2022/12/17 - 2022/12/17
655位(同エリア2989件中)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
この旅行記のスケジュール
2022/12/17
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you meマート二葉の里店
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ローソン府中町山田一丁目店
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ダイソーサンリブ府中店
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コスモ石油セルフステーション吉島SS
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セブンイレブン広島光南店
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西本川濱恵美須神社
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被爆便所〝本川公衆便所〟
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平和観音像
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原爆供養塔
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平和の鐘
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平和の時計塔
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遭難横死者慰霊慰霊塔
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平和祈念像
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バーバラ・レイノルズ氏記念碑
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平和のポスト
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カースタレンタカー戸坂店
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電車での移動
のぞみ60号
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この旅行記スケジュールを元に
《2022.December》あみんちゅぶらり中国街歩きの旅広島そのⅤ~広島・原爆遺構再訪編~
今回の旅も最終日の朝を迎えた。先に着替えを済ませてから一回レストランへと降りて行く。朝食は和食のセットメニュー。コロナウィルスが蔓延し出してからバイキング形式が減ってから久しいが、その辺りはホテルの台所事情や感染防止策等色々な要素が絡み合ってそうされているのであるため仕方がない。ご飯と味噌汁はおかわりができるようなので、せっかくなので頂いた。
お腹も膨れたので部屋に戻って準備をし、10:00前にチェックアウトする。敷地内の駐車場は有料だが、宿泊者は500円で停めることが出来る。但しフロントにて処理が必要だ。そんな感じでホテル広島ガーデンパレスを出発し、最終日の行程を進めて行く。まず最初に立ち寄ったのは広島駅チカにあるyou meマート二葉の里店である。ここは夜行バスの待ち時間を潰すために何度も訪れている場所ではあるが、今回初めて車で利用した。目的は切手購入と撮影済のネガフィルムの発送である。取り敢えず30分までの駐車は無料なので、要件をさっさと済ませて車へと戻り出発する。
この後ナビの設定を間違えたのか、何か思うところがあったのかは不明だが、時間潰しのドライブとなり、ローソン府中町山田一丁目店で飲み物を片手に一服し、ダイソーサンリブ府中店で雑貨を購入している。そして向かった先はコスモ石油セルフステーション吉島SSであった。こちらは事前に調べておいた割安なガソリンスタンドであり、一応満タン給油をしておく。
給油を済ませて市街地に向かって車を進めた途端、セブンイレブン光南店に立ち寄り一服する。最近繁華街ではなくとも禁煙エリアとして、灰皿の置いていないところもあるので気を付けないといけないことが悲しい。そして向かった先は広島平和記念公園だった。正確には平和記念公園近くの〝ふたば旅館駐車場〟となる。この駐車場は事前決済が必要だが予約可能であるために今回利用した。
平和記念公園の西隣にある駐車場を利用したので、今回初めて本川橋を渡って平和記念公園へと至るルートをとる。本川沿いに鎮座する西本川濱恵美須神社は江戸時代文政年間の創建とされているが原爆で煤塵に帰し、戦後昭和26(1951)年に再建されたものである。その隣には普通の公衆トイレがある。都市部あるあるの感じを受けるトイレだが、実はこのトイレは只者ではない。実は〝被爆したトイレ〟なのである。現存する被爆史跡の中で被爆建物リストに唯一掲載されている〝便所〟は、市民の手によって確認され、平成27(2015)年にリスト入りしたものになる。爆心地から僅か480mの距離にあり、猛烈な爆風と熱線に耐えた便所は、被爆した子供達が〝水〟を求めて死んで行ったことが記されている原爆の〝生き証人〟である。市街地がほぼ壊滅した広島の原爆投下であったが故に、まだ知らない史跡も少なくはないように思う。今後もその様な施設の情報を仕入れたら是非訪れてみたいと感じた私であった。
