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2021年12月19日(日)9時、竹芝ふ頭のコインロッカーにキャリーバックを預けて身軽になって旧芝離宮庭園、正式には旧芝離宮恩賜庭園。JR浜松町駅と新幹線などを挟んだ東側にあり、現役時代に浜松町駅から自由通路を通ってよく打合せ先に行ってた時に一度行かなければと思いながらこれまで行く機会がなかった。<br /><br />江戸幕府の老中・大久保忠朝(ただとも)の屋敷内に作庭した庭園を起源とする回遊式庭園。作庭当時は海岸に面しており、潮入りの庭園だった。宮内庁管理の離宮を経て、1924年(大正13年)に東京市に下賜され、公開された。現在も東京都の都立庭園。<br /><br />庭園の地割の主体は岬・入江など屈曲の多い汀線で囲まれた大泉水と云う広い池で、池中央の中島の東西に橋を架し、南部に1島、北部に2島の中島を置く。池汀の北と西に州浜を、東辺中央部と南辺に築山石組を、西辺中部には枯滝石組を配する。地割、石組などよく旧規をのこし、江戸時代大名庭の作庭技法を伝える優秀な庭園。<br /><br />徳川十六神将の1人の大久保忠世の曾孫にあたる大久保忠朝は、28歳年上の従兄の肥前国唐津藩初代藩主・大久保忠職(ただもと)の養子となり、1670年に相続で2代藩主となる。そして1677年、4代将軍徳川家綱の元で老中に就任、この翌年下総国佐倉藩に国替になった際に、明暦(1655年から58年)の頃に埋め立てられ、将軍家の御鷹場だった芝の金杉の地を将軍から拝領し上屋敷(藩主の館)を構えた。それがこの地。<br /><br />忠朝は1681年には老中首座となる。さらに1686年、相模小田原藩に国替となり、小田原から丹羽氏を招いて楽寿園として作庭されたのがこの庭園のルーツ。なお、忠朝は1698年まで老中を続けて家綱を支え、1712年に81歳で亡くなった。<br /><br />この屋敷はその後、堀田家・徳川清水家の屋敷を経て、江戸時代末の1846年に紀州徳川家の別邸となり、芝御屋敷と称された。下屋敷(本邸以外に近郊に設けられた国許からの物資の荷揚げや藩主家族の別邸などとして使われた屋敷)の扱いのため、池の北西部にあった御殿や南西部にあった家臣の長屋などは壊され、築山が築かれて庭園は変容した。さらに、幕末になると蔵屋敷へと変貌した。<br /><br />明治維新後、1872年(明治5年)に有栖川宮熾仁親王邸となり、1875年(明治8年)に皇室が買い上げ、翌年芝離宮となったが、その前の1870年(明治3年)に敷地の西側を鉄道御用地として差し上げている(現在の東海道本線で、その後1962年には新幹線用地も削られた)。そして、上述のように1924年に東京市に下賜された。芝離宮はもちろん地名の芝から。<br /><br />この庭園の現在の入口は1ヶ所、JR浜松町駅北口からガードを潜った南側にある。線路沿いに南に歩くとすぐに門があり、9時の開門を待ってる人が何名かいたが、ほとんどは園内の弓道場を利用する方らしい(下の写真1)。<br /><br />開門されるとすぐ中にあるサービスセンターでチケット購入。1979年3月までは無料だったそうだが、有料化されても中学生以上が150円(都内在住・在学の中学生は無料)。まあ、65歳以上のシニアはもっと安くて70円だったけどね。<br /><br />入場すると南北に少し長い四角形の庭園の北西の角に当たり、奥の東京ガス本社ビルの前に池が広がる。池の手前の空き地になっているところには洋館(迎賓館)跡。1891年(明治24年)に木造二階建ての洋館が建てられ、離宮や迎賓館として使われていたのだが、1923年(大正12年)の関東大震災で焼失した。現在ではレンガ基礎の一部と装飾の施された大理石の一部が残るのみ(下の写真2)。