2023/04/29 - 2023/04/29
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gianiさん
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長崎=オランダという第一イメージ。
でも、実はポルトガルと貿易するために建設された町の歴史を取り上げます。
南蛮貿易とセットだった布教の影響、
鎖国時の長崎貿易、
開国後の貿易と順を追ってスポットを追います。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のはじまりは、市立桜馬場中学校。
シーボルトの鳴滝塾のそばです。
日本初のキリシタン大名大村純忠の重臣、長崎純景の屋敷でした。
イエズス会はポルトガル王国とタッグを組んで、布教しました。
カトリック諸国において、布教は神からの使命であると同時に、国家の威信を高める行為でした。 -
トードス・オス・サントス教会(1569~1619年)
領主の長崎純影も洗礼を受け、屋敷隣にトードス・オス・サントス(諸聖人)教会が建ちました。現在は春徳寺になっています。長崎三大教会の一つです。東海の墓 名所・史跡
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長崎開港・町の建設
1570年に大村純忠は、長崎開港。南蛮船が寄港できることがコンセプトで、翌年にはポルトガル船が来航します。長崎の町は、ライトアップされた6町から始まりました。現在の地検~県庁本館跡あたりです。 -
岬の教会→岬の被昇天のマリア教会(1571-1614)
1571年には、ライトアップされた部分の南側に岬の教会(サンパウロ教会)が建てられます。後の西奉行所、現在建て替え中の県庁敷地です。地図情報では、直近のスポットを当てています。
長崎三大教会の一つのみならず、イエズス会の日本での本拠地として機能しました。江戸町商店街 市場・商店街
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教会領(1580-88)
1580年に大村純忠は、長崎の町をイエズス会に寄進し、教会領になります。
1587年には九州を統一した豊臣政権は、翌88年に長崎を直轄領とします。 -
サンジョアン・バウチスタ教会(1591-1614)
フランシスコ会系で、浸礼者ヨハネを意味する教会とハンセン氏病患者向けの病院が建ちます。これで長崎三大教会が全て出揃います。現在は本蓮寺になっています。
豊臣政権ではドミニコ会、フランシスコ会による布教も始まります。いずれもスぺイン王国とタッグを組んだ修道会です。本蓮寺 寺・神社・教会
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開港時の陸地は図のような感じで、現在の海岸線が赤線です。
地図上には三大教会と、白地で原始市街が描かれています。 -
山のサンタマリア教会(1591-1614)
岬の上の教会と同じ聖マリアの名を冠した教会です。その後長崎奉行所、現在の長崎公園です。長崎公園(諏訪の杜) 公園・植物園
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二十六聖人の殉教(1597年)
バテレン(宣教師)追放令は南蛮貿易がネックとなり、宣教師は追放されるどころか、むしろ援助を受けることもありました。
しかし1596年のサンフェリペ号事件をきっかけに風向きは変わります。フランシスコ会は日本の風土を無視して、強引で傲慢な態度で臨んだ結果です。秀吉は政権のお膝元(京/大坂)の信者を逮捕し、長崎へ連行して26名を処刑します。日本二十六聖人殉教地 名所・史跡
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日本初の信徒処刑は、西坂の丘で行われました、総勢26名で、1862年に列聖されました。現地は聖地化され、現在は記念館が建ちます。
日本二十六聖人記念館 美術館・博物館
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徳川家康の朱印船貿易(1602~)
翌1598年に秀吉は死去し、徳川政権へ移ります。長崎は幕府直轄地でした。各修道会は将軍から布教の許可を得て、日本全国で活動に邁進します。
