2023/02/05 - 2023/02/05
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たびたびさん
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今日の京の冬の旅は、東本願寺大寝殿・白書院の一つ。時間の余裕はあるのでもっと行けるんですが、昨日が妙心寺の塔頭、寿聖院、玉鳳院でしたからね。やっぱりこれくらいがほどほど。欲張ってこれ以上回るとけっこう記憶がごちゃごちゃになってしまいますからね。
で、その空いた時間で後半に入れたのは、京都水族館、京都市動物園と有鄰館。京都水族館、京都市動物園は、いつでも行けると思って延ばし延ばしにしてきたし、有鄰館も曜日の関係で日程が折り合わず、機会がなかなか巡ってこなかった施設です。そして、これに早朝の京都駅周辺のマイナースポット探索を入れればいつものパターン。立派な一日の計画が出来上がりました。
ところで、東本願寺の方ですが、本願寺から分かれたのは慶長7年(1602年)。豊臣氏の支持で弟の准如が顕如の後継者、本願寺派第12世宗主となり隠居させられていた教如に、徳川家康から現在の場所に寺領が寄進されてからのことです。遡ること信長と戦った石山合戦。講和の申し出に応じて、石山を退去した顕如ですが、これに異議を唱え石山に留まったのが顕如の嫡子である教如。この穏健派と強硬派の違いが分裂に向かう火種となりました。家康が浄土真宗の力を削ぐために策略を練ったとかの説もありますが、とてもそういうやわなことではないようです。
ただ、それはそれとして。いずれにしても戦国時代を通じ、大名を震え上がらせるほど強大な力を持ったのは浄土真宗以外にないことは誰も異論のないことだと思います。その教義は、阿弥陀信仰に基づく念仏。第3代天台座主、円仁が唐から念仏を持ち帰り、比叡山に常行三昧堂を建立した辺りが発祥。その著、往生要集において極楽往生するには念仏以外に方法がないと説いた源信も比叡山で修業をしていた僧侶ですが、専修念仏を説く法然が現れ浄土宗を開くと、続いて、法然を師と仰ぐ親鸞は浄土真宗を開く。”善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや”は歎異抄の一節ですが、親鸞の考え方を端的に表す言葉としてあまりにも有名です。教義は一貫してすべての人を阿弥陀仏が救ってくれるというシンプルなものですが、重要な進化は観念念仏→称名念仏→専修念仏→親鸞の最後の境地とされる自然法爾。教義の進化ではなくて、念仏への取り組み方への進化だったように思います。この間、例えば”念仏を一度でも唱えたら極楽往生できるのであればいくら悪事を働いてもいいはず”とか数限りない異議が湧いてきて、それらとの戦いは他宗との争い以上にとても厄介なことだったはず。その戦いの果てにたどり着いたのが自然法爾であり、すべてをゆだねよという境地なのですね。反面、そうした考え方が強い信仰心の基礎となり、後世、戦国の時代を生き抜いていく顕如や教如に途方もない力を与えることになろうとは親鸞もとても予想はしていなかったかもしれませんけどね。
翻って、少し触れましたが、浄土宗、浄土真宗も比叡山から生まれた諸宗の一派。それは日本の仏教の歴史にとってはどういう意味があったのでしょうか。末法思想の高まり等の背景もあって、最澄や空海の平安仏教から、大衆仏教へと脱皮した鎌倉仏教の流れですが、私はそのキーワードは行ではないかと思っています。仏教の故郷、インドでは仏教以前の長いインド哲学の歴史の中でも、知と行のバランスの大切さが強く言われていました。知だけではだめで、行も必要。その逆もしかり。しかし、仏教が中央アジアから中国、朝鮮を経て伝わった日本では、その内容は経典などの書籍によって知るしかない。つまり、どうしても知が先行せざるを得ないのですね。比叡山から生まれた諸宗も当然、その根っこは教義なのですが、なにかの弾みとして行に目覚めることになる。それが浄土宗、浄土真宗の念仏であり、禅宗の禅や日蓮宗の題目口唱も行であり、その方向性は同じです。時宗なんかも面白いのですが、踊念仏の一遍は”我も仏もなかりけり”。阿弥陀仏に救われる信仰のはずなのに、もうそんなことはすっかり忘れて、行にはまり込んでいます。なお、時宗はその延長かもしれませんが、能にも影響を与えていて、善と悪とか生と死とかの二元論を超越しているのはこれもいわゆる悟りの境地かな。また一面、それは、大きく見れば天台宗の中観派的な考え方にも通じるような気がします。
いずれにしても、各宗で行が仏教の主役となったことで、ここで初めて日本的な知と行のバランスが取れた。大衆仏教への脱皮においては、それが決定的に重要なことではなかったかと思うのです。すべての人を救うと言う考え方は、大乗仏教の基本ですから、天台宗ではいろはのい。しかし、行を手にしたことによって諸宗は新たな段階へ。似て非なるものに変わったのではないでしょうか。そういう言い方をするとやっとみたいな話になるのですが、決してそうではないですね。華厳経に深く帰依して東大寺を建立した聖武天皇は、華厳経の縁起の世界。真実の世界と現実の世界の二重性の世界観に驚愕したからこそ、深く帰依したのだと思います。インド哲学の系譜でいうと唯識論の流れなのですが、そういう世界観こそ当時の国家鎮護を願う為政者が求めていたものでしたからね。日本の社会に定着、浸透するためにはやっぱり順番というものがあるでしょう。なお、奈良時代にも厳しい戒律があったりしてそれは行ではないかという疑問もあるかもしれませんが、それは知のための戒律。知が中心であったことに変わりはありません。念のため。
