2011/05/13 - 2011/05/27
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jijidarumaさん
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≪Schloesserland-Sachsenザクセンの古城・宮殿・要塞、僧院群について≫
(2011年5月13日~27日・第10回ドイツの旅・・・ルター諸都市・ベルリン・ドレスデン等を巡る)
ザクセンの千年の歴史はその歴史をElbeエルベ川沿いの華麗な宮殿や、Muldeムルデ川沿いの古城群と共に刻んできた。この辺り一帯に個性ある、魅了的な古城や宮殿・館、教会等を140も見る事が出来る。
ザクセンには中世から、ルネッサンス、バロックと華麗な宮殿・重々しい雰囲気の古城がある。風光明媚な渓谷と深い森、壮大な宮殿、高い崖に立つ強大な要塞、ロマンチックな色取りの貴族たちの城館などを訪れる人に忘れられない思い出を残すことであろう。
http://www.schloesserland-sachsen.de/
写真は日本人の訪れを珍しがられたBurghotel Gnandstein古城ホテル ブルクホテル グナンドシュタイン
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
≪かつての東ドイツだったルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅≫
2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間
2005年以来、数年ぶりにお会いするSさんご夫妻をブレーメンに最初に訪ねるのをかわきりに、旧東ドイツの地域である、ザクセン・アンハルト州、ブランデンブルク州、ベルリン州(特別市)、ザクセン自由州、テューリンゲン自由州の各州を順次、巡る旅である。
とりわけ、今まで訪れる事のなかったザクセン・アンハルトの古城群、ザクセンの古城群を見て回れたのは古城好きの私にとっては、たいへん良かった。
しかも、エルベ川沿いのザクセンワイン街道、二つの川ザーレ・ウンシュトルートの川沿いの急斜面に広がる、ドイツ13番目、最北のワイン産地である、ザーレ・ウンシュトルート・ワイン街道を楽しんだものである。
本編は題名の通り、ザクセンの古城群を主にした。
写真はいよいよクリスマスです。 -
其々の種別に箇条書きしたのが以下の古城・宮殿・要塞、僧院群である。
古城ホテルは住所なども付け加えた。
尚、訪問した所は*印。
①Schloesser in Sachsenザクセンの宮殿・館;
*Albrechtsburg Meissen、Schloss Augustusburg、*Schloss Colditz、Barockschloss Delitzsch、*Festung Dresden、*Residenzschloss Dresden、*Dresdner Stallhof 、*Dresdner Zwinger、*Schloss und Park Pillnitz 、Fasanenschloesschen Moritzburg、 Schloss Freudenstein、
Schloss Gueldengossa 、Schloss Hartenfels、Wasserschloss Klaffenbach、 Schloss Klippenstein 、Schloss Krobnitz、 Schloss Lauenstein、
Schlosspalais Lichtenstein 、Schloss und Park Lichtenwalde、
Lingnerschloss Dresden 、*Schloss Moritzburg 、
*Schloss Nossen 、Barockschloss Rammenau 、*Schloss Rochlitz、
Schloss Schlettau 、Schloss Schwarzenberg 、Schloss Wackerbarth、
Schloss Weesenstein 。
写真はSchloss Seeburgゼーブルク城
D-06317 Seeburg 、Schlossstrasse 18
http://www.seeburg-schloss.de/ -
②Burgen und Festungen in Sachsenザクセンの城砦と要塞;
*Festung Dresden 、*Burg Gnandstein 、*Festung Koenigstein、
*Burg Kriebstein、 Burg Mildenstein 、Ortenburg Bautzen 、
Burg Scharfenstein 、*Burg Stolpen、 Schloss Wildeck 、
*Schloss Sonnenstein。
③Kloester in Sachsenザクセンの僧院;
Klosterpark Altzella、Kloster Buch、Benediktinerkloster Wechselburg。
写真はRelais und Chateaux Hotel Bayrisches Haus
古城ホテル バイエルンハウス
D-14471 Potsdam 、Im Wildpark 1 / Elisenweg 2
http://www.bayrisches-haus.de/ -
④Schlosshotel in Sachsenザクセンの古城ホテル(宿泊可);後述も参照
um sich in Schlossherr oder Burgfrau zu verwandeln.