家康は東南アジア諸国や西洋諸国とも通商を開始し、競争原理を導入します。
日本側は、長崎のみが開港されました。 -
サントドミンゴ教会(1609-14)
ドミニコ会の創始者の名前を冠した教会です。現在は桜町小学校です。サント ドミンゴ教会跡資料館 美術館・博物館
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隣接する国道34号線整備で遺跡の存在がわかり、2001年に校舎を建て替える際に大規模調査がなされました。現在は校舎の一部を資料館として一般公開しています。
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1602年に教皇からの日本布教が許可されたドミニコ会は、マニラ管区本部の下で薩摩藩領に教会を建設して日本進出を果たします。1609年には中央進出を果たし、サントドミンゴ教会を建設します。資材は、薩摩川内の教会を解体して、再利用しました。
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教会の石畳が遺っています。
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建設経緯
幕府長崎代官の村山等安は熱心な信徒でもあり、教会建設用の土地を自ら寄進しました。1592年(豊臣政権時代)から、同職に就いていました。教会は、地域トップの庇護を受けていました。 -
サンフランシスコ教会/修道院(1611-14)
フランシスコ会の施設で、アスレシオン神父により建設されました。 -
市役所前交差点の角(市役所別館の敷地)に石碑があります。地図情報には、直近のスポットを入れておきました。
ピジョン・デュ・リヨン グルメ・レストラン
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サンアウグスティン教会(1612-14)
アウグスティノ修道会の教会で、スペイン領マニラから進出。
宗教改革のルターや、遺伝の法則を発表したメンデルが所属していました。現在の常盤橋沿いです。地図情報には、直近のスポットを入れておきました。めがね橋 共楽園 グルメ・レストラン
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外町・内町
1597年までに開発され、免税の特権を与えられた地区(白色)を内町といい、長崎奉行が統治しました。内町の外側(赤色)は外町と呼ばれ、長崎代官が統治しました。 -
禁教令(1612,1614)
宣教師による布教活動は、幕府に脅威を与えるほどの成果をもたらします。スペインと組んだ修道会は、日本社会の価値観や枠組みを大っぴらに否定し、幕府を刺激します。
信徒の幕臣同士が起こした岡本大八事件をきっかけに、幕府は江戸/駿府/京を対象に禁令を出し、2年後には全国を網羅します。対象は支配層(武士)と宣教者で、庶民は含まれませんでした。長崎を含め、全国の教会が破壊されました。貿易のメリットよりも、布教のデメリットが大きくなった転換点です。宣教者や改宗しない幕臣らは、長崎港経由で国外追放になりました。 -
元和の大殉教(1622)
1616年に家康が死去すると、幕府は保守強硬路線を歩みます。西洋船の乗入は平戸と長崎に限定され、8年後にはスペイン船は出入禁止になります。
元和(げんな)の大殉教では、長崎の聖職者や平信徒55名が、26聖人が処刑された例の西坂の丘で処刑されます。
3年前には秀忠上洛に合わせて52名が処刑された京都の大殉教、1623年には50名が処刑された江戸の大殉教等があります。
※上記の処刑者には禁教令対象外の庶民も大勢含まれていましたが、宣教師を匿ったことで有罪になりました。 -
長崎奉行水野守信(1626-29)
着任早々に、長崎の住民全てを対象にした棄教令を出します。
1628年には、信仰を捨てない住民をあぶりだすために踏絵(cf.行為は絵踏み)を考案します。当初は紙に描いた絵を使用しましたが、耐久性の問題で写真のように銅板彫刻に代わります。
その後は1633年に日本人の海外渡航と帰国が禁止され、海外の日本人町が自然消滅します。 -
出島(1636~)
ポルトガル人を隔離するために出島を建設して運用します。
