金沢旅行記(ブログ) 一覧に戻る
第二日目は、まず、加賀藩の藩祖「前田利家」と正室「お松」を祀る神社「尾山神社」へ行く予定でしたが、その途中に「黒門前緑地」があり、そこに「タカジアスターゼ」と「アドレナリン」の発見で有名な「旧高峰家・旧検事正官舎」、時代に翻弄され、「前田利家」の四女で波乱と動乱に満ちた「豪姫住居跡」があり、隣接して加賀藩独特の組織である「加賀藩御算用場跡地碑」、「金沢東照宮」と呼ばれた「尾神社」がありました。さらに進むとかの有名なキリシタン大名「高山右近」が住んでいた「甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡」ありました。そう考えると、金沢は歴史と文化の宝庫であるということを痛感しました。そして、その先に、加賀藩の藩祖「前田利家」と正室「お松」を祀り、ギヤマンの神門が特徴的な「尾山神社」がありました。「尾山神社」の境内を抜け、「鼠多門橋」を渡ると、「金沢城公園」(金沢城)では、唯一の海鼠壁の目地が黒漆喰の「鼠多門」と独創的な景観を創り出した庭園の「玉泉院丸庭園」があります。そして「玉泉庵」と併設して「休憩所」があり、そこにはボランティアのガイドさんが常駐していて「玉泉院丸庭園」を詳しく説明してくれました。次は、一歩足を踏み入れるとそこはまさに江戸時代の風景そのもの「長町武家屋敷跡」と「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」の格付けでも2つ星に選ばれた「武家屋敷跡 野村家」を訪ねました。そして、赤レンガの建物に歴史と文化を感じ、明治・大正時代の雰囲気を味わうことができる「四高記念文化交流館」を訪ねましたが、「令和6年能登半島地震」で施設内の一部が損傷しているということで入館することができず、外観のみの見学となりました。「四高記念文化交流館」のすぐ隣にあるのが「石川県政記念しいのき迎賓館」で、堂形の大きなシイノキが威厳を放っていました。次は、第二日目の前半戦の最後である「金沢21世紀美術館」へ向かいました。残念ながら、楽しみにしていた有料ゾーンには入場することができませんでした。「令和6年能登半島地震」で有料ゾーンのガラスの天井などが崩落し、修理中ということでした。一旦ホテルへ戻り、「プレミアラウンジKANAZAWA」では「カフェタイム」の時間で、ケーキや飲み物そしてオードブルなどを食べながら休憩しました。<br />休憩を済ませ、第二日目の後半戦です。まず、「近江町市場」に立ち寄り、「がすえび」と「生かき」を食べました。まさに、海からの贈り物です。「がすえび」は甘く、身はぷりぷりしていました。「生かき」は奮発して一番高い1000円のものを食べましたが、磯の香りと口の中に入れるとクリーミーな食感でした。お腹がみたされたところで、「近江町市場」の道路の反対側にある近江町市場の氏神「市媛神社」でお参りしました。それから「浅野川大橋」を渡り「ひがし茶屋街」を散策し、茶屋街の「志摩」、群青の間が有名な「志摩・別館 お茶屋美術館(旧中や)」を見学しました。「ひがし茶屋街」を散策している最中に、雨が降ってきたので、明日時間があるので再度訪れることにしました。第二日目は小雪が舞ったり、雨が降ったりコンディション的には余りよくありませんでした。ホテルにいったん戻り、本日の最終目的地である金沢おでんの老舗の「菊一」でソウルフードを堪能しました。<br /><br />《第二日目の見学等の順路》<br />①「旧高峰家・旧検事正官舎」⇒②「豪姫住居跡」⇒③「加賀藩御算用場跡地碑」⇒④「尾神社」⇒⑤「甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡」⇒⑥「尾山神社」⇒⑦「鼠多門」⇒⑧「玉泉院丸庭園」⇒⑨「長町武家屋敷跡」⇒⑩「武家屋敷跡 野村家」⇒⑪「四高記念文化交流館」⇒⑫「石川県政記念しいのき迎賓館」⇒⑬「金沢21世紀美術館」⇒⑭「近江町市場」⇒⑮「市媛神社」⇒⑯「浅野川大橋」⇒⑰「ひがし茶屋街」⇒⑱「志摩」⇒⑲「志摩・別館 お茶屋美術館(旧中や)」⇒⑳「菊一」<br /><br />【①「旧高峰家・旧検事正官舎」と②「豪姫住居跡」】<br />「旧高峰家・旧検事正官舎」は、ホテルから徒歩2分180mほどの「黒門前緑地」にあります。「黒門前緑地」は、「金沢城公園」(金沢城)の北西部に隣接する公園です。そして、この公園の敷地内には、敷地内には明治時代に建てられた二つの建築「旧高峰家」と「旧検事正官舎」があります。実は、この付近一帯は、江戸時代には「前田利家」の四女で、豊臣秀吉に養女として迎えられた岡山城主「宇喜多秀家」の正室となった「豪姫」の屋敷があった場所とされています。正門入り木戸をくぐると、右手に「旧高峰家」そして、その奥に「旧検事正官舎」があります。「旧高峰家」は、加賀藩の御典医であった父の「高峰精一」の邸宅として明治5年(1872年)に建てられたものの一部です。高峰家では日本の科学者、実業家、工学博士、薬学博士で「タカジアスターゼ」と「アドレナリン」を発見したことでも知られる「高峰譲吉」を輩出しています。「旧高峰家」は、主屋は昭和39年(1964年)に解体されましたが、「高峰譲吉」の生家の一部を「金沢湯涌江戸村」に移築・保存し、さらに平成13年(2001年)に元々建物のあった旧梅本町に近いこの敷地に再移築したものです。その際、敷地に建っていた「旧検事正」の官舎の一部と渡り廊下でつなぎ、新しく水屋を設けています。2棟を取り囲む形で和風庭園がとても手入れが行き届き印象に残っています。「旧検事正官舎」は明治43年(1910年)に建築されました。当初は「兼六園」付近にありましたが、区画整理に伴い大正7年(1918年)に現在地に移築されました。洋風の外観ながら内部には格天井の座敷などが見られる近代和風建築です。平成7年(1995年)まで「金沢地方検察庁検事正官舎」として用いられていました。「旧検事正官舎」には、催しがなければ中を見学できるのですが、訪れた当日は、イベントがあり残念ながら見学できませんでした。玄関先で建物を鑑賞していると中から係員が出てきて、「旧検事正官舎」について、詳しく、親切に説明してくれました。やはり、格天井の座敷は素晴らしいそうです。よく結婚式の前撮り写真撮影が行われるそうです。<br />実は、この付近一帯は、江戸時代には「前田利家」の四女で、豊臣秀吉に養女として迎えられた岡山城主「宇喜多秀家」の正室となった「豪姫」が金沢に戻ってきた後に住んだ屋敷があった場所とされています。ちなみに、「黒門前緑地」はかつて「佐久間盛政」が築城した当時の大手門があった黒門口(当時は西丁口)のすぐそばにある緑地です。「豪姫」の生涯について調べてみると、「豪姫」は、天正2年(1574年)に、加賀藩祖「前田利家」と「お松の方」の四女として誕生しました。「豊臣秀吉」の養女となり、「豊臣秀吉」や正室の「寧々」に寵愛されました。後に岡山城主「宇喜多秀家」に嫁ぎ、「備前の方」と称されました。「宇喜多秀家」は、「豊臣秀吉」から信頼され豊臣政権下で五大老まで務めた57万石を領する岡山城主です。しかし、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の合戦」に敗れた西軍の主力である「宇喜多秀家」は「徳川家康」に八丈島に流され、「豪姫」は金沢に戻りました。夫の「宇喜多秀家」だけでなく、授かった子供まで島流しになったそうです。三代藩主「前田利常」より粧田千五百石を与えられ、この辺りで居住したそうです。そして、寛永11年(1634年)5月23日に、「豪姫」はこの地で60年の生涯を閉じました。<br /><br />【③「加賀藩御算用場跡地碑」】<br />「黒門前緑地」から徒歩1分70mほど進むと、「税理士事務所」の前に「加賀藩御算用場跡地碑」があります。<br />加賀藩の「御算用場」が一躍スポットライトを浴びたのは、「堺雅人」、「仲間由紀恵」主演、「森田芳光」監督の平成22年(2010年)に公開された「武士の家計簿」のロケ地となった所だからです。原作は「磯田道史」のベストセラー「武士の家計簿加賀藩御算用者の幕末維新」で、それが映画化されたものです。加賀藩では、会計を司る役所を「御算用場」といい、加賀藩独特の組織でした。そこの長を「御算用場奉行」といい、郡奉行、改作奉行、御預地方御用、定見地奉行など、御算用場奉行管轄の役所が併設されていました。そして、役所には有能な「算用者」と呼ばれる実務を担当する役人が約150人いました。「算用者」には職務上、筆算の才能が必要とされたそうです。ちなみに、藩祖「前田利家」は、戦場でも、そろばんを持ち歩いていたそうです。<br />施設は本棟の他に土蔵三棟からなり、建物の規模は350坪におよび、その敷地は大きなもので現在の「尾神社」から説明板の設置してある会計事務所や住宅を挟んだ「豪姫」の邸宅があった「黒門前緑地」までの範囲にあったそうです。明治2年(1869年)に「御算用場」は廃止され、その地は、「尾崎神社」と現在の黒門前緑地のところは西町軍艦所、商法会社、尾山病院、検事正官舎と移り変わりました。また、周辺には、「尾神社」や白い明治・大正期と思われる古民家などがあります。<br /><br />【「尾神社」】<br />「加賀藩御算用場跡地碑」から20m先には、「尾神社」の裏門があります。「尾神社」の歴史を紐解いてみると、寛永17年(1640年)に加賀藩四代藩主「前田光高」が「東照大権現(徳川家康)を祀ることを願い出て、許可を得て金沢城内北の丸に造営を始め、寛永20年(1643年)に建立した神社です。建立にあたっては、幕府大工頭の「木原木工允」の設計をもとに、加賀藩の大工らが力を合わせ施工にあたりました。1600年代中頃の前田家は、加賀百万石としての財力もあり、まだまだ徳川幕府から警戒されていたました。前田家としては徳川家に忠誠を尽くす姿勢を示すために、「徳川家康」の御霊を金沢城内に祀ったと思われます。金沢城北の丸」に建立され、朱塗りで彫刻や飾り金具が施され、「日光東照宮」の縮図ともいわれ、「金沢城の江戸」、「北陸の日光」とも呼ばれていました。そう言えば、「中門」や「拝殿」のいたるところに徳川家の家紋である「葵の紋」が彫られていました。ちなみに、「東照大権現」こと「徳川家康」が祀られている神社は全国にあり、四大東照宮として、「日光東照宮」、「久能山東照宮」、「芝東照宮」、「上野東照宮」が有名です。廃藩置県後の明治7年(1874年)に社名を「金沢東照宮」からご祭神に「天照大神」と加賀藩三代藩主の「前田利常」を加え、「尾神社」に改称するとともに、城域が陸軍省の所管となり明治8年(1875年)に移転することとなり、明治11年(1878年)に「旧加賀藩御算用場」であった現在地に移りました。規模こそ小さいものの、「尾崎神社」には数多くの重要文化財があります。まず、市民の生活道路に面して張り巡らされている朱色の「透塀」、「本殿」、「拝殿」、「幣殿」、「中門」も重要文化財となっています。そして、昭和25年(1950年)に国の重要文化財に指定されています。<br />では、早速、「尾神社」を参拝したいと思います。まず、「お堀通り」に面した「中門」です。「中門」の手前左側には、「社号標」の隣に「御由緒」があります。「中門」は、朱色の「透塀」に挟まれ、建築様式は、平唐門、本瓦型銅板葺です。そして、「中門」の屋根の上には葵の御紋が見えます。<br />「中門」をくぐると、右手に「手水舎」、その奥に「社務所」があります。そして、正面には、「拝殿」があり、扉や瓦など、「社殿」のあちこちに「葵の御紋」が見られ、「金沢東照宮」の名前にふさわしい素晴らしい彫刻が施されています。「社殿」の前には、ずんぐりむっくりの「狛犬」が座していました。「拝殿」の左隣には、境内社である「豊受稲荷神社」があり、その参道から「本殿」が見えるので一つのポイントです。