(城主や城主夫人になって)
Schlosshotel Althoernitz (後述)
D-02763 Bertsdorf-Hoernitz 、Zittauer Strasse 9
www.schlosshotel-althoernitz.de
*Europa-Jugendherberge Schloss Colditz (後述)
D- 04680 Colditz , Schlossgasse 1
http://www.jugendherberge-sachsen.de/index.php?id=509
但し、YMCA
*Hotel Schloss Eckberg (後述)
D-01099 Dresden 、Bautzner Strasse 134
http://www.schloss-eckberg.de/
*Schloss Hotel Dresden-Pillnitz (後述)
D-01326 Dresden 、August-Boeckstiegel-Strasse 10
www.schlosshotel-pillnitz.de
Schlosshotel Gaussig (後述)
D-02633 Gaussig 、An der Kirche 2
www.schloss-gaussig.de
Burg Hohnstein (後述)
D- 01848 Hohnstein 、Am Markt 1
www.burg-hohnstein.info
【 Burg Hohnsteinホーンシュタイン城】
ザクセンスイスのエルベ川の右岸にある、かつての多数の城のうち、ホーンシュタイン城だけがその城郭を残している。ドレスデン空港にも29 kmの距離、シュトルペン城に8 km、バスタイ橋に3.2kmと観光名所にも近い。
ポレンツ渓谷の140mもの高さにある砂岩上に建てられた岩の城、ホーンシュタイン城は小さな村のマルクト広場からのみ、入城できる要害である。
ホーンシュタイン城の歴史:
ホーンシュタイン城は、おそらく12世紀にマイセン辺境伯領のボヘミアとの国境を守る城塞として、同時にザクセン選帝侯への備えとして建てられました。
1353年、ボヘミアの貴族Hinko Berkaヒンコ・ベルカが領地(Lehen)とした。その後、1806年までボヘミアの領地(Lehen)として継続された。
元の城郭の木造建築は17世紀と18世紀に徐々に今日の石造りの建物に置き換えられ、1639年の三十年戦争時、スウェーデンの包囲にも耐えました。
1919年から少年刑務所として使用された。
1926年4月、ホーンシュタイン城はJugendherbergeユースホステルとしてオープンした。1000の宿泊場所があるホーンシュタイン城は、当時ドイツで最大のユースホステルでした。
1933~34年、ホーンシュタイン城はKonzentrationslager Hohnstein (KZ Hohnsteinホーンシュタイン強制収容所)となり、約5,600人の政治犯を収容した。1935年から、この施設はヒトラーユーゲントの帝国ヒユースホステルとして再び利用された。第二次大戦中は捕虜収容所となり、当初、800人のポーランド人、次にフランス人将校の捕虜収容所となり、後にユーゴスラビアとソ連の捕虜収容所IV / 4として使用された。
終戦後の1949年に再びユースホステルになる前に難民の避難所として利用され、その規模の大きさを最大限利用されたことになった。
1953年、国立自然科学地質学・植物学・動物学・景観生態学博物館がホーンシュタイン城内に設立された。
ドイツ再統一後は、ホーンシュタイン城の帰属が度々変更され、その間、建物自体の改修等に資金も要り、破産後も破産管財人が手を引き、そのため、2018年1月からホーンシュタイン市が城の運営を引き継いでいるが結論は出ていないようだ。
・・・・・
Hotel Schloss Schweinsburg (後述)
D-08459 Neukirchen/ Pleisse 、Hauptstrasse 147-149
http://www.schloss-schweinsburg.de/
*Hotel Taschenbergpalais Kempinski Dresden (後述)
D-01067 Dresden 、Taschenberg 3
www.kempinski-dresden.de
Pension Zur Koeniglichen Ausspanne
D-01326 Dresden 、Eugen-Dietrich-Strasse 5
www.koenigliche-ausspanne.de
Barockschloss Oberlichtenau
Grossnaundorfer Str. 5
D-01896 Pulsnitz / OT Oberlichtenau
http://www.schloss-oberlichtenau.com/
*Burghotel Gnandstein (Café Restaurant Hotel)(後述)
D-04655 Kohren-Sahlis/Gnandstein 、Burgstrasse 3
http://www.gnandstein.de/dieburg.html
XXX
写真はPension Schloss Lodersleben 古城ホテル シュロス ロダースレーベン
D-06268 Querfurt/ Lodersleben 、Strasse des Friedens 36
