2023/01/20 - 2023/01/20
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zenkyou01さん
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小田原散策(1)・小田原城総構え 神奈川県小田原市 最高点・小峰御鐘ノ台大堀切(標高104M)(標高差100M弱) 全行程4時間32分 小田原駅~(法授寺・谷津神山遺跡30分)総構城下張出(7分)~(15分)山の神堀切(6分)~ (8分) 稲荷森堀(3分)~(10分)小峰御鐘ノ台大堀切西堀(37分昼食を含む)~(10分)小峰御鐘ノ台大堀切東堀(4分)~(13分)三の丸外郭新堀土塁(9分)~(31分)早川口遺構二重戸張(4分)~(40分)小田原城(31分)~(14分)小田原駅
「日時」2023年1月20日
「アクセス」JR東海道線小田原駅
「参考案内書」小田原魅力向上委員会発行「はじめての総構」、小田原市発行「白秋童謡の散歩道を歩こう」
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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小田原駅観光案内所 JR小田原駅改札口を出ると、正面にある観光案内所です。入って小田原城総構の観光マップを貰い出発する
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北条早雲銅像 駅西口の正面に建っています。十六世紀、関東の覇者となった後北条氏の初代です。筆者が子供のころ、早雲は一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型と本に書いてありましたが、現在では室町幕府の要職を務めた伊勢氏の支流出身であることが通説となる。本名は伊勢新九郎盛時(長氏)で、盛時死後、北条第二代氏綱の時代に、北条早雲と名付けられたようです。1590年、北条氏が豊臣秀吉に敗れるまで、小田原城を主城として、北条氏綱・氏康・氏政・氏直と五代続く
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北原白秋が歩いた散歩道の始まり 案内板が小田原駅西口交差点の一角に建っています。白秋は大正年間小田原で暮らし、この辺りを散歩して詩歌を作りました。「赤い鳥小鳥」「待ちぼうけ」「ペチカ」「ゆりかごの歌」「砂山」等の歌詞を書いた看板が4kmの散歩道に建っています
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このような看板が建つ 最初は「赤い鳥、小鳥、なぜなぜ赤い、赤い実を食べた。白い鳥、小鳥・・・・・」で始まります
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法授寺本堂 日蓮宗の一寺、創建は1332年、開山は日実和尚、本尊は三宝諸尊です。山門は無く、石段を登ると正面にコンクリート製本堂があります
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谷津山神遺跡説明版 城下張出しと山の神堀切の中間部にある遺跡です。遺跡から凝灰岩製の礫器が出土している。地層から推定して18,000年前(旧石器時代)のものと推測されています
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総構城下張出し 小田原城総構というのは、豊臣秀吉の攻撃に備えるために、小田原城を中心として周囲9Kmに渡り、堀と土塁で囲むものです。城構の中には武士はもちろんのこと、領民の居住や田畑も含み、戦国時代最大の城郭でした。難攻不落の城でした。総構の防御施設として写真のような張出しと呼ばれる、平場があります。落城までに3カ月を要しました
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総構城下張出しを囲う堀 撮影位置が張出し部です。城下張出しとは総構えのラインから張り出す形で、四角く突出させた部分を城下張出しと呼んでいます。堀を登って来て総構えに取りつく敵兵を正面や横から攻撃をしかけることが出来ます(横矢掛りと呼ぶ)
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山の神堀切 総構の北にある谷津丘陵の尾根歩きを困難にするために設けられた堀切です。当時は現在より深い堀であったことが予想されます。堀切の先は深い堀になっています。小田原城の北側を守る重要な施設であったことがわかります
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稲荷森の堀 良好な遺構が残っています。地形に沿った曲がりくねった堀です。中央が堀、左がかき揚土塁(掘った土を盛り上げて造った土塁)、右も土塁です
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小峰御鐘ノ台大堀切西堀 本丸に続く八幡山の尾根を分断するために構築された施設です。城山公園にある慰霊塔近くにある東堀、今は散策路になっている中堀、一番西にある西堀の三本で構成されています。西堀は1590年の豊臣秀吉との小田原合戦に供えて、作られました
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大山、塔ノ岳 西堀の土塁の上から丹沢山系の大山や塔ノ岳が見えます
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小峰御鐘ノ台大堀切中堀を歩く 東堀と西堀の間にあり、今は散策路の一部になっています