ここでは、「本殿」と「拝殿」を分離させた「東照宮建築」を垣間見ることができます。いずれにしても「尾神社」は、祀られているのは「徳川家康」ですので、立身出世や大願成就の御利益は大いにありそうです。もちろん、「天照大神」が祀られていますので縁結びの御利益もありますよね。<br /><br />【⑤「甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡」】<br />「尾神社」から徒歩2分100mほど進むと「甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡」の石碑があります。「金沢城」には、一般人の立ち入りが禁止されている「甚右衛門坂」という坂があります。「金沢城」は江戸時代には前田家の居城でしが、それより前の戦国時代には本願寺方の「尾山御坊」と呼ばれていました。「甚右衛門坂」の名前の由来は、天正8年(1580年)に織田方の武将である「佐久間盛政」の攻撃を受けた時に、本願寺方の「平野甚右衛門」が奮戦し討死した場所であったためにこの名がついたそうです。この金沢城西側と城下をつなぐ「甚右衛門坂」下周辺には、宣教師屋敷である「伴天連屋敷」が数多くあったそうです。説明板によると丹波国守護代内藤家出身の「内藤如安」や、「宇喜多秀家」に仕えていた「浮田休閑」など、「高山右近」を頼って金沢に来たキリシタン武将や加賀藩士が集まっていたのではないかといわれています。「高山右近」は、キリシタン大名として知られ、6万石の大名になりながら、「豊臣秀吉」による天正15年(1587年)の「バテレン追放令」により追放されてしまいました。そんな「高山右近」を客将として迎え入れたのが、「前田利家」でした。「高山右近」は武将として優れ、築城の名人でもありま、金沢城下の整備にも関わりました。そして、江戸幕府によって出された慶長19年(1614年)の「キリシタン禁教令」によって、「内藤如安」は「高山右近」とともにマニラへ、「浮田休閑」は津軽に流され、その地で人生を終えたとされていそうです。実は、「金沢城甚右衛門坂」周辺は、坂の立ち入りが禁止されていることもあり、通りかかる人も少ない隠れスポットです。「尾山神社」や「鼠多門」のすぐそばなので、訪ねてみたいかがでしょうか。<br /><br />【⑥「尾山神社」】<br />「甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡」から徒歩4分290mほど進むと「尾山神社」の裏門にでます。<br />「尾山神社」は、加賀藩の藩祖「前田利家」と正室「お松」を祀る神社です。創建は、明治6年(1873年)で、廃藩置県後に、旧藩士たちは禄を離れて、必ずしもその生活は楽ではなかったはずですが、旧「金谷御殿」の跡地である現在の社地に社殿を新築しました。それまで「前田利家」の神霊は卯辰山麓の「卯辰八幡宮(現:宇多須神社)」に合祀されていました。明治8年(1875年)築の最大のみどころである「神門」は、和漢洋折衷の3層構造で国の重要文化財に指定されています。3層目に色とりどりのギヤマン(ガラス)がはめ込まれており、夜には灯りが灯り幻想的な雰囲気を醸しだすそうです。「本殿」の建造は古式に則った「三間社流造」で、シンプルであり、威厳に満ちた「社殿」です。「社殿」の右側にある「玉垣」は珍しいレンガ造りとなっていて、「剣梅鉢」のご紋すかしになっています。金沢でレンガを使用したのは「尾山神社」が最初だそうです。<br />ところで、何故、「前田利家」が亡くなり230年近くたった明治になって「尾山神社」が建立されたかというと、その歴史的背景には、外様大名という足かせが浮かび上がってきます。当時、徳川幕府の許可なくして、神社を<br />創建するような勝手なことはできませんでした。「前田利長」でさえ、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切ることができませんでした。そこで「前田利長」は、守護神としていた「物部八幡宮」ならびに「榊葉神明宮」を遷座する名目で、卯辰山麓に社殿を建立し、「前田利家」の神霊を合祀しました。これが、「卯辰八幡宮」です。<br /><br />《「尾山神社」のお薦め散策順路》<br />①「神門」⇒②「手水舎」⇒③「授与所」⇒④「お松の方像」⇒⑤「前田利家公像」⇒⑥「神苑」⇒⑦「拝殿」⇒⑧「金谷神社」⇒⑨「本殿」⇒⑩「東神門」⇒次の観光地へ<br /><br />それでは、「尾山神社」を見学したいと思います。まずは、「石鳥居」をくぐり石段を上った先にあるのが、和漢洋の「神門」です。<br /><br />《①「神門」⇒②「手水舎」》<br />「尾山神社」の「神門」は、明治8年(1875年)に建立されました。「神門」は、和漢洋の三様式を混用した異色の門として知名度があり、「兼六園」とともに金沢市のシンボルにともなっています。「第一層」には「戸室石」が用いてあり、「第三層」は四面五彩の「ギヤマン張り」で、もとは「御神灯」が点灯されていたそうです。「御神灯」が放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する船の目標にもなったそうです。これもまた驚くべき事実ですが、「第三層目」に設置された避雷針も日本最古のものだそうです。<br />「神門」をくぐると「手水舎」がすぐ右手にあります。ここで身を清めます。そして、「手水舎」の後ろには、完成して真新しい「授与所」があります。<br /><br />《③「授与所」》<br />「授与所」は、平成27年(2015年)秋に完成したばかりの新しい「授与所」で、開放的なガラス張りのデザインになっています。「授与所」内には、「金沢城」など市内の観光地の四季の風景を映し出すディスプレイを設置してあり、ここでも金沢の良さを再確認することができます。<br />「授与所」の後ろには、「前田利家公像」と「お松の方像」が相並んでいます。<br /><br />《④「お松の方像」と⑤「前田利家公像」》<br />「神門」をくぐると「社殿」の右手に「前田利家公像」と「お松の方像」が並んでいます。「前田利家公像」は、丸い大きな風船か袋のようなものを担いで馬にまたがっています。それは、「母衣」といって、もともとは流れ矢を防ぐために鎧の背にかけた布でしたが、竹などの骨組みを形成して膨らませるようになったそうです。前田利家」は、「織田信長」に仕え青年時代は「赤母衣衆」として従軍しました。槍の名手だったため、「槍の又左」の異名をもって敵軍に怖れられました。「前田利家」は、若い頃、織田軍団で赤い母衣を背負い、9人の「赤母衣衆」のリーダーを務めていました。母衣衆は軍団にとっては重要な役目を担っていましたが、敵に目立つのでとても危険で、いわば死と背中合わせの役回りをしていました。<br />「お松の方」は、「前田利家」の正室で、学問や武芸をたしなむ才能豊かな女性であったと伝えられています。実母が「前田利家」の母の姉で「前田利家」とは従兄関係であり、「前田利家」亡き後は、「芳春院」と号しました。そして、歴史家の間では明治維新まで前田家が栄えることができたのは「お松の方」の功績が大きかった評価されています。それを証明するエピソードがあります。「前田利家」が亡くなったあと、「徳川家康」が加賀に攻め込んで来ようとした際には、息子「前田利長」に「母を捨てよ」と伝え、自らが「徳川家康」側の人質となり、前田家を守ったというものです。それにより明治維新まで前田家が栄えることができたという訳です<br />「前田利家公像」と「お松の方像」の背景にあるのが「神苑」です。<br /><br />《⑥「神苑」》<br />「神苑」は、「旧金谷御殿」の庭園であって、古代舞楽の楽器を模した「地泉廻遊式」の名園で、「楽器の庭」という愛称があり、楽器をモチーフにしたという庭園です。その中でも特徴的な煉瓦の橋は琴をモチーフにした「琴橋」をはじめ、中の島は「琵琶島」、「笙島」と名付けられた島の形もそれをモチーフにしているそうです。「神苑」の水は、三代藩主「前田利常」の命により完成した「辰巳用水」の水の高低差を利用して、「兼六園」から暗渠で導き、「響遠瀑」から落としていました。現在は、当時の水路が断絶したので、井戸を堀り、地下水を池に流しています。<br />「神苑」の景観を堪能した次は、右手にある「拝殿」です。<br /><br />《⑦「拝殿」》<br />「尾山神社」の「拝殿」は、入母屋造屋根瓦葺となっています。「拝殿」の中央天井は格天井作りで各間毎に岩絵具による極彩色のうどんげの花が美しく描かれています。これは「旧金谷御殿」から移築したものです。欄間は約8寸厚の欅の1枚板に見事な「梅花紋」を透彫にし、極彩色の華麗な彫刻で、これもまた「旧金谷御殿」から移築したものです。<br />「拝殿」を右手に進むと、もう一つの神社である「金谷神社」があります。<br /><br />《⑧「金谷神社」》<br />「尾山神社」の境内にもう一つの「金谷神社」があります。「金谷神社」は、二代藩主・利長公から最後の十四代藩主・慶寧公、そして十五代当主、十六代当主、十七代当主、さらに歴代藩主・当主の正室(夫人)をお祀りしています。また、「金谷神社」には、「百万石まつり」で御祭神をのせて市内を巡行する立派な「神輿」も安置されています。<br />さらに、すぐ左手に「本殿」があります。<br /><br />《⑨「本殿」》<br />「尾山神社」の「本殿」は、建築方法は古式に則った「三間社流造」で、シンプルにして神厳に満ちた「社殿」です。また、「本殿」に向かって右側面の玉垣は珍しいレンガ造りで、剣梅鉢のご紋すかしとなっています。レンガを使用したのは、金沢では「尾山神社」が最初だそうです。<br />そして、最後が「東神門」です。<br /><br />《⑩「東神門」》<br />「東神門」は、「旧金沢城の二の丸」の「唐門」で、「唐門」は、形式の名称で、日本で生まれた格式高い建築様式です。明治3年(1870年)頃に「旧卯辰山招魂社」前にあったものを、昭和38年(1963年)に「尾山神社」境内地に移築したものです。「金沢城」は、たびたび火災にあい、そのほとんどが焼失しましたが、この「東神門」が幸い難をのがれたのは、「唐門」の二匹の竜が水を呼んだために焼けずに残ったという伝説があります。今では、桃山風御殿建築の様式を偲ぶ貴重な建造物で、見どころは、向き合う二匹の龍の精緻さと、加賀藩による造営の証とも言える蟇股に施された「剣梅鉢」の彫刻が見どころです。「東神門」は、平成15年(2003年)7月1日に国登録有形文化財(建造物)に指定されています。<br /><br />【⑦「鼠多門」と⑧「玉泉院丸庭園」】<br />「尾山神社」の境内を抜けると徒歩1分40m先に「鼠多門橋」があり、それを渡ると「鼠多門」になります。「玉泉院丸庭園」は、「鼠多門」の右手にあります。<br />昨日、時間の関係で見ることができなかった「鼠多門」と「鼠多門橋」は、「金沢城」の西側にあります。それぞれの特徴は、「鼠多門」が黒い海鼠漆喰、「鼠多門橋」が城内最大規模の「木橋」であるということです。「鼠多門」は、「玉泉院丸」に位置し、「鼠多門橋」により接続される「金谷出丸」からの出入口として機能していました。ちなみに、「金谷出丸」には「金谷御殿」と呼ばれる加賀藩主の別邸があったからです。そのため、当時は、一般の人が通るということは出来なかったそうです。「金谷出丸」は、現在は、藩祖の「前田利家」を祀る「尾山神社」となっています。そして、「鼠多門」は、城内の多くの建物が失われた宝暦9年(1759年)の「宝暦の大火」でも焼失を免れ、修理等を経ながら明治期まで存在していました。「鼠多門」は、2階建ての「櫓門」で、「金沢城」内の他の門と同じく、屋根は木型を鉛板で覆う「鉛瓦」、外壁は「白漆喰塗り」で腰壁は「海鼠壁」が用いられています。