http://www.schloss-lodersleben.de/ -
【ザクセンの古城巡りを楽しんだ】
(2011年5月の旅で)
ザクセンの古城群は、好みとしてはとりわけMuldeムルデ川沿いの古城群が魅力的である。
この為に、Burg Gnandsteinグナンドシュタイン城に2泊して、一帯を走った。
Schloss Rochlitzロッホリツ城、Burg Kriebstein クリープシュタイン城、Schloss Nossenノッセン城、Schloss Colditzコルディッツ城、Burg Gnandsteinグナンドシュタイン城の5つの古城をこの日は見て回った。
(ノッセン城の後に、計画で入れていた、もう一つの城Burg Mildenstein ミルデンシュタイン城は時間的に無理が生じ、今回見送りにした。)
最初の目的地はSchloss Rochlitz ロッホリツ城、L?・B95・B7を29km走った先にある。34mの二つの尖塔が高々と見える、城壁下の駐車場に車を停めて、強大な城まで登った。
歴史の課外授業なのであろう、城門傍の教会前の広場には大勢の小学生が参集していた。この城でも中世の衣装を着けた女性たちが子供たちに歴史を教えていて、用意された中世風の衣装を着た子供もいて、古城の14世紀の台所などでは楽しそうに質疑を交わしていた。 穴倉、ワイン倉庫、発掘された瓦などの展示、かつての牢獄では責めさいなまれる囚人の声も聞こえ、ロープで吊り下げた深い穴、強固な城を支える強大な柱などなど・・。
川沿いからの古城の姿は絵心をかき立てる美しさがあると云うが、上天気に恵まれて、城の最上階からのムルデ川や町の眺望はこれまた実に良い。
城のお土産店で手製のワイン用のカップが気に入り、2個を購入した(Euro33)。6つ買えば少し安くなると小母さんが言ってくれたが、荷物になる事を考えて2個にした。
写真はSchloss Rochlitzロッホリツ城 -
【Schloss Rochlitzロッホリツ城】
入場料Euro6、 9:35~10:45
D-09306 Rochlitz 、Soernziger Weg 1
Zwickauer Muldeツヴィッカウアー・ムルデ川沿いの長さ600m、幅60mの平らな台地上に築城されたロッホリツ城はロッホリツの町の西南にあたる200mの丘の上に立っている。
ロッホリツ城の歴史;
995年、神聖ローマ皇帝オットー3世がロッホリツ城を帝国の城とした。
1046年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の宮廷にする。
1382~1400年、ヴィルヘルム1世 (マイセン辺境伯)の居城になる。
1430年、フス派に包囲されるも不落。
1507~510年、ドイツ騎士団長の ザクセン公爵フレデリックのレジデンスとなる。
1644~1645年、三十年戦争ではしばしば包囲攻城戦があり、3回は奪取された。
1892年、ザクセン王国4番目の博物館開設。
1935年、ザクセン王国からドイツ帝国になる。
1995年8月、1000年の祝い。
写真は川沿いからの古城の姿、ロッホリツ城は美しい。 -
B7で12km (Gerngawalde) からは村道を走っていく。クリープシュタイン城の駐車場とあったので、そこに駐車し、矢印に沿って、森の中を行った。中々、城に至らず、標識に書かれていた距離の3倍ぐらい(多分3km!)歩いてしまった。
ドイツ人的には森林浴をしながらの散歩は好ましいのであろうが、私共には不要な事で、疲れただけであった。
帰り道に分かった事だが、駐車場に入らずにそのまま直進すると、下り坂に至る。坂の中ほどにクリープシュタイン城があり、そこから50m下に駐車場があった。
そんな事でBurg Kriebsteinには11:40の到着になってしまった。
汗もかき、足も疲れたので、見物前に腹ごしらえをすることにした。
城内にあったレストラン “腹を空かせた塔そば“で昼食にした。
写真はBurg Querfurtクエルフルト城
D-06268 Querfurt
http://www.museum-burg-querfurt.de/ -
【Burg Kriebsteinクリープシュタイン城】
入場料・撮影料Euro15.5、 12:20~13:15
D-09648 Kriebstein 、Kriebstein
http://www.burg-kriebstein.de/
ザクセン州で最も美しい城と称されているクリープシュタイン城はヴァルトハイムのZschopauチョッパウ (Freiberger Muldeフライベルガー・ムルデの支流である)上流3kmの険しい崖の上に立っている。
後期ゴシック様式の宝石とも称される古城は周辺の森に囲まれ、魅力満点な姿を見せる。城郭の中心に高さ45mの居住塔があり、これを囲むようにして各棟があるのは大変珍しい。従って、他の城に見るような独立した天守閣は無い。
写真はBurg Kriebsteinクリープシュタイン城 -
オリジナル家具、色彩ゆたかな木の天井、暖炉、肖像画の数々、ゴシック様式の広間、騎士の広間、宝物庫、礼拝堂、祭壇、クリープシュタインの間に見られる宗教画のシーンなど、見るべきものは多い。ロッホリツ城よりも入場料が倍したのもうなずける。
改修中に居住塔の煙突の中から、隠されていた宝石類が発見された事を知っていたので、博物館の係員に聞くと、彼は博物館の出入り口に鍵をかけてから、私共を別室のGrosser Festsaal大宴会場の広間に案内し、部屋の鍵を開けて、室内にあるゴブランのかかった壁を指して、「あそこにあった!」と言った。