そして本川橋を渡る。歴史のある橋は旧西国街道の橋であったが、相生橋ができたことにより、メインルートはそちらに変わった。原爆投下時には全壊は免れたものの、その後の枕崎・阿久根台風により全壊した。戦後旧海軍光工廠の廃材が用いられて再建され、幾度化の修繕を経て現在に至っている。本川橋を渡り切ると平和記念公園へと入る。
先ずは平和之観音像。平和記念公園界隈に広がっていた中島本町の被爆犠牲者慰霊碑とその“存在”を示す観音像である。被爆した墓石はこの地にあった慈仙寺境内にあった広島藩浅野家御年寄の岡本宮内の墓石である。永禄2(1689)年に建立された墓石は、原爆の爆風で吹っ飛ばされバラバラになった。現在墓石が置かれている場所が凹んでいるのは、その底面が被爆時の地面であったことを示している。戦後に作られた平和記念公園は、当然のことながら〝残存放射能〟のことを考慮して作られたために、被爆時の地面に対し〝盛り土〟が施されている。墓石が吹っ飛ぶ程の爆風だったことに加え、原爆が後世に与える〝被害〟を今に示すものであるとも言えよう。韓国人原爆犠牲者慰霊塔、戦中に朝鮮半島から徴用された人々の慰霊碑であるが、その様な立場の人間が、広島で働いていることが〝わからなかった〟とは言えるのか?同様に米軍捕虜が居なかったと〝知らなかった〟と言えるのか?今更原爆の是非を問うまでもないが、原爆投下のサインをしたのは大統領のトルーマンであることに、見殺しにされたという感情がないのかは全く以って不可思議である。
平和の鐘、原爆ドーム、平和の時計塔、遭難横死者慰霊塔は被爆者異例のために後世に建立されたもので、今まで何度も取り上げている。そして相変わらずアンマッチングな組み合わせの原爆ドームとおりづるタワーに違和感を持ちながら原爆の子の像へと向かう。被爆少女が〝治る〟と信じて折り続けた千羽鶴。残念ながら彼女が大人になることはなかった。しかし21世紀になって、貞子ちゃんの慰霊と鎮魂、そして核兵器廃絶を願って納められた千羽鶴に放火する不届き者が出てきた。何がしたいのか?本当に理解に苦しむ行為である。昨今SNSネタに迷惑行為を行う者もいるようだが、一部の人間に受けるために世界中を敵に回してなにの得になるかを考えて貰いたい。
原爆の子の像を訪れるといつもこの様な気持ちになってしまう。気を取り直して歩き出し、広島市平和記念公園レストハウスへと向かう。昭和4(1929)年に大正屋呉服店の新館店舗として建立されたRC造3階建の建物はモダンな雰囲気をもつ新奇な建造物として人目を引いたと言われている。太平洋戦争勃発後に経済統制(繊維統制令)が強化された影響で昭和18(1943)年末に閉店し、広島県燃料配給統制組合に買い取られて組合事務所として使用されたことから〝燃料会館〟と呼ばれていた。原爆投下時に爆心地から西南に約170メートルの至近距離に位置していたため、被爆によって屋根が下がり、梁や床が破損して内部は全焼したが、頑丈な作りであったためか全壊は免れた。戦後に〝保存〟を巡り揉めたこともあったが、最終的には基本的に現状のまま保存し、耐震改修および創建当時の状況への復元(戦後に改修した部分は残す)することで改修され、現在に至っている。そしてレストハウス前にはやはり被爆遺構の元安橋が残っている。広島藩主であった福島正則が西国街道を城下に引き入れるために作った木製の橋が最初であり、その後洪水により落橋を繰り返し、大正8(1919)年の洪水による落橋後、翌年大正9(1920)年にゲルバー鈑桁橋として掛け替えられた。昭和16(1941)年には太平洋戦争に於ける金属類回収令で鋼製欄干などはすべて軍事供出され、親柱の上には石灯籠の点灯箱に、欄干も石に替えられた。昭和20(1945)年8月6日に被爆。爆心地である島病院から約130mに位置する元安橋は、爆心地から最も近い橋となるも爆風に耐え落橋から免れた。具体的な被害は欄干・親柱上の笠石および火袋が左右相反方向にずれ欄干のみが川に落下し、この付近のみ間知石積の護岸が6ヶ所崩壊した。この物理的被害が被爆直後から行われ、欄干および笠石の状況から爆心地が“橋の延長線上の上空に位置する”と特定された。戦後すぐに枕崎・阿久根台風の災害を受け、原爆被災には耐えたものの台風で落橋した橋が多い中で元安橋は持ち堪えた。原爆による被害が小さかったことの要因は、鋼橋であったため熱線に耐えられて消失しなかったことと、衝撃波が爆心地から近かったことにより〝真上〟からかかり、橋そのものが動かなかったことが考えられている。補修された元安橋は戦後も使い続けられたが、高潮対策事業に伴う護岸整備および橋の老朽化に伴い架け替えが決定し被爆した親柱4基・中柱4基を利用して大正時代竣工当時を再現したデザインとすることとなる。加えて鋳物の電灯が用いられるとともに橋脚を1基減らして平成4(1992)年に再開通した。国道から外れた元安橋は住民や観光客の〝通り道〟に役目を変えて現在に至っている。爆心地から近かったにも拘らず姿が〝残った〟ふたつの建造物は、80年前の凄惨な出来事を今に伝える生き証人となっている。きな臭い世界情勢が続く昨今どのように感じているのか聞いてみたい気がする。戦争は憎しみと破壊しか生まないセオリーは変わることがないのは周知の事実以外に何ものでもない筈なのだが…。
そんな物思いに耽りながら歩き出す。全ての戦没者に対する慰霊碑〝祈りの像〟を経て、12年ぶりとなる〝国立広島原爆死没者追悼平和祈念館〟へと向かった。長崎同様シンプルに作られた祈念館は、ポツリポツリと書かれている原爆を語る〝言葉〟そのものの重みがある。抽象化された被爆地広島表し、静かに訪れる者に〝考える〟ことを促しているように私には思えてならない。今ある〝見かけだけ〟かも知れない〝平和〟には、多くの犠牲の下に成り立っているのだと言うことを忘れてはならない…。