1637-38年には天草島原の乱が勃発し、宣教師の遺産と平信徒の恐ろしさを痛感させます。幕府は身分にかかわりなく、全国の信徒を取り締まります。
1639年には、貿易と布教が表裏一体のポルトガル船が出入禁止になります。
1641年には、平戸のオランダ商館が出島に移動させられます。完全な鎖国体制が出来上がりました。これ以降は、西洋=オランダの時代です。
※貿易赤字で平戸のイギリス商館は、すでに自主撤退していました。 -
出島には、オランダ商館長、副館長、事務員、医師といった10名余りが常駐しました。あとはオランダ植民地出身者が、召使として雑務に携わりました。彼らが出島の外へ出ることは、厳禁でした。菜園や食肉用の動物も飼育しました。
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乙名部屋
出島を管理する奉行所管轄の役所です。商館長の家の中庭に立地し、2名の乙名が常駐しました。乙名を補佐する役人も多数従事しましたが、夜は滞在できない出島通勤型でした。
※長崎は80の町から構成され、全体をまとめる4名の町年寄、各町をまとめる85名の乙名(いずれも世襲)が長崎奉行を支えました。乙名は転勤制でした。 -
出島門鑑
地役人や出入業者が出島に入るには、門鑑と呼ばれる鑑札を持参することが必須でした。出島橋に設けられた番所で見せます。門鑑には出島駐在の乙名2名のサインがあります。写真の門鑑の裏面には「精荷役立会 小者一名」と記載され、目的と人数が明記されます。
パスポートと違うのは、発給者が実名(旅券は日本国外務大臣)で、持参者は匿名(旅券は姓名記入)という点です。 -
阿蘭陀通詞(オランダつうじ)
いわゆる通訳です。世襲制の地役人で構成されますが、完全な能力主義の組織で、実力を以てして昇格します。ポルトガル人は日本に長期滞在して、自ら日本語を操りながら貿易や布教活動に励みました。幕府はこれを教訓に、密貿易と布教を阻止するために、商館長の任期は原則1年にし、日本人通訳を介して物事を進めるシステムを構築しました。 -
通訳/翻訳:コミュニケーションを取るための通訳、渡航した商館長から国際情勢を聴取して幕府に報告(風説書を作成)しました。貿易目録の翻訳も行います。
写真は1803年の紅毛船(オランダ船)風説書で、新商館長ドゥーフの名前も登場します。 -
貿易
臨検/荷役の立会い、貿易交渉時の通訳等です。来船時は、交代制で夜間も出島で勤務しました。
役得
輸入品を優先的に買い取る権限を持ち、薬種や書籍の販売もできました。 -
オランダ船の入港から出帆まで
毎年、季節風に乗って、オランダ領インドネシアのバタヴィア商館からやってきます。旧暦6,7月頃です。 -
旗合わせを行い、オランダ船であることを確認すると、祝砲を鳴らします。
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曳舟(今でいうタグボート)に牽引されて、入港します。その間も、祝砲も鳴らし続けます。
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野次馬どもが沖に舟を出し、宴会を始めました。
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出所改め
検使や阿蘭陀通詞が小舟でアプローチし、オランダ船に乗り込んで出港元や積み荷を調べます(約3日間)。
※巨大な外洋船は出島に接岸できないので、沖合に錨を降ろして停泊します。 -
一方で、長崎奉行の命を受け、暴発防止のため(建前)出帆まで大砲の火薬を預かります。
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ようやく、貿易品の荷下ろしが始まります。
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壁で囲まれた出島に2つしかない門の一つ、水門が開きました。
貿易品を、出島へ運び込みます。 -
オランダ船倉が軽くなって横転しないように、船から積み荷を運び出すと同時に、輸出品(銅竿)もオランダ船へ積み込み、重量のバランスを取ります。
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精荷役
水門を抜けて、すぐ右にあるブースで貿易品を一つ一つ精査します。 -