写真はクリープシュタイン城:壁に隠されていた財宝が発見された場所を覆っていたゴブラン織り絨毯の絵。 -
イチオシ
クリープシュタイン城の歴史;
今から600年以上前、この城の最初の支配者・居住者になったのはDietrich von Beerwaldeベールバルデ家のディートリヒ (1384~1408年) であった。
1423年頃、ディートリヒは美しい宗教画が描かれていることで知られるKriebsteinzimmer クリープシュタインの間を完成させている。
15世紀の宝物庫に描かれた壁画も幻想的なものと云われ、1410年の礼拝堂にはマリア様の絵が描かれている。
1986年、居住塔の壁(煙突の中)に宝石類が隠されていたのが発見され、現在は宝物庫に展示されている。城には博物館(1945年)があり、1993年以来、ザクセン自由州が所有している。
参照;
古城伝説:知恵や機智に富んだ、勇気ある城主夫人の話;Die Sage von der treuen Frau von Kriebsteinクリープシュタインの忠実なる妻
写真はBurg Kriebsteinクリープシュタイン城:伝説の絵 -
駐車場に又テクテク歩いて戻った。Schloss Nossen ノッセン城も27kmほどの距離で、街中に入ると直ぐに分かった。教会傍の駐車場に14:00到着。
【Schloss Nossenノッセン城】
入場料・撮影料Euro5、 14:00~14:40
D-01683 Nossen 、Am Schloss 3
http://www.schloss-nossen.de/
マイセン行政区に属するノッセンの町のFreiberger Muldeフライベルガー・ムルデ川沿いにこの城は立っている。ノッセン城からのムルデ渓谷の眺めは美しい。
かつての掘割をまたぐ石橋の先に入口があり、中に入ると中庭が広がる。入って右手の南塔やSaalbau、Kuechenbau、Torbauなどのメインになる建物があり、左手にはかつての牢獄があったFrohnveste、行政・管理棟が置かれている。
Saalbauは博物館の展示があり、中世の頃の展示、ザクセンや城の歴史が展示されていたが、クリープシュタイン城の展示に比較すると、残念ながら殆んど無いに等しいものだ。
写真はSchloss Nossenノッセン城 -
ノッセン城の歴史;
この城は1150~1224年の間に築城されたと推測されている。
かつて騎士のNuzzinヌッジンの居城であった。
1315年、Withego II. von ColditzやBischoefen von Meissen、1403年にはBischof Thimo von Colditz等が居城とした。
17世紀、各種の建設が行われた。1682年、門塔を完成。1714年、木製の跳ね橋を石橋に造り変え、広間には狩猟の獲物である、鹿の角等を飾った。
7年戦争(1756~1763年、プロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)の率いるプロイセン及びそれを支援するイギリスと、オーストリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国及びザクセン選帝侯を中心としたドイツ諸侯との間で行われた戦争。)では、ノッセン城はこの間、プロイセンからたいへんな被害を受けた。
1808年は東と北翼の部分は刑務所として使用された。
1857年以降は裁判所、刑務所などに使われた。
1980年、城は改装された。
この城における特記事項が2つある;
①1716年11月23日~12月24日、コーゼル伯爵夫人は病気にかかり、この城に1カ月滞在した。
その後、最後の地Schloss Stolpenシュトルペン城に向けて護送された。
②皇帝ナポレオンは1813年5月7日の夜から8日にかけて、城に宿泊した。
(当時、ナポレオンはロシア遠征に失敗し、態勢を整えるため、1813年5月2日グロースゲルシェンの戦い(リュッツェンの会戦)でプロイセン、ロシアの連合軍に勝利し、ザクセン全土を再び支配した時期であった)
写真はSchloss Nossenノッセン城:中庭 -
ノッセン城から、B175・A14・B175とDoebelnを経由し、菜の花の黄色の絨毯の景色を眺めながら、45kmを走って、今は青年の家になっているSchloss Colditz コルディッツ城に15:40着いた。
殆んど人が見当たらないので、城の関係者らしい小父さんに中に入っていいかと聞くと、ご自由にと言われた。
コルディッツ城はライプツィヒ、ドレスデン、ケムニッツの三大ザクセンの都市を三角形に見立てると、その中心あたりに位置している。
この城は美しい渓谷Zwickauer Muldeツヴィッカウアー・ムルデ川沿いにあるコルディッツの町を見下ろすように立っている。
コルディッツ城は近くで見てもなかなかの威容を見せている。城門を入ると、中庭にはかつての捕虜たちが談笑している等身大の写真が置かれ、城内の部屋には捕虜収容所の脱走の出来事などが展示されていた。特に、城門内の壁に表示された版に、1939~45年の捕虜収容所からの脱走について書かれていたのが印象に残った。
写真はSchloss Colditzコルディッツ城を見上げる。 -
【Schloss Colditzコルディッツ城】
15:40~16:00
