
2024/01/07 - 2024/01/14
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タヌキを連れた布袋(ほてい)さん
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「1945年8月15日,日本が降伏すると,その直後の17日,スカルノはバタフィア(ジャカルタ)の自邸の前庭で,タイプ打ちした短い宣言をわずかな人々に向かって読み上げた。
私たちインドネシア民族は,ここにインドネシアの独立を宣言する。権力委譲その他に関する事項は,十分な配慮をもって迅速におこなう。ジャカルタにおいて。(後藤乾一,山崎功『スカルノ』)
これは,スカルノとその同志ハッタが,急進派の青年指導者たちの突き上げを受けた結果である。青年グループは,日本から与えられた独立ではなく,日本とは無関係に自ら独立を勝ち取った形にするためにも,一刻も早い独立宣言が必要と考えていた。こうしてスカルノは新インドネシア共和国の大統領に,またハッタは副大統領の地位に就く。
しかし彼ら指導者層は,国中に充満するさまざまな暴力衝動を抑制できる状態にはなかった。9月以降,植民地体制の忠実な協力者だったキリスト教徒のアンボン人や,多様な民族からなるメダンの人々などを含むオランダ植民地軍兵士たちの威嚇・示威行動が発生する。
ついで,植民地支配の再確立を目指す英・蘭の要員到着に強く反発する過激派の若者らによるテロ活動が続発。若い民族主義者たちは,必要な武器を日本軍将校から譲り受け,または購入し,さらには日本軍補給廠から盗み出す。こうしてジャワとスマトラの全域で,旧体制の存続を望む勢力と民族の独立を勝ち取ろうとする勢力との戦闘が始まり,解放後のオランダ人にとって最も安全な場所は日本兵がなお持ち場についている収容所だけとなった。
オランダ本国も甚大な戦災を被っていたなか,現地で当面治安維持の肩代わりをしたのは10月下旬に到着したイギリス軍である。ほとんどがインド人だったが,実は扮装したオランダ人だとの噂も流れている。その数,約4000人だったが,この規模では広大な担当区域すべてに目配りできるはずもなかった。また,連合国側の指示により治安維持を分担する残留日本軍の役割も限定的だった。結果的に権力の空白が生じ,無政府状態が生まれていく。
オランダ軍がようやく東インドに到着したのは翌1946年3月であった。オランダ政府は東インド植民地を手放すつもりなど毛頭なかった。1930年代の国庫収入の13%強が植民地によるものだったからである。そこから『インディエ(蘭領東インド)がなくなると災難が生まれる』(Indië verloren, rampspoed geboren)とのスローガンがいつしか広く使われるようになっていた。ウィルヘルミナ女王も東インド植民地の回復を強く望んでいた。
オランダは,日本降伏直後のインドネシア共和国独立宣言に対して,スカルノは日本の傀儡,『半日本人』であり,交渉相手とは見なさないという立場をとった。つまり,独立宣言は,オランダ領東インドにファシスト体制を存続させようとする日本の企みにすぎないという見立てである。オランダは,スカルノの影響下にあったジャワ,スマトラのインドネシア共和国領域を包囲する形で,親オランダ勢力をまとめ上げ,東スマトラ国やパスンダン国といった傀儡的な国家,地域を作り上げていく。
一方,これに対応すべきインドネシア共和国側の指導体制は依然不安定だった。治安が悪化したジャカルタを離れ,ジョグジャカルタを拠点(首都)とするスカルノは,卓越した指導者として民衆の熱烈な支持を集めていたが,彼とオランダとの回路は初めから断たれていた。反対に,オランダ留学経験を持ち徹頭徹尾オランダとの協調路線をとったのが,ジャカルタにとどまる初代首相スタン・シャフリルであった。彼は日本とは一度も協力したことがなかった。この両者の中間に立つのが,スカルノを長く支えたハッタであり,シャフリルと同様オランダで学んだ穏健派インテリでもあった。
首相のシャフリルがインドネシア共和国を代表してオランダ王国とのあいだでまとめあげたのが,1946年11月15日,西ジャワのリンガルジャティで結ばれた『リンガルジャティ協定』である。そこでは,インドネシア共和国はオランダによって事実上承認されるが,その周囲の親オランダ国家群とともに連邦を形成し,オランダ女王を首長とするオランダ-インドネシア連合が樹立されることとなっていた。スカルノはのちにこれについて『リンガルジャティ協定は革命の炎に対する冷水のシャワーであった』と述べている。
