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2021年12月18日(土)10時半過ぎ、浜松城公園の駐車場に到着。1950年(昭和25年)に子供博覧会の開催及び動物園の開園を契機に開設された公園。1977年に昭和天皇在位50年記念公園として再整備された。<br /><br />動物園は1983年に舘山寺に移転したが、以降も城の景観にふさわしい日本庭園や「作左の森」などが造られ、現在の姿になった(下の写真1)。敷地面積10.87haと豊かな自然に恵まれた公園は、浜松市のセントラルパークとして市民に親しまれ、春には約360本の桜が開花する花見の名所に。夜は城がライトアップされ、薪能など古式ゆかしきイベントも開かれている。<br /><br />公園のメインはやはり浜松城。野面積みの石垣が有名。戦国時代の1570年に徳川家康が武田信玄の侵攻に備えて三方原台地の東南端に築城し、駿遠経営の拠点とした城。<br /><br />家康は29歳から45歳までの17年間をこの城で過ごした。浅井・朝倉連合を破った姉川の合戦から秀吉と戦った小牧・長久手の戦いまでこの城を拠点としており、彼にとってこの17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代だったとも云える。家康最大の敗戦と云われる1572年の三方ヶ原の合戦で大便を漏らしながら逃げ帰ったと云われるのもこの城。<br /><br />1586年に家康が静岡の駿府城に移ったあとは、秀吉の家臣堀尾吉晴が入城し、高い石垣を築き、天守や櫓、城門を建築した。現在の復元天守はこの時代のものの2/3縮小版。四重五層、地下1階で天守正面と背後に付櫓を設けた複合式天守と考えられている。なお、この天守は江戸時代の早い段階に失われたと推定されている。<br /><br />江戸時代以降は、代々の徳川家とゆかりの濃い譜代大名が守った。藩政260年の間に25代の城主が誕生したが、在城中に幕府の要職に就いた者も多く、この城は出世城と云われる。その内訳は兼任を含むが、老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人。中でも有名なのが天保の改革を行った水野越前守忠邦。天下統一を果たした家康にあやかって、自ら進んで浜松城主になったと云われている。<br /><br />城郭は南北約500m、東西約450m。三方ヶ原台地の斜面に沿い、西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ、各曲輪が隣接しながら、階段状になっている梯郭(ていかく)式の築城法を取っている。梯郭式は本丸の背後が自然の防衛線になるような城に多く見られる。<br /><br />明治維新後、城郭は壊され荒廃していたが、1958年に市民の浄財により野面積みの旧天守台の上に新天守閣が再建され、翌年に浜松市の史跡に指定された。緑豊かな公園の中に天守閣があり、各地のお城に比べるとコンパクトだが、春には天守閣の周りに桜が咲き誇り、桜の名所としても楽しめる。<br /><br />駐車場から南に進み、天守曲輪の南東から登って行く(下の写真2)。天守曲輪は東西56m、南北68mのいびつな多角形で、東に大手として天守門、西に搦手として埋門が配されている。周囲を鉢巻石垣と土塀で囲み、土塀には屏風折などの横矢や武者走りが設けられるなど防御性の高い設計で、創建時には籠城戦を想定した場所だったと考えられている。<br /><br />登って行くと天守門。天守と同じ16世紀末に建てられた櫓門で、天守曲輪の東側に位置する。改修・改築が行われながらも、廃城時まで存続した。江戸時代初期に天守が失われて以降は浜松城で最も高い位置にあり、江戸時代を通して浜松城を代表する建物だったが明治に入り取り壊された。現在の門は古絵図や発掘調査の結果から付近の土塀と共に2014年に復元されたもの。<br /><br />門の左右石垣下部には巨石が用いられているが鏡石と呼ばれるもの。城の壮大さや城主の権力を示すために置いたもので、彦根城や岡山城、松本城にもある。全部行ったが、松本城はこないだ書いたので覚えてるわ。<br /><br />門の下に若き日の徳川家康公の銅像が見える。1981年に建てられたもの。この銅像が建っている辺りは本丸の西の端だった。