![今回の旅の最終日、京都の二日目は、久しぶりの安楽寺、白沙村荘橋本関雪記念館、長楽館ほか。昨日の雨模様から一転、好天となってまぶしい緑の中の観光となりました。桜の季節や紅葉の季節もいいですが、この新緑の季節もそれに劣らずいいものです。時間にも余裕を持たせているし、ゆったりした気分。前日の伝統工芸探求の京都で少し落ち着いたこともあるし、今回は京都を改めてしっかり味わいたいという思いからするとまたいい一日となったように思います。<br /><br />例によって、京都の魅力という視点からそれぞれを少しコメントしたいところなのですが、長くなりそうなので、取りあえず安楽寺に触れて、イントロにしたいと思います。<br />安楽寺は、公開時期が限られるのですが、やはり中に入って見ないことには話しにならないですよね。客殿に掛かっているのは、鈴虫・松虫の落飾の掛け軸。後鳥羽上皇の寵愛を受けていた女官の松虫・鈴虫が、熊野参詣で上皇が留守の間に出家してしまうという事件。後鳥羽上皇の逆鱗に触れたことで、二女を剃髪した法然の弟子、住蓮と安楽は死罪。法然も流罪となってしまいますが、背景には比叡山を始めとする守旧派の圧力もあったことは間違いありません。というのも、比叡山から生まれた浄土宗は阿弥陀仏を信仰する専修念仏を基本とする宗教ですが、しかし、比叡山ではそもそも最澄からして常行三昧という念仏の行を取り入れていましたし、既に源信の往生要集でも極楽往生のためには念仏しかないと説いてもいましたから、念仏は特段目新しいものではなかったはず。そのような中でなぜ法然の説く念仏がこうした事件を引き起こすほど人々の心に刺さるのか。訝しむ声が大きくなっていたのです。阿弥陀信仰なんてもともと教義としては稚拙なものですが、私はそれは法然が最澄の基本であった大乗仏教の「すべての衆生を救う」という思想を徹底していたからではないかと思います。親鸞の歎異抄にある「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」はあまりにも有名な一節ですが、これが浄土宗や浄土真宗的な大乗仏教の考え方の基本。最澄は天台宗を開くにあたって、この大乗仏教を朝廷に認めさせるため奈良仏教と激しく対立することになりますが、奈良仏教界からすると誰でも救われるとする考え方だとそれなら厳しい修行の意味はどうなるのかという大きな疑問があって、最澄の主張に対し譲れない一線があったことは分からないでもないのですね。結局、すべての衆生が救われるが、何度か生まれ変わって救われる人もいるという折衷案によって、戒壇の権利を得るというのが最澄の限界でした。法然は、朝廷への配慮などは考えていませんから、ある意味ではその限界を打ち破り、やっと大衆仏教への脱皮に成功したと評価していいのではないかと思います。ただ、その道も決して平たんではなく、悪行をしても念仏さえ唱えれば許されるといった間違った受け止めが横行したりして、そこを苦労してやっと行き着いた先が自然法爾。すべてをゆだねよという境地は浄土真宗を開いた親鸞の時代になって形になったものですから、そう簡単でもないですね。<br />こうした鎌倉仏教の流れは浄土宗だけでなく、日蓮宗や禅宗などでも同じなのですが、敢えて言うとそれは知から行への回帰。天台宗も含めてそれまでの仏教を顕教として批判した空海の主張も少し近いところがあったかもしれませんが、たぶん、意外に大きいのは日本古来の山岳仏教からの影響かな。そして、それは大きなパワーを生んだのですが、反面、その後、日本の仏教界においては教義の発展への意欲は弱まり停滞することに。また、日常規範の中での儒教の浸透から、仏教が相対的な位置づけとなってしまったことも否めないことだと思います。 <br />ちょっと蛇足ですが、儒教のこと。日本人は儒教なんてあまり意識していないと思われていますが、実は生活規範としてけっこう深く浸透しています。江戸時代、幕府が奨励していたのは朱子学ですが、そんなことよりも本当に影響があったのは寺子屋の普及というか識字率の向上。「子曰く。。」寺子屋では孔子の論語が教科書。字を習うことはそのまま儒教の考え方に触れることになる構図があって、子供の頃から音読することで難しく考えなくても、ごくありふれたものとして儒教の考え方が浸透していったのだと思います。実はそうしたベースがないと近松門左衛門の義理と人情の世界は世の中の喝采を受けることはなかったし、幕末だと「性即理」か「心即理」か。「心即理」は仏教でいうところの本覚思想とよく似ている面があると思うのですが、仏教の世界観で説かれるのと違って、儒教の世界観で説かれると現実感があって深く理解したような気持ちになったのかな。維新の志士たちの心を熱く震わせました。少し飛躍しますけど、中国の文化遺産の最大のものはたぶん漢字ですね。表音文字だったヒエログリフが歴史のかなたに消えていったのに対して、表意文字である漢字は色あせることがない。王義之は神だし、漢字のメッセージ力の強さは中華思想の核心を担っているようなところもありますね。戦後、GHQの政策により漢詩が隅に追いやられたことは返す返すも残念。