)
テーマ: 昨日の敵は今日の友 (Old Foes become Old Friends)
内容:
ウォル・マッケンジー氏の体験談が紹介されており、捕虜収容所での出来事や、その後の日豪関係の改善について語られています。
カウラ捕虜収容所脱走50周年記念式典1994の際の支援者や関係者の名前が挙げられています。
この案内板は2004年8月に、シドニー日本人会、シドニー日本商工会議所、シドニー日本クラブの協力により建立されたことが記されています。 -
※この画像は、オーストラリア、ニューサウスウェールズ州カウラにある「ジョン・ムーン・メモリアル・ロータリー・アーボレタム」の看板です。
場所: カウラに位置する植物園です。
名称: 「ジョン・ムーン」という人物を記念し、ロータリークラブが関わって設立された植物園(アーボレタム)であることを示しています。 -
この公園には様々なオブジェが、、、
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この画像は、オーストラリアのニューサウスウェールズ州カウラのカウラ・スカルプチャー・パーク(Cowra Sculpture Park)にある彫刻「The Swimmer」です。
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いよいよカウラ日本庭園、、
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ここが入り口!
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※カウラ日本庭園・文化センターは、ニューサウスウェールズ州政府から賃借した土地で、カウラコミュニティメンバーで構成されるボランティア理事会を持つ非営利のコミュニティ会社によって運営されています。
庭師の賃金、管理スタッフ、電気代、保険、設備費を含む継続的な維持管理費は、入場料収入のみで賄われています。
5ヘクタールの庭園は、約40年前に設立され、主に日本政府と企業からの資金提供を受けています。
カウラ市議会は、無償の水供給を通じて庭園を支援しています。 -
※この建物は、オーストラリアのニューサウスウェールズ州カウラにある「カウラ日本庭園・文化センター」です。
カウラ日本庭園は、南半球で最大級の日本庭園とされています。
著名な造園家である中島健氏によって設計され、1979年に開園しました。
第二次世界大戦中のカウラ脱走事件で亡くなった日本兵への追悼と、平和および日豪友好を願って造られました。
庭園内には、江戸様式の建物や茶室も設けられています。 -
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The和ですね。
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しつこいですが、、、
※カウラ日本庭園は、第二次世界大戦中のカウラ事件(日本人捕虜の集団脱走事件)における日豪の和解の象徴として、造園家の中島健氏によって設計されました。
1979年に開園し、南半球最大規模の回遊式庭園として知られています。
庭園には、梵鐘、伝統的な江戸小家、本格的な屋外茶室、盆栽室などの特徴的な施設があります。
5ヘクタールの広大な敷地には、岩だらけの丘陵、手入れの行き届いた生垣、滝や小川、2つの湖があり、多様な鳥類が生息する穏やかな環境を提供しています。
毎年9月には桜祭りが開催され、お花見や和太鼓、合気道のパフォーマンスを楽しむことができます。 -
いい感じです。
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自分、あまりこういった庭には関心がありませんが、異国の地で見ると美しく感じられます。不思議です。
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美しいですよね。
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「小石の保管してください」
「小石に近づかないでください」の訳の方がいいのに! -
素晴らしい!
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これもいい!
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改めて見ると、日本の美的感覚って、すごいです。
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桜、、、冬なのに咲いています。北海道人には考えられない、、、
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しばし、ご鑑賞下さい。
地元のご夫妻がうっとりと魅入っていた風景です。 -
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盆栽も、、、
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この地で亡くなられた日本兵も、きっと心穏やかに眠られていることでしょう。
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毎年9月には桜祭りがあるようです。
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※中島健は国際的に評価された庭園デザイナーであり、4大陸で庭園を設計し、日本の「生ける国宝」に認定されました。
彼の代表作の一つに、コワラ日本庭園・文化センターの庭園があります。
彼の庭園デザインは、日本の自然美と伝統的な美学を現代的な感性と融合させたものです。
彼は庭園に「守護石」と呼ばれる大きな石を配置するなど、象徴的な要素も取り入れました。
彼の作品は、日本文化の精神を表現し、見る人に喜びと安らぎを与えることを目指していました。 -
東西の調和
オーストラリアの日本庭園の物語
庭園
カウラ日本庭園と文化センターは、1970年代に地元の市民と経済界のリーダーたちが、カウラと日本の関係強化のために立ち上げたものです。それから40年、この庭園はオーストラリアと日本の関係を生き生きと、そして具体的に表現するものとして認識されるようになりました。
1973年初頭、地元の実業家ドン・キブラーAM ORSは、カウラ観光局長ピーター・カルースと共に、カウラ観光開発公社を代表して、次のような提案を行いました。
