2025/08/17 - 2025/08/19
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kasekunさん
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ツバル、キリバス、マーシャル諸島と、環礁国家を訪問したあとは、、、。最初の予定では、コスラエ→ポンペイ→チュークとアイランドホッピングする予定だったが、年休もなくなり、また、航空便もちょうどポンペイへの直行便しかなく、コスラエ、チュークは諦めることに。また、いつかの機会に、ヤップも含めて再訪したいと思う。
ポンペイ、、、やはり昔の日本が濃厚に残っていました。特に自分、醤油の凄さを再発見!ここでも雨にやられはしましたが、パラオ同様、日本を感じられて、楽しく過ごしました、、、。グアム行きの手続きに焦りはしましたが、、、、。
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日付は8月17日。マーシャル諸島共和国を飛び立ち、、、。この旅最後の訪問先はミクロネシア連邦へ。
その後、グアム(ちょっとだけ町に行ってみた。)や韓国にも寄ったが、トランジット。実質、ここが最後、、、。 -
さて、ミクロネシア連邦ポンペイ州が見えてきました。
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ポンペイ島は今までのような環礁ではない。山があり、海があり、普通の島国。2050年にももちろん存在しているだろう国家。
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日本とは今まで訪れた島国の中でも、群を抜いて関係が深い国。
台湾、韓国、北朝鮮、南樺太(現ロシア)は旧日本領土。 -
一方、現ミクロネシア連邦は1914年第一次世界大戦時、ドイツ領だったこの現在ミクロネシア連邦となった地を占領し、そして1920年、国際連盟承認の下、日本の委任統治領となった。
同じような所が、現パラオ共和国、現マーシャル諸島共和国、それから、現米領北マリアナ諸島だった。
※サイパン島は日本の委任統治領、グアムは米領、、、今でこそどちらも米領だが、グアム島は開戦時に日本軍が占領した。すごく近いのに、歴史が違うのだ。 -
ポンペイ国際空港に到着!
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※この画像は、ミクロネシア連邦のポンペイ国際空港です。
ポンペイ国際空港は、ミクロネシア連邦の首都があるポンペイ島に位置しています。
空港の建物は、伝統的な建築様式を取り入れた特徴的なデザインをしています。
ポンペイ島は、ミクロネシア連邦を構成する4つの州のうちの1つです。
ポンペイ島は、人口約34,000人の小さな島です。 -
※公用語はポンペイ語と英語です。
ポンペイ語は、ミクロネシア連邦ポンペイ州で話される言語で、ミクロネシア諸語に属します。英語と並んでポンペイ州の法定言語であり、約3万人の話者がいます。日本語の影響も受けており、過去には多くの日本語からの借用語が取り入れられました。
特徴と概要
言語系統:ミクロネシア諸語に属します。
話者:主にポンペイ島とその周辺の島々に居住するミクロネシアの人々です。
話者数:ミクロネシア連邦全体で約29,000人と言われています。
公用語:ポンペイ州の法定言語であり、英語と共に学校や家庭で使用されています。
借用語:英語(500語超)や日本語(400語程度)など、諸外国からの借用語が多く見られます。特に日本語の影響は大きく、過去には多くの日本語からの外来語がポンペイ語に取り入れられました。
その他
ポンペイ島名の由来:ポンペイ語で「石積み (pehi) の上に (pohn)」を意味し、島の地形に由来します。
地域性:英語が共通語として広く使われる一方で、島内ではポンペイ語が各地域で独自の文化を支える言葉となっています。 -
ちなみに、、、
※ポンペイ語の「こんにちは」は「カセレーリエ」(Kaselehlie)です。これは、人と会った時も別れる時も使える便利な挨拶の言葉です。
発音:カセレーリエ
意味:こんにちは
ニュアンス:「さようなら」として使う場合は、「また会いましょう」「それまでお元気で」といった意味合いも含まれます。 -
※ポンペイ国際空港は、ミクロネシア連邦のポンペイ島にある国際空港です。空港の滑走路延長やターミナル設備の改善プロジェクトは、日本の支援によって行われました。画像に写っているプレートは、このプロジェクトを記念して設置されたものと考えられます。
空港名: ポンペイ国際空港 (Pohnpei International Airport)
場所: ミクロネシア連邦ポンペイ島
日本の関与: 日本政府は、ポンペイ国際空港の滑走路延長およびターミナル施設改善プロジェクトに対し、約2,900万ドル(約30億円)を供与しました。これにより、B737型機が全積載量で離陸する際の重量制限などの問題が解消されました。
プロジェクトの期間: 2009年に開始され、2011年に完了しました。 -
ポンペイ国際空港!
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※この画像は、ミクロネシア連邦ポンペイ島の「ソケーズ・ロック」と呼ばれる岩山を撮影したものです。
ポンペイ島は、ミクロネシア連邦を構成する4つの州のうちの1つです。
ソケーズ・ロックは、ポンペイ島の州都であるパルキールから北東に位置しています。
ポンペイ島には、ユネスコ世界遺産に登録されている「ナン・マトール遺跡」もあります。 -
てくてく町に向かいます、、、。
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天気はあまりよろしくない、、、。
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なんだかいい風景なのでパチリ!
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PLEASE DO NOT LITTER!(ゴミを投げないでください、、、あえて北海道弁で、、、)
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※画像はミクロネシア連邦のポンペイ島にある**ウルティー・ハーバー(Wurutiy Harbor)**だと考えられます。
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※この画像は、ミクロネシア連邦のポンペイ島にある看板です。看板には「WELCOME TO POHNPEI Garden Island of Micronesia」と書かれています。
ポンペイ島はミクロネシア連邦の4つの州の一つです。
「ミクロネシアの楽園の島」を意味する「Garden Island of Micronesia」という愛称で知られています。
ミクロネシア連邦の首都パリキールはポンペイ島にあります。 -
なんだかフィジーみたい、、、
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町に到着!
※この画像は、ミクロネシア連邦のポンペイ島で撮影されたものと考えられます。
ミクロネシア連邦は、ポンペイ州、チューク州、ヤップ州、コスラエ州の4つの州と607の島々からなる連邦国家です。
ポンペイ島はミクロネシア連邦の首都パリキールが置かれている島です。
画像に写っている「One Mart」という看板は、ポンペイ島にあるスーパーマーケットの名前です。
ポンペイ島は、自然に恵まれ、ユニークな文化やマリンアクティビティが楽しめる場所として知られています。 -
JICA発見!
※この画像は、ミクロネシア連邦のポンペイ島にあるJICA(国際協力機構)ミクロネシア事務所の建物を捉えたものです。
JICAミクロネシア事務所は、ミクロネシア連邦の首都があるポンペイ島に位置しています。
看板には「JICA MICRONESIA OFFICE」と書かれており、その下には「J&K Professional Building」と建物の名前が記されています。
JICAは、開発途上国への国際協力を行う日本の政府機関です。
この建物の1階には、ミクロネシア連邦の財務省(DEPARTMENT OF FINANCE & ADMINISTRATION)の看板も見えます。 -
で、日本料理レストランのあるジョイホテルに泊まろうと考えてたんですが、、、。
やってませんでした。数ヵ月前、予約しようとメール送って料金いくらなのか問い合わせたものの、まだ8月は決まっていないとのご返答。当日でも泊まれるのかなと思ってたんですが、閉館してました。
廃業したのか?休館してるのか詳細はよくわかりません。
さあて、どこに泊まろう? -
お腹減ったので、近場のカフェ(Café Ole)でランチタイム!
たしか、ポークなんとかを頼んだ、、、。そしたら、この豚肉ステーキが、、、。?ソースがかかってなく、もしかして醤油かけて食べるのか?
そしたら、、、
こいつがなんまらうまかったー!お肉に醤油って合うんですね。驚きでした。これで飲み物合わせて15ドルぐらいだったかなあ? -
郵便局、、、
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WWII Japanese Tank!
