
2023/07/02 - 2023/07/22
33位(同エリア598件中)
マリアンヌさん
- マリアンヌさんTOP
- 旅行記336冊
- クチコミ25件
- Q&A回答1件
- 303,557アクセス
- フォロワー136人
午後は、教会めぐりを堪能し、夕食はアレーナを見ながらいただいた。
ヴェローナ2日目は遠足へ。電車とバスを乗り継いでイタリアの最も美しき村のひとつボルゲット(ヴァレッジョ・スル・ミンチョ)へ出かけた。
7/3 ヴェローナ
7/4 ヴェローナ
7/5 ボルゲット,ヴェローナ
7/6 ヴィピテノ
7/7 キウーザ,ボルツァーノ
7/8 チロル城,カステルロット
7/9 トレント
7/10 サン・ロレンツォ・イン・バナーレ,トレント
7/11 トレヴィーゾ
7/12 アーゾロ,バッサーノ・デル・グラッパ
7/13 ヴィチェンツァ
7/14 サン・ボニファッチョ,ヴィチェンツァ
7/15 ガルドーネ・リヴィエラ,デゼンツァーノ・デル・ガルダ
7/16 コモ
7/17 ベッラッジョ,メナッジョ
7/18 トレメッツォ,レンノ,ベッラッジョ
7/19 ヴァレンナ,ベッラーノ
7/20 ミラノ
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いい感じの色合いの建物だなぁ。好きな雰囲気です。
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観光汽車ぽっぽ、街の概要を知るにはいいんだけどお高めだし、これ乗っちゃったらお終いだな的感じるがして(汗)
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門のところの装飾が素敵。
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イタリアも酷暑、なるべく日影を歩いて次の教会を目指します。
今まではアナログ旅だった私、オフラインマップで街歩きしてたのだけど、今回からはesim入れたのでGoogle Mapの方向も出るので無駄がない。 -
着いたようだけど、何だか新しめの感じだな…と思ってたら。
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どうも改修中のよう。入れるの?4教会セット券売ってたんだから入れるよね。
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実は修復中でファサードが見れなくて画像、ネットからお借りしました。
Chiesa di San Fermo
1261年、サン・フランチェスコ・アル・コルソ修道院からサン・フェルモに到着したフランシスコ会は、ベネディクト会に代わって聖フェルモとルスティコの聖遺物の保管と併設病院の管理を担当したが、それは修道院長グスメリオの指導と後援者グリエルモ ディ カステルバルコの寄付のおかげで改修工事が開始され、正面アトリウムとゴシック様式のファサードを含む上部教会の完全な再建につながりました。
1759 年、アディジェ川の洪水から殉教者の遺物を保存するために、鉛のケースと遺物を備えた石棺が上部教会の新しい主祭壇の中央に設置されました。1807年、フランシスコ会はナポレオンの占領を受けてサンフェルモを離れることを余儀なくされました。修道院の大部分は国有地となり、教会は教区の本拠地となり、教区の聖職者に委ねられた。2004 年に発掘活動が完了し、初期キリスト教会の基礎の遺跡が明らかになりました。 -
Entrata(入口)から入り下に下ると…
Chiesa di San Fermo なんて素晴らしい空間!