一方で、その後の仏教は、南都六宗が共存していた時代や大乗仏教に拘る最澄と密教の優秀さを主張する空海が競い合う時代などからすると、教義の方は進化が滞ることになってしまったのは否めないかも。江戸時代における儒教との棲み分けや明治以降は西洋文化の流入でその影が薄くなった面もあるでしょうが、しかし、それらも含めて、仏教の発展は日本的で豊かな多様性や日本人の心の在り方を形作った基礎の一つであることも消えない歴史。その恩恵にはやはり感謝をしなければならないし、大いに敬意を表する必要があるように思います。
(この辺り、さらに興味がある方は「日本仏教の思想」立川武蔵もお勧めします)
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今日の冬の旅の本願寺は10時からなので、その前に京都駅の西側のエリアを散策します。
リーガロイヤルホテル京都の敷地内。植え込みの中に新選組不動堂村屯所跡の碑がありました。碑文は、「事あらばわれも都の村人となりてやすめん皇御心 近藤勇」。近藤は意外に勤皇思想が強い人物だったようですね。
ちなみに、この屯所は、慶応3年(1867年)の6月15日から12月14日までの6か月間使われたもの。西本願寺から移るにあたって、新たな屯所の建設費用は西本願寺持ち。なかなか強引です。
なお、新撰組は不動堂村屯所から伏見に移りますが、12月9日に発せられた王政復古の大号令で徳川幕府の廃止が決定。徳川慶喜は大坂城へ退去することになったため。10月14日の大政奉還で徳川氏の力が温存されたはずでしたが、一気に暗転。新撰組もここから苦難の道が始まります。 -
近くの不動堂明王院は、弘仁12年(823年)、空海が都南に東寺を賜った時、東寺の鬼門である地に一体の不動明王像を祀ったのが始まりとされ、霊石不動と呼ばれる不動明王像が本尊。霊石不動堂縁起という詳しい説明板があって、宇多天皇との関係も触れられていました。
なお、現在の本堂は明和元年(1764年)の建立。本堂の前面には赤い提灯。ちょっとおめでたい雰囲気です。 -
不動堂明王院と隣り合わせに建つ道祖神社。創建は、昌泰2年(899年)。道案内の神様、猿田彦大神と芸能の神様、天鈿女命の二人、夫婦の神様を祀ります。鳥居の傍らに手を取り合う男女の石造があって、まあ、そういうことなのかなという感じです。
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社殿は一段高いところにあって、ちょっと威厳も感じます。
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少し移動して。
宗徳寺は、応永年間(1394-1428年)の創建。西山浄土宗の寺です。宝徳年間(1449-1452年)になって、紀伊の淡島神を勧請し、祀ったことから粟嶋堂とも。大きく人形供養と書かれた看板が目立っていますが、それはたぶん淡島神の関係ですね。境内には、室町期の石造弥陀板碑や蕪村の句碑があって、それなりに知られていますし、門前の駒札にもしっかり案内ができています。 -
今度は京都水族館のところからさらに西側。七条通沿いには、だらだらと緩い感じで商店街が続きます。七条センター商店街は、その始まりといった商店街。ところどころに屋根があったりしますが、まあ気まぐれ的かな。朝は魚屋さんが開いていました。
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松尾大社の祭礼、松尾祭の還幸祭では離れた場所で神事が行われ、神事終了後に神輿は松尾大社に戻ります。松尾大社朱雀御旅所は、旭の杜で神事を行った後に神輿が立ち寄る場所。手前のスペースはアスファルト敷きの駐車場となっていまして、大勢の人が集まってもこれなら大丈夫。その奥にミニマムな参道と社がありました。
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七条通り沿いに戻って。商店街は七条センター商店街からこの七条千本繁栄会へ。
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さらには七条中央サービス会へとだらだら続きます。
ただ、地元の商店の人もどこからどこまでがどの商店街なのかあんまり分かっていないよう。それくらい緩い商店街です。 -
こちらにも、松尾大社の西七条御旅所です。
西七条地区だけでも3か所あったようですが、ここだけが残ります。 -
赤い立派な鳥居を入ると中は広いスペースが確保されていて、これなら大勢が集まっても大丈夫ですね。奥の方、端っこに立派な社も構えていました。
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また、少し戻ってきて。
西川油店の創業は天保6年(1835年)。屋根にかわいらしい小さな金属製の明りがあって、そこにもこの創業年が書かれています。屋号はかね源。
菜種油の製造はやっていなくて、今は小売のみの営業。かつての道具類が傍らに少し展示されています。 -