結果として、中国の歴史と文化が遠いものになってしまったのはとても大きな損失ではないかと思います。杜甫の詠んだ”春望”、「国破れて山河在り。城春にして草木深し。時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす。」韓国は漢字を捨ててしまいましたし、この素晴らしさがストレートに分かるのは、中国人のほかは日本人だけかも。それをおろそかにするなんて、そんなもったいないことはないですよ~<br /><br />松虫・鈴虫から思いを起こすとたびたび的にはこんなことにもなるのですが、それはこれまでいろんな示唆を与えてくれた京都の中に身を置くからこそ。ほか、久しぶりの白沙村荘橋本関雪記念館、長楽館も京都らしい魅力があって素晴らしいし、やっぱり京都はたびたびの原点。これからもそれは変わらないと思います。](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/11/88/13/650x_11881330.jpg?updated_at=1717155523)
2023/06/03 - 2023/06/03
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今回の旅の最終日、京都の二日目は、久しぶりの安楽寺、白沙村荘橋本関雪記念館、長楽館ほか。昨日の雨模様から一転、好天となってまぶしい緑の中の観光となりました。桜の季節や紅葉の季節もいいですが、この新緑の季節もそれに劣らずいいものです。時間にも余裕を持たせているし、ゆったりした気分。前日の伝統工芸探求の京都で少し落ち着いたこともあるし、今回は京都を改めてしっかり味わいたいという思いからするとまたいい一日となったように思います。
例によって、京都の魅力という視点からそれぞれを少しコメントしたいところなのですが、長くなりそうなので、取りあえず安楽寺に触れて、イントロにしたいと思います。
安楽寺は、公開時期が限られるのですが、やはり中に入って見ないことには話しにならないですよね。客殿に掛かっているのは、鈴虫・松虫の落飾の掛け軸。後鳥羽上皇の寵愛を受けていた女官の松虫・鈴虫が、熊野参詣で上皇が留守の間に出家してしまうという事件。後鳥羽上皇の逆鱗に触れたことで、二女を剃髪した法然の弟子、住蓮と安楽は死罪。法然も流罪となってしまいますが、背景には比叡山を始めとする守旧派の圧力もあったことは間違いありません。というのも、比叡山から生まれた浄土宗は阿弥陀仏を信仰する専修念仏を基本とする宗教ですが、しかし、比叡山ではそもそも最澄からして常行三昧という念仏の行を取り入れていましたし、既に源信の往生要集でも極楽往生のためには念仏しかないと説いてもいましたから、念仏は特段目新しいものではなかったはず。そのような中でなぜ法然の説く念仏がこうした事件を引き起こすほど人々の心に刺さるのか。訝しむ声が大きくなっていたのです。阿弥陀信仰なんてもともと教義としては稚拙なものですが、私はそれは法然が最澄の基本であった大乗仏教の「すべての衆生を救う」という思想を徹底していたからではないかと思います。親鸞の歎異抄にある「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」はあまりにも有名な一節ですが、これが浄土宗や浄土真宗的な大乗仏教の考え方の基本。最澄は天台宗を開くにあたって、この大乗仏教を朝廷に認めさせるため奈良仏教と激しく対立することになりますが、奈良仏教界からすると誰でも救われるとする考え方だとそれなら厳しい修行の意味はどうなるのかという大きな疑問があって、最澄の主張に対し譲れない一線があったことは分からないでもないのですね。結局、すべての衆生が救われるが、何度か生まれ変わって救われる人もいるという折衷案によって、戒壇の権利を得るというのが最澄の限界でした。法然は、朝廷への配慮などは考えていませんから、ある意味ではその限界を打ち破り、やっと大衆仏教への脱皮に成功したと評価していいのではないかと思います。ただ、その道も決して平たんではなく、悪行をしても念仏さえ唱えれば許されるといった間違った受け止めが横行したりして、そこを苦労してやっと行き着いた先が自然法爾。すべてをゆだねよという境地は浄土真宗を開いた親鸞の時代になって形になったものですから、そう簡単でもないですね。
こうした鎌倉仏教の流れは浄土宗だけでなく、日蓮宗や禅宗などでも同じなのですが、敢えて言うとそれは知から行への回帰。天台宗も含めてそれまでの仏教を顕教として批判した空海の主張も少し近いところがあったかもしれませんが、たぶん、意外に大きいのは日本古来の山岳仏教からの影響かな。そして、それは大きなパワーを生んだのですが、反面、その後、日本の仏教界においては教義の発展への意欲は弱まり停滞することに。また、日常規範の中での儒教の浸透から、仏教が相対的な位置づけとなってしまったことも否めないことだと思います。