※画像は、ジャングルの中に放置された、錆びついた旧日本軍の九七式中戦車(チハ車)と見られる物体を捉えています。
この戦車は、第二次世界大戦中に日本軍が使用した主力戦車の一つです。
画像に写っているのは、フィリピンのルソン島にある可能性が高いです。
この戦車は、戦後70年以上が経過しており、自然に還りつつある状態です。
隣に駐車している軽トラックは、戦車の大きさを比較するのに役立っています。 -
※この画像に写っているのは、ミクロネシア連邦のポンペイ島に残されている旧日本陸軍の「九五式軽戦車」です。
九五式軽戦車は、1935年に開発された旧日本軍の戦車で、太平洋戦争で活躍しました。
ポンペイ島には、第二次世界大戦中に米軍の侵攻がなかったため、戦車が比較的良い状態で残されています。
一部の車両は、日本に帰還させるためのプロジェクトによって修復されています。
これらの戦車は、ポンペイ島における戦争遺跡として、観光客にも見学されています。
→そう、ポンペイ島には米軍は侵攻しなかった、、、。飛び石作戦ですね。 -
コロニアの町並み、、、
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ホテル探し回って、、、たしかここが7 スターズ・イン & リバーサイド・レストラン、、違うかも?(違いました。ここが泊まったホテルYvonne´s Hotelでした。)
ちなみに7 スターズ・イン & リバーサイド・レストラン、、安いルームで1泊$78.75。
https://7starsinn.com/home/rooms/
でも、フルでした!人気の宿みたい、、、。さあて、困った、、、。 -
マップスミーに出るゲストハウスなる所に行ってみるも、そんな宿はなく、、、宿探し4件目でやっと宿泊できました。
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その宿は、マップスミーに出ていたYvonne´s Hotel、、、近場のレストランはどうやら廃業したみたい。でも1泊シングル60ドルで泊まれました。
ここで予約できるみたい、、、
https://www.yvonneshotel.com/reservations -
ポンペイでは安い方かも?自分、寝れればいいだけなので、、、。飛び込みで泊まれてラッキーでした。
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宿も決まって、散策開始!
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港、、、
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津波の標識発見!
※この画像は、津波発生時に避難場所へ向かうための津波避難誘導標識です。
津波避難誘導標識は、津波の危険がある場所に設置され、避難場所や避難経路を示しています。
津波の発生が予想される場合、この標識が示す方向に沿って高台などの安全な場所へ速やかに避難することが重要です。
「津波避難場所」の標識には、津波の波を模したピクトグラムが使用されることがあります。 -
なんか素敵な教会を発見!
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※ミクロネシア連邦のポンペイ島にあるコロニア・プロテスタント教会です。この教会は、1920年代に日本が統治していた時代に建てられました。
ポンペイ州の州都コロニアに位置しています。
ドイツ植民地時代に建てられた旧ルター派教会が、1920年代に日本の南洋庁によって再建されました。
コンクリート造りの建物で、ゴシック様式の特徴を持つユニークなデザインです。
ドイツ植民地時代と日本統治時代の歴史を物語る、ポンペイ島の重要な史跡の一つです。 -
重厚な教会のようです、、、
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スーパーマーケットに入ってびっくり!
※画像は、日本の食料品が並ぶスーパーマーケットまたは食料品店の棚を示しています。
棚には、レトルトカレー(「ジャワカレー」)や麻婆豆腐の素(「Mabo Tare」)など、さまざまな種類の日本の食品が陳列されています。
多くの商品は、日本語で書かれたパッケージで販売されています。
まるで日本のスーパーです! -
ミクロネシア連邦といえば、スパム!
※画像には、棚に並べられた多数のランチョンミートの缶詰が写っています。その中でも特に目立つのが「SPAM」ブランドの製品です。
SPAMの種類について
SPAM(スパム)は、ホーメル社が製造するランチョンミートの缶詰で、さまざまな種類があります。日本で一般的に流通しているものには、以下のような種類があります。
スパム レギュラー: オリジナルの味付け。
スパム 25%レスソルト: 塩分を25%カットした減塩タイプ。
スパム ベーコン: ベーコン風味。
スパム ハラペーニョ: ハラペーニョの風味が効いたスパイシーなタイプ。
スパム ヒッコリースモーク: ヒッコリーのスモーク風味。
スパム テリヤキ: 照り焼き風味。
ハワイでは、年間およそ700万缶が消費されるソウルフードとして知られており、さまざまなフレーバーが販売されています。また、日本では沖縄県でも人気があり、ホーメル社のスパムの他に「TULIP(チューリップ)」というメーカーのポーク缶も人気があります。 -
ラーメンも豊富!
※画像は、アジア系の食品を扱うスーパーマーケットの棚を写したものです。主にインスタントラーメンや乾麺、お菓子などが陳列されています。
棚には様々な種類のインスタントラーメンが並んでいます。
下段には、袋入りの乾麺やスナック菓子のような商品が見えます。
「Asian Pride」という文字が書かれた商品パッケージが確認できます。
商品は主に赤やオレンジ、白のパッケージが多く、賑やかな印象です。
日本の食文化はこの地でもかなり定着したようです。
で、この日はここまで。宿に帰って、次の訪問地グアムの G-CNMI ETA 取得に奔走、、、。
○グアム-北マリアナ諸島連邦電子渡航認証「G-CNMI ETA」の申請ウェブサイト
https://g-cnmi-eta.cbp.dhs.gov/
すぐに取得できるものと思ってたら、、、。なかなか厄介、、、。ステータスが「保留」にされ、、、。困った困った!もしかして、C国INがバレちゃった?と思ったけど、、、
めんどくさくなって、職業を「無職」にしたのがいけなかったみたい。ちゃんと職業、職場の電話番号等入力したら、無事ETA取得できました。 -
日付は8月18日。朝から散策開始!
まずは、、、Japanese WW2 Tank Graveyard!
これ、見たかったんです!でも、ここに行く時にも軽い犬との戦いが、、、。困ったものです。 -
※画像に写っているのは、旧日本陸軍の「九五式軽戦車」の残骸です。この戦車は、日本戦車として最も多く生産された車両の一つです。
九五式軽戦車は、太平洋戦争中に日本軍が展開したすべての地域で運用されました。
画像に写っているような、終戦時に現地に残された車両も多く存在します。
現在、日本国内には九五式軽戦車は一台も現存していませんでしたが、近年、海外から買い戻された車両が日本に帰国し、動態保存されるプロジェクトが進行しています。
このプロジェクトで日本に帰国した車両は、ミクロネシア連邦のポンペイ島で終戦を迎えた後、イギリス人コレクターに売却されていました。 -
※ポンペイ島は太平洋戦争中に地上戦が行われなかったため、十数台の九五式軽戦車が終戦時のまま残されています。
これらの戦車は、日本に返還されて修復されたものもあります。
九五式軽戦車は、1936年から1943年にかけて製造された戦車で、第二次世界大戦で広く使用されました。
ミクロネシアは、かつて日本の委任統治領でした。 -
※画像に写っているのは、旧日本陸軍の九五式軽戦車です。この戦車は「ハ号」という秘匿名称で呼ばれていました。
九五式軽戦車は、1935年(昭和10年)に日本陸軍が制式採用した軽戦車です。
第二次世界大戦を通じて使用され、日本戦車の中で最も多く生産されました(2,300両以上)。
開発当時は、機動力を重視した「機動戦車」として、歩兵に随伴して軟目標を攻撃するのに有用でした。
画像のような、戦後にブルドーザーに改造された車両も存在し、「更生戦車」と呼ばれていました。 -
ポリスマンが交通整理! ミクロネシア連邦に信号機はなかったような、、、 AI に聞いてみたら、、、
※ミクロネシア連邦には、公式な交通信号機はありません。
米国国務省の旅行情報によると、ミクロネシア連邦では道路状況が悪く、街灯や信号機がほとんどないため、車の運転は危険を伴います。
主な交通状況は以下の通りです。
ほとんどの道路に舗装がされておらず、雨が降った後には状態が悪化します。
歩行者や動物が路上を歩いていることがあります。
ドライバーの運転技術にはばらつきがあります。
夜間の運転は特に注意が必要です。
→やはりなかった! -
腹が減ったので朝飯!ミクロネシア連邦、ハワイといえば、、スパムおにぎり!
セブンイレブンでいえば、照り焼きソーセージおにぎり! -
※この画像は、ミクロネシア連邦の首都パリキールがあるポンペイ島の風景です。
ポンペイ島はミクロネシア連邦の4つの州のうちの1つ、ポンペイ州に属する島です。
「ポンペイ」という名前は、ポンペイ語で「石積みの上の」を意味します。
ポンペイ島は世界で2番目に雨の多い島として知られており、その恵みにより豊かな緑に覆われています。
第一次世界大戦時には日本の統治下に置かれ、多くの日本人が移住した歴史を持ちます。 -
※検索結果によると、この価格は1ガロンあたりの米ドル価格である可能性が高いです。2025年9月時点のデータでは、パヌエロ・ガス・ステーションのディーゼル価格は1ガロンあたり5.950ドル、ガソリン価格は5.500ドルと報告されています。なお、別の情報源では、2025年3月時点のポンペイのガソリン価格は1ガロンあたり4.90ドルから5.35ドルであったとされています。
ガソリン1ガロンで5.35ドル。1ガロン=約3.785リットルとのことなので、
3.785Lで約800円。1Lは約210円。日本の方が安い! -
※写真に写っている場所は、ミクロネシア連邦ポンペイ島にあるソケース・ロック(Sokehs Rock)とポンペイ島北部の港周辺の風景です。
ソケース・ロックは、ポンペイ島のソケース半島にある巨大な岩山で、島の象徴的なランドマークとして知られています。写真の湾内にはヨットが停泊しており、その景観を望むことができる「オーシャン ビュー プラザ ホテル(Ocean View Plaza Hotel)」という宿泊施設も存在します。 -
あの山に登ります!てくてくてくてく、、、
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さあ、いくぜ!
