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東京国立博物館・特別展「本阿弥光悦の大宇宙」と「中尊寺金色堂」、静岡県立美術館で開幕した「天地耕作 初源への道行き」へ行ってきました。<br />

東京国立博物館・特別展「本阿弥光悦の大宇宙」と「中尊寺金色堂」、静岡県立美術館「天地耕作 初源への道行き」

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2024/02/11 - 2024/02/12

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東京国立博物館・特別展「本阿弥光悦の大宇宙」と「中尊寺金色堂」、静岡県立美術館で開幕した「天地耕作 初源への道行き」へ行ってきました。

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
グルメ
4.0

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  • 東京国立博物館HPより<br />本阿弥光悦は,戦乱の時代に生き、さまざまな造形にかかわり、革新的で傑出した品々を生み出しました。それらは後代の日本文化に大きな影響を与えています。しかし光悦の世界は大宇宙のごとく深淵で、その全体像をたどることは容易ではありません。そこでこの展覧会では、光悦自身の手による書や作陶にあらわれた内面世界と、同じ信仰のもとに参集した工匠たちがかかわった蒔絵など同時代の社会状況に応答した造形とを結び付ける糸として、本阿弥家の信仰とともに、当時の法華町衆の社会についても注目します。造形の世界の最新研究と信仰のあり様とを照らしあわせることで、総合的に光悦を見通そうとするものです。

    東京国立博物館HPより
    本阿弥光悦は,戦乱の時代に生き、さまざまな造形にかかわり、革新的で傑出した品々を生み出しました。それらは後代の日本文化に大きな影響を与えています。しかし光悦の世界は大宇宙のごとく深淵で、その全体像をたどることは容易ではありません。そこでこの展覧会では、光悦自身の手による書や作陶にあらわれた内面世界と、同じ信仰のもとに参集した工匠たちがかかわった蒔絵など同時代の社会状況に応答した造形とを結び付ける糸として、本阿弥家の信仰とともに、当時の法華町衆の社会についても注目します。造形の世界の最新研究と信仰のあり様とを照らしあわせることで、総合的に光悦を見通そうとするものです。

    東京国立博物館 美術館・博物館

  • さすが、総合芸術家の光悦だけあって刀剣、工芸、書、陶芸と展示されていましたが、写真撮影はできません、以前撮影したものを1点アップしておきます。<br />国宝 舟橋蒔絵硯箱<br />本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵<br />※本展での撮影ではありません

    さすが、総合芸術家の光悦だけあって刀剣、工芸、書、陶芸と展示されていましたが、写真撮影はできません、以前撮影したものを1点アップしておきます。
    国宝 舟橋蒔絵硯箱
    本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵
    ※本展での撮影ではありません

  • 東京国立博物館HPより<br />中尊寺金色堂の建立900年を記念して開催する特別展です。堂内中央に設置された須弥壇に安置される国宝の仏像11体が一堂にそろうほか、かつて金色堂を荘厳していた国宝・金銅迦陵頻伽文華鬘をはじめとするまばゆいばかりの工芸品の数々が展示されていました。

    東京国立博物館HPより
    中尊寺金色堂の建立900年を記念して開催する特別展です。堂内中央に設置された須弥壇に安置される国宝の仏像11体が一堂にそろうほか、かつて金色堂を荘厳していた国宝・金銅迦陵頻伽文華鬘をはじめとするまばゆいばかりの工芸品の数々が展示されていました。

  • 中尊寺へは、2009年7月に訪れています。<br />堂は、1965年建設の鉄筋コンクリート造の覆堂内にあり、ガラス張りのスペースに納められて外気と遮断されていました

    中尊寺へは、2009年7月に訪れています。
    堂は、1965年建設の鉄筋コンクリート造の覆堂内にあり、ガラス張りのスペースに納められて外気と遮断されていました

    中尊寺 寺・神社・教会

  • 縮尺5分の1の金色堂の模型です

    縮尺5分の1の金色堂の模型です

  • こちらだけは、写真撮影OKでした

    こちらだけは、写真撮影OKでした

  • 特別展限定の御朱印も頂きました

    特別展限定の御朱印も頂きました

  • 時間が無かったので常設展は見なかっのですがこちらだけはじっくり見ました。<br />青木繁「日本武尊」1906年<br />自分の代わりに入水した妃・弟橘比売を偲ぶ絵。<br />顔は青木繁の自画像とのこと。

    時間が無かったので常設展は見なかっのですがこちらだけはじっくり見ました。
    青木繁「日本武尊」1906年
    自分の代わりに入水した妃・弟橘比売を偲ぶ絵。
    顔は青木繁の自画像とのこと。

