2023/10/01 - 2023/10/01
36位(同エリア75件中)
gianiさん
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4大工業地帯の一つ北九州工業地帯の中核部洞海湾を一周して、工業化の背後にあった鉄/石炭/運輸業の歴史を紐解きます。
一筆書きに近い位置情報も、参考になさってください。
※官営~日鉄八幡に特化した紀行は↓
https://4travel.jp/travelogue/11858812
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
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旅のはじまりは戸畑駅
旧戸畑市、現戸畑区のセンターです。
駅前商店街の戸畑ちゃんぽんの名店へ戸畑駅 駅
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みんなが頼むギョーザセット+200円
清龍 グルメ・レストラン
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先日紹介した福流とは対照的に、超さっぱり系で味噌汁のように毎日食べられる優しくて飽きの来ない味。
常連さんはみんな普通(とんこつ)のラーメンを頼んでいました。横で見ていて納得。 -
ここの餃子は逸品
店主を除くスタッフは、調理=手作り餃子造り。
今も忘れられない味と食感です。
再訪リストに即掲載! -
いざ洞海湾へ
海沿いには、旧日本水産戸畑工場事務所(1936年)が。ニッスイの現役ビルです。歴史展示室(ニッスイパイオニア館)が目当てでしたが、休館中でした。1929年に下関から進出し、遠洋漁業/捕鯨基地/加工場の機能を果たしました。ニッスイパイオニア館 美術館・博物館
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現在、ニッスイの工場は若戸トンネル導入部(写真右)へ移動しています。
日本水産ビルの南側は一文字島と呼ばれる八幡製鉄所の海上貯炭所でしたが、大正期に埋立てて工業用地になりました。その土地を買ったのが共同漁業(現ニッスイ)でした。本拠地を下関から戸畑へ移しました。 -
その横には、若戸大橋が。
名前の通り、洞海湾を跨いで若松と戸畑を結びます。
1902年に北九州市を縦断する路面電車の戸畑支線が桟橋まで開通、1985年まで営業しました(西鉄北九州市内線)。 -
広大な日鉄戸畑製鉄所を回避すべく、右に左に湾曲する道路になっています。
1969年に当時の八幡製鉄所株式会社が戸畑(1917年開設)に機能を集約すると発表して以降、日鉄城下町一色ですが、戸畑は雑多な工業が栄えた歴史があります。 -
戸畑の歴史は、安川敬一郎と大きく重なります。
若松を拠点に活動していた安川敬一郎が、1908年に明治紡績を設立、翌年には九州工大の前身となる明治専門学校を設立、1910年に本拠地を戸畑へ移転と、黎明期に基盤を築きました。
行政上は、1889年戸畑村/1899年戸畑町/1924年戸畑市と、昭和の前に市制を敷いています。 -
1929年発行の戸畑市全図
東西に横断するのが国鉄鹿児島本線、並行するのが路面電車。
赤:明治紡績(1908)、白:明治専門学校、緑:戸畑鋳物(1910 現プロテリアル)、青:旭硝子(AGC)/三菱骸炭(1914 共に三菱系)、黄:東洋製鐵(1917 現日鉄)
その後は、日本水産/明治製菓/東洋製缶等が進出します。
※現在は埋め立てが進み、区の面積の7割は工場/区の5割は日鉄戸畑の敷地が占めています。
プロテリアルは2022年までは日立金属の社名で、戸畑鋳物が起源(創業の地)です。 -
明治紡績合資会社
敷地の北側を鹿児島本線の線路が走っています。
会社は戦時中に、敷島紡績(シキボウ)に吸収され消滅します。 -
戸畑鋳物
日産コンツェルンの始祖鮎川義介が設立、後の日立金属、現プロテリアル。工場跡は、駅前のイオンショッピングセンターになっています。 -
面白い名前のバス停。
実は、(路面電車の)電停の名残。目の前の通りを走っていました。
