2023/10/01 - 2023/10/01
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gianiさん
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筑豊の中心は、福岡市とパイプの太い飯塚へシフトしています。
今回の直方市は、北九州市寄りの歴史です。
今年は、直方藩誕生400年を記念して、いろいろと頑張っています。
居心地の良い、ひなびた街を歩きます。
位置情報も、適宜参考にしてみてください。
- 旅行の満足度
- 5.0
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まずは、石炭記念館へ行って、筑豊炭田の歴史を学びます。
お得な入場料とオリジナルの内容が多いお薦め館です。直方市石炭記念館 美術館・博物館
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坑夫の像
直方駅前に設置されていました。石炭の町だったことの証です。 -
石炭の起源
一言でいえば、大昔の植物が炭化したもの。
何気に植物由来です(石油は動物由来)。
水に覆われるなどして空気が遮断されると、微生物による分解が完遂できず、炭素が残った泥炭になります。
泥炭の上に地層が堆積して地圧と地熱に晒されて化学変化したのが石炭です。 -
石炭と木炭は同じ植物起源で、成分も似ているので兄弟と言えます。
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筑豊炭田の歴史
記録に残る最古のものは、1478年に垣生(はぶ)村の五郎太夫が黒い石が燃えているのを発見したという内容。以降、域内で認識されるようになり、農夫/木こりが燃料/照明として利用しました。
1703年に福岡藩による採掘がはじまり、「焚石」という名前で瀬戸内海の塩田へ燃料として移出されます。廃藩置県まで続きました。
1869年に明治政府は石炭採掘を自由化(鉱山解放令)し、住民や資産家がこぞって採掘を開始し、一大供給地となります。 -
筑豊炭田の分布図
一級河川で玄界灘へ注ぐ遠賀川の水系に分布しています。筑前/豊前2国にまたがっていますが、三方を山/もう一方を海に面した閉鎖的な空間です。 -
立体地図
縦札が石炭記念館、横札が炭田です。殆どの炭田は、直方より上流に位置します。直方は、遠賀川に彦山川が合流する水運の要所に位置します。
分水嶺の向かいには、北九州市街(工業地帯)が控えています。 -
採炭組合の設立
当時未開の地だった石狩炭田が官営だったのに対し、筑豊は1000坪以下の鉱区を擁する小炭鉱が600以上乱立し、乱掘/乱売が横行。1885年の県令石炭坑業人組合準則により、筑前国豊後国石炭坑業組合を設立。93年には筑豊石炭坑業組合と改、「筑豊」という単語が誕生した瞬間です。
リーダーシップを取ったのは筑豊御三家と呼ばれたメンバーで、写真右から貝島太助/麻生太吉/安川敬一郎です(伊藤伝衛門はNo.4)。 -
現在記念館の本館になっているのが、旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所(本部)です。
石炭採掘/販売のルールだけでなく、社会事業にも積極的で、多くの学校設立/運営や遠賀川改修工事などを行っています。 -
館内には、貝島太助が仕事で使用した金庫などが移設/展示されています。
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内部は、慎ましいながらも格調高い装飾です。
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保安教育
20世紀になると深部を採掘するようになり、火災/ガス爆発/落盤が多発します。組合は日本で初めて救命具を購/貸出したり、1912年には救護練習模擬坑道を建設して、煙が充満した状態での救護訓練などを行いました。 -
本館横の模擬坑道
明治時代の出来事と考えると、安全意識/人命に対する意識の高さが窺えます。1923
年まで拡張され、全長117mの坑道で1968年までに45000名が訓練を受けました。 -
内部の写真
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石炭輸送
遠賀川水系を利用した水運で、河口の芦屋/洞海湾の若松を結んでいました。
水深が浅いので、川ひらたと呼ばれる平底の船で運びました。 -
水流や帆が受ける風を動力にしていましたが、往復に1か月近くかかり、運賃が高い、水上の交通渋滞等の問題がありました。
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筑豊鉄道
麻生太吉や安川敬一郎らは、1888年に筑豊興業鉄道を設立、1891年に若松~直方が開通します。筑豊鉄道に名前を改め、1897年に九州鉄道(今のJR)と合併するまでに3方向へ伸張/複線化を達成します。1907年に国営になってからも、炭鉱へ通じる多くの支線が建設されました。
※19世紀に複線化が完了した路線は、きわめて異例です。それだけ需要が大きかった証です。 -