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小峰御鐘ノ台大堀切東堀 中堀から続く堀切で、当時の様子が最もよく残っている堀切です。堀幅は20~30M、堀深さは10~15M、のり面角度50~60度で圧巻です
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東堀土塁 堀を掘って積み上げたかき揚土塁で、2M、幅4M程の土塁ですが、反対側の堀の深さから推測すると、昔はもっと高い土塁が想像される
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城山公園慰霊塔 面積1ヘクタールの、慰霊塔、陸上競技場、テニスコート、散策路、文学碑等がある市立公園です。桜の名所でもあります
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八幡山周辺の原始・古代遺跡 現在城山公園辺りから南にかけて、石器時代の石器、縄文時代の集石、弥生時代の住居跡等が出土しています。小田原城時代より古い古代の集落がありました
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左石垣山、遠く箱根連山 三の丸平場から左下には、豊臣秀吉が陣を張った石垣山、遠くには双子山を始めとする箱根連山が見えます
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三の丸外郭新堀土塁 1587年(小田原城落城3年前)には存在していた堀で、総構が出来るまでは小田原城の外郭線でした。発掘調査の結果では、この堀は北条氏築城に良く採用される障子堀になっている
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玉伝寺本堂 法華宗単立寺院、創建は1522年、開基は宇野藤右衛門定治、開山は宝聚院日伝和尚、本尊は三宝四菩薩諸尊及祖師です。山門を通ると、正面に本堂、その他玉伝稲荷社があります
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天神山古墳 山角天神社辺り一帯の発掘調査の結果、縄文時代の住居跡、縄文時代後期の砂利敷き住居跡、土器、石器、七世紀の古墳の石室等が発見されています
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早川口遺構二重堀と二重土塁(二重戸張) 土塁(写真中央の山と写真左手の盛り上がり)と一本の堀は分かりますが、堀が二重に見えません。右の道がまたは左の石垣の左手にもう一本があるのでしょうか
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山角天神社鳥居 創建年は不詳、御祭神は菅原道真です。鳥居を潜り石段を登ると正面に拝殿、その他芭蕉句碑、境内社があります
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対潮閣跡 商船三井の前身山下汽船の創業者山下亀三郎の別邸があった所です。同郷で、日露戦争で活躍した海軍中将秋山真之(司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の主人公の一人)とここで国防論について語り合っていましたが、秋山真之はこの対潮閣で亡くなる
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箱根口門跡 小田原城の三の丸に入る三つ(幸田門、大手門)の堅固な門の一つで、南側の門で、枡形門を形成しているようです。櫓門の石垣と土塁が残っています
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住吉橋と銅門 正面の橋は住吉橋、右は一の門の内仕切り門、左の上は二の門で櫓門の銅門です。この二つの門の正面は直交していて枡形虎口を形成しています
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旧小田原城の遺構 住吉堀を発掘調査した結果、旧小田原城(北条氏の城)の障子堀、江戸時代初期の障子堀や野面積みの石垣が発見されました
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銅門の渡櫓門 二の丸の表門で、明治5年に解体され、平成9年に復元されました。櫓門の鏡柱や門扉に耐火を兼ねた銅板が装飾されているところからこの名が付きました
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河津桜 花弁5枚、花弁の色は淡紅紫色、開花期は2月下旬~3月上旬、オオシマザクラとカンヒザクラの交雑種です。城内に数本咲いていました
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常盤木門渡櫓門 江戸時代初期のころから設けられていた門で、大きくて堅固な本丸への正門です。渡櫓と多聞楼で構成される枡形門形式です。明治3年に解体されましたが、昭和46年に再建されました。石垣は江戸時代にはポピュラーな打ち込み接ぎで、角は算木積みになっています
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本丸跡と天守閣 本丸には正門にあたる常盤木門と北側の鉄門がありました。本丸には天守閣と本丸御殿がありました。本丸御殿は、本来城主の住まいですが、小田原城では徳川将軍の宿所の役割を担っていました。1703年の地震により倒壊後再建されていません。天守閣については明治3年に解体 、昭和35年に再建されました
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