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      低山・里山歩き  神奈川県鎌倉市  天園ハイキングコース(3)・鎌倉散策(14)西御門・雪ノ下  最高高さ 159.4米(天園)(標高差130M)  北鎌倉駅~(19分) 建長寺(10分) ~(5分) 半僧房(19分) ~(1時間2分)大平山(9分) ~(11分)天園(1分) ~(44分)~瑞泉寺登山口     全行程3時間<br />「日時」2023年1月11日 <br />「アクセス」JR線北鎌倉駅で下車 <br />「参考案内書」 なし<br />

天園ハイキングコース(3)鎌倉散策(14)西御門・雪ノ下

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2023/01/11 - 2023/01/11

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zenkyou01さん

この旅行記のスケジュール

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   低山・里山歩き  神奈川県鎌倉市  天園ハイキングコース(3)・鎌倉散策(14)西御門・雪ノ下  最高高さ 159.4米(天園)(標高差130M)  北鎌倉駅~(19分) 建長寺(10分) ~(5分) 半僧房(19分) ~(1時間2分)大平山(9分) ~(11分)天園(1分) ~(44分)~瑞泉寺登山口     全行程3時間
「日時」2023年1月11日 
「アクセス」JR線北鎌倉駅で下車 
「参考案内書」 なし

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
友人
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 建長寺山門 北鎌倉駅を出発し鎌倉街道を南に行き、20分弱で建長寺に到着。臨済宗建長寺派の大本山、鎌倉五山の第、1253年創建、開基は北条時頼、開山は蘭渓道隆。本尊は地蔵菩薩像です。天下門を潜り、総門で入山料を払う。山門、仏殿、法堂、庫裏の壮大な伽藍が一直線に並ぶ。法堂天井には雲竜図が描かれている。仏殿内には千躰地蔵と共に地蔵菩薩が祀られている。山門の右手に鐘楼、大庫裏の北に得月楼、唐門の北に方丈と庭園がある。石段を暫く登ると、高台に半僧房がある。桜、紅葉の名所でもある。天園ハイキングコースの登山口の1つでもある

    建長寺山門 北鎌倉駅を出発し鎌倉街道を南に行き、20分弱で建長寺に到着。臨済宗建長寺派の大本山、鎌倉五山の第、1253年創建、開基は北条時頼、開山は蘭渓道隆。本尊は地蔵菩薩像です。天下門を潜り、総門で入山料を払う。山門、仏殿、法堂、庫裏の壮大な伽藍が一直線に並ぶ。法堂天井には雲竜図が描かれている。仏殿内には千躰地蔵と共に地蔵菩薩が祀られている。山門の右手に鐘楼、大庫裏の北に得月楼、唐門の北に方丈と庭園がある。石段を暫く登ると、高台に半僧房がある。桜、紅葉の名所でもある。天園ハイキングコースの登山口の1つでもある

  • 半僧房への急登り石段 半僧房への急な石段を登ります。天狗像が十体ほど見られます

    半僧房への急登り石段 半僧房への急な石段を登ります。天狗像が十体ほど見られます

  • 富士見台からの富士山 数回ここに来ていますが、初めてこの富士見台から富士山を見ることが出来ました

    富士見台からの富士山 数回ここに来ていますが、初めてこの富士見台から富士山を見ることが出来ました

  • 富士見台からの富士山拡大写真 前の写真では富士山が小さいので、望遠で写真撮影しました

    富士見台からの富士山拡大写真 前の写真では富士山が小さいので、望遠で写真撮影しました

  • 十王岩 神奈川景勝五十選に指定されている絶好のビューポイントで、若宮大路、相模湾、横浜方面が見られます。またかなり風化の進んだ岩があり、岩には三体の仏像(如意輪観音、血盆地蔵、閻魔大王)が彫られています

    十王岩 神奈川景勝五十選に指定されている絶好のビューポイントで、若宮大路、相模湾、横浜方面が見られます。またかなり風化の進んだ岩があり、岩には三体の仏像(如意輪観音、血盆地蔵、閻魔大王)が彫られています

  • ロープのある短い急下り 短いですが、ロープのある岩急下りです。本日は乾燥していて滑りませんが、雨等で濡れていた場合は、滑りやすく慎重に降りるように気を付けましょう