直方駅の様子
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上野駅周辺みたいな線路の数です。
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筑豊鉄道の機関車は、直方に配置されました。巨大な機関区とターンテーブルが写っています。
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直方駅の配線図
半端ないです。 -
左側の続き
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若松鉄道工場
開業の翌年には、貨物需要に応えるために機関車/貨車の組み立て/修理を行う若松工場を建設。写真は九州鉄道と合併した後の1897年撮影ですが、繁栄ぶりを感じます。 -
資料館前の跨線橋から撮影。
現在でも複々線です! -
官営製鉄所を八幡村へ誘致(1897)
日清戦争の賠償金を元手に、銑鋼一貫の製鉄所の建設が決定されます。最終候補地が4か所に絞られる中、石炭王たちは八幡誘致に尽力します。筑豊炭田と八幡が鉄道で結ばれていること、石灰石の鉱山があること、中国産鉄鉱石受け入れ港として洞海湾が最短かつ敵海軍からの攻撃に強いこと、安価で広大な用地確保を武器に、誘致します。 -
完成した高炉前での記念撮影では、伊藤博文/井上馨と共に、麻生太吉/安川敬一郎/伊藤伝衛門も写っています。
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当時の石炭の役割
英国を筆頭に産業革命を成し遂げ、コークス製造の際に発生するガスは照明として欧米の都市を照らします。そして蒸気機関は船にも搭載され、黒船来航による開国/文明開化の扉をこじ開けます。銀座を初め日本にもガス灯が点灯。そして製鉄溶鉱炉の燃料として、日本の近代化の総仕上げが可能になりました。 -
採掘方法の変遷
当初は、人力で行っていました。 -
つるはし
採掘者が岩盤に向かって振るいました。刃先はすぐに丸まるのが問題点。昭和初期には、替え刃式が誕生し、替え刃を3,4本携帯しました。 -
採掘物を掻板/雁爪といった道具で「えぶ」に掻き集めます。それを運搬係の背負い籠に入れます。これらは、採掘者(先山)の仕事です。
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後山と呼ばれる運搬係は、背の高い坑道では背負い籠で採掘物を運びました。
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背の低い坑道では、天秤棒のようなスラ棒を用いて運びました。天秤棒は真ん中が支点ですが、スラ棒はかなり前寄りに支点があるので、熟練を要します。30kgの籠2個60㎏の採掘物を運びました。
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上段:撞木(しゅもく)杖…右肩でスラ棒を担ぐ場合は左手で持ちます。低い坑道用の短い杖で左右のバランスを維持します。
下段:女性用衣装…坑内では前屈みで作業することが多いので、着物の前の部分が短くなっています。 -
這って進むような背の低い坑道では、スラ函に入れて運びます。
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スラ函は橇になっていて、梯子を地面に敷いたような坑道で引っ張ります。「かるい」と呼ばれる紐を両肩に通して引っ張ります。
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主坑道の炭車に積み込めば、1工程終了です。
炭車には金札/炭票が付けられ、誰が運んだ石炭かわかるようになっています。
下段の爪草鞋は、スラ函を曳く際に爪の部分に力が入るので、その部分を強化しています。 -
長崎から北海道まで80程の炭鉱を渡り歩いた井上為次郎氏が後年描いた絵画。運搬を担うのは、採掘者の妻というパターンが一般的。坑内での出産や乳飲み子同伴など、現在では考えられないことが行われていました。暑さで女性も、上半身裸です。喫煙は、空気の新鮮で引火しない安全な場所限定で行われました。館内には山本作兵衛の原画も展示されています。
※1928年に、16歳未満および女性の坑内労働が禁止されます。 -
保坑
掘り進んだ箇所を枠柱で保護して、落盤を防ぐ必要があります。
これも先山の仕事でした。写真のような仕繰斧を持ち込み、支柱用坑木を切断して枠を組みました。命に関わる作業なので、刃先は髭が剃れるほどの状態にメンテナンスしました。 -
選炭
炭車で選炭場に運ばれた採掘物を選別します。女性が担当します。
石炭は比重が軽く、不純物(鉱石)は重たいです。九州では廃石をボタ(硬)と呼びます。 -
機械採炭
最初に登場したのはコールピック。圧縮空気で振動し、炭層に当てて砕きます。
下は砕岩機の先端で、硬い層で使用します。 -
砕岩機本体
写真のように二脚を立てて作業しました。 -
発破
砕岩機で深い穴を開け、ダイナマイトを詰め込みます。穴は土などで塞いで、爆風が逃げないようにします。 -