さんろくと読みます。旅行記後半の公害問題で、三六婦人会が登場する地区です。 -
目指すは若戸大橋
工大前バス停も、電停の名残。
明治専門学校は工学士の学位(4年制大学卒の学位)を取得できる高等教育機関で、戦後は国立九州工業大学になっています。 -
市営渡船で、洞海湾を横断します。
デイタイムも20分間隔で運行します。
江戸時代は大渡川渡船と呼ばれ、荷物を運んでいました。戸畑側は住民の輪番制、若松側は地主の山本喜七郎一族の世襲で運行されました。村制が施行されると、経営は村営になります。
当初から両者が別個に運行していましたが、1911年以降の共同事業を経て18年に共同経営になります。若戸渡船 乗り物
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自転車や原付を持ち込む人も多いです。
いざ、出航! -
若戸渡船からの眺め
若戸大橋 名所・史跡
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事のはじまりは、1930年の若戸渡船転覆事故で73名が死亡したことです。海底トンネル敷設が計画されるも、戦争で中断。架橋に変更され、1959年に着工します。
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全長2.1km中央スパン367mは、当時東洋一の吊り橋でした。
1962年に開通します。当時は対面通行で両側に歩道という配置でしたが、交通量増加に伴う深刻な渋滞もあり、1987年に歩道を廃止して片側2車線に変更し、1990年に供用開始。 -
2012年には若戸トンネルが開通、2019年に大橋/海底トンネル共に無料になります。
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ここで確立された技術やノウハウは、関門橋や本四連絡橋の橋設計/建設に活かされ、2022年に国の重要文化財に指定されました。
例えばコンピュータがなかった時代に光の屈折を利用して橋の歪みを計測し、強風に耐えられるケーブルを設計しました。技術者の発想に脱帽です。 -
若松港に到着。
待合室には、若戸渡船の年表/輝かしい歴史が写真付きで展示されていました。 -
1911年に就航した「第一かわと丸」は、渡し船としては日本初の汽船導入でした。
1934年に就航した「第八/第九わかと丸」は日本初のカーフェリーで、あまりにも斬新なので全国から視察団が訪れたそうです。
架橋後も住民の熱望で存続し、累計4億人を運んでいます。 -
洞海湾は、古今和歌集の紀貫之の和歌に「大渡川」の名前で登場し、古来から重要な海路でした。
江戸時代には防衛の最前線として、福岡藩が若松城を築城し、代官所も設置されます。唐津街道の宿場町としても繁栄します。遠賀川流域の物流は河口の芦屋から若松へシフトし、若松港の重要性は増していきます。 -
遠賀堀川の開通
1763年に、遠賀川と洞海湾を直結する遠賀堀川が開通します。藩は焚石(石炭)会所を開設し、若松港から筑豊の石炭を全国へ出荷しました。当時は、川ひらた(写真)と呼ばれる平底の川船で若松港まで運びました。
明治には筑豊炭田の出荷量は激増し、若松港はひっ迫します。1887年の石炭年間出荷量は40万tに達し、6999艘の川ひらたでは限界でした。 -
若松築港会社設立(1890)
筑豊坑業組合の総長石野寛平は、若松築港会社を立ち上げます。翌年に控えた筑豊興行鉄道開通で石炭輸送が増加するので、事は急を要しました。
当座の問題点は、若松へ大型船が乗り入れられず、全国へ大量発送できないことでした。 -
後の会長は安川敬一郎、役員に麻生太吉、顧問に渋沢栄一といった顔ぶれで、現在は若築建設株式会社に引き継がれます。浚渫/埋立のノウハウは随一で、若松築港完成後は羽田D等の海上滑走路/東京湾アクアライン/明石海峡大橋/スエズ運河拡張工事などを手掛けた一部上場企業です。
わかちく史料館 美術館・博物館
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3階は若松築港の歴史がわかるお宝展示室。撮影は一切禁止です。入口では、若松区の公式キャラクターわっくん(カッパ)がお出迎え。写真展示も充実していて、当時の活況がヴィジュアルでも伝わります。
