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2022年9月7日(水)朝の7時過ぎに身延駅近くのホテルをチェックアウト。残念ながら雨の中を駅に向かう。<br /><br />昨夜は気付かなかったが、駅前の向かいの南側に小さな神社、子之(ねの)神社。戦国時代の1505年(永正2年)の創立と伝えられるので結構な歴史の神社。祭神は大国主命で地元の産土神にもなっている。境内にはかつては暴れ川だった富士川沿いの神社らしく、水神も祀られている。元々の位置ももっと富士川沿いだったそうで、1997年に駅前聖人通り整備事業に伴い、現在地に移転された。<br /><br />身延駅7時18分発の山梨交通バスで身延山に向かう(下の写真2)。山梨交通は山梨県の甲府盆地を中心とした地域及び静岡県において路線バスや観光バスの運行を行っているバス事業者。<br /><br />1945年の創業だが、1897年に設立された山梨馬車鉄道と1917年に運行を開始した山梨自動車運輸がルーツ。山梨馬車鉄道はその後、山梨軽便鉄道、甲府電気軌道、山梨電気鉄道を経て峡西電気鉄道となり、山梨自動車運輸は山梨開発協会となり1945年に統合された。<br /><br />1960年代に入り経営状態が悪化し、ロッキード事件で有名な国際興業の小佐野賢治が再建にあたり、1962年に電車線は廃止された。1990年代以降は車椅子リフト付きのバス導入、CNGバス導入、パークアンドライド導入、日本初のバスICカード本格導入、日本初の水素燃料バス営業運行、EVバスの営業運行など日本のバス業界における先駆的な施策を打ち出している。<br /><br />現在は甲府盆地を主要なエリアとして、約100系統の路線を運行している。甲府以外では、塩山駅、韮崎駅、身延駅、富士川駅などを起点とする路線バスを運行している。<br /><br />身延駅を出たバスは富士川上流に向かい、350mほど上流にある身延橋を渡る(下の写真3)。身延橋は1923年(大正12年)に富士から身延までの区間を運行していた富士身延鉄道が久遠寺への参拝客のために架橋したもの。当初は鉄鋼製の吊り橋で有料だった。1941年(昭和16年)富士身延鉄道が国有化されると身延橋も山梨県道となり、通行料は廃止になった。<br /><br />現在の橋は1972年に架橋されたトラス橋。長さは初代より4m短くなった233mで、橋巾は倍以上の10.5mとなり、両側に歩道が設置され歩車分離されている。<br /><br />富士川(ふじかわ)は南アルプス北部、山梨県と長野県の県境辺りから流れ出し、富士山の西側を南流し、富士市と静岡市清水区との境で駿河湾に注ぐ長さ128kmの川でで、日本三大急流の一つに数えられている。なお、甲府盆地で笛吹川と合流するまでは釜無川と呼ばれる。<br /><br />笛吹川との合流点より15kmほど北の釜無川に御勅使川が合流する辺りは戦国時代にいわゆる信玄堤が築かれた場所として有名。また、下流では先日NHKで再放送してた人形劇の「平家物語」でやってたが、平安末の1180年に源頼朝と平維盛の富士川の戦いが行われた。最近は「ゆるキャン△」の聖地になっている。<br /><br />身延橋を渡って、大野トンネルを抜けて、身延市街地を西に抜けて、駅から10分ほどで北に曲がると久遠寺の総門を抜ける。久遠寺は日蓮宗の総本山で、山号が身延山で合わせて身延山久遠寺と呼ばれることが多い。まさに身延山山麓の標高400m付近にある。<br /><br />鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、法華経をもってすべての人々を救おうとした日蓮聖人は、三度にわたり幕府に諫言を行ったが、いずれも受け入れられず、逆に命を狙われたり、流罪となるが、その後赦され、信者である南部実長公の招きにより1274年に身延山に入山し、現在地の西側の鷹取山の麓の西谷に構えた草庵を住処とした。<br /><br />聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦と門弟たちの教導に終始し、1281年に旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名された。翌年、聖人は療養と両親の墓参のために山を下り、常陸国に向かったが、その途中で病状が悪化し、61年の生涯を閉じたが、遺言により遺骨は身延山に奉ぜられた。