2024/02/14 - 2024/02/14
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Reiseさん
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前前回の河井寛次郎記念館を出て、歩いて、方広寺へ来ました。この東山一帯は、じっくり歩いてみたかった場所でした。
方広寺はあの国家安康の銘があることで有名な鐘があります。小さく書かれたところは白くわかりやすくなっていますが、
大坂冬の陣を引き起こした原因にもなったといわれている鐘の銘。
歴史で習ったとき、徳川家康や徳川方は、よくぞ、こんな因縁をつけるところを探したものだ、、と正直、苦々しくも思いました。とても、小さく彫られた文字の銘です。
豊臣家の財政を窮乏させるために、徳川家康が鐘の鋳造を勧めたといわれ、それには、政僧侶の天海なども関わり、、、小説みたいなミステリー。
そんな因縁をつけられた豊臣秀頼や豊臣方、淀殿はさぞや悔しかったに違いない、、、そんな言い訳みたいなことから戦いに発展して、豊臣家は滅亡に向かうのですから、、、そんなことをおもいながら、鐘を見つめていました。大きな鐘です。
どんな音がするのでしょう~。
しかも、大阪夏の陣のあとは、徳川の時代、豊臣の呪い、、といわれ、鐘は雨ざらしになっていたそうです。
今もその姿をみて、歴史の大きな転換のきっかけになったことが物悲しいような気持になります。
方広寺には大仏殿もあり、東大寺よりも大きな大仏が安置されて、多くの人々が参詣していて、にぎわっていたそうですが、
今はもうありません。その跡には少しの礎石がみられるだけ。
当時は日本一といわれる大きな大仏、、みてみたいです。
豊国神社の大きな石垣も太閤石垣とよばれ、当時の様子がわる遺構の一つです。
余りの大きさに驚きました。
唐門は伏見城の遺構といわれます。国宝です。きらびやかな安土桃山時代のもの。
境内にある宝物館は見どころ沢山です。祭礼を描いた大きな屏風は当時の人々の生活や人々の様子を知ることができます。興味深いです。
また、豊臣秀吉の使用していた獏形をした枕や使用していたといわれる品々の数々。
そして、一番驚いたのが、豊臣秀吉の歯が残っていることです。
しかも、晩年抜けたであろう、その歯は書状と共に加藤氏に送られていたこと。歯が残っていたとは、、、びっくりしました。
宝物館からさらに奥に行ったところに馬塚と呼ばれるところがあります。
徳川家康が、豊臣秀吉のお墓の壮大な豊国廟のかわりに豊臣秀吉のお墓としたそうです。豊臣家の繁栄を取り除きたかったのですよね、徹底的です。
そして、最近二度も訪れた甘春堂。
美味しい和菓子を堪能します。
近くの耳塚は心が痛む場所ですが、歴史の一部として決して忘れてはならない史蹟です。
沢山歩きますが、休みも多くて、ひと休みどころか、ふたやすみも、しています。京都は和菓子もスイーツも誘惑がいっぱい、、、危ないです。笑
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- タクシー JRローカル 私鉄 自家用車 徒歩
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-
河井寛次郎記念館をじっくり見学して、歩いて、方広寺のほうへ向かいます。
路地は古い家並みが続きます。 -
ガラスが反射していますが、陶器のお店でした。
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金環、、、青い時も可愛いですね。植えようかな~。一度枯らしてしまいました。
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可愛い暖簾。
関西で、暖簾を特集した番組もあります。
たしかに、暖簾をみると、お店の雰囲気が分かるような気もします。 -
ちょっと、うまく写真撮れませんが、こちらは竹細工のお店みたいです。
観光客向けに英語の説明がありました。
路地歩きは楽しいです。
発見だらけ。 -
京洗い、、と書いた看板。
京都ならでは、、着物の文化の地です。 -
方広寺あたりに着いたとき、驚きの巨大な石が連なってました。
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大仏殿石垣とあります。
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太閤石垣ともよばれるもの。
ここは、かつて、豊臣秀吉時代に栄えた場所だったことが、この石垣からも推測できます。 -
方広寺に来ました。
豊臣秀吉が発願した大仏のためのお寺でした。
当時19mを超える大仏があり、東大寺の大仏を超える高さだったそうで、
人々からも信仰されていました。
地震などにより1596年に豊臣秀頼、淀殿により再建されますが、
その際の鐘の銘が問題となります。
「国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれた大きな鐘が今も現存しますが、それは、家康の文字を切り離したと、徳川家康の怒りを買って、
大阪冬の陣のきっかけとなった、、、、といわれています。 -
説明もありますが、大阪夏の陣のあとは、呪いの鐘として、降ろされ、あまざらしになっていたそうです。
鐘は1614年に造られています。
しかも、徳川家康は豊臣家の財政を窮乏させるために、大鐘を造らせたとか、、その裏には徳川家康の政僧 天海などがいた、、、などなど。。
結局、策略だったのでしょうか~。 -
イチオシ
左のほうに、小さく白く見えるところに「国家安康」「君臣豊楽し」とあります。
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大きな鐘です。。
どんな音がするのでしょう~。 -
イチオシ
歴史を動かすことになった鐘、、、
ちょっと見えにくいですが、国家安康・君臣豊楽の文字が見えます。
よくぞ、こんなところに因縁をつけましたね、、、というか、そういう風に造るように仕向けられたのか、、、 -
天井にも美しい画が。
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雨ざらしになっていたとは思えないほど、綺麗な鐘でした。