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洞海湾の浚渫
洞海湾の実態は干潟で、澪筋(水路)は安定せず、干潮時の水深は僅か1.5mでした(左図)。航路の幅を拡張/直線化し、最終的に水深8.5~10m/2万t級の船舶も通行できるようになります(右図)。水路沿いに幾つも船泊を造り、停泊/係留スペースも確保しました。
1892年には水深2.4m/防波堤350mを完成させ、港湾使用料を半額で徴収し始めます。
94年には水深3m/防波堤+540mを延長して300t級船舶が利用できるようになり、港湾使用料も全額徴収できるようになりました。
97年には水深4.5mになり、700t級も利用できるようになります。 -
東海岸通護岸工事(1892)
現在の若戸大橋直下~わかちく史料館の350mで、現在は外側に歩道が張り出しています。陸地と堤防の間は1901年までに埋立てられ、海岸東通りになっています。 -
東海岸係船護岸(1892-)
上の東海岸通護岸工事完了後に着工、洞海湾上に1700m突き出した防波堤として建設、大正/昭和期の埋立で陸続きになり、船を係留する岸壁に役割変更。写真の窪みを挟んで左側が東海岸通護岸、右側が係船護岸。
1894年に540m分が完成し、港湾使用料を全額徴収できるようになりました。 -
官営八幡製鉄所
1897年に、官営製鉄所の建設予定地が若松対岸の八幡村に決定します。実は、700t級船舶受け入れ工事も、製鉄所を八幡村へ誘致するためのプロジェクトでした。前年に築港会社会長に就任した安川敬一郎や、顧問渋沢栄一の働きの成果です。
同年には、国の特別輸出港にも指定され、門司港と双璧を為します。 -
工場誘致/北九州工業地帯の形成
戸畑/八幡沿岸(写真)を水深6mまで浚渫/防波堤/護岸工事を行い、製鉄所荷揚場まで3,000t級の船舶が出入りできるようにします。
写真の牧山麓の岸壁には製鉄所の貯炭場があり、1906年に牧山高架桟橋(396m)/新川高架桟橋(625m)を建設し、大型クレーンも導入して製鉄用石炭の積み下ろしがスムーズにいくようにします。
浚渫した土砂は洞海湾沿岸の埋立に使用され、埋立地を工場へ売却することで次の工事費用を賄いました。こうして洞海湾に北九州工業地帯が形成されます。 -
現在の洞海湾
埋立/工場建設により、湾というよりかは水路といった状態です。
右上に辛うじて若戸大橋が写っています。現在の湾岸には、時計回りに日鉄(戸畑 右枠外)ニッスイ/AGC/山本工作/九州製紙/日鉄(八幡)/黒崎播磨/高田工業所/安川電機/三菱ケミカル/三菱マテリアル/デンソー/シャボン玉石鹸/東京製鉄/ボートレース若松/東海カーボン/若松市街/日本鉄塔工業/プロテリアルといった配列です。 -
鉄道開通(1891)
筑豊炭田と若松を結ぶ貨物列車は当初1日4往復でしたが、1896年に全線複線化すると150万tが鉄道で輸送されました。炭鉱の機械化が進んだことへの対応です。
1896年に駅横に362mの木造高架桟橋(写真右)を建設し、帆船や艀に積み込みました。1898年には、水圧クレーン/水圧ホイスト導入で積込の機械化が始まります。
写真左には、1892年築の鉄道工場が稼働し、修理や貨車製造を行います。1897年には6~7t積の貨車1022両が在籍します。こうして、石炭輸送は川ひらた(100万t)から鉄道(150万t)へシフトしていきます。 -
水圧クレーン(1898)
上の写真で奥に小さく写っていたものです。線路上の貨車を持ち上げて、船倉の真上で貨車底の扉を開いて一気に石炭を積み込みます。
水圧ホイストは、貨車を線路(床)ごと5m持ち上げ、小さなクレーンで吊るして船倉の真上へ移動する仕組みです。両者とも、日本初です。 -
若松操車場
長編成の貨物列車を留置し、石炭を積み下ろしたり、行先別に貨車を組み直したりする施設です。高架桟橋沿いに若松~藤ノ木駅にかけて長さ3km/幅100mに渉って広がりました。大正になると、若松港は石炭積出第一位になり、100t以上の貨物船の8割が、若松に寄港するほどになります。ピークの1920年以降、若松駅は年間700万t以上の石炭を受け入れ、毎日2000両の貨車が到着します。貨物取扱が廃止された1982年に役割を終えます。 -