計量
倉へ入れる前に、数量確認と計量を測定/記録します。 -
目利きが、反物などの高級品の鑑定し、価格を決定します。
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貿易品を長崎奉行所へ運び、御禁制の有無を確認してもらいます。
幕府発注の品は、ここで引き取ります。 -
奉行所に隣接する長崎会所で、貿易品の値組および商人たちの入札を経て、彼らの手に渡ります。
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10月ごろ南への季節が吹く時期に、バタビアへ向けて出帆します。
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江戸参府
オランダ商館長は、江戸へ参府して将軍に挨拶(表敬訪問)する必要がありました。毎年1月に出発し、3か月に渉る長旅でした。宿泊は大名行列に準じ、本陣や脇本陣を使用しました。小倉・下関・大坂・京では、数日間滞在し、事実上の観光や地域交流を行いました。 -
貿易品目
輸入品は、専らアジア製品でした。主な品目は、生糸や絹織物です。国産に成功した18世紀以降は、砂糖です。
ほかには、更紗や羅紗、ビロード等の織物、工芸品等です。
ラクダやゾウといった珍獣は商品ではなく、将軍へ謁見する際の献上品として持ち込まれました。 -
輸出品
主要品目は金銀でした。銀の輸出が禁止されると銅に代わります。銅は硬貨や大砲の原料になりました。
他には陶磁器/漆器、衣装、その他工芸品があります。和紙は、レンブラントの版画の台紙に使用されたりしました。19世紀には、醤油も輸出されました。 -
貿易の縮小
貿易の決済手段は、銀でした。金⇔銀の換算レートが日本の半分以下の西洋では、日本で得た銀は2倍以上の貨幣価値に化けるからです。貿易の増大に伴い、国内の銀の7割以上が海外へ流出しました。いずれ国内の銀が底を付くということです。1658年だけでも、43隻が来航しました。その結果1668年に銀の輸出が禁止され、18世紀には金(小判)の輸出も、綱吉時代の元禄小判(金の含有量が少ない低品位)に限定されました。銅も産出量が減少します。来航数は、年3‐7隻で落ち着きます。
1715年に幕府は、オランダ船の来航は年2隻まで、貿易額も銀3000貫以内に大きく制限しました。江戸参府も、1790年以降は4年に1度に簡素化されました。 -
蘭学:学術・技術の輸入
オランダから輸入したもので、最も大切なものです。
書籍の輸入のみならず、出島に滞在した各種専門職員から伝授されました。
翻訳/通訳として、阿蘭陀通詞が活躍しました。
貿易額が制限された18世紀以降、重要性が増しました。 -
長崎遊学
最先端の知識に触れられる長崎は、国内留学のメッカでした。出身地ランキングは、長州/佐賀/福岡藩、江戸の順です。遊学者は、幕末に増加しました。 -
蘭学の内訳は、医学の542名が堂々の1位で、時代を通して安定感があります。科学-軍事の228名、語学114名と続きます。
彼らは阿蘭陀通詞の自宅で学びました。江戸後期には私塾が開かれ、吉雄/本木/楢林家が御三家です。商館医シーボルトの鳴滝塾も、多くの門人を輩出しています。 -
フェートン号事件(1808)
イギリス軍艦が、オランダ国旗を掲げて偽装して長崎に入港します。小舟で近づいたオランダ商館員2名を人質に立てこもった事件です。日本側の警備体制が全く機能せず、責任を取って長崎奉行は切腹、佐賀藩主は謹慎処分になります。 -
長崎警備
17世紀に長崎湾には19の台場が建設され、福岡藩と佐賀藩が隔年交代で1000人体制の警備を行いました。五島藩大村藩など周囲の藩も、外海を警備しました。平和が続いたために、佐賀藩は要員を勝手に100人にまで減らし、フェートン号事件時は全く機能しませんでした。オランダはヨーロッパはナポレオン体制下で、島国イギリスのみが対抗していました。 -
ヘンドリック・ドゥーフ(任期1803-17)
通常1年の商館長の任期ということでしたが、オランダがナポレオンのフランスに併合されてからウィーン体制になるまで長崎にオランダ国旗を掲げた国家的英雄です。この時期に、貿易船の往来が途絶えたための長期滞在です。結果的に、多くの知識が長崎に伝わりました。
※バタビアでアメリカ船をチャーターし、オランダ国旗を掲げて往来しましたが、バタビア陥落に伴い完全に途絶えました。 -
