2024/01/02 - 2024/01/06
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タヌキを連れた布袋(ほてい)さん
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「17世紀半ばから,マカサーンがオーストラリア北岸に出漁して採ったナマコのすべては,セレベスのマカッサル港に集まった。
マカサーンは南セレベスが本拠だから,そこへ戻ったのは確かだが,収穫のすべてをマカッサル港へ荷揚げしたかどうかは明らかでない。マカッサル港周辺にホシナマコを扱う密輸基地が生れていた可能性はじゅうぶんにある。
1620~30年の頃,毎年,西北のモンスーンが吹き始めると,それに乗って30隻以上もの舟がセラム島西端のルフやマカンベロへ香料の商売に出かけていった。ウォーレスのゴロン滞在よりは二百年以上も昔,オランダはすでにテルナテ,バンダ,アンボンに要塞を構えているが,こうした伝統的な民衆の取引を禁圧できなかった。それだけの船がなかったのである。
ルフ,マカンベロは,セラム島の西端,沖合を船で通ったが,マングローブ,ココヤシ,サゴヤシ以外には何もないような浜である。そんな土地でも香料の取引が行われていたのである。セラム東端のゴロン島とは,350キロ以上も離れている。
オランダの眼からする密輸港が,広い海域のあちこちにあった,と推定できる。マカサーンの出漁が17世紀後半に始まったというマクナイトの推定が正しいとすると,これは,オランダがマカッサル港を占領したのと,ほぼ同時代である。
それまでは,ポルトガルがここに商館を持っていただけだった。1620年頃,500人ほどのポルトガル勢がマカッサルに駐留したと伝えられる。オランダが,マカッサル族,ブギス族の小国紛争に乗じて,マカッサル港を占領したのは,1667年だった。」
「そのマカッサルは,今日でも東インドネシア最大の交易港である。とくに海産物がここに集まる。東方のニューギニアや香料諸島(マルク)からだけでなく,西方のジャワ海からも海産物が運ばれてくる。基本的には定着農耕社会であるジャワの人びとに訊ねると,『インドネシアで一番魚を食べるのは,マカッサル人だ』という。
南スラウェシ半島を旅して,まずびっくりしたのは,ここの海と大地がきわめて彩り豊かだったことだ。植民地主義が深く入った土地は,プランテーションや大地主制が生れるから,一般に景色が単調になる。単彩の景色のすべてが植民地の跡地とはいえないが,多彩な景色については,『ここには植民地主義が深く入らなかったのではないか』と疑っていいようだ。
その多様な景色の一つが水田である。
日本でも東南アジアでも水田は見慣れている。それをスラウェシで見てびっくりしたのは,現実の景色と書物で得ていた知識との間にギャップが生れたからだ。
南スラウェシ半島の原住民は,ブギス,マカッサル,マンダール,トラジャ,バジャウの五族である。
このうちブギスは,他の土地に集団移住してコロニーを築くことで有名である。移住しただけでなく,その土地の支配者に娘を嫁がせた。かれらは暮しに窮した貧民ではなく,”海の武士(さむらい)”だった。ブギスと戦ったり同盟したりした西洋人が,そうした記録を残している。マカッサル族となると,もっと荒々しい船乗りや海賊として登場する。
だから私は,マカッサル住民は,日本の村上や九鬼の水軍のように,狭い痩せた大地にへばりついた海民とばかり思っていた。ところが現実の景観は,水田,畑,コーヒー林,香樹林,塩田,養殖池,浜造船すべてが豊かだ。人間も自然も生き生きとみずみずしい。」
「いったいブギスとマカッサルは,海民なのか農民なのか。そんな疑問から私は海と大地の暮しについて考えるようになった。
東南アジアは,全体として,東と西に大文明を控え古くからの大交易路である。しかし帆船の時代には,東西いずれから来ても,モンスーンが変るのを待つために,ここに滞在しなければならない。こうした旅人と船乗りのために港と都市が生れた。マラッカ海峡両岸の港がその典型である。河口の港は一つの国家の首都である。
そのためにこの島嶼社会には,造船業や船乗り,海賊が生れた。交通,交易が海民を生んだのである。
もう一つ,漁と農のかかわりがある。海産物の多くは腐敗しやすい。漁獲を交換する農民がいなければ,漁民はその日の糧だけを採って足りた。漁業はそれ以上に発展しない。東南アジアの島々は,自然の制約から定着農耕の発展が遅れ,それが漁業の足をひっぱった。島嶼東南アジアは,そういう土地である。