1902年には、藤ノ木に377mの高架桟橋が建設され、最終的に1050mまで延長されます。1935年には2台の巨大ガントリークレーンが設置されました。
1917-27年の築港工事(浚渫)で、外洋に近い若松周辺は汽船(水深6m/3000t級)、奥に位置する藤ノ木は帆船(水深4.5m)の停泊という棲み分けが行われました。帆船は1933年頃に姿を消します。 -
洞海湾埋立の進行
黄緑:築港前の陸地、桃:明治期の埋立地、青:大正期の埋立地、橙:昭和期の埋立地。 -
弁財天上陸場(1917)
若松の市街地を縦断する道路に面した好立地です。
今までの港湾整備は、ひたすら石炭と製鉄所のためのものでした。1914年に市制を施行した若松市は、雑貨品(市民の生活に必要な品々)を荷揚げするために弁財天上陸場を建設しました。施工業者は、もちろん若松築港です。弁財天上陸場跡 名所・史跡
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若松南海岸物揚場
市街地に面した荷揚げ場です。4大石炭積出業者(三井/三菱/古河/安川)、税関/水上警察署/石炭組合等、若松繁栄の原動力となるオフィスが立ち並びました。(詳しくは、街歩き編で紹介します↓)
https://4travel.jp/travelogue/11861645若松南海岸通り 名所・史跡
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旧出入船舶見張り所(1931-38)
先述のとおり、若松築港会社は船舶から港湾使用料を徴収することで、築港費用を回収しました。という訳で航路が最も狭まるここに見張り所を設置し、不正利用する船舶がないかチェックしました。短命で終わったのは、港湾業務が県に移管したためです。港銭収入所船舶見張所 名所・史跡
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中の島
実は若戸大橋の真下に中の島が存在し、地の利を活かして城が築かれたり、三菱の貯炭場が設置されましたが、船舶通航の妨げになるので、1939-40年にかけて火薬で破壊しました。行政上は戸畑市に属し、戸畑中央図書館に島の一部(岩)が屋外展示されています。 -
クレーン等の機械化が行われたとはいえ、積み下ろしの大半は人力でした。
「ごんぞう(orごんぞ)」と呼ばれる石炭荷役人が従事しました。身分証明となる鑑札を所持し、明治/大正期は4000名以上が従事しました。
ちなみに港湾管理が民間(若松築港)から県へ移行した理由は、ごんぞうたちが1938年に起こしたストライキでした。旧ごんぞう小屋 名所・史跡
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荷役は一人でこなせる量ではないので、ごんぞうを抱える組織(組:親方が統率)を通して仕事を得ます。親方同士は小頭組合を作って、石炭商業組合(荷主:三井/三菱/古河/安川等)から仕事を請け負いました。貨物量に応じて、各組を配分します。
ごんぞうは、陸仲仕/沖仲仕/女仲仕の3つに分類されます。艀(はしけ)の介在が大きく関係します。 -
陸仲仕
貯炭場と艀を結ぶ仕事です。満載の石炭を天秤を担いで、細い板橋を器用に往復します。 -
沖仲仕
陸仲仕が石炭を積み終えると、艀に乗船。艀が沖に停泊する本船の腹に寄せると仕事開始です。写真のように雛壇(タラップ)を架けて、バケツリレー方式で本船へ運び上げます。タラップの各段には2名が配置されます。 -
本船の船倉(船底/タンブロー)では、勢い良く落ちてくる石炭を均す仕事もあります。蒸し暑くて粉塵が舞う、そんな厳しい環境でした。
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女仲仕
スコップで石炭を漉くって、陸仲仕/沖仲仕が担ぐ天秤の籠に石炭を盛る入鍬作業は、専ら女性が担いました。手甲脚絆にパッチョ笠という恰好で、外見で見分けがつきます。