<br /><br />その後も聖人の弟子らによって継承され、約200年後の戦国(室町)時代の1475年に現在の地へと移転され、武田氏や徳川家の崇拝、外護を受け、また領主などからも手厚く守られて栄え、江戸中期の1706年には皇室勅願所ともなり、1712年には山内に133坊と最盛期を迎えた。<br /><br />1744年の火事により山内の11坊が焼失し、1776年には七面山の諸堂を焼失し、1821年には西谷御廟の八角堂と拝殿を焼失、さらに1824年には祖師堂から出火で13棟が焼失、1829年には五重塔から出火し28棟を焼失し、この時には山内寺中町方の大半も焼失した。<br /><br />幕末の1865年には中谷の仙台坊から出火し、支院17坊小堂8棟を焼失、さらに延焼して上町、中町、上新町、横町、片隅町、下町の計100軒以上が焼失した。その後復興されるも、1875年(明治8年)に再び伽藍や寺宝を焼き尽くした。火事、多過ぎ・・・<br /><br />バスは総門を抜けて谷の奥に進むが、この総門は江戸初期の1665年建立の棟門。当初の形をよく残しているが、元々は屋根は檜皮葺で、両脇の袖塀は後世のもの。身延山36世日潮上人筆の「開会関」の大額が掲げてある。開会とは「一切衆生の仏性を開発させ、すべてまとまる」との意味で、この関門はそういう信仰の境地に入るしるしという意味。身延町指定文化財。<br /><br />バスは門前町が続く中谷を登ってゆき、7時半過ぎに終点の身延山バスターミナルに到着(下の写真4)。バス代は300円。雨が降り続く中、ここからさらに200mほど登ると石段に突き当たり(下の写真5)、石段を上がると右手に久遠寺の立派な三門が建っている。<br /><br />三門は本坊域への参道口に南面して建つ。仏教では「空」「無相」「無願」の三つの境地から解脱して覚り(涅槃)に至るという教えがあり、久遠寺は本堂を涅槃の世界と位置付けているため、本堂の正面に立つこの門は三解脱を経て涅槃に至る意味合いから「三門」と呼ばる。<br /><br />間口23m、奥行き9m、高さ21mで総ケヤキ造りの木造2階建、本瓦形銅板葺、五間三戸の二階二重門。下層は木鼻付三手先詰組、二軒繁垂木、上層は尾垂木付三手先詰組、二軒扇垂木で、左右の山廊は正面には花頭窓を設ける。<br /><br />規模雄大かつ精緻な造りで、近代における禅宗様二重門の好例。この堂々たる門は、京都の南禅寺、東福寺と並んで日本三大三門の一つに数えられている。<br /><br />初代の門は江戸初期の1642年(寛永19年)に建立されたが、現在の門は1907年(明治40年)に再建されたもの。楼上には釈迦如来像と16体の羅漢像が奉安されている。また、門に掲げられている「身延山」の額は、79世日慈上人の筆によるもの。<br /><br />三門を抜けると石畳の参道が150mほど続き、右手には本多日生上人像や乃木大将詩碑、宮澤賢治歌碑などが並ぶ(下の写真6)。突き当りが本堂まで287段続く石段で、「覚りのかけはし」と云う意味の菩提梯と呼ばれている。<br /><br />石段昇り口の右手にあるのが日蓮上人を身延山に招いた南部実長公の銅像。 實長公は置文により身延山を中心とした13里四方を日蓮聖人に寄附され、子々孫々に亘り身延山を護ることを戒められた。銅像の右手から入るのが男坂で(下の写真7)、その手前の赤い橋を渡って入るのが女坂(下の写真8)。どちらも階段でなく山道が続き、男坂の方が急勾配で距離が短い。<br /><br />菩提梯を登る。登り切れば涅槃に達するこの梯(かけはし)は、南無妙法蓮華経の7字になぞらえ、41段毎に7区画に分けられている。疲れた。登るのに20分ほど掛かった。<br /><br />菩提梯を登り切ると正面に本堂があり、左手に五重塔、右手に手水舎と大鐘楼がある。本堂は1985年に落慶したもの。本尊は日蓮聖人真筆大曼荼羅本尊を木造形式にしたいわゆる立体曼荼羅で、釈迦如来像・多宝如来像・四菩薩像・不動明王像・愛染明王像・四天王像・普賢菩薩像・文殊師利菩薩像・日蓮大聖人坐像などからなっている。<br /><br />五重塔は3代目の塔で2008年竣工。初代の塔は江戸初期の1619年に、加賀前田利家の側室寿福院の建立による。大鐘楼は1882年(明治15年)に建てられたもので、1939年改修。国の登録有形文化財。