<br /><br />左手に小池があり、後ろには汐留ビルディング、キヤノン電子ビル、浜離宮インターシティ、東京ポートシティ竹芝オフィスタワーが並ぶ。<br /><br />右手には池沿いに雪吊りされた松が並ぶ。本来雪吊りは雪の多い北陸地方のものだが、この庭園の雪吊りは冬の景色を飾る装飾用で、南部式と呼ばれる都立公園オリジナル様式。奥の高層ビルは世界貿易センタービルディング南館。<br /><br />池の周りを反時計回りに進む。雪吊り松の先にゆるい勾配をつけて池に入っていくように小石を敷き詰めた州浜があり、比較的大ぶりの雪見灯籠が置かれている。先に進むと砂浜があり、そこから奥に入ると園内で最も標高の高い大山がある。頂上から池の景色はなかなかのもの。<br /><br />頂上から池方向、すぐ右下にあるのは枯滝で、石組みにより滝を模している。一見滝に見えないが、流れの河床が苑路になっていて、山峡の景観を愉しみながら散策できる(下の写真3)。傾斜のない滝石組で、このような苑路が作られているのは極めて珍しい。<br /><br />枯滝の先は中国杭州の西湖を模した石造りの西湖堤。西湖堤を渡った先の中島は園景の要となるところで、池の中央にある島。島には中国の仙人が住む不老不死の地と云われる蓬莱山を模した石組みがあるが、これは楽寿園の頃からあるものと云われる。<br /><br />中島は亀島とも呼ばれるが、その左手には鶴島とも呼ばれる浮島が浮かぶ。潮入り庭園の時代には干潮時には右手の磯渡りで渡れたらしい。東側の岸に繋がる木造で途中が折れ曲がっている橋は八ッ橋と呼ばれるが、老巧化で通行禁止だった。<br /><br />西湖堤を折り返し南側の池の周りに進む。すぐ先に石柱が4本。忠朝が小田原藩主の頃、後北条氏に仕えた戦国武将・松田憲秀旧邸の門柱を運び入れたもの。茶室の柱として使われたと推定されている。<br /><br />さらに池を回り込んで行くが、忠朝の時代にはこの南側の池の西側に馬場があったらしい。一番奥から東岸を戻り出すと根府川山。忠朝の藩地小田原から運び入れた火山石などからなる山。根府川山のすぐ北には離宮時代に架橋された鯛の形を模った鯛橋があり、大泉水の中で最大の島、大島に続く。<br /><br />この大島は元々は地続きで島ではなかった。鯛橋から北の入り江に続く溝は徳川紀州家の時代に掘られたもの。その入り江には大島から八ッ橋上の石橋が架り、入り江奥の東京湾への排水口の右手には石で造られた唐津山がある。忠朝が元々唐津藩主であったためその名を冠したもの(下の写真4)。<br /><br />石橋を渡ると九尺台(九盈台)。波打ち際に造られた築山で、かつては海の眺望や漁の様子が眺められた。1875年(明治8年)に明治天皇がここに行幸されたそうだ。九尺は高さのことで、盈(えい)は潮や月が満ちるという意味。なお、園の東側の海の景観は1930年(昭和5年)に竣工した埋め立てにより失われた。九尺台下の四阿は東京都の管理下後に設置されたもので新しい(下の写真5)。<br /><br />大泉水の北西に進むと、池に落ちる滝をイメージした滝石組。そして、一番北西の角には海水取り入れ口跡。かつてはここが東京湾に通じていた。さらに進むと泉から水が噴き出しており、小池を経て大泉水に流れている。池の水は海水取り入れ口跡に造った取水口から取り入れ、園内にある浄化設備で浄化後にこの泉など7ヶ所から池に戻し、循環させている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8588464057890209&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />30分ほどで散策を終えて、次は浜離宮庭園に向かうが、続く