1920年代の不況で、コストの高い筑豊炭は苦境に立たされ、荷揚の機械化でコストカットに取り組み、ごんぞうは1941年に1500名まで減少します。戦後は機械化が急速に進行し、1970年頃には姿を消します。 -
鉄道開通前に7000艘あった川ひらたは、1907年に5065艘、1908年に2689艘と減少し、1933年には若松では見られなくなりました。
筑豊炭田の閉山により、若松は主たる産業を失い、レトロな街になっています。響灘地区の工場群/コンテナ専用港が町を支えます。 -
若松駅から筑豊本線で移動します。
藤ノ木、奥洞海、そして若松駅操車場跡地 名所・史跡
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二島駅
二島駅 駅
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駅名の由来となった二島(1940年頃)
洞海湾には10ほどの島がありましたが、埋立等で姿を消します。二島は、手前の本島と奥の沖島で成ります。現在は崩されて、シャボン玉石鹸本社工場のあたりになります。
室町時代に洞海湾周辺が麻生氏の荘園だった頃から、近隣を二島の庄と呼んでいました。中世の海岸線は、日吉神社参道(国道199号線よりも山側)あたりでした。 -
1950s後半の写真
明治/戦前の埋立で広大な土地が誕生します。中央右に陸地の山と化した二島が写っています。その先の白い部分は、埋立進行中の状態で写っています(現在は東京製鐵と日通)。対岸は黒崎です。写真手前は埋立終了後の空地ですが、現在はデンソーの工場と緑地になっています。写真手前の水路は、江川に接続します。 -
日本炭礦二島鉱業所(1955-71)
日産コンツェルン創始者の鮎川義介が設立した会社。
昭和初期に水巻町(当時は若松市域)を中心に採掘していた日炭高松炭鉱と地下で繋がり(青線)、洞海湾に面した二島に選炭場を建設し、大型船で直接積み出せるようにしました。採炭/貯炭/選炭/輸送まで行える最新設備でした。黒い部分は貯炭場、長屋は炭鉱住宅です。ちなみに赤線の森が日吉神社。洞海湾 自然・景勝地
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日本板硝子(1922-77)
当時板状ガラスの製造技術を持つ希少な企業で、国内初の板状ガラス製造工場を二島に建設。構内の引き込み線が筑豊本線と繋がっています。105mの煙突が名物でした。跡地は、イオン若松ショッピングセンターになっています。たこ膳 イオン若松ショッピングセンター店 グルメ・レストラン
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折尾駅では、筑豊本線と鹿児島本線が交差します。
旧八幡市域に入ります。 -
日本初の立体交差駅(1891)
南北に走る筑豊本線と左右に走る鹿児島本線、どちらも大動脈で平面交差は危険極まりないということで、鹿児島本線が高架線になって立体交差しました。小倉方面と直方方面の短絡路(旧6/7番線)が1893年に建設され、筑豊炭田~門司港への物流もスムーズになりました。 -
都市化とモータリゼーションで、鉄道同士の立体交差は地域発展のネック(障害)になります。という訳で、筑豊本線も高架化して、2022年に現在の姿になりました。駅構内には、かつての航空写真と、新駅の模型が展示されています。
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1916年築の駅舎
現在地へ移築されています。 -
駅構内には、かしわ飯(駅弁)で有名な東筑軒が。
本店だけあって、19時まで営業。コロナでクレジット決済は休止中、現金/交通系ICカードは相変わらずOKです。かしわうどんもおすすめです。東筑軒 本社 グルメ・レストラン
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実は、折尾駅は遠賀堀川沿いのスポット。
駅の手前で暗渠になり、駅の先で再び顔を出して洞海湾へ注ぎます。 -
続いて、黒崎駅。
