2023/02/02 - 2023/02/02
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たびたびさん
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今日から旅の中盤。京都四日間の始まりです。コロナ禍の中、人の多い場所を避けて我慢をしていたので、3年半ぶり。本当に久々です。
ちなみに、久々の京都は、ちょっと新機軸の節分と京の冬の旅を絡ませたもの。前半2日が節分、後半2日が京の冬の旅とあれこれです。ところで、京都のイベントで節分って。。増上寺、成田山新勝寺など芸能人もたくさん登場する豆まきとか規模が大きくて派手な印象の関東や東大寺、興福寺、元興寺など宗教行事としての色合いが濃い奈良に比べるとあんまり目立ってはいないように思いますけど、それでも調べてみるとやっぱり京都は京都。数としてはそれなりにあるんですね。その中から、今回は比較的人気があって時間的にもバッティングしない八坂神社、吉田神社、蘆山寺をメインにチョイスしてみました。
ということで、今日の予定はお昼の時間の八坂神社と夕方からの吉田神社。
まず、八坂神社の節分ですが、2月2~3日の二日間。最大の特徴は、豆まきの前に毎度四花街(先斗町歌舞会、宮川町歌舞会、祇園甲部歌舞会、祇園東歌舞会)の華やかな奉納舞踊が行われること。境内の舞殿では、たぶん何時間も前から熱心なファンの皆さんが待ち構えていて、始まる前からちょっと異常な盛り上がりでした。拝見したのは初っぱなの先斗町歌舞会の奉納舞踊でしたが、なるほどこれはいいものですね。歌舞練場の舞台とかで拝見するきっちり演出された踊りとは違って、踊り終わった後のほっとした舞妓さんの笑顔などいわば舞台裏まで含めた素顔の姿まで見れてしまうとこの日まで練習を重ねてきたお稽古の緊張感までが想像されるよう。こちらもなんだかほっこりした気持ちになりました。
これに対して吉田神社の節分は、参道にずらりと並んだ露店がすごくて、参拝者はもしかしたら八坂神社よりも多いくらいの賑やかさ。何でも毎年50万人が訪れるということですから、確かに半端ではありません。見どころは、なんといっても2月2日の夕方から行われる追儺式。平安時代の初期から毎年宮中で行なわれていた儀式を古式に則って継承した神事なのだそうですが、主役は黄金四つ目の仮面を被り盾矛を手にした大舎人が務める方相氏。松明を持った多くの小童を従えて群がる疫鬼を追い詰めます。そして、最後は殿上人が桃弓で葦矢を放つと疫鬼は退散し、無事に終了です。一方、退治される鬼たちが暗闇の中で泣き叫ぶ姿も迫真の演技。不幸を引き起こす邪悪な鬼のはずが、自らもその不幸や疫病に侵されもがき苦しんでいるかのようで、どういう設定なのかちょっと気になるところでした。ちなみに、そうしたパーフォーマンスは舞殿の周囲。見物の位置をちゃんと確保しようと神事が始まる2時間前から立ちっぱなし。周囲の雰囲気につられたのもありますが、けっこう過酷な面もあることはお伝えしておきたいと思います。
参考まで
東京の節分
https://4travel.jp/travelogue/11692561
https://4travel.jp/travelogue/11692562
奈良の節分
https://4travel.jp/travelogue/11327877
なお、節分の前後には、例によって、こまごまマイナースポットを絡めた京都の街歩き。これも久々の肩慣らしになったように思います。
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昨夜、京都入りして泊まっていたのはSAKURA TERRACE THE ATELIER。京都駅の南エリアで、地図だともう少し近そうだったのですが、ちょっと歩きますね。外観はマンションみたいな建物でした。部屋は小さめですが、逆に、そのスペースいっぱいにベッドを置いていて、ベッドの上で過ごしているとそこまで狭さを感じさせないという仕掛け。荷物が少ない人には悪くない工夫だと思います。
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一方で、ロビー周り。休憩したり、飲食をしたりするスペースはおしゃれで、広々とした空間。ここだけを見れば、そこそこの高級感がありますね。
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飲み放題で多種類の紅茶のセルフサービスがあって、出かける前にそれをしばらく楽しみました。
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京都駅から博物館前バス停へ。八坂神社の奉納舞踊は13時からなので、その前に午前中はここから東福寺の方面を歩きます。七条通から三十三間堂の脇を抜けて少し歩くと法住寺なんですが、その法住寺の北側に後白河天皇法住寺陵の細い参道入り口がありまして。
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それを進むと法住寺の塀に囲まれるようにしっかりしたスペースが確保された御陵が現れます。