D-04680 Colditz 、Schlossgasse 1
http://www.schloss-colditz.com/
コルディッツ城の歴史;
1046年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世は妻アグネスに Colditz、Rochlitz、Leisnigの諸城を与えた。
1404年、ヴィルヘルム1世 (マイセン辺境伯)の居城になる。
1430年、フス派に城と町を破壊された。
1464年、後期ゴシック様式で宮殿が再建された。
1486年、ザクセン選帝侯エルンストは落馬事故で、コルディッツ城で亡くなった。
17世紀、コルディッツの最も良き時代はザクセン選帝侯クリスティアン1世(ChristianⅠ.)と、その妻ゾフィー(ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルクの娘)のいた時期だと云う。
1787年、ドレスデンに売却された。
18~20世紀には、時代を映して、精神病院、仮収容所、労働キャンプ、捕虜収容所*。
1946~96年、病院、老人ホーム。
2003年、ザクセン自由州の所有になる。
2007年、Jugendherbergeユースホステル。
写真はSchloss Colditzコルディッツ城:捕虜と -
*かつてコルディッツ城は第二次大戦での戦争捕虜収容所(1939年より)として世界的に知られた。捕虜の英軍上級将校の中で、英首相のウィストン・チャーチルの甥、ジョージ4世の甥が収容されていた。
参照;
古城伝説(実話):大脱走・コルディッツ城と捕虜の脱走の話;戦争捕虜収容所
写真はSchloss Colditzコルディッツ城 -
イチオシ
5月19日(木)、Querfurt/ Schloss Lodersleben、Querfurt・Burg Querfurt、(ザーレ・ウンシュトルート・ワイン街道) Freyburg (Unstrut)・Schloss Neuenburg、Merseburgメルゼブルク、Leipzigライプツィヒなどの市内観光を続け、Kohren-Sahlisコーレン‐ザーリス/Gnandsteinグナンドシュタインの 古城ホテルに18:10到着した。
【Burghotel Gnandstein古城ホテル ブルクホテル グナンドシュタイン】
(Café Restaurant Hotel)
D-04655 Kohren-Sahlis/Gnandstein 、Burgstrasse 3
TEL:+49( 0)34344 / 61220、FAX:+49( 0)34344 / 61410
http://www.gnandstein.de/dieburg.html
?星・全?室。
私共の部屋が一番奥まった所で14号室(2階)Himmelbett天蓋付きでした。
部屋にシャンパンのボトル一本など。2泊分;Euro92(現金)*(10,856円)
DZ;Euro67+8x2=16 Total Euro83X2=166 =>2泊Euro199現金払い)
Special Arrangement ”Romantiktageロマンチックな日々“を利用した。
Leipzigの南50kmに位置し 、Muldeムルデ川流域のザクセン古城群の一つとしてよく知られている。ザクセン州で中世の騎士の城として、最も保存状態が良い城である。Kohrenerコーレンナー地方の中心Kohren-Sahlisコーレン‐ザーリスの町の一角にあり、Leipzig ライプツィヒと Chemnitzケムニッツの間にあって、美しい、魅力的な保養地にある。
写真はまだ明るい草原の先に見えたBurghotel Gnandstein古城ホテル ブルクホテル グナンドシュタイン。 -
城門を二度くぐって入った城の中心の空間はDer Burghofブルクホフと称し、南北の回廊ともいえる別棟にはゴブランのかかるDas Richterzimmer裁判官の間、その傍に丸天井が特徴的な三つの間、かつてのDie Gerichtsstube裁判の間が南に、騎士の宴などに利用されるDie Ritterstube騎士の間、Die Bastion稜堡が北にある。門を入った右手には博物館と33mの天守閣があり、左手奥にホテル・レストラン棟が配置されていた。
レストランの中心はBlaues Restaurant紺色のレストランで中央に白の大きな暖炉が置かれている。離れた空間としては、黄色の暖かな色合いをした個室のようなWintergarten冬の庭(温室)と称するレストラン、催しに使えるKabinettレストランは鮭の肌色だ。
建物の外には村の家並みを俯瞰し、村を囲む周囲の景観を眺めるDie Panoramaterrasseパノラマテラスなどがある。そのテラスには大きな菩提樹が涼やかな木陰を作っていた。
写真はBurghotel Gnandstein古城ホテル ブルクホテル グナンドシュタイン:天守閣から -
グナンドシュタイン城の歴史;
1228年、Heinrich und Conrad von Schladebachシュラーデバッハ兄弟のハインリヒとコンラットの居城として築城された。25mの深さの井戸があり、最初の頃は3階建てのものであったが、周囲に二重の城壁を築いた。更に城郭の中心に円形の天守閣(33m・155段)を築き、ゴシック様式の建物、礼拝堂も備えた。
1327年、 Burggrafen von Leisnigライスニッヒ伯の居城