東京 旧芝離宮庭園(Former Shiba Villa Imperial Gift Gardens,Minato ward,TYO)

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2021/12/19 - 2021/12/19

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年12月19日(日)9時、竹芝ふ頭のコインロッカーにキャリーバックを預けて身軽になって旧芝離宮庭園、正式には旧芝離宮恩賜庭園。JR浜松町駅と新幹線などを挟んだ東側にあり、現役時代に浜松町駅から自由通路を通ってよく打合せ先に行ってた時に一度行かなければと思いながらこれまで行く機会がなかった。

江戸幕府の老中・大久保忠朝(ただとも)の屋敷内に作庭した庭園を起源とする回遊式庭園。作庭当時は海岸に面しており、潮入りの庭園だった。宮内庁管理の離宮を経て、1924年(大正13年)に東京市に下賜され、公開された。現在も東京都の都立庭園。

庭園の地割の主体は岬・入江など屈曲の多い汀線で囲まれた大泉水と云う広い池で、池中央の中島の東西に橋を架し、南部に1島、北部に2島の中島を置く。池汀の北と西に州浜を、東辺中央部と南辺に築山石組を、西辺中部には枯滝石組を配する。地割、石組などよく旧規をのこし、江戸時代大名庭の作庭技法を伝える優秀な庭園。

徳川十六神将の1人の大久保忠世の曾孫にあたる大久保忠朝は、28歳年上の従兄の肥前国唐津藩初代藩主・大久保忠職(ただもと)の養子となり、1670年に相続で2代藩主となる。そして1677年、4代将軍徳川家綱の元で老中に就任、この翌年下総国佐倉藩に国替になった際に、明暦(1655年から58年)の頃に埋め立てられ、将軍家の御鷹場だった芝の金杉の地を将軍から拝領し上屋敷(藩主の館)を構えた。それがこの地。

忠朝は1681年には老中首座となる。さらに1686年、相模小田原藩に国替となり、小田原から丹羽氏を招いて楽寿園として作庭されたのがこの庭園のルーツ。なお、忠朝は1698年まで老中を続けて家綱を支え、1712年に81歳で亡くなった。

この屋敷はその後、堀田家・徳川清水家の屋敷を経て、江戸時代末の1846年に紀州徳川家の別邸となり、芝御屋敷と称された。下屋敷(本邸以外に近郊に設けられた国許からの物資の荷揚げや藩主家族の別邸などとして使われた屋敷)の扱いのため、池の北西部にあった御殿や南西部にあった家臣の長屋などは壊され、築山が築かれて庭園は変容した。さらに、幕末になると蔵屋敷へと変貌した。

明治維新後、1872年(明治5年)に有栖川宮熾仁親王邸となり、1875年(明治8年)に皇室が買い上げ、翌年芝離宮となったが、その前の1870年(明治3年)に敷地の西側を鉄道御用地として差し上げている(現在の東海道本線で、その後1962年には新幹線用地も削られた)。そして、上述のように1924年に東京市に下賜された。芝離宮はもちろん地名の芝から。

この庭園の現在の入口は1ヶ所、JR浜松町駅北口からガードを潜った南側にある。線路沿いに南に歩くとすぐに門があり、9時の開門を待ってる人が何名かいたが、ほとんどは園内の弓道場を利用する方らしい(下の写真1)。

開門されるとすぐ中にあるサービスセンターでチケット購入。1979年3月までは無料だったそうだが、有料化されても中学生以上が150円(都内在住・在学の中学生は無料)。まあ、65歳以上のシニアはもっと安くて70円だったけどね。

入場すると南北に少し長い四角形の庭園の北西の角に当たり、奥の東京ガス本社ビルの前に池が広がる。池の手前の空き地になっているところには洋館(迎賓館)跡。1891年(明治24年)に木造二階建ての洋館が建てられ、離宮や迎賓館として使われていたのだが、1923年(大正12年)の関東大震災で焼失した。現在ではレンガ基礎の一部と装飾の施された大理石の一部が残るのみ(下の写真2)。