そんな風に感じながら平和祈念館を退出する。後は平和記念公園巡りの定番ルートに従い、平和の灯・平和の泉、広島平和都市記念碑・原爆死没者慰霊碑、平和祈念像と眺めながら、締めは広島平和記念資料館に向かう。こちらも数年ぶりにはなるが、展示物が定期的に変わっているために毎回興味深く見学させて貰っている。血のついた衣服や熱線で溶けた金属製の遊具を含め、感受性の高い者であれば直視できないとも言われる一級の展示品である。資料館展示品にはいつもと同じく〝思うところはない〟まま退出する。それは何も感じない訳ではなく、全ての展示品が醸し出している〝戦争の悲惨さ〟という〝答え〟だけを感じるのである。広島平和記念資料館は特にその〝意図〟を毎回のように感じている。そこには人の意図は加わっていない。そんな〝別世界〟のように感じてしまうのは私だけなのであろうか?
広島平和記念公園を訪れる際にはいつも十分な時間を取るように計算しているのだが、やはり今回も気の向くまま歩き回っていると時間切れになってしまう。故に最後にバーバラ・レイノルズ氏記念碑と平和のポストをカメラに収めて車へと戻る。記録によると2時間40分の滞在ではあったが、やはりもっと時間を費やさないと満足は出来ないと改めて思う。
駐車場から走ること25分で今回利用したカースタレンタカー戸坂店に無事到着する。ガソリンスタンド併設なので、最後の給油はここで済ませられる。丸二日間で391km共に走ったfitクンともお別れする。お疲れ様、そしてありがとう。
無意識のうちに頼んでしまったようだが、戸坂駅迄車で送って貰う。そして待つこと30分程で広島行き普通列車が入線してくる。因みに芸備線の駅である戸坂駅は、広島市内の駅故に乗車券は〝広島市内〟発着のチケットがそのまま利用できる。しかし本来ならば自動改札にチケットを通し入札記録を入れる必要があるのだが、田舎駅あるあるの簡易自動改札機だったためにそのままホームへと出てしまった。それ故に広島駅で新幹線に乗り換える際に、新幹線改札口でチケットを見せるが、戸坂駅には改札機が〝ある〟と言われ、以降チケットは自動改札を利用しないで下さいと釘を刺される。
新幹線ホームに上る前にKioskでお土産を購入する。昨晩Getした〝地域振興券〟3,000円を使い切り、広島での最後の行動が終了した。買い物等で時間を潰してから新幹線ホームに上がり、19:25発のぞみ60号東京行きに乗車する。土曜日の夕方故に車内は空いていた。行きはこだまを利用したのでそれなりの時間が掛かったがさすがのぞみ、早い早い。1時間25分で新大阪に到着し、在来線ホームへと下りて行く。新快速米原行きは21:05発。次の新快速でもバスには間に合うが、そこまで時間潰す必要もない。田舎駅には21:44着。今回はフリープランの商品を利用したので新幹線・乗車券ともに新大阪迄で、新大阪から石山間は別精算となる。しかし精算機を利用するとチケットが手元に残らないために敢えて窓口で精算し、チケットを貰う。バスの待ち時間を利用しいつものファミマに立ち寄って飲み物とタバコを購入する。一服を済ませてバス停へと向かうのだが、今日は土曜日、よって終バスは22:10発となるので注意が必要だ。そして通勤時と同じく田舎の赤バス1号系統に乗車し、ド田舎バス停を経て22:28無事自宅に到着する。
2泊3日の広島イルミネーションと原爆被災遺構の旅はこれにて終了。暫くは近場の日帰り旅しかできないかな~と思いながら、明日の出勤に備える私であった。
《終わり
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 高速・路線バス レンタカー 新幹線 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
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827号室喫煙シングルのお部屋。
ホテル 広島ガーデンパレス 宿・ホテル
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チェックイン時にgetした〝やっぱ広島じゃ割クーポン〟3,000円分。
ホテル 広島ガーデンパレス 宿・ホテル
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朝食は和食のセットメニュー。
和風れすとらん MAPLE グルメ・レストラン
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もうじきクリスマス~♪
ホテル 広島ガーデンパレス 宿・ホテル
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駐車料金500円を支払って出発する。
ホテル広島ガーデンパレス 10:11 (0.0km・0.0km・358.3km・0.0km/h)ホテル 広島ガーデンパレス 宿・ホテル
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you meマート二葉の里店で切手を購入し、撮影済みネガフィルムを発送する。
you meマート二葉の里店 10:17 (0.9km・0.9km・359.2km・9.0km/h)
10:37 -
ローソン府中町山田一丁目店で一服する。
ローソン府中町山田一丁目店 11:13 (8.4km・9.3km・367.6km・14.0km/h)
11:59 -
ダイソーサンリブ府中店で傘と手袋を購入する。
サンリブ府中店 12:09 (2.1km・11.4km・369.7km・12.6km/h)
12:35 -
事前に調べておいたコスモ石油セルフステーション吉島SSで給油をする。
コスモ石油セルフステーション吉島SS 13:22 (10.4km・21.8km・380.1km・13.3km/h)
13:34 -
セブンイレブン広島光南店でひと息入れる。
セブンイレブン広島光南店 13:35 (0.4km・22.2km・380.5km・24.0km/h)