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途中、教会発見!
※この画像は、ミクロネシア連邦のポンペイ島にあるセント・ピーター教区(St. Peter Parish)の教会です。
ポンペイ島は、ミクロネシア連邦の首都パリキールがある島です。
かつてはポナペ島と呼ばれていました。
19世紀から20世紀にかけて、スペイン、ドイツ、日本、アメリカによる統治時代があり、キリスト教の布教も行われました。
ポンペイ島は、熱帯雨林に覆われた豊かな自然から「太平洋の花園」とも呼ばれています。 -
ジャングルですね。
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まだまだ先は長い!
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※画像は、津波に備えるための標識です。
**「BE TSUNAMI SMART」**というタイトルで、津波の危険性とその兆候について警告しています。
津波の兆候として、「非常に強いまたは長い揺れを感じる」「海で異常な音を聞く」「海から異常な引き潮を見る」の3つが挙げられています。
これらの兆候が見られた場合、「すぐに高台へ避難する」ように促しています。 -
ここがJapanese Road!
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この花は、、、ヒギリかな?
ヒギリ(緋桐、学名: Clerodendrum japonicum) はシソ科クサギ属の低木。原産地はインドなどの熱帯アジア。花が赤くて美しいことから古くから栽培されてきた。和名は緋桐で、別名にトウギリ(唐桐)がある。中国名は、赬桐。
Japanese Roadだからjaponicumを植えたのか? -
廃車がズラーっと並んでました。
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竹林発見!ポンペイにもあるんですね!北海道人には竹は珍しいのです。
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こんな山道をてくてくてくてく、、、
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バナナ発見!
※バナナの木と花について
画像に写っているのは、バナナの木に咲いている花と、その上部で成長し始めている若いバナナの実です。バナナは木のように見えますが、実はバショウ科に属する多年草です。幹のように見える部分は、何枚もの葉が重なり合った「偽茎」または「仮茎」と呼ばれるものです。
バナナの花は、赤い苞(ほう)に包まれており、成長するにつれて苞がめくれて中にある蕾が現れます。花は下向きに咲き、バナナの実が成長すると枯れていきます。
バナナの成長と栽培のポイント
収穫時期: 花が咲いてから70日~100日程度で収穫が可能になります。ただし、秋から冬にかけて花が咲いた場合は、収穫までに100日~160日ほどかかることがあります。
摘花: バナナの実を美味しく育てるためには、ある程度花が咲き進み、一番下の実が上向きになった段階で、その下の花を切り落とす「摘花」という作業が必要になります。
利用: バナナの花は「バナナハート」とも呼ばれ、食用にされることもあります。加熱せずに食べたり、炊き込みご飯や炒め物、煮込み料理などに使われたりします。
花も食べられるとは知らんかった! -
※この画像に写っているのは、**フクジンソウ(福神草)**という植物です。別名では、オオホザキアヤメ(大穂咲き菖蒲)やコスツス・スペキオススとも呼ばれます。
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ほんとにジャングル!
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これこそミクロネシア連邦の風景!
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てくてくてくてく、、、遠くの方から犬の遠吠えが、、、また、戦わなければならんのか?
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対馬のような風景、、、
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ソーカーズ・リッジ 第二次世界大戦記念公園へようこそ!
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看板はあったものの、まだまだ登ります、、、。
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だんだん空模様が、、、。
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まだか、、、
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上の方からこんな車が、、、。巡回してるのかな?
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ようやく到着!こちらの犬はまだそんなに狂暴ではない。何頭かに吠えられはしたものの、襲っては来なかった、、、。
※写真に写っているのは、「WAR IS THE GREATEST HARDSHIP(戦争は最大の苦難)」と書かれた歴史的な看板です。この看板には、戦争中の人々の苦難や、山にある対空・沿岸砲台(Anti-Aircraft Coastal Battery)についての言及が見られます。 -
ただ、第2の敵、スコールが襲いかかってきまして、こちらで雨宿り、、、。
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小降りとなった頃に散策再開!日本軍の塹壕があちこちあります、、、
※画像は、熱帯のジャングルや森の中にある、泥だらけの開けた場所を捉えたもののようです。
地面はぬかるんでおり、最近雨が降ったことを示唆しています。
周囲には背の高い木々や豊かな植生が見られます。
中央には、朽ちた丸太か岩のようなものが横たわっています。
奥には、木々の間に何らかの構造物(おそらく古い建物の一部)が見えます。 -
ソケースマウンテンにある旧日本軍の戦車(九五式軽戦車)の残骸、、、
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なんかしらんけど、穴凹発見!
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※この画像は、ミクロネシア連邦のポンペイ島に現存する大砲の残骸です。
これは第二次世界大戦中に日本海軍が設置した砲台の跡です。
ポンペイ島は、第一次世界大戦後に日本が統治を始め、多くの日本人が移住した歴史を持ちます。
太平洋戦争時には日本海軍が駐屯し、爆撃を受けるなど、日本とゆかりの深い島です。 -
なんか書かれてるけど読めません、、、
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※この画像は、ミクロネシア連邦ポンペイ島にあるソケース・マウンテンのトレッキングコース途中にある、第二次世界大戦の戦跡(大砲高射砲台)です。
ソケース・マウンテンは、コロニアの町から車で10分ほどの場所にあります。
頂上までのトレッキングコースでは、花や植物を楽しみながら進むことができます。
このコースは、往復で約3時間かかります。
ミクロネシア連邦には、チューク諸島(旧トラック諸島)など、他にも多くの第二次世界大戦の戦跡が残っています。 -
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今はきれいな花と一緒に保存されている。
※画像に写っている紫色の花はカトレアの一種です。
カトレアは中南米を原産とするラン科の植物で、美しい花を咲かせることから「洋ランの女王」とも呼ばれています。
花の色は紫色、薄いピンク色、白色などさまざまです。
カトレアという名前は、イギリスの園芸家ウィリアム・カトリーに由来します。
カトレアは着生植物であり、樹木や樹皮の上で育ち、そこから栄養分を吸収することはありません。 -
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?
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※これは第二次世界大戦中に日本軍が建設したトーチカ(防禦陣地)である可能性が高いです。
熱帯のジャングルで草木に覆われたこのコンクリート製の構造物は、太平洋戦争の激戦地となった多くの島々で見られる戦跡と類似しています。このようなトーチカは、海岸線や丘陵地帯に建設され、迫りくる敵軍を迎え撃つための銃眼や、爆弾の破片から身を守るための厚いコンクリート壁を備えていました。
多くの戦跡は、時を経て自然に埋もれつつあり、戦争の記憶を伝える貴重な歴史的遺産となっています。 -
※ジャングルの中に建つコンクリートの構造物は、太平洋戦争の遺跡、特に旧日本軍の砲台跡である可能性が高いです。
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雨でぐじゃぐじゃの道、、、まだ、何かあるようなので、マップスミー頼りにいってみます。
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たぶんBomb Crater、、、
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そうそう、この日は誰もいませんでした。帰る頃、やっと1組の白人グループと出会いました。
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通信塔?
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※この画像は「THE END OF THE WAR(戦争の終結)」と題された看板を写したものです。看板には、第二次世界大戦の終結に関する文章と写真が掲載されています。
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高台から一望!
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鉄塔!
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?なんでこの写真撮った? 既にわすれてます。
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ジャングルの中、、、道は続いています。
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?
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?
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※画像は、屋外に設置された解説板のように見えますが、文字が風化や汚れで判読不能なため、内容を特定することはできません。
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?
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なんかの穴発見!
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カエル発見!