この「海鼠壁」の目地が黒漆喰で仕上げられる建築方法が、「金沢城」内の他の門には見られない特徴です。また、「金沢城御三門」と比べて、城壁の連続した石垣の上に直接建てられている点も大きな特徴でしょう。<br />「鼠多門橋」は、幅5.5m、長さ29mの木の橋で、「玉泉院丸」と「金谷出丸」を隔てる水堀に架かる城内最大規模の「木橋」で、幾度かの架け替えを経て明治期まで存在していました。しかし、明治10年(1877年)に「鼠多門橋」が老朽化のため撤去され、明治17年(1884年)には「鼠多門」も火災により焼失し、周囲の水堀も埋め立てられてしまいました。そして、現在の「鼠多門」と「鼠多門橋」は、平成30年(2018年)6月から令和2年(2020年)7月までに復元整備され、往時の勇壮な姿が再現されました。そして、「鼠多門」と「鼠多門橋」の復元が何よりも素晴らしいのは、「加賀百万石回遊ルート」を誕生させたことです。これにより効率的な観光ができるようになったからです。ちなみに、「加賀百万石回遊ルート」は、「長町武家屋敷跡」⇒「尾山神社」⇒「鼠多門」⇒「金沢城」⇒「兼六園」の名所旧跡を周遊することができます。<br />「玉泉院丸庭園」は、池と石垣によって独創的な景観を創り出した庭園です。「玉泉院丸庭園」の散策を楽しんだ後には、「玉泉庵」では抹茶と季節ごとの生菓子を味わうこともできます。「玉泉院丸庭園」は、2代目藩主「前田利長」の正室「玉泉院」(永姫)が屋敷を構えたことがその名の由来とされ、3代藩主「前田利常」が京都の庭師「剣左衛門」を招き、寛永11年(1634年)の作庭をはじめたのが始まりといわれています。その後5代藩主「前田綱紀」や13代藩主「前田斉泰」などの歴代の藩主により手を加えられながら、廃藩時まで「金沢城内玉泉院丸」に存在していた庭園です。「兼六園」は饗応の場であるのに対し、「玉泉院丸庭園」は藩主の内庭としての性格が強い庭園でした。「玉泉院丸庭園」は、城内に引かれた「辰巳用水」を水源とする「池泉回遊式」の「大名庭園」で、池底からの周囲の石垣最上段までの高低差が22mもある立体的な造形でした。滝と一体となった「色紙短冊積石垣」などの意匠性の高い石垣群を庭の構成要素にした独創的な庭園でした。「玉泉院丸庭園」は、明治期に廃絶されましたが、平成25年(2013年)5月から整備工事が始まり、平成27年(2015年)3月に、歴代藩主が愛でたであろう庭園の姿が再現されました。<br />また、江戸時代に「露地役所」があった場所に休憩所「玉泉庵」が設置されました。室内からは、「色紙短冊積石垣」をはじめとした意匠性に富んだ石垣群を借景に庭園を一望することができます。また、和室では抹茶と季節ごとのオリジナル上生菓子の抹茶を楽しむことができます。<br /><br />【⑨「長町武家屋敷跡」と⑩「武家屋敷跡 野村家」】<br />「玉泉院丸庭園」から「長町武家屋敷跡」までは、徒歩10分750mほどの距離にあります。「尾山神社」の「神門」からならわずか8分600mほどです。<br />「長町武家屋敷跡」は、伝統環境保存区域及び景観地区に指定されていて、繁華街の香林坊から一歩入ると、まるで江戸時代のような土塀や石畳の小路が残り、豪壮な武家屋敷が立ち並ぶ風景が広がります。「長町武家屋敷跡」は、加賀藩の藩政時代に中流の藩士の屋敷が軒を連ねていたところです。私も路地の両側に土壁と長屋門が続く風景は、テレビの旅番組で何度も目にしたことがあります。実は、「長町武家屋敷跡」は、ほとんどの家には人が住んでいる住宅街です。屋敷内を公開しているところとしては「武家屋敷跡 野村家」だけとなります。<br />「武家屋敷跡 野村家」の見どころは、「上段の間」、総ヒノキ造りの「格天井」やギヤマン入りの「障子戸」、加賀藩のお抱え絵師による「襖絵」などが見どころです。樹齢400年以上の山桃やシイの古木が残り、濡縁にせまる曲水や落水、灯篭などが美しく配置された庭園は、2003年度の米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング誌」の日本庭園ランキングで3位に選ばれました。さらに「武家屋敷跡 野村家」は平成21年(2009年)発行の「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」の格付けでも2つ星に選ばれており、海外からの観光客も多数訪れます。2階の茶室ではお抹茶をいただくことができます。また、「鬼川文庫」では野村家伝来の刀剣や前田家からの書状などさまざまな資料が展示されています。<br /><br />【⑪「四高記念文化交流館」】<br />「武家屋敷跡 野村家」から「四高記念文化交流館」へは、徒歩8分550mほどです。「香林坊」の信号を<br />「四高記念文化交流館」は、残念ながら2024年1月1日に石川県能登地方で発生したM7.6の「令和6年能登半島地震」で施設内の一部が損傷しているということで入館することができず、建物の外観、周囲にある記念碑、ショップしか見ることができませんでした。とりあえず、事前に調べた「四高記念文化交流館」の情報を発信したいと思います。<br />「四高記念文化交流館」は、明治時代に建てられた国の重要文化財である赤煉瓦が印象的な「旧四高」の校舎を活用した文化施設で、「いしかわ四高記念公園」内にあります。石川県ゆかりの文学資料を展示する「石川近代文学館」や四高の歴史と伝統を伝える展示に加え、旧四高の教室を多目的に利用できる「石川四高記念館」で構成されています。<br />「石川四高記念館」は、明治26年(1893年)から約60年間、旧制高等学校(中学校)として使用された歴史をたどり、四高と四高生を育んだ風土と時代を知るための展示空間です。そして、四高及び四高生の開校からの歴史を展示しいて、当時使用されていた制服など貴重な資料があります。ちなみに、旧制第四高等学校は、明治20年(1887年)に金沢で創立された旧制高校で、四高創設に際しては、費用12万円のうち加賀藩主であった前田家が約8万円を拠出したそうです。<br /><br />【⑫「石川県政記念しいのき迎賓館」】<br />「四高記念文化交流館」に隣接してすぐあるのが、「石川県政記念しいのき迎賓館」です。徒歩2分180mほどの至近距離です。<br />「しいのき迎賓館」は、大正13年(1924年)に建築された旧県庁本館をリニューアルし、平成22年(2010年)4月に開館しました。「旧石川県庁舎本館」は、大正13年(1923年)に竣工した県内で最も古い鉄筋コンクリート造建築物の一つといわれています。「しいのき迎賓館」の外装のレンガは、大正11年(1921年)に建築の「旧帝国ホテル本館」で日本初に使用されたと言われる愛知県武豊産の「スクラッチタイル」を使用しています。また、平面計画は略中字形で国会議事堂平面を踏襲しています。「しいのき迎賓館」は、正面は建築の格調ある意匠をそのままに、反対面は現代的なガラスの空間に生まれ変わり、「金沢城」の石垣を眺めることができます。樹齢約300年(推定)の“堂形のシイノキ”をシンボルに、総合観光案内、レストラン、カフェ、会議室、ギャラリーなどの憩いと交流の施設を兼ね備えています。「石川県政記念しいのき迎賓館」に向かって左側にある「アメリカ通り」は桜のトンネルができる名所だそうです。<br /><br />【⑬「金沢21世紀美術館」】<br />「金沢21世紀美術館」は、「石川県政記念しいのき迎賓館」徒歩5分300mほどの距離にあります。「石川県政記念しいのき迎賓館」から、外見は宇宙から飛来した巨大なUFOのように見える「金沢21世紀美術館」を臨むことができます。<br />「金沢21世紀美術館」は、残念ながら2024年1月1日に石川県能登地方で発生したM7.6の「令和6年能登半島地震」で施設内の一部が損傷しているということで、有料エリアへは入館することができず、「金沢21世紀美術館」の外周にあるアート作品と無料エリアの見学のみになりました。楽しみにしていた「レアンドロ・エルリッヒ」作の通称「レアンドロのプール」は、地下から見ることができませんでした。とりあえず、見ることのできなかったアート作品等については、事前に調べた「金沢21世紀美術館」の情報を発信したいと思います。<br />「金沢21世紀美術館」への入口は、「広坂口」(北口)、本多通り口(東口)、「柿木畠口」(南口)、「市役所口」(西口)がありますが、「広坂・21世紀美術館」停留所からは、「広坂口」(北口)又は本多通り口(東口)になります。<br />「金沢21世紀美術館」は、平成16年 (2004年)10月に建設された地上1階、地下1階建ての建物で、円形の総ガラス張りとなっていて、全てが正面に見えるという不思議な構造で案内板がなければどこがエントランスか迷うほどです。それもそのはず、この建物のコンセプトは、円形の建物にすることで「正面」という概念がなく、いろんな場所から館内に入ることができるように設計されているそうです。それと美術館の外と中の境界をなくすために、外と接する壁は全てガラス張りになっているので、光が差し込む開放的な造りになっています。立地に関しては、「金沢21世紀美術館」は、愛称が「まるびぃ」で金沢市の中心に位置し、「兼六園」、「金沢城公園」などに隣接しているので、美術館賞をした後に効率的に観光名所を散策することができます。「金沢21世紀美術館」は、有料の「展覧会ゾーン」と「無料の交流ゾーン」に分かれていて、美術館内外に様々なオブジェやアートが点在しています。「草間彌生」、「横尾忠則」、「アンディ・ウォーホル」など1980年以降に制作された国内外の現代美術作品を多数所蔵しています。特に人気が高いのは、「光庭」のひとつに設置された「レアンドロ・エルリッヒ」作の通称「レアンドロのプール」と呼ばれている「スイミング・プール」です。「レアンドロのプール」は、水中から水上を見上げる不思議な体験ができる有名な作品で、また、地上から覗くとまるでプールの中に人が入っているように見え、プールを介して地上と地下で人と人が交流することができる体験型の作品です。<br />「金沢21世紀美術館」の見どころは、建物と館内に収蔵されている作品ばかりではありません。美術館を囲む芝生には、代表的な作品として、音の迷宮である「フロリアン・クラール」作による「アリーナのためのクランクフェルト・ ナンバー3」、色の三原色を活かした「オラファー・エリアソン」作による「カラー・アクティヴィティ・ハウス」など様々なオブジェやアートが点在しています。<br />「金沢21世紀美術館」には、ガラス張りの開放的な空間がおしゃれなカフェレストラン「Fusion21」があります。ランチやディナーは、加賀野菜をはじめ旬の地元食材を取り入れたメニューで、また、ビュッフェ式のランチや金沢の老舗ケーキショップ「メープルハウス」が手掛けるスイーツなど、充実した内容です。ちなみに、「カフェレストラン「Fusion21」のコンセプトは、「美術館で第2の感動」だそうです。<br />「ミュージアムショップ」は、丸くフェンスに囲われた2つの「ミュージアムショップ」があります。「Shop1」では開催中の特別展オリジナルグッズやデザイン性に優れたグッズやアート関連の書籍などです。「Shop2」では、現在は海外のアートブックや開催中の展覧会オリジナルグッズやカタログなどを展開しております。<br /><br />【⑭「近江町市場」】<br />一旦ホテルへ戻り、「プレミアラウンジKANAZAWA」では「カフェタイム」の時間で、ケーキや飲み物そしてオードブルなどを食べながら休憩しました。「金沢21世紀美術館」からホテルまで、徒歩20分1400mしかありません。バスの待ち時間の間に次の目的に到着してしまいます。それを考えると金沢は、本当に観光しやすい街だと思いました。