<br /><br />本堂から右手に進むと、本堂の隣に祖師堂。日蓮聖人の神霊を祀る堂閣で、棲神閣と称する。江戸時代に廃寺となった感応寺のお堂を、1881年(明治14年)に移築・再建した。1991年と1994年に改修されている。国の登録有形文化財。祖師堂前の1879年(明治12年)に造られた香炉屋も。<br /><br />その隣は報恩閣。2002年に立教開宗750年を記念して、信徒の受付業務、接待所として建立されたもの。2階は会議室になっている。<br /><br />さらに奥に進むと御真骨堂にその拝殿。御真骨堂は日蓮聖人の御真骨を安置し、右側に七面大明神、左側に三十番神を祀っている。拝殿と共に1881年(明治14年)に建てられたもので、国の登録有形文化財。拝殿は2001年に改修されている。<br /><br />そして左右を納牌堂に挟まれた仏殿。朝、昼12時、夕方3時からの勤行と特別法要を営む建物。左右の納牌堂は日蓮聖人650遠忌の報恩事業として1931年(昭和6年)に建てられたもので、国の登録有形文化財。2001年に改修されている。<br /><br />左の納牌堂と仏殿の間に置かれている獅子口瓦は、仏殿納牌堂の大棟西側、地上からの高さ約21mのところに備えられていたもので、2012年に日蓮聖人降誕800年慶讃事業として屋根瓦を銅版に葺き替えるまでの約80年間、仏殿納牌堂の屋根を平穏ならしめてきた。京都の寺本甚平衛製瓦にて作成された駒形箱型の瓦で、経の巻を頂部に配し、2本の綾筋の下に「井桁に橘」紋の意匠が施されている。高さは2.8m、足下瓦左右の幅は2.2mある。<br /><br />境内の東の突き当り、仏殿右側の納牌堂の先にあるのが大客殿。入母屋造平入の長大な客殿で、内部には20畳の上段を含む畳敷の広間5室がある。正面中央に向唐破風の式台付大玄関を設け、東端に入母屋の小玄関を配する、雄大かつ豪壮な外観で総本山の接客機能に相応しい格式を備える。1886年(明治19年)築で、国の登録有形文化財。1971年に改修されている。<br /><br />その南に法喜堂。庫裡で寺務所や職員寮、学生寮、台所等が置かれている。元々は豊臣秀吉の姉が我が子の関白秀次の菩提のため、1608年に本堂や唐門と共に建立寄進したものだが、明治に入って焼失し、1883年(明治16年)再建された。桁行10間、梁間9間。入母屋造妻入で、内部は正面側の土間部に大黒柱や梁に巨木を用い、重厚な軸組と架構をみせる。出入口両側に連続する花頭窓や妻飾の二重虹梁間に連続する大瓶束など、堂々たる構成の中に近代の意匠が窺える。これも国の登録有形文化財。1971年と2011年に改修されている。<br /><br />その南に甘露門。女坂はこの門に通じている。横の門番所と共に表門として1968年(明治元年)に建てられたもので、これも国の登録有形文化財。1941年にこの位置に移築された。<br /><br />甘露門で折り返すと法喜堂の向かいに時鐘(ときのかね)。文字通り、時を告げる鐘。四国松山藩の第2代藩主、定頼の正室の寄進で、1680年に鋳造されたもので、31世日脱上人の鐘銘がある。時鐘楼は1877年(明治10年)に焼失してしまったのを、1952年(昭和27年)に映画の大映の永田雅一氏が再建したもの。これも国の登録有形文化財。2013年に屋根等が改修されている。<br /><br />さらに戻ると仏殿の斜め向かいに釈迦殿。新納牌堂として1981年に建立されたもので、 地上6階建てで最上階が釈迦殿となっており、1階から5階は全国の信徒の先祖の遺骨を安置する納牌堂(下の写真9)。<br /><br />その西隣に開基堂。戦国時代の1472年に建立した二重塔で丹塗りの古雅な九輪露盤が中央に聳えている。内部には日蓮上人を身延に招いた南部六郎実長の坐像が安置されている。1979年に境内の西側にあったものをレールを敷き、そのままの形で移転した。身延町指定文化財。<br /><br />祖師堂の前まで戻ると、向かいの御札所でお守りを購入。なんのお守りにしようかちょっと悩んだが、今回はぼけ封じの健康御守(下の写真10)。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.26086371544339523&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />まだ雨は酷いが、奥の院へ向かう。続く