本光寺の門前には、伊東甲子太郎外数名殉難跡の石碑が建っています。新選組から御陵衛士として分離した16名のグループが新撰組に粛清されるという凄惨な事件。暗殺された甲子太郎の遺体を餌にして仲間をおびき寄せるというちょっと眉を顰めるような行動でも知られます。
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これに対して、山門の奥は、参道の脇に緑が植えられて静かな佇まいでした。
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では、朝の散策を終えて、東本願寺に到着。
ホテルでゆっくりしていた妹とはここで合流です。 -
境内に入って、左手が阿弥陀堂。本尊である阿弥陀如来を安置するお堂です。
右手が御影堂。 -
阿弥陀堂も御影堂も、蛤御門の変による焼失の後、 明治28年(1895年)に再建されたものです。
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これは、東本願寺 お買い物広場。
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広場ではなくてショップ。ただ、普通のお菓子とかのお土産物とかではなくて、御数珠とか仏具や中心は浄土真宗に関する書籍とか。単にお寺を見るだけではなくて、浄土真宗の内容についても知ってほしいということでしょう。なるほどねという感じです。
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では、受付を済ませて内部へ。京の冬の旅で特別公開されるのは、大寝殿と白書院。
まずは、大寝殿に向かいます。
「大玄関南西に雁行して接続し,東本願寺正殿として重要な法要儀式の場となる。入母屋造,桟瓦葺の大きな妻面を正面に見せ,平面は真宗大広間の形式を踏襲する。座敷の最奥は全面上段とし、床・棚・書院さらに帳台構を備える。幕末真宗大広間の姿をよく伝える。」文化遺産オンラインより(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/561125) -
イチオシ
係りの人の説明だとここも蛤御門の変による焼失の後の再建。お寺の活動に支障があるので、突貫工事で再建されたのだとか。そういう目で見るからかもしれませんが、ただただ広い空間を確保したという建物かな。凝った意匠なんかはほとんどなくて、シンプルで質素な感じさえありますね。
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奥が一段高い上座となっていますが、略式な感じしかありませんね。
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バックの障壁画は竹内栖鳳。以下解説文です。
「風竹野雀」
”強い風に吹かれ、大きく枝がしなっている竹林の中を二羽の雀が飛翔しながら争っている姿が描かれ、現世の闘争と煩悩が表現されており、南側の古柳眠鷺とは対照的な表現となっている。” -
「古柳眠鷺」
”雪景色に生い立つ柳の古木の上で静かに休む白鷺の姿が、風竹野雀の動態表現に対して静態表現で描かれている。今にも折れてしまいそうな柳の枝先に白鷺が休んでいる姿を通して浄土の寂静が表現されている。”
古木の柳と -
イチオシ
白鷺は、浄土の寂静だということですが、なにか寂し気な感じもしなくはないですね。
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イチオシ
「歓喜」
”対照的な画題を示す両脇の水墨花鳥図に対して、着色画で描かれているため、美しく引き立ち、大寝殿を荘厳している。暖かな陽だまりので餌を啄む雀が色彩豊かに描かれ、遇法の喜びが表現されている。中央に一部損傷補修の後が残されているが、元々二羽の雀が描かれていたと類推されている。” -
欣喜雀躍という言葉がありますけど、それくらいのところかな。遇法の喜びというほど深いものは感じないですけどね。
竹内栖鳳はとにかく絵がうまい。「東の大観、西の栖鳳」と言われて横山大観と比較をされますが、私は絵のうまさでいうと比較にはならないと思います。雀の絵は、竹内栖鳳が逗留したという縁がある湯河原の町立湯河原美術館でも「喜雀」の屏風を拝見したことがありますが、思わず笑ってしまうくらい素晴らしい。栖鳳の描く雀は「栖鳳雀」と言わるくらいに人気があって、まあ得意中の得意の画題なんですね。 -
全体の捉え方も素晴らしいんですが、栖鳳は一本一本の線がそれ自体で絵になっているくらい。雀は小さな画題なのであまりよく分かりませんが、以前拝見した虎の絵だと毛の一本一本がそれだけでも活き活きと描かれた絵になっているのが分かって、まったく舌を巻きました。
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ただ、反面、思想的なところはどうだったのかなあ。西洋の美術に対して、日本の伝統を復古させる強い意欲が感じられる大観がよりビッグに感じられるのはその辺りのこともあるような気がします。突貫工事で建てられる大寝殿の障壁画の依頼を受けて、栖鳳には新たな引き出しはあまりなかったのではないでしょうか。しかし、それでも自らが最も得意とする画題を惜しげもなく披露したのはやっぱり東本願寺だったから。ここが東本願寺であることを考えると、作品としては少し軽いイメージかもしれませんが、それでも京都を代表する貴重な遺産となっていると思います。