そして、ホテルで「カフェタイム」の後、「近江町市場」で海鮮物の立ち食いを見かけたので、食べてみようということになりました。ホテルから「近江町市場」の「鮮魚通り口」までわずか3分210mの距離です。今回の旅行では、金沢駅周辺でなく、近江町市場付近のホテルに宿泊したのも良かったかもしれません。<br />「近江町市場」は、石川県金沢市の中心部にある市場です。「近江町市場」は、地元の人から旅行者で賑わうまさに「金沢の台所」で、主に生鮮食品などの食品と生活雑貨を扱う小売店や飲食店など、狭い小路に約170店が軒を連ねています。「近江町市場」は、江戸時代の享保6年(1721年)に開設され、金沢を城下町としていた加賀藩の御膳所でした。名前の由来は、近江商人が作ったことによることだそうです。地域によっては「おみちょ」(「お」にアクセント)と呼び親しまれています。リーズナブルな寿司店や「近江町市場」の定番グルメである豪華な海鮮丼が食べられる食堂なども人気で、食事時は行列が絶えません。もちろん、金沢おでんも食べられます。「近江町市場」に立ち寄り、「がすえび」と「生かき」を食べました。まさに、海からの贈り物です。「がすえび」は甘く、身はぷりぷりしていました。「生かき」は奮発して一番高い1000円のものを食べましたが、磯の香りと口の中に入れるとクリーミーな食感でした。<br /><br />【⑮「市媛神社」】<br />「市媛神社」は、通りを挟んで「近江町市場」の「市媛神社口」の反対側にあります。<br />「市媛神社」は天文年間中に、近江国高宮の人が京都五条にある「市比売宮」を勧請して創建されたと伝わっています。その後に「近江町市場」の氏神となり「近江町市姫神社」とも呼ばれています。金沢城防備の前線となった内惣構堀の内側の在ったため、元和9年(1623年)に「卯辰観音院」の境内に替地となり、明治12年(1879年)に復座しました。明治37年(1904年)に罹災炎上し、「社殿」を焼失しました。明治39年(1906年)から大正8年(1919年)にかけて「社殿」を復興しました。「市媛神社」は、百万石通りを挟んで近江町市場の反対側に鎮座しています。「市媛神社」は、交通量の多い、大通りに面したコンパクトな神社です。「一の鳥居」と「二の鳥居」の間隔がとても近いというのが第一印象です。大きくはありませんが美しい社殿は、歴史を感じさせる立派な造りになっています。「狛犬」は岡崎型の狛犬です。「百万石通り」に面していますが、境内に入るとその都会の喧騒を忘れさせてくれます。<br /><br />【⑯「浅野川大橋」】<br />「市媛神社」から「浅野川大橋」まで、徒歩9分650mです。「橋場」の信号で二又になり、左へ曲がれば前方に「浅野川大橋」が見えてきます。<br />「浅野川大橋」は、加賀藩の藩政時代に加賀藩祖「前田利家」が架けたのが最初の木造橋といわれ、別名が「轟の橋」と呼ばれ、交通の要として建設されました。「浅野川大橋」は、明治に入るまでに少なくとも10回以上の修復及び架け替えが行われました。明治31年(1898年)に架けられた木造橋は、度重なる大洪水を契機に、大正11年(1922年)12月に現在の「浅野川大橋」として架け替えられました。「浅野川大橋」は、橋長55m、幅員17mある「鉄筋コンクリート造3連充腹」のアーチ橋で、平成12年(2000年)12月20日に国の登録有形文化財に指定されました。昭和41年(1966年)までは、「浅野川大橋」の上を市電が走っていたそうです。そして、第二次世界大戦で供出された高欄や照明灯を復元するため、平成元年(1988年)に、唐草模様付きの「格子高欄」、「五灯式あんどん型照明」が設置されました。また、復刻した「レリーフ」を赤戸室石の側壁に用いるなどして、大正時代の面影を見事なほど今に取り戻しました。<br /><br />【⑰「ひがし茶屋街」、⑱「志摩」、⑲「志摩・別館 お茶屋美術館(旧中や)」⇒⑳「菊一」】<br />「浅野川大橋」を渡り、「浅野川大橋交番前」の信号を右折すれば、「ひがし茶屋街」の街並みが目の前に広がってきます。「ひがし茶屋街」は、「三大茶屋街」の一つで、文政3年(1820年)に加賀藩がこの近辺に点在していた「お茶屋」をここに集めて町割りしたものです。「三大茶屋街」は、「ひがし茶屋街」、「にし茶屋街」、「主計町茶屋街」の3つの茶屋街のことです。「ひがし茶屋街」は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。「ひがし茶屋街」は、金沢市東山の「浅野川」東側にあり、昔ながらの古い街並が残っています。メインストリートや裏路地に沿って「木虫籠」(きむすこ)と呼ばれる「出格子」が特徴の古い二階建ての町屋が並んでいます。「ひがし茶屋街」は、直木賞作家の「五木寛之」の著書である『朱鷺の墓』に描かれた舞台としても有名です。「ひがし茶屋街」は、「広見」と呼ばれる広場から通りを写すのがベストです。「ひがし茶屋街」は、浅野川を挟んだ「主計町茶屋街」とセットで回るのがおすすめであり、その方が効率的な回り方です。<br /><br />《「ひがし茶屋街」と「主計町茶屋街」のお薦め散策コース》<br />①「浅野川大橋」⇒②「広見」⇒③「ひがし茶屋街」⇒④「宇多須神社」⇒⑤「観音町通り」⇒⑥「浅野川大橋」⇒⑦「主計町茶屋街」⇒⑧「暗がり坂」と「あかり坂」<br /><br />国の登録有形文化財の「浅野川大橋」と歩行者専用の「中の橋」、「梅ノ橋」など橋の景観は見逃せません。また、「主計町茶屋街」は「浅野川」を挟んだ対岸からの風景が素晴らしいので、これまたフォトジェニックな写真を撮影するスポットです。ちなみに「お茶屋」とは、喫茶店のようにお茶を飲むところでも、お茶を売っている店でもありません。芸妓が粋で雅な芸で客をもてなす大人の社交場です。「一見さんお断り」のしきたりが今も守られ、「ひがし茶屋街」の中には現在5軒のお茶屋が営業し、十数名の芸妓がいますが、特別な人のご紹介がない限り、「お茶屋」の中にはいることはできません。江戸時代に建てられた「お茶屋」の建物を公開する「志摩」と「懐華樓」は有料で見学ができ、金沢の茶屋文化について知ることができます。<br />「志摩」は、「懐華楼」と同時期の文政3年(1820年)に建てられた「お茶屋」の建物で、ほぼ当時のまま手を加えず残されていて、国の重要文化財に指定されています。今はお茶屋としての営業はしておらず、記念館のような位置付けで一般公開されています。「お茶屋」は、2階を客間とし、押し入れや物入れ等は作らずに、あくまでも遊興を主体とした造りとなっています。お客が床の間を背にして座ると、その正面が必ず「ひかえの間」となります。襖がひらくと同時に、あでやかな舞や遊芸が披露されます。「志摩」は、典型的な「お茶屋」の庭で、「春日燈灯」、「月見燈灯」、「槍燈灯」が配置されています。「志摩」の建物内での写真撮影は許可されていますが、使用できる撮影機器はスマートフォンのみとなっています。玄関を入り、靴を脱いで板の間に上がるとバッグなどの荷物をロッカーに預けます。玄関を入るとすぐ目の前に階段があり、2階にはお座敷が往時の雰囲気で残されています。床の間には掛け軸や工芸品が置かれ、欄間には書跡の額縁が飾られているほか、「雪洞」、「行燈」、「提灯」などの和風の照明機器が華やかさを演出しています。「ひかえの間」には金屏風とともに太鼓や鼓が置かれています。「茶屋建築」と「町家建築」との大きな違いは、「茶屋建築」では間仕切りの壁がなく障子と襖のみでお部屋を仕切っていることです。1階へは裏階段から降りていくことになりますが、傾斜が急なことに驚きました。「志摩」が建てられた文政3年(1820年)は、当時の日本人は今よりも平均身長が遥かに低く、小柄な体型に合わせて設計されていることから、裏階段には「頭上注意 -Mind Your Head-」と大きく注意書きが貼られていました。台所の先には「寒村庵」というカフェがあります。抹茶と和菓子のセットで700円です。カウンター席から中庭を眺めながらゆっくりと寛ぐことができます。和菓子は「かいしき」と呼ばれる紙の上に置かれお盆に載せて運ばれてきます。給仕の女性がお盆から「かいしき」を持ち上げてお客の前に置く仕草には、「お茶屋」ならではの風情があります。<br />「旧中や」は文政三年(1820年)に創立されたお茶屋の建物で、典型的なお茶屋の造りをそのままに残しています。建物内の見学も可能で、お茶屋特有の造りや、芸妓さんが使用していた「髪飾り」、「加賀象嵌」、「加賀蒔絵」などの工芸美術品を見学できます。もう少し詳しく見てみると、2階が客間で、遊芸を主体とするため開放的で押入や物入れ等がなく、座敷には弁柄の朱色や鮮やかな群青色の壁が塗られて優美で繊細なお茶屋特有の粋な造りになっています。1階には金、銀、珊瑚を贅沢に施した髪飾り、加賀蒔絵、加賀象嵌などの優美な道具類が多数展示されており、江戸時代の町人文化の栄華を垣間みることが出来ます。<br /><br />【⑳「菊一」】<br />第二日目の最終目的である金沢おでんの老舗「菊一」へは、一旦ホテルにもどり時間近くなってから行きました。ホテルから徒歩20分1400mの距離です。「菊一」は、昭和9年(1934年)の創業で、金沢で最も歴史の昔ながらの金沢の古いおでん屋です。カウンターが10席、テーブルが4席と店の中は決して広くはありません。予約不可で17:30の開店まで店の前で並ばなくてはなりません。私たち夫婦は、当日の17:00頃に「菊一」へいき一番乗りでした。実は、午前中に「武家屋敷跡」に行く前に、道の途中なのでお店の場所を確認しに行きました。確か、11:00頃だった思います。店の中からは、活気溢れる話し声とたまらないいい出汁の匂いがしてきました。これは間違いなく美味しいと家内と顔を見合わせました。ここで意外な事実が判明しました。店の前には入店の方法について、何も記載された貼り紙はありませんでした。ただ並べばいいのではなく、店の仕込みはかなり早い時間からやっているので、開店時間前に来て、店に来て予約できるらしいのです。一番乗りしたはずなのに、三番乗りになってしまいました。暖簾が出ていなくても勇気をだして店の中に入って聴けばよかったと思います。開店の17:30頃には、店の前に長蛇の列ができていました。店の人が事前に並んでいるお客に、名前と人数を聞き、順番に案内してくれます。私たちはカウンターの席に案内されました。店内は、昭和レトロ溢れる哀愁を帯びたポスターや創業当時の写真など貼ってあって、哀愁を帯びた雰囲気です。事前にネットでお互いの食べたいものは決めていたので、誰よりも早く注文しました。「くるま麩」、「糸こんにゃく」、「大根」、「こんにゃく」、「梅貝」、「三色生麩」、「だし巻き玉子」、「蓮根もち」をそれぞれ二人前ずつ注文しました。カウンター席に座ったので、調理の方法がよく見えてそれも少し楽しかったです。変わったところでは、私たちも注文しましたが、「だし巻き玉子」やまるのままの「トマト」のおでんもありました。どれも90年近い、継ぎ足してきた味がしみ込んでいて、どれもこれも満足のいく美味しさでした。少し分かりにく場所に、メニューには記載していない「白子おでん」があったので、今まで食べたことのない「どて焼き」と一緒に追加注文しました。これがまた格別の味でした。「白子おでん」は、口の中に入れるととろけてなくなり、口の中に甘さが広がりました。「どて焼き」は、味噌の甘みが豚肉にしみ込んで美味しく食べられました。金沢には、おでんの有名店は数件ありましが、予約は取らずに常連も一見も分け隔てなく迎えてくれるこの店に、次にきてもこのお店だという思いを抱かせてくれました。<br 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金沢旅行【第二日目】~昔ながらの街並みの武家屋敷跡、ひがし茶屋街、人気の金沢21世紀美術館を巡り、夜は金沢おでんの名店菊一へ行きました。~

