2023/07/29 - 2023/07/29
798位(同エリア1344件中)
kojikojiさん
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この旅行記スケジュールを元に
「大内宿」でのお昼も兼ねた散策を終えて、ツアーバスは会津若松市に向かいます。会津若松には以前に妻と来たことがありましたが、東山温泉に泊まりながらも会津本郷焼の窯元を訪ねたりすることを優先して、「鶴ヶ城」は温泉に向かうバスの車窓から眺めただけでした。ようやく念願の「鶴ヶ城」を見学することが出来ます。バスは「鶴ヶ城会館」というお土産屋さんの駐車場で我々を降ろし、ここでも1時間30分ほどの自由時間になります。「大内宿」も暑かったですが会津若松はさらに暑く、野馬追の観戦用に持ってきた空調ベストを持ってきて良かったと思います。今回は日傘にネッククーラーに空調ベストと氷嚢を持ってきていろいろ試してみることにしています。この旅の次はクルーズ船で東北と四国の夏祭り巡りのクルーズが待っているので前哨戦の意味合いもありました。ぶらぶら「鶴ヶ城」まで全員で歩いた後は自由見学になりますが、お城にエレベーターが無いので妻はお城の見学は諦めて、しばらくすると涼しい「鶴ヶ城会館」に戻ってしまいました。以前来たのは20年ほど前のことなので、その間にNHKの大河ドラマの「八重の桜」が2013年に放送されていました。そこで改めて会津戦争について考えることもあり、早く来たいと思っていた城でもありました。城内は博物館になっていて、改めて学ぶことも多く、司馬遼太郎の街道を行くの「白河・会津のみち、赤坂散歩」を読み直してみようと思いました。幕末の会津藩への強い同情心が溢れ、松平容保と会津藩士の牢固な士風がもたらした悲劇の後に、国家が会津藩にした仕打ちを批判していたのが印象に残っています。最後は暑さでふらふらになりながら「鶴ヶ城会館」に戻り、バスに乗って宿泊地の福島市に向かいます。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 観光バス 新幹線 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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会津若松市内に入ったバスは「鶴ヶ城会館」の駐車場に停車しました。ここで1時間30分の自由時間になり、添乗員さんと共に天守の近くまで向かうことになります。綾瀬はるかの「ならぬことはならぬものです。」というセリフが思い出されます。
大内宿 名所・史跡
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「八重の桜」は開国派か攘夷派などの思想の違いによる分断が起きようとしていた日本の時代の転換期に、会津藩の砲術師範の家に生を受けた山本八重が藩軍備の洋式化を目指す兄の覚馬や、その友である洋学者の川崎尚之助らの側で会津地方そして日本の変化を感じていく物語でした。個人的には後半の同志社大学を設立する後半より会津での場面が好きでした。
鶴ヶ城会館 グルメ・レストラン
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「鶴ヶ城」周辺の山本八重にゆかりのある地のマップがありました。時間があれば巡ってみたい気もしますが、あまりに暑いのと天守を見学するとあまり時間は無さそうです。
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北出丸大手門の跡には立派な枡形が残っていました。戊辰戦争時に難攻不落といわれた「鶴ヶ城」の片鱗を見た気がしました。
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この辺りの石垣は切込み接ぎ(はぎ)という石の積み方のようです。現在は蔦で覆「夏草や兵どもが夢の跡」といった風情を感じます。
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天守は博物館になっていますが、ちょうどこの春にリニュアルオープンしたばかりだと知りました。
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五軒丁濠までやってきましたが、天守の姿はどこにも見えません。濠の大きさからもこの城を攻略するのは大変だろうなと思えます。近代になって遠くから大砲で攻撃しなければ攻め落とすのは難しそうです。