ちょっと蛇足ですが、儒教のこと。日本人は儒教なんてあまり意識していないと思われていますが、実は生活規範としてけっこう深く浸透しています。江戸時代、幕府が奨励していたのは朱子学ですが、そんなことよりも本当に影響があったのは寺子屋の普及というか識字率の向上。「子曰く。。」寺子屋では孔子の論語が教科書。字を習うことはそのまま儒教の考え方に触れることになる構図があって、子供の頃から音読することで難しく考えなくても、ごくありふれたものとして儒教の考え方が浸透していったのだと思います。実はそうしたベースがないと近松門左衛門の義理と人情の世界は世の中の喝采を受けることはなかったし、幕末だと「性即理」か「心即理」か。「心即理」は仏教でいうところの本覚思想とよく似ている面があると思うのですが、仏教の世界観で説かれるのと違って、儒教の世界観で説かれると現実感があって深く理解したような気持ちになったのかな。維新の志士たちの心を熱く震わせました。少し飛躍しますけど、中国の文化遺産の最大のものはたぶん漢字ですね。表音文字だったヒエログリフが歴史のかなたに消えていったのに対して、表意文字である漢字は色あせることがない。王義之は神だし、漢字のメッセージ力の強さは中華思想の核心を担っているようなところもありますね。戦後、GHQの政策により漢詩が隅に追いやられたことは返す返すも残念。結果として、中国の歴史と文化が遠いものになってしまったのはとても大きな損失ではないかと思います。杜甫の詠んだ”春望”、「国破れて山河在り。城春にして草木深し。時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす。」韓国は漢字を捨ててしまいましたし、この素晴らしさがストレートに分かるのは、中国人のほかは日本人だけかも。それをおろそかにするなんて、そんなもったいないことはないですよ~
松虫・鈴虫から思いを起こすとたびたび的にはこんなことにもなるのですが、それはこれまでいろんな示唆を与えてくれた京都の中に身を置くからこそ。ほか、久しぶりの白沙村荘橋本関雪記念館、長楽館も京都らしい魅力があって素晴らしいし、やっぱり京都はたびたびの原点。これからもそれは変わらないと思います。
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今日はいい天気。朝飯は適当にパンをかじって済ませ、早々に出発です。
白川通りのバス停から真如堂の方への上り道を進みますが、吉田神社からの吉田山も含めて、京都市内だとけっこう歩きにくいエリア。白川通りを挟んだ向こう側は銀閣寺から南への哲学の道が通って、観光客が多いんですが、こっちは紅葉の季節以外は閑散です。
迎称寺は、遊行六代の一鎮上人が開いた時宗の寺。洛東第9番、萩の霊場です。 -
基本非公開なのですが、土塀に囲まれた境内は建物も含めてけっこう荒れていて、
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大丈夫かなあと心配になるくらい。
塀沿いに萩の花が植えられているのがせめてもの救いですね。 -
少し歩いて、陽成天皇 神楽岡東陵は、平安時代前期の第57代陽成天皇を葬る陵。周りは住宅が建っていて、規模としては小ぶりかな。
ちなみに、陽成天皇は、貞観18年(876年)、9歳で父の清和天皇から譲位されるという幼年天皇。小倉百人一首には「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる」の一首が残っています。 -
宗忠神社も、神楽岡東陵とほとんど同じ一角。
黒住教の教祖黒住宗忠を祀る神社です。 -
岡山にも立派な神社がありますが、京都にもあるんですね~というより、幕末に皇室や公家から厚い崇敬を受けたということのようですから、京都の方が活動の中心だったのかな。小山の上に鎮座していて、だらだらと参道を上った先に
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大きな拝殿があって、ちょっとインパクトがある構えです。
なお、人けはほとんどありません。 -
ここから安楽寺の方に向かいますが、歩き始めてすぐに後一条天皇 菩提樹院陵。
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イチオシ
傾斜地になっている地形なので、陵のために作った地形なのか、元々の地形なのかよく分からないところはありますが、一番低い場所から石段を上がったところが正面。よく手入れされている石の囲いがありました。
ちなみに、後一条天皇は、NHKの大河ドラマ「光る君へ」にも登場している藤原道長の外孫。藤原氏の絶頂期の象徴です。 -
安楽寺の開門時間まで少し時間があったので、久しぶりに近くの大豊神社にも寄ってみます。
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こちらは椿ヶ峰という名前にもあるとおり、古典椿の神社。枝垂梅もあるようですが、それよりも目立つのはやっぱり本殿に覆いかぶさるように葉を茂らせた枝垂れ桜。
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前回も驚きましたが、なかなかのインパクトですよね。