13:59 -
今回の広島旅行の足になってくれたfitクン。
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HONDA車には乗り慣れていないので、給油キャップの開け方がわからなかったり・・・。
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苦労もあったが・・・。
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よく走ってくれました。
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それでは平和公園に向かうことにする。
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本川沿いに鎮座する西本川濱恵美須神社。原爆により煤塵に帰した。
西本川濱恵美須神社 御祭神事代主大神、大年大神
西本川濱恵美須神社は、文政年間(1818~1829)の創建といわれています。当時の本川橋西詰めは江戸時代最大の川港で、近辺の河岸には商家が立ち並び、同社はその信仰を集めていました。境内の玉垣には周辺にあった商家の名が記されているものがあります。
戦前までの土橋町は、広島の流通の中心地であり大変に栄えた地域で多くの船が発着していました。御祭神である事代主大神(えびす様)は、漁業の神、市の神、商売の守護神として各地に祀られており、同社も港と商業地として栄える現在地に祀られることになりました。
旧暦6月15日に行われていた広島管絃祭では、空鞘稲生神社から住吉神社へ御座船還御の途中、同社に接岸し祭事を行っていました。昭和20年8月6日、被爆し灰燼に帰しましたが、昭和26年11月に再建し祭礼を復興させ、現在に至ります。
ふたば旅館駐車場 14:11 (3.7km・25.9km・384.2km・18.5km/h)
16:54 -
本川沿いにある常夜燈・雁木。
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イチオシ
このトイレも被爆建物だと知り、びっくりする。
本川公衆便所(ほんかわこうしゅうべんじょ)は、広島県広島市中区土橋町にある便所。現存する被爆建物の一つであり、便所としては唯一、被爆建物リスト入りしている。旧太田川の本川沿いにあり広島平和記念公園の対岸に位置する。 -
被爆遺構の鑑札が付いている〝本川公衆便所〟。
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被曝遺構の本川橋を渡る。
安土桃山時代あるいは江戸時代初期に木橋“猫屋橋”として架橋、1897年に鋼トラス橋に永久橋化され、原爆投下時やその後9月の枕崎台風により更に損傷し、10月の阿久根台風による水害により完全に落橋した。
落橋に伴い現在の橋は昭和24(1949)年に再架橋されたもの。当初は西国街道筋、近代は国道筋の、現在は市道の橋である。西方面から広島平和記念公園へと通ずる橋のひとつとなっている。現橋の橋脚は明治30(1897)年に作られたものを補修しながら現在まで使っており、昭和20(1945)年に原爆被災した被爆建造物でもある。現橋の鋼製の桁は旧光海軍工廠の廃材を再利用しており、土木学会選奨土木遺産に指定されている。本川橋 名所・史跡
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本川橋を渡り切った。
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平和之観音像(中島本町町民慰霊碑)。
嗚々(あぁ)中島本町の跡
この地は明治・大正・昭和の初期広島で最も繁華の中心であった。昭和20年8月6日原爆一円町内全員一瞬にして悲惨なる最後を遂(と)げたり。生き残れる有志相集いて平和観音像を建立(こんりゅう)し永遠にその霊を慰(なぐさ)む -
被爆した墓石。
当時、この辺りは慈仙寺という大きな寺だった。爆心地から200メートルに位置し、全ての建物は壊滅し、住職など全員が犠牲になった。強烈な爆風で境内にあったたくさんの墓石も吹き飛ばされた。被爆当時の姿で残されているこの墓は、広島藩浅野家年寄の岡本宮内のもの。戦後、盛り土して公園が建設されたため、墓は周囲よりくぼんだ場所にあるが、その高さが被爆当時の地面のレベルである。被爆した墓石 (慈仙寺跡の墓石) 名所・史跡
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韓国人原爆犠牲者慰霊碑。
慰霊碑の由来
第2次世界大戦の終り頃 広島には約10万人の韓国人が軍人、軍属、徴用工、動員学徒、一般市民として在住していた。1945年8月6日原爆投下により、2万余名の韓国人が一瞬にしてその尊い人命を奪われた。広島市民20万犠牲者の1割に及ぶ韓国人死没者は決して黙過できる数字ではない。爆死した これら犠牲者は誰からも供養を受けることなく、その魂は永くさまよい続けていたが、1970年4月10日在日本大韓民国居留民団広島県本部によって悲惨を強いられた同胞の霊を安らげ原爆の惨事を二度と くり返さないことを希求しつつ平和の地、広島の一隅に この碑が建立された。望郷の念にかられつつ異国の地で爆死した霊を慰めることはもとより 今もなお理解されていない韓国人被爆者の現状に対しての関心を喚起し、一日も早く良識ある支援が実現されることを念じる。韓国人犠牲者慰霊祭は毎年8月5日この場所で挙行されている。
在日韓国青年商工人連合会及び有志一同 -
原爆供養塔。