「美しいオーストラリアの景観の中に、伝統的で本格的な日本庭園、茶室、文化センターを建設する。訪れる人々は、庭園の美しさと静寂を、文化センターでは日本の歴史、芸術、そして伝統文化の展示を楽しみ、鑑賞することができる。これにより、日本とその国民への理解を深め、両国間の親善と理解をさらに促進する。」
カウラRSI支部元会長のアブ・オリバー市長(1975~1976年)、バーバラ・ベネット市長(1976~1980年)、そして地元の指導者からなる設立委員会は、庭園デザイナーの中島武志(別名ケン・ナカジマ)と共に、第一期工事の監督を行いました。庭園は1978年に開園し、1979年に正式にオープンしました。オーストラリア、ニューサウスウェールズ州、日本政府、そして…カウラ市議会、ジャパリ万博財団、そして日本企業の協力を得て、1970年に開園を迎えた第2期工事は、キブラー氏と地元実業家のトニー・ムーニー氏(OAM ORS)の主導の下、東京都(カウラ日本庭園トラストが管理する基金を含む)からの多大な支援を受けて完成しました。
日系アラブ人は、カウラを「オーストラリアと日本の関係における精神的な故郷」とよく呼んでいます。カウラ日本庭園と文化センターを中心として、戦争と死によって荒廃した景観は、今や平和と和解の息吹を宿す空間となっています。 -
資料館には、、、雛人形、
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鳥居の模型、
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伝統的な演劇で使用される仮面、
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着物、
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陶器、
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日本の伝統的な木造建築の屋根部分の模型、(「枓栱(ときょう)」と呼ばれる構造だそうです。)
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西本願寺の版画、
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、、、
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枯山水等、日本文化の象徴というべき物が展示されていました。
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日本は、1986年に開園した庭園の第2期工事の総費用200万ドルのうち160万ドルを寄付したようです。
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甲冑、
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金閣寺等の模型、
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和風衝立も、、、
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?
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ただ、、、、1つ注文つけるなら、
トイレはウォシュレットにした方がいいのに!
現代の日本文化です。
世界でこれを考え付くのは日本人だけ!断言します! -
変な「水」が3ドル!
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お土産には折り紙も、、、
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陶器や食器、マグカップも、、、
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これは?
何かわかりますか? -
入場料払った証明でした。判子ばっちし押されました。これももしかしたら日本文化の1つ?
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以上、日本庭園でした。
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さて、いよいよメインの捕虜収容所跡地へ向かいます。
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てくてくてくてく、、、
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そしたら、、、
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あれ!あれはもしかして?
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やっぱり!
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野生のカンガルーです!
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カメラを向けると、こっちをじーっと!
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いやー、いるんですね。北海道のエゾシカみたいに!
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もちろん羊さんも、、、
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モモイロインコも、、、
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そして、ギャリソンウォークに到着!
※カウラ捕虜収容所跡地の入り口であるギャリソン・ゲートを起点とし、捕虜収容所跡地やカウラ平和地区を通り、最終的にカウラ日本庭園・文化センターへと続く道です。
歴史的意義: 第二次世界大戦中に発生したカウラ捕虜収容所からの集団脱走(カウラブレイクアウト)の歴史を学ぶための重要な場所です。この道沿いには、解説板や当時の遺物が残されており、地域の歴史について深く考えることができます。
体験: 散策やサイクリングに適しており、美しい景色を楽しみながら歴史に触れることができます。特に、収容所跡地にはレプリカの監視塔があり、音声ガイドで当時の情報が提供されます。
平和の象徴: カウラの歴史的な悲劇と、その後の和解の物語を象徴する場所であり、オーストラリア、日本、イタリアの捕虜やオーストラリア人看守、インドネシアの母子を象った5枚のパネル彫刻も設置されています。 -