こうした一般条件を踏まえて,もう少し精密に島々を眺めると,海と大地のかかわりについて,いくつかの類型が浮かんで来る。
第一に,農業はまったく無いのに,たまたま交易路に位置したために,港が生れその住民や旅人に魚の需要が生じ,漁業が発展した海域である。先述のマラッカ海峡がそれである。
交易,交通とあまりかかわりなく,農村と漁村がちんまりと補給しあっていたような,どちらかというと閉鎖的な結びつきもある。
農もなく,交通の要衝でもなかったけれど,外部の人びとが欲する産物がその島々にしか無かったために,早くから外来者が到着し,それが海の産業を刺戟した,そういう土地もある。香料のマルク圏がこれに当る。
最後に交通の要路でもあり,大地では定着農耕が発達し,森林では樹脂,籐など特殊物産があったために,二つの大地系産業の刺戟を受けて漁業,造船業が発展した理想的な土地もある。南スラウェシつまりマカッサルはこれである。」
「米は,二つの形で南スラウェシの海洋生産を刺戟した。一つは,いうまでもなく,米と魚の交換が行なわれ漁業が発展したという形式である。二つは,南スラウェシの米は重要な交易商品として,域外とくに香料諸島方面へと運ばれた。
米はマカッサルの海運業,造船業を刺戟したのである。ちなみに南スラウェシの大型帆船ピニシは,アラビアのダウ船と並んで,アジアの名輸送船として名高い。
17世紀の初め,オランダはまだマカッサルを占領していない。ポルトガル,イギリス,デンマークがサルタンの保護のもとに商館を設け,オランダと対抗している。そんなころ一英人船長は,報告している。『ここには米がいくらでもある。これをバンダ諸島〔ナツメグの原産地〕へ運べば香料はいくらでも手に入る。』
このころの西洋は香料に血眼だったが,17世紀の西洋人の記録にナマコは僅かしか登場しない。マカサーンやバジャウは,西洋人に邪魔されずに悠々とナマコ漁にいそしんでいたのだろう。アーネムランドのアボリジニーに米の味を教えたのもマカサーンだった。今日,アーネムランドでもトレス海峡でも稲作はまったく無いが,米は容易に手に入る常備食糧となっている。
東インドネシアと東カリマンタン(マカッサル海峡のボルネオ側)の米は,今日,南スラウェシが供給している。南スラウェシの稲が不作になると,東インドネシア一帯の治安が悪化するといわれている。
米は,南スラウェシの海洋生産を刺戟した。その海洋生産の一部としてナマコ漁があったのである。」
鶴見良行著『ナマコの眼』(筑摩書房1993)より
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- その他
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 船 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
久しぶりのマカッサルだ。
ホテルがあるプンギブルPenghibur通りの遊歩道は,相変わらず地元の人やインドネシアの国内観光客の憩いの場となっているのだが, -
ロザリ海岸Pantai Losariの対面あたりに,大きくてぴかぴかのモスクが出現していてびっくりした。
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他にも建設中の大きな建物の姿が見えた。マカッサルもどんどんと変貌を遂げていく。
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ペルニ船で2日の航海を終えて昨夜マカッサル港に到着し,ホテルにチェックインして,クパンでの経験から南京虫(トコジラミ)が出ないか入念にチェックしてから寝入った。
今日はまだ疲労から回復していない。マカッサル料理の店へ繰り出すのは明日からということにして,ホテルの近くにあった手近な食堂に入った。
ベタウィBetawi‥‥ジャカルタ料理か。まあ,今日はおとなしくソトを食べるくらいにしておこう。 -
出てきたソトベタウィ。なかなか美味しいではないか。
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卓上の皿に盛ってある青白いアヒルのゆで玉子も1個もらい,