世界最初の原子爆弾(昭和20年8月6日午前8時15分)による犠牲者数万柱の遺骨を納める。この地一帯が爆心地であったため、期せずして、ここに痛ましい無数の遺骸が運ばれ処理せられたものである。昭和21年1月広島戦災供養会が創立せられ、同5月仮供養塔、同7月仮納骨堂・礼拝堂が市民の喜捨により建立せられ、昭和30年7月満10周年を期して、広島市が中心となって、納骨堂を改築せられ、各処に散在していた遺骨を此処に納めた。毎年8月6日には全県市挙げて追悼の誠をこめた供養慰霊祭が行われるほか、毎月6日例祭が行われている。供養行事は広島県宗教聯盟が奉仕するほか、各宗教派別による特別供養も厳修せられている。 -
平和の鐘。
平和の鐘
この梵鐘、鐘堂は広島の悲願に立って、すべての核兵器と戦争のない、まことの平和共存の世界を達成することをめざし、その精神文化運動のシンボルとしてつくりました。この梵鐘、鐘堂は平和を願う万人の心と浄財を結晶させてつくりました。この鐘の音を、広島から、世界のすみずみまでひびきわたらせ、全人類の1人1人の心にしみわたらせることを願っております。この趣旨、目的を御理解の上、平和への願いをこめておつき下さい。
昭和39年9月20日建之 -
広島県産業奨励館、由来書き。
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イチオシ
旧広島県産業奨励館、現原爆ドーム。
原爆ドーム 名所・史跡
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平和の時計塔。
核原子力の出現により、人類はいま生か死か、破滅か、繁栄かの岐路に立っている。ひろい世界を同じ心で一つに結ぶ、全世界のライオンズ会員が平和実現のために果たす役割りは大きい。原爆ドームの永久保存に呼応し、人類が初の原爆の洗礼を受けた時刻、8時15分に、毎日全世界に向けこの時計塔のチャイムが「ノーモアヒロシマ」を強く訴え、人類の恒久平和実現の一日も早からんことを祈り、この時計塔を建設し、市に贈るものである。
昭和42年10月28日 チャーター伝達10周年を記念し 広島鯉城ライオンズクラブ -
遭難横死者慰霊供養塔。
仏教では、人間の間違った行いは心の迷いから生じると考え、その迷いは真実を知らない無知から起こると説く。無知が縁となって戦争も起こるので、真実を知って無知をなくせば平和が訪れる。この塔に梵字で刻まれた言葉には、そのような自覚を人々に促し、平和を求める願いが込められている。
昭和32(1957)年9月建立 県下真言宗徒 -
島根の夫婦松。
昭和38(1963)年7月2日に総会が開催され、県人会発足10周年事業として平和記念公園に記念植樹が計画されました。その後、島根県知事田部長右衛門氏により“島根の夫婦松”として寄贈され、同年11月6日に植樹されました。
寄付当初、記念館(現:広島平和記念資料館東館)北西に植樹されていましたが公園の再整備に伴い現在の場所に移植しました。
クロマツ(隠岐102号)は昭和34年4月に島根県隠岐郡西ノ島町別府の親木から穂木を取り接木をしたもの、アカマツ(能義101号)は昭和32年3月に島根県能義郡伯太町東母里の親木から穂木を取り接木をしたものです。 -
被爆遺構の橋。
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原爆ドームと折り鶴タワー。
おりづるタワー 名所・史跡
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イチオシ
原爆の子の像。
原爆の子の像は広島県広島市の広島平和記念公園内にある、佐々木禎子(像のモデル、原爆による白血病で死去)の幟町中学校の同級生らによる募金運動により作られた像。制作者は菊池一雄。昭和33(1958)年5月5日完成。原爆の子の像 名所・史跡
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原爆の子の像とたかティムさん。
原爆の子の像 名所・史跡
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被爆遺構、元安橋。
元安橋 名所・史跡
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イチオシ
広島市平和記念公園レストハウス(旧大正屋呉服店新館・広島県燃料配給統制組合“燃料会館”)
昭和4(1929)年大阪に本店のあった“大正屋呉服店”の新館の店舗として中島本町に建てられたRC造3階建の建物はモダンな雰囲気をもつ新奇な建造物として人目を引いたといわれている。ショーウィンドウを備えた1階に加え2・3階も店舗となっており、当時としては珍しく履き物のまま店舗に上がることができた。また最上階の3階の窓からは市内が一望できたという。戦前期の広島で多くの市民に親しまれていた店舗は、太平洋戦争勃発後に経済統制(繊維統制令)が強化された影響で昭和18(1943)年末に閉店した。これにともない建物は広島県燃料配給統制組合に買い取られ、組合事務所として使用されることとなり“燃料会館”と呼ばれた。原爆投下時に爆心地から西南に約170メートルの至近距離に位置していたため、被爆によって屋根が下がり、梁や床が破損して内部は全焼したが、頑丈な作りであったためか全壊は免れた。
戦後保存を巡って一悶着あったが、地下室のみそのまま保存され、内部は改装されて“レストハウス”として利用され現在に至っている。広島市平和記念公園レストハウス 美術館・博物館
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ひろしまリバークルーズの船舶。
ひろしまリバークルーズとひろしま世界遺産航路 乗り物
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平和記念公園、由来書き。
平和記念公園 公園・植物園
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祈りの像。