オランダ側はこの協定を都合のよいように解釈し,実質的な植民地再建を着々と進めた。1947年6月下旬,オランダへの対応をめぐって意見が分裂し,シャフリル政権が倒れる。
その直後,1947年7月20日から8月5日にかけて,オランダは第一次『警察行動』に踏み切る。事実上の軍事進攻である。約10万人のオランダ軍は,ジャワ,スマトラの共和国領域をさらに狭い範囲に押し込むことに成功する。
これに対して国連が仲裁に入ったが,1948年1月17日,アメリカの軍艦レンヴィル号上で新たにインドネシア共和国とオランダ王国のあいだで結ばれた『レンヴィル協定』も,先のリンガルジャティ協定の原則を確認するものでしかなかった。
オランダとの外交交渉が難航する一方で,9月には,ソ連と繋がる新共産党がオランダに対する武装闘争の継続を主張して東ジャワの主要都市マディウン市の支配権を奪い取り,人民政府樹立を宣言した。これを『マディウン蜂起』という。スカルノとハッタは,東西いずれの陣営に与するか,旗色を明らかにする必要に迫られた。スカルノらはアメリカを選び,共和国軍を投入して,二ヶ月余りかけてマディウン市の共産党勢力を排除・掃討。その際共産党側には数千人とも数万人とも言われる犠牲者が出た。
国軍が共産党員排除に力を使い果たしたまさにそのタイミングをとらえるかのように,1948年12月19日,オランダによる第二次『警察行動』が行われた(~49年1月5日)。インドネシア領内に進攻した約14万人のオランダ軍は,ジョグジャカルタを占領し,スカルノ,ハッタの正副大統領を逮捕・幽閉する。」
「ドイツ軍による占領で本国が疲弊しているのに軍事介入を続けたオランダは,元植民地を『ファシスト』から解放して安寧と繁栄を再構築できると自己の力を過大評価し,反対に,日本軍政期に戦闘能力を高めていたインドネシアの民族主義者らを過小評価していた。彼らを悪しきテロリストと見る先入観と,不安・未熟・興奮などがオランダ兵の過度の暴力を助長していく。『警察行動』に当たったオランダ軍は,ナチス・ドイツがオランダ人に行ったことを,今度はインドネシア人に行ったのである。」
桜田美津夫著『物語オランダの歴史』(中公新書2017)より
「スカルノ,ハッタはじめ共和国要人は,外交にすべてを託してあえて逃亡せず,逮捕されるに任せた。共和国はスマトラにシャフルディン・プラウィラヌガラを首班とする臨時政府を設立し,国軍は政府首脳の意図が理解できず不信感をいだきながらも,農村に退却して人民と一体となったゲリラ戦を展開した。この半年間の戦いが,国軍が独立の功労者であるという主張の根拠になっている。
国際世論はただちに共和国首脳の期待に応え,1949年1月安保理はオランダ非難決議を採択し,停戦を呼びかけた。とくにアメリカは冷戦の本格化という国際環境のなかで,マディウン事件によって反共政権であることを明らかにした共和国支持を決定的にしていた。その強い圧力の前に,オランダはついに5月,共和国を含めた円卓会議に同意し,スカルノら共和国政府要人は7月6日ジョグジャカルタに凱旋した。
共和国をはじめとする連邦構成国とオランダの円卓会議がハーグで開かれ,12月27日その協定の署名式がおこなわれた。これをもってオランダからインドネシア連邦共和国に主権が移譲された。西イリアンの帰属は未定,オランダの経済権益は残存,植民地政庁の債務を引き受けるなど問題点を多く残し,革命は未完成だが,ともかくもインドネシアは独立した。連邦構成16国のうちスマトラの大部分とジャワの約半分を占め,3100万人の人口をもつ共和国が最大で,他の15国は人口10万から1000万までさまざまな規模で,その合計は4600万であった。
オランダ植民地主義の悪あがきともいうべきウェステルリング大尉の大規模な破壊活動があり,これに一部指導者が関与したパスンダン国が1950年1月解散し共和国に合流した。他の構成国も多くこれにならい,結局50年8月15日には連邦共和国が解散し,単一のインドネシア共和国が再発足した。分離運動は唯一アンボンに樹立された南マルク共和国だけであり,これは11月には共和国軍に粉砕されたが,なお63年まで国内の抵抗運動が続いた。」