山梨 身延山久遠寺(Kuon-ji temple,Minobu,Yamanashi,Japan)

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2022/09/07 - 2022/09/07

295位(同エリア298件中)

ちふゆ

ちふゆさん

2022年9月7日(水)朝の7時過ぎに身延駅近くのホテルをチェックアウト。残念ながら雨の中を駅に向かう。

昨夜は気付かなかったが、駅前の向かいの南側に小さな神社、子之(ねの)神社。戦国時代の1505年(永正2年)の創立と伝えられるので結構な歴史の神社。祭神は大国主命で地元の産土神にもなっている。境内にはかつては暴れ川だった富士川沿いの神社らしく、水神も祀られている。元々の位置ももっと富士川沿いだったそうで、1997年に駅前聖人通り整備事業に伴い、現在地に移転された。

身延駅7時18分発の山梨交通バスで身延山に向かう(下の写真2)。山梨交通は山梨県の甲府盆地を中心とした地域及び静岡県において路線バスや観光バスの運行を行っているバス事業者。

1945年の創業だが、1897年に設立された山梨馬車鉄道と1917年に運行を開始した山梨自動車運輸がルーツ。山梨馬車鉄道はその後、山梨軽便鉄道、甲府電気軌道、山梨電気鉄道を経て峡西電気鉄道となり、山梨自動車運輸は山梨開発協会となり1945年に統合された。

1960年代に入り経営状態が悪化し、ロッキード事件で有名な国際興業の小佐野賢治が再建にあたり、1962年に電車線は廃止された。1990年代以降は車椅子リフト付きのバス導入、CNGバス導入、パークアンドライド導入、日本初のバスICカード本格導入、日本初の水素燃料バス営業運行、EVバスの営業運行など日本のバス業界における先駆的な施策を打ち出している。

現在は甲府盆地を主要なエリアとして、約100系統の路線を運行している。甲府以外では、塩山駅、韮崎駅、身延駅、富士川駅などを起点とする路線バスを運行している。

身延駅を出たバスは富士川上流に向かい、350mほど上流にある身延橋を渡る(下の写真3)。身延橋は1923年(大正12年)に富士から身延までの区間を運行していた富士身延鉄道が久遠寺への参拝客のために架橋したもの。当初は鉄鋼製の吊り橋で有料だった。1941年(昭和16年)富士身延鉄道が国有化されると身延橋も山梨県道となり、通行料は廃止になった。