本丸は天守曲輪の東側の一段低い場所に位置し、土塁と鉢巻石垣に囲まれており、北側には富士見櫓、東側には本丸裏門、南東の隅には菱櫓、南側には鉄門と多聞櫓があった。1960年代にほとんどの部分が造成され、市役所が置かれたので、遺構はほとんどなく、西の端にわずかに残るだけ。<br /><br />天守門を入ると、16世紀末に築かれた野面積みの天守台が残されており、1958年に建設された復興天守が建っている。天守台は1辺約21mのややいびつな四角形で、西側に八幡大菩薩を祀った八幡台と呼ばれる突出部(下の写真3)と、東側に付櫓と呼ばれる張り出し部分がある。 天守台上部は安政の大地震後と復興天守建設時に積み直されたとみられるが、創建当時の姿がよく残されている。<br /><br />野面積みの石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすいように思えるが、400年の風雪に耐え、いまなお当時の面影を残している。自然石を上下に組み合わせて積む方法で、江戸時代以前はこの方法が多く用いられていた。石垣に用いた石材は珪岩と呼ばれる物がほとんどで、現浜松市庄内地区の大草山や根本山、対岸の湖西市知波田付近で切り出され、佐鳴湖東岸まで船によって運ばれ、そして、浜松城まで運ばれたと推定される。<br /><br />200円の入場料を払って天守に登る。鉄筋コンクリート造り、地上3階地下1階建で、1階と2階は徳川家康と浜松にまつわる鎧などの武具や歴史的資料を展示する資料館、3階が展望台。地下には井戸も残されている。歴代城主の家紋で天井が飾られた展望台からは360度浜松市街地を一望できる。富士山が綺麗やわ~<br /><br />天守曲輪の北側と西側は山になっており、東と南が開けている。江戸時代以前は東側が正面で、本丸左側の東に突き出した富士見櫓跡の下、現在空き地になっているところに浜松城の前身の引間城があった。また、天守門の下に市役所の建物の一部が見えるが、この辺りが二の丸だった。<br /><br />江戸時代には南側の左手先に大手門が置かれ、こちらが正面となった。現在は天守曲輪の南東角の隅櫓跡の下に南広場があるくらいで、他はビルディングが見えるだけだが、当時はその先に太平洋が見えていたと思われる。<br /><br />展望台からの景色を満喫して下に降りると、続いて潜ってきた天守門の2階へ。門の上が渡り櫓部になっており、発掘調査で見つかった瓦や土器の一部が展示されている。また門の外側の上には攻めてくる敵に対し石や熱湯などを落とすための石落としも再現されている(下の写真4)。渡り櫓部を抜けた先には稲荷神社があるが、通行止め(下の写真5)。<br /><br />30分ほど天守曲輪で過ごして戻りは西側へ降りる。天守曲輪西側の石垣の途切れた部分に埋まるような構造の埋門があったが、現在は何も復元されていない。埋門は有事の際の脱出などに用いられる搦手門。その内側には銀明水と呼ばれる井戸がある。天守の地下にも井戸があったが、この他にも本丸に1つ、二の丸に3つ、作左曲輪に4つの合計10本の井戸があったそうだ。<br /><br />帰りは天守の北側にある日本庭園を通って戻る。移転した動物園の跡地で、1984年に日本造園学会理事を歴任された伊藤邦衛さんによって築庭されたもの。浜松城の石垣と同じ遠州・湖西の石を用いた石組や高低差ある敷地を利用した滝などが見られる池泉回遊式庭園となっている。<br /><br />庭園には上の池、中の池、下の池の3つの池があり、東屋の横の大滝から上の池に落ちた水が瀬を経て中の池に注ぎ、天竜川に見立てられた滑滝から下の池に注ぐ。下の池は一番大きく、滑滝のすぐ先に小島があり、真ん中に木橋、そして一番先は船着場となっている。春の枝垂れ桜も美しいそうだが、この時期、ちょっと遅いがそれでも秋の紅葉が美しい。<br /><br />日本庭園を抜けると浜松市戦災被爆者慰霊碑がある。浜松市は戦前から航空隊の根拠地で、また軍需物資の生産都市だったので、27回に及ぶ空襲と艦砲射撃を受け、市街地の92%が灰燼に帰し、罹災人口は12万人に達した。この碑は3,349柱の戦災死者を慰霊するために1979年に建立された。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8546311078772174&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />浜松駅まで送って戴き、お世話になった先輩ご夫妻とお別れするが、続く