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続いては、また渡り廊下を通って
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白書院へ。
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入り口はこの奥です。
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こちらは大寝殿より少し後、明治44年の再建です。
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白書院は対面所という建物。
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建物としては格式が高いもの。
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イチオシ
天井は折り上げ小組の格天井となっています。
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床の間にかかる双幅の掛け軸は群れの鶴。
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イチオシ
一方は口を開けていない鶴ですが
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もう一方は口を開けて
阿吽となっていておめでたいです。 -
イチオシ
武者隠しなんかも立派ですね。
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ただ、西本願寺の白書院と比べるとその豪華さや重厚なもったいのなさとかは比べ物にはならないですね。いったん焼失したものを立派に再建したことで良しとすべきでしょう。
それに寺の本質は文化財ではないですからね。その価値は、浄土真宗の教え。こうした建物は、そのおこぼれに過ぎません。 -
さて、あとは能舞台もちらりと拝見して、以上で終了です。
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入り口を出て、ちょっと一息。
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イチオシ
天気も晴れてきて、御影堂も美しいです。
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御影堂門に
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イチオシ
阿弥陀堂門を確認して、
ここから水族館に向かいます。 -
京都水族館は、平成24年にオープン。当初から高い人気を誇っていますが、今回が初訪問です。
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都市部の水族館はとても進化していて、同じ平成24年にオープンしたスカイツリーのすみだ水族館なんかもペンギンとか楽しいですからね。水族館はきれいな海の近くにないとダメ的な感覚はどうかすると少し薄れてしまったかもしれませんね。
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敷地内に入ってからでもどんどん進んで
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ここが入口ですか。
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ほ~、この日も家族連れで大変な賑わいですよ。
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入ってすぐの渓流の魚のコーナーでは
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オオサンショウウオが何匹も重なり合ったりしていて、なんともグロテスクですねえ。
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明るいテラスに出たと思ったら、
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ゴマアザラシがトンネルの中からこんにちわ。
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ペンギンたちは元気、元気。
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元気いっぱいですよ~
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こちらは、メインの大水槽。
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大水槽はさすがに都市部の水族館だとちょっと限界があるのかなあと思ったのですが、
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あれれ、これはイワシの大群です。