ドゥーフ・ハルマ辞書(1833)
長期滞在で、円滑なコミュニケーションは死活問題。ドゥーフは自ら辞書編纂を手掛け、帰国後に本格的な蘭日辞典が完成しました。殆どはドゥーフの作業なので、ドゥーフ編纂となっています。 -
和仏蘭対訳語林(1817)
ドゥーフの指導の下、本木正栄が編纂したフランス語辞書。底本は仏蘭辞典。フランス語は外交世界の共通語で、外交文書には必ずフランス語訳が添えられました。またロシアの支配層は、子供の頃からフランス語を日常会話に用い、母国語よりも身近でした。 -
ブロンホフ(任期1817-21)
フェートン号事件以降、幕府はイギリス情報も重視し、阿蘭陀通詞に英語部門を設立します。ブロンホフは、ドゥーフの後を継いだ商館長で、ナポレオン体制下でドゥーフと共に出島に長期滞在し、初の英語教師として通詞に英語を教え、1814年に日本初の英和辞典を編纂しました。英蘭仏辞書編纂には、御三家の本木家が大きくかかわっています。 -
シーボルト(1823-28)
ドイツ貴族ですが、オランダ人と身分を偽り、商館医として赴任。日本の実情を調査する秘密特命も受けていました。仁の伴う医術ゆえに、例外的に出島の外でも活動しました。商館長の江戸参府にも同行します。彼の私塾鳴滝塾の門下は、直弟子だけでも75名と突出。シーボルト事件で国外追放。彼の学問的功績は、今話題の牧野富太郎を植物分類学に沼落ちさせました。
※オタク愛を越えて、日本人を愛し、幕末に結んだ不平等条約を改正するよう陰で尽力しました。 -
アヘン戦争(1840-42)の影響
清は、帆船(ジャンク船)と旧式大砲で対峙しますが、英国の蒸気船と最新砲の前に、あっさり敗北し、英仏米と不平等条約を結びます。これを受けて幕府は、異国船打払令を撤廃し、1842年に薪水給与令を出します。
写真は、1846年6月(旧暦)にフランス軍艦3隻が長崎湾に侵入した様子。この年の長崎警備も、佐賀藩でした。幕府は水と食料を供給し、平和裏に立ち去りました。 -
ラナルド・マクドナルド
オレゴン(当時は英領)で、英国人の父と先住民の母の間に生まれました。母方の親戚から「自分たちの先祖は日本人だ」と教えられ、24歳の時にアメリカの捕鯨船に乗り込み、日本沖で脱走して密入国します。肌の色が日本人と同じだったことなどもあり、長崎奉行は、通事たちに英語を教えるよう取り計らいます(1849年)。10か月後にアメリカ船に身柄を引き渡されて帰国します。教え子の森山栄之助は、後にペリーとの交渉の際に通訳を務めます。ラナルド マクドナルド 顕彰碑 名所・史跡
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開国へ
オランダ貿易で19世紀に幕府が最も重視したのは、世界情勢の情報収集でした。1853年の黒船来航も、実は別段風説書1852年版を通して予知していました。
別段風説書は、1840年以降オランダ領バタビアの植民地政庁が毎年幕府に提出するために作成され、オランダ商館長を通して幕府に提出されました。 -
国交を結ぶ
1854年3月に、神奈川村(横浜市)で日米和親条約が締結されました。
日英和親条約は、10月に長崎でスターリング提督と幕府代表水野忠徳(長崎奉行)の間で締結されました。
翌55年にはロシア、56年にはオランダとも締結しました。 -
急がれる国防
清国の二の前にならぬよう、幕府は近代化を急ぎました。1854年にオランダへ蒸気船(軍艦)2隻を受注し、翌1855年には軍艦と大勢の専門家が渡航しました。
海軍伝習所(1855-59)
出島の向かいにある長崎奉行所西役所で、オランダ軍人を講師として近代軍備を学びました。生徒は旗本や諸藩の藩士でした。近代兵器や蒸気船の操縦のみならず、その背後にある科学技術や理論も学ぶ必要がありました。医学、物理、化学、航海術、蒸気機関・火薬製造・製鉄も学びました。蒸気船修理の必要から、1857年には長崎製鉄所も開設し、後に三菱重長崎造船所になります。海軍伝習所は、江戸築地の軍艦操練所に引き継がれます。 -
英語伝習所(1858-)
海軍伝習所は、本来は海軍士官を要請するところでした。語学学校は、英語伝習所として開設されました。英語以外にも、フランス語やロシア語も教えました。明治政府の管轄になると総合科になり、語学学校としての役割は終えました。 -
医学伝習所(1858-)