※Garrison Area(駐屯地エリア): このエリアは、かつて駐屯地として使われていた歴史的な場所であることを示しています。
Garrison Walk: 駐屯地エリアを巡る散策路で、周辺の歴史や自然に触れることができるようです。
地図と写真: 案内板には、周辺の案内図と、このエリアの過去の様子を伝える古い写真が掲載されています。
案内表示: 「Wood Yard」や「Distortion Gate」といった場所への方向と距離を示す矢印があり、周辺のポイントを示しています。 -
ここに捕虜収容所があったんです。
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※この場所は、第二次世界大戦中に設置された捕虜収容所の跡地であり、特に1944年に発生した日本人捕虜による大規模な集団脱走事件「カウラ事件」の舞台となりました。
説明板には、収容所の構造や、脱走事件の概要、そして「Notable Guests(著名な滞在者)」として、収容されていた捕虜に関する情報が記載されています。
現在、この収容所跡地は史跡として保存されており、ウォーキングトレイルや、収容所の模型、当時の様子を伝える映像を上映するシアターなどが整備されています。
カウラ市では、この事件を忘れないため、また日豪関係の改善のため、日本人戦没者墓地の管理や、定期的な記念式典の開催などが行われています。 -
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※電気スイッチ小屋 (ELECTRICAL SWITCH HUT):このパネルは、カウラ捕虜収容所の電気スイッチ小屋に関する情報を提供しています。
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※この案内板は、「COWRA PRISONER OF WAR AND INTERNMENT GROUP NO. 12」と記されており、カウラ捕虜収容所について説明しています。
カウラ捕虜収容所は、第二次世界大戦中にイタリア人捕虜を収容するために建設されましたが、後に日本人捕虜も収容されました。
1944年には、この収容所で日本人捕虜による大規模な脱走事件「カウラ事件」が発生しました。 -
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※「WOOD YARD」は、第二次世界大戦中に建設されたカウラ捕虜収容所の一部であったことが示唆されています
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ここに、捕虜となった日本兵が、、、と感慨深く眺め、、、
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ふと足元を見たら、、、全くの偶然、、なんとこの木は、、、
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「安倍晋三内閣総理大臣とジョナサン・ミネハン 943」
故安倍元内閣総理大臣が植樹した木でした。 -
安倍さんもここに慰霊に来られてたんですね。
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※この画像は、オーストラリアのニューサウスウェールズ州カウラにあるカウラ捕虜収容所(Cowra POW Camp)の案内板です。この収容所は第二次世界大戦中に設置され、特に1944年8月5日に日本人捕虜による集団脱走事件「カウラ事件」が発生した場所として知られています。
詳細情報は以下の通りです。
場所:オーストラリア、ニューサウスウェールズ州カウラ。
歴史的背景:第二次世界大戦中の1944年、日本人捕虜1,104人による集団脱走事件「カウラ事件」が発生し、多くの死者を出しました。
現在の状況:現在は捕虜収容所の跡地として、日本人戦争墓地やカウラ日本庭園などが整備され、平和友好交流の場となっています。
案内板の内容:画像に写る案内板には、収容所跡地の地図と各区画(A, B, C, D)の役割が示されており、訪問者が歴史を学ぶための情報が提供されています。 -
※これはオーストラリア、カウラの捕虜収容所跡地にあるイタリア人記念碑です。
この記念碑は、第二次世界大戦中にカウラ捕虜収容所に収容されていたイタリア人捕虜や、第二次世界大戦で命を落としたオーストラリアとイタリアの軍人を追悼するために建てられました。
「COMUNITÀ ITALIANA BENEFACTORI」というイタリア語の銘文は、「イタリア人恩人コミュニティ」という意味で、この記念碑がイタリア系コミュニティによって寄贈されたことを示唆しています。
この記念碑は、1997年のオーストラリア・デーに正式に公開され、カウラの豊かな文化的発展におけるイタリア人の貢献を称えるものでもあります。
カウラ捕虜収容所は、1941年から42年にかけてイタリア人捕虜を収容するために建設されました。1944年には日本人捕虜による大規模な脱走事件(カウラ事件)が発生しましたが、イタリア人捕虜はこの脱走には関与しませんでした。 -
※カウラ第12捕虜収容所に関する主要な情報
設立と初期の捕虜:1941年に建設が始まり、当初は北アフリカ戦線で連合軍に捕らえられたイタリア人捕虜や、インドネシアの政治犯などを収容していました。
日本人捕虜の収容:1943年1月から日本人捕虜が到着し始め、1944年7月には定員を超える約1100人が収容されていました。
カウラ大脱走:1944年8月5日未明、日本人捕虜たちが集団脱走を試みました。これは第二次世界大戦中の捕虜脱走事件としては最大規模のものであり、多くが日本軍の「戦陣訓」に記された「生きて虜囚の辱を受けず」という教えに起因するとされています。
脱走の結果:脱走事件の結果、231人の日本人捕虜と4人のオーストラリア人兵士が死亡しました。脱走した捕虜たちは10日以内に全員再捕獲されました。
戦後のカウラ:事件後、カウラには日本人戦没者墓地が設置され、現在では日豪友好の象徴として、カウラ日本庭園・文化センターなども設立されています。
この案内板は、この歴史的な場所の背景と、そこで起こった出来事の重要性を来訪者に伝えています。 -
※カウラ収容所とイタリア人捕虜の歴史: カウラ捕虜収容所は1941年に開かれ、当初は主に地中海戦域で連合軍に捕らえられたイタリア人捕虜を収容するために建設されました。
イタリア人捕虜の生活: 捕虜たちは当初テント生活を送っていましたが、後にバラックが建設されました。彼らは大工、理髪師、仕立て屋、料理人などとして収容所内で働いたり、道路建設や木材伐採といった外部作業に従事したりしました.