改修中のゴシック様式のフランシスコ会様式の上部教会の下にロマネスク様式のベネディクト会修道士の下部教会があるのです。 -
ガイドより
サン フェルモの歴史は、西暦 304 年にアディジェ川のほとりで殺害された殉教聖人フェルモとルスティコへの献身を何世紀にもわたって示す驚くべき証言です。彼らの物語は、巨匠ルチアーノ・ミングッツィによる 1997 年の作品で、門を飾るブロンズの浅浮き彫りでよく語られています。(それ確認出来ず) -
La Chiesa Inferiore(下部教会)
下の教会は 4 つの身廊に分かれており、3 つの後陣で囲まれています。1900 年に周囲の村が取り壊されたおかげで、今日でも外側から見ることができます。十字の丸天井、身廊の 4 つの分割、階段システムの一部、および窓、装飾装置に加えて、複合施設全体の最も古い絵画の証拠の 1 つです。 -
低層教会には70を超えるフレスコ画が保存されており、そのほとんどは柱に描かれた奉納像です。最も古いもののひとつ、キリストの洗礼。
別途こんな解説も
救い主は全裸で描かれていますが、片足で性器を覆っています。フレスコ画にはさらに、洗礼者聖ヨハネ、聖霊の鳩、そして洗礼を受けたイエスに着るローブを持った二人の天使が描かれています。2 つのフレスコ画は 12 世紀のもので、明らかにビザンチン様式で描かれています。 -
こちらも最も古いもののひとつセントヘレナの授乳聖母。
おそらくキリストの洗礼と同じ作者による作品です。生き生きとした色彩感覚を持つ12 世紀半ばの匿名の芸術家です。
別途こんな解説も
最も興味深いのは、聖母子、皇后ヘレナとその息子、ローマ皇帝コンスタンティヌス大帝 (306-337) の像です。マドンナは赤ん坊のイエスに授乳しているが、イエスは赤ん坊というより小さな大人のように見える。ヘレナは、少なくとも伝承によれば、326年から327年にかけて聖地への旅行中に発見した遺物である真の十字架を持っています。彼女の息子コンスタンティヌスはローマ帝国初のキリスト教皇帝となった。彼は臨終の床に就くまで洗礼を受けなかったが、その長い治世中にキリスト教徒を優遇したという十分な証拠があるため、337年以前に彼が自分自身をキリスト教徒として考えていた可能性を排除することはできない。 -
ロマネスク様式の小さな窓から差し込む光の不足を補うために、ベネディクト会は壁、柱、丸天井を石灰乳で白塗りし、赤い線でマークを付けて壁を装飾し、モールディングの輪郭を描き、装飾モチーフをデザインしました。スペースが許す限り、彼らは、非常に古い祖先の象徴、キリスト教の象徴における復活のキリストの象徴である6枚の花びらを持つ二重円を挿入しました。その形状はギリシャ文字の X と P から生まれたクリストグラムに由来しています。
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殉教者のフェルモとルスティコの遺骨は、西暦 5 世紀に彼らの栄誉を称えてここに建てられた小さな聖堂に納められました。ヴェローナ司教 S. アノーネが殉教者の遺骨を石棺に納めたのは 755 年のことでした。初期キリスト教会の告解室にある「鉛の石棺」の中に置かれました。
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繊細な植物モチーフの装飾が、表情豊かな 15 世紀の木製十字架の背景を飾っている。
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ロミオとジュリエットの関係でいえば、シェイクスピアの戯曲およびマッテオ・バンデッロの原作によれば下部教会は、ロミオとジュリエットが亡くなった場所だそう。
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ヴェロネーゼの伝統によれば、ベルガモ出身の貴族フェルモはキリスト教徒だったため投獄されたという。田舎の別荘(ロシア)の近くで、彼の親戚であるルスティカスが彼に会いました。彼は自分をクリスチャンだと宣言し、鎖につながれてフェルモに加わることを望んでいたのです。
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彼らの断固としたキリスト教信仰の告白に直面して、帝国評議会は彼らをポルタ・レオニの向こう、アディジェ川岸の城壁の外で斬首させた。それは304年8月9日のことだった。後にフランシスコ会に取って代わられたベネディクト会が司式するこの教会に、聖フェルモと聖ルスティコの遺物をもたらしたのは、ヴェローナ司教サンタノーネです。
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聖母子ですよね。
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入り口の上には羊には見えない馬か獅子のような?…
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セントクリストフォロでしょうか。
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本当に素晴らしい空間で、確かにヴェローナの歴史は古いけどこれほどロマネスクな世界が残っているとは思わなかった。
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今回、入れなかった上部教会もなかなか見どころが多いよう。
リベンジかな。 -
けれど下部教会が見れて、ホントに良かった。
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これだけの古いフレスコ画に囲まれてひとり佇んでいるとタイムスリップしそう。
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ロミオとジュリエットが亡くなった場所の想定ということで、オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングを思い浮かべる私、年が知れる。ってとっくにばれてるか(笑)
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絵画もかけてあった。
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修復中で僅かに望めるのは、ここくらい。
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上の教会のポルタだよね。
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このあたり古い地区のせいか豪奢な館が並ぶ。ヴェネツィアンゴシック風な窓とバルコニー。
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窓やバルコニーの装飾が好きでキョロキョロしてしまう。
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門のところの装飾もいいよね。
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これも素敵だなぁ。
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現代でも格差って話題になるけど中世の貴族ってどんだけ?