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また、狛犬ならぬ狛鼠も。「古事記」の中に野火の危機から鼠が救う神話があるそうで、これも神社の見どころのひとつとなっています。
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では、安楽寺の方へ。冒頭に申し上げましたが、通称は、松虫鈴虫寺。
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山門に至るこの穏やかな石段は見慣れた風景。しかし、公開日が限られるので、中に入るのは本当に久しぶり。たぶん10年以上ブランクが空いていたと思います。
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山門を入って境内へ。開門時間までは少しありましたが、もう係の人がいらっしゃっていて、どうぞと中に入れてもらいました。
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さてさて、新緑が美しい時期ですが、第一印象としては、正直、イマイチ手入れが行き届いていないような。もっと美しい寺というイメージだったんですけどね。
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ちょっと残念でしたが、やっぱり予算の関係もあってほかの観光の寺のように頻繁に業者を入れるということはできない。そこは限界があるのも仕方がないことなのかなと思います。
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では、客殿の方へ。
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縁側に敷いた緋毛氈の赤が部屋に映りこんでいて
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イチオシ
ちょっと独特の照り返しになっていますが、見ようによっては面白い雰囲気ですね。
床の間に掛けてある掛け軸は、例の鈴虫・松虫の落飾の掛け軸。前回お邪魔した時は、この絵の説明を詳しくしてもらいましたが、今はその必要はないでしょう。 -
一人で静かに眺めながら、冒頭のように思いをあれこれ巡らします。
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振り返ってみる控えの間の凛とした雰囲気や
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客殿から拝見する路地庭園も飛び石や
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サツキの刈込は確かな造り。
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反対側の渡り廊下越しに眺める本堂の方の景色も
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なんとも言えない快さがありますね。
たぶん、私の目もだんだん慣れてきたということかな~ -
本堂の方に移動して、
本堂から見る境内の眺めも確認。 -
イチオシ
そして、本堂内にある松虫・鈴虫と二女を剃髪した法然の弟子、住蓮と安楽の像。位牌のようなものかと思いますが、これも必見ですよね。
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最後に、松虫・鈴虫のお墓、供養塔もお参りして、終了です。
ちなみに、このそばには住蓮と安楽の墓もありまして、
辞世の句「極楽に生まれむことの うれしさに 身をば仏に まかすなりけり 住蓮」、 「今はただ 云う言の葉も なかりけり 南無阿弥陀仏の み名のほかには 安楽」を紹介しておきたいと思います。 -
安楽寺からは、銀閣寺まで歩きまして
銀閣寺は山門前をスルーして。ちょっとマイナースポットへ。 -
銀閣寺の門前すぐにある浄土宗の寺、浄土院は、五山送り火のひとつ「大文字」を管理することから大文字寺とも。送り火の際は参詣者が多いようですが、そうでなければひっそりですね。
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なお、かつては、この地には浄土寺という寺があったようですが、応仁の乱で焼けるとその後に銀閣寺が建てられ、草堂のみが残されたという関係です。
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銀閣寺の山門前から左折して奥に進んだところが八神社。かつては慈照寺の鎮守社だったという神社です。
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石の鳥居から少し石段をしばらく上がった先が境内。