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一部しか見ていませんが、周囲の石垣がこれほど残されているとは思いませんでした。戊辰戦争では近代兵器を駆使した新政府軍も「鶴ヶ城」の中には侵入することが出来なかったことが思い出されます。
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ようやく「鶴ヶ城」の天守の足元に着きました。ここで添乗員さんがまとめて入場券を購入して、それぞれで見学することになります。
鶴ヶ城 (若松城、鶴ヶ城城址公園) 名所・史跡
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司馬遼太郎は「街道をゆく 白河・会津のみち」で会津若松に入ると幕末の会津藩への強い同情心が溢れてきて、松平容保と会津藩士の牢固な士風がもたらした悲劇の後に、新政府が会津藩にした仕打ちを苛烈な言葉で批判しています。
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文久2年の1862年に松平容保は28歳で京都守護職に就任します。再三この職を固辞していましたが、政治総裁職だった松平春嶽や幕臣たちは日夜勧誘に来た上で、会津藩家訓を持ち出し「土津公(正之)ならばお受けしただろう。」と言って詰めより、辞する言葉もなくなり奉命を決心します。
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文久2年の1862年の幕政改革で幕政参与となり新設された京都守護職に就任し、尊王攘夷運動が熾烈になった京都の治安維持にあたり、尊王攘夷派志士弾圧の指揮をとります。1863年の政変では中川宮や薩摩藩らと協力して長州藩などの尊攘派勢力を追放し、一橋慶喜、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、島津久光とともに参与として朝政に参画し、公武合体策による国政挽回を図りますが内部対立のために失敗します。
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元治元年の1864年にこれを好機として禁門の変(蛤御門の変)を起こした長州藩を薩摩藩と桑名藩とともに撃退し、長州征伐には陸軍総裁職、のち軍事総裁職につき京都守護職にも復しました。その後は徳川慶喜と協力して条約勅許問題などで活躍しましたが慶応3年の1867年の薩長両藩の画策が功を奏し、容保誅戮の宣旨が出され大政奉還後に慶喜とともに大坂に退去し、鳥羽伏見の戦いに敗れて海路を江戸へ逃れます。慶喜に再挙を説きましたが受け入れられず、会津で奥羽越列藩同盟の中心となり、東北から北越に兵を展開して会津戦争では籠城のうえ降伏します。会津の歴史については城内が博物館になっており、詳しく知ることが出来ました。
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「木造佐原義連座像」
佐原義連(よしつら)は相模国の武将だった三浦氏の一族で、佐原に館があったことから佐原姓を名乗ります。源頼朝に仕えて文治5年の1189年の奥州藤原氏攻めの功績により会津などを領地として与えられます。直接会津に来た記録はありませんが、以降20代400年にわたって会津の領主となった葦名氏の始祖です。 -
「葦名家」
文治5年の1189年の奥州合戦の功により、三浦義明の7男の佐原義連に会津が与えられますが、蘆名姓を名乗るのは義連の息子盛連の4男光盛の代になってからです。天正17年の1589年には奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原の戦いで大敗した蘆名義広は常陸に逃走し、蘆名氏は没落していきます。 -
「木造葦名盛高座像」
文正元年の1466年に父の死により家督を相続して13代目の領主となります。文明11年の1479年には土豪の渋川義基を滅ぼして勢力を拡大し、明応9年の1500年には重臣の松本輔政を、翌年には一門の猪苗代盛頼を討ち取るなど家中の反抗的な者を討ち、蘆名氏の戦国大名化に尽力しました。 -
「伊達家」
16代当主の蘆名盛氏が天正8年の1580年に没すると近隣の戦国大名らとの領土争いや後継者争いにより急速に勢力が衰え、20代義弘が北隣の伊達政宗の侵略を受け、磐梯山麓での戦いに敗れて葦名氏の会津支配は終わりを告げます。 -
「黒塗六十二間筋化兜(模造)」
伊達政宗が会津の甲冑師だった雪下氏を自らの家臣に加え、会津から離れる際も連れ帰り、自藩での甲冑の製作を命じます。政宗の甲冑としてもっとも有名な三日月の前立てのある黒漆塗りの甲冑は仙台では「仙台胴」と呼ばれますが、会津では「雪下胴」と呼ばれます。 -
「蒲生家」