※画像に写っているのはオオヒキガエルです。オオヒキガエルは特定外来生物に指定されており、日本では生態系に悪影響を及ぼすとして問題視されています。
中南米原産の大型のカエルで、日本では小笠原諸島や沖縄県などに分布しています。
耳の後ろにある大きな毒腺から強力な毒を分泌します。この毒によって、オオヒキガエルを捕食した動物が死に至ることもあります。
昆虫だけでなく小型の動物まで捕食するため、在来の生態系に大きな影響を与えます。
日本では外来生物法により、飼育、保管、運搬などが禁止されています。
触らんくてよかった! -
※画像は、掩体壕(えんたいごう)の内部から外を撮影したもののようです。掩体壕は、第二次世界大戦中に旧日本軍が航空機や武器を敵の攻撃から守るために建設したコンクリート製の格納庫で、画像に写っているのはその内部の壁と、外に置かれた砲台のようなものです。この場所に関する詳細な情報は画像からは特定できませんでした。
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大砲みっけ!最初、よくわからんかったが、こんなところに大砲が、、、。
※この画像は、ミクロネシア連邦チューク州にある、第二次世界大戦時の旧日本軍の砲台跡の可能性があります。
チューク環礁は、天然の要塞として旧日本軍の南洋における重要な拠点でした。
環礁内には、旧病院跡、海軍通信隊跡、公学校跡、砲台跡など、戦争の遺産が数多く残されています。
これらの遺跡は、当時の日本の存在感や戦争の激しさを知る貴重な場所とされています。
→ここはチューク環礁じゃないけど、、、。やっぱりチュークにも行きたくなりました。 -
※この構造物は、高射砲の砲身の残骸である可能性が高いです。
画像に写っている苔むしたコンクリートの土台と、そこから突き出た錆びた金属のパイプは、第二次世界大戦中の高射砲の砲台跡の特徴と一致します。このような遺跡は、戦跡を保存している記念公園などで見ることができます。 -
こうやって見つかりにくくしてたんですね。
-
??Rifle Pit?マップスミーにはそう出てる、、、
※「ライフルピット」とは、主にライフル兵が敵を狙撃するために掘られた浅い塹壕や掘削のこと。 -
ここも?Rifle Pit?
-
、、、ここも?
-
、、、
この辺りは道なし。適当にジャングルの中、マップスミー頼りに歩き回っています、、、ナウルの探検よりもずっと楽チン! -
、、、
-
、、、
-
ここで山は終わり、、、。
-
てくてく登ってきた道を戻ります、、、
雨は上がってなにより! -
天気もよくなってきました!
-
いい風景です!
-
あそこに行ったんです!
-
さて、朝スパムおにぎり買った処でランチ!
お店でルートビア買って、、、
※この画像に写っているのは、シャスタ社のルートビアです。
ルートビアは、サルサパリラという植物の根や根茎を原料にした、アメリカ発祥の炭酸飲料です。
アルコールは含まれていません。
シャスタのルートビアは、一般的に「クラフトスタイル」と表現されることがあります。
オンラインストアや輸入食品を扱う店舗などで購入できる場合があります。 -
通りで売られてた弁当食います!
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コロニアの街中散策!
壁、、、、Spanish Wall Park! -
※この画像は、ミクロネシア連邦のポンペイ州コロニアにある「KOLONIA-CHINA FRIENDSHIP CENTER」(コロニア・中国友好センター)を示しています。
この施設は、中華人民共和国大使館からの資金提供により建設されたもので、地元住民のための運動施設や主要なイベント会場として利用されています。また、このセンターは、中国とポンペイの人々、ひいてはミクロネシア連邦全体の人々との友好関係を象徴する新しい場所となっています。 -
※この画像は、ミクロネシア連邦ポンペイ島のコロニアにあるカトリック教会の鐘楼跡です。
この鐘楼は、スペイン植民地時代に建てられたもので、ドイツ植民地時代に修復されました。
ポンペイ島は、19世紀末にスペインからドイツへ、そして第一次世界大戦後は日本の委任統治領となりました。
この鐘楼は、島の歴史を物語る重要な史跡となっています。 -
※この画像に写っているのは、ミクロネシア連邦ポンペイ州コロニアにある「慈悲の聖母教会(Our Lady of Mercy Parish Church)」の鐘楼です。
この鐘楼は、スペイン統治時代に建てられた教会の一部です。
第二次世界大戦で教会は破壊されましたが、この鐘楼だけが残りました。 -
学校発見!
※画像内の看板には、「WELCOME TO THE MABINI LEARNING CENTER, HOME OF THE BEES」と書かれています。
看板の横にある黄色のバナーは、おそらく学校のクラブ活動に関連する「Go Local Club」のものです。 -
ポナペのカトリック教会発見!
※ミクロネシア連邦のポナペ島にはカトリック教会が複数存在します。画像に写っている教会は、ポナペ州の州都コロニアにある教会である可能性が高いです。この地域では、カトリック教会のほかにプロテスタント教会なども存在しています。 -
※この画像は、ミクロネシア連邦ポンペイ州コロニアにある「ポンペイのロザリオの聖母教会(Our Lady the Rosary Pompeii Church)」です。
1939年から1940年にかけて、イタリア人コミュニティによって建設されました。
ヴェネト州トレヴィーゾにある教会のモデルにしており、イタリア人コミュニティの自信と永続性の表れでした。
ミクロネシア連邦ではキリスト教(カトリック、プロテスタント)が主な宗教です。
この教会は、ニューサウスウェールズ州の州文化遺産に登録されています。 -
なんとなく神秘的だったのでパチリ!
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さて、今夜のディナーはTown’s Dinerで!
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お店の装飾、、、
日本の文化が残ってますね。嬉しくなります。 -
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刺身も頼んでみました。ローカル式か日本式2つのスタイルがあるようで、ローカル式で頼んでみました。すると、、、やっぱり日本式に、、、醤油かけて日本式にチェンジ!
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まあまあのお味、、、。初日に食べた豚肉ステーキには負ける、、、。
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日付は8月19日。ミクロネシア連邦最終日。午後にはグアムへ飛び立つ。
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もうきっと来ることもないなと思い、午前中は世界遺産を見にいってきました!
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最初、世界遺産Nan Madolに近い Tamworohiという町までなら、乗り合いバスがあるんじゃないかな?と思ってたのですが、、、バスは全く走っておらず。
ヒッチハイクしかないか?と、試みてみましたが、止まってくれた人に尋ねてみると、「遠い!」とのこと!コロニアから40キロ、、、。で、その人にタクシー見つけてもらい、行くことに、、、。もう時間もなく、往復100ドルで、、、(別な方の情報だと往復70ドルで行けるらしい)。
写真の車がそのタクシー。窓ガラスに「ポンペイ」と書かれてます。 -
で、行ってみてわかりました。コロニアからNan Madolまでの間には、人はあんまり住んでない!もうまばらです。これなら乗り合いバスは走ってないのもうなづけます。ヒッチハイクが難しいのもうなづけます。
ここからは歩き、、、。 -
この方がタクシードライバーさん。入場料25ドル?を政府観光局?に払います。
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地元の方にも通行料?を払います、、、。世界遺産のNan Madol (ナンマドール)、、私有地にあるようです。
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世界遺産ナン・マドール
「ナン・マドールは、西太平洋にあるミクロネシア連邦ポンペイ州のマドレニム地区に属するポンペイ島の東海岸に隣接する考古学的な遺跡である。ナン・マドールは、1628年頃までサウデルール王朝の首都であった。ラグーンに建設されたこの都市は、運河網で結ばれた一連の小さな人工島で構成されている。 遺跡の中心部は石壁で囲まれており、およそ1.5×0.5キロメートル(0.93マイル×0.31マイル)の面積を囲み、潮汐運河で縁取られた92の人工島(石とサンゴでできたプラットフォーム)が含まれている。」ウィキより -
※この画像は、ミクロネシア連邦のポンペイ島にあるナン・マドール遺跡です。
ナン・マドール遺跡は、約100の人工島と水路からなる海上都市の遺跡で、「太平洋のベニス」とも呼ばれています。
遺跡は、柱状の玄武岩を井桁状に積み上げて造られており、最大の石は90トンにもなると推定されています。
この遺跡は2016年にユネスコ世界文化遺産に登録されましたが、同時に危機遺産にも登録されています。
遺跡を構成する巨大な石材がどのように運ばれ、積み上げられたのかは、いまだに多くの謎に包まれています。 -
世界遺産ナン・マドールはTemwen島(今は陸続き)の東に位置しています。