静岡 浜松城公園(Hamamatsu Castel Park,Shizuoka,Japan)

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2021/12/18 - 2021/12/18

1146位(同エリア1413件中)

旅行記グループ 2021冬青春18きっぷ

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5

ちふゆ

ちふゆさん

2021年12月18日(土)10時半過ぎ、浜松城公園の駐車場に到着。1950年(昭和25年)に子供博覧会の開催及び動物園の開園を契機に開設された公園。1977年に昭和天皇在位50年記念公園として再整備された。

動物園は1983年に舘山寺に移転したが、以降も城の景観にふさわしい日本庭園や「作左の森」などが造られ、現在の姿になった(下の写真1)。敷地面積10.87haと豊かな自然に恵まれた公園は、浜松市のセントラルパークとして市民に親しまれ、春には約360本の桜が開花する花見の名所に。夜は城がライトアップされ、薪能など古式ゆかしきイベントも開かれている。

公園のメインはやはり浜松城。野面積みの石垣が有名。戦国時代の1570年に徳川家康が武田信玄の侵攻に備えて三方原台地の東南端に築城し、駿遠経営の拠点とした城。

家康は29歳から45歳までの17年間をこの城で過ごした。浅井・朝倉連合を破った姉川の合戦から秀吉と戦った小牧・長久手の戦いまでこの城を拠点としており、彼にとってこの17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代だったとも云える。家康最大の敗戦と云われる1572年の三方ヶ原の合戦で大便を漏らしながら逃げ帰ったと云われるのもこの城。

1586年に家康が静岡の駿府城に移ったあとは、秀吉の家臣堀尾吉晴が入城し、高い石垣を築き、天守や櫓、城門を建築した。現在の復元天守はこの時代のものの2/3縮小版。四重五層、地下1階で天守正面と背後に付櫓を設けた複合式天守と考えられている。なお、この天守は江戸時代の早い段階に失われたと推定されている。

江戸時代以降は、代々の徳川家とゆかりの濃い譜代大名が守った。藩政260年の間に25代の城主が誕生したが、在城中に幕府の要職に就いた者も多く、この城は出世城と云われる。その内訳は兼任を含むが、老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人。中でも有名なのが天保の改革を行った水野越前守忠邦。天下統一を果たした家康にあやかって、自ら進んで浜松城主になったと云われている。

城郭は南北約500m、東西約450m。三方ヶ原台地の斜面に沿い、西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ、各曲輪が隣接しながら、階段状になっている梯郭(ていかく)式の築城法を取っている。梯郭式は本丸の背後が自然の防衛線になるような城に多く見られる。

明治維新後、城郭は壊され荒廃していたが、1958年に市民の浄財により野面積みの旧天守台の上に新天守閣が再建され、翌年に浜松市の史跡に指定された。緑豊かな公園の中に天守閣があり、各地のお城に比べるとコンパクトだが、春には天守閣の周りに桜が咲き誇り、桜の名所としても楽しめる。

駐車場から南に進み、天守曲輪の南東から登って行く(下の写真2)。天守曲輪は東西56m、南北68mのいびつな多角形で、東に大手として天守門、西に搦手として埋門が配されている。周囲を鉢巻石垣と土塀で囲み、土塀には屏風折などの横矢や武者走りが設けられるなど防御性の高い設計で、創建時には籠城戦を想定した場所だったと考えられている。

登って行くと天守門。天守と同じ16世紀末に建てられた櫓門で、天守曲輪の東側に位置する。改修・改築が行われながらも、廃城時まで存続した。江戸時代初期に天守が失われて以降は浜松城で最も高い位置にあり、江戸時代を通して浜松城を代表する建物だったが明治に入り取り壊された。現在の門は古絵図や発掘調査の結果から付近の土塀と共に2014年に復元されたもの。

門の左右石垣下部には巨石が用いられているが鏡石と呼ばれるもの。城の壮大さや城主の権力を示すために置いたもので、彦根城や岡山城、松本城にもある。全部行ったが、松本城はこないだ書いたので覚えてるわ。

門の下に若き日の徳川家康公の銅像が見える。1981年に建てられたもの。この銅像が建っている辺りは本丸の西の端だった。本丸は天守曲輪の東側の一段低い場所に位置し、土塁と鉢巻石垣に囲まれており、北側には富士見櫓、東側には本丸裏門、南東の隅には菱櫓、南側には鉄門と多聞櫓があった。1960年代にほとんどの部分が造成され、市役所が置かれたので、遺構はほとんどなく、西の端にわずかに残るだけ。