現在の橋は1972年に架橋されたトラス橋。長さは初代より4m短くなった233mで、橋巾は倍以上の10.5mとなり、両側に歩道が設置され歩車分離されている。

富士川(ふじかわ)は南アルプス北部、山梨県と長野県の県境辺りから流れ出し、富士山の西側を南流し、富士市と静岡市清水区との境で駿河湾に注ぐ長さ128kmの川でで、日本三大急流の一つに数えられている。なお、甲府盆地で笛吹川と合流するまでは釜無川と呼ばれる。

笛吹川との合流点より15kmほど北の釜無川に御勅使川が合流する辺りは戦国時代にいわゆる信玄堤が築かれた場所として有名。また、下流では先日NHKで再放送してた人形劇の「平家物語」でやってたが、平安末の1180年に源頼朝と平維盛の富士川の戦いが行われた。最近は「ゆるキャン△」の聖地になっている。

身延橋を渡って、大野トンネルを抜けて、身延市街地を西に抜けて、駅から10分ほどで北に曲がると久遠寺の総門を抜ける。久遠寺は日蓮宗の総本山で、山号が身延山で合わせて身延山久遠寺と呼ばれることが多い。まさに身延山山麓の標高400m付近にある。

鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、法華経をもってすべての人々を救おうとした日蓮聖人は、三度にわたり幕府に諫言を行ったが、いずれも受け入れられず、逆に命を狙われたり、流罪となるが、その後赦され、信者である南部実長公の招きにより1274年に身延山に入山し、現在地の西側の鷹取山の麓の西谷に構えた草庵を住処とした。

聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦と門弟たちの教導に終始し、1281年に旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名された。翌年、聖人は療養と両親の墓参のために山を下り、常陸国に向かったが、その途中で病状が悪化し、61年の生涯を閉じたが、遺言により遺骨は身延山に奉ぜられた。

その後も聖人の弟子らによって継承され、約200年後の戦国(室町)時代の1475年に現在の地へと移転され、武田氏や徳川家の崇拝、外護を受け、また領主などからも手厚く守られて栄え、江戸中期の1706年には皇室勅願所ともなり、1712年には山内に133坊と最盛期を迎えた。

1744年の火事により山内の11坊が焼失し、1776年には七面山の諸堂を焼失し、1821年には西谷御廟の八角堂と拝殿を焼失、さらに1824年には祖師堂から出火で13棟が焼失、1829年には五重塔から出火し28棟を焼失し、この時には山内寺中町方の大半も焼失した。

幕末の1865年には中谷の仙台坊から出火し、支院17坊小堂8棟を焼失、さらに延焼して上町、中町、上新町、横町、片隅町、下町の計100軒以上が焼失した。その後復興されるも、1875年(明治8年)に再び伽藍や寺宝を焼き尽くした。火事、多過ぎ・・・

バスは総門を抜けて谷の奥に進むが、この総門は江戸初期の1665年建立の棟門。当初の形をよく残しているが、元々は屋根は檜皮葺で、両脇の袖塀は後世のもの。身延山36世日潮上人筆の「開会関」の大額が掲げてある。開会とは「一切衆生の仏性を開発させ、すべてまとまる」との意味で、この関門はそういう信仰の境地に入るしるしという意味。身延町指定文化財。

バスは門前町が続く中谷を登ってゆき、7時半過ぎに終点の身延山バスターミナルに到着(下の写真4)。バス代は300円。雨が降り続く中、ここからさらに200mほど登ると石段に突き当たり(下の写真5)、石段を上がると右手に久遠寺の立派な三門が建っている。