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「ナン・マトールという名前は「間隔の中に」という意味で、遺跡を縦横に走る運河に由来しています。ジーン・アシュビーの著書『ポンペイ、島の冒険』によると、元の名前はソウン・ナン・レン(天国の岩礁)でした。ナン・マトールはしばしば「世界第8の不思議」や「太平洋のベニス」と呼ばれています。
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なるほど、運河?水路?が張り巡らされています。
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※この画像は、ミクロネシア連邦のポンペイ島にあるナン・マドール遺跡です。
ナン・マドールは、現地語で「空間」「間隔」を意味します。
ポンペイ島の東海岸に位置する、およそ100の人工島からなる巨大な遺跡群です。
玄武岩の柱状の石を組んで作られた人工島が特徴です。
13世紀から17世紀にかけて、サウデロール朝の儀式の中心地として建設されました。
2016年にユネスコ世界遺産に登録されましたが、現在は危機遺産リストにも記載されています。 -
サウデロール朝、、、調べてみました。
「サウデルール王朝(ポンペイ語:Mwehin Sau Deleur、「デルール領主の時代」、Chau-te-leurとも綴られる)は、ポンペイ島の人々を統合した最初の組織化された政府であり、西暦 1100年から1200年頃から西暦 1628年頃まで統治しました。この時代の前には、ムウェヒン・カワ(建設時代)またはムウェヒン・アラマス(定住時代)があり、その後にムウェヒン・ナーンムワルキが続きました。デルールという名前は、今日ではミクロネシア連邦の首都がある州であるポンペイの古代の名前です。
ポンペイの伝説によると、サウデロール朝の統治者は異国出身で、その容姿は現地のポンペイ人とは全く異なっていた。ポンペイの伝説では、サウデロール朝の中央集権的な絶対統治は、数世代にわたってますます抑圧的なものになっていったとされている。恣意的で煩わしい要求に加え、ポンペイの神々を冒涜するという評判も、ポンペイの人々の間に反感を招いた。サウデロール朝は、同じく半神話的な外国人であるイソケレケルの侵略によって終焉を迎え、イソケレケルはサウデロール朝の統治を、今日まで続くより分権化されたナンムワルキ制に置き換えた。」 -
「この島に最初に定住したのは、おそらくソロモン諸島南東部またはバヌアツ諸島から来たラピタ文化の人々だったと考えられます。ポンペイ島の伝説によると、この島は南の遠い土地から来た17人の男女が周囲のサンゴ礁に岩を積み上げて作ったと言われています。島には先住民が住み、新来者と混ざり合っていました。彼らの数は増えましたが、社会は常に無秩序な状態でした。
サウデルール王朝は、神話上の西カタウ、またはカナムワソから来た双子の魔術師オリシパとオロソパの到来とともに始まりました。オリシパとオロソパは、現地のポンペイ人よりもはるかに背が高かったと言われています。兄弟は、農業の神ナニソーン・サープを崇拝するための祭壇を建てる場所を求めて、大きなカヌーでやって来ました。何度かの失敗の後、二人の兄弟は巨石の ナン・マドールに祭壇を無事に建て、そこで儀式を行いました。伝説によると、この兄弟は空飛ぶ竜の助けを借りて巨大な石を空中に浮かせたそうです。オリシパが老衰で亡くなると、オロソパが初代サウデルールとなりました。オロソパは地元の女性と結婚し、12世代の子孫を残し、ディプウィラップ(「偉大な」)一族の16人のサウデルールの支配者を生み出しました。王朝の創始者たちは優しく統治したが、後継者たちは臣民に対してますます厳しい要求を突きつけた。」 -
「ナン・マドールでは、サウデルールという一人の人物によって統治が維持されていました。土地、そこに眠る物、そしてそこに住む人々はサウデルールの支配者によって所有され、彼は地主階級に土地を貸し出し、平民が土地の収穫を行うのを監督していました。平民は支配者に果物や魚などの貢物を頻繁に捧げることが義務付けられていました。
貢物は、豊穣の季節であるラク(rak )には主にパンノキであったが、飢餓の季節であるイソル(isol)にはヤムイモ、タロイモ、発酵させたパンノキに変わった。魚介類も指定された時期にサウデロールに献上された。貢物制度は当初季節的なものであったが、時が経つにつれ、サウデロールの要求により民衆は飢え、奴隷のように暮らすようになった。というのも、彼らは労働力で支払い、ほとんどの物資をまず支配者に提供しなければならなかったからである。民衆の不満から少なくとも2人の暗殺者が出たが、最後のサウデロールに代わって別のサウデロールが現れただけであった。 抑圧に対する一般的な手段は、命令に反抗することと、サウデロールに提供された財産を盗むことであった。
サウデロールの中には温厚な統治者もいた。イネネン・ムウェヒは貴族制を確立し、ライプウェンランは熟練した魔術師だった。しかし、残酷な統治者として知られた者もいた。サコン・ムウェヒはポンペイ島民に容赦なく課税し、伝説によると、ライプウェンラケとして知られるサウデロールは、魔術を使って最も太ったポンペイ島民を見つけ出し、食べたとされている。また、ケティパレロンは、宴会で苦しむ庶民に自分の父の肝臓を食べさせられた大食いの妻で知られ、妻は自殺し、ケティパレロンもそれに続いた。サライデン・サプは、ポンペイ島で初穂料の慣習を確立した。」 -
「サウデロール王朝の宗教は、巨石神殿や墓地、食物の供物、そして神託による占いが中心でした。サウデロール王朝の中心的な信仰はナン・マドールにあり、雷神ナン・サプウェ(またはダウカタウ)に供物が捧げられました。サウデロール王朝は、この神から正統性を授かりました。ナン・サプウェはポンペイ島民に深く崇拝されていました。ナン・マドールから、ナン・サプウェ信仰はポンペイ島の他の地域にも広まりました。その他の土着信仰には、淡水ウナギや神イレイクに関わるものがありました。
サウデロール朝は、ポンペイ島民が形ばかりの敬意を捧げていたナニソーン・サップという自国の神への崇拝を導入しようと試みたが、失敗に終わった。サウデロール朝の統治者たちは、貪欲なウツボのナーン・サムウォルをナニソーン・サップの仲介役とした。これは、ナニソーン・サップが亀の形をした貢物を貪り食うことでこの異国の神に満足していることを示唆していた。高位の神官スーキセレンを筆頭とする聖職者階級は、ポンペイ島社会において強力な影響力を持っていた。
毎年行われるカンパの儀式は、ポンペイの人々が土地の神々と精霊に献身していることを表明するものでした。サカウの儀式は、サウデルールの支配を精緻に証明するものであり、統治者への贈り物の準備と贈呈をめぐる多くの儀式が行われました。
サウデルールに特に捧げられた食べ物には、カメと犬が含まれており、どちらも儀式の象徴でした。カメ(ウェイ)は3つの主要な政治的区分(ウェイ)を表し、2人の兄弟が冗談でサウデルールの犬肉を味わうために母親(生命を与えるカメ)を売ると言い、サウデルールに食べさせるために母親を犠牲にしなければならないという神話で中心的な位置を占めていました。犬はサウデルール社会でさらに重要な位置を占めていました。サウデルールのルールは、ウンマタカイ(「土地の番人」)と呼ばれる神話上の犬によって施行されていました。ナン・マドールでは、カメと犬の地位の食べ物の残骸が発見されています。
→そういえば、犬に悩まされた自分、地元の方に「犬は食べないの?」と聞いてみました。そしたら「食べる!」とのご返答。昔から食べられていたようです。太平洋の犬たち、外国人に反抗的なのはこんなことも原因なのかもしれません。 -
まるで石垣みたい、、、。
※海に築かれた100近くの人工島からなる石造りの遺跡で、柱状の玄武岩を井桁のように積み重ねて造られています。
12世紀から16世紀にかけて、サウデロール朝の首都として栄えました。 -
けっこう本格的な遺跡です。こんな大陸から隔たれたミクロネシアにアンコール遺跡のような文化があったとは驚きです。
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※1000年~1600年頃にシャウテレウル王朝の首都として栄えた海上都市の遺跡です。
玄武岩の柱状の石を組み合わせて造られた、およそ100の人工島から構成されています。
遺跡は、遠浅のサンゴ礁の上に建設されています。 -
ちなみに、このナンマドールを作ったサウデロール王朝は、、、
「サウデルール朝は、コスラエ(神話上の東カタウ)からポンペイに侵攻したイソケレケルによって征服された。ポンペイ侵攻前と侵攻中の正確な出来事については、史料によって大きく異なり、少なくとも13の異なる戦争記録が出版されている。伝説のほとんどのバージョンでは、サウデルール朝は中央集権的な社会制度の下で抑圧的になり、領主たちは雷神ナーン・サプウェを怒らせ、王朝の運命を決定づけたとされている。
雷神ナーン・サプウェは、サウデルールの領主の妻と姦通を犯した。怒ったサウデルールの領主はナーン・サプウェを捕らえようとした。また、この事件を口実にナーン・サプウェの崇拝を弾圧した。いくつかの説では、領主はポンペイの他の神々をも怒らせ、サウデルールの没落を予言したサウムの高僧の財産を剥奪したとも言われている。これらの不法行為、そして抑圧的な土地所有と貢物制度は、神々、人間、動物たちの怒りを買った。サウデルールの領主に憤慨したナーン・サプウェは、ポンペイを離れ、コスラエ(カタウ)へ向かった。逃亡後、彼は同じディプウェンパーンメイ(パンノキの下)一族の不妊の女にライムを食べさせて妊娠させた。この近親相姦によって半神的なイソケレケルが生まれ、子宮の中で復讐の運命を知っていた。成人したイソケレケルは、333人の男女と子供を連れて、ポンペイを征服するという秘密の意図をもって出航した。乗船は人身御供によって神聖なものとされたが、これはポリネシア文化では広まっている儀式だが、ポンペイの歴史では全く珍しいものである。ナン・マドルへ向かう途中、イソケレケルはアント環礁の酋長からパンノキの実を受け取った。彼らの文化では、パンノキの実は戦いに臨む戦士の食事であり、この贈り物はサウデロールとの戦いへの誘いを意味していた。アント環礁滞在中、イソケレケルは現地の女性と恋愛関係を持ち、ポンペイの人々との緊密な関係を築き、サウデロールにのみ対抗する意志を示した。