豊臣秀吉の奥州仕置きにより会津は蒲生氏郷に与えられます。会津藩92万石となり黒川城を改築して若松城と名を改め、会津藩の基盤を築きます。秀吉が進める全国統一で東北地方を平定させる役割は大きかったのですが、蒲生騒動など不運が続き蒲生氏は3代で終わりを告げます。 -
「燕尾形兜(模造)」
蒲生氏郷はキリシタン大名で、洗礼名はレオンでした。織田信長の人質ながらも寵愛を受け、信長の娘である冬姫を娶っています。信長の死後には各地で功績を挙げ、秀吉からも重用されます。千利休の弟子であり、利休七哲にも数えられる一流の茶人でもあったといわれます。 -
「上杉家」
蒲生氏の後は五大老の1人だった上杉景勝が会津領主になります。石高は全国3位の120万石でした。秀吉の死後はその遺志を尊重しようとする景勝と徳川家康が対立します。景勝の重臣だった直江兼続が家康を非難すると、家康は会津討伐のために京都から出陣します。それを狙った石田三成が挙兵すると家康は引き返して関ケ原で小トスします。家康の勝利の後に景勝は会津を没収されて米沢藩30万石に減封処分となります。 -
「黒塗六十二間筋化兜(模造)」
上杉景勝は戦国時代に「軍神」と称された武将の上杉謙信の甥です。上田長尾家出身の叔父の謙信の養子となり名を上杉景勝と改め、実子のいない謙信の死後は上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となります。 -
この兜は鉢の部分が小ぶりなので大人になる前の物ではないかと考えられます。武将の信仰をあつめた摩利支天(まりしてん)のシンボルである卍(まんじ)をいのしし形の前立てにあしらった特徴的なデザインです。摩利支天は護身や蓄財などの神として日本で中世以降信仰を集めました。楠木正成は兜の中に摩利支天の小像を篭めていたといい、毛利元就や立花道雪は摩利支天の旗を旗印として用いました。帝釈天が阿修羅と戦った際に日と月を守ったと伝えられ、猪は摩利支天が乗る動物とされます。
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「加藤家」
寛永4年の1627年に蒲生忠知と入れ替わりで伊予松山から加藤嘉明が倍の加増の40万石で会津に入部します。徳川秀忠が藤堂高虎を選ぼうとしましたが、辞退して嘉明を推挙したために秀忠は嘉明を会津に加増して入れました。既に嘉明は65歳の高齢の上に伊予松山で藩政の基礎を固めていたことからも移封は嬉しいことではなかったと言われます。2代にわたって城下の大規模な改修を行い、天守閣を再建し、街道の整備も実施しますが、家臣の反乱による会津騒動の末に幕府に会津40万石を返上します。 -
「大黒頭巾鳥毛飾科兜(模造)」
加藤嘉明は豊臣秀吉の下で賤ヶ岳の七本槍の1人に数えられ、朝鮮出兵では水軍の将として活躍し、関ヶ原の戦いでは本戦で東軍の将として武功を立てた勇将です。この兜は松山城に伝えられる甲冑で6月の四国の旅で「松山城」で見たような…。 -
「保科・松平家」
加藤家改易後の寛永20年の1643年に出羽山形藩より3万石加増の23万石で保科正之が入部し、以後会津藩は会津松平家(保科家)の支配が定着すします。会津松平家は幕末までに内高は40万石を突破して、表高より内高が下回ることすらあった徳川御三家の水戸藩より実収入が多い藩となり、藩の軍事力もこれを上回っていました。保科正之は第2代将軍徳川秀忠の落胤で、第3代将軍家光の異母弟です。家光の信頼を受けて幕政に重きをなし、家光没後に11歳の嫡子家綱が第4代将軍になると、正之は叔父として後見を務め大老として江戸で幕政を統括します。 -
「三つめ」
保科正之は幕府の中枢にあった際には武断政治から文知政治へ転換させ、安定した幕藩体制の基礎を築き、会津藩でも彼の教えは最後まで貫かれました。 -
この書は正之自筆とされますが、和歌は平安時代の歌人の凡河内躬恒(おうしこうちみつね)が詠んだ歌で「古今和歌集」に入っています。
家にさくはなのさける
をみにきたりける人によみて
おくりける
三つね
わがやどの はなみがてらに
くるひとは ちりなむのち
ぞこひしかるべき -
「家訓(かきん)(写本)」
寛文8年の1668年に保科正之は会津藩の憲法ともいえるこの家訓を制定しました。「会津風土記」を書いた家老の友松氏興が建言し、正之と朱子学者の山崎闇斎と共同で作成したのではないかとされます。この家訓は以後200年にわたり、会津藩の精神的支柱として存在しました。 -
「会津家訓15カ条」
一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
一、武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。 上下の分、乱るべからず。
