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「宝頂山石刻」の見学が終わるとバスに乗って15キロほど走って大足の市内に戻ります。重慶からも90キロほど離れた大足なので、午前中の観光はこれで終わりになります。お昼は町中で地元の料理をいただくことになります。「陳蹄花」というレストランの中には大きな円卓が2つ用意されていて、それぞれに座りました。料理は15皿も提供され、どれもとても美味しかったです。さらにガイドさんから各テーブルにビールが2本サービスされます。今回のツアーは女性が多く、皆さんあまりお酒を飲まないようなので我が家がだいぶいただいてしまいました。さらに1本追加する始末ですが1本12元と良心的です。錯塩の春に行った深圳では30元とか言われた記憶があります。この店の瓶ビールは「国賓醇麦」という銘柄でした。旅先で飲んだワインのラベルはもちろんビールのラベルも剥がして持ち帰ってスクラップしているのですが、このビールは初めて飲みました。冷たく冷えているのがありがたいです。午後は再びバスに乗って「北山石刻」に向かいます。ここは先ほどの「宝頂山石刻」ほどは混雑していなくて見学はしやすいですが、高低差があるので妻が階段の上り下りが大変でした。ほぼ1日かけて大足の2つの石刻を観ることが出来て大満足です。再び2時間ほどかけて重慶市内に戻り、お情け程度に「解放碑歩行街」を歩いて夕食になります。夕食は重慶だけに火鍋の店が予約してありました。きれいなショッピングモールの最上階にある「小天鵝 美人美火鍋」で1人火鍋です。これは非常に良いアイディアです。ここへ来るまで知らない人と鍋をつつくのかと思っていました。セルフでタレを作り野菜などを籠に盛り付けて席に戻るとお肉や魚などがテーブルに並んでいます。この店はビュッフェスタイルの食べ放題の上にビールやソフトドリンクも飲み放題のようでした。本格的な火鍋なので観光客にも容赦なく、ビールを飲まないと箸が進みませんでした。食事が終わるとすっかり辺りは暗くなり、バスに乗って埠頭に向かいます。ここから3泊4日の三峡下りが始まりますが、乗船するのは「ビクトリアカタリナ号」という船でした。トランクなどは「棒々(ばんばん)」と呼ばれる担ぎ人のおじさんが竹の棒にトランクを4個括って運んでいきます。本物の「棒々(ばんばん)」を観ることが出来て感激したのは自分1人だけでした。チェックインした後は簡単なミーティングがあり、その後は出港まで自由時間になります。長年の夢だった三峡下りは何十年か経つ間に重慶の風景は大きく変わってしまったと思いますが、その夜景は素晴らしかったです。ほとんど全員の乗客が屋上デッキに出てその景色を楽しみました。何故かジェンカを踊っているスタッフや乗客もいます。いよいよ三峡下りがスタートしました。

トラピックス 長江三峡下りクルーズ(3)北山石刻の仏を訪ねた後は重慶市内で火鍋を食べて、ビクトリアカタリナ号の待つ埠頭へ急ぐ。

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2025/03/23 - 2025/03/23

8位(同エリア37件中)

旅行記グループ 2025三峡下りクルーズ

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kojikoji

kojikojiさん

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「宝頂山石刻」の見学が終わるとバスに乗って15キロほど走って大足の市内に戻ります。重慶からも90キロほど離れた大足なので、午前中の観光はこれで終わりになります。お昼は町中で地元の料理をいただくことになります。「陳蹄花」というレストランの中には大きな円卓が2つ用意されていて、それぞれに座りました。料理は15皿も提供され、どれもとても美味しかったです。さらにガイドさんから各テーブルにビールが2本サービスされます。今回のツアーは女性が多く、皆さんあまりお酒を飲まないようなので我が家がだいぶいただいてしまいました。さらに1本追加する始末ですが1本12元と良心的です。錯塩の春に行った深圳では30元とか言われた記憶があります。この店の瓶ビールは「国賓醇麦」という銘柄でした。旅先で飲んだワインのラベルはもちろんビールのラベルも剥がして持ち帰ってスクラップしているのですが、このビールは初めて飲みました。冷たく冷えているのがありがたいです。午後は再びバスに乗って「北山石刻」に向かいます。ここは先ほどの「宝頂山石刻」ほどは混雑していなくて見学はしやすいですが、高低差があるので妻が階段の上り下りが大変でした。ほぼ1日かけて大足の2つの石刻を観ることが出来て大満足です。再び2時間ほどかけて重慶市内に戻り、お情け程度に「解放碑歩行街」を歩いて夕食になります。夕食は重慶だけに火鍋の店が予約してありました。きれいなショッピングモールの最上階にある「小天鵝 美人美火鍋」で1人火鍋です。これは非常に良いアイディアです。ここへ来るまで知らない人と鍋をつつくのかと思っていました。セルフでタレを作り野菜などを籠に盛り付けて席に戻るとお肉や魚などがテーブルに並んでいます。この店はビュッフェスタイルの食べ放題の上にビールやソフトドリンクも飲み放題のようでした。本格的な火鍋なので観光客にも容赦なく、ビールを飲まないと箸が進みませんでした。食事が終わるとすっかり辺りは暗くなり、バスに乗って埠頭に向かいます。ここから3泊4日の三峡下りが始まりますが、乗船するのは「ビクトリアカタリナ号」という船でした。トランクなどは「棒々(ばんばん)」と呼ばれる担ぎ人のおじさんが竹の棒にトランクを4個括って運んでいきます。本物の「棒々(ばんばん)」を観ることが出来て感激したのは自分1人だけでした。チェックインした後は簡単なミーティングがあり、その後は出港まで自由時間になります。長年の夢だった三峡下りは何十年か経つ間に重慶の風景は大きく変わってしまったと思いますが、その夜景は素晴らしかったです。ほとんど全員の乗客が屋上デッキに出てその景色を楽しみました。何故かジェンカを踊っているスタッフや乗客もいます。いよいよ三峡下りがスタートしました。

旅行の満足度
4.5
観光
5.0
ホテル
4.5
グルメ
4.0
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
20万円 - 25万円
交通手段
観光バス 徒歩
航空会社
中国東方航空
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行なし)
利用旅行会社
阪急交通社
  • 宝頂山石刻から大足の市内までは30分ほどの移動でした。お昼は「陳蹄花」という大足の家庭料理を食べさせるレストランでした。

    宝頂山石刻から大足の市内までは30分ほどの移動でした。お昼は「陳蹄花」という大足の家庭料理を食べさせるレストランでした。

    大足石刻 史跡・遺跡

  • 冷菜は「青椒皮蛋茄子」というもので、これを摺り棒のようなもので捏ね混ぜて食べるのですがとても美味しいです。

    冷菜は「青椒皮蛋茄子」というもので、これを摺り棒のようなもので捏ね混ぜて食べるのですがとても美味しいです。

  • 「尊生黒豆干」は黒豆で作った豆腐を麵状にして唐辛子と一緒に揚げたもので、ビールのつまみにもってこいです。9人づつの2テーブルに分かれましたが、各テーブルに2本づつガイドさんからビールの差し入れがありました。もちろん足りないので後は故人で注文しますが、1本12元と良心的な値段でした。

    「尊生黒豆干」は黒豆で作った豆腐を麵状にして唐辛子と一緒に揚げたもので、ビールのつまみにもってこいです。9人づつの2テーブルに分かれましたが、各テーブルに2本づつガイドさんからビールの差し入れがありました。もちろん足りないので後は故人で注文しますが、1本12元と良心的な値段でした。