文化活動とレクリエーション: イタリア人捕虜は収容所内で礼拝堂や祭壇を建て、ギターやヴァイオリンなどの楽器を自作し、演劇やオペレッタを上演するなど、活発な文化活動を行っていました。また、ハンドボールなどのスポーツも楽しまれていました.
本国送還: 戦後、多くのイタリア人捕虜は1946年から1947年にかけてアルカンタラ号などの船で本国に送還されました.
コウラ日本人脱走事件との関連: コウラ収容所は1944年の日本人捕虜の集団脱走事件で有名ですが、イタリア人捕虜はその前から収容されており、異なる化合物(区画)で生活していました。日本人脱走事件後も、イタリア人捕虜は比較的平穏な生活を送っていたとされています. -
※1944年8月5日、オーストラリアのカウラ捕虜収容所で、1100人を超える日本人捕虜が集団脱走を試み、234人が命を落としました。
当時の日本では「捕虜になることは恥」という戦陣訓があり、捕虜となった日本兵は葛藤を抱えていました。
カウラには日本人戦争墓地があり、脱走事件の犠牲者や各地から集められた戦死者など522名の日本人が埋葬されています。
この事件は、日本とオーストラリアの平和友好の象徴として、現在も語り継がれています。
81年前の明日、彼らは集団脱走したのです。なんという偶然、、、自分、カウラ事件は知ってましたが、いつ起こったのかは全く知りませんでした。8月5日、、、。 -
インドネシア人抑留者、、、
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※テーマ:「DEATH BEFORE DISHONOUR」
このスローガンは、名誉や義務を重んじ、不名誉や屈辱を徹底的に避けるという倫理観を表しています。日本の武士道や古代ローマの軍隊など、歴史を通じて様々な文化や軍事組織で見られます。 -
たしか日本人捕虜はBの区画だったと記憶してるが、違ったか?
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※
1945年5月8日: ドイツが無条件降伏しました。
1945年8月6日および9日: アメリカが日本の広島と長崎に原子爆弾を投下しました。
1945年8月15日: 日本が降伏し、アジアでの戦争が終結し、連合国の完全な勝利が確定しました。
1945年: 第二次世界大戦が終結し、5000万から8500万人の死者が出ました。また、1944年のプライベート・ジョーンズ、ハーディ、スループランドの葬儀の写真も掲載されています。 -
※1944年8月5日の未明、日本人捕虜たちは「万歳突撃」を叫びながら収容所のフェンスを突破しようとしました。
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カウラ捕虜収容所のレプリカ看守塔
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※5つのパネル彫刻: 印象的な5つのパネル彫刻は、脱走事件に直接関わった人々(オーストラリア人看守、日本人捕虜、イタリア人捕虜など)のシルエットを描いています。
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※カウラ事件(Cowra Breakout)について
事件の背景: 第二次世界大戦中、オーストラリアのカウラ第12捕虜収容所にはイタリア人、インドネシア人、そして日本人兵が収容されていました。1944年7月には日本人捕虜が1100人に達し、収容所の過密化や捕虜と監視兵の間の摩擦を緩和するため、オーストラリア当局は下士官と兵を分離し、兵を別の収容所に移動させることを決定しました。
脱走の決行: 1944年8月4日、日本人捕虜にこの移動が通知されると、捕虜たちは脱走を決行するかどうかを投票で決定しました。当時の日本では「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓があり、捕虜となることを恥とする風潮があったため、脱走への同調圧力が働いたとされます。結果、賛成票が多数を占め、8月5日の未明に突撃ラッパを合図に脱走が開始されました。
悲劇的な結果: 捕虜たちは宿舎に火を放ち、鉄条網柵に向かって殺到しましたが、オーストラリア人監視兵の機関銃による銃撃で多くの捕虜が射殺されました。この事件により、オーストラリア人兵士4名、日本人捕虜231名(または234名)が死亡し、日本人負傷者も多数出ました。収容所外に逃れた捕虜も後に捕らえられ、生き残った捕虜たちは別の収容所に移送されました。
「THE FIRST ESCAPE」の意味: 案内板の「THE FIRST ESCAPE」という表現は、このカウラ事件における捕虜たちによる最初の、そして主要な脱走の試みを指していると考えられます。この事件は第二次世界大戦における最大の捕虜収容所脱走事件として知られています。
この案内板は、カウラ事件という歴史的な出来事、特に日本人捕虜たちが「脱走」という形で「最初の逃走」を試みた悲劇とその背景を伝えるものと言えます。 -