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キラキラと光る身体を見せながら
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密集した塊は
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変幻自在に形を変えていきます。
ちょっと地味なようでも、意外と見ごたえがあって楽しいですね。 -
大水槽の主役は、ジンベイザメやマンタみたいな大物がウリになるのですが、
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アカエイや
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ちょろちょろツバメウオがいるくらいでも十分かな。
イワシの大群がいるだけで、海の奥行きや神秘性も感じれるような気がします。 -
他ではあんまり見た記憶がありませんが、何か飼育には難しいところがあるのかもしれませんね。
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クラゲも癒しの存在。
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鶴岡市立加茂水族館がクラゲ水族館として一躍脚光を浴びましたが、
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今では広くどこの水族館でも定番の人気ものとなりました。
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こちらもそれなりの種類と
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量を確保して
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これなら十分満足ですね。
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そして、ガーデンニールも人気のキャラですね。
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うーん、やっぱりさすが京都。期待通り、なかなか充実しています。
そして、途中、敷地内の水辺の公園を歩いたりするのもいい息抜き。これなら大人も子供も楽しめる。人気の理由がよく分かりました。 -
では、ここでランチ。大宮の方まで移動して、ヤオイソへ。こちらは、京都では有名なフルーツサンドのお店。果物屋さんがやってます。店内は、ちょっとレトロな雰囲気ですが、それも京都らしくていいですね。
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定番のフルーツジュースとフルーツサンドをいただきます。両方とも甘さは控えめ。その分、インパクトはイマイチですが、飾らないこの味が自然の味ということでしょう。
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イチオシ
フルーツサンドは世の中的にはかなり進化をしていて、チェーン店も含めていろんなお店が出来てきましたが、そういう流れは気にせず、このまま伝統のスタイルを貫いてもらいたいと思います。
では、ここからはまた妹とは別行動。 -
一人でのぶらぶら歩きは、岡崎地区から東山、南禅寺の方までです。
冷泉通りから疎水の中に見える北垣国道像。京都府技師の田辺朔郎と二人三脚で琵琶湖疏水の計画を進めた京都府の三代知事。蹴上発電所に日本初となる路面電車は、京都の近代化の先駆けとなりました。 -
その近くの白河南殿跡の碑。川をバックにした植え込みの中ですが、けっこう見つけ辛いかも。応徳3年(1086年)、まだ8歳だった堀河天皇へ譲位をした白河上皇が初めて院政を始めたのが、この白河南殿・白河北殿。堀河天皇から、その後は鳥羽天皇、崇徳天皇へ。治天の君として権勢をふるった白河院政の時代です。
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ここから少しづつ東に進みます。
大蓮寺は、慶長5年(1600年)の創建された浄土宗の寺。本尊は阿弥陀如来。後光明天皇が夫人の安産祈願を命じたことで、安産祈願の寺として有名。また、洛陽三十三所観音霊場第8番札所であり、本堂には十一面観音も。これは明治の廃仏毀釈時、八坂神社から移されたものということ。いろんな経緯があります。 -
境内には蓮華鉢が並んでいて、ちょっとごちゃごちゃ感もありますけどね。
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信行寺は、1708年、宝永の大火後、寺町通から東山仁王門に移転となった9か寺の一つ。浄土宗のお寺です。
2015年の京都美の鑑賞歩きで、伊藤若冲が描いたという本堂の天井画が初公開されたことがあるよう。 -
本堂を眺めるだけでしたが、二重屋根の堂々とした構え。瓦の意匠とかも溌溂とした雰囲気です。