三門は本坊域への参道口に南面して建つ。仏教では「空」「無相」「無願」の三つの境地から解脱して覚り(涅槃)に至るという教えがあり、久遠寺は本堂を涅槃の世界と位置付けているため、本堂の正面に立つこの門は三解脱を経て涅槃に至る意味合いから「三門」と呼ばる。

間口23m、奥行き9m、高さ21mで総ケヤキ造りの木造2階建、本瓦形銅板葺、五間三戸の二階二重門。下層は木鼻付三手先詰組、二軒繁垂木、上層は尾垂木付三手先詰組、二軒扇垂木で、左右の山廊は正面には花頭窓を設ける。

規模雄大かつ精緻な造りで、近代における禅宗様二重門の好例。この堂々たる門は、京都の南禅寺、東福寺と並んで日本三大三門の一つに数えられている。

初代の門は江戸初期の1642年(寛永19年)に建立されたが、現在の門は1907年(明治40年)に再建されたもの。楼上には釈迦如来像と16体の羅漢像が奉安されている。また、門に掲げられている「身延山」の額は、79世日慈上人の筆によるもの。

三門を抜けると石畳の参道が150mほど続き、右手には本多日生上人像や乃木大将詩碑、宮澤賢治歌碑などが並ぶ(下の写真6)。突き当りが本堂まで287段続く石段で、「覚りのかけはし」と云う意味の菩提梯と呼ばれている。

石段昇り口の右手にあるのが日蓮上人を身延山に招いた南部実長公の銅像。 實長公は置文により身延山を中心とした13里四方を日蓮聖人に寄附され、子々孫々に亘り身延山を護ることを戒められた。銅像の右手から入るのが男坂で(下の写真7)、その手前の赤い橋を渡って入るのが女坂(下の写真8)。どちらも階段でなく山道が続き、男坂の方が急勾配で距離が短い。

菩提梯を登る。登り切れば涅槃に達するこの梯(かけはし)は、南無妙法蓮華経の7字になぞらえ、41段毎に7区画に分けられている。疲れた。登るのに20分ほど掛かった。

菩提梯を登り切ると正面に本堂があり、左手に五重塔、右手に手水舎と大鐘楼がある。本堂は1985年に落慶したもの。本尊は日蓮聖人真筆大曼荼羅本尊を木造形式にしたいわゆる立体曼荼羅で、釈迦如来像・多宝如来像・四菩薩像・不動明王像・愛染明王像・四天王像・普賢菩薩像・文殊師利菩薩像・日蓮大聖人坐像などからなっている。

五重塔は3代目の塔で2008年竣工。初代の塔は江戸初期の1619年に、加賀前田利家の側室寿福院の建立による。大鐘楼は1882年(明治15年)に建てられたもので、1939年改修。国の登録有形文化財。

本堂から右手に進むと、本堂の隣に祖師堂。日蓮聖人の神霊を祀る堂閣で、棲神閣と称する。江戸時代に廃寺となった感応寺のお堂を、1881年(明治14年)に移築・再建した。1991年と1994年に改修されている。国の登録有形文化財。祖師堂前の1879年(明治12年)に造られた香炉屋も。

その隣は報恩閣。2002年に立教開宗750年を記念して、信徒の受付業務、接待所として建立されたもの。2階は会議室になっている。

さらに奥に進むと御真骨堂にその拝殿。御真骨堂は日蓮聖人の御真骨を安置し、右側に七面大明神、左側に三十番神を祀っている。拝殿と共に1881年(明治14年)に建てられたもので、国の登録有形文化財。拝殿は2001年に改修されている。

そして左右を納牌堂に挟まれた仏殿。朝、昼12時、夕方3時からの勤行と特別法要を営む建物。左右の納牌堂は日蓮聖人650遠忌の報恩事業として1931年(昭和6年)に建てられたもので、国の登録有形文化財。2001年に改修されている。

