
2023/12/20 - 2023/12/31
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タヌキを連れた布袋(ほてい)さん
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「1511年のマラッカ征服に続くポルトガル人の東南アジアへの到来は,とりもなおさずカトリック・キリスト教の拡張の開始でもあった。政治・経済・宗教の中心地として,マラッカはその周辺地域,特に香辛料の原産地である東インド諸島へポルトガルの権力を拡張してゆくために利用された。1558年にはマラッカ司教区が設置され,インドネシアはその権威の下におかれた。カトリックの宣教は三つの修道会,すなわち,フランシスコ会,イエズス会,ドミニコ会によってなされた。彼らの第一の関心はテルナテ島(Ternate)のサンパウロ要塞のポルトガル人の牧会であった。そこから始まって,彼らはアンボン島(Ambon)とモロタイ島(Morotai)北部へと伝道を拡大していった。カトリックの拡大はアミニズムを奉じる住民の間で積極的になされた。その地域の住民のカトリック受容には,政治的要因がからんでいた。住民はテルナテ島のサルタンによって非常に抑圧され,イスラム化されていたのである。彼らはポルトガル人の保護を求め,それゆえにカトリックを受け入れることを宣言したのであった。いくつかのキリスト教村がただちにポルトガル人の要塞近くに建設された。
しかし,カトリックの伝道の業がポルトガル当局によって準備され,支えられ,保護されたにもかかわらず,最初の数年間の彼らの伝道は,正しい方向を目ざしたものとは思われなかった。彼らの伝道はポルトガルの権力が持つ影響力に,非常に依存していたのである。カトリックの伝道は,1546/7年のフランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier)の到着まで真剣になされることはなかった。ザビエルはマラッカにもどった時,インドネシアにゆくすべての宣教師たちにオリエンテーションを施した。その時以来,伝道の業は中部モルッカ(Maluku)群島(1547-1605年),北部モルッカ群島(Ⅰ547-1605年),バクン島(Bacan)(1547-1605年),東ヌサテンガラ(Nusatenggara)で定期的に続けられたが,ことに1556年にアントニオ・タヴェイラ(Antonio Taveira ドミニコ会)による最初の訪問以来,フローレス島では順調に続いた。集中的な伝道活動はフローレス島東部,ソロール諸島(Solor)と,アドナラ島(Adonara)において,1561年から1599年の間に行なわれている。当時,テルナテ島の王子がスラウェシ島北部の占領とイスラム化をもくろんでポルトガルと権力闘争をしていた。カトリックの伝道はスラウェシ島北部(Sulawesi)にも拡がったが,これはその際の,ポルトガルによる影響力拡大の結果である。それより前,1563年にポルトガルは軍艦を派遣していたが,その時マゼランの一行が同行していた。彼らはスラウェシ島北部に伝道を行い,メナド(Manado)にその拠点を築いたのであった。
概して,ポルトガル人とそのカトリックの伝道は成功裡にジャワに入ったとは言いがたいが,しかしフランシスコ会は1585年から1589年にかけて,ブランバンガン(Blambangan)とパナルカン(Panarukan)で伝道を行った。そしてこのヒンドゥー化されていた地域はポルトガル人に好意的な姿勢を見せ,カトリックの宣教師たちが住民の中で活動することを許した。しかし,その地域での活動は,ブランバンガンがイスラム国家に攻撃されてイスラム化されると,全面的に破壊された。
1世紀にわたるポルトガルの東インドネシア支配ののち,17世紀の初頭にはポルトガルと争う新しい勢力,オランダが台頭してきた。そのオランダ東インド会社(VOC)をてこにして,オランダはポルトガルと東インドネシアの香辛料の権益を争ったのである。オランダは1605年2月23日に,アンボン島にあるポルトガル要塞を,そして同年6月19日にはチドレ島(Tidore)の砦を占領することに成功した。当時,チドレ島はモルッカ群島全域に対するカトリック伝道の中心であった(1578-1605年)。ポルトガル要塞の陥落は,インドネシアにおけるポルトガル支配の終焉だったのである。
残念ながらオランダ人はテルナテ島でその支配力を強化するまでには至らなかった。この状況は,当時フィリピンに集中していたスペインに利用され,彼らは旧ポルトガル領地域を征服しようとするに至った。1606年3月から4月を振り出しに,スペインはテルナテ島,チドレ島,そしてハルマヘラ島の一部をオランダの手から再び征服することに成功した。カトリック教会の伝道は,スペインの保護のもとに再開されたのである。そしてこの地域はスペインによって60年間支配された。
