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2022年9月7日(水)午後3時過ぎ、山梨大学甲府キャンパスから20分ほど歩いて、最初にやってきた甲府駅に戻り、今度は駅の南側へ。バスロータリーと送迎車用駐車場の間に建つ武田信玄公之像は1969年に武田信玄公奉賛会が信玄公の遺徳をしのび、県民の気運を高揚することを目的に、県内外の有志1080人から集めた浄財で建設されたもの(下の写真1)。<br /><br />元々は駅前にあった噴水の南側に置かれたが、駅前広場の整備に伴い、1985年に現在地に移設された。川中島の戦いの陣中における姿を模しており、右手に軍配、左手に数珠を持ち、床几にどっかりと腰をおろしている。塩山御影石で造られた台座の高さ、像の高さとも3.1m。日展評議員の彫刻家の宮地寅彦さんの作品。<br /><br />駅の南東にある舞鶴城公園へ向かう。武田氏滅亡後に築城された甲府城跡に造られた公園で、1904年(明治37年)から残された城跡部分が舞鶴公園として市民に開放された。1964年(昭和39年)になって都市公園「舞鶴城公園」として都市計画決定され、1990年からは舞鶴城公園整備事業が行われ、鍛冶曲輪門、稲荷曲輪門や稲荷櫓が復元されている。<br /><br />舞鶴城は甲府城の別名。白壁が重なり合うその優雅な姿から「鶴が羽根を広げたような城郭」という意味で呼ばれた。安土桃山時代の1583年に豊臣政権の重臣浅野長政・幸長親子らによって一条小山と呼ばれた小山に築かれた平山城で、躑躅ヶ崎館に代わる城として築城された。<br /><br />元々は平安時代後期に甲斐源氏の一族である甲斐一条氏の居館が置かれたところと云われる。武田氏が躑躅ヶ崎館を居館とし、武田城下町を整備整備すると、その南端に当たっていた。<br /><br />江戸時代に入ると徳川の城となり、江戸時代前半は将軍家一門が城主となる特別な城となった。1704年に、時の城主・徳川綱豊(後の6代将軍家宣)が5代将軍綱吉の養嗣子となり江戸城西の丸へ移ると、祖先が甲斐出身で側用人の柳沢吉保が城主となり、大名の城として整備され、城下町とともに大きく発展した。<br /><br />1724年に柳沢吉保の嫡男の吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれた。その後、享保年間の大火により、城の本丸御殿や銅門を焼失するなど、次第にその壮麗な姿は失われていった。1868年(明治元年)の戊辰戦争では新政府軍に恭順し、板垣退助らが無血入城を果たした。<br /><br />1873年(明治6年)に廃城となり、城内の主要な建物はほとんどが取り壊された。その後、内城全体が勧業試験場として利用され始め、さらに鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置されるなど、城郭としての機能は失っていった。<br /><br />さらに現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど縮小され、現在では内城の部分のみが城跡としての景観を保っている。ただし、現在も本丸や稲荷曲輪・数寄屋曲輪は野面積の石垣が残り、天守台は江戸城・名古屋城・会津若山城に次いで巨大なものになっている。<br /><br />まずは公園の西北角に近い内(うち)松陰(まつかげ)門へ。この門は城の北西部の屋形曲輪と二の丸を繋ぐ門。明治以前の絵図や発掘調査の成果を元に1999年に復元した。<br /><br />内松陰門を抜けて上がっていくと銅門(あかがねもん)跡に出る。本丸の西側の虎口で、本丸大手門にあたる。本丸南虎口の鉄門と対になる門で、火矢から守るために銅板を張り付けたのでこの名になった。創建当初は櫓門だったが、享保年間の大火で焼失し、現在は礎石が残るのみ。木造復元計画があるそうだ。<br /><br />銅門跡の先(東側)は本丸跡になる。正面(東)に天守台があり、左手に本丸櫓跡がある。本丸櫓は二重櫓で2階に千鳥破風で、明治になって破却され、今は櫓台のみ復元されている。横に復元された石垣があるが、雨水などが盛土や石垣内部にたまると石垣は不安定になるので、排水用の暗渠が設けられている。<br /><br />天守台は上述したように巨大なもので、南北22m、東西16mある。ここに果たして天守が建てられていたかいなかったは未だに明確になっていないが、築城当初には四重又は五重の巨大な天守が建っていた痕跡が発掘されたと云う話もある。いずれにせよ江戸時代にはなかったようだ。