水力採炭
強力な水圧で水を噴射し、炭層を砕きます。水と石炭が樋を通して貯蔵槽へ流れ込み、石炭だけ炭車へ詰め込みます。筑豊では、大手の2坑で使用されました。
※毎秒30-40リットルの水が噴射されます。 -
長壁式採炭法
従来のトンネルを掘るような進み方をする採掘法から、横一面(100m以上)を一気に採掘する長壁式を採用します。今まで落盤のリスクで取れなかった方法です。 -
荷合(になわせ)
払面(掘削面)と平行に支柱を密間隔で立てて、落盤を防ぎました。松(中身が詰まった樹)の丸太を使用します。当初は、横一列に坑夫が並んで作業しました。 -
ジブカッターによる掘削
コールカッターとも呼ばれます。筑豊では1930年に導入され、32年には221台が稼働。掘削の主力になります。チェーンソー型の回転刃で、首を左右に振ることができます。 -
V字型トラフ(コンベアー)
払面に並行に設置し、掘削してこぼれ落ちた採掘物を受け止め、炭車の停車する坑道まで自動輸送します。以上が、1935年頃の機械化された採掘の姿です。 -
戦後に導入された機械
支柱は木材からカッペと呼ばれる金属製に変化します。天井の高さに合わせて青い柱が上下します。内側の青い柱と外側の橙の筒の間に楔を打ち込み、摩擦力で固定しました(写真一番手前)。摩擦鉄柱と呼ばれ、筑豊では1947年に導入されます。 -
水圧鉄柱
柱の中に水が入っており、ポンプの水圧を下げると柱は短くなり、水圧を上げると固定され、さらに強くすると柱は長く(高く)なります。筑豊では1958年に導入され、摩擦鉄柱にとって代わります。
写真真ん中の鉄柱は、鉄柱内に水圧ポンプが内蔵され、一本ごとに調整します。
写真左の鉄柱は、橙の部分の円い管にホースを接続し、複数の鉄柱を一斉かつ同じ高さに操作できます。 -
H型コンベア
2本のチェーンで動力が伝わります。筑豊では1952年に導入され、コンベアの上にジブカッターを載せてガイドレールにもなるので、大型化が可能になりました。 -
写真のようにジブカッターも大型化されました。
払い面に刃がたくさん付いたホーベルを押し当て、ガイドレールに沿ってもう一方の端まで自動掘削しました。
以上が1960年頃の姿です。 -
ホーベル
全身鉤爪のような刃先で払面を掘削します。筑豊では1956年に導入され、薄い炭層に本領を発揮します。
ドラムカッター
ドラム(円筒)の周囲に刃が付き、回転して掘削します。ガイドレールに沿って払面を自動で移動し、ドラムを上下できます。1962年に導入され、ジブカッターに取って代わります。 -
自走枠
水圧鉄柱は掘削が進むにつれて、前面へ設置し直す(100本を同時に移動)必要がありますが、自走枠は掘削状況をリアルタイムに反映して、自動で前進します。1965年頃から普及し、ドラムカッターと自走枠の組み合わせが最強と言えます。 -
ロードヘッダー
トンネル断面のような、狭い払面を掘削する際に使用します。採掘物はベルトコンベアで吸い上げられ、機体後ろに待機する炭車等に積み込まれます。 -
続いて、中央公民館2階の郷土資料室へ。
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東蓮寺藩(1623-1720)
初代福岡藩主黒田長政の遺言に基づき、1623年に四男高政へ3万石が分地されます。現在の直方に藩庁が置かれ、当時の地名(東蓮寺)をとって東蓮寺藩と呼ばれました。城下町は、現在の直方駅を中心とする図のようなエリアでした。土塁と水路で囲まれました。
※長政の嫡子忠之の素行が最低で、長政は幕府による取り潰しという最悪の事態を想定し、秋月/東蓮寺2藩を独立させて、保険を掛けました。実際忠之は黒田騒動を引き起こし、本来なら取り潰し級の大失態ですが、国内の混乱を危惧した幕府から厳重注意処分で済まされます。 -
初代陣屋(1626)
1616年の一国一城令に伴い筑前国の城は福岡城オンリーとなり、東蓮寺藩は城ではなく陣屋と呼ばれる屋敷を藩庁にしました。石炭記念館へ通じる跨線橋と向井堅一記念館の中間に位置します。現在は双林院になっています。住所は、ズバリ殿町。 -
線路を渡って、石炭記念館の裏側へ移動。
ちなみに跨線橋は、直方機関区のターンテーブルを再利用しています。 -
市立体育館の敷地には、直方館の跡の説明が。
1675年に、藩の名前が僧寺名なのは相応しくないということで、縁起を担いで直方藩に改められます。跡継ぎが生まれなかったこともあって1691年に福岡藩から黒田長清が迎えられます。5万石(+1万)に加増され、現在の御館山に陣屋が移転します。直方藩主居館跡 名所・史跡
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元々多賀神社が鎮座していましたが、陣屋移転に伴い神社は北側へ移動しました。
多賀神社 寺・神社・教会
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陣屋は一辺91mの正方形で、櫓や天守閣は(城に相当するので)建設されませんでした。
長清は、息子の菊千代を跡継ぎがいなかった福岡藩に養子に出します。他に男子がいなかったので、長清の死によって1720年に廃藩になります。 -