  • 「麻辣蹄花」は新鮮な豚足を白花豆と一緒に煮込んだ料理で、ピリ辛ですがとても美味しかったです。正直豚足は今まで避けてきた食材でした。

    「麻辣蹄花」は新鮮な豚足を白花豆と一緒に煮込んだ料理で、ピリ辛ですがとても美味しかったです。正直豚足は今まで避けてきた食材でした。

  • それ以外にも細切り豚肉とネギと唐辛子の炒め物、青菜炒め、キノコのスープ、川魚の蒸したもの、ネギと卵炒めなど12種類もの料理が提供されました。

    それ以外にも細切り豚肉とネギと唐辛子の炒め物、青菜炒め、キノコのスープ、川魚の蒸したもの、ネギと卵炒めなど12種類もの料理が提供されました。

  • 途中から食べるのに夢中で写真が撮れませんでした。これだけがツアーで中国を旅しる時の難点です。特にツアーが始まったばかりだとなかなか写真を撮らせてとも言えません。

    途中から食べるのに夢中で写真が撮れませんでした。これだけがツアーで中国を旅しる時の難点です。特にツアーが始まったばかりだとなかなか写真を撮らせてとも言えません。

  • 鴨のローストや豚肉と野菜とクワイの味噌炒めのような料理もご飯が進みます。

    鴨のローストや豚肉と野菜とクワイの味噌炒めのような料理もご飯が進みます。

  • エリンギをスライスさせてアワビのような味付けにした「炒杏鮑茹」も美味しい逸品です。

    エリンギをスライスさせてアワビのような味付けにした「炒杏鮑茹」も美味しい逸品です。

  • このレストランは重慶市内に18店舗を構えるチェーン店でした。重慶というと辛い料理を想像してしまいますが、日本人の口にもある料理ばかりでした。

    このレストランは重慶市内に18店舗を構えるチェーン店でした。重慶というと辛い料理を想像してしまいますが、日本人の口にもある料理ばかりでした。

  • テーブルの脇にはこんな神が停められていて、貰って来たのですが中国語の略字が読めないのに気づきました。

    テーブルの脇にはこんな神が停められていて、貰って来たのですが中国語の略字が読めないのに気づきました。

  • 1時間弱で食事も終えて、店の前で再集合します。

    1時間弱で食事も終えて、店の前で再集合します。

  • 店の前では農家の人が自分の畑でとれたばかりのミカンを売りに来ていました。ここで肝心なのは葉が付いているということです。葉が青々としていれば新鮮な証拠です。子供の頃新聞とチリ紙を交換に来ていたおじさんが持っていたのと同じ天秤ばかりを使っていました。これも重さをごまかさないために必要なことです。

    店の前では農家の人が自分の畑でとれたばかりのミカンを売りに来ていました。ここで肝心なのは葉が付いているということです。葉が青々としていれば新鮮な証拠です。子供の頃新聞とチリ紙を交換に来ていたおじさんが持っていたのと同じ天秤ばかりを使っていました。これも重さをごまかさないために必要なことです。

  • 中国や台湾などアジアの国々、ヨーロッパの市場にも「公示秤」が置いてあるのを見たことがあります。重さが正しいかどうかは買った人間は分かりませんが、怪しいと思ったらその秤で確認することが出来ます。

    中国や台湾などアジアの国々、ヨーロッパの市場にも「公示秤」が置いてあるのを見たことがあります。重さが正しいかどうかは買った人間は分かりませんが、怪しいと思ったらその秤で確認することが出来ます。

  • だいぶ遅くなりましたが午後は「北山石刻」の観光に移ります。ここは市内からもかなり近い距離にある印象です。「大足石刻」の中でもここと午前中に見学した「宝頂山石刻」が代表的な2カ所になります。

    だいぶ遅くなりましたが午後は「北山石刻」の観光に移ります。ここは市内からもかなり近い距離にある印象です。「大足石刻」の中でもここと午前中に見学した「宝頂山石刻」が代表的な2カ所になります。

  • バスを降りた後は入り口に集合して、まずはトイレに向かいます。龍崗山公園の北側にあるので扁額にも「龍崗山」の扁額が掲げてあります。

    バスを降りた後は入り口に集合して、まずはトイレに向かいます。龍崗山公園の北側にあるので扁額にも「龍崗山」の扁額が掲げてあります。

  • ここでも山の中を1時間以上歩くことになります。「北山石刻」は建屋の中に像が連々と約300メートルにわたります。892年の唐の晩期景福元年から造り始められ、1162年の南宋の紹興32年の完成に至るまで200余年の歳月をかけました。「北山石刻」の見学は「魏君靖碑」からスタートします。碑の高さは260センチ、幅は231センチで四川省の東部と西部の軍政の動乱の様相を描き、魏俊景が雍長寨を築き、北山に仏像を彫らせた最初の経緯が記されています。史料の一部は民間史にみられる内容を補足しています。。

    ここでも山の中を1時間以上歩くことになります。「北山石刻」は建屋の中に像が連々と約300メートルにわたります。892年の唐の晩期景福元年から造り始められ、1162年の南宋の紹興32年の完成に至るまで200余年の歳月をかけました。「北山石刻」の見学は「魏君靖碑」からスタートします。碑の高さは260センチ、幅は231センチで四川省の東部と西部の軍政の動乱の様相を描き、魏俊景が雍長寨を築き、北山に仏像を彫らせた最初の経緯が記されています。史料の一部は民間史にみられる内容を補足しています。。

  • 「毘沙門天石龕」<br />石刻全体の大きさは高さ430センチ、幅286センチ、奥行き176センチあります。正面の壁龕には毘沙門天像が彫られています。

    「毘沙門天石龕」
    石刻全体の大きさは高さ430センチ、幅286センチ、奥行き176センチあります。正面の壁龕には毘沙門天像が彫られています。

  • 装飾された冠と鎧を身につけ、両足の下には日本でいう邪鬼の姿も見えます。その左右には従者の姿もあります。鎧から下がる瓔珞文様の装飾が美しく、インドの影響も感じられます。

    装飾された冠と鎧を身につけ、両足の下には日本でいう邪鬼の姿も見えます。その左右には従者の姿もあります。鎧から下がる瓔珞文様の装飾が美しく、インドの影響も感じられます。

  • 「千手千眼観音石龕」<br />高さ324センチ、幅292センチ、奥行き140センチの石龕内には44体の仏像が安置されています。<br />

    「千手千眼観音石龕」
    高さ324センチ、幅292センチ、奥行き140センチの石龕内には44体の仏像が安置されています。

  • 奥壁には千手千眼観音菩薩像が安置されており、冠をいただき、堅固な衣をまとい,須弥座に足を組んで安置されています。千本の腕は守護と洞察力の力を象徴しています。

    奥壁には千手千眼観音菩薩像が安置されており、冠をいただき、堅固な衣をまとい,須弥座に足を組んで安置されています。千本の腕は守護と洞察力の力を象徴しています。

  • 左右の壁には対照的に10体の仏像が彫られています。曼殊沙華普賢菩薩は雷と稲妻と風雨を司っています。

    左右の壁には対照的に10体の仏像が彫られています。曼殊沙華普賢菩薩は雷と稲妻と風雨を司っています。

  • 裏側の細い通路には「千仏」で埋め尽くされています。対峙するように並べられた石仏はその多くが持ち出され、アメリカに売られてしまったとガイドさんから説明がありました。

    裏側の細い通路には「千仏」で埋め尽くされています。対峙するように並べられた石仏はその多くが持ち出され、アメリカに売られてしまったとガイドさんから説明がありました。

  • 「釈迦説法石龕」<br />石龕は高さ355センチ、幅366センチ、奥行き193センチで、27体の仏像が彫られています。

    「釈迦説法石龕」
    石龕は高さ355センチ、幅366センチ、奥行き193センチで、27体の仏像が彫られています。

  • 奥壁には釈迦牟尼仏座像が置かれ、左右には大乗菩薩像と観音菩薩、天王像、護法菩薩像が立っています。本尊の上を舞う飛天の姿も優雅な雰囲気を醸し出しています。

    奥壁には釈迦牟尼仏座像が置かれ、左右には大乗菩薩像と観音菩薩、天王像、護法菩薩像が立っています。本尊の上を舞う飛天の姿も優雅な雰囲気を醸し出しています。

  • 中でも2体の脇侍の観音像は堂々とした体躯で、体にフィットした薄衣をまとっています。これは繁栄を誇った唐代の名残が感じられます。

    中でも2体の脇侍の観音像は堂々とした体躯で、体にフィットした薄衣をまとっています。これは繁栄を誇った唐代の名残が感じられます。

  • 大型の石龕以外にも小さなスペースに三尊を祀った小さな石龕で壁面は埋め尽くされています。

    大型の石龕以外にも小さなスペースに三尊を祀った小さな石龕で壁面は埋め尽くされています。

  • 「三世佛石龕」<br />高さ189センチ、幅235センチ、奥行き88センチの石龕は3つに区切られています。上段には釈迦如来、迦葉如来、弥勒菩薩の三仏が彫られ、左右の壁には文殊菩薩と普賢菩薩と八仙人が彫られています。