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限られた広さですが、拝殿、本殿が建っていて、
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緑に埋もれたような本殿の構えもそれなりの雰囲気があると思います。
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銀閣寺の参道商店街を抜けて、白沙村荘橋本関雪記念館に向かいます。
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これは、その途中のすみっコぐらし堂。お店の一番目立つところにキャラクターを置いたりしていて、カジュアルというかポップな印象のかわいい系のお土産物屋さん。観光客はいろんな層がいますから、こういうお店もあっていいのかな。場の賑わいにはなっているかもしれません。
まあ、ここはどうでもよかったか。。 -
安楽寺に続いて、これも今日のメインの一つ、白沙村荘橋本関雪記念館です。
銀閣寺の界隈だと珍しい立派な構えの施設だけにちょっと目立つ存在。こちらもかなり久しぶりの訪問です。 -
ここは意外に広い庭園が見どころなので、やっぱり晴れた日じゃないともったいない。しかし、晴れた日だともっとメジャーなところに行きたくなるしで、私の中ではなんかどっちつかずな位置づけ。そんなこともあって、しばらくいい機会がありませんでした。
今回は天気もいいし、安楽寺を訪ねることになったので、こうしてセットにすると無駄がないという塩梅です。
受付を済ませて -
奥の方へ
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イチオシ
変わった形の石灯籠があったりして
この辺りから高雅な文化人の匂いがムンムンですね。 -
橋本関雪がここに住み始めたのは大正5年から。邸宅跡には日本庭園の中に配置された主屋を始め、画室を有する存古楼に持仏堂や茶室群などを拝見するだけでも十分な見応えがあるんですよね。
これは主屋の玄関ですが、主屋の方は拝見できるのはここまで。中には入れません。 -
さらに進んで
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イチオシ
大きな池越しに見えてきたのが存古楼。見晴らし台のような三階部分も含めて堂々とした日本建築で、記念館全体のランドマークといった建物です。
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遊歩道の左手の先。大池の端っこが茶室群。
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存古楼は
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こちらから中へ。
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下書き風の屏風や
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奥の屏風は「生々流転」とありましたが、「生々流転」が有名なのは横山大観。ただ、画題としてよくありそうな感じではあります。
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縁から大池の方を眺めてしばし寛ぎます。
ここはアトリエとして使っていた建物ですけど、これだけ豊かな緑に囲まれて作業場としてはかなり恵まれた環境。それこそ横山大観の邸宅と比べても数段立派ですね。 -
そして、次のエリアというか
存古楼の裏手に回りますと -
すぐ目の前には持仏堂。
これも個人の邸宅の中にあるようなレベルではないですね。 -
存古楼の裏側と
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その先にはこんなまあるいテーブルのような石。
傍らに石原裕次郎と宇野重吉がこの石に座って酒を飲む”松竹梅”のCMポスターが紹介されていて、なんともめちゃめちゃかっこいい。この石に目を付けたのもすごいし、やはり不世出の大スターといぶし銀の名俳優。一時代を築いた二人の奇跡のツーショットとはさすがにしびれまくりです。 -
さて、本命の美術館の方ですが、一番奥の二階建ての建物。
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この日の企画は、「生誕140年 橋本関雪 KANSETSU ー入神の技・非凡の画ー」
関雪の過去最大規模の回顧展なんだそうです。 -
始めの言葉には、
絵を描くことと庭を作ることは一如不二のものであったとあって、なるほどという感じ。この邸宅の庭造りも趣味の世界ではなかったということですね。つまり、記念館は庭を見て、絵画も見て。両方で関雪の世界を楽しむということ。なかなかに贅沢ですが、白沙村荘橋本関雪記念館、素晴らしいですね。 -