天守門を入ると、16世紀末に築かれた野面積みの天守台が残されており、1958年に建設された復興天守が建っている。天守台は1辺約21mのややいびつな四角形で、西側に八幡大菩薩を祀った八幡台と呼ばれる突出部(下の写真3)と、東側に付櫓と呼ばれる張り出し部分がある。 天守台上部は安政の大地震後と復興天守建設時に積み直されたとみられるが、創建当時の姿がよく残されている。

野面積みの石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすいように思えるが、400年の風雪に耐え、いまなお当時の面影を残している。自然石を上下に組み合わせて積む方法で、江戸時代以前はこの方法が多く用いられていた。石垣に用いた石材は珪岩と呼ばれる物がほとんどで、現浜松市庄内地区の大草山や根本山、対岸の湖西市知波田付近で切り出され、佐鳴湖東岸まで船によって運ばれ、そして、浜松城まで運ばれたと推定される。

200円の入場料を払って天守に登る。鉄筋コンクリート造り、地上3階地下1階建で、1階と2階は徳川家康と浜松にまつわる鎧などの武具や歴史的資料を展示する資料館、3階が展望台。地下には井戸も残されている。歴代城主の家紋で天井が飾られた展望台からは360度浜松市街地を一望できる。富士山が綺麗やわ~

天守曲輪の北側と西側は山になっており、東と南が開けている。江戸時代以前は東側が正面で、本丸左側の東に突き出した富士見櫓跡の下、現在空き地になっているところに浜松城の前身の引間城があった。また、天守門の下に市役所の建物の一部が見えるが、この辺りが二の丸だった。

江戸時代には南側の左手先に大手門が置かれ、こちらが正面となった。現在は天守曲輪の南東角の隅櫓跡の下に南広場があるくらいで、他はビルディングが見えるだけだが、当時はその先に太平洋が見えていたと思われる。

展望台からの景色を満喫して下に降りると、続いて潜ってきた天守門の2階へ。門の上が渡り櫓部になっており、発掘調査で見つかった瓦や土器の一部が展示されている。また門の外側の上には攻めてくる敵に対し石や熱湯などを落とすための石落としも再現されている(下の写真4)。渡り櫓部を抜けた先には稲荷神社があるが、通行止め(下の写真5)。

30分ほど天守曲輪で過ごして戻りは西側へ降りる。天守曲輪西側の石垣の途切れた部分に埋まるような構造の埋門があったが、現在は何も復元されていない。埋門は有事の際の脱出などに用いられる搦手門。その内側には銀明水と呼ばれる井戸がある。天守の地下にも井戸があったが、この他にも本丸に1つ、二の丸に3つ、作左曲輪に4つの合計10本の井戸があったそうだ。

帰りは天守の北側にある日本庭園を通って戻る。移転した動物園の跡地で、1984年に日本造園学会理事を歴任された伊藤邦衛さんによって築庭されたもの。浜松城の石垣と同じ遠州・湖西の石を用いた石組や高低差ある敷地を利用した滝などが見られる池泉回遊式庭園となっている。

庭園には上の池、中の池、下の池の3つの池があり、東屋の横の大滝から上の池に落ちた水が瀬を経て中の池に注ぎ、天竜川に見立てられた滑滝から下の池に注ぐ。下の池は一番大きく、滑滝のすぐ先に小島があり、真ん中に木橋、そして一番先は船着場となっている。春の枝垂れ桜も美しいそうだが、この時期、ちょっと遅いがそれでも秋の紅葉が美しい。

日本庭園を抜けると浜松市戦災被爆者慰霊碑がある。浜松市は戦前から航空隊の根拠地で、また軍需物資の生産都市だったので、27回に及ぶ空襲と艦砲射撃を受け、市街地の92%が灰燼に帰し、罹災人口は12万人に達した。この碑は3,349柱の戦災死者を慰霊するために1979年に建立された。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8546311078772174&type=1&l=223fe1adec


浜松駅まで送って戴き、お世話になった先輩ご夫妻とお別れするが、続く

  • 写真1 浜松城公園案内図

    写真1 浜松城公園案内図

  • 写真2 天守曲輪への階段

    写真2 天守曲輪への階段

  • 写真3 八幡台

    写真3 八幡台

  • 写真4 天守門渡り櫓部石落とし

    写真4 天守門渡り櫓部石落とし

  • 写真5 天守門渡り櫓部先稲荷神社

    写真5 天守門渡り櫓部先稲荷神社

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