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※BROADWAY ESCAPE ROUTES (ブロードウェイ脱走経路)
案内板のタイトルにもなっている「ブロードウェイ」は、カウラ捕虜収容所の主要な道路の名前です。1944年8月5日未明に起こった日本人捕虜による集団脱走の際、このブロードウェイが捕虜たちが一斉に外周フェンスへ向かう経路となりました。
捕虜たちはブランケットなどを利用して有刺鉄線を乗り越えようとし、バットや即席の武器で監視兵に抵抗しました。
SUICIDAL ESCAPE ATTEMPT (自殺的脱走の試み)
この脱走は、捕虜になることを恥とする当時の日本軍の「戦陣訓」の思想に強く影響を受けていました。捕虜たちは、捕らえられ続けるよりも名誉ある死を選ぶべきだと考え、成功の見込みが低いにもかかわらず脱走を決行しました。
脱走中に多くの日本兵が自決し、合計で231人の日本人捕虜が死亡しました。これは文字通り「自殺的」な脱走の試みでした。
MUTINY AVERTED (暴動は回避された)
案内板のこの部分は、カウラ事件に至るまでの背景、あるいは他の収容所での状況と対比して記載されている可能性があります。カウラ事件自体が集団脱走という「暴動」に近い行為でしたが、捕虜間での意見の対立や、脱走計画への全員の参加が義務付けられた経緯など、様々な心理的要因も存在しました。 -
ここを通って彼らは自決の選択をした、、、
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※SENTRIES IN BROADWAY(ブロードウェイの監視兵): カウラ捕虜収容所内には「ブロードウェイ」と呼ばれる広い道路があり、収容所の各区画を隔てていました。ここには監視兵が配置され、収容所の監視にあたっていました。
GENEVA CONVENTION(ジュネーブ条約): 捕虜の待遇に関するジュネーブ条約が遵守されており、収容所の生活環境は条約に則って管理されていました。
ESCAPE PLANS HATCHED(脱走計画が練られる): 日本兵捕虜たちは、降伏を名誉の喪失と見なし、この恥を雪ぐために脱走計画を練りました。
GHOSTLY SILENCE(幽霊のような沈黙): 捕虜たちは捕らわれた状態を「幽霊」のようだと感じ、戦うことができない状況に絶望していました。この「幽霊のような沈黙」は、捕虜たちの内面の葛藤を表している可能性があります。
JAPANESE INFORMER(日本人密告者): 脱走計画の噂がオーストラリア当局に届いた背景には、日本兵捕虜の中からの密告者の存在があったことが示唆されています。
UNTIL DAWN(夜明けまで): 脱走は1944年8月5日の夜明け前に決行されました。看板の右側には有刺鉄線の写真や、脱走後の様子を示す写真が掲載されており、事件の緊迫感を伝えています。
この看板は、カウラ事件の背景にある捕虜の心理、当時の収容所の状況、そして脱走に至る経緯などを、簡潔にまとめて展示しています。 -
※この標識は、第二次世界大戦中のオーストラリアにおけるイタリア人捕虜の生活、特に「ITALIAN MESS HUT(イタリア人食堂)」での彼らの文化や食事に焦点を当てています。具体的には、以下の内容が記されています。
PASTA AND GRAPPA(パスタとグラッパ):
イタリア人捕虜たちは、厳しい状況下でも彼らの食文化を維持しようと努めていました。パスタは彼らの主食であり、グラッパはブドウの搾りかすから作られるイタリア特産の蒸留酒で、食後酒として親しまれていました。これは、捕虜たちが故郷の味を再現しようとした努力を示しています。
CULTURAL DIVERSITY(文化的多様性):
捕虜収容所にはイタリア人だけでなく、日本人やドイツ人など様々な国籍の捕虜が収容されており、それぞれの文化が共存していました。イタリア人捕虜は比較的陽気で、ギターを弾いたり歌ったりして日々を過ごしていたと記されており、収容所内の文化的多様性の一端をうかがわせます。
MEAT FOR GRAPPA(グラッパのための肉):
「MEAT FOR GRAPPA」という記述は、グラッパを料理に使う習慣があったことを示唆しています。例えば、グラッパを使った肉料理のレシピも存在し、捕虜たちが創意工夫を凝らして食事を楽しんでいたことがうかがえます。 -
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こちら側はイタリア人捕虜の地区、、、
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何かいろんな物作って捕虜生活を楽しんでた?、、、
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※脱走の経緯: 1944年8月5日午前2時、捕虜たちは「バンザイ」と叫びながら、燃え盛る小屋から飛び出し、鉄条網を乗り越えて脱走を試みました。