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2024/03/07 - 2024/03/09

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Lily-junjunさん

この旅行記のスケジュール

2024/03/08

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第二日目は、まず、加賀藩の藩祖「前田利家」と正室「お松」を祀る神社「尾山神社」へ行く予定でしたが、その途中に「黒門前緑地」があり、そこに「タカジアスターゼ」と「アドレナリン」の発見で有名な「旧高峰家・旧検事正官舎」、時代に翻弄され、「前田利家」の四女で波乱と動乱に満ちた「豪姫住居跡」があり、隣接して加賀藩独特の組織である「加賀藩御算用場跡地碑」、「金沢東照宮」と呼ばれた「尾神社」がありました。さらに進むとかの有名なキリシタン大名「高山右近」が住んでいた「甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡」ありました。そう考えると、金沢は歴史と文化の宝庫であるということを痛感しました。そして、その先に、加賀藩の藩祖「前田利家」と正室「お松」を祀り、ギヤマンの神門が特徴的な「尾山神社」がありました。「尾山神社」の境内を抜け、「鼠多門橋」を渡ると、「金沢城公園」(金沢城)では、唯一の海鼠壁の目地が黒漆喰の「鼠多門」と独創的な景観を創り出した庭園の「玉泉院丸庭園」があります。そして「玉泉庵」と併設して「休憩所」があり、そこにはボランティアのガイドさんが常駐していて「玉泉院丸庭園」を詳しく説明してくれました。次は、一歩足を踏み入れるとそこはまさに江戸時代の風景そのもの「長町武家屋敷跡」と「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」の格付けでも2つ星に選ばれた「武家屋敷跡 野村家」を訪ねました。そして、赤レンガの建物に歴史と文化を感じ、明治・大正時代の雰囲気を味わうことができる「四高記念文化交流館」を訪ねましたが、「令和6年能登半島地震」で施設内の一部が損傷しているということで入館することができず、外観のみの見学となりました。「四高記念文化交流館」のすぐ隣にあるのが「石川県政記念しいのき迎賓館」で、堂形の大きなシイノキが威厳を放っていました。次は、第二日目の前半戦の最後である「金沢21世紀美術館」へ向かいました。残念ながら、楽しみにしていた有料ゾーンには入場することができませんでした。「令和6年能登半島地震」で有料ゾーンのガラスの天井などが崩落し、修理中ということでした。一旦ホテルへ戻り、「プレミアラウンジKANAZAWA」では「カフェタイム」の時間で、ケーキや飲み物そしてオードブルなどを食べながら休憩しました。
休憩を済ませ、第二日目の後半戦です。まず、「近江町市場」に立ち寄り、「がすえび」と「生かき」を食べました。まさに、海からの贈り物です。「がすえび」は甘く、身はぷりぷりしていました。「生かき」は奮発して一番高い1000円のものを食べましたが、磯の香りと口の中に入れるとクリーミーな食感でした。お腹がみたされたところで、「近江町市場」の道路の反対側にある近江町市場の氏神「市媛神社」でお参りしました。それから「浅野川大橋」を渡り「ひがし茶屋街」を散策し、茶屋街の「志摩」、群青の間が有名な「志摩・別館 お茶屋美術館(旧中や)」を見学しました。「ひがし茶屋街」を散策している最中に、雨が降ってきたので、明日時間があるので再度訪れることにしました。第二日目は小雪が舞ったり、雨が降ったりコンディション的には余りよくありませんでした。ホテルにいったん戻り、本日の最終目的地である金沢おでんの老舗の「菊一」でソウルフードを堪能しました。

《第二日目の見学等の順路》
①「旧高峰家・旧検事正官舎」⇒②「豪姫住居跡」⇒③「加賀藩御算用場跡地碑」⇒④「尾神社」⇒⑤「甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡」⇒⑥「尾山神社」⇒⑦「鼠多門」⇒⑧「玉泉院丸庭園」⇒⑨「長町武家屋敷跡」⇒⑩「武家屋敷跡 野村家」⇒⑪「四高記念文化交流館」⇒⑫「石川県政記念しいのき迎賓館」⇒⑬「金沢21世紀美術館」⇒⑭「近江町市場」⇒⑮「市媛神社」⇒⑯「浅野川大橋」⇒⑰「ひがし茶屋街」⇒⑱「志摩」⇒⑲「志摩・別館 お茶屋美術館(旧中や)」⇒⑳「菊一」

【①「旧高峰家・旧検事正官舎」と②「豪姫住居跡」】
「旧高峰家・旧検事正官舎」は、ホテルから徒歩2分180mほどの「黒門前緑地」にあります。「黒門前緑地」は、「金沢城公園」(金沢城)の北西部に隣接する公園です。そして、この公園の敷地内には、敷地内には明治時代に建てられた二つの建築「旧高峰家」と「旧検事正官舎」があります。実は、この付近一帯は、江戸時代には「前田利家」の四女で、豊臣秀吉に養女として迎えられた岡山城主「宇喜多秀家」の正室となった「豪姫」の屋敷があった場所とされています。正門入り木戸をくぐると、右手に「旧高峰家」そして、その奥に「旧検事正官舎」があります。「旧高峰家」は、加賀藩の御典医であった父の「高峰精一」の邸宅として明治5年(1872年)に建てられたものの一部です。高峰家では日本の科学者、実業家、工学博士、薬学博士で「タカジアスターゼ」と「アドレナリン」を発見したことでも知られる「高峰譲吉」を輩出しています。「旧高峰家」は、主屋は昭和39年(1964年)に解体されましたが、「高峰譲吉」の生家の一部を「金沢湯涌江戸村」に移築・保存し、さらに平成13年(2001年)に元々建物のあった旧梅本町に近いこの敷地に再移築したものです。その際、敷地に建っていた「旧検事正」の官舎の一部と渡り廊下でつなぎ、新しく水屋を設けています。2棟を取り囲む形で和風庭園がとても手入れが行き届き印象に残っています。「旧検事正官舎」は明治43年(1910年)に建築されました。当初は「兼六園」付近にありましたが、区画整理に伴い大正7年(1918年)に現在地に移築されました。洋風の外観ながら内部には格天井の座敷などが見られる近代和風建築です。平成7年(1995年)まで「金沢地方検察庁検事正官舎」として用いられていました。「旧検事正官舎」には、催しがなければ中を見学できるのですが、訪れた当日は、イベントがあり残念ながら見学できませんでした。玄関先で建物を鑑賞していると中から係員が出てきて、「旧検事正官舎」について、詳しく、親切に説明してくれました。やはり、格天井の座敷は素晴らしいそうです。よく結婚式の前撮り写真撮影が行われるそうです。
実は、この付近一帯は、江戸時代には「前田利家」の四女で、豊臣秀吉に養女として迎えられた岡山城主「宇喜多秀家」の正室となった「豪姫」が金沢に戻ってきた後に住んだ屋敷があった場所とされています。ちなみに、「黒門前緑地」はかつて「佐久間盛政」が築城した当時の大手門があった黒門口(当時は西丁口)のすぐそばにある緑地です。「豪姫」の生涯について調べてみると、「豪姫」は、天正2年(1574年)に、加賀藩祖「前田利家」と「お松の方」の四女として誕生しました。「豊臣秀吉」の養女となり、「豊臣秀吉」や正室の「寧々」に寵愛されました。後に岡山城主「宇喜多秀家」に嫁ぎ、「備前の方」と称されました。「宇喜多秀家」は、「豊臣秀吉」から信頼され豊臣政権下で五大老まで務めた57万石を領する岡山城主です。しかし、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の合戦」に敗れた西軍の主力である「宇喜多秀家」は「徳川家康」に八丈島に流され、「豪姫」は金沢に戻りました。夫の「宇喜多秀家」だけでなく、授かった子供まで島流しになったそうです。三代藩主「前田利常」より粧田千五百石を与えられ、この辺りで居住したそうです。そして、寛永11年(1634年)5月23日に、「豪姫」はこの地で60年の生涯を閉じました。

【③「加賀藩御算用場跡地碑」】
「黒門前緑地」から徒歩1分70mほど進むと、「税理士事務所」の前に「加賀藩御算用場跡地碑」があります。
加賀藩の「御算用場」が一躍スポットライトを浴びたのは、「堺雅人」、「仲間由紀恵」主演、「森田芳光」監督の平成22年(2010年)に公開された「武士の家計簿」のロケ地となった所だからです。原作は「磯田道史」のベストセラー「武士の家計簿加賀藩御算用者の幕末維新」で、それが映画化されたものです。加賀藩では、会計を司る役所を「御算用場」といい、加賀藩独特の組織でした。そこの長を「御算用場奉行」といい、郡奉行、改作奉行、御預地方御用、定見地奉行など、御算用場奉行管轄の役所が併設されていました。そして、役所には有能な「算用者」と呼ばれる実務を担当する役人が約150人いました。「算用者」には職務上、筆算の才能が必要とされたそうです。ちなみに、藩祖「前田利家」は、戦場でも、そろばんを持ち歩いていたそうです。
施設は本棟の他に土蔵三棟からなり、建物の規模は350坪におよび、その敷地は大きなもので現在の「尾神社」から説明板の設置してある会計事務所や住宅を挟んだ「豪姫」の邸宅があった「黒門前緑地」までの範囲にあったそうです。明治2年(1869年)に「御算用場」は廃止され、その地は、「尾崎神社」と現在の黒門前緑地のところは西町軍艦所、商法会社、尾山病院、検事正官舎と移り変わりました。また、周辺には、「尾神社」や白い明治・大正期と思われる古民家などがあります。

【「尾神社」】
「加賀藩御算用場跡地碑」から20m先には、「尾神社」の裏門があります。「尾神社」の歴史を紐解いてみると、寛永17年(1640年)に加賀藩四代藩主「前田光高」が「東照大権現(徳川家康)を祀ることを願い出て、許可を得て金沢城内北の丸に造営を始め、寛永20年(1643年)に建立した神社です。建立にあたっては、幕府大工頭の「木原木工允」の設計をもとに、加賀藩の大工らが力を合わせ施工にあたりました。1600年代中頃の前田家は、加賀百万石としての財力もあり、まだまだ徳川幕府から警戒されていたました。前田家としては徳川家に忠誠を尽くす姿勢を示すために、「徳川家康」の御霊を金沢城内に祀ったと思われます。金沢城北の丸」に建立され、朱塗りで彫刻や飾り金具が施され、「日光東照宮」の縮図ともいわれ、「金沢城の江戸」、「北陸の日光」とも呼ばれていました。そう言えば、「中門」や「拝殿」のいたるところに徳川家の家紋である「葵の紋」が彫られていました。ちなみに、「東照大権現」こと「徳川家康」が祀られている神社は全国にあり、四大東照宮として、「日光東照宮」、「久能山東照宮」、「芝東照宮」、「上野東照宮」が有名です。廃藩置県後の明治7年(1874年)に社名を「金沢東照宮」からご祭神に「天照大神」と加賀藩三代藩主の「前田利常」を加え、「尾神社」に改称するとともに、城域が陸軍省の所管となり明治8年(1875年)に移転することとなり、明治11年(1878年)に「旧加賀藩御算用場」であった現在地に移りました。規模こそ小さいものの、「尾崎神社」には数多くの重要文化財があります。まず、市民の生活道路に面して張り巡らされている朱色の「透塀」、「本殿」、「拝殿」、「幣殿」、「中門」も重要文化財となっています。そして、昭和25年(1950年)に国の重要文化財に指定されています。
では、早速、「尾神社」を参拝したいと思います。まず、「お堀通り」に面した「中門」です。「中門」の手前左側には、「社号標」の隣に「御由緒」があります。「中門」は、朱色の「透塀」に挟まれ、建築様式は、平唐門、本瓦型銅板葺です。そして、「中門」の屋根の上には葵の御紋が見えます。
「中門」をくぐると、右手に「手水舎」、その奥に「社務所」があります。そして、正面には、「拝殿」があり、扉や瓦など、「社殿」のあちこちに「葵の御紋」が見られ、「金沢東照宮」の名前にふさわしい素晴らしい彫刻が施されています。「社殿」の前には、ずんぐりむっくりの「狛犬」が座していました。「拝殿」の左隣には、境内社である「豊受稲荷神社」があり、その参道から「本殿」が見えるので一つのポイントです。ここでは、「本殿」と「拝殿」を分離させた「東照宮建築」を垣間見ることができます。いずれにしても「尾神社」は、祀られているのは「徳川家康」ですので、立身出世や大願成就の御利益は大いにありそうです。もちろん、「天照大神」が祀られていますので縁結びの御利益もありますよね。