    「三世佛石龕」
    高さ189センチ、幅235センチ、奥行き88センチの石龕は3つに区切られています。上段には釈迦如来、迦葉如来、弥勒菩薩の三仏が彫られ、左右の壁には文殊菩薩と普賢菩薩と八仙人が彫られています。

  • 仏教では釈迦牟尼が仏教という大宗教を成したのは単に釈迦一代のみの事業ではなく、過去において成道し成仏した前世の功徳が累積した結果であると考えています。釈迦仏までに登場した7人の仏陀は「過去七仏」と呼ばれ、毘婆尸仏、尸棄仏、毘舎浮仏、倶留孫仏、倶那含牟尼仏、迦葉仏、そして釈迦牟尼仏を表します。

    仏教では釈迦牟尼が仏教という大宗教を成したのは単に釈迦一代のみの事業ではなく、過去において成道し成仏した前世の功徳が累積した結果であると考えています。釈迦仏までに登場した7人の仏陀は「過去七仏」と呼ばれ、毘婆尸仏、尸棄仏、毘舎浮仏、倶留孫仏、倶那含牟尼仏、迦葉仏、そして釈迦牟尼仏を表します。

  • 弥勒菩薩は現在仏である釈迦牟尼仏の次に仏陀となることが約束された菩薩で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされます。

    弥勒菩薩は現在仏である釈迦牟尼仏の次に仏陀となることが約束された菩薩で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされます。

  • 石刻は「孝経亭」の扁額が掲げられた亭に続いていきます。ここでも写真を撮っている間に皆さんからかなり遅れてしまいました。亭の名前はここに置かれた碑の名前に由来します。

    石刻は「孝経亭」の扁額が掲げられた亭に続いていきます。ここでも写真を撮っている間に皆さんからかなり遅れてしまいました。亭の名前はここに置かれた碑の名前に由来します。

  • 「古文孝経碑」<br />南宋の孝宗皇帝の治世中の1163年から1189年に造られました。壁龕の高さは280センチ、花は894センチあります。「孝経」とは中国の儒教の個展で、漢代以降古代中国語と現代中国語の2つの版が存在しています。この碑は古代中国語で22章が記されており、世界で唯一無比の碑文と呼ばれているようです。

    「古文孝経碑」
    南宋の孝宗皇帝の治世中の1163年から1189年に造られました。壁龕の高さは280センチ、花は894センチあります。「孝経」とは中国の儒教の個展で、漢代以降古代中国語と現代中国語の2つの版が存在しています。この碑は古代中国語で22章が記されており、世界で唯一無比の碑文と呼ばれているようです。

  • 「趙宣堅神聖碑」<br />こちらも南宋の孝宗皇帝の治世中の1163年から1189年に造られました。碑の高さは300センチ、幅は137センチ、厚さは33センチあります。宋代の著名な歴史家である范梵玉が作詞したものを宋代四大書家の一人である蔡靖が筆を執った貴重な作品です。原本は山西省周直県の碑墓に建立されており、これは趙益堅の子孫によって製作された模写です。

    「趙宣堅神聖碑」
    こちらも南宋の孝宗皇帝の治世中の1163年から1189年に造られました。碑の高さは300センチ、幅は137センチ、厚さは33センチあります。宋代の著名な歴史家である范梵玉が作詞したものを宋代四大書家の一人である蔡靖が筆を執った貴重な作品です。原本は山西省周直県の碑墓に建立されており、これは趙益堅の子孫によって製作された模写です。

  • ようやくツアーの皆さんに追いつきました。見ての通り我々のツアーくらいしか観光客がいなかったのでじっくり見学できて良かったです。

    ようやくツアーの皆さんに追いつきました。見ての通り我々のツアーくらいしか観光客がいなかったのでじっくり見学できて良かったです。

  • 「水月観音石龕」<br />113窟については何も説明文がありませんでしたが、その姿から水月観音だということは分かりました。同じ題材の石窟はいくつもあるようです。

    「水月観音石龕」
    113窟については何も説明文がありませんでしたが、その姿から水月観音だということは分かりました。同じ題材の石窟はいくつもあるようです。

  • 菩薩の顔の部分がかなり劣化していますが、優美な体の曲線や衣の流れるような彫刻が宋時代の豊かな文化を感じさせます。

    菩薩の顔の部分がかなり劣化していますが、優美な体の曲線や衣の流れるような彫刻が宋時代の豊かな文化を感じさせます。

  • 「訶利諦母石龕」<br />宋代の960年から1279年に造られ、壁龕の大きさは高さ161センチ、幅109センチ、奥行き117センチです。訶利諦(ハーリティ)と侍女と子供像など13体が安置されています。

    「訶利諦母石龕」
    宋代の960年から1279年に造られ、壁龕の大きさは高さ161センチ、幅109センチ、奥行き117センチです。訶利諦(ハーリティ)と侍女と子供像など13体が安置されています。

  • 毘沙門天の部下である八大夜叉大将の散支夜叉の妻で、500人の子の母でした。これら大勢の子を育てるだけの栄養をつけるために人間の子を捕えて食べていたことから多くの人間から恐れられていました。

    毘沙門天の部下である八大夜叉大将の散支夜叉の妻で、500人の子の母でした。これら大勢の子を育てるだけの栄養をつけるために人間の子を捕えて食べていたことから多くの人間から恐れられていました。

  • それを見かねた釈迦は彼女が最も愛していた末子の氷迦羅(ピンガラ)を乞食(こつじき)に用いる鉢に隠しました。彼女は半狂乱となって世界中を7日間駆け抜け、探し回ったが発見するには至らず、助けを求めて釈迦に縋ることとなります。そこで釈迦は「多くの子を持ちながら一人を失っただけでお前はそれだけ嘆き悲しんでいる。それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみはいかほどであろうか。」と諭し、かくして彼女は仏法の守護神となり、子供と安産の守り神となります。日本では鬼子母神と呼ばれます。

    それを見かねた釈迦は彼女が最も愛していた末子の氷迦羅(ピンガラ)を乞食(こつじき)に用いる鉢に隠しました。彼女は半狂乱となって世界中を7日間駆け抜け、探し回ったが発見するには至らず、助けを求めて釈迦に縋ることとなります。そこで釈迦は「多くの子を持ちながら一人を失っただけでお前はそれだけ嘆き悲しんでいる。それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみはいかほどであろうか。」と諭し、かくして彼女は仏法の守護神となり、子供と安産の守り神となります。日本では鬼子母神と呼ばれます。

  • 石刻の主だったものにはスタンドが置かれ、そこには詳しい説明が書かれてありましたが、数多い石刻には何の説明もないものの方が多かったです。

    石刻の主だったものにはスタンドが置かれ、そこには詳しい説明が書かれてありましたが、数多い石刻には何の説明もないものの方が多かったです。

  • 蓮華座に座る本尊の姿は釈迦牟尼で、脇侍の仏たちの衣の裾の彫刻の細かさが目に留まります。

    蓮華座に座る本尊の姿は釈迦牟尼で、脇侍の仏たちの衣の裾の彫刻の細かさが目に留まります。

  • 「数珠手観音石龕」<br />壁龕の高さは127センチ、幅は100センチ、奥行きは72センチと小さなものです。この観音像は腕に絹のリボンを掛け、両手を前に組み、目を伏せて自然な笑みを浮かべた優雅な姿で立っています。その美しさから「慈悲の女神」として知られ、宋代の石窟芸術の至宝と言われます。