    ロープのある短い急下り 短いですが、ロープのある岩急下りです。本日は乾燥していて滑りませんが、雨等で濡れていた場合は、滑りやすく慎重に降りるように気を付けましょう

  • 分岐を右へ この分岐は右へ下る。正面に小さな標識(天園)があるので、見落とさないように。万一見落とし、直進した場合でも、今泉台六丁目団地に降り、団地を左手に見て、右へ100M程回り込むと、今泉台六丁目公園があり、ここに今泉台六丁目公園登山口があるので、登り返せば今泉台六丁目分岐に着きます

    分岐を右へ この分岐は右へ下る。正面に小さな標識(天園)があるので、見落とさないように。万一見落とし、直進した場合でも、今泉台六丁目団地に降り、団地を左手に見て、右へ100M程回り込むと、今泉台六丁目公園があり、ここに今泉台六丁目公園登山口があるので、登り返せば今泉台六丁目分岐に着きます

  • 今泉台六丁目分岐 左は今泉台六丁目公園登山口へ(建長寺や瑞泉寺登山口より天園までの標高差は少ない)、右は覚園寺へ(前回はこちらに降りました)、今回は直進して天園経由で瑞泉寺に降ります

    今泉台六丁目分岐 左は今泉台六丁目公園登山口へ(建長寺や瑞泉寺登山口より天園までの標高差は少ない)、右は覚園寺へ(前回はこちらに降りました)、今回は直進して天園経由で瑞泉寺に降ります

  • 少し急な登り 数少ない少し急登りの山道ですが数分続きます

    少し急な登り 数少ない少し急登りの山道ですが数分続きます

  • 大平山山頂 標高194.2Mで鎌倉市の最高点です。ゴルフ場とそのクラブハウスが見えます

    大平山山頂 標高194.2Mで鎌倉市の最高点です。ゴルフ場とそのクラブハウスが見えます

  • 天園 歩き始めて2時間15分、天園に到着。横浜市の最高点(標高159.4M)です。ここに峠の茶屋があったのですが、2016年に取り壊されました。眺望が良く稲村ケ崎も見えます。10分ほど休憩して、出発。瑞泉寺方面(南)に急下ります

    天園 歩き始めて2時間15分、天園に到着。横浜市の最高点(標高159.4M)です。ここに峠の茶屋があったのですが、2016年に取り壊されました。眺望が良く稲村ケ崎も見えます。10分ほど休憩して、出発。瑞泉寺方面(南)に急下ります

  • 分岐を左の瑞泉寺へ 天園から3分程で分岐に着き本日は左の瑞泉寺に向かいます。右は獅子舞谷経由永福寺跡登山口に降ります(前々回はこちらに降りました)

    分岐を左の瑞泉寺へ 天園から3分程で分岐に着き本日は左の瑞泉寺に向かいます。右は獅子舞谷経由永福寺跡登山口に降ります(前々回はこちらに降りました)

  • 歩き易い登山道 先ほどの瑞泉寺への分岐から、瑞泉寺登山口まで、足にやさしい、土の歩き易い道が続きます

    歩き易い登山道 先ほどの瑞泉寺への分岐から、瑞泉寺登山口まで、足にやさしい、土の歩き易い道が続きます

  • 瑞泉寺登山口 天園ハイキングコース登山口は公式・非公式併せて二十数か所あるようです。もっとポピュラーなコースは建長寺から登って覚園寺に、獅子舞谷に、永福寺入口にまたは瑞泉寺に降りるコースです。登山口から2分程坂を下ると瑞泉寺に到着します

    瑞泉寺登山口 天園ハイキングコース登山口は公式・非公式併せて二十数か所あるようです。もっとポピュラーなコースは建長寺から登って覚園寺に、獅子舞谷に、永福寺入口にまたは瑞泉寺に降りるコースです。登山口から2分程坂を下ると瑞泉寺に到着します