この時代の宣教活動はポルトガル時代ほど順調ではなかった。それはその地域での彼らの働きに関するスペイン人とポルトガル人との間に起こった論争のためであった。テルナテ島にいるスペインの支配者は,その地域がスペインによって支配されているのであるから,ポルトガル人によって引き続き実施される伝道活動を快くは見なかったのである。現実にこれら二つの王国がフィリップ2世王治下のⅠ580-1640年の間に,一つの王冠の下に統一されたことから問題が起こってきた。テルナテ島の司令官は,伝道活動がイエズス会によってではなく,フランシスコ会の手によってなされることを望んだ。他方,マニラの総督は,二つの王国の統一契約を維持しようとして,ポルトガル人によって伝道が継続されるのを許可したのであった。この時インドネシアで活動していたイエズス会は,イエズス会コーチン教区(Cochin=インド)に属しており,イエズス会マニラ教区ではなかった。当時のインドネシア人カトリック信徒について次のようにいわれている。
『一般的に,ほとんどの宣教師は,インドネシア人カトリック信者の生活様式に満足していなかった。彼らは洗礼を受けても依然カトリックの教えに合致しない伝統的な様式を実践している。』
一方,オランダとスペインとの間の戦争は継続していた。その影響力が増加したために,オランダはふたたびテルナテ島に三つの要塞を建設することができた。それから突然の政治的転換が1648年に起きた。オランダとスペイン両国は平和協定(Peaceful agreement)に署名し,80年間に及んだ戦争は終わった。平和協定は1651年まで,インドネシアにおいては発効しなかった。したがってスペインはモルッカ諸島北部においてその武力を維持することができたが,1666年には中国海軍の脅威にさらされているフィリピンを強化するため,インドネシアから全軍の撤退を余儀なくされた。インドネシアを撤退する前に,要塞などはスペインによって焼かれた。記録によれば,
『テルナテ島とチドレ島の要塞から撤退する前に,スペイン軍は村々や教会の建物,そして要塞内外の修道院を破壊した。さらに要塞のまわりに居住していたインドネシア人のカトリック信徒たちは連れ去られ,いっしょにフィリピンに移動した。』
かつてポルトガルとスペインが植民地としていた地域のすべてをオランダが支配下においた時には,モルッカ諸島,スラウェシ島北部,シアウ島(Siau),サンギー諸島(Sangihe)にいるカトリック信者の総数は4万人と見積られた。カトリックの宣教師はすべて放逐されたが,ただソロール島とフローレス島では伝道を続けることが許された。それはおそらくオランダがその地域に対して経済的野心を持っていなかったからである。」
フリドリン・ウクール著/原誠訳「インドネシアのキリスト教」(『アジア・キリスト教史〔2〕—―フィリピン,インドネシア,タイ,ビルマ—―』(教文館1985)収録)より
- 旅行の満足度
- 3.0
- 観光
- 2.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 2.0
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- その他
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 船 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
エンデの宿は「Berlian Hotel」。Berlianはダイヤモンドという意味だが,なかなか快適な中級ホテルである。
エンデでもっとも大きな市場があるのは,港があるムボンガワニMbongawani地区だが,ベルリアンホテルはそこから15〜20分くらい坂を上っていったところにある。
ただし,そこは街外れというわけではなく,ホテルの近くには「ポトゥランドPotulando」という小ぢんまりした市場があり,それを中心に商店や食堂の並ぶそこそこ賑やかなエリアとなっている。 -
エンデは,ワインガプに較べると人口が多く,街の中に市場がいくつかある。
エンデではこれらを巡ってみることにしよう。 -
まずは,エンデで最大の規模であるといわれるムボンガワニ市場だ。
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公設市場の建物の外側にもトタン屋根の商店が軒を連ね,さらに露天商が天幕やパラソルを広げ,大きな市場を形成している。
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ムボンガワニ市場は,すぐ脇に漁船が水揚げをする漁港を擁するため,海産物が新鮮なのだそうだ。
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こちらは八百屋。
並んでいるのは,カチャン・パンジャン(十六ササゲ),ハヤトウリ,ナス,キュウリ,キャベツ,空芯菜,からし菜,イモの葉,トマト,ニンジン,トウモロコシ,ネギ,レモングラスの茎といったところだ。 -
スイカを売る店。
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穀物や豆類を売る屋台。砂糖の袋にはハチがたくさんたかっている。