池端雪浦編『新版世界各国史6 東南アジア史Ⅱ』(山川出版社1999)より
「(中略)オランダの将来を悲観して,外国に移住するオランダ人の数は増大した。1945年から60年までの時期の外国への移住者は,35万人以上と概算されている。移住先として最も人気があったのはオーストラリア,カナダであり,その次がアメリカ,ニュージーランド,南アフリカであった。
国を出ていく人がいる一方で,新たに移入してくる人々もいた。東インドの政体が変わって職を失うか,新しい国家に希望を持てなかったオランダ人たち,つまり『本国帰還者』の群れがオランダに押し寄せたからだ。その数は1955年までで20万人以上にのぼった。東インド生まれの混血の『オランダ人』にとっては,実は帰還ではなく移住であったが。
さらにオランダ植民地軍兵士であったアンボン人を中心とし,その周辺の島々の出身者を含む『モルッカ人』たちが,アンボン島に独自の部分国家を建てる試みに失敗し,報復も恐れて,やむなくオランダを避難所に選ぶ。1951年3月,家族をともなってオランダに来住した彼らの数は約1万2000人だった。」
前掲『物語オランダの歴史』より
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- その他
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 船 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
アンボンでの最初の食事は,まだ食堂事情がよく分かっていないので,手近なところで済ませることにした。
宿の近くにあったマルタバmartabak食堂が「ナシゴレン・プテ」をメニューに掲げていたので,そこへ入ってみる。
「Cafe Martabak AHOK」
(座標:-3.6952938059187534, 128.18244228578385) -
これはプテpete豆(ネジレフサマメ)を使ったナシゴレンで,この豆を華人は「臭豆」と呼ぶ。
そんなに「クサい」かというとそんなことはなく,個性的な香りで料理にコクを与えてくれる存在だ。立場はニンニクのようなもので,好きな人は初めから気に入ると思う。
一字多い「臭豆腐」のような悪臭を想像してはいけない。 -
これがそのプテ豆。
マレーシアやインドネシアで意識せずに食べていて,「あれ,何かが美味しいんだけど‥‥」と感じたことがある人も多いだろう。 -
さて,このナシゴレン・プテを区切りに米飯にはしばらく別れを告げよう。
アンボンへ来たからにはマルク料理を楽しまねばなるまい。マルク料理の主食は,イモ類とサゴとバナナだ。
マルク料理にありつくために,まずはこのイカンバカール専門店に狙いをつけた。
イカンバカールの店では,まず食べる魚を冷蔵庫から選び,その料理法を指定し,それからテーブルについて飲み物や副菜を注文する,という手順になることが多い。
「RM.Rasa Gurih」
(座標:-3.6968459622523206, 128.17994229654315) -
魚はイカンバカール・リチャリチャikan bakar rica ricaに仕立ててもらう。選んだ魚を炭火焼にした上で,マナドの激辛サンバル・リチャリチャであえる。
-
イカンバカールにはチョロチョロcolo coloが添えられた。トマト,玉ねぎ,唐辛子などを細かく刻み,塩と柑橘の果汁を加えたシンプルなつけだれで,マルク料理(特に魚料理)には欠かせないものと聞いている。
この食堂で出てきたのは,思っていたよりずっと水気が多くて驚いた。「チョロチョロはマルクのサンバル」という説明を読んだことがあるが,これを見る限りサンバルとは全然印象が異なるものである。 -
見ると,ララパンの皿もテーブルに出ていた。そうそう,こういうのがサンバルのイメージだ。
-
野菜は,空心菜とパパイヤの花の炒めたんcah kangkung bunga pepaya。
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そして一番の目的はこれ,パペダpapedaである。
サゴでんぷんを水に溶かし,それに熱湯を加えて練ったものだ。日本の葛湯と似ているが,パペダのほうが固めに仕上げる。これをスープに落とすなどして食べる。