警備体制の不備: 監視塔の警備兵は十分な弾薬を持たず、また、脱走が起こる前に日本兵が動き回っているのが目撃されていたにもかかわらず、報告されていませんでした。
結果: 334人の脱走者のほとんどが収容所の東側から脱走に成功しましたが、一部は銃撃で死亡または負傷し、最終的には多くの捕虜が死亡しました。
教訓: この事件は、捕虜収容所の警備体制における問題点と、より効果的な監視および報告の重要性を浮き彫りにしました。 -
脱走
1944年8月5日午前2時、オーストラリアで最初の日本人捕虜となった豊島一がラッパを吹き鳴らし、近代史上最大の脱獄を宣言した。「万歳」の叫びとともに、日本人は燃え盛る小屋から飛び出し、B棟の鉄条網に向かった。第22駐屯大隊の衛兵は小銃で仲間に警告を発し、間もなく、止めようのない敵の「津波」と思われた攻撃に直面した。
日本人は3つの主要なグループに分かれ、死体や毛布を使って鉄条網を突破しようとした。彼らの武装は粗末なもので、その後に続く機関銃掃射の猛攻には到底太刀打ちできなかった。
東へ向かった334人の「脱走者」のほとんどは収容所から脱出した。負傷者も数名いたが、この時点で死亡したのはわずか5人だった。北へ向かったのは、、、 -
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※ハーディとジョーンズ二等兵
二人の意外な英雄
ハーディは47歳で、内気な独身者だった。イギリス軍から除隊となったハーディは45歳で、シドニーで独身だった。彼は熱心な漁師で、イギリス軍の軍人であり、1843年にミュンクル出身の軍人だった。
ヴィッカーズ機関銃
ホリエトの戦いで、百人ほどの絶望的な日本兵が、満足感に浸りながら戦場を去った。
ハーディとジョーンズが10メートル走った時、彼らはパジャマの上に軍用コートを羽織り、激しい銃撃戦を繰り広げた。激しい銃撃戦に巻き込まれ、彼らは戦死した。後に、砲兵は正しく攻撃され、ひどく負傷したと示唆された。
機転が利いた行動が仲間を救った
ハーディとジョーンズは機関銃に辿り着き、陣地を守り、制圧される前に機関銃を無力化した。目撃証言によると、ハーディは機関銃から給弾装置と弾薬ベルトを外したようだ。ヴィッカース砲に慣れていなかった日本軍は、オーストラリア軍に発砲することができなかった。他の警備員がトレーラーに駆けつけ、残っていた日本軍を射殺した。弾薬ベルトに取り付けられていた給弾装置が再び取り付けられ、機関銃はわずか数秒で再び使用可能になった。多くのオーストラリア軍の命が救われ、数年後、ハーディとジョーンズはジョージ・クロス勲章を授与され、名誉を回復した。 -
※降伏前の名誉死
日本人は、いかなる形態の敵への降伏も容認できない、当事者だけでなくその家族全員に恥をもたらすと信じて育てられていた。彼らは、捕虜になるよりも、兵士は最後の弾丸を自爆するか、敵に自爆攻撃を仕掛けるべきだ、という妥協を許さない教義を吸収していた。
1944年8月4日(金)ザムにて、第8収容所の司令官ロバート・ラムゼー少佐は、上級の日本人捕虜に対し、捕虜を分割する計画を進言した。内面的、精神的な苦痛が着実に耐え難いレベルまで増大していた日本人は、長年にわたり、何らかの暴力的な自殺行為を企てていた。彼らを分離するという決定がきっかけとなり、その知らせを受けてから12時間後、捕虜たちは脱出を開始した。この脱出により、日本人捕虜231名とオーストラリア人捕虜4名が命を落とした。
日本人捕虜が所持していた武器は原始的なものだった。薪の山から盗んだ木の杭、包丁、ノミ、園芸用のフォーク、大工のノコギリ、パン切り包丁、斧の柄、バットなどだ。
この脱出の際に、330名以上の日本人捕虜が収容所の境界線を越えて脱走した。彼らは自分の位置も分からず、突然の、そしてしばしば血なまぐさい解放に方向感覚を失い、組織力と指導力の欠如に混乱し、行き場もなく、敵地で生き残るための装備も不十分であるという厳しい現実に直面した。地元の農家にたどり着いた多くの日本人捕虜は、オーストラリア人の家族から親切に扱われ、食料と飲み物を与えられた。
しかし、多くの捕虜は再び捕らわれる危険を冒すよりも死を選んだ。自決は、降伏前に死ぬという旧日本軍の軍訓(戦陣訓)を尊ぶ機会でもありました。カウラ郊外で、迫り来る列車を前に線路に頭を突っ込んだ2人の捕虜が亡くなりました。中には、捕虜になったら銃殺してほしいと懇願する者もいました。
当時の日本軍の文化では、捕虜になることは考えられないことでした。
だからこそ、自発的に投降する日本兵はほとんどいませんでした。捕虜になった者も、負傷や病気で抵抗できないほど衰弱していたか、船が沈没した後に海から引き上げられたことがほとんどでした。