一、兄を敬い、弟を愛すべし。
一、婦人女子の言、一切聞くべからず。
一、主を重んじ、法を畏るべし。
一、家中は風義を励むべし。
一、賄を行い、媚を求むべからず。
一、面々、依怙贔屓すべからず。
一、士を選ぶに便辟便侫の者を取るべからず。
一、賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し出位の者あらば、これを厳格にすべし。
一、近侍の者をして、人の善悪を告げしむべからず。
一、政事は利害を以って道理を枉ぐべからず。僉議は私意を挟みて人言を拒むべらず。思う所を蔵せず、以てこれを争そうべし。甚だ相争うと雖も我意を介すべからず。
一、法を犯す者は宥すべからず。
一、社倉は民のためにこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓うれば則ち発出してこれを済うべし。これを他用すべからず。
一、若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、土民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表して蟄居すべし。
右十五件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
寛文八年戊申四月十一日 会津中将
家老中 -
「松平容保肖像写真」
第9代藩主松平容保の肖像写真です。京都守護職時代に撮影されたものと伝えられ、年齢は20代後半で若々しい姿です。羽織っている陣羽織は孝明天皇から頂戴した緋色の生地を用いているといわれます。この後の会津の悲運を思うと正視できません。 -
錦絵「京都戦争之図」
禁門の変の時の松平容保を描いた錦絵です。戦国時代さながらの姿で馬上で敵の首をぶら下げた勇ましい姿で描かれています。実際はこの頃は体調を崩していて、御所へ参内するのも特別に籠にのったままで、両脇から支えられなければ歩くことも難しい状態だったそうです。 -
会津の歴史の中に「利尻島」の文字を見つけたとき昨年の利尻島と礼文島の旅を思い出しました。利尻島の鴛泊港の近くに宿泊した際に夕方に散歩へ出てペシ岬へ行った時のことです。
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ぺシ岬への道を少し上がったところに「会津藩士の墓」がありました。鎖国政策の中でロシア通商使節のニコライ・レザノフが実力での通商を図ろうと、ロシア皇帝のエカチェリーナ2世とその跡を継いだパーヴェル1世の許しを得ずに、樺太や北海道の漁村で略奪を行いました。そのため幕府は襲撃に備えるよう文化4年の1807年に蝦夷地への出兵と防備を会津藩に命じています。1633名の藩士は樺太や宗谷、利尻や松前を警固しました。
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実際の交戦はありませんでしたが、このとき多くの藩士は寒さと野菜不足のせいで、体がむくみ、腹がふくれ、呼吸困難に陥りました。これは水腫病(すいしゅびょう)の症状だったそうです。
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会津藩士たちは文化5年の1808年の10月から翌年にかけて帰還します。しかし帰路の途中に嵐に遭い船が難破して51名の死者を出しました。そして利尻島には3ヶ所で8基の墓が残されました。墓石は文化7年に7代藩主の松平容衆の命により、新潟で石を刻み松前経由で運ばれました。会津からこんなところまで遣わされたのかと驚くと同時に呆れたことを思い出します。
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会津藩の歴史を学ぶ途中で「会津の産業」のコーナーはほっと一息つくことが出来ました。江戸時代は米(年貢)が藩の財政の基盤でしたが、天候などの影響で不安定な作物ということもあり、それを補うためと貨幣経済の発達により専売品の販売で藩の収入を増やすことが考えられます。会津藩の財政を支えた重要な産業が「漆」と「蝋」と「陶磁器」でした。
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会津の地に本格的に漆工芸が根付いたのは、天正18年の1590年のことで、豊臣秀吉の命を受けて会津の領主となった蒲生氏郷が産業として奨励したことによります。氏郷は前の領地であった滋賀県の日野から木地師や塗師を呼び寄せて先端技術を伝授させます。これによって会津塗の技術は飛躍的に進歩を遂げ、漆の栽培から加飾(かしょく)までを一貫して手がける一大産地となっていきます。江戸時代には会津藩の藩祖の保科正之が漆の木の保護育成に努め、歴代藩主が技術革新に熱心に取り組み、中国やオランダなどへも輸出されて隆盛を迎えます。