  • 遅め(4時頃)のランチです。ホテルオークラレストラン ゆりの木で<br />葱とチャーシューの細切りつゆそばと五目チャーハン

    遅め(4時頃)のランチです。ホテルオークラレストラン ゆりの木で
    葱とチャーシューの細切りつゆそばと五目チャーハン

    ゆりの木 グルメ・レストラン

  • レストランから見える梅が綺麗でした

    レストランから見える梅が綺麗でした

  • 翌日は静岡県立美術館へ

    翌日は静岡県立美術館へ

  • 静岡県立美術館HPより<br />天地耕作は、村上誠、渡の兄弟と、山本裕司の3名が協働で行った、美術制作のプロジェクトです。本展では、旧引佐郡(現 浜松市)を拠点に、1988年から2003年にかけて活動した天地耕作の軌跡をたどります。

    静岡県立美術館HPより
    天地耕作は、村上誠、渡の兄弟と、山本裕司の3名が協働で行った、美術制作のプロジェクトです。本展では、旧引佐郡(現 浜松市)を拠点に、1988年から2003年にかけて活動した天地耕作の軌跡をたどります。

    静岡県立美術館 美術館・博物館

  • 天地耕作は、街中を離れた野外を主なフィールドに、木や縄、石や土などの自然物を素材として、大がかりな作品を制作しました。彼らは伝統芸能や遺跡などを、民俗学者や考古学者のように(あるいは彼らの言葉によれば蟻のように)フィールドワークし、生や死といった根源的なテーマに迫りました。

    天地耕作は、街中を離れた野外を主なフィールドに、木や縄、石や土などの自然物を素材として、大がかりな作品を制作しました。彼らは伝統芸能や遺跡などを、民俗学者や考古学者のように(あるいは彼らの言葉によれば蟻のように)フィールドワークし、生や死といった根源的なテーマに迫りました。

  • しかしながら、時間をかけて築かれた、それらの耕作物(作品)は、公開期間やアクセスが限られていたため、現場を目撃した人は多くありません。 本展では天地耕作の活動の全貌を、写真作品や映像、貴重な資料で明らかにします。

    しかしながら、時間をかけて築かれた、それらの耕作物(作品)は、公開期間やアクセスが限られていたため、現場を目撃した人は多くありません。 本展では天地耕作の活動の全貌を、写真作品や映像、貴重な資料で明らかにします。

  • 特別展の後は、久々のロダン館へ

    特別展の後は、久々のロダン館へ

  • ロダンの彫刻はいずれも12体しか鋳造できないようフランス政府によって決められています。≪地獄の門≫の最初の作品は東京・上野の国立西洋美術館の庭に置かれ、6体目がこの静岡のロダン館の作品です。

    ロダンの彫刻はいずれも12体しか鋳造できないようフランス政府によって決められています。≪地獄の門≫の最初の作品は東京・上野の国立西洋美術館の庭に置かれ、6体目がこの静岡のロダン館の作品です。

  • 「考える人 」<br />ロダンの彫刻の中で、最もなじみ深い作品。詩人のダンテを表現したものとも言われています。

    「考える人 」
    ロダンの彫刻の中で、最もなじみ深い作品。詩人のダンテを表現したものとも言われています。

  • ロダン以外の作品もあります<br />「ナポリの漁師の少年」ジャン=パティスト・カルポー

    ロダン以外の作品もあります
    「ナポリの漁師の少年」ジャン=パティスト・カルポー

  • 「バラの髪飾りの少女」<br />ロダンは24歳から当時売れっ子の彫刻家のアルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズの元で助手として働いていました。1870年にドイツとの戦争が始まると、カリエ=ベルーズは戦火を逃れてブリュッセルに移っていきました。ロダンは国民軍に招集されましたが、近視のためすぐに退役させられてしまい、カリエ=ベルーズを追ってブリュッセルに赴き、滞在中にネオ・ロココ風の一連の少女像を制作しました。

    「バラの髪飾りの少女」
    ロダンは24歳から当時売れっ子の彫刻家のアルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズの元で助手として働いていました。1870年にドイツとの戦争が始まると、カリエ=ベルーズは戦火を逃れてブリュッセルに移っていきました。ロダンは国民軍に招集されましたが、近視のためすぐに退役させられてしまい、カリエ=ベルーズを追ってブリュッセルに赴き、滞在中にネオ・ロココ風の一連の少女像を制作しました。

  • 「花子のマスク」<br />ひと目で東洋の女性と分かるモデルの花子は本名を「太田ひさ」といい、名古屋の生まれです。芸者などをしたあと1902年、34歳の時コペンハーゲンの博覧会の仕事でヨーロッパに渡り、その後20年間も欧米各地で芝居を演じました。ロダンとの出会いは1906年のことです。マルセイユで花子が幕切れに自害する芝居を見て、その演技力に惹かれたロダンは、直ちにモデルになるように頼みます。

    「花子のマスク」
    ひと目で東洋の女性と分かるモデルの花子は本名を「太田ひさ」といい、名古屋の生まれです。芸者などをしたあと1902年、34歳の時コペンハーゲンの博覧会の仕事でヨーロッパに渡り、その後20年間も欧米各地で芝居を演じました。ロダンとの出会いは1906年のことです。マルセイユで花子が幕切れに自害する芝居を見て、その演技力に惹かれたロダンは、直ちにモデルになるように頼みます。

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