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次の教会を目指しアレーナ付近まで戻り、先にすすみます。ポルティコが多くて灼熱の日差しを避けるには、とても助かった。
何故かキリンのオブジェ。 -
結局、時間がなくていけなかったカステル・ヴェッキオをアディジェ川から望んで。
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Basilica di San Zeno 全体が入り切らなかったので画像ネットから借りてます。
サン ゼーノ大聖堂は間違いなくイタリアで最も美しいロマネスク様式の教会の 1 つですというキャッチフレーズ。期待しちゃう!
ファサードは、左側が修道院の塔 (13 世紀)、右側がエレガントな鐘楼 (12 世紀) に理想的に囲まれており、色彩的に暗示的で、建築のラインが調和して完璧で、装飾は落ち着いていて明るいです。ヴェネト州のロンバルド・エミリア建築の影響を反映しています。 -
サン ゼーノの原始的な中心部の起源は、ゼノ司教の埋葬地に建てられたガリカ通り近くのローマおよび初期キリスト教の墓地エリアに建てられた教会と修道院に遡ります。
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ロマネスクらしい扉口。
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ルネットのサン ゼーノの祭典などの伝統的なテーマと、月の周期やユニークな狩猟などのより革新的なテーマを交互に表現する重要な図像装置によって豊かにされています。
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よく撮れなかったのでネットから
素晴らしい。 -
獅子もいますね。アダムとイヴも。
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磔刑はわかるけど…
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Il Chiostro
広場から、ファサードの左側にある回廊は回廊に通じています。回廊は、塔とともに 19 世紀に取り壊されたベネディクト会修道院の唯一の残骸です。この回廊は10 世紀に建てられ、数回改修されました。現在の回廊は 14 世紀初頭に遡ります。 -
回廊は、気持ちが落ち着いていいですよね。
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大聖堂の内陣へ。
807 年に行われた厳粛な奉献に至るまで、この複合施設には何度も改修が加えられ、その間にヴェローナの守護聖人の聖遺物が大聖堂に移されました。
教会と隣接するベネディクト会修道院は、特にハンガリー人による破壊の後、 1117 年の恐ろしい地震後のロマネスク時代の最も重要な再建に至るまで、さらなる介入を受けました。 -
ブロンズのドア
S. ゼノの青銅製のドアは、地元のあらゆる芸術作品の中で最も独創的な工芸品の 1 つです。48枚のパネルは、 12 世紀から 13 世紀にかけて活躍したさまざまな職人によって作られました。 -
青銅の門の現在の構成は、いわゆる「第三の巨匠」の作品であり、今日では全員一致でブリオロトであると特定されており、彼は右翼の中央に位置するサン・ゼノの生涯を描いた 4 枚のパネルも制作した人物である。最も古い装飾は、新約聖書のエピソードの左の葉に見られるもので、いわゆる「最初のマスター」、つまり北欧出身、おそらくゲルマン地域出身の芸術家によるものとされています。
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それほど古そうではないけど洗礼盤。
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後代の洗礼盤。
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こちらにも。
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身廊内の柱頭。
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下から古いフレスコ画が、竹の子状態だね。
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身廊の左右にかなり多くのフレスコ画が残っている。
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教会内の写真が大量に続きますので、ご興味ないかたはスルーして下さい。
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洗礼槽で洗礼を受けてる。
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以下のガイドがあったのですが、どれが該当するか判明できず、とりあえず貼付します。
13世紀に破壊されました。基礎となるフレスコ画
は、いわゆる「プリモマエストロディサンゼー
ノ」(14世紀前半) の作とされ、表面が釘付けされ
ており、その後漆喰で塗り直されたことがわかりま
す。階段に沿って、13世紀最後の 10年間に遡るフ
レスコ画がいくつか残っています(聖母子像、S.カテ
リーナ、S.ルシア)。続いて、サンゼーノの2代目
マスターによるサン ゼーノとサン ジャコモの間の聖
母子像と、マルティーノダヴェローナによる謙虚な
聖母(14世紀後半から 15世紀初頭) が続きます。 -
上部の教会は完全にフレスコ画で装飾されています。右側の壁には、聖堂内で最も古い一連の絵が見られます。竜を殺すサン・ジョルジョ、サン・ゼーノの遷移、玉座の聖母、キリストの洗礼、ラザロの復活など。
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サン・ジョルジョが見える。