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こちらは米屋。
並んでいる米は,いずれもキロ150円くらいしている。このところアジアで米の価格が高騰しているというニュースをよく目にするが,たしかにこれは高い。 -
クエ(朝生菓子)を売るカキリマ(手押し屋台)。
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市場の外れにはイカットを売る露店も出ていた。
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日が高くなり,かなり暑い。市場のカキリマでエスチャンプル(ミックス氷)をもらって喉を潤す。ひとつ5kIDR。
(1kIDR=約10円) -
このムボンガワニ市場は,エンデ最大規模の市場であると同時に,アンコタ(またはアンコット=乗り合いのハイルーフワゴン車)のターミナルになっている。
ターミナルが独立して整備されているわけではなく,市場の路地がそのまま発着場になっているため,非常に混雑してかつ混乱している。
ここから,少し離れたところにあるウォロウォナWolowona市場までアンコタに乗って行きたいのだが,それを見つけるのに一苦労した。 -
主要道(アフマド・ヤニ通り)を走って空港を通り過ぎ,15分くらいでウォロウォナ市場近くのラウンドアバウトが見えてきた。オランダの支配に抵抗したエンデの英雄マリロンガMari longaの大きな立像が目印だ。
ここでアンコタを降りる。運賃は5kIDRで,降りるときに支払う。
乗客は車内で支払うのではなく,いったん降車してから助手席のドア越しに運転手に支払うのが一般的。
(1kIDR=約10円) -
ウォロウォナ市場もかなりの規模をもつ市場だった。ちょうどこの日は金曜日で,この市場が週間でもっとも賑わう日だったようだ。
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魚を売る露店。これはグルクマかな。
市場をざっと見て回ったが,まあムボンガワニ市場とよく似た感じだった。こちらのほうがやや小規模だ。 -
市場巡りに満足して,帰りのアンコタに乗る。帰途は,道路沿いに立ってムボンガワニ方面に走っていくアンコタを止めて飛び乗ればよいので,そんなに苦労はない。
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アンコタの車窓から道路沿いを観察していると,それなりに大きいスーパーマーケットを見つけたので,他日行ってみた。
「Roxy Mart」という店で,ホテルからも徒歩圏内。ここに来れば日常的に使うものはだいたい手に入る。
クリムトゥ山に登ったりする人は色々と買い出しもあるだろうから,品揃えが豊富なこのスーパーは便利だと思う。 -
店の横には主要銀行のATMの看板が並んでいる。
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店の棚には,日清製菓の「バターココナッツ」が並んでいた。
日清シスコが販売している「ココナッツサブレ」と似ていて紛らわしいが,日清製菓と日清シスコはまったく無関係の別会社ということである。 -
こちらは「Giv」という銘柄の固形石鹸。
よく見ると「ヒジャーブ用石鹸」と書いてある。ヒジャーブはアラビア語で,ご存じのとおりムスリマが頭髪を覆い隠すための頭巾のことだ。
そういえば,別の店で「ヒジャーブ用シャンプー」というのが売られているのを見たような気もする。
「ヒジャーブ用」とは何なのだろうか? 単にハラール認証のシャンプー・石鹸なのであれば,男性ムスリムだって顧客になり得るわけだから,あえて「ヒジャーブ用」と限定するのは無用のことのように思われる。
すると,やはりヒジャーブを着用するムスリマ特有の問題に対して一定の効能を持つシャンプー・石鹸ということになるが,それがどういうものなのかちょっと想像がつかない。謎だ。 -
さて,ここからはエンデで食べたものの記録。
まずはエンデに着いて最初に飛び込んだミーバッソの店のメニュー。ホテルから数軒挟んだ隣で,同じクリムトゥ通り沿いの店。これでエンデの物価をおおまかに把握することができる。
「Warung Mie Ayam & Bakso Putri Solo」
(座標:-8.842215952183967, 121.65000295298333) -
手書きで追加されたメニュー。小さな食堂のメニューとしてはこれくらいで十分だろう。
-
これがもっとも安いBakso Biasa(ミーバッソ並盛),14kIDR。
地元民は,卓上に置いてあるケチャップマニスとサンバルアスリをこれにドバドバとかけて食べる。
あんなにかけたら,どの店のミーバッソでも同じ味になると思うのだが。
(1kIDR=約10円) -
比較のため,もっとも高いBakso Campur(ミーバッソ・ミックス)も注文してみる。
値段は25kIDRだが,バッソ(肉団子)が大きくなって煮抜き玉子が丸一個追加された。