パペダは「サゴ粥」と呼ばれることもあるが,”bubur sagu mutiara”(直訳すると「サゴパール粥」)という名前のデザートと混同してしまうかもしれない。
パペダは,2本の菜箸を1本ずつ両手に持ち,水飴(練り飴)の要領で箸を回転させながら適量を取り分け,取り皿に落とす。
それはいいのだが,今回失敗したなと思ったのは,やはりパペダはスープ(汁物)がないと食べにくいということだった。
スープの入った取り皿にパペダを落とし,それをスプーンで一口大に切り分け,スプーンで一口分のパペダとスープをすくって口に運ぶ,というのが王道の食べ方である。 -
この反省から,他日,ムスリム地区にあるイカンバカール店へ行った。
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冷蔵庫から選んだ魚はイカンバカールにせず,イカンクア・クニンikan kuah kuningにしてもらった。「魚のウコンスープ」という感じか。
このほかの選択肢としては,イカンクア・アサムプダスikan kuah asam pedas(魚の柑橘スープ)をよく目にする。
そしてもちろん,パペダを注文する。 -
野菜は今回もパパイヤの花の炒めたん。
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この店では4種類のチョロチョロが少しずつ出された。こういう細やかなサービスはうれしい。
-
この店の女給さんはとても親切で,私の菜箸の回し方が拙劣なのを見てとるや,横からあざやかな手つきでパペダを取り分けてくれた。
この日のパペダは大いに満足だった。
この日以後は,パペダを食べるときは必ず汁物を注文するようにした。
パペダ+イカンクアという定番の組合せで食べるようになると,新たな疑問が生じてきた。
それは,魚を先に食べるのがいいのか,それともパペダが先か,ということだ。
中華料理的な発想だと,”高級”な魚を先に楽しんで,腹を膨らませるパペダとスープは後ということになりそうだ。一方,ブイヤベース的な発想をするなら,魚は後か。せいぜい地元客のやり方を観察して学んでいこう。
「Rumah Makan Dedes Ambon」
(座標:-3.6991267353408617, 128.17637778808265) -
ちょっと高級そうなレストランにも入ってみた。
-
いかにも外国人向けという感じがして,やや警戒したが,はたしてメニューはそこまで高価ではなかった。
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ここでは代表的なマルク料理のひとつ,コフコフkohukohu(このレストランのメニューではココフkokohuと表記)を注文した。
魚肉(この店はマグロが売りなのでマグロ),もやし,ハーブなどを細かく刻み,レモン,塩,唐辛子で味をつけた和え物である。それだけ聞くとラオスの「魚肉のラープ」みたいなのを連想するが,それとは対照的なほどにスパイシーさはなく,素材の原味を味わえるものになっている。さすがマルク料理。(30kIDR)
(1kIDR=約10円) -
これは「daun kasbi gudangan」(30kIDR)という料理。ミスが重なって注文してしまった。
というのは,私はこの”daun kasbi”(カスビの葉)というのは自分が食べたことのない未知の野菜だと思って注文してみたのだが,実は”kasbi”というのはアンボンの言葉(あるいは単に音写)でキャッサバのことだった。キャッサバの葉daun singkongというのは,インドネシアの市場のどこでも売っているありふれた食材である。
さらに悪いことに,「gudangan」というのは前述のコフコフと非常によく似た料理で,結果として,素材がやや異なる2皿のコフコフがテーブルに並ぶことになってしまった。
ま,こうやってミスを重ねて,ひとつひとつ憶えていくわけだ。
(1kIDR=約10円) -
これは「rica rado」というマナドの五目野菜炒め(35kIDR)。
アンボンに滞在しているので当然マルク料理を探っているのだが,マナド料理に出くわすことがとても多い。それだけマナド料理の影響が大きく,アンボンの人びとにも好まれているのだろう。
マナド料理はインドネシアの中でも「激辛」の印象が強くて敬遠していたが,機会を作ってマナドを探訪したくなってきた。