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歴史的に興味深いのは、この一連のフレスコ画の右側の壁に、洪水、地震、疫病、戦争など、地元の歴史における重要な出来事を思い出させる、ベネディクト会の修道士や他の時代からの旅行者によって描かれた落書きです。
良い写真がなかったのでネットから。 -
キリストの洗礼ですよね。
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読み解くほどの知識はないのですが、楽しい。
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ここも下から古いフレスコ画が出てきて、竹の子状態。
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中央祭壇。
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アンドレア・マンテーニャの三連祭壇画 ガイドより
修道院長グレゴリオ・コッレールによるマンテーニャへの仕事の割り当ては、おそらく 1456 年に遡ります。作品は 1460 年までに引き渡されました。マンテーニャは絵画に加えて、まだ 6 枚のパネルを含む三連祭壇画のフレームもデザインし、自律的な環境を設計しました。修道士の聖歌隊にとって、祭壇画が祭壇に置かれると、当然の帰結となる。彼は自然光の光源が絵に描かれている光源と一致するように、後陣の右側の窓を明示的に開けていました。 -
マンテーニャは、聖母の上の光輪の表現の中にロマネスク様式のバラ窓を引用することで、大聖堂に敬意を表しました。この三連祭壇画は 1797 年までサン ゼーノに保管され、その後ナポレオンの戦利品としてフランスに移送されました。1815年に3つのプレデッラを剥奪された状態でヴェローナ市に返還され、現在はルーブル美術館とトゥール美術館に保管されている。現在、三連祭壇画に添えられているプレデッラは、19 世紀に作られた複製です。
*プレデッラ 祭壇の最下部にあたる部分。 -
イタリア芸術のパノラマの中で非常に重要な作品であるサン ゼーノ祭壇画は、神聖な対話を表しています。聖母子と聖ペテロ、パウロ、福音記者ヨハネ、ゼノが統一された空間の左側に配置されている構図です。右にはベネデット、ロレンツォ、グレゴリオ、ジョバンニ・バッティスタが写っており、背景には風景がちらりと見えます。
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三連祭壇画の革新的かつ革命的な側面はその統一的な概念にあります。3 つのプレートは、それぞれ異なっていますが、1 つの大きな作品を構成しています。その建築は遠近感の錯覚を強調しています。表現の;光は、あたかもそれらが金色のフレームで終わる単一の環境であるかのようにシーンに浸透し、描かれたロッジアの理想的に続く金色のフレームで終わります。
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聖人は特定できないけど、美しい。
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あちこち目移りする。
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磔刑されてるキリストの回りに天使が…
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サン・ゼノですね。
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玉座の聖母がいくつも。
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かなり古いキリストのフレスコぎ祀られている。
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クリプタへの5 つの入り口のアーチは、13 世紀初頭にアダミーノ ダ S. ジョルジョによって貴重な装飾が施されました。
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クリプタへ。ワクワク。
中央の階段を下りると、守護聖人の遺骨が安置されている暗示的な地下室に入ります。広大な地下室の歴史は 10 世紀にまで遡り、13 世紀、16 世紀半ば、そしてその後数世紀に再び修復されました。
なんとロミオとジュリエットがこの地下教会で結婚したという戯曲になってるよう。 -
内部環境はローマ式とロマネスク式の柱頭を持つ 49 本の柱によって区切られた 9 つの身廊に分かれており、すべて互いに異なります。細い柱の中で、上部教会の柱と円柱の巨大な「根」が目立ちます。壁にはジョット由来のフレスコ画の痕跡があります。底部は門で閉じられたアプシディオールで終わります。聖ゼノの遺骨は骨壺の中に納められています。
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趣味の柱頭を撮りまくってしまいました。
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磔刑のフレスコ画。
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ヴェローナにここまでロマネスクが残っているとは、認識がなかったです。
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愉快過ぎる。左上は、アトラスらしい。
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聖母子も。
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バラエティーに富んでるな。
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ユニークだな。
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すごい充実感。サン ゼーノ大聖堂は間違いなくイタリアで最も美しいロマネスク様式の教会の 1 つは、嘘じゃなかった。