医学の講義を行うために設立されるも、開国に伴う翌年のコレラ流行に伴い、1861年に病院も併設されます。1865年には化学教室も設置されます。現在は長崎大学医学部および附属病院となっています。 -
貿易の自由化(1859)=鎖国体制の終焉
5か国(米英仏蘭露)と結んだ修好通商条約が発効し、箱館/横浜/長崎の3港が貿易港として開港します。上記5か国は自由に貿易でき、出島オランダ商館の独占貿易は終了します。長崎郊外大浦に国際港が整備され、現在もクルーズ船などが来航します。構内には、現在出島ワーフというショッピングモールがあります。
※和親条約では薪水の補給のみの寄港が許されました。船員の上陸はNG。長崎出島ワーフ ショッピングモール
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外国人の定住(1859-)
相変わらず外国人の土地所有は許可されず、港に面した外国人居留地区画(写真)に在日公館/会社/住居を構えました。出島跡/新地蔵跡/山手地区が該当します。家賃は海側が高額だとわかります。外出は、半径40km圏内なら自由です。 -
上野彦馬
長崎で湿板写真術を知り、蘭書を頼りに感光剤を自ら製造。スイス人写真家から技術を学び、1862年に写真館を開業。坂本龍馬や高杉晋作の写真は有名です。大勢が弟子入りし、日本に写真を広めました。上野彦馬宅跡 名所・史跡
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トーマス・グラバー(1838-1911)
1859年に英系商社社員として、長崎で活動。1861年には23歳で独立し、グラバー商会を設立。生糸や茶といった日本の特産品を輸出しました。余談ですが、1865年に日本で初めて本物(模型でない)の蒸気機関車を初めて走らせたのは、ほかでもないトーマスグラバー。元祖、機関車トーマスでもあります。 -
武器取引
1863年の八月十八日の政変を機に、グラバーは武器取引を開始します。攘夷や倒幕で需要が増大したからです。アメリカの南北戦争の武器需要に伴い、技術は大きく進歩しました。日本では火縄銃が主流でしたが、最新式は16連射可能、威力も飛距離も格段に伸びて、使い勝手も殺傷力も増していました。グラバーは、佐幕倒幕両陣営に武器を供給しました。まさに、死の商人です。日本人と結婚し、日本で生涯を終えます。 -
薩長同盟と竜馬(1866-)
長州藩は倒幕のために、西洋式の軍艦と武器を必要としました。薩摩藩が購入を代行し、仕入れと配達は竜馬率いる長崎亀山社中が行いました。後に海援隊に発展します。長崎で購入した武器を携えて陸路で長州まで行く際に無事に関所をパスできる訳はなく、海運は大事なツールでした。亀山社中跡 名所・史跡
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土佐商会(1867-)
長崎に設置された土佐藩の商社です。初代主任は後藤象二郎でしたが、岩崎弥太郎が継ぎ、三菱財閥につながります。海援隊に資金援助するなど、倒幕諸藩の武器購入に暗躍しました。この時期、発明大国アメリカ製の武器が価格品質共にナンバーワンでした。それらを英国商人が欧米で買い付けました。
※1865年の南北戦争終焉で供給過剰に陥り、新たな武器マーケットを必要としていました。 -
各国領事館
長崎で対日貿易や外国人が居留すると、江戸の公使館では対処しきれず、在長崎領事館が必要になります。東山手東十二番館(1868年築)は、現存する最古の領事館建築です。現在の建物はロシア領事館として使用され、建替え前はプロシア、最初はアメリカ領事館でした。東山手十二番館 名所・史跡
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写真は1870年の十二番館で、ロシア国旗が靡いています。領事は、同国人の商社社員が兼務し、社屋が領事館を兼ねました。現在の感覚だと、業務を行えない名誉領事にしか思えない肩書です。
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妙行寺
実は、最初に仮英国領事館が設置された場所で、境内の一角で営業(1859-65)しました。開港は外国人居留地未整備の状態で発進し、1860年にようやく海岸部の埋め立てと山間部の造成が始まりました。南山手にある妙行寺は、立地面でも監視の面でも理想的でした。妙行寺 寺・神社・教会