(1kIDR=約10円) -
そしてこの日の大収穫がこれ。これをご存じだろうか。
「パンノキの実の素揚げ」sukun gorengである(35kIDR)。子供のときに読んだ「パンの実」,生まれて初めて食べる機会を得た。すごく美味しいのだ。「たしかにこれは”パン”だ!」と得心がいった。
戦前の映画『戦艦バウンティ号の叛乱』でチャールズ・ロオトンが演じたブライ艦長。史実における彼はパンノキをタヒチで集め,カリブで栽培可能な形で同地へ送り届けるという任務を帯びていた。叛乱後,小舟で追放された彼は奇跡的にティモール島へたどり着いて生還する。そして,その後の航海で,カリブにパンノキを届けることに成功する。(まあ,カリブで使役する奴隷の安価な食糧にするために送ったというのだから,あまり褒められたものではないが。)
いつかカリブを旅して,どこかでパンの実を食べてみたいものだ。
(1kIDR=約10円) -
デザートの代わりに名物のガンダリアジュースjus gandariaというのを頂く。
どうやらガンダリアというのは,タイでマプラーンมะปรางとかマヨンチットมะยงชิดという名前で売られている,ビワくらいの大きさの高級フルーツのことのようだ。ここ十年くらいで見かけるようになった新顔だ。
さすがに高価で,一杯45kIDRもした。
「Dapor Kole Kole」
(座標:-3.695231788148711, 128.1829982677841)
(1kIDR=約10円) -
アンボン滞在中,もっともマルク料理を楽しむことができたのは,この大衆食堂だった。アンボンのペルニ船桟橋からも近いところにある。
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店内には所狭しとおさいの数々が並べられているので,指差しで「これちょうだい」「あれも」とやっていけば何とかなる食堂だ。
-
主食はやはり,キャッサバsingkongとバナナpisang。
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開くとこんなふうになる。イモとバナナの主食を食べるのはウガンダ以来だ。
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主菜はイカンバカールに,
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この店のチョロチョロ。うむ,ここのもかなり水気が多い。だんだん加減が分かってきた。
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コフコフにはタロイモkeladiようなものを合わせたかったが,意思がよく伝わらず皿飯になってしまった。
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野菜不足を補うため何種類かのゆで野菜をチョイスしたのだが,最後に有無をいわさず,プチェルpecelのようなソースをどっぷりとかけられてしまった。
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卓上になぜか日本の吸い物椀がある‥‥。
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この店ではサンバルの容器として利用されていた。
ふた付き容器であること,アジアではめずらしい真っ黒の食器であることが評価されての起用だろうか?? -
胃袋の都合があるので,もとより店内に並んだ料理のすべてを試せるわけはない。
しかし,香料諸島と呼ばれながら,自分たちの生活にスパイスをほとんど使用してこなかったマルクの人びとの食文化を,わずかながらも窺い知ることができたと思う。 -
あれこれ食べさせてもらって,全部で84kIDRだった。
店はそんなに広くなく,結構混みあっている。地元マルク料理に関心があり,大衆食堂でも大丈夫なら,ここはアンボンで一番のおすすめだ。
「PM Ramayana 2」
(座標:-3.695597180338983, 128.17802860056432)
(1kIDR=約10円)
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