  • 瑞泉寺本堂 臨済宗円覚寺派の一寺、創建は1327年、開基は二階堂道蘊、開山は夢想礎石、本尊は釈迦如来です。総門の横を通り、受付で200円を払い、参道を進む。左手に梅園(庭園)、女坂を登る。石段を登ると山門、山門右手前に&#24487;界一覧亭復興碑(夢窓礎石の草創で五山文学発祥の地と伝える)の石柱が、左手前には吉田松陰留跡碑が建っている。山門を通ると、右に南芳庵、庫裏、左手に鐘楼、左正面に庭園と本堂、その手前に黄梅、左奥に開山堂と地蔵堂がある。庭園には1月ミツマタ、蝋梅、十月桜、水仙が咲いている。本堂裏には岩盤を削って作られた夢窓礎石作の庭園がある。また境内には文人(山崎方代、大宅壮一、久保田万太郎、吉野秀雄)等の文学碑や歌碑が建っている。12月に紅葉を見に行ったが人が多く落ち着いて見られない(京都も人出は多いが、寺数、木数が多いので人が分散されて見るに値する)

    瑞泉寺本堂 臨済宗円覚寺派の一寺、創建は1327年、開基は二階堂道蘊、開山は夢想礎石、本尊は釈迦如来です。総門の横を通り、受付で200円を払い、参道を進む。左手に梅園(庭園)、女坂を登る。石段を登ると山門、山門右手前に徧界一覧亭復興碑(夢窓礎石の草創で五山文学発祥の地と伝える)の石柱が、左手前には吉田松陰留跡碑が建っている。山門を通ると、右に南芳庵、庫裏、左手に鐘楼、左正面に庭園と本堂、その手前に黄梅、左奥に開山堂と地蔵堂がある。庭園には1月ミツマタ、蝋梅、十月桜、水仙が咲いている。本堂裏には岩盤を削って作られた夢窓礎石作の庭園がある。また境内には文人(山崎方代、大宅壮一、久保田万太郎、吉野秀雄)等の文学碑や歌碑が建っている。12月に紅葉を見に行ったが人が多く落ち着いて見られない(京都も人出は多いが、寺数、木数が多いので人が分散されて見るに値する)

  • 瑞泉寺庭園 本堂裏には国名称庭園に指定された岩盤を削って作られた夢窓礎石作の庭園(手前池が貯清池、正面が天女洞、右奥が葆光窟)がある

    瑞泉寺庭園 本堂裏には国名称庭園に指定された岩盤を削って作られた夢窓礎石作の庭園(手前池が貯清池、正面が天女洞、右奥が葆光窟)がある

  • 永福寺跡 瑞泉寺から西へ5分程行った処にあります。国指定史跡です。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後、源義経、藤原泰衡、数万人の将兵の鎮魂のために、中尊寺の二階堂(大長寿院)を模倣した大伽藍の永福寺を建てました。発掘調査の結果、阿弥陀堂、二階堂(二階建てから二階堂と言われる)、薬師堂、池、橋、庭園の配置が明らかになり、盛土をして遺跡を保護し、その上に基壇、礎石を再現しています

    永福寺跡 瑞泉寺から西へ5分程行った処にあります。国指定史跡です。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後、源義経、藤原泰衡、数万人の将兵の鎮魂のために、中尊寺の二階堂(大長寿院)を模倣した大伽藍の永福寺を建てました。発掘調査の結果、阿弥陀堂、二階堂(二階建てから二階堂と言われる)、薬師堂、池、橋、庭園の配置が明らかになり、盛土をして遺跡を保護し、その上に基壇、礎石を再現しています

  • 永福寺跡 瑞泉寺から西へ5分程行った処にあります。国指定史跡です。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後、源義経、藤原泰衡、数万人の将兵の鎮魂のために、中尊寺の二階堂(大長寿院)を模倣した大伽藍の永福寺を建てました。発掘調査の結果、阿弥陀堂、二階堂(二階建てから二階堂と言われる)、薬師堂、池、橋、庭園の配置が明らかになり、盛土をして遺跡を保護し、その上に基壇、礎石を再現しています

    永福寺跡 瑞泉寺から西へ5分程行った処にあります。国指定史跡です。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後、源義経、藤原泰衡、数万人の将兵の鎮魂のために、中尊寺の二階堂(大長寿院)を模倣した大伽藍の永福寺を建てました。発掘調査の結果、阿弥陀堂、二階堂(二階建てから二階堂と言われる)、薬師堂、池、橋、庭園の配置が明らかになり、盛土をして遺跡を保護し、その上に基壇、礎石を再現しています