ちょっと意外な感じにも思える場所なのですが、実はここには後白河院が20年にわたって院政を行った法住寺殿があったんですね。三十三間堂も平清盛の協力でこの法住寺殿の中に建立されたもの。建立は1164年。後白河上皇派と二条天皇派の争いであった平治の乱は1160年。平清盛は二条天皇派だったので後白河上皇とは敵対関係にあったのですが、勝利した二条天皇派も結果としては共倒れ。逆に、清盛の妻時子の姉妹でもある平慈子が後白河上皇の寵愛を受けて、後白河上皇と清盛は急接近。後の高倉天皇が誕生したのは1161年ですし、高倉天皇には清盛の娘、徳子、後の建礼門院が入内し、安徳天皇が誕生するという流れ。法住寺殿への三十三間堂建立には、後白河上皇と清盛の強い関係があったからこそというのが背景です。 -
改めてですが、後白河天皇は、鳥羽上皇と中宮、藤原璋子の第四皇子。治天の君は鳥羽上皇の時代の始まりです。鳥羽天皇の後は、後白河天皇と同じ藤原璋子を母とする鳥羽天皇の第一皇子、崇徳天皇が即位しますが、それは白河法皇が治天の君の時代。一方で、鳥羽上皇にとって白河法皇は疎ましい存在。藤原璋子は白河法皇の養女なのですが、白河法皇の寵愛を受けたとも言われる女性だし、崇徳天皇も実は白河法皇の子ではないかと言われるほど。白河法皇が崩御した後は新たに藤原得子(美福門院)を寵愛し、その子、近衛天皇への譲位を迫ります。しかし、近衛天皇は若くして崩御。代わって、美福門院は養育していた二条天皇の誕生を目論みますが、まだ幼いことから、ワンポイントとして即位したのがその父であった後白河天皇なのですね。それらを主導した鳥羽院が崩御すると、今度は崇徳上皇の不満が爆発。後白河天皇と争ったのが保元の乱です。その後、約束通り二条天皇が即位し、後白河上皇と二条天皇の確執が平治の乱につながる辺りはちょっとどうしようもない因縁の繰り返しですね。ただ、その後は清盛との関係を強めての平家の台頭から源平合戦へ。そして、新たな鎌倉幕府との駆け引きでは、頼朝から「日本第一の大天狗」と称されたほど。皇位とは関係ない立場で今様を愛した時代から、偶然が重なって自らが院政を敷く治天の君へ。一方では、平清盛や源頼朝と丁々発止の動乱の時代を生き延びる。その姿は平家物語でも主役の一人として特別な輝きを放っていて、歴代の天皇の中でも特筆される人物なのではないかと思います。
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そのまま進んで、この南大門はあの方広寺の南門です。
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その南大門に続くのが太閤塀。高さ5.2m桁行92mの堂々たる木骨土造の築地塀です。豊臣秀吉が寄進したことから太閤塀。方広寺の南限を示す塀として建てられたもので、今では三十三間堂を取り込む形になっているのも面白いです。
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では、どんどん進みますよ~
専称寺の創建は、慶長16年(1611年)。もともとは天台宗の寺でしたが、現在は浄土宗。醍醐三宝院の開山、理源大師の自作念持仏、馬頭観音が祀られていることから、馬頭さんの寺とも。 -
山門のすぐ奥の本堂は落ち着い雰囲気ですが、元禄12年(1699年)の再建です。
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浄心寺は、浄土宗西山禅林寺派の寺。きちんとした印象の山門前には「閻魔山 浄心寺」の石柱が建っていて、すがすがしい雰囲気もありますね。本堂前には「山門不幸」の立て札がありまして、これは拝観不可というような意味かな。確かにそれがないと入ってみたくなる構えです。
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寶樹寺は、浄土宗西山禅林寺派の寺。本尊の薬師如来座像は、”子そだて常盤薬師”と呼ばれるもので、常盤御前が今若、乙若、牛若の3児の生長を祈願したと伝えられます。ほか、境内には”常盤御前雪除けの松”の残株も。常盤御前が大和へ逃れる際、この松の下で雪を避けたというもの。小さなお寺ですが、なかなかの歴史を秘めています。
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瀧尾神社は、源平盛衰記に旧名の武鶏ノ社の名で登場するほど古い歴史。現在の場所は、豊臣秀吉の大仏殿建立に伴う移転で移って来たようです。
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本殿は貴船神社奥院旧殿が移築されたもの。今は修復工事の期間中でしたが、立派な唐破風の向拝は金の飾り金具と合わせて確かに特別な感じがあると思います。
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だんだん東福寺が近くなってきましたね。