直方駅西口に面する雲心寺は、藩の菩提寺となっています。
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本堂裏の墓地には、大きな墓標が。
右は黒田長清の正室のもの、左は彼女の没後に迎えられた正室(後妻)のもので菊千代(福岡藩六代藩主黒田継高)の生母です。
長清は中津藩主の娘を正室に迎えましたが、わずか1年で没したので彼女の妹を正室として迎えます。 -
右奥には、2代藩主黒田之勝の供養塔が。
※供養塔という言葉を用いましたが、実は参勤交代中に江戸屋敷で没しているので、遺体は江戸郊外の寺院に埋葬されています。各藩が江戸にも菩提寺を持っているのは、そのためです。 -
一番奥は、初代藩主黒田高政の供養塔。
通じる道の両脇には、殉死した家臣たちの墓も。家光時代は殉死文化が花開きました。 -
続いて、隣の西徳寺山門。
お寺らしからぬ薬医門。実は、廃藩に伴い、黒田長清居館の門を移設したものです。西徳寺 寺・神社・教会
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半鐘
1664年鋳造で、高さ133㎝。刻文から、福岡城の鐘として使用されていたことが判明。
寺院は、陣屋城下町の西側の丘に配置され、有事の軍事拠点として立地/構造も考慮されています。 -
直方駅を横断して、陣屋城下町探検に移ります。
今も線路がいっぱい。 -
長崎街道
江戸~長崎(東海道/西国街道/長崎街道)を結ぶ天下の大動脈です。遠賀川を挟んで直方陣屋城下町(以下「城下町」と略)の対岸を通っていましたが、廃藩による衰退を防ぐために、城下町を経由するルートへの変更を幕府に申請し、1736年に認められました。 -
現在は、日の出橋が架かっています。道路の先です。
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反対側の景色。
歩道の青い標識がある辺りに城下町の入口(頓野口御門)がありました。北東隅になります。
ここから線路へ向かって進むと、、、 -
須崎町公園遺跡
城下町の北西角に位置し、植木口御門がありました。ここから植木往還が分岐し、植木宿まで接続しました。
1626年の城下町整備では、公園の場所に植木村から円徳寺が転居しました。発掘調査から水路(濠)と土塁の遺構が発見され、防衛システムの一角を担っていたことも分かります。須崎町公園 公園・植物園
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城下町の外には、植木往還に沿って須崎町商店街続いています。
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筑豊(電鉄)直方駅方向へアーケードが延々と続きますが、ほぼ全軒シャッター閉。所々商店が取り壊されることで日差しが入り、明るく健全な歩行者天国になっています。昭和の遺産です。
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再び須崎公園へ戻ると、向かいに円徳寺が見えます。
1952年の市街地計画に基づき、現在地へ移転しました。 -
立派な本堂
石炭王となった貝島太助が寄進して1911年に建立。1952年に移築されました。円徳寺 寺・神社・教会
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本堂横の初代(1911年)鬼瓦
こんな大きな瓦が頂上に載っていたと考えると、凄いです。 -
頓野口方向へ数十メートル戻ると、古町通りが。旧長崎街道です。現在はアーケード商店街になっています。植木口からクランク状になっているのは、敵の侵攻を遅らせるための城下町常套のやり方です。
古町通り商店街 市場・商店街
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古町通り一筋目の交差点にある表示。
実は、ここで交差する道が本当の旧長崎街道でした。
先ほど紹介した日の出橋~上の写真の通り(県道40号)は新道で、江戸時代は頓野口渡しを船で横断して、ここで左折して古町通を進みました。 -
県道40号に並行した旧街道。
現在は明治町商店街のアーケードになっており、古町通りと交差してJR直方駅まで続いています。成金饅頭で有名な老舗和菓子屋があります。(写真は直方駅側から頓野口渡し方向へ向かって撮影)明治町商店街 市場・商店街
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古町通り商店街を南進すると「お仏壇のはせがわ」の店舗が。実は、直方が創業の地で、観光協会のサイトでも紹介されています。
この通りの店舗シャッターも、ほぼ閉です。 -
古町通にハイカラな建築が。元銀行です。
この手前までが、町人町でした。直方谷尾美術館別館 (アートスペース谷尾) 美術館・博物館
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17世紀末の様子。
現在の古町通/明治町商店街のアーケードとピンク色の町の部分が重なります。 -
元銀行(古地図では辻新兵衛宅)に沿って、長崎街道は折れ曲がります。防衛上の理由です。