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イチオシ
ちょっと宿で一休みしてから夕食へ。この明るさで9時過ぎ。
まだ体調が整ってないので、アンティパスティの生ハム&メロンだけ。でもこの量。
Analcolici(ノンアルコール)のCrodino ハーブが効いてて美味しかった。 -
少しずつ暗くなって…
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やっとマジックアワーになってきた。22時頃。
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4トラの皆様でしたらアレーナでオペラを観られた方もいらっしゃるでしょうね。
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イタリアで見る夾竹桃の花ってお洒落に見えるよね。
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アレーナを見ながら食後酒も楽しめるブラ広場。すぐ近くの宿なので、この時間までブラついても大丈夫です。
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通りもまだ人がいっぱい。
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夜のほうがライトアップされて魅惑的なアレーナ。
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B&Bに戻り、窓からの景色。Buona notte☆
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翌朝、近くのサンティ・アポストリ教会へ。後陣がいい感じに古かった部分へは、残念ながら入れなかった。サン・ロレンツォ聖堂も閉まっていた。
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まだ少し出発予定まで時間があるので、エルベ広場方面へ向かう。
ボルサリ門。
古代ローマ時代の門。ポストゥミア街道が市街地に入る地点に、紀元前1世紀に造られたと考えられている。門に刻まれた碑文によれば、1世紀に建て替えられたとされる。付近にあったとされるユピテルを祀る祠に因んで、古代ローマ時代の呼び名はユーピテル門であり、中世になりこの門が徴税場所であったことから「徴税」を表すbursariiが転じてボルサリ門と呼ばれるようになった。 -
右上の雰囲気のある階段がある中庭、こんな中世の館が高校だった。
街並みウォッチしながら駅へ。
遠足のため、まずは電車でペスキエラ・デル・ガルダへ。以前泊まったことがあり、何となく覚えている。 -
すると小さな駅に若者が溢れてる。そしてバスが到着すると押しかけてギュウギュウに乗り込む若者たち、乗り切れない人もたくさんいる。
えっ何?この状況。私が向かうのは田舎だから、乗れないことないよねと。
観察してるとどうもガルダランド(遊園地)の無料送迎バスのよう。 -
無事にNO.46のバスに乗れ(乗客は数人だった)Valeggio San Rocco Bという停留所で11:00頃下車。いつもバスの時刻表もチェックして行くのだけど、最近はGoogle Mapの精度があがり、経路から路線バス会社及び時刻表が検索できる。
駅のバールで切符を買えなかったのでドライバーに払おうとしたら、「外で買って」的なことを言われ、結果的にタダで載せてくれた。
バスの車窓からガルダ湖。 -
バス停はヴァレッジョ・スル・ミンチョの街に近いところで下車。
そこから10分位下ると本日の遠足、イタリアの最も美しき村のひとつボルゲットに到着。赤いマークが美しき村の看板です。川に白鳥が! -
以下美しき村サイトから。
Valleggio sul Mincho 要塞化された集落を意味するロンバルディア語起源の地名で、ミンチョ川の浅瀬の近くに建設された最初の集落の名前です。ヴァレッジョは平らな場所を意味するだろうが、伝統ではより示唆に富んだ形でその地名が「神々の谷」を意味するヴァレ・ディウムに言及されている。 -
紀元前9世紀、埋葬によりボルゲット近くに人間の居住地があったことが明らかになりました。紀元前7世紀、明らかなエトルリアの細工を施したこの時代の宝石が丘の近くで発見されました。
紀元前4~1世紀 、ガリア人は川の渡河点を利用していましたが、ここに重要な墓地がありました。紀元前、この地域のラテン化はローマ人の埋葬によって証明されています。ミンチョ川の浅瀬はローマ人によって領事館の道路と「接続」されている。
8 世紀から 9 世紀にかけて、ロンゴバルド人は川の岸辺に最初の居住の中心地を建設しました。その隣には、今日ではミンチョ川の水を周回するように下る階段で確認できる古代の浅瀬がありました。ガスタルドという川を渡るための税金を徴収する税関職員がいました。 -
1145 年、サンタ マリアの小さな修道院が教皇勅書の中で初めて言及され、この修道院は通行を必要とする人々を助ける機能を持って左岸に建てられました。この修道院は後にテンプル騎士団の重要な司教区となる。
1202年、マントヴァとヴェローナの間で終わりのない争いが続いた後、ボルゲットは後者に譲る。スカリジェリ家は、浅瀬に沿って最初の木製の橋を架け、小さな村の周囲に要塞システムを構築しました。銃眼のある連絡塔が今でも目に見えます。
1276 年から 1387 年にかけて、スカリジェリ家はヴァレッジョとボルゲットを設備の整った軍事拠点に変えました。
1387 年から 1402 年にかけて、ミラノ公ジャン ガレアッツォ ヴィスコンティはヴェロネーゼの領土を自分の領土に併合しました。 -
1393 年、ジャン ガレアッツォ ヴィスコンティは、新たに征服したヴェロネーゼの周囲に防御障壁を築くために、ボルゲット ダム橋の建設工事を開始しました。この橋はボルゲットのミンチョ川の進路を変え、渡渉できなくなります。