<br /><br />天守台に登ると、甲府から周りの山々を東西南北見渡せる。天気が良ければ南には富士山も見えるそうだが、この日は無理だった。北側に明治天皇御登臨之址が建っているが、1880年(明治13年)6月に天守台臨幸されたことを記念して1938年(昭和13年)に建てられたもの。<br /><br />本丸跡の南西角に建つ謝恩碑は、1907年(明治40年)の大水害など度重なる水害によって荒廃した山梨県内の山林に対し、明治天皇より山梨県内の御料地の下賜が行われたことに対する感謝と水害の教訓を後世に伝えるために1922年(大正11年)に建設された記念碑。謝恩塔とも呼ばれる。<br /><br />東西24.5m、南北33.6mのコンクリートによって敷き固められた基礎地盤の上に、花崗岩を48段、約16.4mの高さに積み上げてこれを碑身の中心地業石とし、その上に高さ約18.18mの碑身が据えられている。碑身は、下部は7尺、上部6尺の、合計11個の花崗岩を積み重ねたもの。台座の周囲は展望台となっている。<br /><br />謝恩碑の横にある鉄門で本丸跡を出る。本丸搦手門にあたる櫓門で、2013年に木造復元された。当初は南門と呼ばれていたが、柳沢氏時代に改称され鉄門(くろがねもん)となった。防御用に鉄板が張られていたことからのようだ。1876年(明治9年)頃に解体されていた。<br /><br />鉄門を出て右に曲がると中の門跡。鍛冶曲輪から天守曲輪に繋がる門。絵図には柵の門として描かれている。階段を下りていくと坂下門跡。鍛冶曲輪と天守曲輪、二の丸を結ぶ場所にあった門で、内松陰門と同じ高麗門だったと考えられている。<br /><br />鍛冶曲輪の南西角にあるのが鍛冶曲輪門。鍛冶曲輪と現在は山梨県庁がある楽屋曲輪を繋ぐ門で、明治までは残っていたものを絵図や発掘調査の成果をもとに、1996年に復元した。<br /><br />鍛冶曲輪門の東、南側には内堀が残っている。甲府城には内堀、二ノ堀、三の堀があり、内堀は天守台や本丸、諸曲輪を囲んでいた。現在の舞鶴城公園は南東部のほんの一部で、全体では東京ドーム約4個分の広さがあった。二の堀は本丸の南の武家地の内郭部分を囲んでおり、三ノ堀はさらにその周りの町人地を囲んでいた。現在残っているのはこの鍛冶曲輪だけ。<br /><br />内堀の北側には日本庭園が整備され、鍛冶曲輪の井戸が復元されている。井戸の先の内堀には1906年(明治39年)完成の遊亀橋が架かり、日本庭園側に舞鶴の像が置かれている。鍛冶曲輪の奥(東側)は勧業試験場跡となっており、この辺りには葡萄酒醸造所が1876年(明治9年)に設置された(1885年(明治18年)に廃止)。<br /><br />天守曲輪側に建つ碑は明治期の前半、山梨県の近代化に大きな役割を果たした自由民権運動家の小田切謙明を頌徳するため、1936年(昭和11年)によって建立されたもの。この石碑の一段上には矢穴を開けて石垣の石を切り出した石切り場の跡もある。<br /><br />鍛冶曲輪東端の石段を上ると数寄屋櫓跡。場内南東の数寄屋曲輪の南東角にあった櫓の跡。櫓は当初は三重櫓だったがのち二重櫓に改変された。方向から別名辰巳櫓とも云う。<br /><br />数寄屋櫓跡から北に坂道を上がっていった辺りが数寄屋曲輪跡で芝生が広がっている。数寄屋搦手門跡を過ぎて真っ直ぐ西に進むと稲荷曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ稲荷曲輪門。明治に入って廃却されたものを1999年に復元した。<br /><br />稲荷曲輪門から北に進むと天守曲輪側に庄城稲荷跡(下の写真2)があるが、この場所には築城以前からこの地の守り神を祀る庄城稲荷があった。現在は移転して内堀に架かる遊亀橋南詰の東側にある。その右奥の二重の石垣跡(下の写真3)は解体工事で内部に古い石垣が見つかったもの。<br /><br />さらに北に進むと2004年に建築当初の姿に復元された稲荷櫓。稲荷曲輪北東に建てられている。この場所に限らないが、城内の石垣には鳥や魚の絵や幾何学的な模様が多く描かれている。これは築城当時に作業の安全を願った「おまじない」と考えられている。稲荷櫓の西側には稲荷曲輪跡に芝生が広がり、稲荷曲輪の井戸も復元されている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.26173526925623984&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />舞鶴城公園観光を終えて、甲府駅に戻るが続く