一階に二階と展示室があって、ここは一階の入り口です。
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これは中国の船ですね。
狭い甲板でも活き活きと動き回る船乗りたち。必ずしも恵まれた環境にある人々ではないと思いますが、そんな悲壮感は微塵もなくて、むしろ溌溂さと夢や希望まで感じる金銀の豪華な色使い。どう受け止めていいか戸惑うようなところもありますが、大きなテーマ性も感じて自然と前向きになれるような作品ですね。 -
これも中国というか大陸風。北方の大草原を駆け回る狩猟民族の貴族かな。高貴な身なりと澄んだ瞳が異国情緒たっぷりです。
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これも中国風。猫の目のような眼差しが印象的です。
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猿の絵なら森祖仙ですが、これもなかなか風格がありますね。
細かなところは気にせず、豪快に描き切ったような作品です。 -
狐の絵も同じかな。豪快さと大胆さがあるのですが、絵はけっして乱れていませんからね。
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たぶん、これも中国。上海のバンドみたいな感じかな。
日本にも幕末の開港地には居留地が作られましたけど、中国の居留地はまた別格ですからね。大人と子供みたいな感じ。中国との貿易から生み出される冨は日本と比べれば桁違いだったんだろうと思います。
関雪は神戸に生まれ、父から漢学を学んだとありますから、こうしたものに目を付けることも含めて、大陸文化の素養は豊かだったのでしょう。独特の感性だったかもしれません。 -
ところで、京都画壇の代表格は、やっぱり”西の栖鳳、東の大観”と称された竹内栖鳳。橋本関雪も同じ時代の画家ですが、知名度という意味ではやはり一段劣るし、栖鳳とはあまり仲が良くなかったとも言われていて。今回、こうして橋本関雪を拝見するとまあそんな感じも分からなくはない。栖鳳はとにかく絵がうまい。なんでもかんでもうまいです。関雪はそういう点でいうととても栖鳳にはかなわないのですが、絵のテーマ性というか世界観はスケールが大きくて、その世界感をどう表現するかということにまっすぐ全力を傾けるというすごさがあるような気がしますね。
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イチオシ
二階の展示室にあがって
これは、今回の企画の目玉「後醍醐帝」 -
足利尊氏と対立した後醍醐帝。吉野で南朝を立てるため、市女笠と着物で女性に身をやつし、今まさに御所を脱出せんとする場面。
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後醍醐帝を待ち受ける護衛の武士や僧兵たちの表情には
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緊張感だけでなく、帝をお護りすることへの誇りや自負心、矜持のようなものも感じます。
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その他、風景画に
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鷹や
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牧歌的な作品に
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多彩な掛け軸。
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だるま朝日に
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白衣観音
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牛に
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鴨
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墨を磨る人物と書を書く人物の屏風ですが
二人の人物はどういう関係なんでしょうね。弟子と先生という感じでもないし、友人という感じでもないかな。しかし、二人の目線からするとそれぞれが互いに自分の世界を持っているかのようで、不思議な感覚です。 -
ただ、改めてですが、栖鳳と関雪の話に戻すと
絵のうまい栖鳳からすると関雪の画力は物足りないし、関雪からすると栖鳳は絵のなんたるかが分かっていないとなるのかな。一方で、自宅を飾る道具としてのニーズからすると関西の旦那衆にとっては、関雪の気宇壮大なテーマ性はイマイチぴったり来なかった可能性もありますね。関雪の不人気にはもしかしたらちょっと時代的なミスマッチがあったような気もしますが、この優雅な邸宅からするとそれは杞憂だったかな。また、人気のあった栖鳳の方は逆に作品がやや散逸してしまい残念なことに。これも両者の違いになってしまいました。 -