    「数珠手観音石龕」
    壁龕の高さは127センチ、幅は100センチ、奥行きは72センチと小さなものです。この観音像は腕に絹のリボンを掛け、両手を前に組み、目を伏せて自然な笑みを浮かべた優雅な姿で立っています。その美しさから「慈悲の女神」として知られ、宋代の石窟芸術の至宝と言われます。

  • 六臂の腕に円盤と剣を持つ石像は仏教のものというよりもヒンドゥー教の神々の姿に近いような姿をしています。詳しいことは説明が無いので分からないのが残念です。

    六臂の腕に円盤と剣を持つ石像は仏教のものというよりもヒンドゥー教の神々の姿に近いような姿をしています。詳しいことは説明が無いので分からないのが残念です。

  • 「摩利支天女石龕」<br />宋代の960年から1279年の間に造られた石龕は高さ221センチ、幅114センチ、奥行き104センチあります。本尊は中央に摩利支天女を据え、左右の壁には8体の護法尊が彫られています。

    「摩利支天女石龕」
    宋代の960年から1279年の間に造られた石龕は高さ221センチ、幅114センチ、奥行き104センチあります。本尊は中央に摩利支天女を据え、左右の壁には8体の護法尊が彫られています。

  • 戦車に乗った摩利支天女は三面八臂の姿で、8本の腕にはそれぞれ異なる武器を持った女性の姿で表されています。摩利支天は仏教において、全能の守護神として知られています。護身や蓄財などの神として日本で中世以降信仰を集め、楠木正成は兜の中に摩利支天の小像を篭めていたといわれます。また毛利元就や立花道雪は「摩利支天の旗」を旗印として用いました。

    戦車に乗った摩利支天女は三面八臂の姿で、8本の腕にはそれぞれ異なる武器を持った女性の姿で表されています。摩利支天は仏教において、全能の守護神として知られています。護身や蓄財などの神として日本で中世以降信仰を集め、楠木正成は兜の中に摩利支天の小像を篭めていたといわれます。また毛利元就や立花道雪は「摩利支天の旗」を旗印として用いました。

  • 「水月観音石龕」<br />宋代の1131年から1162年の間に造られた石龕は高さ390センチ、幅272センチ、奥行き305センチと大きなものです。正面の観音菩薩は瓔珞の装飾と絹のリボンで美しく飾られています。

    「水月観音石龕」
    宋代の1131年から1162年の間に造られた石龕は高さ390センチ、幅272センチ、奥行き305センチと大きなものです。正面の観音菩薩は瓔珞の装飾と絹のリボンで美しく飾られています。

  • 左右の壁には武将の姿をした護法神が4体が生き生きと描かれています。

    左右の壁には武将の姿をした護法神が4体が生き生きと描かれています。

  • 滝が落ちる岩山を背景に座り、円相状の光背を負った観音菩薩が岩上に坐り、傍らに揚柳(ようりゅう)の枝をさした水瓶を置いています。観音の姿は中国唐代に成立したといわれる水月観音の図像を踏襲しています。

    滝が落ちる岩山を背景に座り、円相状の光背を負った観音菩薩が岩上に坐り、傍らに揚柳(ようりゅう)の枝をさした水瓶を置いています。観音の姿は中国唐代に成立したといわれる水月観音の図像を踏襲しています。

  • 「転輪経藏石龕」<br />芸術性に優れた石刻として高く評価され、唐時代、五代十国時代、北宋時代、南宋時代それぞれの時代の造りとその変化を見ることができ、文化の変遷を感じることができます。

    「転輪経藏石龕」
    芸術性に優れた石刻として高く評価され、唐時代、五代十国時代、北宋時代、南宋時代それぞれの時代の造りとその変化を見ることができ、文化の変遷を感じることができます。

  • 転輪経藏とは中央に中心軸に沿って回転させることが可能な八面等に貼り合わせた形の書架を設け、そこに大蔵経を収納した形式の回転式書架です。その起源は中国南朝梁の傅大士(ふだいし)によるものと伝えられています。

    転輪経藏とは中央に中心軸に沿って回転させることが可能な八面等に貼り合わせた形の書架を設け、そこに大蔵経を収納した形式の回転式書架です。その起源は中国南朝梁の傅大士(ふだいし)によるものと伝えられています。

  • その経藏を回転させることにより納められた経典を読んだこととされます。チベット仏教における転経器(てんきょうき)である魔尼車も同じ考えによるものだと思います。

    その経藏を回転させることにより納められた経典を読んだこととされます。チベット仏教における転経器(てんきょうき)である魔尼車も同じ考えによるものだと思います。

  • 過去に参拝した雲南省の香格里拉の独克宋古城の大佛寺で巨大な魔尼車を回転させたことを思い出します。日本では長野の善光寺にもありました。高野山では自ら回転させることも出来ました。これらは時計回りに回転させるのが決まりですが、この旅の前に行った京都の仁和寺では経蔵の参拝順路が逆だったので、説明している若い僧侶に尋ねてみると「入り口と出口の関係で逆に案内しています。」という答えでした。特別拝観の経蔵ですみたいな説明もありましたが、宗教的なありがたみは感じられなくなりました。

    過去に参拝した雲南省の香格里拉の独克宋古城の大佛寺で巨大な魔尼車を回転させたことを思い出します。日本では長野の善光寺にもありました。高野山では自ら回転させることも出来ました。これらは時計回りに回転させるのが決まりですが、この旅の前に行った京都の仁和寺では経蔵の参拝順路が逆だったので、説明している若い僧侶に尋ねてみると「入り口と出口の関係で逆に案内しています。」という答えでした。特別拝観の経蔵ですみたいな説明もありましたが、宗教的なありがたみは感じられなくなりました。

  • 大きな石龕の間の小さな壁龕にも仏を奉納した信者の願いを感じることが出来ます。それぞれに奉納者がいたのだと思うと胸をうたれます。

    大きな石龕の間の小さな壁龕にも仏を奉納した信者の願いを感じることが出来ます。それぞれに奉納者がいたのだと思うと胸をうたれます。

  • 「観自在如意輪菩薩石龕」<br />南宋時代の建延2年、1128年に造られた石龕は高さ424センチ、幅387センチ、奥行き340センチと巨大なもので、48体の仏像が安置されています。

    「観自在如意輪菩薩石龕」
    南宋時代の建延2年、1128年に造られた石龕は高さ424センチ、幅387センチ、奥行き340センチと巨大なもので、48体の仏像が安置されています。

  • 主壁には如意輪観音が配されています。観音菩薩の変化身の1つであり、六観音の一尊に数えられます。三昧耶形は如意宝珠や紅蓮華とされますがここでは確認できませんでした。

    主壁には如意輪観音が配されています。観音菩薩の変化身の1つであり、六観音の一尊に数えられます。三昧耶形は如意宝珠や紅蓮華とされますがここでは確認できませんでした。

  • 壁龕が大きいせいか外部の風雨の影響を受けることが少なかったようで、保存状態は非常に良いのに驚きます。

    壁龕が大きいせいか外部の風雨の影響を受けることが少なかったようで、保存状態は非常に良いのに驚きます。

  • 約900年の時間がここに閉じ込められているように思えます。

    約900年の時間がここに閉じ込められているように思えます。

  • 「孔雀明王石龕」<br />北宋元年の1126年に造られた石龕は高さ322センチ、幅322センチ、奥行きに至っては607センチにも及びます。左右の壁には950体の仏像が彫られています。

    「孔雀明王石龕」
    北宋元年の1126年に造られた石龕は高さ322センチ、幅322センチ、奥行きに至っては607センチにも及びます。左右の壁には950体の仏像が彫られています。

  • 中央には孔雀の背に乗った孔雀明王が鎮座しています。憤怒の相が特徴である明王のなかでは珍しく慈悲を表した菩薩形を持っています。一面四臂の姿で表されることが多く、4本の手にはそれぞれ倶縁果、吉祥果、蓮華、孔雀の尾を持っています。