  • 鎌倉宮河津桜 創建は1869年、主祭神は大塔宮護良親王です。本殿後方に護良親王が幽閉されていたという土牢があります。オオシマザクラと寒緋桜の交配でできた早咲きの河津桜が鳥居前で一対開花していました。鎌倉宮鳥居を後ろにして、バス道を南西に進み、信号岐れ道の手前の道を南に、金沢街道沿いにある関取場跡に到着

    鎌倉宮河津桜 創建は1869年、主祭神は大塔宮護良親王です。本殿後方に護良親王が幽閉されていたという土牢があります。オオシマザクラと寒緋桜の交配でできた早咲きの河津桜が鳥居前で一対開花していました。鎌倉宮鳥居を後ろにして、バス道を南西に進み、信号岐れ道の手前の道を南に、金沢街道沿いにある関取場跡に到着

  • 関取場跡 北条氏康の時代ここに関所を設け、商人やお参り客から通行税を徴収し、荏柄天神社社殿の造立に充てていた(僧侶や庶民から徴収していない)。金沢街道を横切り、滑川にかかる大御堂橋を渡り、文覚上人屋敷跡に到着

    関取場跡 北条氏康の時代ここに関所を設け、商人やお参り客から通行税を徴収し、荏柄天神社社殿の造立に充てていた(僧侶や庶民から徴収していない)。金沢街道を横切り、滑川にかかる大御堂橋を渡り、文覚上人屋敷跡に到着

  • 文覚上人屋敷跡 文覚上人は鳥羽上皇に仕える北面の武士で、出家して文覚上人となり、その後伊豆に流罪になり、源頼朝と仲良くなる。Y字路の中央に建つ碑を正面に見て、左手方向に進むと勝長寿院跡碑が建つ

    文覚上人屋敷跡 文覚上人は鳥羽上皇に仕える北面の武士で、出家して文覚上人となり、その後伊豆に流罪になり、源頼朝と仲良くなる。Y字路の中央に建つ碑を正面に見て、左手方向に進むと勝長寿院跡碑が建つ

  • 勝長寿院跡碑 1184年、源頼朝が父源義朝と義朝の重臣鎌田政家の菩提を弔うために建てた寺が勝長寿院です。鎌倉三大寺社と言われるほどの寺であったが十六世紀ごろ廃寺となる。碑のすぐわきに、源義朝と鎌田政家の墓があります

    勝長寿院跡碑 1184年、源頼朝が父源義朝と義朝の重臣鎌田政家の菩提を弔うために建てた寺が勝長寿院です。鎌倉三大寺社と言われるほどの寺であったが十六世紀ごろ廃寺となる。碑のすぐわきに、源義朝と鎌田政家の墓があります

  • 源義朝と鎌田政家の墓 源頼朝の父源義朝と義朝の重臣鎌田政家の墓があります。義朝は平治の乱で平清盛と戦い、敗走、今の愛知県で襲撃され殺害される。北に向かい、白旗神社に向かう

    源義朝と鎌田政家の墓 源頼朝の父源義朝と義朝の重臣鎌田政家の墓があります。義朝は平治の乱で平清盛と戦い、敗走、今の愛知県で襲撃され殺害される。北に向かい、白旗神社に向かう

  • 白旗神社鳥居と社殿 頼朝没後ここに法華堂が建てられ、そのご白旗神社(源氏の白旗に由来)と改められる。石段を登ると頼朝の墓があります

    白旗神社鳥居と社殿 頼朝没後ここに法華堂が建てられ、そのご白旗神社(源氏の白旗に由来)と改められる。石段を登ると頼朝の墓があります

  • 源頼朝の墓 白旗神社から更に50段ほど石段を登ると源頼朝の墓があります。源頼朝の幕府の北隅で頼朝が観音像を持仏堂に安置していました。頼朝没後、法華堂(行を行う仏堂または納骨堂を指す)がここに建てられ祭祀が行われました

    源頼朝の墓 白旗神社から更に50段ほど石段を登ると源頼朝の墓があります。源頼朝の幕府の北隅で頼朝が観音像を持仏堂に安置していました。頼朝没後、法華堂(行を行う仏堂または納骨堂を指す)がここに建てられ祭祀が行われました