1409年、Hildebrand I.von Einsiedelアインジーデル家のヒルデブランド1世が所有し、
30年戦争の間はスウェ―デン軍に攻略され、一部は損害を被った。戦争の終る寸前に落雷で南翼が焼失した。
18世紀初めに内部は完全に修復され、石作りのアーケードは良く保たれている。
1929年、Hans von Einsiedel はグナンドシュタイン城の最後の所有者になったが、新たに城の改装を行い、城内博物館を設け、礼拝堂と共に一般に公開した。
1932年から、カフェ・レストランを開業。Einsiedelアインジーデル家は15世紀の初め以来、連綿として家系を繋ぎ、第二次大戦末期まで、この城に居住した。
第二次大戦後、1990年の初め、塔、城郭内は考古学上の発掘が行われた。
1992年、ザクセン州の古城・宮殿・公園管理協会の管理下におかれた。
1994年~2004年の間、大改装が行われ、古城ホテルが???年にはオープンした。
参照;
古城伝説:グナンドシュタイン城の財宝伝説;Der Schatz von Burg Gnandstein
<グナンドシュタイン城の博物館>
入場料Euro4x2=8、17:00~17:55
http://www.burg-museum-gnandstein.de/
幸い、まだ開館中で、18時までOKと言われたので、落ち着いて見る事が出来た。
城の台所、丸天井のケラー、聖母子、城主夫婦の肖像など貴重な絵画、家具、マイセンなどの陶磁器やグラス、リーメンシュナイダーの弟子の彫刻、狩猟の器具・道具、1900年に近在の森で獲られた大きなイノシシ、中世の甲冑など、館内は充実していた。
最後にここの博物館と付随した天守閣155段・33mの塔に登り、上から中庭を見下ろすと人も小さく見える。まだ明るい古城の周辺の眺望に満足し、疲れもすっ飛びました。
私共は最後の入館者だったが、守衛さんは親切に説明を付け加えて、私共が塔から下りてくるまで、ゆっくりと待ってくれた。
写真はBurghotel Gnandstein古城ホテル ブルクホテル グナンドシュタイン:夕食時のメニュー表紙 -
<次の城は見学しなかったので参考までに挙げた>
Burg Mildensteinミルデンシュタイン城:
D-04703 Leisnig 、Burglehn 6
http://www.schloesser-und-burgen-im-muldental.de/index.php?article_id=23
ザクセンでも最も古い部類になる、この城はFreiberger Muldeフライベルガー・ムルデ川の流れでできた半島に築城された。
城内博物館に町創立950年を記念し、二つの靴メーカーが作った4.9mの巨大な長靴がある。
ミルデンシュタイン城の歴史;
1046年、ザクセンの真中に軍事と行政の中心としてLeisnig の城と町を築いた。
1084年、神聖ローマ皇帝にしてドイツ国王の「ハインリヒ4世」は城をMarkgraf Wiprecht von Groitzschに与えた。
1100年頃、ロマネスク様式の礼拝堂が建てられた。
14世紀、マイセン辺境伯ヴィルヘルム1世の治下で城の再建がなされた。
1637~1644年、三十年戦争ではしばしば包囲攻防が行われ、一部破壊された。
1706~1707年、ザクセン王アウグスト強王に対抗していたポーランド王・リトアニア大公Stanisław I Leszczyński,スタニスワフ・レシチニスキ(1677~1766年;王位1704~09、1733年。およびロレーヌ公在位;1737~66年)はこの城に滞在した。
1890年、博物館開設。
1993年、ザクセン自由州のものになる。
写真はザクセンの古城群図 -
イチオシ
尚、<要塞>についてはBurg Stolpenシュトルペン城(要塞)、 2001.05.08.に訪れたのはケーニッヒシュタイン大要塞などがある。
【Burg Stolpenシュトルペン城(要塞)】
ドレスデンのHotel Schloss Eckberg古城ホテル シュロス エックベルクで2泊した後、この日は東に向かい、愛妾コーゼル伯爵夫人が49年間幽囚されたBurg Stolpenシュトルペン城を訪問したのだ。
「Schiksalsjahre einer Maetresse愛妾の運命の年月」という言葉がある。
ザクセン王(=ポーランド国王)アウグスト強王(1670~1733年)が愛妾コーゼル伯爵夫人(1680~1765年)を死ぬまでの49年間、幽囚した事た。
ドレスデンから20km東に、Lausitzer Berglandラウジッツ山地の西の端に、シュトルペン城(要塞)があり、およそ17kmでチェコの国境に至る。・・が、国境を越えるには徒歩で行く道しかないと云う。
Burg Stolpenシュトルペン城はシュトルペンの町の高台にあり、車をそのまま乗って登り、小学生が自転車競技を楽しんでいる駐車場(Euro1.5)の一角に車を停め、更に徒歩で坂道を上った。
写真はコーゼル伯爵夫人が49年の間、幽囚されたBurg Stolpenシュトルペン城(要塞):ヨハネの塔(コーゼルの塔)(左)と税金の塔(右) -
<Burg Stolpenシュトルペン城>
D-01833 Stolpen 、Schlossstrasse 10
http://www.burg-stolpen.de/
その先に黒々とした城門が出てきた。
説明ではKasematteカゼマッテというらしい。かつては要塞の砲郭だった。