    中央には孔雀の背に乗った孔雀明王が鎮座しています。憤怒の相が特徴である明王のなかでは珍しく慈悲を表した菩薩形を持っています。一面四臂の姿で表されることが多く、4本の手にはそれぞれ倶縁果、吉祥果、蓮華、孔雀の尾を持っています。

  • 「弥勒下生経変相」<br />石龕の高さは272センチ、幅195センチ、奥行き220センチの石窟の中には173体もの仏像が安置されています。正面の壁には弥勒菩薩座像が置かれ、両側の壁には経典に記された菩薩や力士、学者や俗人が彫られています。

    「弥勒下生経変相」
    石龕の高さは272センチ、幅195センチ、奥行き220センチの石窟の中には173体もの仏像が安置されています。正面の壁には弥勒菩薩座像が置かれ、両側の壁には経典に記された菩薩や力士、学者や俗人が彫られています。

  • 弥勒菩薩は仏教において釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏であり、大乗仏教では菩薩の一尊という位置づけになります。釈迦牟尼の入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされます。それまでは兜率天で修行あるいは説法しているといわれ、中国や朝鮮半島や日本では弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う上生信仰が流行しました。弥勒菩薩が出現するまでの間は現世に仏が不在となってしまいますが、その間に六道すべての世界に現れて衆生を救うのが地蔵菩薩であるとされます。

    弥勒菩薩は仏教において釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏であり、大乗仏教では菩薩の一尊という位置づけになります。釈迦牟尼の入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされます。それまでは兜率天で修行あるいは説法しているといわれ、中国や朝鮮半島や日本では弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う上生信仰が流行しました。弥勒菩薩が出現するまでの間は現世に仏が不在となってしまいますが、その間に六道すべての世界に現れて衆生を救うのが地蔵菩薩であるとされます。

  • 「泗州大経石龕」<br />石龕の高さ298センチ、幅222センチ、奥行き237センチで主壁には僧伽、側壁には智公や方彗といった僧侶の彫刻が並びます。<br />

    「泗州大経石龕」
    石龕の高さ298センチ、幅222センチ、奥行き237センチで主壁には僧伽、側壁には智公や方彗といった僧侶の彫刻が並びます。

  • 僧伽のような一般の僧侶が聖人として崇拝されていることは中国における仏教の地方化と世俗化を示す重要な証拠となります。

    僧伽のような一般の僧侶が聖人として崇拝されていることは中国における仏教の地方化と世俗化を示す重要な証拠となります。

  • また誰もいない1人だけの時間になってしまいました。イヤフォンガイドからもガイドさんの声は聞こえなくなりました。

    また誰もいない1人だけの時間になってしまいました。イヤフォンガイドからもガイドさんの声は聞こえなくなりました。

  • 柵へ急ぎたい気持ちはあるのですが、素通りしてしまうには惜しい仏たちの姿があります。

    柵へ急ぎたい気持ちはあるのですが、素通りしてしまうには惜しい仏たちの姿があります。

  • 昨年行ったインドのアジャンタとエローラの石窟も素晴らしかったですが、中国の石刻も見事だと思います。そうなるとまだ見ぬ仏教の三大石窟の龍門石窟と莫高窟、そして雲岡石窟にも足を運びたくなります。妻の年齢を考えるとゆっくりもしていられません。

    昨年行ったインドのアジャンタとエローラの石窟も素晴らしかったですが、中国の石刻も見事だと思います。そうなるとまだ見ぬ仏教の三大石窟の龍門石窟と莫高窟、そして雲岡石窟にも足を運びたくなります。妻の年齢を考えるとゆっくりもしていられません。

  • 「観無量寿佛経変相」<br />こちらは時代が古く9世紀後半の唐代後期に造られたものです。高さ469センチ、幅361センチ、奥行き40センチの壁龕には仏典が刻まれた石碑578基と宮殿建築4基が安置されています。

    「観無量寿佛経変相」
    こちらは時代が古く9世紀後半の唐代後期に造られたものです。高さ469センチ、幅361センチ、奥行き40センチの壁龕には仏典が刻まれた石碑578基と宮殿建築4基が安置されています。

  • 上部には西方浄土繁栄の様相が表され、中央には西方浄土三聖が置かれ、下部には因果応報に関する経文が巧みに描かれています。左右に壁には十六観音が浮き彫りにされ、これらは唐代末期の彫刻技術の卓越性を余すところなく体現しています。

    上部には西方浄土繁栄の様相が表され、中央には西方浄土三聖が置かれ、下部には因果応報に関する経文が巧みに描かれています。左右に壁には十六観音が浮き彫りにされ、これらは唐代末期の彫刻技術の卓越性を余すところなく体現しています。

  • 「観音地蔵石龕」<br />五代の西暦907年から960年に造られた石龕は高さ157センチ、幅122センチ、奥行き96センチの小さなものです。

    「観音地蔵石龕」
    五代の西暦907年から960年に造られた石龕は高さ157センチ、幅122センチ、奥行き96センチの小さなものです。

  • 奥の壁には地蔵菩薩と十大慈悲観音が並んで立っており、雲間には地獄の王と地獄の裁判官が彫られています。

    奥の壁には地蔵菩薩と十大慈悲観音が並んで立っており、雲間には地獄の王と地獄の裁判官が彫られています。

  • どの像も顔がふっくら歳て体は細く、五代彫刻が唐代の様式から宋代の様式へと変化する様を知ることが出来ます。

    どの像も顔がふっくら歳て体は細く、五代彫刻が唐代の様式から宋代の様式へと変化する様を知ることが出来ます。

  • 1940年代の北山石刻の第269号から第281号を撮った写真もありました。当時は覆屋などは無く、むき出しだったことが分かります。

    1940年代の北山石刻の第269号から第281号を撮った写真もありました。当時は覆屋などは無く、むき出しだったことが分かります。

  • 最期の小さな石龕にも見事な彫刻が並んでいます。写真と見比べても現在の状態が良いことが感じ取れます。石龕を見学しているルートは比較的新しいものから古いものへと進んでいることが分かってきました。

    最期の小さな石龕にも見事な彫刻が並んでいます。写真と見比べても現在の状態が良いことが感じ取れます。石龕を見学しているルートは比較的新しいものから古いものへと進んでいることが分かってきました。

  • 千手観音の持物を確認している時間はありません。

    千手観音の持物を確認している時間はありません。

  • この辺りの彫刻は蜀の後期の西暦954年頃に造られたものです。同じような題材の物が多く、その中の1つだけに説明文が添えられてありました。

    この辺りの彫刻は蜀の後期の西暦954年頃に造られたものです。同じような題材の物が多く、その中の1つだけに説明文が添えられてありました。

  • 「薬師浄土変相経」<br />高さ191センチ、幅235s電池、奥行き61センチの特殊な構造の壁龕で、左側には宇陀如来陀羅尼経が刻まれた石塔、右側には薬師如来と日光菩薩と月光菩薩を含む67体の像が安置されています。

    「薬師浄土変相経」
    高さ191センチ、幅235s電池、奥行き61センチの特殊な構造の壁龕で、左側には宇陀如来陀羅尼経が刻まれた石塔、右側には薬師如来と日光菩薩と月光菩薩を含む67体の像が安置されています。

  • ここでようやくツアーの方たちと合流出来ました。妻に至ってはもう他人のような表情でガイドさんの説明を聴いています。

    ここでようやくツアーの方たちと合流出来ました。妻に至ってはもう他人のような表情でガイドさんの説明を聴いています。

  • 北山石刻も1時間の見学予定でしたが熱のこもったガイドさんの説明でだいぶ時間を過ぎていました。その分満足のいく見学で良かったです。

    北山石刻も1時間の見学予定でしたが熱のこもったガイドさんの説明でだいぶ時間を過ぎていました。その分満足のいく見学で良かったです。

  • 出口に向かう道中には新しく造られた石像が売られていました。タイのスコータイ遺跡では昔は本物の発掘品が売られていたと地元の人に教えてもらったことがありましたが、現在はそういった話は聞かなくなりました。