万寿寺は、白河上皇が早世した皇女、郁芳門院の菩提を弔うために六条内裏に六条御堂を建てたのが始まり。現在は、東福寺の塔頭ですが、かつては、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺と並ぶ京都五山の1つだったという格式の高さです。 -
現在は非公開ですが、境内を奥に進むと
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ちらりと客殿周りが拝見できました。客殿前の平庭とか何でもないような庭ですが、やはり堂々とした構え。それらしい雰囲気はさすがです。
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はっきりと東福寺の寺域に入ってきまして。
東福寺の塔頭、盛光院です。鎌倉時代、東福寺10代住職、直翁智侃の創建。東福寺エリアの一番北側で、ちょっと路地を入って行くような目立たない場所です。 -
紅葉時期の特別公開はありますが、それ以外は非公開。ただ、山門から覗ける境内の一部でもまっすぐ伸びた参道の両側に整備された苔庭がとても美しい。これだけでも一見の価値があるように思います。
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明暗寺は、東福寺の通天橋に向かう途中。左手の一段高い場所にある塔頭です。
始まりは大永年間に彭叔守仙が退隠所として創建した善慧院。その後、明暗寺を合寺したという流れ。 -
現在は普化尺八明暗流の尺八根本道場になって、”虚無僧発祥のお寺”として知られるのだとか。境内は山門から少し中に入れます。
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ところで、東福寺の寺域はそれ以前は藤原氏の建てた法性寺があった場所。法性寺の時代、藤原道長が40歳の賀にあたり、五大明王を安置する五大堂を建立。同聚院はその遺仏である不動明王を本尊としていて、赤い幟が立っていて賑やかな構えです。
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雰囲気としては、塔頭ではなくてお堂ですね。なお、不動明王は、”十方不動””十万不動”とも呼ばれ、霊験あらたかな不動とされています。
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通天橋を渡った先が天得院。初夏、桔梗の時期に特別拝観があってとても有名ですよね。一度、その時期に拝見しましたが、美しい苔と桔梗の清楚な花の組み合わせが素晴らしかったのを思い出します。
創建は南北朝時代の正平年間(1346-1370年頃)、東福寺の30世住持、無夢一清禅師によって。 -
非公開の時期は山門から境内を少し見れるくらいですが、それでもその規模の大きさはそれなりに感じることができますね。東福寺の塔頭を代表する寺院だと思います。
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天得院からバックして、今度は勝林寺です。
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創建天文19年(1550年)の東福寺の塔頭。東福寺の鬼門にあって、毘沙門天を安置し、通称は”東福寺の毘沙門天”。朝の開門前から何人か待っている人がいて、御朱印をもらっていました。本堂は、大檀那である近衛家の大玄関を移築したもの。
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境内の苔庭を散策した後、上がらせてもらった本堂には金地の竹に虎の襖絵も。
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イチオシ
花手水も美しく活けられていました。
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東福寺からは泉湧寺の方に移動します。
京都青窯会会館は前から気になっていましたがこんなところにありましたか。気軽に清水焼に触れられる施設ということで陶芸体験なんかもしています。
泉湧寺に近くて周囲は陶芸家や職人が集まるエリアのようで、確かにそんなうちをちらほら見かけます。ただ、けっこう山の上の方なので、普通の人がここまで来るのは大変かな。焼きものだと五条坂の方がたくさんお店もあるし、そういう意味でもだんだん寂れている感は否めません。 -
山を越えて、泉湧寺の寺域に入りました。
新善光寺は、泉涌寺の塔頭のひとつですが、準別格本山ともあって。。寛元元年(1243年)、後嵯峨天皇の勅願により創建。本尊は信州善光寺の阿弥陀如来と同仏同体に鋳造されたものだとか。 -
山門を入ると
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枝垂れ桜のある苔庭がいい感じ。
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イチオシ
今は時期ではありませんが、なかなかの枝垂れ桜ですよ~
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さらに中門を入った奥には客殿と正面には赤い愛染堂の周囲を囲んで池を配した日本庭園。二段階でお庭が楽しめる構造です。