多くのバージョンによると、ナン・マドールで地元の子供たちとイソケレケルのカヌーの子供たちの遊びが喧嘩に発展した後に戦争が勃発した。別のバージョンでは、イソケレケルは事前に約束された会合で副官に地元の戦士を挑発させた。他の記録では、イソケレケルはホストの信頼を勝ち取った後、抑圧された地元民の助けを借りて反乱を起こしたとされている。別のバージョンでは、ナン・マドールの要塞を見てイソケレケルは撤退を決意したが、支配家族から軽蔑され追放された女性の助けを受けたとされている。他のバージョンでは、イソケレケルの戦士たちは突然現れた隠された武器の助けを受けた。
戦況は幾度となく逆転したが、サウデロールは軍を率いてポンペイ島本島へと撤退し、最終的に敗北した。伝説によると、サウデロールの領主サウデムウォールは丘を登り小川へと退却し、そこで魚に姿を変え、今もなおそこに留まっている。イソケレケルはナンムワルキの称号を授かり、サウデロール王朝の先祖と同様にナン・マドルの権力の座に就いた。 」 -
サウデロール朝を倒したイソケレケル、、、調べてみました。
「イソケレケルは、1500年代から1600年代初頭にかけて近代以前のポンペイ島を建国した、半神話的な英雄 戦士であり半神でした。彼は島に侵攻し、サウデロール王朝の圧政を終わらせ、近代まで続く分権的な首長制 (ナンムワルキ)を確立しました。」 -
「イソケレケルの伝説的な出生に関するほとんどのバージョンでは、彼の父は雷神ナンサプウェであるとされています。ナンサプウェはサウデロールの王の妻と姦通を犯しました。怒ったサウデロールはナンサプウェを捕らえようとしました。いくつかのバージョンでは、支配者はポンペイの他の神々を激怒させ、サウデロールの没落を予言した高僧を侮辱したとされています。これらの違反行為、そしてサウデロールの抑圧的な土地所有と貢納制度は、神々、人間、そして動物たちの怒りを招きました。
サウデルールに憤慨したナンサプウェは、ポンペイ島を離れ、「風下カタウ」(ポンペイ島の東)の島へと向かった。いくつかの伝承によると、雷神は東カタウの天界へと逃亡したという。逃亡後、ナンサプウェは自身のディプウェンパーンメイ(パンノキの下)一族の不妊の人間、リパーンメイにライムを与えて妊娠させた。この近親相姦的な交わりから半神的なイソケレケルが生まれ、イソケレケルは胎内で復讐の運命を悟った。
いくつかの極めて異質なバージョンでは、イソケレケルの神聖な父性は完全に無視され、サウデロールがイソケレケルが到着した際に食料を与えなかったという文化的規範の欠陥に焦点を当てています。これらのバージョンでは、イソケレケルはポンペイ島の先住民族の起源を持つとさえ考えられ、敬虔な父の不名誉ではなく、兄の死の復讐をします。他のバージョンでは、イソケレケルは雷神によって神格化された若者とディプウェンパーンメイの人間の間に生まれた子供、あるいはサウデロールによって父を殺された兄弟の復讐を企てる子供とされています。
イソケレケルの父は一般的にポンペイの神とみなされていたが、イソケレケルは明らかに外国人であった。伝説では、彼は肌の色が濃く、「野蛮」な人物として描かれている。ブラウン(1907)は、イソケレケルはおそらくパプア系だったと推測している。彼の起源はしばしば南方、あるいは「風下」とされている。
いくつかのバリエーションでは、イソケレケルは釣りをしているときに初めてポンペイ島に遭遇し、またあるバリエーションでは、彼は巨大な集落に怖気づいて島を追い払い、後に島を征服するために戻ってきました。」 -
「大人になったイソケレケルは、333人の男女と子供たちを連れて、ポンペイを征服するという秘密の意図を持って出航した。乗船は人身御供によって神聖なものとされたが、これはポリネシア文化では広く行われていた儀式であるが、ポンペイの歴史では全く珍しいものであった。
伝説によると、イソケレケルはポンペイ島へ向かう途中、キティ近くのアント環礁、モートロック諸島のロサップ、ピンゲラップなど、東カロリン諸島のいくつかの地に立ち寄った。いくつかのバージョンによると、アント環礁でイソケレケルは母親、鳥、年老いた恋人、あるいは占いによって、ポンペイ島を征服することが自分の使命であると知ったという。侵略者のカヌーは、キティ近くの岩礁島ケパラ近くの水路を通って、最初にポンペイ島に入った。キティからイソケレケルはポンペイ島を時計回りに一周したが、これはポンペイ神話のテーマである。イソケレケルはパリキールに立ち寄り、そこで残ったリフリ(パンノキのプディング)を差し出された。これは高官に対して禁じられていた振る舞いであり、ポンペイは「残り物の国ポンペイ」というあだ名を付けられた。ナン・マトルへ向かう途中、イソケレケルはアント環礁の酋長からパンノキの実を受け取った。彼らの文化では、パンノキの実は戦いに臨む戦士の食事であり、この供物はサウデロールとの戦いへの招待となった。アント島にいる間、イソケレケルはリカマダウ(「考える女性」)という名の現地の女性と恋愛関係になり、ポンペイの人々と親密な関係を築き、サウデロールのみに対抗する意思を示した。イソケレケル神話の小規模な地方版には、地元の神々が守護していたため、侵略隊が特定の地域を航行して通過したという話もある。ナン・マドール近くの小さな岩礁の島、ナリナナサプエで、イソケレケルはポンペイ島征服の意志を再確認する儀式を行った。侵略軍は、ナンマドール南方のマル島近くの岩礁の切れ目、エウェンケップで入港の招待を待った。サウデルールの領主サウデムウォールは雷神の息子が船に乗っていることを知らなかったが、訪問者を迎えるために艦隊を派遣し、ポンペイ本島沖のナン・マドール、カラプエルで彼らを客人として迎えた。
多くのバージョンによると、ナン・マドールで地元の子供たちとイソケレケルのカヌーに乗った子供たちの遊びが喧嘩に発展し、戦争が勃発した。別のバージョンでは、イソケレケルは事前に約束された会合で副官に地元の戦士を挑発させた。他の物語では、イソケレケルはホストの信頼を勝ち取った後、抑圧された地元民の助けを借りて反乱を起こしたとされている。別の物語では、ナン・マドールの要塞を見てイソケレケルは撤退を決意したが、支配者であるサウデレウル家の軽蔑され追放された女性の助けを受けたとされている。いくつかのバージョンでは、イソケレケルの戦士たちは突然現れる隠された武器の助けを受けた。
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戦況は何度か逆転したが、サウデロールの不利に終わり、彼は軍と共にポンペイ本島へと撤退した。いくつかのバージョンでは、イソケレケルはナン・マトル征服で片目を失った。サウデロールの領主が撤退する際、副官がイソケレケルに石を投げつけ、視力を失い重傷を負わせた。後に、イソケレケルはその技術と度胸に感心して、この戦士を将軍に任命し、その子孫は現在でも祝宴でイソケレケルの子孫と並んで名誉ある地位を占めている。、、、
伝説によれば、戦いはサウデルールの領主サウデムウォールが丘を登って小川まで後退し、そこで魚に姿を変えて今もそこに留まっていることで終わったと伝えられている。 -
「イソケレケルは家族とともにテムウェン島のナン・マドールに住んでいたが、首都はマドレニムであった。彼はサウデロールの統治権を掌握したとも、初代ナンムワルキに就任してエリート層の合意を得たとも、様々に描写されている。イソケレケルは既存の区分に基づいてポンペイを3つの自治首長国に分割したが、この数は後に5つに増えた。彼はポンペイと周辺の島々のエリート層を招集して歓迎すべき政権交代を告げ、分散型の新しいポンペイの政治システムを作るにあたって彼らと相談した。いくつかの神話のバージョンでは、神ルークの啓示が3人の敗北した首長をホバリングカヌーに乗せたことが含まれている。サウデルール時代から政治体制は大幅に地方分権化されたが、上流階級への貢物の納め方の多くは変わらなかった。サウデルール時代のウパ(奉仕)とノップウェイ(初穂料)の支払いは慣習として残り、ナーなどの宗教施設も発展し続けた。サウデルール統治下のポンペイの名高い地域であるソケースは、その力を大きく失った。
イソケレケルはパーン・アクワラップにおいて、聖なるナーンムワルキ(王位継承権) 、小ナーンケン(王位継承権)、そして司祭の称号制度という新たな政治秩序を確立しました。この制度はポンペイ島で現在も用いられています。伝説によれば、彼の治世は概して穏やかなものであったとされています。彼の最高位の称号には、マドレニムウのワサ・ラパラプ、ウのサンゴロ、ネットのプウド、ソケスのイソ・エニなどがあります。
ナーンケンもまた神聖な存在であったが、特にナーンマルキは神聖視され、多くのタブーが課せられていた。ナーンマルキは公の場に姿を現すことを禁じられ、ナーンケンを通して庶民と連絡を取った。これは統治者の神聖性を守り、権力の濫用を防ぐ役割を果たした。ナーンマルキとナーンケンの家族は婚姻関係にあり、イソケレケルの息子を除き、統治者の称号は母系継承された。一般的に、男性は父方の叔母(従姉妹)の娘と結婚することが奨励された。