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戦国時代に会津若松の黒川城(若松城)の屋根に使う瓦を焼いたことから、焼き物作りが始まったと言われています。江戸時代の初期には藩によって焼き物作りを保護と育成をしたため、会津本郷焼は会津藩の御用窯として栄えました。
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絵ろうそくは菊や藤、牡丹などの草花の絵が色鮮やかに描かれた会津の伝統工芸品です。室町時代に会津を治めていた葦名盛信が漆の木の栽培を勧め、漆塗りとともにその実から採れる蝋でろうそくを作らせたことが始まりといわれています。この伝統は戦国の世の中で絶えることなく続き、江戸時代になると会津の絵ろうそくは最高級品のろうそくとして参勤交代の度に献上されていました。「南天と福寿草(難を転じて福となす)」が描かれた絵ろうそくを献上したところ、綱吉公に喜ばれて日本中に広く知られることになったそうです。
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「白虎隊自刃図」
白虎隊は日本の幕末維新における戊辰戦争の一環である会津戦争に際して、会津藩が組織した武家男子を集めた部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていました。名称は中国の伝説の神獣「白虎」に由来し、年齢差により同じよう「朱雀」「玄武」「青龍」の各組もありました。会津藩の敗色が濃くなる中での飯盛山での自刃で知られますが、戦死や自刃をしなかった隊士約290人は明治維新後を生きています。飯盛山へと落ち延びた隊士は深刻な負傷によりこれ以上は戦えないと悟り、結果として7名(20名という説もある)が自刃を決行し、6名(19名という説もある)が死亡します。唯一喉を突いた飯沼貞吉(貞雄と改名)のみが一命を取り留めました。この絵では遠くに燃える鶴ヶ城が見えます。 -
「斗南藩成立」
斗南藩は戊辰戦争に敗れ領地を没収された会津藩が明治2年の1869年11月に再興を許された藩です。翌年4月から旧藩士らが移住を開始しましたが、寒冷地の過酷な自然条件の中で苦しい生活を強いられます。明治4年の1871年7月の廃藩置県で斗南県となり、さらに9月に青森県に編入され、わずか2年足らずで斗南藩は消滅しました。 -
「鶴ヶ城取り壊し」
1384年に葦名直盛が鶴ヶ城の前身となる館の東黒川館を築き、当時は黒川城と呼ばれていました。1590年に蒲生氏郷が領主となり初めて石垣や濠を備えた本格的な近世城郭を築いて城下を整備し、天守閣を1593年に完成させ鶴ヶ城と命名します。その後1611年に会津盆地を震源とした大地震が発生し、石垣の崩壊や天守閣が傾くなどの大きな被害を受けると、1627年に城主となった加藤嘉明と明成親子が被害を受けた城を大規模改修し、強固な守りを誇る現在の鶴ヶ城と同じ姿となりました。1868年1月に戊辰戦争が開戦し8月には戦場が会津に移り、大量の砲弾を受けながら1か月もの籠城戦を経て降伏開城した鶴ヶ城は、1874年には石垣を残して建物部分がすべて取り壊されました。 -
「山本覚馬」
会津藩士で砲術指南役の山本権八の長男として鶴ヶ城近くの武家屋敷に生まれます。妹は八重の桜の主人公にもなった山本八重(新島八重)です。4歳で唐詩選の五言絶句を暗唱、藩校の日新館に学んで頭角を現わし、京都守護職に就任した藩主の松平容保に従い京に上り、砲兵隊を率いて参戦した禁門の変において勲功を挙げて公用人に任ぜられます。これにより覚馬は幕府や諸藩の名士等と交わる機会が増えて活動範囲を広げますが、不幸にも眼病を患ってほとんど失明同然の状態になります。その後に新島襄と知り合い、学校設立計画を知り、維新後に購入していた旧薩摩藩邸の敷地6,000坪を学校用地として新島に譲渡し、新島との連名で「私学開業願」を文部省に出願してこれが認可され、後の同志社大学となっていきます。 -
「新島八重」
慶応4年/明治元年の1868年に会津戦争が始まると、鉄砲を主力に戦うべきと考え、刀や薙刀で戦うとした婦女隊には参加せず、断髪し男装して家芸であった砲術をもって奉仕し、鶴ケ城籠城戦では自らもスペンサー銃と刀を持って奮戦しました。会津藩にはスペンサー銃は八重が所持する1挺しかなく、スペンサー銃専用の銃弾の備蓄はありませんでした。八重は自らが入城時に持ち込んだスペンサー銃専用の銃弾100発のみで戦うことになります。優秀な射手であり薩摩藩2番砲兵隊長だった大山厳を狙撃して戦線離脱の重傷を負わせたと言われています。明治4年の1871年に京都府顧問となっていた兄の山本覚馬を頼って上洛し、兄の元に出入りしていたアメリカン・ボードの準宣教師の新島襄と知り合い結婚します。 -