城門を過ぎて、40mの長方形の建物Kornhausコルンハウス(かつての穀倉・1527年)があり、城内博物館の切符売り場がある。
嬉しい事に日本人が来る事があるのか?ここにも日本語の簡単な説明文があった。ここまでが日本流でいえば、二の丸にあたる。
昔はここに主たる衛兵所が置かれ、馬屋、牢獄・拷問室などがあった。
左手にはその拷問室を再現し、様々な責め道具を展示していた。
牢獄の壁は青黒い玄武岩の肌をそのまま見せて、牢獄らしい陰鬱な感じだ。
ここを出ると、本丸にあたる城郭になる。
目の前、右手にドーム型の屋根をした塔、左に二つの塔がくっついて立っている。右が面白い名のSchoesserturm税金の塔、
左がJohannisturmヨハネの塔(1509年)、後に幽囚されたコーゼル伯爵夫人に因んでCoselturmコーゼルの塔と呼ばれた。
税金の塔は目立った展示は無かったが、この名前は中世に使用されたSchossショス税金・租税(その他にも、ヒザ、小枝、若芽の意味もあるが)という言葉から来たと云う。かつては税徴収官や書記官等がここで働いていた。
1階が異端者(異教徒)の穴(間)、2階が修道士の穴(間)と妙な名がつき、3階が管理事務所だそうだ。
一番興味のある写真右上のヨハネの塔(コーゼルの塔)は元来、聖ヨハネはマイセン辺境伯・司教の守護神だったことから、この名が付けられたと云う。
尚、これ以降<コーゼルの塔>に統一して書く。
<コーゼルの塔>の1階がヨハネの牢獄と言い、深く口をあけて人を飲み込むような穴があった。2階のゴシックの間はシュトルペンの司教時代、3~5階が囚人コーゼル伯爵夫人の生涯を展示していた。
そして6階は塔の見張りで、シュトルペン要塞の展示がある。
興味は3~5階の囚人コーゼル伯爵夫人の展示だ。
寝台、トイレ、夫であったザクセン王家の宮廷大臣アドルフ・マグヌス・フォン・ホイム伯とコーゼル伯爵夫人の肖像画、見事な筆跡のフランス語で書かれた伯爵夫人の手紙(フランス語が如何にドイツの王侯貴族という上流社会で当たり前のように使用されていたかを知る事が出来る)、立派な暖炉、日常に使用した品々、台所、とりわけ見事なマイセン磁器は“伯爵夫人の脱走”と称した作品であった。
少々違和感が残る元配偶者たち(ホイム伯とコーゼル伯爵夫人)の肖像画が並んで掲示されていた。
二人は結婚後にコーゼル夫人が以前、非嫡出子を産んだ事を知ったホイム伯は離婚を求め、離婚訴訟の上、1706年に離婚している。
ホイム伯はコーゼル夫人を嫌う理由を「権勢欲の強さと陰険さ(herrschsuechtig und hinterhaeltig)」とだけ言い、性格不一致を主としたようにとどめているが、それ以上に非嫡出子を産んだ事が大きいと云う。
コーゼル夫人が幽囚されたシュトルペン城で購入した小冊子に書かれていたのと違った。1704年、アンナ・コンスタンティアはアウグスト強王の目に止まり、言い寄られて、愛妾となったことから、ホイム伯がコーゼル夫人を離縁したと、小冊子に云う。
つまり、この章で書いている事は離縁の事由からして、上述とは違う展開である。ともあれ、そうした二人が並んでいるのは、少々悪趣味かと。
外に出てからもう一度コーゼルの塔を見上げたら、二つの塔に見える。
一つは階段の為の塔であり、もう一つの丸い方が展示のある本塔であった。
次は右手に立つSeigerturm時計塔と言う。天辺に小さな時計があるらしいが良く見えない。
16世紀の頃は鐘を打ち鳴らして、時を知らせた。今は機械仕掛けだが。
左にカフェテリアがあり、84.39mもの深い井戸、礼拝堂とコーゼル伯爵夫人の墓碑、突き当りにBurggeistお城の幽霊と称する穴倉がある。
その84.39mの井戸だが、玄武岩上に造った城なので、大変水に困ったと云う。
最初は桶を担いで水を運んだ。労力の割に獲る水は少なく、この為、16世紀の頃は水車を利用し水を汲み上げ、720mの水路を作り、ポンプで城内に水を上げる装置を作った。
戦略上、城外にある装置は敵に破壊されてしまうので、1607/8~1632年の24年の長い間をかけて岩盤を掘り進んだと云う。一日1~1.5cm、年に3~4mと掘り、気が遠くなるような時間をかけて、世界でも稀な84.39mもの深い井戸を作り上げたそうだ。
この大がかりな装置は1813年、ナポレオン軍により破壊されてしまったので今は無い。
最後の塔は15世紀後半のものでSiebenspitzenturm7つの尖塔塔といい、円錐屋根の角に6つの小さな塔が付き、真中に尖塔があったことに名前の由縁がある。1632年の町の大火で、円錐屋根は焼失した。
塔内には司教の執務室が長い間あった。地上階には大きな竈が設けられていたが、1559年、選帝侯妃アンナが香草に詳しく、ここに彼女の台所を備えた。
それを“香草の竈”を称していた。
天辺は展望台になっている。登らなくても、ここからの周辺の眺望は実に美しい。
尖塔傍に、19世紀から20世紀頃に出来ていたCoselGrabコーゼル伯爵夫人の墓碑(真ん中に十字の墓碑)が、観光用の説明版と共に掲示されるようになった。
古城にはつきものの暗い地下牢、丸天井の穴蔵、深く口をあけて人を飲み込むような穴、この城には全てがあった。
又、そこかしこに玄武岩の岩肌を見る事が出来た。
菜の花の黄色が緑の中を彩り、赤茶色の屋根の家並みも、教会も絵になる風景だ。
写真はBurg Stolpenシュトルペン城(要塞):Seigerturm時計塔、Coselturmコーゼルの塔、 -