カウラの生存者の多くは、両親や妻、後に結婚した女性たちにさえ、自分が捕虜だったことを告げませんでした。多くの場合、彼らは自分の信念を墓場まで持ち続けました。 1993年、元捕虜で日本のカウラ会会長となった木川正敏氏は、帰国時の彼らの心境を次のように要約した。「かつて捕虜だった者には、戦後も希望のない未来しか残されていないと私たちは考えていました。戦後、日本に帰国した元捕虜のほとんどは、無人島のような荒れ果てた場所に連れて行かれ、日本軍に射殺されるだろうと考えていました。捕虜が日本社会に復帰できる望みはないと考えていました。」
しかし、帰国後の数年間で、かなりの数の元捕虜の意識が変わり、カウラでの出来事に関わったことに誇りを持つようになった。カウラ・カルは1964年10月に結成され、生存者間の連帯感を育むことを目的としていました。メンバーは毎年、カウラ脱走事件の記念日に日本で会合を開き、カウラで亡くなった人々の墓参りを始めました。 -
、、、捕虜となった日本兵、、絶対本名は名乗らず、偽名を使ったと聞きます。
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「かつて捕虜だった者には、戦後も希望のない未来しか残されていないと私たちは考えていました。戦後、日本に帰国した元捕虜のほとんどは、無人島のような荒れ果てた場所に連れて行かれ、日本軍に射殺されるだろうと考えていました。捕虜が日本社会に復帰できる望みはないと考えていました。」
んー、、、 -
命をかけて敵に突っ込んでいった特攻隊、捕虜となって自決を選んだ若者日本兵、そして、せっかく行き長らえても負い目を感じてしまう日本兵、、、。
そこまでして戦ったのは何のためなのか、わからなくなっちゃいました。 -
日本人墓地に向かいます、、、。近くに公園がありました。
※九州電力の元会長である永倉三郎氏が、カウラの日本人戦死者墓地が大切に維持されていることに感銘を受け、私財を投じて整備したものです。
1992年に設置され、和風パーゴラや造園が施されており、カウラの素晴らしい眺めを提供しています。
公園には遊具、無料のバーベキュー設備、ピクニック施設、公衆トイレが完備されています。 -
現地の小さな子供を連れたお母さんがここに来ていました。暗い気持ちも子供のはしゃぎ声を聞いてると、なんだか少しだけ、、、
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この道をまっすぐ行きます、、、
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日が落ちてきました。
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日本人墓地、、、やっと辿り着きました。
※この墓地は、1944年のカウラ脱走事件で亡くなった日本兵231名と、第二次世界大戦中にオーストラリアで亡くなったすべての日本国民の遺骨が納められています。
1964年に設立され、オーストラリアに残る唯一の日本人戦争墓地です。
墓地全体には523の墓があり、隣接するオーストラリア人戦争墓地には、カウラ脱走事件で亡くなったオーストラリア兵4名などが埋葬されています。
この墓地は1963年にオーストラリア政府から日本国に寄贈されましたが、現在はオーストラリア戦争墓地委員会の管理下にあり、日本政府の主権が及ぶ土地ではありません。 -
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※このサインは、オーストラリアのカウラにある**カウラ戦争墓地(Cowra War Cemetery)**についての案内板です。特に、**オーストラリア戦争墓地(Australian War Cemetery)と日本人戦争墓地(Japanese War Cemetery)**の両方について説明がされています。
サインの主な内容は以下の通りです。
カウラ日本人戦争墓地の歴史と背景: 第二次世界大戦中にオーストラリア国内で亡くなった日本人戦争捕虜と日本人民間人抑留者が埋葬されており、その中には1944年のカウラ捕虜収容所での集団脱走事件(カウラ・ブレイクアウト)で亡くなった日本兵も含まれています。
墓地の設立: 1959年にオーストラリアに戦争墓地を設置する決定がなされ、1962年にカウラがその場所に選ばれました。オーストラリア各地に散在していた日本人墓は、1964年にカウラに改葬され、日本人戦争墓地が開所しました。
墓石と情報: 墓地には523基(または524基)の墓があり、それぞれの墓石には氏名(ローマ字)、死亡年月日が刻まれていますが、当時の事情により偽名が使われていることもあります。
オーストラリア戦争墓地: カウラ脱走事件で死亡したオーストラリア兵士や、訓練中、病気で命を落としたカウラ出身の他の軍人が眠る場所です。
カウラ日本人戦争墓地データベース: 埋葬されている人々の親族が状況や経緯を確認できるよう、オーストラリア国内の資料を調査し、氏名別のデータベースが構築され、ウェブサイトで公開されています。
このサインは、カウラという地が日豪両国にとって歴史的に重要な意味を持ち、和解と友好の象徴となっていることを伝えています。 -
この旅2つ目の目的地です。