  • お堂跡 頼朝の墓から少し東の処に、鎌倉幕府第二代執権北条義時の新法華堂(源頼朝の法華堂の後に建った法華堂)が建っていたところがあります。法華堂とは法華三昧の行を行う場所または貴族や皇族の墓所に建てられる堂のことを言います。ここでいう法華堂は後者をさします。発掘調査の結果、礎石を据えていた痕跡が発見され、瓦葺屋根の法華堂が建っていたことが分かりました。写真の木杭は柱の位置を示しています

    お堂跡 頼朝の墓から少し東の処に、鎌倉幕府第二代執権北条義時の新法華堂(源頼朝の法華堂の後に建った法華堂)が建っていたところがあります。法華堂とは法華三昧の行を行う場所または貴族や皇族の墓所に建てられる堂のことを言います。ここでいう法華堂は後者をさします。発掘調査の結果、礎石を据えていた痕跡が発見され、瓦葺屋根の法華堂が建っていたことが分かりました。写真の木杭は柱の位置を示しています

  • 三浦泰村一族の墓 新法華堂が建っていたところの、石段の手前のやぐら(鎌倉周辺で多く見られ横穴式の納骨窟または供養堂)は三浦康村一族の墓と言われています。三浦泰村は三浦家初代忠通から数えて七代目(六代目義村の子)当主で、鎌倉第五代執権北条時頼との宝治合戦で敗れ、ここに葬られる

    三浦泰村一族の墓 新法華堂が建っていたところの、石段の手前のやぐら(鎌倉周辺で多く見られ横穴式の納骨窟または供養堂)は三浦康村一族の墓と言われています。三浦泰村は三浦家初代忠通から数えて七代目(六代目義村の子)当主で、鎌倉第五代執権北条時頼との宝治合戦で敗れ、ここに葬られる

  • 大江広元の墓 ここも法華堂跡の史跡に含まれているようです。墓は北條義時の新法華堂広場から100段余の石段を登り切ったところにあります。三基並ぶ中央が大江広元の墓で、広元の四男で長州藩毛利氏の祖となる毛利季光の子孫毛利斎煕が建立しました。広元は公家出身で、鎌倉幕府初代政所別当(長官)を務め、源頼朝の側近として鎌倉幕府創設に貢献する

    大江広元の墓 ここも法華堂跡の史跡に含まれているようです。墓は北條義時の新法華堂広場から100段余の石段を登り切ったところにあります。三基並ぶ中央が大江広元の墓で、広元の四男で長州藩毛利氏の祖となる毛利季光の子孫毛利斎煕が建立しました。広元は公家出身で、鎌倉幕府初代政所別当(長官)を務め、源頼朝の側近として鎌倉幕府創設に貢献する

  • 毛利季光の墓 三基並ぶ左端が大江広元の四男で後の毛利氏の祖となる毛利季光の墓です。宝治合戦では三浦泰村側に付いて敗れ法華堂で自刃したと言われています

    毛利季光の墓 三基並ぶ左端が大江広元の四男で後の毛利氏の祖となる毛利季光の墓です。宝治合戦では三浦泰村側に付いて敗れ法華堂で自刃したと言われています

  • 島津忠久の墓 右端は薩摩藩島津氏の祖となる島津忠久の墓です。忠久の祖母が源頼朝の乳母であったところから、鎌倉幕府の御家人として頼朝に重用され活躍する。忠久の子孫島津重豪が初代忠久の墓を造営する

    島津忠久の墓 右端は薩摩藩島津氏の祖となる島津忠久の墓です。忠久の祖母が源頼朝の乳母であったところから、鎌倉幕府の御家人として頼朝に重用され活躍する。忠久の子孫島津重豪が初代忠久の墓を造営する

  • 西御門跡碑 源頼朝が開いた鎌倉大蔵幕府に4か所の門があり、その内の一つで横浜国大付属小中学校の南側フェンス際に建っています。フェンス沿いの道を北に進むと来迎寺(西御門)に到着します

    西御門跡碑 源頼朝が開いた鎌倉大蔵幕府に4か所の門があり、その内の一つで横浜国大付属小中学校の南側フェンス際に建っています。フェンス沿いの道を北に進むと来迎寺(西御門)に到着します

  • 大平寺跡碑 来迎寺の石段下に建っています。源頼朝が池禅尼の昔の恩義に報いるために建てた尼寺と言われています。十六世紀前半に廃寺になっています。池禅尼は平清盛の継母で、頼朝の父義朝が平治の乱で敗れた際、頼朝も殺されるはずであったが、池禅尼の命乞いにより、頼朝は伊豆流罪となる