【⑤「甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡」】
「尾神社」から徒歩2分100mほど進むと「甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡」の石碑があります。「金沢城」には、一般人の立ち入りが禁止されている「甚右衛門坂」という坂があります。「金沢城」は江戸時代には前田家の居城でしが、それより前の戦国時代には本願寺方の「尾山御坊」と呼ばれていました。「甚右衛門坂」の名前の由来は、天正8年(1580年)に織田方の武将である「佐久間盛政」の攻撃を受けた時に、本願寺方の「平野甚右衛門」が奮戦し討死した場所であったためにこの名がついたそうです。この金沢城西側と城下をつなぐ「甚右衛門坂」下周辺には、宣教師屋敷である「伴天連屋敷」が数多くあったそうです。説明板によると丹波国守護代内藤家出身の「内藤如安」や、「宇喜多秀家」に仕えていた「浮田休閑」など、「高山右近」を頼って金沢に来たキリシタン武将や加賀藩士が集まっていたのではないかといわれています。「高山右近」は、キリシタン大名として知られ、6万石の大名になりながら、「豊臣秀吉」による天正15年(1587年)の「バテレン追放令」により追放されてしまいました。そんな「高山右近」を客将として迎え入れたのが、「前田利家」でした。「高山右近」は武将として優れ、築城の名人でもありま、金沢城下の整備にも関わりました。そして、江戸幕府によって出された慶長19年(1614年)の「キリシタン禁教令」によって、「内藤如安」は「高山右近」とともにマニラへ、「浮田休閑」は津軽に流され、その地で人生を終えたとされていそうです。実は、「金沢城甚右衛門坂」周辺は、坂の立ち入りが禁止されていることもあり、通りかかる人も少ない隠れスポットです。「尾山神社」や「鼠多門」のすぐそばなので、訪ねてみたいかがでしょうか。

【⑥「尾山神社」】
「甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡」から徒歩4分290mほど進むと「尾山神社」の裏門にでます。
「尾山神社」は、加賀藩の藩祖「前田利家」と正室「お松」を祀る神社です。創建は、明治6年(1873年)で、廃藩置県後に、旧藩士たちは禄を離れて、必ずしもその生活は楽ではなかったはずですが、旧「金谷御殿」の跡地である現在の社地に社殿を新築しました。それまで「前田利家」の神霊は卯辰山麓の「卯辰八幡宮(現:宇多須神社)」に合祀されていました。明治8年(1875年)築の最大のみどころである「神門」は、和漢洋折衷の3層構造で国の重要文化財に指定されています。3層目に色とりどりのギヤマン(ガラス)がはめ込まれており、夜には灯りが灯り幻想的な雰囲気を醸しだすそうです。「本殿」の建造は古式に則った「三間社流造」で、シンプルであり、威厳に満ちた「社殿」です。「社殿」の右側にある「玉垣」は珍しいレンガ造りとなっていて、「剣梅鉢」のご紋すかしになっています。金沢でレンガを使用したのは「尾山神社」が最初だそうです。
ところで、何故、「前田利家」が亡くなり230年近くたった明治になって「尾山神社」が建立されたかというと、その歴史的背景には、外様大名という足かせが浮かび上がってきます。当時、徳川幕府の許可なくして、神社を
創建するような勝手なことはできませんでした。「前田利長」でさえ、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切ることができませんでした。そこで「前田利長」は、守護神としていた「物部八幡宮」ならびに「榊葉神明宮」を遷座する名目で、卯辰山麓に社殿を建立し、「前田利家」の神霊を合祀しました。これが、「卯辰八幡宮」です。

《「尾山神社」のお薦め散策順路》
①「神門」⇒②「手水舎」⇒③「授与所」⇒④「お松の方像」⇒⑤「前田利家公像」⇒⑥「神苑」⇒⑦「拝殿」⇒⑧「金谷神社」⇒⑨「本殿」⇒⑩「東神門」⇒次の観光地へ

それでは、「尾山神社」を見学したいと思います。まずは、「石鳥居」をくぐり石段を上った先にあるのが、和漢洋の「神門」です。

《①「神門」⇒②「手水舎」》
「尾山神社」の「神門」は、明治8年(1875年)に建立されました。「神門」は、和漢洋の三様式を混用した異色の門として知名度があり、「兼六園」とともに金沢市のシンボルにともなっています。「第一層」には「戸室石」が用いてあり、「第三層」は四面五彩の「ギヤマン張り」で、もとは「御神灯」が点灯されていたそうです。「御神灯」が放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する船の目標にもなったそうです。これもまた驚くべき事実ですが、「第三層目」に設置された避雷針も日本最古のものだそうです。
「神門」をくぐると「手水舎」がすぐ右手にあります。ここで身を清めます。そして、「手水舎」の後ろには、完成して真新しい「授与所」があります。

《③「授与所」》
「授与所」は、平成27年(2015年)秋に完成したばかりの新しい「授与所」で、開放的なガラス張りのデザインになっています。「授与所」内には、「金沢城」など市内の観光地の四季の風景を映し出すディスプレイを設置してあり、ここでも金沢の良さを再確認することができます。
「授与所」の後ろには、「前田利家公像」と「お松の方像」が相並んでいます。

《④「お松の方像」と⑤「前田利家公像」》
「神門」をくぐると「社殿」の右手に「前田利家公像」と「お松の方像」が並んでいます。「前田利家公像」は、丸い大きな風船か袋のようなものを担いで馬にまたがっています。それは、「母衣」といって、もともとは流れ矢を防ぐために鎧の背にかけた布でしたが、竹などの骨組みを形成して膨らませるようになったそうです。前田利家」は、「織田信長」に仕え青年時代は「赤母衣衆」として従軍しました。槍の名手だったため、「槍の又左」の異名をもって敵軍に怖れられました。「前田利家」は、若い頃、織田軍団で赤い母衣を背負い、9人の「赤母衣衆」のリーダーを務めていました。母衣衆は軍団にとっては重要な役目を担っていましたが、敵に目立つのでとても危険で、いわば死と背中合わせの役回りをしていました。
「お松の方」は、「前田利家」の正室で、学問や武芸をたしなむ才能豊かな女性であったと伝えられています。実母が「前田利家」の母の姉で「前田利家」とは従兄関係であり、「前田利家」亡き後は、「芳春院」と号しました。そして、歴史家の間では明治維新まで前田家が栄えることができたのは「お松の方」の功績が大きかった評価されています。それを証明するエピソードがあります。「前田利家」が亡くなったあと、「徳川家康」が加賀に攻め込んで来ようとした際には、息子「前田利長」に「母を捨てよ」と伝え、自らが「徳川家康」側の人質となり、前田家を守ったというものです。それにより明治維新まで前田家が栄えることができたという訳です
「前田利家公像」と「お松の方像」の背景にあるのが「神苑」です。

《⑥「神苑」》
「神苑」は、「旧金谷御殿」の庭園であって、古代舞楽の楽器を模した「地泉廻遊式」の名園で、「楽器の庭」という愛称があり、楽器をモチーフにしたという庭園です。その中でも特徴的な煉瓦の橋は琴をモチーフにした「琴橋」をはじめ、中の島は「琵琶島」、「笙島」と名付けられた島の形もそれをモチーフにしているそうです。「神苑」の水は、三代藩主「前田利常」の命により完成した「辰巳用水」の水の高低差を利用して、「兼六園」から暗渠で導き、「響遠瀑」から落としていました。現在は、当時の水路が断絶したので、井戸を堀り、地下水を池に流しています。
「神苑」の景観を堪能した次は、右手にある「拝殿」です。

《⑦「拝殿」》
「尾山神社」の「拝殿」は、入母屋造屋根瓦葺となっています。「拝殿」の中央天井は格天井作りで各間毎に岩絵具による極彩色のうどんげの花が美しく描かれています。これは「旧金谷御殿」から移築したものです。欄間は約8寸厚の欅の1枚板に見事な「梅花紋」を透彫にし、極彩色の華麗な彫刻で、これもまた「旧金谷御殿」から移築したものです。
「拝殿」を右手に進むと、もう一つの神社である「金谷神社」があります。

《⑧「金谷神社」》
「尾山神社」の境内にもう一つの「金谷神社」があります。「金谷神社」は、二代藩主・利長公から最後の十四代藩主・慶寧公、そして十五代当主、十六代当主、十七代当主、さらに歴代藩主・当主の正室(夫人)をお祀りしています。また、「金谷神社」には、「百万石まつり」で御祭神をのせて市内を巡行する立派な「神輿」も安置されています。
さらに、すぐ左手に「本殿」があります。

《⑨「本殿」》
「尾山神社」の「本殿」は、建築方法は古式に則った「三間社流造」で、シンプルにして神厳に満ちた「社殿」です。また、「本殿」に向かって右側面の玉垣は珍しいレンガ造りで、剣梅鉢のご紋すかしとなっています。レンガを使用したのは、金沢では「尾山神社」が最初だそうです。
そして、最後が「東神門」です。

《⑩「東神門」》
「東神門」は、「旧金沢城の二の丸」の「唐門」で、「唐門」は、形式の名称で、日本で生まれた格式高い建築様式です。明治3年(1870年)頃に「旧卯辰山招魂社」前にあったものを、昭和38年(1963年)に「尾山神社」境内地に移築したものです。「金沢城」は、たびたび火災にあい、そのほとんどが焼失しましたが、この「東神門」が幸い難をのがれたのは、「唐門」の二匹の竜が水を呼んだために焼けずに残ったという伝説があります。今では、桃山風御殿建築の様式を偲ぶ貴重な建造物で、見どころは、向き合う二匹の龍の精緻さと、加賀藩による造営の証とも言える蟇股に施された「剣梅鉢」の彫刻が見どころです。「東神門」は、平成15年(2003年)7月1日に国登録有形文化財(建造物)に指定されています。