    出口に向かう道中には新しく造られた石像が売られていました。タイのスコータイ遺跡では昔は本物の発掘品が売られていたと地元の人に教えてもらったことがありましたが、現在はそういった話は聞かなくなりました。

  • ツアーのバスは一度大足の街の中心部を通過して重慶に向かいます。

    ツアーのバスは一度大足の街の中心部を通過して重慶に向かいます。

  • 再び美しい菜の花畑が続きます。

    再び美しい菜の花畑が続きます。

  • この旅の数か月後にイギリスをクルーズ船で1周した旅のエクスカーションで、ガイドさんが菜の花畑を見て「キャノーラからは食用油を採ります。」と聞いて、」菜の花は英語でキャノーラだったかと当たり前のことに気が付きました。

    この旅の数か月後にイギリスをクルーズ船で1周した旅のエクスカーションで、ガイドさんが菜の花畑を見て「キャノーラからは食用油を採ります。」と聞いて、」菜の花は英語でキャノーラだったかと当たり前のことに気が付きました。

  • 町外れから高速道路に乗って一気に重慶まで戻ります。途中でトイレ休憩が1回ありました。

    町外れから高速道路に乗って一気に重慶まで戻ります。途中でトイレ休憩が1回ありました。

  • 重慶の街に入ると途端に大都会になりますが、あまりに大きすぎてどこにいるのかは分かりません。今回は町中の観光はほとんどありません。

    重慶の街に入ると途端に大都会になりますが、あまりに大きすぎてどこにいるのかは分かりません。今回は町中の観光はほとんどありません。

  • 重慶の公共交通のバスは見た限り全部が電気バスになっているようです。昔のエアコンも無い車内が燃料臭いバスなどは走っていないようです。車に酔う人も多く、郊外へ行くバスの中では子供がゲロを吐いたりというすごい時代がありました。

    重慶の公共交通のバスは見た限り全部が電気バスになっているようです。昔のエアコンも無い車内が燃料臭いバスなどは走っていないようです。車に酔う人も多く、郊外へ行くバスの中では子供がゲロを吐いたりというすごい時代がありました。

  • 通りがかったチョンキン・マンションの文字に香港の伝説的なビルのことを思い出します。両替のレートが良くて何度か通ったことがありました。沢木耕太郎の「深夜特急」にも出てきたと記憶しています。ウォン・カーウァイの「恋する惑星」の舞台でもありました。

    通りがかったチョンキン・マンションの文字に香港の伝説的なビルのことを思い出します。両替のレートが良くて何度か通ったことがありました。沢木耕太郎の「深夜特急」にも出てきたと記憶しています。ウォン・カーウァイの「恋する惑星」の舞台でもありました。

  • 重慶企業天地の化龍橋という地下鉄駅に差し掛かります。長江に合流する直前の嘉陵江を渡る長い橋が見えます。

    重慶企業天地の化龍橋という地下鉄駅に差し掛かります。長江に合流する直前の嘉陵江を渡る長い橋が見えます。

  • ビルの中を通過する地下鉄駅もバスの車窓からちらりと見ることが出来ました。長江の対岸とを結ぶロープウェイなど面白い交通機関のある重慶なので、そんなものにも乗ってみたかったです。

    ビルの中を通過する地下鉄駅もバスの車窓からちらりと見ることが出来ました。長江の対岸とを結ぶロープウェイなど面白い交通機関のある重慶なので、そんなものにも乗ってみたかったです。

  • 重慶で最も高い「陸海国際センタービル」の高さは約458メートルあり、1万8000枚のカーテンウォールのガラスパネルで覆われています。

    重慶で最も高い「陸海国際センタービル」の高さは約458メートルあり、1万8000枚のカーテンウォールのガラスパネルで覆われています。

  • 相かと思うとこんな送電線の近くにマンションが建っています。高圧線や送電線のまわりには一定の電磁波が発生しています。国によっては健康の被害を考えて一定の距離をとるような法律がありますが中国には無さそうですね。

    相かと思うとこんな送電線の近くにマンションが建っています。高圧線や送電線のまわりには一定の電磁波が発生しています。国によっては健康の被害を考えて一定の距離をとるような法律がありますが中国には無さそうですね。

  • 丘の上には遊園地の遊具のような小さな電車も走っていました。詳しく調べてきませんでしたが面白そうな町です。

    丘の上には遊園地の遊具のような小さな電車も走っていました。詳しく調べてきませんでしたが面白そうな町です。

  • 重慶市内に入って繁華街でバスを降りて、夕食を食べるレストランのあるビルでトイレに行きます。そのビルの前にあったキャラクターが面白く、写真に撮りましたがネットでどれだけ調べても画像の1枚も出てきません。翌日行った「双桂山」では蘇軾たちが訪ねた際に白い鹿が鳴いたという藩士を聴いて、それに由来するのかと思いましたが…。

    重慶市内に入って繁華街でバスを降りて、夕食を食べるレストランのあるビルでトイレに行きます。そのビルの前にあったキャラクターが面白く、写真に撮りましたがネットでどれだけ調べても画像の1枚も出てきません。翌日行った「双桂山」では蘇軾たちが訪ねた際に白い鹿が鳴いたという藩士を聴いて、それに由来するのかと思いましたが…。

  • 今回のツアーの予定では一応重慶の観光という一項がありましたが、一番の繁華街である「解放碑」の辺りをちょっと歩くだけでした。

    今回のツアーの予定では一応重慶の観光という一項がありましたが、一番の繁華街である「解放碑」の辺りをちょっと歩くだけでした。

  • ここは中国の人にとって重慶観光のシンボルの1つで、年間を通じ多くの観光客で賑わっているようです。日中戦争中に重慶を陪都(臨時政府)とした当時の国民党政府が国民を鼓舞するためここに堡塁を建造しました。

    ここは中国の人にとって重慶観光のシンボルの1つで、年間を通じ多くの観光客で賑わっているようです。日中戦争中に重慶を陪都(臨時政府)とした当時の国民党政府が国民を鼓舞するためここに堡塁を建造しました。

    デキンホテル重慶解放碑 ホテル

  • その後「抗戦勝利記功碑」として現在の原型に建て替えられ、解放後に現在の「人民解放記念碑」に改名されました。碑の下には撃墜された旧日本軍機の残骸が埋められていると言われているようです。重慶爆撃は日中戦争中の1938年の昭和13年12月から1941年の昭和16年9月にかけ、大日本帝国陸海軍航空部隊が当時中華民国の首都であった重慶に対して反復実施した大規模な空襲のことです。日本人が観光するにはちょっと緊張する場所でもあります。

    その後「抗戦勝利記功碑」として現在の原型に建て替えられ、解放後に現在の「人民解放記念碑」に改名されました。碑の下には撃墜された旧日本軍機の残骸が埋められていると言われているようです。重慶爆撃は日中戦争中の1938年の昭和13年12月から1941年の昭和16年9月にかけ、大日本帝国陸海軍航空部隊が当時中華民国の首都であった重慶に対して反復実施した大規模な空襲のことです。日本人が観光するにはちょっと緊張する場所でもあります。