では、この辺りで昼飯です。
昼飯はモリタ屋。京都駅ビルや木屋町店もありますが、ここは本店の方に行ってみました。京都のすき焼きだと三嶋亭と並ぶ老舗です。 -
玄関から
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悠々とした広さの日本間に通されて、
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仲居さんにいろいろお世話をしてもらいます。
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さあて
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やってきましたよ~
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イチオシ
味付けは
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お肉のおいしさを損なわないように
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かなり薄味かな。
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しかし、それにも増して穏やかな味わいと落ち着いた雰囲気。さすが京都の老舗という贅沢な時間を過ごしました。
木屋町店に比べると本店はけっこう常連さんが多いということでしたが、さもありなんという感じです。 -
ここからが後半。
モリタ屋の比較的近くにおもちゃ映画ミュージアムというのがあって、そこにも行ってみます。
それにしても、おもちゃ映画ミュージアムって、おもちゃと映画を対象にしているのなら緩いテーマだし、一方で、映画だとマニアックな内容のこともあるからなあとか想像しつつ訪ねました。 -
で、結果としては悪い予感の方。これはマニアックというかいわゆるオタクですね。
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つまり、おもちゃ映画というのは、おもちゃと映画じゃなくて、玩具映画というジャンル。家庭用の映写機とかカメラとか個人で映画を楽しむ機械類を含めた世界のことのようですから、かなりニッチな世界でしょう。
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展示はその機械類が中心なんですが、ミュージアムの主な活動はその玩具映画に供された古い映画のフィルムをデジタル保存するというもの。フィルムは戦前の無声映画全盛の時代。銀幕スターを切り取ったものやアニメや戦争映画など一時代を風靡した映像なのですが、散逸して分からなくなったり、どんどん劣化するしで消えつつあるのが実情。それに非常な危機感を持って保存活動をしているのだということでした。
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ただ、たぶんその思いがあまりにも一途だからかな。下手な質問はできないというか。なにか質問をしようとしてもちょっと通じないところもあって、正直かなりのアウェイ感がありました。
やっぱり、映画は楽しいもの。貴重な映画フィルムが消えようとしているという危機感も大事ですが、その前提として、その時代の映画はここがすばらしいとか。ここが面白いとかがもっとあってしかるべしかな。私もわずかな経験ですが、大河内山荘庭園に伺って知った戦前を代表する時代劇スター、大河内傳次郎。丹下左膳の異様さは問答無用、時代を越えた迫力があって、日本映画の歴史はこうした積み重ねがあってのものなんだなと実感したものです。ミュージアムということで不特定多数を相手にするのであれば、いたずらに危機感を強調するのではなく、まずは護りたいその時代の映画の魅力や意義を語ってこそ活動への共感も広がるのではないかと思います。 -
では、周辺をもう少し。
六角獄舎跡は、平安時代に起源をもつ牢獄。跡には、宝暦4年(1754年)、医学者、山脇東洋がここで日本で初めての人体解剖を行ったことを記念する「日本近代医学発祥」、井伊直弼の安政の大獄の際に多くの志士が斬首されたことを示す「勤王志士平野国臣外数十名終焉」の石碑。牢獄ですから、あまり気持ちのいいものではありません。 -
朱雀院跡は、NISSHA(株)京都本社の敷地の中。透明な塀の向こうに石柱と説明板が見えていました。
平安京内最大の面積を誇る累代の後院。嵯峨天皇が造営した離宮の一つで、後院として本格的に使われるようになったのは宇多天皇以降だとか。
ちなみに、朱雀院は、源氏物語では、光源氏の異母兄、朱雀帝が譲位した後の御所となった場所。源氏物語ゆかりの地でもあります。 -
ここから、今度は円山公園へ。
天気もいいし、新緑の季節。 -