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通りの右側には土塁が築かれ、陸橋の部分まで続いていました。このように城下町内部にも土塁が築かれました。
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ちなみに陸橋を越えた反対側は、こんな感じ。先ほどの藩主菩提寺の雲心寺にぶつかります。
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先ほどの洋風建築は、旧十七銀行直方町支店として1914年に建てたもの。直方は重要な店舗だったとわかります。当時は、ドームまで付いていたようです。合併に伴って福岡銀行南支店として1997年まで使用されました。現在は、市営ギャラリーとして開放されています。
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長崎街道は、陸橋のある大通りを左折します。
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更に左折します。※
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更に右折して、古町通の延長線の殿町商店街のアーケードが。旧長崎街道沿いが、そのままアーケード商店街になっています。
殿町商店街 市場・商店街
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二つ上の写真の※の部分で、左折せずに右折すると、その先に多賀町公園があります。こちらも城下町内で分岐する長崎街道の支線です。
多賀町公園 公園・植物園
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多賀町公園遺跡と呼ばれ、遺跡(筑豊御三家の貝島太助宅跡)である石柱/石碑/モニュメントが園内各所にあります。
ちなみに道をさらに進むと線路にぶつかり、多賀神社の参道です。 -
線路沿いの陸橋下には、山びこという名のから揚げ屋さんが。何気に美味しかったです。手羽先/中/元/軟骨等、部位ごとに注文。一般的な骨なしから揚げもあります。予約すればたたきもOK.
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線路沿いの旧長崎街道を進み、石炭記念館への跨線橋まで来ると、左側に水路跡が。先ほどの古地図で見ると、東蓮寺藩主居館跡の北側を覆うように土塁と濠が伸びています。
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線路沿いの道には、城下町の境界を走る濠と重なる暗渠の蓋が続きます。
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長崎街道の右側に、歳時記会館があります。
直方歳事館 名所・史跡
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階段を上って敷地に入ると、堀三太郎邸宅跡という石碑が。
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堀三太郎
伊藤伝衛門に次ぐ、筑豊石炭王No.5.
筑豊炭田が見渡せる高台に邸宅を築きました。1930年代には事業を整理し、41年に療養のために現在の福津市の別荘へ転居。その際、土地/家屋を維持費付きで市に寄贈。郷土資料室のある中央公民館は、元々はここでした。 -
建物は改築されましたが、山々が見える景観は、今も変わりません。大きな特徴は、市民の結婚式場(実質無料)として、7000組がここで式を挙げたことでしょうか。
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庭の石灯篭などは、オリジナルのものです。
ちなみに福津の別荘は、福間病院に譲られ医療にも貢献しています。精神系の専門病院で、美しい庭園や薬医門も残り、良い環境でのリハビリという理念を70年ほど実践しています。 -
併設の土蔵では、筑豊の切り絵/カルタ展が行われていました。
直方市の切り絵作家松本佳代さんの個展が開かれ、読売新聞が取材に来ていました。結婚式を描いた切り絵のポストカードをゲットして上機嫌。 -
蔵は、1898年築です。
向こうに、のおがた市体育館が大きく写り込んでいます。筑豊鉄道が開通して線路が切り通されるまでは体育館と地続き。つまりは直方藩陣屋の一部ということです。元々は、直方藩の迎賓館である御茶屋御殿が建っていた場所です。道理で、眺めが良いわけです。 -
再び殿町商店街に沿った方の長崎街道へ戻ります。
アーケードの先には殿町医院が。実は、貝島本社(1909~)跡地です。貝島太助は、自宅も会社も直方に設けました。
写真は、後ろを振り返った構図です。 -
さらに南へ進むと、印象的な建物が。
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直方で生まれ、満州経済界殊に奉天の重鎮として活躍した向野堅一邸宅跡です。