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今度は後堀河天皇 觀音寺陵へ向かいます。
泉湧寺の裏手なんですが、泉湧寺の参道の北側に別途、こんなに立派な幅の広い参道が設けられていて、すごいですね~ -
その途中に、後堀河天皇 觀音寺陵もあるんですが、これは山の方に脇道の階段を上がっていった先。かなり扱いが雑ですね。ちなみに、後堀河天皇は承久の乱の後に即位した天皇。やっぱりちょっと微妙な存在かもしれません。
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で、ドン詰まりまで上っていくとこんな感じ。かなりの広さのスペースとその正面に陵が構えるというかなり素晴らしい造りです。
ちなみに、孝明天皇は、第121代天皇。幕末の開港か攘夷かで揺れる幕末の天皇。孝明天皇は攘夷の意志がはっきりしていて、安政5年(1858年)に調印された日米修好通商条約にも反対をしていました。結局、大老井伊直弼は勅許がないまま条約を結んだのですが、その後、そのことで幕府は尊王攘夷派の激しい批判にさらされました。最後は公武合体に傾いて、討幕派からすると邪魔な存在にもなったようですが、少なくともこの段階では反幕府派からするととても都合がよい展開でした。ただでさえ尊王の気分が盛り上がっていた幕末から明治の時代ですから、この立派な御陵はそうした貢献?も背景にあってのことかもしれませんね。
ちょっと蛇足ですが、尊王攘夷のこと。尊王攘夷の考え方は水戸藩から。朱子学の影響を受けたものでした。朱子学は元に圧迫された南宋で大成されたものですから、攘夷の対象である夷狄は元のことですね。ただ、結果として、この考え方は海外情勢に暗く開国を嫌う朝廷と幕府の溝がある情勢では、水戸藩の意に反して幕府を追い詰める道具となっただけ。もともとその内容なんて大したことはないので、大いに利用されることになりました。ただ、天皇を中心とする攘夷派と幕府を中心とする開国派の対立ははっきりしていたのですが、たぶんとても重要なのは同じ攘夷派でも過激な攘夷派を除けば、ほとんどの攘夷派は幕府に攘夷をさせるという考え方であったこと。幕府を追い詰めても、それは幕府の考え方を変えさせようとするもので、幕府をなくしてもいいという考え方までには至っていないのです。その流れの中で、公武合体も生まれるし、版籍奉還の動きにも繋がっていく。しかし、時代はそれに止まらず、倒幕が本線となっていくのですが、この転換が非常に重要なところなんですね。ところが、この辺りのことがあんまり明確に認識されていないのが私的には残念なところなんですよね。幕府を少なくとも体制の中に取り込むかそうでないか。孝明天皇は前者なのだと思います。禁門の変あたりの長州藩も島津斉彬の頃の薩摩藩もそう。坂本龍馬も同じですね。これに異を唱える倒幕の考え方を早々と持っていたのは吉田松陰。そして、高杉晋作のルートですし、最後の決定打は三条実美と大久保利通のタッグ。島津久光や西郷隆盛を上手に操縦して本当に鮮やかです。
薩長同盟が起死回生ということでしばしば脚光を浴びますが、私的にはそれ以上に重要なのは尊王攘夷から倒幕への流れ。もっともっと理解されていいことではないかと思っています。 -
では、そろそろ時間も近づいてきたので、八坂神社の方に向かいましょう。
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四条通を八坂神社の方に向かう通り沿い祇園商店街です。アーケードではありませんが、雨の日でも大丈夫な屋根付きですからね。
着物や宝飾品のお店もあるし、食堂でも名物店が多いです。にしん蕎麦発祥の店、松葉とか。くずきりの有名な鍵善良房も享保年間の創業。祗園辻利も定番です。 -
では、八坂神社に入ります。
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早めに来たつもりでしたが、すでに大勢の人がいて
ちょっと遅かったのかなあ。 -
それでもなんとかもぐり込みましたよ~
ここならまずまず。 -
待つことしばし。
舞子さんがやってきました。 -
イチオシ
やっぱり華やかですねえ。
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だらりの帯っていうやつかな。
少し遠くてはっきりは確認できませんけど
もしかしてこれは友禅じゃなくて絞りかな。絞りは着物の最高峰ですからね。 -
さて、始まるようですが
ここは後ろ側だったんですね。道理で人が少し少ないと思いました。本殿はあちら側ですから、それに向かうのが正面。まあ、それはそうですね。
それにしても、こちら向きにカメラを構える人があんなに大勢。ちょっと殺気さえ感じるような姿です。 -
奉納舞踊が始まると向こうが正面かもしれませんけど
こちらを向いた場面もなくはない。 -
それに後ろ姿だって悪くはないですからね。
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冬の寒い時期ですけど