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※この画像は、カウラの帰還兵と奉仕者連盟(RSL)による、第二次世界大戦中のカウラ脱走事件で亡くなった日本人兵士の墓地の管理と和解への道のりに関する情報板です。
1948年、RSLのプレジデントであったアブ・オリバーは、第二次世界大戦の退役軍人にもかかわらず、カウラ脱走事件で亡くなった日本人兵士の墓地の管理を引き受けるという画期的な決定を下しました。
この決定は、オリバーが戦争中に目にしたオーストラリア軍兵士の墓地の維持管理に感銘を受けたことに端を発し、RSLメンバーのアルフ・カウリーやキース・テルファーらの協力を得て、日本人墓地の包括的な整備が進められました。
1955年には日本大使館からの要請を受け、日本政府との間で、オーストラリア各地に散在していた日本人遺骨をカウラに集約し、拡張された戦争墓地を建立する計画が具体化しました。
この取り組みは、1964年11月22日のカウラ日本人戦争墓地開園という形で結実し、和解への重要な一歩となりました。 -
慰霊に来ることができました。
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合掌、、、
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「H.I.H PRINCE MIKASA」と刻まれてます。故三笠宮崇仁親王殿下(昭和天皇の弟君)が植樹したもののようです。
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KANASHIRO, SATORU
1946年4月26日
56歳 -
墓碑が並んでいます、、、カウラ事件で亡くなられた英霊の方々を見つけたいと思い、、、
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UNKNOWN JAPANESE AIRMAN (身元不明の日本人パイロット)
4-4-1943 (1943年4月4日) -
※画像は、第二次世界大戦中にダーウィン上空で失われた3機の航空機に搭乗していた、身元不明の日本人海軍航空兵12名の遺骨が埋葬されている墓地の記念碑です。
詳細: 1942年4月4日に2機、1943年7月6日に1機、合計3機の航空機が失われました。
航空兵の氏名: 各航空機で失われた航空兵の氏名が記されています。
回収された遺体の数: 各航空機で回収された遺体の数が記載されています(3名、6名、3名)。
結びの言葉: 「May they Rest in Peace」(安らかに眠らんことを)という言葉で締めくくられています。 -
※墓石には「DEBA, TOKIMA」と「KOJIMA, KOTARU」という名前と、いずれも「5-8-1944」という日付が刻まれています。
カウラ日本人戦没者墓地は、第二次世界大戦中にオーストラリアで亡くなったすべての日本人捕虜の遺骨を収容しています。
特に1944年8月5日には、カウラ捕虜収容所で大規模な脱走事件「カウラブレイクアウト」が発生し、多くの日本兵が亡くなりました。
この墓石に刻まれた日付「5-8-1944」は、カウラブレイクアウトが発生した日を示しており、これらの人物がその事件で亡くなった可能性が高いことを示唆しています。
写真には撮りませんでしたが、1944年8月5日。カウラ事件で亡くなられた方の墓碑がずらーっと並んでいました。
合掌、、、 -
※この説明板には、以下の情報が記載されています。
目的: 国際理解を深めるために、この桜並木が植樹されたこと。
歴史: 第二次世界大戦中の捕虜収容所の跡地であること、そして日本とカウラの友好関係を象徴していること。
植樹の経緯: 日本から贈られた桜の木が1988年7月に初めて植えられたこと。
貢献者: このプロジェクトに貢献した個人や団体(大使、外交官、州・地方政府関係者など)の名前が記されています。 -
植樹されてる木はアメリカハナズオウという木だそうです。春には鮮やかなピンク色の花を咲かせるそうです。花言葉は「希望」、、、。
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ちょうど夕暮れとなってきました。間に合って何よりでした。
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てくてく、今夜の宿へ、、、。宿はCivic Motor Inn。
1泊9600円程。カウラに安宿はない。 -
で、今夜のディナーはタイレストランにて。
もう、カウラに着いた時から絶対あのタイレストランに行こうと決めてました。
オーストラリアに来てタイ飯、、、我慢できない自分です。 -
タイ飯で一番大好きなグリーンカリー!うめー、旨すぎる!ご飯もう一杯頼んじゃいました。
長くなったのでここまで、、、。
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