  • 少しフリータイムがあった後は再び商業ビルのレストラン街に戻ります。この日の夕食は「小天鵝」という火鍋料理店でした。

    少しフリータイムがあった後は再び商業ビルのレストラン街に戻ります。この日の夕食は「小天鵝」という火鍋料理店でした。

    重慶小天鵝火鍋食府 (ジュウケイショウテンガカカショクフ) 中華

  • まだ会ったばかりの人と鍋を突くのかと心配して今井sたが、1人鍋だったので安心です。セルフで野菜や豆腐や麺は自分で食べたいだけ持ってきます。

    まだ会ったばかりの人と鍋を突くのかと心配して今井sたが、1人鍋だったので安心です。セルフで野菜や豆腐や麺は自分で食べたいだけ持ってきます。

  • 鍋は白湯スープと重慶火鍋の辛いスープに分かれています。ビールもテーブルごとに瓶ビールが置かれていて、これも飲み放題で70分のコースに入っていました。

    鍋は白湯スープと重慶火鍋の辛いスープに分かれています。ビールもテーブルごとに瓶ビールが置かれていて、これも飲み放題で70分のコースに入っていました。

  • 「魚片」は白身の川魚は鯉のようでした。4人ごとにこんな小皿に盛られてソービスされました。

    「魚片」は白身の川魚は鯉のようでした。4人ごとにこんな小皿に盛られてソービスされました。

  • 「香菜丸子」はパクチーの入った肉団子です。

    「香菜丸子」はパクチーの入った肉団子です。

  • 「肥牛」は牛肉のスライスしたものです。

    「肥牛」は牛肉のスライスしたものです。

  • それ以外にも「鴨腸」「老肉片」「醤肉」「「午餐肉」「老肉巻」「五花肉」などなどが並んでいきます。

    それ以外にも「鴨腸」「老肉片」「醤肉」「「午餐肉」「老肉巻」「五花肉」などなどが並んでいきます。

  • 欧米人のツアー客や中国のツアー客も入り乱れていますが、相変わらず中国の人は並ばないですね。

    欧米人のツアー客や中国のツアー客も入り乱れていますが、相変わらず中国の人は並ばないですね。

  • 付けタレも自分で調整することが出来ます。薬味だけでも10種類以上ありました。ゴマダレをベースに自分好みのタレを作りました。日本にもよくある食べ放題のしゃぶしゃぶ店のようでしたが、本場重慶で火鍋を食べられて良かったです。

    付けタレも自分で調整することが出来ます。薬味だけでも10種類以上ありました。ゴマダレをベースに自分好みのタレを作りました。日本にもよくある食べ放題のしゃぶしゃぶ店のようでしたが、本場重慶で火鍋を食べられて良かったです。

  • 夕食を終えて表に出るといい具合に火が暮れています。この日重慶に泊まるのであれば夜遊びに出たいところですがそうもいきません。

    夕食を終えて表に出るといい具合に火が暮れています。この日重慶に泊まるのであれば夜遊びに出たいところですがそうもいきません。

  • こんな設えの火鍋店も魅力的ですが、観光客いての店でないと辛すぎて食べられない気もします。

    こんな設えの火鍋店も魅力的ですが、観光客いての店でないと辛すぎて食べられない気もします。

  • 重慶は長江に向かって急斜面が多い町だということは過去に見た映画などで知っていましたが、住むには厳しそうな気がします。特に自分が還暦を越えているとさらにそう思えます。

    重慶は長江に向かって急斜面が多い町だということは過去に見た映画などで知っていましたが、住むには厳しそうな気がします。特に自分が還暦を越えているとさらにそう思えます。

  • バスは重慶市内を抜けて「水陸朕運旅客集散中心」というクルーズ船乗り場でバスを降りました。正式には「朝天門15埠頭」というようです。トランクなどの大きな荷物はバスの荷物入れの中にありますが、ポーターサービスがあるので自分で運ぶことはありません。

    バスは重慶市内を抜けて「水陸朕運旅客集散中心」というクルーズ船乗り場でバスを降りました。正式には「朝天門15埠頭」というようです。トランクなどの大きな荷物はバスの荷物入れの中にありますが、ポーターサービスがあるので自分で運ぶことはありません。

  • 手回りの荷物だけを持って高台の建物から階段を下っていきます。急な階段なのでこれでは自分で重たい荷物を持っては降りられません。

    手回りの荷物だけを持って高台の建物から階段を下っていきます。急な階段なのでこれでは自分で重たい荷物を持っては降りられません。

  • 荷物は貨物エレベーターか何かで運ぶのだろうと思っていましたが、「棒棒(バンバン)」と呼ばれる荷物担ぎのおじさんが運んでいました。これを見た瞬間感激しました。「棒棒」は竹の棒とロープを労働道具として、山に築かれた街「重慶」の市街地で坂を登り、叫び声で仕事を依頼する市民を呼びかけて、零細な運搬労務サービスを提供する人々です。

    荷物は貨物エレベーターか何かで運ぶのだろうと思っていましたが、「棒棒(バンバン)」と呼ばれる荷物担ぎのおじさんが運んでいました。これを見た瞬間感激しました。「棒棒」は竹の棒とロープを労働道具として、山に築かれた街「重慶」の市街地で坂を登り、叫び声で仕事を依頼する市民を呼びかけて、零細な運搬労務サービスを提供する人々です。

  • 重慶だけに「棒棒」という職業が存在しているのは周辺区県から来た農民は棒棒業界の収入が他の肉体労働業界に比べて相対的に高いからのようです。次に雇用関係に比較的優位性があり、従事者は雇用主と直接交渉し中間的な労働搾取は存在しないからのようです。竹の棒を担がせてもらいたいと思って追いかけましたが、アッという間に荷物をほどいて次の荷物を獲りに行ってしまいました。

    重慶だけに「棒棒」という職業が存在しているのは周辺区県から来た農民は棒棒業界の収入が他の肉体労働業界に比べて相対的に高いからのようです。次に雇用関係に比較的優位性があり、従事者は雇用主と直接交渉し中間的な労働搾取は存在しないからのようです。竹の棒を担がせてもらいたいと思って追いかけましたが、アッという間に荷物をほどいて次の荷物を獲りに行ってしまいました。

  • 今回の三峡下りは「ビクトリアカタリナ号」という5星のクルーズ船です。ガイドさんから簡単な説明があった後は鍵を受け取って部屋に向かいます。ロビーに置いてあったパンフレットで船のオプションを確認して「烽煙三国ショー」を申し込みました。このオプションにはツアーの半分くらいの方が参加することになり、ガイドさんも同行してくれることになりました。

    今回の三峡下りは「ビクトリアカタリナ号」という5星のクルーズ船です。ガイドさんから簡単な説明があった後は鍵を受け取って部屋に向かいます。ロビーに置いてあったパンフレットで船のオプションを確認して「烽煙三国ショー」を申し込みました。このオプションにはツアーの半分くらいの方が参加することになり、ガイドさんも同行してくれることになりました。

  • 部屋は4階の421号室で左舷側の部屋でした。後に分かりましたが三峡下りのリバークルーズの場合は船が右側通行なので乗船口が右舷側になります。停泊中に限っていうと左舷の方が見晴らしは良いように思えました。ベットの先には小さいですがバルコニーも付いています。

    部屋は4階の421号室で左舷側の部屋でした。後に分かりましたが三峡下りのリバークルーズの場合は船が右側通行なので乗船口が右舷側になります。停泊中に限っていうと左舷の方が見晴らしは良いように思えました。ベットの先には小さいですがバルコニーも付いています。

  • エアコン,に衛星テレビ,、ティーバッグやスリッパ、冷蔵庫もあるので陸地のホテルとそん色ない設備です。ソファーのあるスペースもあり、19平米あるのでプリン煤やMSCのクルーズ船よりも広い印象を受けます。ミネラルウォーターも2本置いてあります。

    エアコン,に衛星テレビ,、ティーバッグやスリッパ、冷蔵庫もあるので陸地のホテルとそん色ない設備です。ソファーのあるスペースもあり、19平米あるのでプリン煤やMSCのクルーズ船よりも広い印象を受けます。ミネラルウォーターも2本置いてあります。

  • バスルームにはバスタブもあり、お湯も豊富に出るので快適に使うことが出来ました。1日2本づつミネラルウォーターも貰えるので水を買うことはありませんでした。

    バスルームにはバスタブもあり、お湯も豊富に出るので快適に使うことが出来ました。1日2本づつミネラルウォーターも貰えるので水を買うことはありませんでした。

  • 船内のチップは1人150元づつ必要で、これは現金でガイドさんに渡しました。今回は1元14円の時代に両替したまま自宅に置いてあった100元札を持って来ていましたが、空港でもいくらか両替してきました。現在は20円を超える為替なので日本円は中国元に対しても弱くなっています。