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ここは熱気でムンムン。
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私も大興奮でシャッターを切り続けます。
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イチオシ
いいですね~
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舞殿の中での奉納舞踊。
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とっても華やかで
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絵になります。
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久しぶりの京都ですけど
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イチオシ
これでブランクの埋め合わせが一気にできたかも。
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イチオシ
午前中は、平家物語の世界や幕末の京都に思いを馳せましたが、
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次にはこうしておつな舞踊を楽しめる。
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それが、エンターテイメントの京都の神髄。
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知れば知るほど
探求すれば探求するほど -
それにちゃんと応えてくれるのが京都なんです。
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あ、無事に奉納舞踊が終わったようです。
ほっとした笑顔が見えました。
お疲れ様です。 -
そのまま
今度は豆まき。
これはたぶん年女の方ですね。 -
一袋、私もゲットできました。
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巫女さんも役割を果たして退場です。
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舞子さんも退場。
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大仕事をして
表情はなんだか普段の顔に戻っています。
ありがとうございました。 -
これは、八坂神社の境内社、大年社。本殿の西側にあって祭神は、大年神と巷社神。大年神は素戔嗚尊の子で穀物守護の神。また別名を祗園古宮といって、例祭日が節分の日であることから節分の神ともいわれるのですが、節分の日でも特別に注目されている感じはないですね。あたりはひっそりです。
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せっかくなので、この辺りでもちょっと散策。
京都祇園らんぷ美術館は、祇園の交差点角。京都駅方面に向かう東大路通のバス停のところ。難波美術道具店の上階です。 -
予想通りかな。中はちょっと雑然とした感じ。
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明治・大正・昭和の時代のガラス製ランプで貴重なものもあるのかもしれませんけど、特に説明もないので、どうしても雑多な感じは否めませんね。何か視点が定まるともう少し鑑賞の幅も広がると思いますけど、これではやっぱり難しいと思います。
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裏手に入って、これは東景寺。もともとは、天明8年(1788年)、浜松市の秋葉寺、十世の隠居寺として創建。
その後、京都に拠点を移したという曹洞宗の寺で、本尊は秋葉三尺坊大権現。八坂神社のそばですが、あまり観光客は通らない場所。境内の撮影は禁止の張り紙が出ています。 -
四条通に戻って。
祇園祭ぎゃらりぃは、祗園商店街沿い。祇園祭を紹介するためのギャラリーで、山鉾を飾る豪華な織物や各山鉾のパネル解説など。 -
提灯に明りが灯った実寸の大山鉾もあって、それなりに祇園祭の気分が味わえます。ただ、祇園祭は京都でも最大のお祭り。暑い時期でけっこう過酷なところもありますが、やっぱりこれを見ないと京都は語れないと思います。
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同じ建物にある漢字ミュージアム。ただ、こちらは有料の施設。
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それも、大人800円と割と高いので、それなりに期待もしたのですが、結果はイマイチかな。漢字の歴史についてのビデオは簡単な子供向け。