イソケレケルは治世中、その一行は結婚し、ポンペイ社会に可能な限り同化したが、半神的なイソケレケルは多くの厳格なタブーを超越し、妹を妻に迎えた。ある時、彼は妊娠中のポンペイ人の妻の一人に、男の子を産んだらその子を殺すように指示した。彼女はイソケレケルがいない間に出産し、彼の指示に従う代わりに、息子のナーンレペニエンを老夫婦に隠した。イソケレケルは成人した息子に会った。ナーンレペニエンは神聖なイソケレケルに対する露骨な無頓着さと他の厳格なタブーを破ったため、特別な存在とみなされていた。イソケレケルは息子に愛着を感じたため、彼を助けることにした。ここから、ナーンケンの起源にも神話的な根拠が生まれます。ナーンレペニエンはポンペイ島の慣習やタブーを破り、その中にはイソケレケルの長姉(当時の文化において母親のような存在)との近親相姦という タブーも含まれていました。イソケレケルは息子を罰することを嫌がり、体罰は避けました。代わりに、彼は息子のためにナーンムワルキよりも低い位であるナーンケンという称号を与えました。 -
「祈りの場であるペイカプで、イソケレケルは水たまりに映った自分の姿を見て、老いを悟り、自殺を決意した。ある伝説によると、彼は若いヤシの木のてっぺんに自分のペニスを縛り付けた。曲がった木から手を離した瞬間、ペニスは引きちぎられ、イソケレケルは出血多量で死亡した。
イソケレケルの遺骨は、テムウェン島にある巨大な遺体安置所に安置されていると考えられています。しかし、この墓は囮に過ぎず、英雄は海に埋葬されたと考える者もいます。しかしながら、この墓は聖地です。1907年、ドイツ人総督ベルクが地下納骨所の発掘を強く主張した際、日射病で亡くなりました。この出来事は、地元の人々にこの遺物の力強さを改めて認識させました。1928年には日本人によって再び発掘が行われ、現代のポンペイ島の人々の骨よりも大きな骨が発見されました。」 -
「今日、イソケレケルはコスラエとポンペイの両方で文化的英雄とみなされている。 彼の子孫を主張する多くの族長が現代のポンペイに残されており、その中には22世代以上に渡って統治しているナンムワルキの子孫もいる。現代のポンペイの族長はイソケレケルの系譜を辿っているが、地元のナンケン族の族長は二重の血統で称号を保持するようになった。
イソケレケルは無敵と結び付けられており、コスラエ人がポンペイ人にその名を口にすることは、あからさまな挑戦とみなされるほどである。ピーターセン(1995)は、イソケレケル神話の中に、外国との関係における慎重さという文化的テーマがあると指摘しており、これは現代のアメリカ合衆国にも当てはまる。ピーターセン(1990)はまた、「ポンペイ神話における重要な出来事の始まりは、しばしば部外者に起因するとされ、その代表例がイソケレケルとサウデロールである」と述べている。
イソケレケルの伝説は、ミクロネシア系の背景を持つポンペイの混血を説明するためにも用いられている。イソケレケルの一行はポンペイの東部、最も人口の多い地域に徹底的に定住し、そこから彼らの血縁関係が広がった。」 -
ここの成り立ちはなんとなくわかった気がしますが、、。なんでナンマドールは捨てられ、ここに残っているのか?
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地下にも何かあるようです、、、思い出しました。運ちゃんが「ジェイル!」と言ってました。
ナンマドールの建設の目的と特徴、、、
「エリート層の中心地は、貴族の居住地であり、司祭が司式する葬儀の儀式が行われる特別な場所でした。人口は1,000人を超えなかったことはほぼ確実で、その半分以下だった可能性もありました。住民の多くは首長でしたが、大多数は平民でした。ナン・マドールは、支配的なサウデルール族の首長たちが、潜在的なライバルを組織化し、統制する手段として機能していました。彼らは、彼らの活動を監視することが難しい故郷ではなく、都市に住むことを義務付けていたのです。
マドル・ポウェ(葬祭殿)は、ナン・マドルの北東部に位置する58の小島からなる。ほとんどの小島はかつて司祭の住居であった。いくつかの小島は特別な用途で利用されていた。例えば、ダパフでは食料の調理やカヌーの建造、ペイネリンではココナッツオイルの調合などである。ペインキテル、カリアン、レメンコウには墓を囲む高い壁があるが、最も有名なのは王家の葬祭殿であるナンダウワス島で、5.5~7.5メートル(18~25フィート)の高さの壁が、中庭にある中央の墓の囲いを囲んでいる。これは初代サウデルールのために建てられたものである。
ナン・マドルには淡水も食料もないため、水は汲み取り、食料は内陸で栽培しなければなりません。サウデルール統治時代、ポンペイ島民は生活必需品である食料と水を船で運んでいました。サウデルールは特定の小島で食料を調達しました。最初はペイニオット島、後に近くのウセンナム島です。
1628年頃、イソケレケルがサウデロール朝を倒し、ナンムワルキ朝が始まった頃、ナンムワルキ族はナン・マドールに居住していましたが、自力で水を汲み、食料を栽培しなければなりませんでした。これがナン・マドールを放棄し、自らの居住区へ戻った原因と考えられていますが、急激な人口減少など、遺跡の荒廃には他の説明も存在します。」ウィキより -
AIにも聞いてみました。
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●放棄された理由、、、
サウデロール王朝の圧政と滅亡: 口頭伝承によると、ナンマドールを築いたサウデロール王朝は、支配が進むにつれて圧政を強めるようになり、住民に食料や水の提供を強制しました。最終的に、1628年頃に英雄イソケレケルが侵攻し、王朝を滅ぼしました。
○支配体制の移行: サウデロール王朝滅亡後、イソケレケルが新しい支配体制「ナンマルキ時代」を始めました。当初、新しい支配者たちはナンマドールに住みましたが、食料や水の補給を住民に頼れなくなったため、それぞれの地区へ戻っていきました。
○環境変動: 近年の研究では、気候変動が放棄の決定的な要因だった可能性が示されています。
・海面上昇: 15世紀初頭に地球が小氷期に入ると、海面が約70~80cm低下しました。これによって水路の移動が困難になり、食料供給網が途絶えて社会危機を招いた可能性があります。
・気候の不安定化: ラニーニャ現象による激しい東風と海面上昇が構造物を損傷させ、維持を困難にしました。
○権威の喪失: ナンマドールはサウデロール王朝の象徴であったため、王朝が滅びるとともに権威を失っていきました。宗教儀式は1800年代まで続けられたものの、徐々に人口が減少し、最終的に放棄されました。 -
●なぜ遺構が残っているのか
放棄後もナン・マドールの建造物が残り続けたのは、主に以下の理由によります。
○巨石の堅牢な構造:
ナン・マドールは、柱状玄武岩と呼ばれる巨大な石材を積み重ねて建設されており、接着剤(モルタル)は使われていません。
石材の重さと精巧な組み方によって、数百年にわたる風雨や潮の干満にも耐えうる堅牢な構造となっています。
特に、最も重いもので50トンにもなる巨大な石材を運んで積み上げた技術は、驚くべきものとされています。
○神聖な場所としての敬意:
遺跡には霊が宿ると信じられ、「幽霊の都」とも呼ばれてきました。
そのため、地元の人々によって敬意を持って扱われ、破壊されることなく残されてきました。
○世界遺産としての保護:
ナン・マドールは、2016年にユネスコ世界遺産に登録されました。
現在、植生や運河の泥化による構造物への被害が懸念されており、「危機にさらされている世界遺産」リストにも記載されていますが、国際的な保護活動が進められています。 -
ナマンドール遺跡、運ちゃんと回っています。、、、ここではもう1組の白人男性2人の観光客と出会いました。彼らはレンタカーで回ってるみたい、、、
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水路です、、、
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けっこう広いです、、、
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しつこいですが、
※この画像に写っているのは、ミクロネシア連邦のポンペイ島にあるナン・マドール遺跡です。
ナン・マドールは「天と地の間」や「間隔の間」を意味し、水路で隔てられた約100の人工島で構成されています。
紀元500年頃から人工島の建設が始まり、1000年頃から本格化しました。
1200年から1500年頃にかけて、石造りの宮殿や寺院が築かれました。
この遺跡は、オセアニア地域で最大規模を誇る遺跡であり、サウデルール王朝の儀礼の中心地でした。 -
※この遺跡は、かつてポンペイ島に存在した古代王朝の存在を示すもので、現地の人々にとっては今も神聖な場所とされています。
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※ナン・マドール遺跡は、柱状の石を組み合わせて造られた約100の人工島からなる海上都市です。
遺跡内には、王や神官の住居、墓地、集会場などがあったことが確認されています。 -
※画像はマングローブの林の近くにある砂浜を歩く人物を捉えたものです。
マングローブは、熱帯から亜熱帯の海水と淡水が混ざり合う場所に生育する植物の総称です。
画像に写っている、水面から突き出た棒状のものは、マングローブの呼吸根と考えられます。
マングローブ林は、海岸線の浸食を防いだり、多くの生物の生息地となったりする役割を果たしています。
この場所は、熱帯地域にある海岸である可能性が高いです。 -
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運ちゃんも写真撮ってます、、、
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カニさん発見!