ちなみに,インドネシア人の誰もが愛するバッソの名称は福建語がルーツだ。シンガポールやクランの名物・肉骨茶をバクテーと発音することから連想できるが,バッソは漢字で書くと「肉酥」になるという。
(1kIDR=約10円) -
次は,これもホテルのすぐ近くの食堂。
ここでもメニュー中で最安値の皿飯,「ナシララパンNasi Lalapan2T」(12kIDR)を注文してみる。
ナシララパン(ララパン=生野菜)というのは,タイのナームプリック定食のようなもので,生野菜orゆで野菜+米飯にサンバルが添えられたセットである。これにタフゴレンTahu Goreng(揚げ豆腐)とTempe Goreng(揚げテンペ)の「2T」がついたものがナシララパン2Tということになる。
このお店では,サービスなのかTerong Goreng(揚げナス)も1個だけついていて,2Tが”3T”にアップグレードしていた。
また,皿飯に添えられたクマンギKemangi(レモンバジル)の葉がとても香り高く,ネシアめしの真価を味わうことができた。
(1kIDR=約10円) -
他日またこのお店へ入って,今度は「ナシララパンNasi Lalapan3T」(15kIDR)を注文してみた。
すると,ドカンとTelur Dadar(玉子焼き,タイのカイジャーオと同じ)が載って,サービスの揚げナスも添えられ,しっかり”4T”にアップグレード。
この店では揚げ物は注文してからしっかり揚げ直され,熱々のものが供される。インドネシアは手食文化圏なので必ずしも熱々のものは歓迎されるとは限らないが,美味しさ優先ということであろう。
(1kIDR=約10円) -
あんまり安いメニューばかり追求するのも悪いので,イカンレレ(なまず)の揚げたんのララパン定食も食べてみる。25kIDR。
レレの身をむしると,淡白な白身からほかほかと湯気が立ち上る。安食堂でのささやかな贅沢気分。旅の醍醐味である。
(1kIDR=約10円)
「Warung Gendon Arema」(座標:-8.842514840056603, 121.65032525337371) -
夕食は,部屋で自炊することが多かった。
宿の近くにある「ポトゥランド市場Pasar Potulando」で, -
ナスとトマトとニンニクを買い,
-
トマトソースの大袋も買い,
-
エンデの豆腐を煮込んでみたりした。
ところがこのトマトソースというのが曲者で,全然トマトの味がしない。色も胡散臭く,トマトソースというよりイェンターフォーのような赤色だ。
さらに,エンデの豆腐はとても酸っぱかった。饐(す)えているというわけではなく,酢酸のような酸っぱさだ。凝固剤に酢酸系のものを使用しているのかも知れない。ここの豆腐は,シンプルに煮て食べるのには向かないような気がする。
というわけで,この日は失敗。もったいないので具材は無理に食べたが,残ったトマトソースはどうにもならないので廃棄。 -
エンデ滞在中に食べたものでもっとも料理らしかったものは,ポトゥランド市場のすぐ隣にある「Warung Bangkalan Abah Turi(トゥリ父さんのバンカラン食堂)」で食べたサテカンビン(山羊の串焼き)と,
-
カンビンのグレgulai(またはグライ=山羊肉のカレー風味グレイヴィー),イカンバカール(焼き魚)と米飯のセットだった。
サテカンビンとグレカンビンと米飯のセットはバリ島などでも非常にポピュラーで,いわゆる薬食い(精をつけるための食事)の定番。「バンカラン食堂」で出していることから分かるとおり,マドゥラ島の名物である。
ローカルの食べ物を紹介しなければならないのにマドゥラ料理でお茶を濁すのは忸怩たる思いだが,直前の滞在地であるスンバ島と同じく,エンデでも不幸にして郷土料理に巡り会うことはなかった。 -
この時期,エンデの街角ではこんな露店をあちこちに見かけた。
これはクリスマスキャンドルと花火を売る店である。もうじきクリスマスだ。
インドネシアではクリスマスのことを,ポルトガル語でNatalと呼ぶ。 -
エンデを離れる前の晩が,ちょうどクリスマスイヴだった。
日が暮れてからムボンガワニにあるカトリック教会へ行ってみた。
画像からはよく分からないが,たくさんの人が礼拝に集まっている。
厳かなミサの様子を,門の外からじっと眺めさせてもらった。 -
教会の周辺は信徒たちの車でいっぱい。
神父の説教がふと途切れ,続いて聖歌隊の讃美歌が聞こえてくる。 -
21時になると一斉に花火が上がった。
一か所からだけでなく,エンデの街のあちこちからめいめいに打ち上げているようだった。
このひとときだけは,静かなエンデの街が華やかに輝いているのが見えた。
「ペルニ船の旅5000km その2:ワインガプ(スンバ島)からエンデ(フロレス島)」
https://4travel.jp/travelogue/11906683
「ペルニ船の旅5000km その3:エンデ(フロレス島)からクパン(ティモール島)」
https://4travel.jp/travelogue/11910958
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