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サンバルゴレンを追加して,
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なかなかいい感じの食事になった。マカッサルでは幸先のよいスタートを切った。
「Warung Soto Betawi Cabang Karebosi」
(座標:-5.138157515215458, 119.4059642747355) -
これはメニュー表。
やはりマカッサルだと,これまでのヌサトゥンガラの島々より少し高い。 -
食後,すぐ近所にある高級スーパーに行って買物。生鮮食品に飢えていたので,果物やヨーグルトなどを買い漁る。
店内には造花のサクラで飾りつけられた和食コーナーがあり,15kから高いのは33kIDRもするおにぎり・寿司・弁当のパックを,真っ黒のジルバブに身を包んだ娘2人がためつすがめつして品定めに余念がなかった。 -
クラッカーの袋を眺めていておや?と思った。
これは私の好物であるマルキストクラッカーだ。正方形の生地にX字のピケを入れ,粗い粒のグラニュー糖を振って香ばしく焼成するのが特長。
ところが,この袋には「Sugar Krackers」と書いてある。袋をよく見ると,これはマレーシアの製造だった。高級スーパーなので,輸入食品を扱っているのだ。 -
これもそうだ。これもマレーシア製。
マレーシアではマルキストクラッカーをマルキストクラッカーと呼ばないんだっけ?あやふやになってきた。
今度マレーシアへ行ったときの宿題にしよう。 -
そしてクルポンkleponを買う。これも好物。
中にグラメラ(椰子砂糖)を包んだ団子で,和菓子の氷餅のようにココナッツファイン/ロングをまぶしてある。
グラメラの状態はものによって色々で,団子を蒸す過程でグラメラが溶けて蜜状になっているものもあるが,個人的にはある程度グラメラの固まりが残っているものが美味しいように思う。
長崎カステラの底のザラメが溶けてしまっているとがっかりするのと同じだ。 -
バゲア(サゴのクッキー)も見つけたので買う。このあとアンボンへ行くから,予習だ。
「Gelael Supermarket」(座標:-5.138015211049509, 119.40885761073663) -
翌日は,満を持して,朝から名物チョトマカッサルを食べに行く。
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店頭に出ているこの「ADA」の札が,「(チョトマカッサル)あります」の意味だ。
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店に入ると,すぐに店員がチョトを何人前食べるか尋ねてくるので,例えば一人前なら「Satu(ひとつ)」と答えるだけでよい。これでチョトマカッサルの注文は完了だ。
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空いている席に着くと,卓上にこんな大皿がある。
これはチョトと一緒に食べる甘くない粽(ちまき)で,椰子の葉で格子に編んであるほうがクトゥパッketupat,バナナの葉で巻いてあるやや細長いほうをロントンLontongという。
この名称を憶えておくと,あとでお勘定のときに自己申告しやすい。 -
そのうちチョトが着丼するので,
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薬味のネギや揚げ玉ねぎを好みで投入し,
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卓上のピーナッツも好みで投入し(これはお勘定のときに使った袋の数を申告する),
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チョトの味見をしながら,卓上の調味料(食塩・サンバル・柑橘)で好みの味に仕上げる。
個人的には,柑橘(ジュルッニピスjeruk nipis)はだんだんと絞っていって味の変化を楽しむのがよい。 -
次に粽である。クトゥパッには包丁が入れてあるはずなので,そこからぱっくりと手で割ることができる。
そうしたら,スプーンで一口大に粽をすくい,チョトの碗の中に投入していく。
そして,スプーンで粽と適量のチョトをすくって口に運ぶ。粽がなくなったら2個目,3個目を投入する。