※画像に写っているのはシオマネキの一種です。
オスの片方のハサミ脚が極端に大きいのが特徴です。
和名の「シオマネキ」は、オスが大きなハサミを振る求愛行動が、潮を招いているように見えることに由来します。
ハクセンシオマネキは、河口の干潟に生息しています。
環境省のレッドリストでは、絶滅危惧II類に指定されています。 -
向こうの島も遺跡みたい、、、
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※ナン・マドール遺跡では、王の葬儀などの宗教儀式が行われていたことから、聖域であったと考えられています。
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ここは靴脱いで、靴下脱いで渡る、、、めんどくさいので、自分はそのままドボン!
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帰り際、雨が強くなってきました!そしたら、運ちゃん、なにやら落ちてた空き缶拾い、それを使ってバナナ?の枝をギコギコ、、、。雨に濡れないための傘を作ってくれました!サンクス!
トトロになって車まで、、、 -
ん?
近くの滝にも寄ろうか?運ちゃんは聞いてきましたが、、、もう雨だったので行きませんでした。 -
途中、運ちゃんの子供たちが通う学校に、、、。運ちゃん、子供たちに昼飯代を渡してた、、、
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そうそう、思い出しました。運ちゃんは32歳。子供がたしか4人いるとか、、、。でも、もう1人別の妻がいるんだとか、、そちらにも1人子供がいるんだと、、、。不思議に思って、ミクロネシアでは一夫多妻なのか尋ねたら、、、どうやら1人は愛人なのかな?奥さんに知られたら大変なことになるらしい!思わず笑っちゃいました!
、、、町に戻り、、、!1日目に食べたCafé Oleで降ろしてもらい、最後のお昼!お店のお姉さん、覚えてくれてたようで、前頼んだの、何ていうメニューだったか忘れて困ってたら、、、。豚肉ステーキ醤油、うまい!豚肉油と醤油とご飯、あいますね! -
で、てくてくてくてく空港へ、、、。
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空港到着!
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そしたら、、、また1つ厄介なことが、、、。
グアムのETA は取ったのでなんなくボーディングパスゲットと思いきや、、、この写真のサイトでデジタル入国申請しなきゃボーディングパスは渡せないとのこと!あと1時間ほどで締め切るだって!
焦りました!ドミニカ共和国出国の時と同じ状況!
しかもフリーWi-Fiはこの空港にない!
係の人に尋ねたら、空港横のお店に頼んで繋げてもらえとのこと!うわー、、、どんどん高まる厄介なデジタル申請!
結局、お店に頼んで繋げてもらい、無事申請完了!やっとQRコードゲットし、出国税払ってボーディングパスゲットできました。
※調べたら、
(5)デジタル税関申告書
2021年6月より、デジタル税関申告書が導入されました。グアム到着の72時間以内に、グアム税関の専用ウェブサイトにアクセスし、所要事項を記入することにより、入国審査時に提示するためのQRコードが発行されます。
https://cqa.guam.gov/
これでした。ほんとめんどくさい! -
遅れて空港についてたら乗れなかったかも、、、。何事も早め早めが肝心です。この旅の教訓ですね。
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それにしても、なかなか楽しめたポンペイでした。
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ミクロネシア連邦は日本の文化がまだまだ残ってる国でした。、、、台湾、パラオ、そしてミクロネシア連邦、、、中国(満州)、朝鮮半島、南樺太は建物はのこっちゃいるけど、完全に消えたと言っていいくらい。、、、また是非再訪したいですね。今度はヤップ、チューク、コスラエに。
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チュークが見えてきました!
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着陸!
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アイランドホッピングの途中降機、、、もう少しなんか見れるのかなと思ってましたが、こんなもんです。
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一服し、空港入って時間になるまで待つのみ、、、
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チューク国際空港!ただ今回は空港トランジットのみ!いずれまた来る予定、、、。
そうそう、ここでまたまた空港にいた白人男性に声かけられました!
「レエ!あなたレエに行ったのか?」、、、
なんと、あのケンさんの娘さんから頂いたバッグはここでも威力を発揮!レエ、、、何度この旅で聞いた地名か!
、、、ということで今回の旅は終わりです。
フィリピンから始まり、パプアニューギニア、オーストラリア、ノーフォーク島、ナウル、フィジー、ツバル、またまたフィジー、キリバス、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦、、、あっという間の3週間でした。戦後80年、日本人として無事何事もなく、慰霊できたことに感謝です!
この後、グアム(時間があったのでちょっとだけ町にくりだしました。マックでストロベリーシェイクを頂き、ドンキホーテで日本製品爆売れ状況を見て、日本食フードコートを眺め、夕食。空港で早朝発のチェジュ航空ソウル行きに乗るため、一夜を明かす)、韓国(時間はないので空港で韓国飯だけ食った。)、、そしてチェジュ航空で千歳、、、今回は無事帰国できました。きっとお守りのお陰ですね。
自分のクチコミより
「今グアムに到着!イヤー、グアム入国もめんどくさいですね。2つもネットでやらなければならない。1つはesta。自分、グアムで有効のやつで申請したんですが、なかなかこれが面倒!、、、何か不具合があるのか?承認がおりない。え、何で?もしかしてばれた?とも思ったんですが、職業無職としたのが引っ掛かったみたい。で、ちゃんと職業かいたら、職場の住所、電話番号書いて再提出したら、やっと承認された。で、ポンペイの空港で見せたのに、、、もう1つ申請しなければならなかった。しかも搭乗できる締切時間まであと40分、、、。全くドミニカ共和国での出来事と同じに、、、焦りました、、、
でもポンペイの空港にはフリーWi-Fiがなく困った困った。航空会社の方にフリーWi-Fiがないかと尋ねたら、空港横のお店で頼むとよいとのこと。で、お店の方に頼んでやっと申請、QRコードをゲットした。これがないとボーディングパスがもらえない。で、出国税25ドル払ってやっとボーディングパスゲット!ハラハラドキドキ、、、なぜに、いつからこんな風にめんどくさくなっちゃったンでしょうか?昔の方がほんと楽チンだった。スマホもってない人は絶対海外に行けない時代なんですね。
あ、ミクロネシア連邦ポンペイでは、日本軍の戦跡見にてくてく山登り。ここでも犬と戦い、途中スコールにも当たり、グチョグチョの中、基地跡見に行ってきました。ナウルと同じくジャングルの中をかき分け、観光スポットも、、、
次の日は世界遺産へ、、、どうやら乗り合いタクシーも無さそうで、ここはタクシー運ちゃんと交渉して、、、往復100ドル。道も悪くけっこう時間がかかるし、何よりスコールに当たり、、、タクシーチャーターが無難でした。で、入るのに25ドル取られ、敷地内のおばちゃんに1ドル、お姉さんに4ドル、、、ソロモン諸島と同じ、、、。
※ミクロネシア連邦には2泊しましたが、雨三昧でした。サモアは冬に行って雨三昧だったので、ミクロネシア連邦は夏がいいのかな?と思ってたら、違うようですね。夏は雨季?冬がいいのかも?
が、
まあ、無事太平洋諸国周遊も終わりそうです。あっという間でした。明日のチェジュ航空、無事飛んでくれますように!」
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