八幡市の原動力は製鉄所ですが、黒崎は宿場町/商都として400年間栄えてきました。
とはいえ、黒崎は三菱の企業城下町でもあります。遠賀堀川右岸~城山緑地まで直線距離で3kmを越えるエリアを占め、日鉄に次ぐ敷地です。位置情報では、遠賀堀川左岸の近似値を入れておきます。西側のエリアは、旧三菱セメントの流れをくむ三菱マテリアル/UBE三菱セメントの工場となっています。くいしんぼ グルメ・レストラン
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三菱ケミカル黒崎工場(1935-)
八幡は新日鉄と三菱化成(旧社名)といわれるほどで、設立2年後に最初の工場を黒崎に開設します。三菱なので本社は丸の内ですが、ここが事実上の創業の地です。敷地の殆どは大正期に若松築港が造営した埋立地です。熊西駅北の西門、黒崎駅北の東門(写真)、東端の城山門が代表的ゲート。戦前には三菱製鉄も立地しました。
※三菱化成は三菱化学に社名変更し、三菱レーヨン/三菱樹脂と合併して現社名になります。 -
黒崎駅と東門の間の公道には、大日本印刷黒崎第二工場が。三菱化成時代から、黒崎は化学染料が強みだった故の立地でしょう。工業用水を確保しやすかったことも、洞海湾南岸に化学/窯業メーカーが入る理由でした。
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DNPと道路を挟んで陣取るのが、安川電機本社工場。洞海湾開発のキーパーソン、かつ筑豊御三家でもある安川敬一郎が創業者です。
安川は岩崎弥之助と交流があり、官営製鉄所誘致の際は岩崎の協力も得ています。そういう繋がりを考えると、1935年に三菱化成が黒崎に誘致されたのは必然かもしれません。 -
黒崎城があった城山の麓の城山門入口
東端に相当。右側には大日本印刷黒崎第一工場が建ちます。DNPは、凸版印刷と共に印刷業界の二大巨頭です。左側は安川電機、周囲も三菱系安川系の施設が並びます。
城山の反対側は、日鉄八幡製鉄所や黒崎播磨の敷地です。
黒崎も下火傾向で、そごうデパートの閉店は象徴的事件でした。黒崎城跡 名所・史跡
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続いて、スペースワールド駅周辺。
官営八幡製鉄所が1901年に稼働。心臓部である高炉群の所在地は現在手放され、アウトレットモール等に再開発されています。
戸畑/若松/八幡/小倉/門司は、概ね100年前までに市制を施行し、20世紀を謳歌していました。そんな5市が1963年に対等合併して北九州市を発足させ、翌年には福岡市を差し置いて九州初の政令指定都市になります。東田第一高炉 名所・史跡
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背後には、鉄と石炭という高度成長期で真っ先に斜陽化した業界に依存する危機感からでした。現在は「レトロ」を売りにしていることは、新しい産業が育っていない証です。地元の方曰く、製鉄所遺構を見に来る人なんて珍しい存在だそうです。一応、世界遺産も含まれるんですけどね、、、
巨大な空き地も、東田地区のリストラの結果。従業員(+社員住宅)は一足先(1960s)に首都圏初進出の君津製鉄所へ配置転換していました。 -
製鉄所跡地は、市営ミュージアム林立地でもあります。いのちのたび博物館の市史コーナーも秀逸です。
残りの時間は、工業化と切り離せない環境汚染の話。
以下は、当時の社名/地域名で話を進めます。北九州市環境ミュージアム 美術館・博物館
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お金を掛けずに誕生した雰囲気で、エコな感じのするマスコットキャラクター(笑)
嫌いじゃないです。白熊の「ていたん」(低炭素社会の略)です。ヒマワリは、市の花です。
ちなみに、黒熊の「ブラックていたん」もいます。ダークサイドのシンボルで、鼻と口がエゴでしたが、1年間の矯正プログラムを受けた甲斐あって、鼻と口がエコに改められました。そんなストーリーが用意されていました。 -
入口に面した第一ゾーンは、近代北九州市の歩みを振り返ります。