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今年一年を漢字一文字で表すの書があったりもしますけど、これでは内容的に薄いです。
そういうことではなくて、漢字を通じて日本は儒教の論語、漢詩や古典に親しんで、その考え方も含めて吸収してきている。つまり、漢字は単なる字ではなくて、それを学ぶ過程は中国の思想や考え方を学ぶことと不可分だったはず。寺子屋では「子曰く(しのたまわく)」と大きな声で漢文を音読していたわけで、これはこういう意味と知ることで中国の思想には自然と触れることになりますからね。聖徳太子が中国に学んだものの中で儒教や科挙の制度は採り入れなかったとか、徳川幕府は体制維持のために朱子学を奨励したとかは教科書的な話。江戸時代の識字率の高さは世界に誇るものだったということですが、それと同時に儒教の考え方は知らず知らず庶民に浸透する。これがなければ忠臣蔵や近松門左衛門の心中物での義理と人情といった世界も世間に理解されることはなかったと思います。
また、戦後のアメリカの占領政策の中で漢詩が排除されましたが、明治以降も漢詩を詠むのは教養人の必修科目。杜甫、李白、白楽天の漢詩の世界から縁遠くなってしまった日本人は大きな損失を受けたという一面もあると思います。
さらに言うと漢字は表意文字。読めなくても意味が伝わります。これは中国の文化や思想が東アジアに伝わっていく際には絶大な威力を発揮したはず。中華思想やその世界帝国的な考え方を支える最も重要なアイテムだったとも言えると思います。あんなに鳥や動物などで表したエジプトのヒエログリフは表音文字。その文化が歴史のかなたに消えてしまったのと比較すると表意文字のパワーは意外に侮れないものがあるのではないかと感じます。
また、書の世界もどうでしょう。蘭亭序の王羲之や顔真卿は中国では神の存在。日本だと空海や嵯峨天皇。松花堂昭乗なんかも渋いですよね。
などなど、漢字の面白い側面は多いですよ~。いろんな視点を大胆に加えれば、展示内容はもっと深みのあるものになるのではないかなと感じました。 -
四条通を向かいに渡って。これはぎおん川勝。京都のお漬物屋さんだと西利が大手なんでしょうが、どこにでもあるしやっぱりそれだけでは寂しいですよね。そうすると私的にはこの川勝とか錦市場の打田漬物や村上重なんかがお勧めとなってきます。
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その先のよしもと祇園花月は東大路沿いです。
大阪の吉本ほどの規模はないし、京都で吉本ってちょっと違和感もあったのですが、少し覗いてみると入ってすぐに小さなグッズ売り場。人気芸人さんのキーホルダーやハンカチ、お菓子なんかもあって、なんだか心が和みました。 -
花街である祇園東の中に入って、これは観亀稲荷神社。秋葉山の火伏の神様を祀っていたところに、稲荷を合祀したという歴史。境内の奥に建物があって、聞こえてきたのは鼓の音。お師匠さんに指導を受けてのお稽古の真っ最中という感じかな。真剣な空気が伝わってきて、祇園の一面に触れたような気がしました。
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ここから、最後、吉田神社に向かいます。
参道には露店が並び始めていますね。 -
と
何やら -
お、
赤、青、黄の鬼達ですよ~ -
追儺式はまだまだのはずなんですけどね~
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ただ、そこまで待てない人もいるし
それを知らない人もいるので
ここでしばしデモンストレーションということのよう -
本番ではもっとすごいですからね~
という宣伝もあって、ちょっと期待が高まりました。 -
イチオシ
では、またその時によろしくです。
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さらに進んで
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奥の院にあたる大元宮まで上ります。
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吉田神社の境内域は吉田山緑地とも言って。本宮だけではなくて、大元宮とか菓祖神社とか境内社が多いし、もっと山の方に上っていくと茂庵という人気のカフェもあったりして、意外に多彩なエリアです。
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この日は、節分祭の日でどこともなくあちこちに向けて散策する人が大勢。当たり前ですけどどこもかしこも賑わっていました。
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本宮のところまで戻ってきて、ここの周辺が追儺式の舞台です。
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まだ2時間前でしたけど、場所を確保するために並びまして。