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今は、鐘楼に落ち着き、、、でも、私達に豊臣家の滅亡を語っています。
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下のほうには、古い器具のようなもの。
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本堂は外からのみ。
中は拝観できないようでした。 -
方広寺の横に狭い道があり、
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ここを通っていくと、
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方広寺大仏殿跡に来ます。
「京の大仏さん」として1798年に落雷で焼失するまで、人々の信仰を集めてきた大仏。
もともとは豊臣秀吉が発願し、1595年に完成した大仏、高さは18m、木製の金漆塗りだったおいわれます。
翌年には地震で大破してしまい、秀吉も1598年に亡くなってしまいます。
その後、豊臣秀頼が1612年に完成させます。
こちらの大仏は金銅製だったそうです。しかし、こちらの大仏も1798年には落雷で焼失。
その後は再建されることもありませんでした。 -
その跡は、公園のようになっていました。
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説明板があります。
石塁で囲まれた伽藍の建物、南北はおよそ260m、東西はおよそ210mだといわれています。
仁王門や南門などもありました。
大仏殿も南北およそ90m、東西およそ55mといいますから、その大きさは想像もできないくらい大きい。 -
礎石の一部でしょうか、、
残っているのはこのくらい。 -
こんもりとしています。
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周りは住宅地、
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静かで広い公園、、かつてここに東大寺の大仏をしのぐ大仏があったとは
想像できません。 -
けや木の根っこから新しい葉っぱが出ていました。
養生しているようです。 -
豊国神社も見えます。
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ここから見ても、美しい社殿です。
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寒いなか、スイセンの花も咲いていました。
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豊臣秀吉、秀頼の時代の短い間の繁栄がうかがえる場所でした。
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イチオシ
方広寺のおとなり、豊国神社へ来ました。
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境内には、槇本稲荷神社。
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国宝の唐門。
伏見城から移築されたものと伝わっています。
豊国神社の参道に敷かれる石材は 方広寺大仏殿の内部や基壇に敷かれていた石材を転用したものだそうです。 -
イチオシ
桃山時代の絢爛豪華な様子が伝ってきます。
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説明板。
創建は1599年。
「豊国大明神」という神号を下賜された豊臣秀吉が主祭神です。 -
唐門の豪華な装飾。
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暫く、扉のゴージャスを堪能。
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拝殿も本殿も遠くに。
ここからは中に入れません。 -
静寂の中で、静かにたたずんでいる建物。
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唐門、伏見城の遺構とあります。
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宝物館に行きます。
チケット購入。 -
宝物館。
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イチオシ
可愛い白い虎。
幸運のシンボルだそうです。
可愛いですねぇ~。 -
入口、豊臣家の家紋がみえます。
中は撮影可能でした。 -
入ってびっくりするのが、大きな燈籠。
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説明があります。
高さはおよそ272.5㎝。
天下一といわれた辻与二郎の1600年の製作。
辻与二郎は千利休の釜師として活躍、多くの技法を生みだした名匠です。 -
中はぎっしり、屏風や、豊臣秀吉に関しての貴重な資料が展示されていました。
大正14年の開館です。 -
まずは、とても興味深かったのが、この屏風です。
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豊国祭礼図屏風です。
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右と左に分かれており、左のほうには、1604年に行われた秀吉の7回忌祭典の様子が描かれています。
方広寺を背景にして、人々の報告踊りなどが描かれています。 -
イチオシ
当時の風俗がよくわかる屏風です。
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人々の熱気が伝わってくるようです。
細かな描写。 -
方広寺の大仏殿の様子を描いたものも。
こちらもとても雄大な様子です。 -
右側の屏風豊国神社での御幣御榊の奉納の様子や、騎馬兵二百騎の行列や田楽の奉納や猿楽四座の「翁」など、とても豪勢な祭神であったことが伝わる屏風です。
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騎馬の行列。