1405 年、ヴェネツィア共和国に渡って、今も川を見下ろす水車小屋が示すように、穀物、小麦、米を粉砕する活動が発展しました。ミンチョ川からの水を畑の灌漑に使用することにより (1553 年にこの目的で運河が建設されました)、農業の発展が可能になりました。
1796 年から 1814 年、ヴェネツィアの支配の後、ナポレオン戦争は破壊と死をもたらしました。
1814 年、この領土はロンバルディア ヴェネツィア王国のオーストリアに併合され、リソルジメント戦争の舞台となった後、1866 年までイタリア王国の一部となりました。1859 年から 1866 年の間、ボルゲットは 2 つに分割されました。ミンチョ川の向こう側はオーストリア、こちら側はイタリアでした。 -
バラや藤がきれい。
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ナポレオン軍との戦いやイタリア国家統一運動の戦いもこの地で行われた。
今でも14世紀にヴィスコンティ家支配下に造られた橋とダムの建造物が残され、ミンチョ川の水辺の美しい景色をみせている。 -
堤防のような土塁を船に見立てて可愛い。
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絵になる景色。
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私邸の紫陽花が彩り鮮やか。水辺は良いね。
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川辺のベンチでほっこり。
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家並みの向こうに城が見える。
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イチオシ
クロスの色もうす緑、センスいいなぁ。景観に溶け込んでる。
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美しき村の意識高いからかお花がきれいに飾られていた。
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カンティーナやリストランテが続く。昼前で席もあいてるけど、この後ツアー客も到着し、人で溢れた。
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小さな村に結構たくさんのホテルがある。需要があるってことよね。
赤いポストが可愛い。 -
オステリアのようだった。
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ミンチョ川を眺めながら菩提樹の下でランチ。トルテッリだったかな?
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マンゴのグラニータ美味しかった。
円安のため、これで4,600円ほど。 -
夏場は外にテーブルを出した席が断然人気だけど、このリストランテ アンティカ・ロカンダとい名のとおり室内もなかなかだった。
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ホント、こんなちっちゃな村の割にセンスよい店が数店もある。
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私が座った席が見える。
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中洲に数件の民家が建ち、ちょっとヴェネツィアを思い出す。
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あっという間に満席状態。
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Chiesa di San Marco Evangelista
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想像していたより小さな村で、ほとんど散策しちゃったな。
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緑が目に染みる。36度以上の高温でも木陰はホントに温度も低いし癒やされる。
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再びベンチでまったり。
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あまり本数のないバス、18時台に乗る予定だったけど早めて14時台で帰ることに。
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ヴァレッジョ・スル・ミンチョの街のタバッキでバスのチケットを買おうと行ってみた。チェントロに教会があった。
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バロックな感じ。
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暑いせいか人もまばら。結局、タバッキも閉まっていてバスのチケットは買えなかった。
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ここがバス停なんだが、日向で焦げそうに暑い。反対側の日影でギリギリまで待ち、バスに通り過ぎて行かれないよう5分前には意を決して日向へ。
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すると本数が少ないせいか行きと同じドライバーと遭遇。
タバッキ探したんだけど閉まっててと話そうと思う間もなく、いいよと載せてくれて結果的に往復、タダで乗せてもらっちゃいました。Grazie!
車窓からペスキエラ・デル・ガルダの街、以前夕食に来たことがある。鉄道駅から15分ほど離れている。
また写真枚数が増えてしまったので、昼下がりのヴェローナは続編にて。
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