    大平寺跡碑 来迎寺の石段下に建っています。源頼朝が池禅尼の昔の恩義に報いるために建てた尼寺と言われています。十六世紀前半に廃寺になっています。池禅尼は平清盛の継母で、頼朝の父義朝が平治の乱で敗れた際、頼朝も殺されるはずであったが、池禅尼の命乞いにより、頼朝は伊豆流罪となる

  • 来迎寺(西御門)本堂 時宗の一寺、創建は1293年、開山は一向上人、本尊は阿弥陀如来坐像です。石段を登り、山門を通ると正面に本堂があります

    来迎寺(西御門)本堂 時宗の一寺、創建は1293年、開山は一向上人、本尊は阿弥陀如来坐像です。石段を登り、山門を通ると正面に本堂があります

  • 西御門八雲甚神社社殿 来迎寺石段下の直ぐ北側にあります。創建は不詳、ご祭神は須佐之男命です。鳥居を潜ると、1832年建立の社殿があります。この後鶴岡八幡宮に向かいます

    西御門八雲甚神社社殿 来迎寺石段下の直ぐ北側にあります。創建は不詳、ご祭神は須佐之男命です。鳥居を潜ると、1832年建立の社殿があります。この後鶴岡八幡宮に向かいます

  • 正一位稲荷社 鶴岡八幡宮の南東角(境外)にあります。築山稲荷社という名の方が有名です。創建は不詳、1857年に正一位稲荷大明神の神号を与えられる。御祭神は倉稲魂神です。鳥居と社殿の神社です。次に鶴岡八幡宮三の鳥居から境内に入る

    正一位稲荷社 鶴岡八幡宮の南東角(境外)にあります。築山稲荷社という名の方が有名です。創建は不詳、1857年に正一位稲荷大明神の神号を与えられる。御祭神は倉稲魂神です。鳥居と社殿の神社です。次に鶴岡八幡宮三の鳥居から境内に入る

  • 境内社白旗神社本殿 創建は1200年、創建者は源頼朝の妻政子または鎌倉第二代将軍源頼家といわれています。御祭神は源頼朝、源実朝です。鳥居を潜ると少し長い参道先に長さの長い向拝を付けた本殿があります

    境内社白旗神社本殿 創建は1200年、創建者は源頼朝の妻政子または鎌倉第二代将軍源頼家といわれています。御祭神は源頼朝、源実朝です。鳥居を潜ると少し長い参道先に長さの長い向拝を付けた本殿があります

  • 鶴岡八幡宮若宮 鶴岡八幡宮は1063年創建、 祭神は応神天皇、比売神、神宮皇后で、武家源氏の守護神です。一の鳥居が一番南側に有り、次に二の鳥居、参道若宮大路の中央の一段高い道を段葛がある。三の鳥居をくぐると太鼓橋、右に源氏池と旗上弁財天社、政子石、左に平家池、まっすぐ進むと舞殿その先に石段、石段の左に昔大銀杏があった(平成22年に倒れる)。現在二代目銀杏が育っている。石段の右手に若宮、境内社白幡神社、左手には境内社丸山稲荷社、祖霊社、石段を登りきったところに本宮がある。若宮は本宮に当たる上宮に対する下宮ともいわれ、建物は拝殿に広い向拝が付いているのが特徴で、国の重要文化財に指定されています

    鶴岡八幡宮若宮 鶴岡八幡宮は1063年創建、 祭神は応神天皇、比売神、神宮皇后で、武家源氏の守護神です。一の鳥居が一番南側に有り、次に二の鳥居、参道若宮大路の中央の一段高い道を段葛がある。三の鳥居をくぐると太鼓橋、右に源氏池と旗上弁財天社、政子石、左に平家池、まっすぐ進むと舞殿その先に石段、石段の左に昔大銀杏があった(平成22年に倒れる)。現在二代目銀杏が育っている。石段の右手に若宮、境内社白幡神社、左手には境内社丸山稲荷社、祖霊社、石段を登りきったところに本宮がある。若宮は本宮に当たる上宮に対する下宮ともいわれ、建物は拝殿に広い向拝が付いているのが特徴で、国の重要文化財に指定されています

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