作品名:子供を抱いた若い夫婦の像
作者:横江嘉純
この像は、昭和35(1960)年8月15日平和祈念慰霊国民大祭実行委員会が建立した。
次の人たちが、慰霊の対称になっている。
被爆者・軍人軍属・官公吏・警察官・警防団員・動員教師・動員学徒・派遣看護婦・助産婦・抑留同胞死没者・戦犯処刑
者・殉死者・自決者・在外同胞非業死没者・その他一般犠牲者 -
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館。
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 美術館・博物館
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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館。
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 美術館・博物館
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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館。
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 美術館・博物館
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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館。
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 美術館・博物館
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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、平和祈念・死没者追悼空間。
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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、平和祈念・死没者追悼空間。
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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、平和祈念・死没者追悼空間。
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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、平和祈念・死没者追悼空間。
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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、平和祈念・死没者追悼空間。
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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、平和祈念・死没者追悼空間。
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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、平和祈念・死没者追悼空間。
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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、平和祈念・死没者追悼空間。
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イチオシ
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、平和祈念・死没者追悼空間。
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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、平和祈念・死没者追悼空間。
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イチオシ
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館。
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 美術館・博物館
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平和の灯・平和の泉。
【平和の灯】
丹下健三氏の設計。「核兵器が地上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という日本全国民の平和の象徴。台座は両手を広げた形を抽象化したもので、国内35の社寺、教会から寄せられた「宗教の炎」や溶鉱炉など全国の工場地帯から届けられた「産業の火」によって点火された。
【平和の泉】
広島青年会議所創立10周年を記念して造られた。この泉の西側の本川一帯では、建物疎開作業に動員された中学生が被爆し、「水を、水を」と言いながら死んでいった。犠牲者の霊に捧げる泉であり、訪れた人のかわきをいやし、平和の尊さを訴える泉である。 -