左手に小池があり、後ろには汐留ビルディング、キヤノン電子ビル、浜離宮インターシティ、東京ポートシティ竹芝オフィスタワーが並ぶ。

右手には池沿いに雪吊りされた松が並ぶ。本来雪吊りは雪の多い北陸地方のものだが、この庭園の雪吊りは冬の景色を飾る装飾用で、南部式と呼ばれる都立公園オリジナル様式。奥の高層ビルは世界貿易センタービルディング南館。

池の周りを反時計回りに進む。雪吊り松の先にゆるい勾配をつけて池に入っていくように小石を敷き詰めた州浜があり、比較的大ぶりの雪見灯籠が置かれている。先に進むと砂浜があり、そこから奥に入ると園内で最も標高の高い大山がある。頂上から池の景色はなかなかのもの。

頂上から池方向、すぐ右下にあるのは枯滝で、石組みにより滝を模している。一見滝に見えないが、流れの河床が苑路になっていて、山峡の景観を愉しみながら散策できる(下の写真3)。傾斜のない滝石組で、このような苑路が作られているのは極めて珍しい。

枯滝の先は中国杭州の西湖を模した石造りの西湖堤。西湖堤を渡った先の中島は園景の要となるところで、池の中央にある島。島には中国の仙人が住む不老不死の地と云われる蓬莱山を模した石組みがあるが、これは楽寿園の頃からあるものと云われる。

中島は亀島とも呼ばれるが、その左手には鶴島とも呼ばれる浮島が浮かぶ。潮入り庭園の時代には干潮時には右手の磯渡りで渡れたらしい。東側の岸に繋がる木造で途中が折れ曲がっている橋は八ッ橋と呼ばれるが、老巧化で通行禁止だった。

西湖堤を折り返し南側の池の周りに進む。すぐ先に石柱が4本。忠朝が小田原藩主の頃、後北条氏に仕えた戦国武将・松田憲秀旧邸の門柱を運び入れたもの。茶室の柱として使われたと推定されている。

さらに池を回り込んで行くが、忠朝の時代にはこの南側の池の西側に馬場があったらしい。一番奥から東岸を戻り出すと根府川山。忠朝の藩地小田原から運び入れた火山石などからなる山。根府川山のすぐ北には離宮時代に架橋された鯛の形を模った鯛橋があり、大泉水の中で最大の島、大島に続く。

この大島は元々は地続きで島ではなかった。鯛橋から北の入り江に続く溝は徳川紀州家の時代に掘られたもの。その入り江には大島から八ッ橋上の石橋が架り、入り江奥の東京湾への排水口の右手には石で造られた唐津山がある。忠朝が元々唐津藩主であったためその名を冠したもの(下の写真4)。

石橋を渡ると九尺台(九盈台)。波打ち際に造られた築山で、かつては海の眺望や漁の様子が眺められた。1875年(明治8年)に明治天皇がここに行幸されたそうだ。九尺は高さのことで、盈(えい)は潮や月が満ちるという意味。なお、園の東側の海の景観は1930年(昭和5年)に竣工した埋め立てにより失われた。九尺台下の四阿は東京都の管理下後に設置されたもので新しい(下の写真5)。

大泉水の北西に進むと、池に落ちる滝をイメージした滝石組。そして、一番北西の角には海水取り入れ口跡。かつてはここが東京湾に通じていた。さらに進むと泉から水が噴き出しており、小池を経て大泉水に流れている。池の水は海水取り入れ口跡に造った取水口から取り入れ、園内にある浄化設備で浄化後にこの泉など7ヶ所から池に戻し、循環させている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8588464057890209&type=1&l=223fe1adec


30分ほどで散策を終えて、次は浜離宮庭園に向かうが、続く

  • 写真1 開門を待つ人々

    写真1 開門を待つ人々

  • 写真2 洋館(迎賓館)跡

    写真2 洋館(迎賓館)跡

  • 写真3 枯滝の河床

    写真3 枯滝の河床

  • 写真4 大島北の入り江と唐津山

    写真4 大島北の入り江と唐津山

  • 写真5 四阿

    写真5 四阿

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