4個目の粽に手を伸ばしてもよいが,粽というのは意外と腹の中で膨れるので慎重に。
食べ終わったら,帳場でお勘定の申告をしなければならない。ここがやや面倒だが,ぜひ臆せずに挑戦してもらいたいと思う。これを嫌ってマカッサル名物を食べそびれるのは惜しい。
価格は,チョト25k,クトゥパッ・ロントン・ピーナッツ各2kIDRであった。
(1kIDR=約10円)
「Coto Makassar H. Daeng Tayang」
(座標:-5.139579058029869, 119.40988636934668) -
翌日は,チョトマカッサルと並ぶ名物「パルバサpallubasa」を食べに行く。
マカッサルの名物には,もうひとつ「ソプコンロsop konro」という骨付き肉(というか,”肉が少し付いた骨”というほうが正確)を煮たり焼いたりしたのをグレイヴィに浸して頂く,というのがあるのだが,今回は滞在日数が少ないので食べるのは難しい。
これらマカッサルの名物料理は,チョトマカッサルを含めて,私は肉骨茶bak kut tehの仲間だと考えている。いずれも源流は,決して肉料理なんかではなく,食べるのが難しいため捨て値で処分される畜肉の骨の栄養分を,工夫して絞り出した労働者のスープだ。 -
これがパルバサ。パルバサは皿に盛った米飯にぶっかけて頂く。
-
味つけは,卓上の特製サンバルとケチャップマニス,そして柑橘を使う。
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好みで,卓上にあるクルプッkrupuk(揚げ煎餅)を米飯に割り入れる。
このクルプックは,実は牛肉の皮を揚げたもので,タイのケープムーแคบหมูやフィリピン(・南米・スペイン)のチチャロンchicharron(これらは豚肉の皮を揚げる)のハラール版だ。うまい。 -
価格はこのとおり,前日のチョトマカッサルと同様に庶民価格である。
人気店のようで,簡素な広い店内では,歌手の生演奏が流れていた。
この店もお勘定は自己申告だ。釣銭の一部を歌手のチップボックスへ投入したら,歌いながらにっこりと笑みを返してくれた。 -
マカッサルは大きな商業都市なので,前に来たときも大規模なモールはあったが,さらに増えている。
ニパモルNipah Mallというところに来てみた。 -
マカッサルにも,普通にこんなのがあるんだねえ。
-
こちらも。
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ここは日系ではなさそうだが,もっとも多くの客が入っていた。
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「シュークリーム」を上下と左右に逆さにされると,さすがに日本語と分かるまで時間がかかった。
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ニパモルは興味深く見せてもらったが,私のような旅行者が金を使うべきところではない。
帰途はモールの前の大通りからアンコタを拾おうとするが,なかなか捕まらない。
やっとのことで宿の近くへ戻り,水分補給。マカッサルは赤道のちょっと南にある街だ。昼間に街を歩くと,氷にばかり手が伸びてしまう。
画像↑はマカッサル名物のエスピサンイジョes pisang ijo(緑バナナのかき氷)。 -
こちらはチョコレート味が入ったエスマナド(マナド風かき氷)。
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宿の近くのJl. Somba OPUは,たくさんの金行や土産物店が軒を連ねる昔ながらの通りだ。
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そこをうろうろしていると,「Kopi Ujung」というコーヒー専門店が眼に入った。
“Ujung”というのは,マカッサルの旧名”ウジュンパンダンUjung Pandang”のことで,現在でも空港の目的地表示でこの名称を見かける。マカッサルの玄関口ハサヌディン国際空港の3レターコードは”UPG”だ。
さて,この店に入ってみた。 -
幸いなことに店員さんは英語を話せるようだったので,「コピトゥブルッkopi tubrukに適したコーヒー豆はどれか?」と訊いてみた。
すると,「全部そうだ」と言う。ふーん,そうなの?