最上階からは360度の眺望が楽しめますが、ココが会津戦争の激戦地だったと考えると複雑な気分にはなります。掲げられた案内写真には会津戦争に関わる地名がたくさん出ています。
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遠くに会津磐梯山が見えました。手前の山並みの右側が飯森山で、白虎隊は砲火にさらされる鶴ヶ城を見たのだと思います。
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民謡の「会津磐梯山」には「会津磐梯山は宝の山よ 笹に黄金がなり下がる」という歌詞があって、「笹に黄金がなり下がる」の意味について議論されていますが、飢饉の時に笹に黄金の実がついたという説や磐梯山の周辺は気候が良いので作物が豊富に収穫できるという説、磐梯山からは砂鉄が産出されるという説などがあるようです。
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「会津磐梯山」のお囃子では「小原庄助」という人物が登場します。モデルとなった人物についてはたくさんの説があってわからないようですが、小原庄助は「朝寝・朝酒・朝湯が大好きで」そのために財産がなくなり無一文になってしまったといわれています。
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朝寝、朝酒、朝湯は至福の時であり、「会津磐梯山」の歌詞でも「朝寝朝酒朝湯がよけりゃ おいでなされや東山」と歌われています。朝湯、朝酒、朝湯がしたいのなら、会津の東山温泉に来てくださいといっています。以前から計画はしているのですが東山温泉の「向瀧」に泊まってみようかと思います。
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白くポツンと見えたのは「祈りの里 会津村」にある「会津慈母大観音像」で、高さは57メートルあるようです。この後福島市へ向かう車窓からは間近に見ることが出来ました。
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真ん中の東山温泉の白いビルの左側辺りに院内御廟(会津藩主松平家墓所)があります。東山温泉には前に妻と行っていますが、次は「向瀧」に泊まろうと言って20年が経ちました。
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あまりの暑さのせいか本丸庭園を歩く人の姿もほとんどありません。
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小高い山は「向羽黒山城跡」です。向羽黒山城は永禄4年の1561年に葦名盛氏によって築城が開始され、隠居した盛氏は死ぬまでここに住んで葦名氏の政務を見ました。天正17年の1589年に葦名氏は摺上原の戦いで伊達政宗に敗れて滅亡しますが城は存続し、会津領主となった政宗や蒲生氏郷、上杉景勝も詰の城として使用していました。関ヶ原の戦いで上杉景勝の従う西軍は敗北し、所領を転封されることに伴い廃城となります。
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NHKの大河ドラマ「八重の桜」で綾瀬はるかの着ていた衣装が展示してありました。弟の三郎の遺品の軍服だったことを思い出します。左側は松平容保の衣装で、綾野剛が着ていたものです。肖像写真にあった緋色の陣羽織の色を確認することが出来ます。
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現在の天守は1965年の昭和40年に鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたもので、平成12年には天守に続く建物「干飯櫓・南走長屋」が江戸時代の工法と技術を用いて復元されました。平成23年には幕末当時の姿を再現するために「赤瓦」へのふき替えが完了し、現存する天守閣では国内唯一の赤瓦の天守となっています。
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見学を終えて干飯櫓から表に出ると天守が美しい姿を見せてくれます。土塁の上に立つと見上げるよりも「赤瓦」が余計に映えると思います。