20世紀は、八幡村の製鉄所の建設/創業で大規模工業化が始まります。製鉄の3大原料(鉄鉱石/石炭/セメント)の調達が容易(石炭:筑豊炭田/石灰石:小倉/鉄鉱石:中国大陸)なロケーションだからでした。これらは、八幡地区に様々な工業を派生させます。 -
化学工業
製鉄所高炉/転炉の熱源は、火力の高いコークスを使用しました。石炭を高温で蒸すと、タール/水素/メタン等が分離揮発してコークスができます。製鉄所内にはコークス製造工場があり、これら有用な副産物を活用した石炭化学コンビナートが形成されます。
1935年には三菱鉱業をルーツとする三菱化成黒崎工場が操業し、2大工場が揃います。 -
窯業:セメント/レンガ工業/セラミック工業
高炉/転炉/鉄鋼工場のパーツは、鉄の融点(1358℃)に耐えうることが大前提。設備拡張に備えて、耐火レンガ工場も自前で準備しました。
高炉で鉄鉱石から銑鉄を取り出した殻を、鉄滓(てっせい)/スラグ(くず)と呼びます。スラグには有用な金属元素が含まれ、高炉スラグの75%/鉄鋼スラグの40%がセメントの原料(混合材)として再利用されます。セメント製造工場へ売却する商社が派生します。自社用に「高炉セメント」と呼ばれる耐熱性の高いものを自ら製造するようになり、他社にも卸すようになります。 -
北九州工業地帯の形成
航空写真の中央部の太い水路のような形をしたのが洞海湾で、工業化の中核です。石炭輸送/製鉄所のために大型船が出入りできるように7m以上浚渫しました。大量の浚渫土砂で湾岸を埋め立てて工場用地に転用することで多くの工場が入り、三大都市圏(東名阪)に続く工業地帯が形成されました。 -
公害問題:繁栄の代償
工場の煙突や排水路の先は、街中でした。長年垂れ流された結果、工場の近隣住民は呼吸器系障害や洗濯物を干すと真っ黒になる等の被害を受けました。八幡製鉄所/三菱化成に面した八幡と戸畑が、とりわけ深刻でした。1951年に戸畑市の中原/三六婦人会は状況を市に陳情を開始し、実情を知ってもらうために公害記録映画を自主製作して全国で上映しました。大勢の市民が被害を受けましたが、一方で加害者側(家族が工場の従業員)という人が多く、声を出すのは憚られました。 -
大気汚染
市民から「七色の煙」と呼ばれ、繁栄と発展のシンボルと肯定的に受け止められ、校歌の歌詞に登場するほどでした。工場の動力は重油にシフトしており、有害物質がガス状態で大気に放出されました。製鉄所の高炉は石炭なので、煤や塵も降下しました。写真を見ると、晴天とは思えない景色です。
※四日市市立の小中学校の校歌でも、同じ傾向が見られました。 -
八幡市立城山小学校
粉塵降下量でワーストを記録したスポット。三菱化成/小野田セメント/新日鉄/国道3号線に四方を囲まれた絶望的ロケーションです。写真の謎の物体は、雨樋です。凄まじい粉塵で溝は埋まり、重みで落下する状態でした。 -
2つの箱は、城山小学校に1か月間で降下した煤塵(畳1畳分の面積)の量です。学校には、空気清浄機が設置されました。空気を良くしようと校内に100種余りの樹木を植えましたが、2種を除いて全て枯れました。
城山小学校は、新日鉄君津製鉄所への配置転換で児童が1/6に減少して廃校、現在は城山アーチェリー場になっています。 -
小野田セメント黒崎工場の変電所跡が、現地に残っています。ヤマト運輸集配センターに隣接しています。
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当時の城山小学校
正面に大きく写るのが、三菱化成です。 -
現在は、七色どころか煙は見えません。
(城山から三菱ケミカルを撮影) -
水質汚染
写真は、1963年の八幡製鉄所洞岡地区です。工業廃水および生活用水(下水)は、垂れ流しでした。特に、化学系工場の排水はヘドロの素で、悪臭を放ちました。 -
洞海湾は豊かな漁場でしたが、1942年には漁獲量が0になりました。
写真左は1945年に採取した洞海湾の海水、右は1968年のものです。
1969年の調査では水中酸素が0を記録し、水質汚染の基準となる大腸菌さえも生きていけない環境になっていました。まさに死の海です。 -
これは何でしょうか?