左の納牌堂と仏殿の間に置かれている獅子口瓦は、仏殿納牌堂の大棟西側、地上からの高さ約21mのところに備えられていたもので、2012年に日蓮聖人降誕800年慶讃事業として屋根瓦を銅版に葺き替えるまでの約80年間、仏殿納牌堂の屋根を平穏ならしめてきた。京都の寺本甚平衛製瓦にて作成された駒形箱型の瓦で、経の巻を頂部に配し、2本の綾筋の下に「井桁に橘」紋の意匠が施されている。高さは2.8m、足下瓦左右の幅は2.2mある。

境内の東の突き当り、仏殿右側の納牌堂の先にあるのが大客殿。入母屋造平入の長大な客殿で、内部には20畳の上段を含む畳敷の広間5室がある。正面中央に向唐破風の式台付大玄関を設け、東端に入母屋の小玄関を配する、雄大かつ豪壮な外観で総本山の接客機能に相応しい格式を備える。1886年(明治19年)築で、国の登録有形文化財。1971年に改修されている。

その南に法喜堂。庫裡で寺務所や職員寮、学生寮、台所等が置かれている。元々は豊臣秀吉の姉が我が子の関白秀次の菩提のため、1608年に本堂や唐門と共に建立寄進したものだが、明治に入って焼失し、1883年(明治16年)再建された。桁行10間、梁間9間。入母屋造妻入で、内部は正面側の土間部に大黒柱や梁に巨木を用い、重厚な軸組と架構をみせる。出入口両側に連続する花頭窓や妻飾の二重虹梁間に連続する大瓶束など、堂々たる構成の中に近代の意匠が窺える。これも国の登録有形文化財。1971年と2011年に改修されている。

その南に甘露門。女坂はこの門に通じている。横の門番所と共に表門として1968年(明治元年)に建てられたもので、これも国の登録有形文化財。1941年にこの位置に移築された。

甘露門で折り返すと法喜堂の向かいに時鐘(ときのかね)。文字通り、時を告げる鐘。四国松山藩の第2代藩主、定頼の正室の寄進で、1680年に鋳造されたもので、31世日脱上人の鐘銘がある。時鐘楼は1877年(明治10年)に焼失してしまったのを、1952年(昭和27年)に映画の大映の永田雅一氏が再建したもの。これも国の登録有形文化財。2013年に屋根等が改修されている。

さらに戻ると仏殿の斜め向かいに釈迦殿。新納牌堂として1981年に建立されたもので、 地上6階建てで最上階が釈迦殿となっており、1階から5階は全国の信徒の先祖の遺骨を安置する納牌堂(下の写真9)。

その西隣に開基堂。戦国時代の1472年に建立した二重塔で丹塗りの古雅な九輪露盤が中央に聳えている。内部には日蓮上人を身延に招いた南部六郎実長の坐像が安置されている。1979年に境内の西側にあったものをレールを敷き、そのままの形で移転した。身延町指定文化財。

祖師堂の前まで戻ると、向かいの御札所でお守りを購入。なんのお守りにしようかちょっと悩んだが、今回はぼけ封じの健康御守(下の写真10)。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.26086371544339523&type=1&l=223fe1adec


まだ雨は酷いが、奥の院へ向かう。続く

  • 写真1 子之神社

    写真1 子之神社

  • 写真2 身延駅バス停の山梨交通バス

    写真2 身延駅バス停の山梨交通バス

  • 写真3 身延橋

    写真3 身延橋

  • 写真4 身延山バスターミナル

    写真4 身延山バスターミナル

  • 写真5 久遠寺三門前石段

    写真5 久遠寺三門前石段

  • 写真6 久遠寺表参道右手の本多日生上人像など

    写真6 久遠寺表参道右手の本多日生上人像など

  • 写真7 久遠寺男坂昇り口

    写真7 久遠寺男坂昇り口

  • 写真8 久遠寺女坂昇り口

    写真8 久遠寺女坂昇り口

  • 写真9 釈迦殿

    写真9 釈迦殿

  • 写真10 健康御守

    写真10 健康御守

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