【⑦「鼠多門」と⑧「玉泉院丸庭園」】
「尾山神社」の境内を抜けると徒歩1分40m先に「鼠多門橋」があり、それを渡ると「鼠多門」になります。「玉泉院丸庭園」は、「鼠多門」の右手にあります。
昨日、時間の関係で見ることができなかった「鼠多門」と「鼠多門橋」は、「金沢城」の西側にあります。それぞれの特徴は、「鼠多門」が黒い海鼠漆喰、「鼠多門橋」が城内最大規模の「木橋」であるということです。「鼠多門」は、「玉泉院丸」に位置し、「鼠多門橋」により接続される「金谷出丸」からの出入口として機能していました。ちなみに、「金谷出丸」には「金谷御殿」と呼ばれる加賀藩主の別邸があったからです。そのため、当時は、一般の人が通るということは出来なかったそうです。「金谷出丸」は、現在は、藩祖の「前田利家」を祀る「尾山神社」となっています。そして、「鼠多門」は、城内の多くの建物が失われた宝暦9年(1759年)の「宝暦の大火」でも焼失を免れ、修理等を経ながら明治期まで存在していました。「鼠多門」は、2階建ての「櫓門」で、「金沢城」内の他の門と同じく、屋根は木型を鉛板で覆う「鉛瓦」、外壁は「白漆喰塗り」で腰壁は「海鼠壁」が用いられています。この「海鼠壁」の目地が黒漆喰で仕上げられる建築方法が、「金沢城」内の他の門には見られない特徴です。また、「金沢城御三門」と比べて、城壁の連続した石垣の上に直接建てられている点も大きな特徴でしょう。
「鼠多門橋」は、幅5.5m、長さ29mの木の橋で、「玉泉院丸」と「金谷出丸」を隔てる水堀に架かる城内最大規模の「木橋」で、幾度かの架け替えを経て明治期まで存在していました。しかし、明治10年(1877年)に「鼠多門橋」が老朽化のため撤去され、明治17年(1884年)には「鼠多門」も火災により焼失し、周囲の水堀も埋め立てられてしまいました。そして、現在の「鼠多門」と「鼠多門橋」は、平成30年(2018年)6月から令和2年(2020年)7月までに復元整備され、往時の勇壮な姿が再現されました。そして、「鼠多門」と「鼠多門橋」の復元が何よりも素晴らしいのは、「加賀百万石回遊ルート」を誕生させたことです。これにより効率的な観光ができるようになったからです。ちなみに、「加賀百万石回遊ルート」は、「長町武家屋敷跡」⇒「尾山神社」⇒「鼠多門」⇒「金沢城」⇒「兼六園」の名所旧跡を周遊することができます。
「玉泉院丸庭園」は、池と石垣によって独創的な景観を創り出した庭園です。「玉泉院丸庭園」の散策を楽しんだ後には、「玉泉庵」では抹茶と季節ごとの生菓子を味わうこともできます。「玉泉院丸庭園」は、2代目藩主「前田利長」の正室「玉泉院」(永姫)が屋敷を構えたことがその名の由来とされ、3代藩主「前田利常」が京都の庭師「剣左衛門」を招き、寛永11年(1634年)の作庭をはじめたのが始まりといわれています。その後5代藩主「前田綱紀」や13代藩主「前田斉泰」などの歴代の藩主により手を加えられながら、廃藩時まで「金沢城内玉泉院丸」に存在していた庭園です。「兼六園」は饗応の場であるのに対し、「玉泉院丸庭園」は藩主の内庭としての性格が強い庭園でした。「玉泉院丸庭園」は、城内に引かれた「辰巳用水」を水源とする「池泉回遊式」の「大名庭園」で、池底からの周囲の石垣最上段までの高低差が22mもある立体的な造形でした。滝と一体となった「色紙短冊積石垣」などの意匠性の高い石垣群を庭の構成要素にした独創的な庭園でした。「玉泉院丸庭園」は、明治期に廃絶されましたが、平成25年(2013年)5月から整備工事が始まり、平成27年(2015年)3月に、歴代藩主が愛でたであろう庭園の姿が再現されました。
また、江戸時代に「露地役所」があった場所に休憩所「玉泉庵」が設置されました。室内からは、「色紙短冊積石垣」をはじめとした意匠性に富んだ石垣群を借景に庭園を一望することができます。また、和室では抹茶と季節ごとのオリジナル上生菓子の抹茶を楽しむことができます。

【⑨「長町武家屋敷跡」と⑩「武家屋敷跡 野村家」】
「玉泉院丸庭園」から「長町武家屋敷跡」までは、徒歩10分750mほどの距離にあります。「尾山神社」の「神門」からならわずか8分600mほどです。
「長町武家屋敷跡」は、伝統環境保存区域及び景観地区に指定されていて、繁華街の香林坊から一歩入ると、まるで江戸時代のような土塀や石畳の小路が残り、豪壮な武家屋敷が立ち並ぶ風景が広がります。「長町武家屋敷跡」は、加賀藩の藩政時代に中流の藩士の屋敷が軒を連ねていたところです。私も路地の両側に土壁と長屋門が続く風景は、テレビの旅番組で何度も目にしたことがあります。実は、「長町武家屋敷跡」は、ほとんどの家には人が住んでいる住宅街です。屋敷内を公開しているところとしては「武家屋敷跡 野村家」だけとなります。
「武家屋敷跡 野村家」の見どころは、「上段の間」、総ヒノキ造りの「格天井」やギヤマン入りの「障子戸」、加賀藩のお抱え絵師による「襖絵」などが見どころです。樹齢400年以上の山桃やシイの古木が残り、濡縁にせまる曲水や落水、灯篭などが美しく配置された庭園は、2003年度の米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング誌」の日本庭園ランキングで3位に選ばれました。さらに「武家屋敷跡 野村家」は平成21年(2009年)発行の「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」の格付けでも2つ星に選ばれており、海外からの観光客も多数訪れます。2階の茶室ではお抹茶をいただくことができます。また、「鬼川文庫」では野村家伝来の刀剣や前田家からの書状などさまざまな資料が展示されています。

【⑪「四高記念文化交流館」】
「武家屋敷跡 野村家」から「四高記念文化交流館」へは、徒歩8分550mほどです。「香林坊」の信号を
「四高記念文化交流館」は、残念ながら2024年1月1日に石川県能登地方で発生したM7.6の「令和6年能登半島地震」で施設内の一部が損傷しているということで入館することができず、建物の外観、周囲にある記念碑、ショップしか見ることができませんでした。とりあえず、事前に調べた「四高記念文化交流館」の情報を発信したいと思います。
「四高記念文化交流館」は、明治時代に建てられた国の重要文化財である赤煉瓦が印象的な「旧四高」の校舎を活用した文化施設で、「いしかわ四高記念公園」内にあります。石川県ゆかりの文学資料を展示する「石川近代文学館」や四高の歴史と伝統を伝える展示に加え、旧四高の教室を多目的に利用できる「石川四高記念館」で構成されています。
「石川四高記念館」は、明治26年(1893年)から約60年間、旧制高等学校(中学校)として使用された歴史をたどり、四高と四高生を育んだ風土と時代を知るための展示空間です。そして、四高及び四高生の開校からの歴史を展示しいて、当時使用されていた制服など貴重な資料があります。ちなみに、旧制第四高等学校は、明治20年(1887年)に金沢で創立された旧制高校で、四高創設に際しては、費用12万円のうち加賀藩主であった前田家が約8万円を拠出したそうです。

【⑫「石川県政記念しいのき迎賓館」】
「四高記念文化交流館」に隣接してすぐあるのが、「石川県政記念しいのき迎賓館」です。徒歩2分180mほどの至近距離です。
「しいのき迎賓館」は、大正13年(1924年)に建築された旧県庁本館をリニューアルし、平成22年(2010年)4月に開館しました。「旧石川県庁舎本館」は、大正13年(1923年)に竣工した県内で最も古い鉄筋コンクリート造建築物の一つといわれています。「しいのき迎賓館」の外装のレンガは、大正11年(1921年)に建築の「旧帝国ホテル本館」で日本初に使用されたと言われる愛知県武豊産の「スクラッチタイル」を使用しています。また、平面計画は略中字形で国会議事堂平面を踏襲しています。「しいのき迎賓館」は、正面は建築の格調ある意匠をそのままに、反対面は現代的なガラスの空間に生まれ変わり、「金沢城」の石垣を眺めることができます。樹齢約300年(推定)の“堂形のシイノキ”をシンボルに、総合観光案内、レストラン、カフェ、会議室、ギャラリーなどの憩いと交流の施設を兼ね備えています。「石川県政記念しいのき迎賓館」に向かって左側にある「アメリカ通り」は桜のトンネルができる名所だそうです。

【⑬「金沢21世紀美術館」】
「金沢21世紀美術館」は、「石川県政記念しいのき迎賓館」徒歩5分300mほどの距離にあります。「石川県政記念しいのき迎賓館」から、外見は宇宙から飛来した巨大なUFOのように見える「金沢21世紀美術館」を臨むことができます。
「金沢21世紀美術館」は、残念ながら2024年1月1日に石川県能登地方で発生したM7.6の「令和6年能登半島地震」で施設内の一部が損傷しているということで、有料エリアへは入館することができず、「金沢21世紀美術館」の外周にあるアート作品と無料エリアの見学のみになりました。楽しみにしていた「レアンドロ・エルリッヒ」作の通称「レアンドロのプール」は、地下から見ることができませんでした。とりあえず、見ることのできなかったアート作品等については、事前に調べた「金沢21世紀美術館」の情報を発信したいと思います。
「金沢21世紀美術館」への入口は、「広坂口」(北口)、本多通り口(東口)、「柿木畠口」(南口)、「市役所口」(西口)がありますが、「広坂・21世紀美術館」停留所からは、「広坂口」(北口)又は本多通り口(東口)になります。
「金沢21世紀美術館」は、平成16年 (2004年)10月に建設された地上1階、地下1階建ての建物で、円形の総ガラス張りとなっていて、全てが正面に見えるという不思議な構造で案内板がなければどこがエントランスか迷うほどです。それもそのはず、この建物のコンセプトは、円形の建物にすることで「正面」という概念がなく、いろんな場所から館内に入ることができるように設計されているそうです。それと美術館の外と中の境界をなくすために、外と接する壁は全てガラス張りになっているので、光が差し込む開放的な造りになっています。立地に関しては、「金沢21世紀美術館」は、愛称が「まるびぃ」で金沢市の中心に位置し、「兼六園」、「金沢城公園」などに隣接しているので、美術館賞をした後に効率的に観光名所を散策することができます。「金沢21世紀美術館」は、有料の「展覧会ゾーン」と「無料の交流ゾーン」に分かれていて、美術館内外に様々なオブジェやアートが点在しています。「草間彌生」、「横尾忠則」、「アンディ・ウォーホル」など1980年以降に制作された国内外の現代美術作品を多数所蔵しています。特に人気が高いのは、「光庭」のひとつに設置された「レアンドロ・エルリッヒ」作の通称「レアンドロのプール」と呼ばれている「スイミング・プール」です。「レアンドロのプール」は、水中から水上を見上げる不思議な体験ができる有名な作品で、また、地上から覗くとまるでプールの中に人が入っているように見え、プールを介して地上と地下で人と人が交流することができる体験型の作品です。
「金沢21世紀美術館」の見どころは、建物と館内に収蔵されている作品ばかりではありません。美術館を囲む芝生には、代表的な作品として、音の迷宮である「フロリアン・クラール」作による「アリーナのためのクランクフェルト・ ナンバー3」、色の三原色を活かした「オラファー・エリアソン」作による「カラー・アクティヴィティ・ハウス」など様々なオブジェやアートが点在しています。
「金沢21世紀美術館」には、ガラス張りの開放的な空間がおしゃれなカフェレストラン「Fusion21」があります。ランチやディナーは、加賀野菜をはじめ旬の地元食材を取り入れたメニューで、また、ビュッフェ式のランチや金沢の老舗ケーキショップ「メープルハウス」が手掛けるスイーツなど、充実した内容です。ちなみに、「カフェレストラン「Fusion21」のコンセプトは、「美術館で第2の感動」だそうです。
「ミュージアムショップ」は、丸くフェンスに囲われた2つの「ミュージアムショップ」があります。「Shop1」では開催中の特別展オリジナルグッズやデザイン性に優れたグッズやアート関連の書籍などです。「Shop2」では、現在は海外のアートブックや開催中の展覧会オリジナルグッズやカタログなどを展開しております。