答え:スクリューです。金属製なので、酸性の汚染水でボロボロになった姿です。若戸渡船に従事した職員の証言によると、移動中は悪臭に苦しめられ、水質汚染に疎いよそ者が乗船すると、波しぶきで服が汚れてクレームを付けられることもあったそうです。 -
公害対策(住民/事業者/行政)
1963年に誕生した北九州市は、戸畑婦人会などの訴えを受けて公害対策に乗り出します。1967年には公害対策基本法が制定され、市は条例制定に取り組みます。
公害防止協定
法律は最低限のラインを定めたものです。市は大手事業所と個別で話し合いを行い、各々と公害防止協定を結びます。法が権力の行使であるのに対し、協定は両者の合意に基づく非強権的な手段で、法で定める以上の内容を約束することができました。横浜市が1964年に初めて採用し、北九州市では1967年9月に戸畑共同火力(新日鉄グループの発電所)との締結を皮切りに、すべての事業所と締結します。 -
公害監視センターの設置
各事業所が法規や協定を履行しているかをチェックするために、市役所内に公害監視センターを設置しました。各地に設置した環境調査機器の測定値がリアルタイムに届き、数値をもとにチェックします。また立入の現地調査も定期的に行いました。1963年に4人の係員(公害係)で始まった組織は、1971年に公害対策局となります。 -
事業者の取り組み
資金や人材を環境対策に割くことで、余計な経費が掛かります。
公害監視センターによる機器設置に協力し、独自に測定したり監視したりしました。こうすることで事業者側の意識も高めることができました。排ガス対策で脱硫装置を導入、粉塵対策で集塵機の設置や貯炭場/貯鉱場への散水等を行います。化石燃料からLNGなどのクリーンな燃料にシフトしたりもしました。こうした改善は、オイルショック後の省エネ/ローコスト需要に貢献し、長期的には利益を生み出しました。 -
水質改善
行政は、洞海湾のヘドロを浚渫して汚染物質を取り除き、適切な方法で処理しました。 -
一方で事業者は、排水中の油分を除去する加圧浮上装置などの排水処理施設を建設し、社員による工場排水の自主管理も行われました。
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インフラ整備
行政は、廃棄物の焼却工場や処理場を整備しました。下水道の普及率も早くにほぼ100%を達成しました。 -
左は1975年の洞海湾の海水、右は1987年です。
約20年に渉る取り組みが大きな成果を出したことがわかります。
現在は100種の魚が生息し、野鳥の訪れる海となっています。 -
市民は、専門家を招いて学習会を開いたり、企業の担当者を訪問したり、工場等を視察したりして、参画します。
三者が有機的に結合して、環境問題は完全されます。今では、夜景や星の見えるきれいな街を謳っています。
大気汚染についても、良い解決法が見つかるまでは高さ205mの煙突を建てることで対処することを市が認めるなど、柔軟に対応しました。205mの煙突は住友金属小倉製鉄所が建てたもので、現在はアイアンツリーと呼ばれる観光資源にもなっています。 -
映像コーナーもあり、市職員、城山小学校卒業生、八幡製鉄所/三菱化成の公害対策担当者のインタビューは興味深い内容でした。
次は、若松の歴史スポットを巡ります↓
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11861645/
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