イチオシ
広島平和都市記念碑、原爆死没者慰霊碑。
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広島平和都市記念碑、原爆死没者慰霊碑。
この碑は 昭和20(1945)年8月6日 世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を 平和都市として再建することを念願して設立したものである
碑文はすべての人びとが 原爆犠牲者の冥福を祈り 戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である 過去の悲しみに耐え 憎しみを乗り越えて 全人類の共存と繁栄を願い 真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている
中央の石室には 原爆死没者名簿が納められており この碑はまた原爆死没者慰霊碑とも呼ばれている -
広島平和都市記念碑、原爆死没者慰霊碑とたかティムさん。
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平和祈念像(草野心平の詩碑)。
全国の学童の募金や広島商工会議所などの協力により建設されたもので、像は円鍔勝三氏の寄贈によります。ちょうど、原爆死没者慰霊碑を見守る格好で、若い母親に抱かれた子どもが平和のラッパを吹いています。
製作者の円鍔氏は除幕に際して「親から子どもへ、きのうよりもあすへ。三日月もやがて満月になる。新しい未来を求めて、平和のラッパを鳴らしたい。」と意図を語りました。
昭和52(1977)年8月2日建立 -
広島平和記念資料館。
広島平和記念資料館 美術館・博物館
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広島平和記念資料館。
広島平和記念資料館 美術館・博物館
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イチオシ
広島平和記念資料館から平和の灯を眺める。
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バーバラ・レイノルズ氏記念碑。
私もまた被爆者です
I, too, am a Hibakusha
私の心は いつも ヒバクシャ ヒロシマ とともにあります
Hibakusha-they are the inspiration for all my peace effort
My heart is always with Hiroshima -
平和のポスト。飾りではなくちゃんと収集されている。
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平和公園を後にしてレンタカーを返車する。
平和公園 14:11 (3.7km・25.9km・384.2km・18.5km/h)
16:54 -
カースタレンタカー戸坂店付属のスタンドで最後の給油。そしてFitクンともお別れだ。
カースタレンタカー戸坂店 17:19 (7.5km・33.4km・391.7km・18.0km/h)
17:25 -
戸坂駅まで送って貰った。
戸坂駅 17:30着/18:04発芸備線普通広島行きに乗車する。戸坂駅 駅
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18:14、広島に到着。
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運行車両のキハ47は車庫に入るようだ。
JR芸備線 乗り物
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戸坂駅は広島市内なので、乗継改札を利用する。KIOSKにてお土産を購入し、地域振興券3,000円分を使い切る。
広島駅 (JR) 駅
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広島発19:25ののぞみ60号に乗車する。
山陽新幹線 乗り物
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土曜の夜だからか空いていた。
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新大阪着20:46。さすがにのぞみは速い!
新大阪駅 駅
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新大阪21:05発新快速に乗車する。
JR西日本 新快速 (223系・225系) 乗り物
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田舎駅には21:44に到着する。
石山駅 駅
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土曜日だと終バスが早いので気を付けなければいけない…。
京阪石山駅 駅
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田舎駅22:10発のド田舎行き最終バス。こんな感じで空いている。
平和堂石山 スーパー・コンビニ・量販店
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ド田舎バス停を経て自宅に到着。2泊3日の旅は無事終了となる。
ド田舎バス停 22:24
22:26
自宅 22:28//京阪バス (大津エリア) 乗り物
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