【⑭「近江町市場」】
一旦ホテルへ戻り、「プレミアラウンジKANAZAWA」では「カフェタイム」の時間で、ケーキや飲み物そしてオードブルなどを食べながら休憩しました。「金沢21世紀美術館」からホテルまで、徒歩20分1400mしかありません。バスの待ち時間の間に次の目的に到着してしまいます。それを考えると金沢は、本当に観光しやすい街だと思いました。そして、ホテルで「カフェタイム」の後、「近江町市場」で海鮮物の立ち食いを見かけたので、食べてみようということになりました。ホテルから「近江町市場」の「鮮魚通り口」までわずか3分210mの距離です。今回の旅行では、金沢駅周辺でなく、近江町市場付近のホテルに宿泊したのも良かったかもしれません。
「近江町市場」は、石川県金沢市の中心部にある市場です。「近江町市場」は、地元の人から旅行者で賑わうまさに「金沢の台所」で、主に生鮮食品などの食品と生活雑貨を扱う小売店や飲食店など、狭い小路に約170店が軒を連ねています。「近江町市場」は、江戸時代の享保6年(1721年)に開設され、金沢を城下町としていた加賀藩の御膳所でした。名前の由来は、近江商人が作ったことによることだそうです。地域によっては「おみちょ」(「お」にアクセント)と呼び親しまれています。リーズナブルな寿司店や「近江町市場」の定番グルメである豪華な海鮮丼が食べられる食堂なども人気で、食事時は行列が絶えません。もちろん、金沢おでんも食べられます。「近江町市場」に立ち寄り、「がすえび」と「生かき」を食べました。まさに、海からの贈り物です。「がすえび」は甘く、身はぷりぷりしていました。「生かき」は奮発して一番高い1000円のものを食べましたが、磯の香りと口の中に入れるとクリーミーな食感でした。

【⑮「市媛神社」】
「市媛神社」は、通りを挟んで「近江町市場」の「市媛神社口」の反対側にあります。
「市媛神社」は天文年間中に、近江国高宮の人が京都五条にある「市比売宮」を勧請して創建されたと伝わっています。その後に「近江町市場」の氏神となり「近江町市姫神社」とも呼ばれています。金沢城防備の前線となった内惣構堀の内側の在ったため、元和9年(1623年)に「卯辰観音院」の境内に替地となり、明治12年(1879年)に復座しました。明治37年(1904年)に罹災炎上し、「社殿」を焼失しました。明治39年(1906年)から大正8年(1919年)にかけて「社殿」を復興しました。「市媛神社」は、百万石通りを挟んで近江町市場の反対側に鎮座しています。「市媛神社」は、交通量の多い、大通りに面したコンパクトな神社です。「一の鳥居」と「二の鳥居」の間隔がとても近いというのが第一印象です。大きくはありませんが美しい社殿は、歴史を感じさせる立派な造りになっています。「狛犬」は岡崎型の狛犬です。「百万石通り」に面していますが、境内に入るとその都会の喧騒を忘れさせてくれます。

【⑯「浅野川大橋」】
「市媛神社」から「浅野川大橋」まで、徒歩9分650mです。「橋場」の信号で二又になり、左へ曲がれば前方に「浅野川大橋」が見えてきます。
「浅野川大橋」は、加賀藩の藩政時代に加賀藩祖「前田利家」が架けたのが最初の木造橋といわれ、別名が「轟の橋」と呼ばれ、交通の要として建設されました。「浅野川大橋」は、明治に入るまでに少なくとも10回以上の修復及び架け替えが行われました。明治31年(1898年)に架けられた木造橋は、度重なる大洪水を契機に、大正11年(1922年)12月に現在の「浅野川大橋」として架け替えられました。「浅野川大橋」は、橋長55m、幅員17mある「鉄筋コンクリート造3連充腹」のアーチ橋で、平成12年(2000年)12月20日に国の登録有形文化財に指定されました。昭和41年(1966年)までは、「浅野川大橋」の上を市電が走っていたそうです。そして、第二次世界大戦で供出された高欄や照明灯を復元するため、平成元年(1988年)に、唐草模様付きの「格子高欄」、「五灯式あんどん型照明」が設置されました。また、復刻した「レリーフ」を赤戸室石の側壁に用いるなどして、大正時代の面影を見事なほど今に取り戻しました。

【⑰「ひがし茶屋街」、⑱「志摩」、⑲「志摩・別館 お茶屋美術館(旧中や)」⇒⑳「菊一」】
「浅野川大橋」を渡り、「浅野川大橋交番前」の信号を右折すれば、「ひがし茶屋街」の街並みが目の前に広がってきます。「ひがし茶屋街」は、「三大茶屋街」の一つで、文政3年(1820年)に加賀藩がこの近辺に点在していた「お茶屋」をここに集めて町割りしたものです。「三大茶屋街」は、「ひがし茶屋街」、「にし茶屋街」、「主計町茶屋街」の3つの茶屋街のことです。「ひがし茶屋街」は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。「ひがし茶屋街」は、金沢市東山の「浅野川」東側にあり、昔ながらの古い街並が残っています。メインストリートや裏路地に沿って「木虫籠」(きむすこ)と呼ばれる「出格子」が特徴の古い二階建ての町屋が並んでいます。「ひがし茶屋街」は、直木賞作家の「五木寛之」の著書である『朱鷺の墓』に描かれた舞台としても有名です。「ひがし茶屋街」は、「広見」と呼ばれる広場から通りを写すのがベストです。「ひがし茶屋街」は、浅野川を挟んだ「主計町茶屋街」とセットで回るのがおすすめであり、その方が効率的な回り方です。

《「ひがし茶屋街」と「主計町茶屋街」のお薦め散策コース》
①「浅野川大橋」⇒②「広見」⇒③「ひがし茶屋街」⇒④「宇多須神社」⇒⑤「観音町通り」⇒⑥「浅野川大橋」⇒⑦「主計町茶屋街」⇒⑧「暗がり坂」と「あかり坂」

国の登録有形文化財の「浅野川大橋」と歩行者専用の「中の橋」、「梅ノ橋」など橋の景観は見逃せません。また、「主計町茶屋街」は「浅野川」を挟んだ対岸からの風景が素晴らしいので、これまたフォトジェニックな写真を撮影するスポットです。ちなみに「お茶屋」とは、喫茶店のようにお茶を飲むところでも、お茶を売っている店でもありません。芸妓が粋で雅な芸で客をもてなす大人の社交場です。「一見さんお断り」のしきたりが今も守られ、「ひがし茶屋街」の中には現在5軒のお茶屋が営業し、十数名の芸妓がいますが、特別な人のご紹介がない限り、「お茶屋」の中にはいることはできません。江戸時代に建てられた「お茶屋」の建物を公開する「志摩」と「懐華樓」は有料で見学ができ、金沢の茶屋文化について知ることができます。
「志摩」は、「懐華楼」と同時期の文政3年(1820年)に建てられた「お茶屋」の建物で、ほぼ当時のまま手を加えず残されていて、国の重要文化財に指定されています。今はお茶屋としての営業はしておらず、記念館のような位置付けで一般公開されています。「お茶屋」は、2階を客間とし、押し入れや物入れ等は作らずに、あくまでも遊興を主体とした造りとなっています。お客が床の間を背にして座ると、その正面が必ず「ひかえの間」となります。襖がひらくと同時に、あでやかな舞や遊芸が披露されます。「志摩」は、典型的な「お茶屋」の庭で、「春日燈灯」、「月見燈灯」、「槍燈灯」が配置されています。「志摩」の建物内での写真撮影は許可されていますが、使用できる撮影機器はスマートフォンのみとなっています。玄関を入り、靴を脱いで板の間に上がるとバッグなどの荷物をロッカーに預けます。玄関を入るとすぐ目の前に階段があり、2階にはお座敷が往時の雰囲気で残されています。床の間には掛け軸や工芸品が置かれ、欄間には書跡の額縁が飾られているほか、「雪洞」、「行燈」、「提灯」などの和風の照明機器が華やかさを演出しています。「ひかえの間」には金屏風とともに太鼓や鼓が置かれています。「茶屋建築」と「町家建築」との大きな違いは、「茶屋建築」では間仕切りの壁がなく障子と襖のみでお部屋を仕切っていることです。1階へは裏階段から降りていくことになりますが、傾斜が急なことに驚きました。「志摩」が建てられた文政3年(1820年)は、当時の日本人は今よりも平均身長が遥かに低く、小柄な体型に合わせて設計されていることから、裏階段には「頭上注意 -Mind Your Head-」と大きく注意書きが貼られていました。台所の先には「寒村庵」というカフェがあります。抹茶と和菓子のセットで700円です。カウンター席から中庭を眺めながらゆっくりと寛ぐことができます。和菓子は「かいしき」と呼ばれる紙の上に置かれお盆に載せて運ばれてきます。給仕の女性がお盆から「かいしき」を持ち上げてお客の前に置く仕草には、「お茶屋」ならではの風情があります。
「旧中や」は文政三年(1820年)に創立されたお茶屋の建物で、典型的なお茶屋の造りをそのままに残しています。建物内の見学も可能で、お茶屋特有の造りや、芸妓さんが使用していた「髪飾り」、「加賀象嵌」、「加賀蒔絵」などの工芸美術品を見学できます。もう少し詳しく見てみると、2階が客間で、遊芸を主体とするため開放的で押入や物入れ等がなく、座敷には弁柄の朱色や鮮やかな群青色の壁が塗られて優美で繊細なお茶屋特有の粋な造りになっています。1階には金、銀、珊瑚を贅沢に施した髪飾り、加賀蒔絵、加賀象嵌などの優美な道具類が多数展示されており、江戸時代の町人文化の栄華を垣間みることが出来ます。

【⑳「菊一」】
第二日目の最終目的である金沢おでんの老舗「菊一」へは、一旦ホテルにもどり時間近くなってから行きました。ホテルから徒歩20分1400mの距離です。「菊一」は、昭和9年(1934年)の創業で、金沢で最も歴史の昔ながらの金沢の古いおでん屋です。カウンターが10席、テーブルが4席と店の中は決して広くはありません。予約不可で17:30の開店まで店の前で並ばなくてはなりません。私たち夫婦は、当日の17:00頃に「菊一」へいき一番乗りでした。実は、午前中に「武家屋敷跡」に行く前に、道の途中なのでお店の場所を確認しに行きました。確か、11:00頃だった思います。店の中からは、活気溢れる話し声とたまらないいい出汁の匂いがしてきました。これは間違いなく美味しいと家内と顔を見合わせました。ここで意外な事実が判明しました。店の前には入店の方法について、何も記載された貼り紙はありませんでした。ただ並べばいいのではなく、店の仕込みはかなり早い時間からやっているので、開店時間前に来て、店に来て予約できるらしいのです。一番乗りしたはずなのに、三番乗りになってしまいました。暖簾が出ていなくても勇気をだして店の中に入って聴けばよかったと思います。開店の17:30頃には、店の前に長蛇の列ができていました。店の人が事前に並んでいるお客に、名前と人数を聞き、順番に案内してくれます。私たちはカウンターの席に案内されました。店内は、昭和レトロ溢れる哀愁を帯びたポスターや創業当時の写真など貼ってあって、哀愁を帯びた雰囲気です。事前にネットでお互いの食べたいものは決めていたので、誰よりも早く注文しました。「くるま麩」、「糸こんにゃく」、「大根」、「こんにゃく」、「梅貝」、「三色生麩」、「だし巻き玉子」、「蓮根もち」をそれぞれ二人前ずつ注文しました。カウンター席に座ったので、調理の方法がよく見えてそれも少し楽しかったです。変わったところでは、私たちも注文しましたが、「だし巻き玉子」やまるのままの「トマト」のおでんもありました。どれも90年近い、継ぎ足してきた味がしみ込んでいて、どれもこれも満足のいく美味しさでした。少し分かりにく場所に、メニューには記載していない「白子おでん」があったので、今まで食べたことのない「どて焼き」と一緒に追加注文しました。これがまた格別の味でした。「白子おでん」は、口の中に入れるととろけてなくなり、口の中に甘さが広がりました。「どて焼き」は、味噌の甘みが豚肉にしみ込んで美味しく食べられました。金沢には、おでんの有名店は数件ありましが、予約は取らずに常連も一見も分け隔てなく迎えてくれるこの店に、次にきてもこのお店だという思いを抱かせてくれました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
5.0
グルメ
4.5
ショッピング
3.5
交通
4.0
同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
10万円 - 15万円
交通手段
高速・路線バス ANAグループ 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配