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有鄰館は、開館の日が限られるのでハードルが高いですが、今回は日を定めて初訪問です。外観を始めとして、一風変わっていて得体のしれない雰囲気がムンムン。その謎を解くべく、ここも楽しみにしていた施設です。
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滋賀県出身の実業家、藤井善助が収集した東洋美術コレクションを保存展示するため、大正15年に設立。日本の私立美術館としては草分けの1つなのだそうです。
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入り口は裏に回ったところ。
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入ってすぐのスペースには
もうなにかそれらしい石造物がちょこちょこと置いてあって -
それだけでも異様な雰囲気がしなくはないですね。
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ここから中に入りますが、内部は撮影禁止です。
さて、コレクションは、国宝1点を含む殷代から清代の中国民族遺産である絵画、書、仏像、青銅器、陶磁器、古印などなど。展示品はとても豊富なのですが、反面、あまりにも膨大で途方もないような代物もあって、きちんとその価値や意味合いが把握されて整理されているかというとどうなんでしょうね。
一階の巨大な石仏群も中国の奥地にあったものだと思いますが、岩山にあったものを引っぺがしてきたような感じ。例えば日本でも摩崖仏を引っぺがしてきたりするのはありえないことですけど、それを乱暴にやってしまったんでしょう。調査を十分に行って、記録を残したりしたうえで、それをやるだけの価値があるものならいいと思うのですが、私は見ているだけでちょっと心が痛みました。
二階は殷や周の時代の青銅器。泉屋博古館のコレクションと比べても、鉢のような祭器は巨大で途方もない。かつ、こちらが殷で、こちらが周みたいにさらっと表示されていましたが、私の感覚でいうと、殷のものと周のものがこんなに似ているのは違和感があって、大丈夫かいな?みたいな感じ。清の時代だと皇帝の巨大な印璽とかも、日本にこんなものがあること自体信じられない。悪いですが、偽物なんじゃないかと疑ってしまいます。
コレクターは素人ですから、まあ、偽物が混じっていても全然おかしくはないかな。やっぱり、コレクションはその世界感の方がずっと大事ですからね。ただ、せっかくこれだけのものがありますから、真偽や時代考証も含めて、引き続きさらに検証をしていくという姿勢も必要かも。まだまだ研究の余地が多いコレクションではないかと感じました。ということで、これを見てもそのインパクトに圧倒されて、ただ凄いというしかないですね。つまり、いい方は悪いですが、あまりまじめに考えず、独特の刺激的なインパクトを楽しむということでいいのかもしれません。 -
もう少し岡崎公園の辺りでもう一つ。
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これは、ワグネル博士顕彰碑。
碑陶磁器や七宝、ガラス等の製造を指導し、京都の産業近代化に貢献したワグネル博士の功績を称えるもの。京都市の文化ゾーンともいえる岡崎地区に設置されたのはよいことですね。コンクリートの壁に肖像の銅板がはめ込まれて、見た目は重々しいですが、その功績はもっと身近に感じていいものではないかと思います。 -
そして、これもいつでも行けると思っていていったことがなかった京都市動物園です。やっぱり、子供連れが多いですよね。
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そんな中、一人の私は場違いなような気もしなくはないですが
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園内は動物の檻ばかりではないですよね。
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猛獣の
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辺りも飽きたら
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すぐ隣りには潤いのある池のエリアがあったり
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芝生の広場や日本庭園のような場所もあったり。
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程よい寛ぎの空間があって、いいじゃないですか。
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イチオシ
ゾウや
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ゴリラにほのぼのして
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この感じはどうなんでしょうね。
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動物がいる公園、動物園じゃなくて、動物もいる公園といった感覚で楽しむでいいのではないかなと思います。