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イチオシ
田楽や猿楽の奉納。
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イチオシ
蓮華王院三十三間堂もみえます。
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僧侶たちの姿も。
いったい、何人くらいの人々がいるのだろう~。
細かい描写、人々の様子がとても興味深いです。
当時の風俗がよくわかる屏風でした。 -
古い巻物なども。
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獏の枕、晩年の秀吉が使用したものだそうです。
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秀吉愛用のものなど、関連の品々。
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四方の盆など。
秀吉のものだったもの。 -
ちょっと怖いもの、、、
掛け軸がありますが、秀吉の右には、うっすらと千利休の幽霊、、、 -
飲料水をいれたといわれる、瓢箪。
美しい模様です。 -
こちらは豊臣秀頼の手形といわれるもの、、
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甲冑などがあり、
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書簡や、
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美しい収納の箱など。
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豊臣秀吉の年表。
波乱万丈の人生ですね、、 -
豊国神社の年表。
徳川家康の時代に、一度廃絶となっています。
その後、明治の時代になり、明治天皇により再興。 -
豊国大明神という神号を下賜された豊臣秀吉。
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多くの文献や書簡も展示されています。
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こちらの肖像画も良く見かけます。
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太刀にも豊臣家の家紋が。
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秀吉の書。
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明の時代の物、中国からのものでしょうか。
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こちらの太刀にも桐の紋。
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茶の湯に関して。
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炉もありました。
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美しい陶器の数々。
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これは現代で作製された車椅子だそうです。
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豊臣秀頼の時代の方広寺の様子。
広大な敷地ですね~。 -
天皇の論旨なども残されています。
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千利休の書。
芸術のように、美しい字。 -
鎌倉時代の名刀だそうですが、次々と持ち主が変わっています。
源頼朝から大友氏、豊臣秀吉、徳川秀忠など~。
歴史をみてきた刀だとおもいました。 -
豊臣家の家臣でもあった加藤嘉明の書。
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びっくりしてしまったのが、豊臣秀吉の歯が展示されていたこと!!
家臣の加藤嘉明に書状とともに送られたそうです。 -
晩年の大臼歯だそうですが、なぜ、家臣に?とちょっと疑問です。
のちに、調査し、豊臣秀吉の血液型が0型ということもわかったそうです。 -
秀吉の書。
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秀吉愛用の物と伝わるもの。
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水盤。
天正の年号が入っています。 -
天井にも、家紋が。
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豊国神社に関しての資料も展示。
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豊国神社の領帖というものも残っています。
古い記録です。 -
豊国神社の禁制。
樹の伐採などを禁ずるなど、神社に掲げられたもの。 -
目録など。
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博物館の見学を終えて外へ。
端正な庭が見えます。 -
可愛い虎をもう一度みて、
奥のほうへ行きますと、馬塚があります。 -
家紋がみえる石。
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馬塚。
阿弥陀ヶ峯にあった旧豊国社が徳川氏によって壊され、参道も塞がれたために秀吉を慕う人々が大拝所として移霊をしたものだそうです。
豊臣秀吉の名前も出せない時代、近くにある馬町にちなみ、馬塚と呼ぶようになったそうです。
秀吉は1598年に亡くなって、阿弥陀ヶ峯に葬られ、豊国社が建てられました。 -
説明があります。