ずっと立ちんぼ。ちょっとそこまでするかなあという気もしますけど、あとで後悔してもつまらないですからね。日も暮れてきて、少しづつ神事の準備が出来てきたようです。 -
すっかり日が落ちて
いよいよかな。 -
松明を持った童が登場。
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提灯を持った神主さんも入ってきましたよ~
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暗くて見えにくいですが、主役の方相氏の姿も見えています。
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童の持つ松明が辺りを照らして
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舞殿の中では神事が始まりました。
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何をしているのかはあんまりよく分かりませんけど
無事に終わった感じかな。 -
イチオシ
おっと、鬼たちの乱入です。
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ウオー
黄鬼が叫んでいます。 -
青鬼かな。
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ゆっさゆっさと体を揺すってやってきます。
-
突然、地面に這いつくばると
ウオー -
またやってきましたよ~
-
金棒を手にしてどしんどしん
-
しかし、地面に膝をついて
ウオーと吠えていますが
威嚇の叫びではなくて、苦しくてもがくような姿。
災いをもたらす鬼なのに、自分がとっても苦しそう。呪われた鬼?いずれにしても、こんなのあんまりない設定かもしれません。 -
ほかの鬼達もあんまりまともではないですね。
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頭を掻きむしって
なんだか自分を責めているようにも感じます。 -
イチオシ
と
童を引きつれた方相氏が登場。
こちらは堂々としたもの。 -
鬼達を蹴散らそうと
すごい圧を出してます。 -
しかし、鬼達もひるむことはない。
本来の凶暴さを表して、方相氏に挑みます。 -
しかし、あえなく総崩れ。
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あたふたと逃げ出します。
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イチオシ
再び挑戦しますが、
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やっぱりだめ。
どうにも力の差がありすぎるようです。 -
童の整然とした姿と
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鬼達のヘロヘロ姿。
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逃げる鬼を追い回しているようで
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何度も何度もやられっぱなしです。
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そういう意味だともう充分に鬼達は弱っているのですが、最後のとどめは殿上人が放つ桃弓の葦矢。
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もう抗う力が残っていない鬼達は這う這うの体で山に逃げ帰っていきました。
めでたしめでたし。なるほど、こういうことでしたか。厳かだけどちょっと楽しい。楽しいけどちょっと悲しい。いろんな気持ちが入り混じる追儺式でした。 -
では、これで帰りましょう。
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祗園のところまで帰って、晩飯はレストラン菊水。南座の通りを挟んだ向かい側です。
ここは初めて。どう受け止めていいか分からないような地味な外観なんですが、中に入ると悠々とした空間には低いテーブルと深く掛ける椅子。店員さんのふるまいなんかもレトロというか老舗の雰囲気が濃くてなかなかいいですね。カラフルなポークピカタをいただいて、ちょっと一息つきました。 -
宿は、ヴィアインプライム京都駅八条口。まだ出来てから新しい感じかな。そういう意味だと京都駅からの距離感とかベストなロケーションではないですが、まあまあいい場所を押さえれたということでしょう。ロビー周りはゆったりでこれも悪くないですが、敢えて言えば、部屋は少し小ぶり。トータルすれば値段相応かなと思います。
さて、明日も節分。蘆山寺の追儺式鬼法楽がメインです。
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