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英国領事館跡
1865年に東山手の海沿いにレンガ造りでオープン。現在は三菱関係の展示施設になっていますが、長期メンテナンス中です。旧長崎英国領事館 美術館・博物館
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湊会所跡
長崎港には、貿易/外交に関わる業務を行う幕府の役所も設置されました。後に運上所と名前を変え、現在の十八銀行本店の場所へ移動します。湊会所跡 名所・史跡
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現在の姿
外交部門は切り離され、1873年に長崎税関(現財務省管轄)へと引き継がれます。九州全体を統括する機関です。1930年に市民病院跡地に移転しています。 -
長崎港の税関派出所
現在は、べっ甲工芸館になっています。三池・口之津などの出張所と同じく、長崎税関管轄です。長崎市べっ甲工芸館 美術館・博物館
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外人居留地の目抜き通り
洋館が立ち並び、歩道と街路樹が整備されました。長崎は、(欧米列強の)上海租界の出先という性格で発展しました。殆どの外国商人は、上海から進出しています。 -
当時の写真と同じ画角で、現在の姿。
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大型西洋式ホテル(1863)
ビジネス等で滞在する外国人のために、ベルビューホテルが開業しました。初の大型西洋式ホテルです。ガス灯もあり、文明開化の香りが漂います。 -
1906年に閉館し、跡地にはANAクラウンプラザホテルが建ちます。
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国際電信サービス(1871)
日本最初の電信は1869年の東京~横浜間です。初めて海外と地下ケーブルでつながったのは、長崎でした。明治4年に大北電信会社(デンマーク)が、上海線とウラジオストク線が敷設しました。ベルビューホテルに、電信室(窓口)が設置されました。国際電信発祥の地 名所・史跡
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長崎が選ばれた理由は2つ。一つは地理的に大陸に近いこと、もう一つは幕末に開港された3港の一つで、需要が大きかったことです。翌1872年に、ようやく東京~長崎間も敷設されました。
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大浦天主堂(1864-)
外国人居留地は治外法権下なので、住民は教会を建てます。横浜山手教会の2年後に、大浦天主堂が完成(共にカトリック)します。26聖人へ献堂した教会なので、彼らが殉教した西坂に建設しようとしましたが、幕府許可が出ず、建物が西坂を向く形で建っています。
※26名が列聖されたのは、1862年です。大浦天主堂 寺・神社・教会
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潜伏キリシタン
1644年に国内最後の宣教師が殉教し、日本の信徒は指導者不在になります。宣教者に教えを受けた世代が途絶えると、信徒は長崎県と天草-臼杵に限定されます。彼らは仏教徒として生活しつつ、秘密裏に信仰を保つ擬態生活を送りました。
18世紀以降も浦上(長崎市)を中心に信徒が摘発されましたが、壮絶な天草島原の乱を経験した世代が死に絶えて久しいことと、大事にすると幕府の沽券にかかわること、信徒に体制を脅かす意思もなかったので、不問に処されました。 -
宣教師の再入国
日本への再布教を目標に掲げたローマ法王庁は、1831年にパリ外国宣教会に任務を託しました。日本語学習などの準備を経て横浜に、次いで長崎に宣教師を派遣し、教会を建設します。大浦教会は、潜伏キリシタンにも識別できるように天主堂と漢字表記されたプレートを掲げます。 -
信徒発見(1865.3.17昼下がり)