    船内のチップは1人150元づつ必要で、これは現金でガイドさんに渡しました。今回は1元14円の時代に両替したまま自宅に置いてあった100元札を持って来ていましたが、空港でもいくらか両替してきました。現在は20円を超える為替なので日本円は中国元に対しても弱くなっています。

  • 午後9時の出港前にしばらく部屋のバルコニーから長江の夜景を眺めます。

    午後9時の出港前にしばらく部屋のバルコニーから長江の夜景を眺めます。

  • きれいにライトアップした遊覧船が行き来しています。コロナ前に個人旅行で重慶に来て周辺を数日間こうして三峡を下り、そのまま上海まで船で下る旅を考えたことがありました。

    きれいにライトアップした遊覧船が行き来しています。コロナ前に個人旅行で重慶に来て周辺を数日間こうして三峡を下り、そのまま上海まで船で下る旅を考えたことがありました。

  • さすがにそんな旅はとん挫したままで、その後はヨーロッパやオセアニアを巡るクルーズに興味が移ってしまいました。

    さすがにそんな旅はとん挫したままで、その後はヨーロッパやオセアニアを巡るクルーズに興味が移ってしまいました。

  • そんな中でも若い頃から一度は行ってみたいと思っていた三峡下りは忘れられず、今回宣昌までのクルーズに申し込みました。

    そんな中でも若い頃から一度は行ってみたいと思っていた三峡下りは忘れられず、今回宣昌までのクルーズに申し込みました。

  • ライトアップした「東水門長江大橋」がとてもきれいで、その下を航行するクルーズ船も輝いています。

    ライトアップした「東水門長江大橋」がとてもきれいで、その下を航行するクルーズ船も輝いています。

  • 「重慶南浜路シェラトンホテルツインタワー」のライトアップがいろいろ変化して見ていても飽きることがありません。

    「重慶南浜路シェラトンホテルツインタワー」のライトアップがいろいろ変化して見ていても飽きることがありません。

  • 黄色いボックスは「長江索道」というロープウェイです。長江(揚子江)を跨ぎ渝中区と南岸区の間を結ぶ全長1キロほどのロープウェイは1987年に運行を開始しています。当初は庶民の重要な足として利用されましたが、各種交通手段の発展もあり現在はもっぱら観光用になっています。実際に乗車する時間はほんの5分程度のようです。

    黄色いボックスは「長江索道」というロープウェイです。長江(揚子江)を跨ぎ渝中区と南岸区の間を結ぶ全長1キロほどのロープウェイは1987年に運行を開始しています。当初は庶民の重要な足として利用されましたが、各種交通手段の発展もあり現在はもっぱら観光用になっています。実際に乗車する時間はほんの5分程度のようです。

  • 重慶に来たかった理由の1つに「長江哀歌(三峡好人)」というジャ・ジャンクー監督による2006年の中国映画でありました。三峡ダム建設により水没する古都に住む人々が描かれた秀逸な映画でしたが、その中でもこのロープウェイが出てきます。旅行前にもう一度観てからと思いましたが、バタバタして時間がありませんでした。

    重慶に来たかった理由の1つに「長江哀歌(三峡好人)」というジャ・ジャンクー監督による2006年の中国映画でありました。三峡ダム建設により水没する古都に住む人々が描かれた秀逸な映画でしたが、その中でもこのロープウェイが出てきます。旅行前にもう一度観てからと思いましたが、バタバタして時間がありませんでした。

  • 午後9時前に屋上のデッキに集まりました。他の乗客もすでに集まっていて混雑いsていました。中国人のスタッフと乗客は音楽に合わせてジェンカを踊っていました。

    午後9時前に屋上のデッキに集まりました。他の乗客もすでに集まっていて混雑いsていました。中国人のスタッフと乗客は音楽に合わせてジェンカを踊っていました。

  • ジェンカはフィンランドのフォークダンスですが、日本において単に「ジェンカ」と呼ばれる複数人で列を作り、跳躍を繰り返して少しずつ前に進んでいく踊りは本来は「レットキス」と呼ばれるものです。

    ジェンカはフィンランドのフォークダンスですが、日本において単に「ジェンカ」と呼ばれる複数人で列を作り、跳躍を繰り返して少しずつ前に進んでいく踊りは本来は「レットキス」と呼ばれるものです。

  • 1970年の大阪万博では太陽の塔の「お祭り広場」で外国の人に混ざって、坂本九の歌に合わせて「レットキス」を踊った記憶が蘇りました。<br />https://www.youtube.com/watch?v=C7I-WVPvrsc

    1970年の大阪万博では太陽の塔の「お祭り広場」で外国の人に混ざって、坂本九の歌に合わせて「レットキス」を踊った記憶が蘇りました。
    https://www.youtube.com/watch?v=C7I-WVPvrsc

  • 「東水門長江大橋」を越えると2019年9月にオープンして重慶の新しいシンボルとなった「ラッフルズシティー」が見えてきました。

    「東水門長江大橋」を越えると2019年9月にオープンして重慶の新しいシンボルとなった「ラッフルズシティー」が見えてきました。

  • 名前のせいもあるのかもしれませんがシンガポールの「マリーナベイサンズ」を思い出させます。高校と輝く重慶のビル群や橋や行き交う船を見ていると中国の景気は本当に良くないのだろうかと思ってしまいます。

    名前のせいもあるのかもしれませんがシンガポールの「マリーナベイサンズ」を思い出させます。高校と輝く重慶のビル群や橋や行き交う船を見ていると中国の景気は本当に良くないのだろうかと思ってしまいます。

  • いよいよ三峡下りのクルーズが始まるのかと思うとわくわくしてきます。海を航行するクルーズも魅力的ですが、陸地が近い川筋のクルーズもいいものです。

    いよいよ三峡下りのクルーズが始まるのかと思うとわくわくしてきます。海を航行するクルーズも魅力的ですが、陸地が近い川筋のクルーズもいいものです。

  • 「重慶朝天門広場」もきれいにライトアップしています。長江(揚子江)と嘉陵江が合流する地点で、重慶繁華街の1つである渝中区の先端に位置し、昔から長江を利用した水上交通の要所として栄えた場所です。1891年に重慶税関の設置により海外に開港された後は、この一帯に外国の領事館や居住区が開設されました。

    「重慶朝天門広場」もきれいにライトアップしています。長江(揚子江)と嘉陵江が合流する地点で、重慶繁華街の1つである渝中区の先端に位置し、昔から長江を利用した水上交通の要所として栄えた場所です。1891年に重慶税関の設置により海外に開港された後は、この一帯に外国の領事館や居住区が開設されました。

  • さらに「重慶大劇院」が見えてきました。ドイツGMPデザイン会社のフォン・ゲカンが設計を務め、独特のデザインを建築家は帆船にたとえながら、その形から世界で最大の戦車というニックネームがあるようです。

    さらに「重慶大劇院」が見えてきました。ドイツGMPデザイン会社のフォン・ゲカンが設計を務め、独特のデザインを建築家は帆船にたとえながら、その形から世界で最大の戦車というニックネームがあるようです。

  • 重慶の繁華街を過ぎてしまうと乗客は三々五々に客室へ戻っていきます。

    重慶の繁華街を過ぎてしまうと乗客は三々五々に客室へ戻っていきます。

  • 「朝天門長江大橋」が見えてきました。

    「朝天門長江大橋」が見えてきました。

  • この橋を過ぎると周囲は途端に真っ暗になり、我々も船室に戻ることにします。

    この橋を過ぎると周囲は途端に真っ暗になり、我々も船室に戻ることにします。

  • 船内にはショップがあり、生活必需品のようなものも売っています。大抵はしょうも無いお土産品が並んでいましたが、パンダをデザインしたポシェットが安くて可愛らしいのでまとめ買いしました。これはお土産にしたら喜ばれました。

    船内にはショップがあり、生活必需品のようなものも売っています。大抵はしょうも無いお土産品が並んでいましたが、パンダをデザインしたポシェットが安くて可愛らしいのでまとめ買いしました。これはお土産にしたら喜ばれました。

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2025三峡下りクルーズ

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