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現在は土塁になっていますが、昔は月見櫓まで間が矢が続いていたのではないでしょうか。春に来れば桜がきれいなのだろうと感じます。
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そのまま先に進むと松並木に変わってゆきます。
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本丸の芝生の庭まで降りてきました。この角度の「鶴ヶ城」も美しいです。
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「荒城の月碑」
茶室「麟閣」の南に立つのが「荒城の月」の歌碑です。瀧廉太郎の作曲で有名な「荒城の月」は仙台出身の詩人の土井晩翠の作詞で、仙台城(青葉城)と鶴ヶ城をイメージして作詞したともいわれているそうです。これは昔NHKの「名曲アルバム」で画面のテロップに出ていたなと思い出しました。 -
春高楼(こうろう)の花の宴(えん)
めぐる盃(さかずき)かげさして
千代の松が枝えわけいでし
むかしの光いまいずこ
秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁(かり)の数見せて
植うるつるぎに照りそいし
むかしの光いまいずこ
いま荒城のよわの月
替わらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかづら
松に歌うはただあらし
天上影は替わらねど
栄枯(えいこ)は移る世の姿
写さんとてか今もなお
嗚呼荒城のよわの月
https://www.youtube.com/watch?v=XStBkxFAv1A -
「麟閣」
天正19年の1591年に千利休は豊臣秀吉の怒りにふれ死を命じられました。それにより利休の茶道が絶えるのを惜しんだ時の会津城主蒲生氏郷は、利休の子少庵(しょうあん)を会津にかくまい、徳川家康とともに秀吉に千家の再興を願い出ました。この時に建てたのがこの「麟閣(りんかく)」と伝えられています。正門の扁額は平成7年に奉納された裏千家15代家元の鵬雲斎 千宗室の揮毫です。 -
蒲生氏郷は織田信長の娘婿であり、文武両道に秀で、特に茶道では利休の弟子(利休七哲)の筆頭にあげられるほどでした。文禄3年の1594年に少庵は許されて京都に帰り、その子の宗旦(そうたん)に千家茶道が引き継がれました。そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表千家、裏千家、武者小路千家の三千家が興され、今日の茶道隆盛の基が築かれました。
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天守に階段しかないと知った妻は涼しい「鶴ヶ城会館」へ戻ってしまいましたが、「麟閣」でお茶でも飲んで待ってもらえばよかったと思いました。こちらも一休みしたいところですが、一服いただいている時間もありません。
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「鶴ヶ城会館」を出たバスは磐梯山と猪苗代湖の間の磐越自動車道を福島市に向かって走ります。途中に毎年ふるさと納税している湯川村の近くを通過しました。しばらく走るとバスの左側の席だったので磐梯山はきれいに見えましたが、猪苗代湖からは離れているのでほとんど見えませんでした。
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会津磐梯山を初めて知ったのは子供の頃に見たテレビのCMでした。大塚文雄の歌う「会津ほまれ」の唄は何円経っても耳に残っています。
https://www.youtube.com/watch?v=GiZ6031qX0w -
「ホテルリステル猪苗代」の建物が見えました。その背後には安達太良山が控え、彫刻家の高村光太郎が著した詩集「智恵子抄」に収録された「あどけない話」を思い出しました。
「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空がみたいといふ。……阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ。」
それと同時に北海道で生まれ育った智恵子という姪のことを思い出します。小学1年生の夏休みに1人で東京に来た姪を豊島園のプールに連れて行くと、「おじちゃん、東京のプールには屋根がない!」と叫んだ声が忘れられません。福島駅 駅
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