山梨 甲府 舞鶴城公園(Maizuru Castel Park,Kofu,Yamanashi,Japan)

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2022/09/07 - 2022/09/07

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年9月7日(水)午後3時過ぎ、山梨大学甲府キャンパスから20分ほど歩いて、最初にやってきた甲府駅に戻り、今度は駅の南側へ。バスロータリーと送迎車用駐車場の間に建つ武田信玄公之像は1969年に武田信玄公奉賛会が信玄公の遺徳をしのび、県民の気運を高揚することを目的に、県内外の有志1080人から集めた浄財で建設されたもの(下の写真1)。

元々は駅前にあった噴水の南側に置かれたが、駅前広場の整備に伴い、1985年に現在地に移設された。川中島の戦いの陣中における姿を模しており、右手に軍配、左手に数珠を持ち、床几にどっかりと腰をおろしている。塩山御影石で造られた台座の高さ、像の高さとも3.1m。日展評議員の彫刻家の宮地寅彦さんの作品。

駅の南東にある舞鶴城公園へ向かう。武田氏滅亡後に築城された甲府城跡に造られた公園で、1904年(明治37年)から残された城跡部分が舞鶴公園として市民に開放された。1964年(昭和39年)になって都市公園「舞鶴城公園」として都市計画決定され、1990年からは舞鶴城公園整備事業が行われ、鍛冶曲輪門、稲荷曲輪門や稲荷櫓が復元されている。

舞鶴城は甲府城の別名。白壁が重なり合うその優雅な姿から「鶴が羽根を広げたような城郭」という意味で呼ばれた。安土桃山時代の1583年に豊臣政権の重臣浅野長政・幸長親子らによって一条小山と呼ばれた小山に築かれた平山城で、躑躅ヶ崎館に代わる城として築城された。

元々は平安時代後期に甲斐源氏の一族である甲斐一条氏の居館が置かれたところと云われる。武田氏が躑躅ヶ崎館を居館とし、武田城下町を整備整備すると、その南端に当たっていた。

江戸時代に入ると徳川の城となり、江戸時代前半は将軍家一門が城主となる特別な城となった。1704年に、時の城主・徳川綱豊(後の6代将軍家宣)が5代将軍綱吉の養嗣子となり江戸城西の丸へ移ると、祖先が甲斐出身で側用人の柳沢吉保が城主となり、大名の城として整備され、城下町とともに大きく発展した。

1724年に柳沢吉保の嫡男の吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれた。その後、享保年間の大火により、城の本丸御殿や銅門を焼失するなど、次第にその壮麗な姿は失われていった。1868年(明治元年)の戊辰戦争では新政府軍に恭順し、板垣退助らが無血入城を果たした。

1873年(明治6年)に廃城となり、城内の主要な建物はほとんどが取り壊された。その後、内城全体が勧業試験場として利用され始め、さらに鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置されるなど、城郭としての機能は失っていった。

さらに現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど縮小され、現在では内城の部分のみが城跡としての景観を保っている。ただし、現在も本丸や稲荷曲輪・数寄屋曲輪は野面積の石垣が残り、天守台は江戸城・名古屋城・会津若山城に次いで巨大なものになっている。

まずは公園の西北角に近い内(うち)松陰(まつかげ)門へ。この門は城の北西部の屋形曲輪と二の丸を繋ぐ門。明治以前の絵図や発掘調査の成果を元に1999年に復元した。

内松陰門を抜けて上がっていくと銅門(あかがねもん)跡に出る。本丸の西側の虎口で、本丸大手門にあたる。本丸南虎口の鉄門と対になる門で、火矢から守るために銅板を張り付けたのでこの名になった。創建当初は櫓門だったが、享保年間の大火で焼失し、現在は礎石が残るのみ。木造復元計画があるそうだ。

銅門跡の先(東側)は本丸跡になる。正面(東)に天守台があり、左手に本丸櫓跡がある。本丸櫓は二重櫓で2階に千鳥破風で、明治になって破却され、今は櫓台のみ復元されている。横に復元された石垣があるが、雨水などが盛土や石垣内部にたまると石垣は不安定になるので、排水用の暗渠が設けられている。

天守台は上述したように巨大なもので、南北22m、東西16mある。ここに果たして天守が建てられていたかいなかったは未だに明確になっていないが、築城当初には四重又は五重の巨大な天守が建っていた痕跡が発掘されたと云う話もある。いずれにせよ江戸時代にはなかったようだ。

天守台に登ると、甲府から周りの山々を東西南北見渡せる。天気が良ければ南には富士山も見えるそうだが、この日は無理だった。北側に明治天皇御登臨之址が建っているが、1880年(明治13年)6月に天守台臨幸されたことを記念して1938年(昭和13年)に建てられたもの。