日曜日のデイタイムに開館すると書かれていましたが、なぜか閉まっていました。向野堅一記念館 美術館・博物館
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石原商店及び旧前田園茶舗本店(奥)
1926年築。大正スタイルの商店建築です。直方谷尾美術館別館 (アートスペース谷尾) 美術館・博物館
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耳鼻科として現役の医院。
江浦医院 名所・史跡
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旧奥野医院
東京帝大医学部皮膚科卒、福岡県皮膚医会会長を務めた奥野太一郎宅を兼ねます。直方谷尾美術館 美術館・博物館
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旧篠原家
1915年築の旅館。まもなく篠原家の手に渡り、永らく米屋として営業しました。直方谷尾美術館収蔵庫(旧篠原邸) 名所・史跡
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須賀神社
新町北公園を挟んで、歳時館の入口と対峙します。須賀神社 (新町) 寺・神社・教会
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ここで、分岐した長崎街道と本堂が合流します。
古地図では、三角形の広場(現郵便局)になっています。この地区は切抜とも呼ばれていました。
古地図の写真の左端を見ると、街道の両端が丘になっています。丘を切り抜いて(切り通して)道が造られました。 -
新町交差点から東方向
向こうに見える勘六橋西交差点に、境口御門がありました。遠賀川の境渡し舟で対岸へ移動し境道が通りました。ここまでが1688年までの城下町です。 -
長崎街道は、新町交差点をまっすぐ(斎場方面)進みます。この部分は、黒田長清入府の際に城下町として整備されました。先ほどの切り通しによって町域が広がったということです。
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通りを渡ってすぐは、重臣の屋敷が建ちました。右枠外方向には陣屋の表門があったので、陣屋を防衛する意味です。
重臣の屋敷の先で濠を渡ると、拡張された城下町です。その先には尾崎口御門があり、飯塚宿へ続きます。 -
先ほどの古地図の範囲を広げたもの。
北は右方向になります。
青で加筆した橋マークが切り抜き(切り通し)です。
重臣の屋敷を挟んで、濠と土塁で囲まれた拡張城下町です。その上には、遊郭(赤丸)が描かれています。 -
陣屋から眺めた拡張城下町
麓が陣屋表門、山が迫った右枠外が遊郭です。 -
土塁跡
旧十七銀行の反対側の道を遠賀川へ向かうと、城下町の境界線である土塁跡があります。写真では自動販売機の左側です。 -
こちらは道路の右側
土塁は遠賀川の堤防も兼ね、洪水から城下町を守りました。古地図では右川を埋め立てて中島と陸続きにし、川を城下町から遠ざけた形跡が記録されています。しかし、1905年の大洪水で、堤防内の直方駅も1.4mの浸水等の被害を受けます。 -
遠賀川改修工事(1906-17)
遠賀川流域の自治体は共同で、河川改修工事を行います。筑豊石炭工業組合も多くを出資しました。流路の直線化/付け替え、川幅拡張/川底の掘り下げ/堤防の強化を行いました。 -
遠賀川水辺館横には、記念碑が建ちます。
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国交省の啓発施設。
筑後川のそれと比べると、見劣りする内容です。遠賀川水辺館 美術館・博物館
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遠賀川水系
飯塚は嘉麻川と穂波川が合流して遠賀川になる地点、直方は彦山川が合流する地点、木目瀬宿は犬鳴川が合流する地点と、水運の要所と一致することがわかります。 -
河川改修工事で河川敷から堤防内へ進化したスペースには、市役所/消防署/警察署/郵便局/学校といった施設に充てられました。。
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おまけ
堀三太郎は、晩年に筑豊電鉄の経営にも携わりました。黒崎~博多を結ぶ路線として工事を始めましたが、1959年に筑豊直方まで開業したのを最期に、残りは実現しませんでした。筑豊直方駅の高架線が突然終わっているのは、博多伸張の名残です。 -
おまけ2
直方市は、1869年に人力車を発明した和泉要助の出身地。西洋式馬車をヒントに考案しました。翌年に東京府の認可を取って、開業します。あっという間に国内に普及したことは、周知のことかと思います。
次は、製鉄所や若松港を通して大いに発展した洞海湾をリサーチします↓
https://4travel.jp/travelogue/11860090
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