前月の献堂式にも、幕府の目を恐れて日本人は誰も訪れませんでした。ところが、浦上村の潜伏キリシタンが、祈りを捧げていたプティジャン神父と対面し、信仰告白します。その後、浦上に4つの秘密教会を作り、神父が極秘で巡回しました。その後、現在の長崎県や天草の各地から、信徒代表が信仰告白に訪れ、秘密裏に教区が組織されました。 -
浦上四番崩れ(1867年)
浦上の信徒が仏式葬儀を拒否したのをきっかけに、庄屋が告発。役人が秘密礼拝中に踏み込み、68名が逮捕-拷問されました。その後も長崎各地で仏葬を拒否する者が途絶えませんでした。
翌年に発足した新政府も、神道に抗う教えとしてキリスト教を禁止・迫害しました。まず114名を流刑にし、キリシタン禁教の高札(写真)を掲示しました。1870年には、追加で3270名が流刑に処されました。長崎裁判所の井上馨、松方正義らが関わりました。 -
禁教の終わり:高札撤去(1873)
禁教と流刑措置は、在日欧米公館の抗議を受けます。しかし、佐幕派討幕派間のしこりがある中、禁教は両者の数少ない共通点で、撤廃するには至りませんでした。1871年に岩倉使節団は、不平等条約改正の第一歩は禁教撤廃だと痛感して帰国します。1873年(明治6年)に高札が撤廃され、禁教は終わりを告げます。上記の流刑先で信徒は17世紀張りの虐待を受け、662名が殉教していました。
※信教の自由が保障されたのは、1890年施行の大日本帝国憲法です。 -
僧職者(指導者)育成(1874-)
高札撤去に伴い、神学校開設プロジェクトを発足し、2年後に開校します。17世紀に日本人司祭が数名だったことへの反省を踏まえ、僧職者育成を行います。1927年には、初の日本人司教が誕生します。
※教会は、司教育成を一つの里程標とみなしているようです。旧羅典神学校 名所・史跡
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教育(≒女子高等教育)
日本では無視されていた女子教育をけん引したのは、外国人居留地に住んだ宣教師や家庭教師でした。写真は、日本のキリスト教系学校教育の系譜ですが、現存する学校法人では東京大阪に次いで、活水学院が開校しています。 -
現在の活水学院
東山手でも圧倒的存在感です。 -
海星学園(1892-)
学校設立は、専らミッション系といわれるプロテスタント系ですが、東山手にはカトリック系も存在します。写真は、付属の修道院です。 -
明治中期以降の長崎
あくまでも上海とのかかわりから抜け出せず、国際港としては横浜/神戸の繁栄を尻目に停滞します。1899年の条約改正で外国人居留地が撤廃されると、地盤沈下を起こします。出島内外倶楽部(1899-)は、欧米と日本の政財界交流を意図した組織で、発起人は倉場富三郎です。英国人トーマス・グラバーを父に持ち、母は日本人という彼らしい仕事です。現在の建物は、1903年築です。長崎内外倶楽部 グルメ・レストラン
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日露戦争
唯一踏ん張ったロシア商人も、1904年の日露戦争勃発で撤退します。貿易都市としての役割が終わりました。出島道路付近には、長崎から第6師団が日露戦争へ出征したことに因む出師橋が。 -
観光都市
一方で上海租界住民のバカンス先として観光都市として歩み始め、県内の雲仙などが観光地として開発されます。第二次世界大戦で交戦国となり、こちらも途絶えます。長崎には原爆も投下されました。 -
現在
現在、駐長崎領事館を設置しているのは、中華人民共和国だけです。オランダ王国は歴史を踏まえ、新地バスターミナルで知られるビル内に名誉領事館を設置しているのみです。長崎新地ターミナル 乗り物
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遺産
16世紀ポルトガル伝来のカステラは、今も長崎のシンボル的アイコン。従来のものに加え、アイスを挟んだものなど、日々進化しています。数えきれないメーカーが存在します。ちなみに県民が自分用に買うのは、専ら福砂屋です。
ほかにも、バッテラはポルトガル船に形が似ていたことからつけられた名前です。
続いて、中国と長崎の関りを巡ります↓
https://4travel.jp/travelogue/11826545
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