そこで棚を物色して,”House Blend”というのを選んでみる。初めての店だし,ヴィンテージものより安いので,それが無難だろう。
店内にグラインダーが置いてあるのはチェック済みなので,その場で挽いてもらう。挽き方は訊かれなかった。
価格は250gで115kIDR。単価は高いが,最低25杯は取れるのでよしとしよう。
ところがホテルに帰って淹れてみると,いまいちだった(淹れ方については旅行記「クパン逍遥」参照)。私はコーヒーには素人だが,粉の色は浅煎りだし,粒は中挽きで,酸味が勝っている。挽きたてなので香りは抜群なのだが,私の思うコピトゥブルッの風味ではない。うーむ,失敗。
それでも貧乏性の私は,粉がなくなるまでそれを25杯以上飲み続けることになるのであった。
(1kIDR=約10円) -
マカッサル最終日の朝食は,華人街に行ってみた。
たしかインドネシアに駐在している方がブログで推薦していた店だったと思うのだが,検索してもそのブログを見つけることができなくなってしまった。
華人街は宿から徒歩圏内なのだが,ちょうどベントールがいたのでそれに乗っていく。 -
マカッサルの華人街は,ロッテルダム要塞とマカッサル中央市場を結ぶ線の北側にあたる一帯である。
「パンシットミーpangsit mie」という単語で検索すると,このエリアに中華の麺飯食堂が密集していることが分かる。
この朝は,マカッサルのおすすめパンシットミーを食べに来たのである。 -
では,インドネシアのパンシットミーについて一応説明しておく。
隣国フィリピンには「パンシットカントン」と呼ばれるポピュラーな料理があり,名称が似ているので同じものかと勘違いされることもあるが,これらは全然違うものである。
フィリピンのパンシットカントンは,華人由来の麵料理が土着化(マレー化)したもので,(日本人が感じる)麺料理としてのおいしさは退化したものだ。広東には,パンシットカントンに相当する料理は存在しないといわれる。
一方,インドネシアのパンシットミーは,土着化しておらず,華人の料理そのものである。華人の店で,華人の料理人が作り,華人の客が食べる。つまり,麺料理としてのおいしさの伝統が維持されている。
インドネシアで土着化が進んで退化した華人由来の麵料理は,有名なミーゴレンである。あれにもあれなりの魅力はあるのだが,しかし「ミーゴレンのおいしさのポイントは麺にある」という人はあまりいないだろう。
要するに,インドネシアのパンシットミーは華人直系の麺料理で,麺好きの日本人も大いに満足することができる一品なのである。
パンシットミーは無理やり直訳して「ワンタンメン」と紹介されることもあるが,日本のワンタンメンよりずっと自由なものだ。
基本的に麺とスープは別々に供される。麺に味つけはされておらず,スープは熱い。最初からスープ全部を麺の鉢に注いで,日本のワンタンメンにして食べるのはまったく問題ない。
あるいは,ひと口分の麺をスープの鉢に入れて,つけめんのスタイルで食べてもよい。 -
あるいは,テーブルの上には必ず調味料(この店はケチャップマニス・ケチャップアシン・白コショウ・ごま油)が用意されているので,これらを自由に組み合わせて麺に好みの味をつけ,まぜそば(油そば)のスタイルで食べるのもありだ。この場合,スープはスープとして別に飲むことになる。
また,半分食べたところでスープを注ぎ,後半はワンタンメンスタイルにして食べようという人もいるだろう。
とにかくパンシットミーは自由なのだ。麺とスープを別々に供して,テーブルの上に調味料を並べておくだけで,これだけの自由さが生まれる。 -
この店のパンシットミーに戻ると,かなり豪勢であることが分かる。
大きな揚げワンタンが2枚のっていて,その下には紅色のロースの叉焼,そして無着色の三枚肉の叉焼がたっぷり。その下に中華麺,そしてゆでたワンタンが敷いてある。
スープは,ニンニクがよく利いていて濃い。 -
この店では,ナシティムnasi timというのも注文した。初めて食べる。
この店で作っている肉料理が揃い踏みなのだろうか。パンシットミーに入っていた2種類の叉焼,白切鶏,香腸が皿に盛られ,もうひとつの皿にはココナッツミルクとニンニクで炊き込んだほかほかの飯が盛られている。香腸が香り高い。
あとで「ナシティム」で検索したら,かなり異なる外見の料理がたくさんヒットしたので,これはこの店のオリジナルなのかもしれない。
2つの料理に大いに満足したが,これらの値段は58kと55kIDRだった。
普通の食堂でこの価格だと「ぼったくりだ!」と騒ぐ展開になるのだが,あの豪勢な盛りならこの値段は納得できる。もしかしたら盛りには松竹梅とあって,こちらを旅行者と見て何も訊かずに松を出してきた可能性はあるが,それはぼったくりとは言わない。
(1kIDR=約10円) -
おっ,テータワールteh tawarの向こうに,何かいるぞ。
-
この店のボス猫のようだった。ふてぶてしい表情に貫禄あり。
「Pangsit Mie 84」(座標:-5.126014300825972, 119.41055231192907)
「ペルニ船の旅5000km その4:クパンからマカッサル」
https://4travel.jp/travelogue/11911779
「ペルニ船の旅5000km その5:マカッサルからアンボン」
https://4travel.jp/travelogue/11911869
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