こういう時にちゃんときれいな姿を見ておくのは意外に大事なことなんですよね。
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桜の季節だけちょこっと行くとか。
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イチオシ
そういうことだけでは、京都の魅力を理解することはできません。
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例えば、名物の枝垂れ桜も今はこんな状態。しかし、この緑の濃さは樹勢が盛んなことを示していて、それを確認するだけでも楽しい気持ちになってきます。
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そして、もう一つのお目当ての長楽館へ。
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円山公園の中に建つ歴史的な建物は、
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明治42年、煙草王と呼ばれた実業家、村井吉兵衛が迎賓館として建てたものです。
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京都市有形文化財の指定も受けただけに、落ち着いた外観のデザインも見事ですが、中に入ってすぐの重厚な中央玄関ホールも素晴らしい。
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黒光りした木の輝きには、歴史を積み重ねた美しさを感じてうっとりしてしまいます。
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こちらは、ショップの方。
テイクアウトだけもありなんですよね。 -
ちなみに、喫茶部の方は一階と二階があって、ここの一階の方にしますかね。
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あまり広さはないのですが、
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イチオシ
白とモスグリーンの落ち着いた色調。
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ステンドグラスも同系色で、目立たず穏やかな印象です。
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いただいたのは、名物のミルフォイユ。
ほどほどの濃厚さで素直な味わい。抜群においしいというわけではないし、パリパリしたパイ生地がちょっと食べにくいですけど、まあそれも含めて伝統の味なのかな。また、今の感覚からすると少しサイズが大きいのも、微妙にレトロ感があって面白いと感じました。 -
体力が回復したところでもう少し散策。
知恩院の三門。相変わらずの迫力ですね~ -
三門亭は、知恩院の前の広い駐車場の中にあるお土産物屋さん。周囲には何もないところなので、観光バスで乗り付けた観光客がここで手早く買い物ができるように作られたものだと思います。そいう言う意味だとかなり限定的な建物なんでしょうが、中はそれなりに余裕があるし、せせこましい感じもない。まあまあそれなりのしっかりしたお土産物屋さんです。
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これは、知恩院の前にある親鸞聖人旧御廟所 本願寺発祥の地 蓮如上人御誕生の地の碑。知恩院の三門から青蓮院に向かう通り沿いで、青い字で文字が書かれているので、ちょっと目立ちます。
廟堂は後に五条坂西大谷に移り、親鸞の廟所を建てたのが本願寺の発祥ということです。 -
青蓮院の楠も
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イチオシ
この時期はいいですよね。
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新緑の緑が目に痛いくらいです。
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知恩院と青蓮院の境目といったところにあるのが花園天皇十樂院上陵。白い五本線の入った塀の門があって、宮内庁の札札も建っていますが、けっこう意外な場所なので気が付きにくいかも。門は早い時間に閉まるので、拝所まで行きたい方は要注意です。
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最後は一本橋を確認しておしまい。まだ余裕がありますけど、楽しい気分のまま、これくらいのところにしておくのがいいでしょう。
以上、五日間の旅、お疲れさまでした。
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