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大きな五輪の塔です。
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徳川の時代になり、豊臣の時代の名残は消されていったのですね、、
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あっけない豊臣の時代だったなぁ~とかんじました。
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公園のように整備中でした。
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豊国神社で撮影をしていました。
本当のご夫婦かとおもったら、撮影だそうで、
でも、とても素敵な二人でした~。 -
何度もガン見してしまう、白いトラくん、、、笑
本当にかわいかったなぁ~。 -
大きな鳥居もりっぱ。
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見ごたえのある宝物館も良かった~。
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甘春堂さん。
豊国神社からすぐ近く。
実は最近二回ほど訪れています。 -
1回目、この日は暖かい一日、、、というか、暑い一日。
外で休憩します。 -
なので、こんな冷たい抹茶の飲み物。
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イチオシ
和菓子と。セットで。
美味しい和菓子〜甘さも控えめ。
この小さな鳥のラクガンがまた可愛いといったら、、、 -
イチオシ
二回目はさむーーーい日。
暖かい抹茶と、また可愛い和菓子。 -
これまた小さなお花のラクガン。
センスが光ってますよね~。
テンション上がります。 -
こちらのお店、和菓子の教室もされています。
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英語のも。
海外からのお客さんも多いのでしょう~。
楽しそう。
参加してみたいな、、、。 -
お店の中も素敵です。
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一時期、アンティークのお菓子の型、集めてました。
可愛い型がたくさん。 -
和菓子も可愛い~。
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お店の中も休めます。
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二階が和菓子教室になっているようで、にぎやかな声が聞こえてきました。
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ひな祭りのお菓子や和菓子もたくさん〜女の子の孫に送ろうかなぁ~。
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ふと、道標もありました。
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ここは、水内杏平の旧宅だったところがすぐお隣の家の前にありました。
水内杏平は漆工芸作家として有名な人物です。 -
そして、この近くにあるのが耳塚。
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小高い丘陵の上に大きな五輪の塔。
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説明板があります。
文禄・慶長の役のさいに、討ち取った敵将らの首のかわりに耳、あるいは鼻を持ち帰ったとされ、霊をなぐさめるために塚をつくり祀ったといわれているところです。 -
むごい話だといつも憤ってしまいます。
でも、決して忘れることをしてはならない、歴史の一部です。
慶長の役・文永の役、、、
昨年行った釜山の山城などを訪れたとき、複雑な思いになりました。 -
京都タワーがこのあたりからも見えます。
-
桜のつぼみが少し膨らんだように感じます。
でもさむい、、、 -
太閤石垣、、本当に大きな石が残っています。
方広寺の勢力を感じさせます。 -
ずらり。
-
当時の方広寺の繁栄を偲ぶひとつです。
-
国立博物館、西門の近くにある石垣が、これまたひときわ大きい。
-
京都国立博物館です。
ここから、後白河法皇とゆかりのある法住寺のほうへ向かいます。
つぎに続きます。
最後までお読みいただいて、ありがとうございます。^^ -
追記:
甘春堂さんで、あまりの美しさに買ってしまった、、、
夫へのおみやげですが。 -
和菓子、、繊細。
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三層になっていました。
-
上の黄色のところは、ほんのり卵の味がします。
きれいな色合い。
今日は風の強い、寒い二月の終わりのころですが、
早く春になってほしい~と思えるような和菓子でした。
甘すぎず、ほんのり甘いのも好みです。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- Decoさん 2024/02/28 13:50:11
- 方広寺
- Reiseさん、こんにちは。
誰しも歴史の授業で学んだ方広寺の鐘ですが、こちらの旅行記で、初めて鮮明な画像を見たように思います。
「国家安康」「君臣豊楽」…あんなに小さな文字だったのですね。私はもっと大きく彫ってあるものだと漠然と思っていました。あの小さな文字に因縁をつけた家康。恥も外聞もないという印象です。ということは、家康は是が非でも豊臣家を滅ぼさなければと思っていたのでしょうね。まだまだ秀吉ゆかりの大名たちが多かったからでしょうか。家康の執念を感じますが、どうもこういうところで、私は家康が好きになれないのです。天下人というのは、かなり厳しい面がなければなれないのでしょうが。
方広寺、今も立派なお寺ですが、かつては大規模なお寺だったようですね。宝物館の展示品も貴重なものが多く、一見の価値ありですね。
Deco
- Reiseさん からの返信 2024/02/28 20:05:59
- こんばんは!