本丸跡の南西角に建つ謝恩碑は、1907年(明治40年)の大水害など度重なる水害によって荒廃した山梨県内の山林に対し、明治天皇より山梨県内の御料地の下賜が行われたことに対する感謝と水害の教訓を後世に伝えるために1922年(大正11年)に建設された記念碑。謝恩塔とも呼ばれる。

東西24.5m、南北33.6mのコンクリートによって敷き固められた基礎地盤の上に、花崗岩を48段、約16.4mの高さに積み上げてこれを碑身の中心地業石とし、その上に高さ約18.18mの碑身が据えられている。碑身は、下部は7尺、上部6尺の、合計11個の花崗岩を積み重ねたもの。台座の周囲は展望台となっている。

謝恩碑の横にある鉄門で本丸跡を出る。本丸搦手門にあたる櫓門で、2013年に木造復元された。当初は南門と呼ばれていたが、柳沢氏時代に改称され鉄門(くろがねもん)となった。防御用に鉄板が張られていたことからのようだ。1876年(明治9年)頃に解体されていた。

鉄門を出て右に曲がると中の門跡。鍛冶曲輪から天守曲輪に繋がる門。絵図には柵の門として描かれている。階段を下りていくと坂下門跡。鍛冶曲輪と天守曲輪、二の丸を結ぶ場所にあった門で、内松陰門と同じ高麗門だったと考えられている。

鍛冶曲輪の南西角にあるのが鍛冶曲輪門。鍛冶曲輪と現在は山梨県庁がある楽屋曲輪を繋ぐ門で、明治までは残っていたものを絵図や発掘調査の成果をもとに、1996年に復元した。

鍛冶曲輪門の東、南側には内堀が残っている。甲府城には内堀、二ノ堀、三の堀があり、内堀は天守台や本丸、諸曲輪を囲んでいた。現在の舞鶴城公園は南東部のほんの一部で、全体では東京ドーム約4個分の広さがあった。二の堀は本丸の南の武家地の内郭部分を囲んでおり、三ノ堀はさらにその周りの町人地を囲んでいた。現在残っているのはこの鍛冶曲輪だけ。

内堀の北側には日本庭園が整備され、鍛冶曲輪の井戸が復元されている。井戸の先の内堀には1906年(明治39年)完成の遊亀橋が架かり、日本庭園側に舞鶴の像が置かれている。鍛冶曲輪の奥(東側)は勧業試験場跡となっており、この辺りには葡萄酒醸造所が1876年(明治9年)に設置された(1885年(明治18年)に廃止)。

天守曲輪側に建つ碑は明治期の前半、山梨県の近代化に大きな役割を果たした自由民権運動家の小田切謙明を頌徳するため、1936年(昭和11年)によって建立されたもの。この石碑の一段上には矢穴を開けて石垣の石を切り出した石切り場の跡もある。

鍛冶曲輪東端の石段を上ると数寄屋櫓跡。場内南東の数寄屋曲輪の南東角にあった櫓の跡。櫓は当初は三重櫓だったがのち二重櫓に改変された。方向から別名辰巳櫓とも云う。

数寄屋櫓跡から北に坂道を上がっていった辺りが数寄屋曲輪跡で芝生が広がっている。数寄屋搦手門跡を過ぎて真っ直ぐ西に進むと稲荷曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ稲荷曲輪門。明治に入って廃却されたものを1999年に復元した。

稲荷曲輪門から北に進むと天守曲輪側に庄城稲荷跡(下の写真2)があるが、この場所には築城以前からこの地の守り神を祀る庄城稲荷があった。現在は移転して内堀に架かる遊亀橋南詰の東側にある。その右奥の二重の石垣跡(下の写真3)は解体工事で内部に古い石垣が見つかったもの。

さらに北に進むと2004年に建築当初の姿に復元された稲荷櫓。稲荷曲輪北東に建てられている。この場所に限らないが、城内の石垣には鳥や魚の絵や幾何学的な模様が多く描かれている。これは築城当時に作業の安全を願った「おまじない」と考えられている。稲荷櫓の西側には稲荷曲輪跡に芝生が広がり、稲荷曲輪の井戸も復元されている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.26173526925623984&type=1&l=223fe1adec


舞鶴城公園観光を終えて、甲府駅に戻るが続く

  • 写真1 武田信玄公之像

    写真1 武田信玄公之像

  • 写真2 庄城稲荷跡

    写真2 庄城稲荷跡

  • 写真3 二重の石垣跡

    写真3 二重の石垣跡

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