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では、最後は南禅寺のエリアに移動です。
真乗院は、宝徳2年(1450年)に南禅寺139世、香林宗簡が創建。その後、香林の塔所として、南禅寺の塔頭となります。
山門横に「山名宗全公之墓」の石碑があって、よく目立っていますね。ただ、山門の中に入ってみましたが、どこにあるのかよく分からず。お寺の人にちゃんと聞かないと分からないと思います。 -
水路閣を通って
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水路閣から上の方に上がったところが南禅院です。こちらは、南禅寺発祥の地とされますが、つまり、それは亀山法皇の離宮があった場所であり、法皇はここで落飾されたから。庭園は法皇遺愛の林泉で、史跡及び名勝に指定です。
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入口を入る時には想像できないくらいなかなか大きなスケールの庭園なんですが、けっこう久しぶり。
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一見、特徴がない庭なんですが、このスケール感が独特の心地よさを生み出しているようなところがあって、意外に印象に残るんですよね。
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なお、現在の建物は、徳川綱吉の母、桂昌院により再建されたもの。この建物のぐるりを庭が囲んでいて、その配置のバランスが絶妙です。
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最勝院は、南禅院からさらに奥にある塔頭。ここまで来る観光客はあまりいないかもしれません。
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参道から山門を入ると正面の本堂の前にはきれいに整備された苔の日本庭園。そういう意味だと訪問者をしっかり意識した構えのように感じますが、人けはやっぱりほとんどない。静かな境内です。
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では、これで京都駅の方に戻ります。
琵琶湖疏水ねじりまんぼは、インクライン下を抜けていく歩行者用トンネル。蹴上駅の方に抜ける際は、必ずここを通ります。 -
妙な名前ですが、それはレンガの積み上げ方からですね。どうしたものか。らせん状にねじれていて、妙な感じ。これで強度が増すようですが、坂道に造ったのでこうなるのかなあ。理屈はよく分かりません。
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ねじりまんぼを抜けるとすぐにあるのが第二期蹴上発電所。
明治24年、第一期の蹴上発電所が運転を開始しますが、明治45年、第2疏水の完成に伴い、代わってこの第二期蹴上発電所が運転を開始します。道路からだとだいぶ低い場所に建っているし古いのもあってちょっと陰気臭いですが、建物自体はレンガ造りなのでよく残ったということでしょう。現在は稼働はしていません。 -
向かいのホテルはウェスティン都ホテル。京都野鳥の森・探鳥路というのがあって、このホテルの7階からアクセスします。建物の裏山みたいなところを上がっていくので、泊まってもいないのに拝見すると気が引けそうですが、ホテルのガードマンとかは「どうぞどうぞ」という感じ。皆さんに見てもらいたいというウエルカムの姿勢がうれしいです。
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蹴上駅から京都駅までは京阪大津線。京阪大津線の名称は、御陵駅からびわ湖浜大津駅までを結ぶ京津線と石山寺駅から坂本比叡山口駅を結ぶ石山坂本線を合わせた総称です。大津と京都市内を結ぶという面と大津市の周辺、琵琶湖沿いを走るという両方があるのですが、いずれにしても、これを使うと京都と大津の観光はとても便利。京都・大津観光というのが楽にこなせます。まあ、それはまた次の機会ですけどね。
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京都駅に到着。
コトチカ京都って、どこにあるのかあんまり認識していませんでしたが、地下鉄烏丸線の改札を出るとすぐのところでした。お店の配置図とかの看板も見ましたが、やっぱりあんまり大きな施設ではないし、お店のラインナップもイマイチかな。通りかかったら利用するくらいで、わざわざ行くようなところではないと思います。 -
ここから、今日の宿の奈良、新大宮駅に向かいます。
近鉄の京都駅。タイムズプレイス京都は、改札内にあるお土産物や食品売り場。いくつかのお店が並んで入っています。エキナカではよく見る感じの賑やかさですが、近鉄京都駅もこれがなかったら、寂しくてどうにもならない。これがあることで、乗り降りする人たちは京都の賑わいを感じることができるので、それだけでもかなりの貢献ですよね。
さて、残りは、二日間で、明日の予定は飛鳥。妹は先に帰ったので、またいつもの一人旅です。
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