- Decoさん
こんばんは。
おっしゃるとおり、私も、あの文字があんなに小さいとは、私も思わなかったのです。
写真に撮るのもやっとでした。
鐘に刻まれたあの国家安康と君臣豊楽の文字は、文の中の一節であったと思うのですが(まわりには、ほかの文もあったようにおもいます)
それにしても、あの鐘を造らせるように仕向け、また僧侶の天海という政僧までが
絡んでいたということを言われていますが、なんだか、酷い話だと私も感じました。
豊臣秀頼や淀殿がまんまと家康の策略に乗ってしまったのか、、二人は相当悔しかったと思います。
鐘をつくらせ、経済も窮乏させ、さらに、そこの文面に因縁をつける、、、
家康の策略が思いのままになっていきますよね。
豊臣家を徹底的につぶし、自身が天下人になるためには、ありとあらゆる方法を用いる、、、家康の想いのままに事が動いていくのがわかります。
しかも、豊臣秀吉のお墓 豊国廟への参拝をも阻止するように参道を防ぐように
新日吉神宮の建物を建てたり、人々が豊国廟に行けなくなり、小さな五輪塔を馬塚と呼び、そこを秀吉のお墓として参拝するようになることも、徹底的に秀吉の時代を断ち切るように、こういった人々の精神的なものも阻止していきますが、
主導者が変わるということはこういうことなんでしょうか。
あっけない豊臣の時代でした。
豊国神社の宝物館はびっくりでした。
屏風は見れば見るほど、当時の人々や建物などの様子がよくわかり、見飽きませんでした。祭礼も豪華極まりないものでした。
この祭礼も、いろいろ、徳川方との間で協議がされたようですが、それでも、相当なゴージャスなものですよね。
秀吉の大臼歯も残っているのも驚きです。しかも、のちに、血液型まで判明してしまうのですから、まさか、後世の我々が見学するなんて、秀吉も思わなかったでしょうし、よくぞ、徳川の時代になっても、残り続けていたとおもいました。
方広寺は広大な敷地を持ち、東大寺の大仏をしのぐ大仏を有していた、多くの人々も参拝していたこと、にぎわっていたことが、いまの静けさからは信じられないです。
豊臣家の繁栄から滅亡を感じる旅でした。
Rise
-
- sukecoさん 2024/02/27 13:31:52
- 鐘!
- Reiseさん、こんにちは!
歴史を動かすことになった鐘、、、。
あの一つの鐘が、いやあの一つの鐘で・・・想像しただけで興奮しちゃいました!!。
歴史ってスゴイですね。
策略やその策略を信じた人たち、あの大鐘に様々な歴史が入り混じっているんだと思うと、見たくなりました♪。
そして、東大寺よりも大きな大仏、見たかったなぁ~。
さんぽの後の抹茶と和菓子。
美しい和菓子、かわいいラクガン、見逃せません(笑)。
ほっこり落ち着きますね♪。
sukeco
- Reiseさん からの返信 2024/02/27 14:15:12
- 歴史がギュッと詰まった場所でした。
- sucekoさん
こんにちは!
おしゃるとおり、あの国家安康、、、家康を切るという因縁をつけた鐘、
鐘をつくることを勧めたのも徳川家康と聞きました。
真実はわかりませんけれど、豊臣家を滅ぼすために、いろんな策略があったのだと思います。僧の天海も絡んでいたなんて、、、。
方広寺の大仏も東大寺の大仏をしのぐ大きさだったそうですから、私も観たかったです〜。あの辺りは、大仏参拝の人たちでにぎわっていたそうです。
いまは、静かで、その跡も公園のようになっていて、かつて、ここに壮大な大仏殿があったことが信じられませんでした。
このあたりは、じっくりと歩いたことがなかったので、とても興味深く、また
天下人たちの輝かしい軌跡やそのはかなさ、いろんなことが感じられる場所でした。
ちょっと休みすぎですよね〜笑
甘春堂さんは、大好きで、繊細でかわいい和菓子をみていると癒されます。
昨日も通ってしまいました。笑
Reise
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