<シュトルペン城の歴史>
シュトルペンはスラブ語の“柱”とか、“柱のある場所”という意味だそうです。
ドレスデンから二十数km東に位置する。
その時々の周辺の事情で、この城はBurg城からSchloss宮殿、そして改築後はFestung要塞としても使用された。
1100年頃から歴史に名前が記され、1218年、ソルブ人封建領主シュツルペンがこの城と周辺の村々をマイセン伯に売却したと云う。
以来、この城はマイセン辺境伯(領主司教)の支配地として、エルベ川の東のスラブ人に対する防御線となった。
同時にまた交易路の交差点として、重要な位置にあった。
特徴的なのはザクセン=北部ボヘミア地方の火山岩鉱脈であるDer Basaltberg玄武岩(天然記念物)上に造った城なので、大変水に困ったと云う。
この為、長い年月をかけて、世界でも稀な84.39mもの深い井戸を作り上げたそうだ。この硬い、青黒い玄武岩を利用して、城郭内の建物も建設されている。
1320年、マイセン辺境伯(領主司教)はシュトルペン城にシュトルペン聖区を置き、司教区の行政の中心にした。
1559年、ザクセン選帝侯アウグスト王が、この城の重要性から、支配下に置き、ルネサンス様式の建築物や、動・植物園を設けた。
1675年、要塞に拡大され、軍事的な役割も増大した。
1716年、コーゼル伯爵夫人がシュトルペン城に追放、幽囚される。
1733年、アウグスト強王(兼ポーランド王)はポーランドのワルシャワで死す。
1763年、アウグスト3世の死と共にアウグスト時代も終わり、城の守備軍も役を解かれた。
1765年、49年間、幽囚されていたコーゼル伯爵夫人が85歳の高齢で亡くなった。
18世紀後半はこの城は徐々に廃墟になり、1813年にはナポレオン軍がロシア遠征から退去中にここに立ち寄り、多くを破壊して去ったと云う。
1992年、ザクセン自由州の所有となる。
毎年、ここを訪れる観光客は凡そ14万人を数える。
写真はSiebenspitzenturm7つの尖塔塔 -
さて、ザクセンの古城群を紹介する小冊子に、この城の題名を“Schiksalsjahre einer Maetresse愛妾の運命の年月“と書いてあった。
この城の800年を越える歴史で、もっとも知られた人物は85歳で死ぬまで幽閉されたコーゼル伯爵夫人である。
【Graefin Anna Constantia von Coselコーゼル伯爵夫人の幽囚】
アンナ・コンスタンティア・コーゼル伯爵夫人(1680年~1765年)はドレスデンの歴史を造ったザクセン王・ザクセン選帝侯であるアウグスト強王(1670~1733年)の愛妾(Maetresseメトレッセ)であった。
コーゼル伯爵夫人はドイツ北部・リューベックとキールの間のキール寄りに湖水地帯があり、その真中あたりにPloenプレーン(2014年に一度訪ねたことがある)と言う町の近郊にある貴族von Brocksdorf ブロックドルフ家の娘(神聖ローマ帝国の伯爵の身分とか云われていますが)として生まれている。
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州になりますから、いわゆる田舎貴族の係累であったと思えます。
その彼女は最初にザクセン王家の宮廷大臣Graf Adolf Magnus von Hoymアドルフ・マグヌス・フォン・ホイム伯(1668~1723年)と結婚している。その後、強王に見染められたことなどで、ホイム伯は離縁した。
(様々な離縁事由については先に述べた)
アンナ・コンスタンティア・コーゼル伯爵夫人は美人で聡明であったことから、7年のもの間、アウグスト強王の寵愛を一人占めしたと云われている。
強王は彼女のために新たにTaschenbergpalaisタッシェンベルク宮殿を建造し、これを与えた。現在、ドレスデンのツヴィンガー宮殿前にある5星のホテルで知られるKempinski Hotel Taschenbergpalaisケンピンスキーホテルである。王の宮殿と新宮殿は2階のつけられた空中回廊(現在もある)によって結ばれていたと云う。
アウグスト強王は政治的に、外交的にも、また、軍事的にも名前の強王にそぐわないような点があったようです。力もないのにとりわけポーランド王に固執した様子は問題もあったようで、コーゼル伯爵夫人は当時の女性としては聡明で、識見も高かったようですから、王国の政治に関与し、強王の政治外交策に異を唱えた事も分かるような気がするのです。その強い立場から、しばしば王の傍で政治的な意見を述べる事があったとある。
強王との間で二人の娘(後に二人とも伯爵家に嫁ぐ)と一人の息子(後に陸軍大将)を生んでいる。
(*事実はどうなのか分からないが、次のような話がある)
1704年、コーゼル伯爵夫人はアウグスト強王の目に止まり、言い寄られたものの賢い彼女はそう簡単にアウグスト強王の意に添わなかった。この為、強王は彼女に誓約書を手渡す。
誓約書には強王の王妃が亡くなった際はアンナを王妃にすると云うものでした。こうして強王は漸くコーゼル伯爵夫人を手に入れる事ができた。
その後、新しい寵妃ができ、二人の間が冷えると、政治的な口出しが王には目障りになり、強王は以前に手渡した誓約書を取り戻す算段をした。
当然、アンナはそれを拒否したので、強硬手段をとることになった。それが以下につながる話である。
コーゼル伯爵夫人は大北方戦争(1700~1721年、スウェーデンと反スウェーデン同盟;北方同盟を結成した諸国とが、北欧、中欧、そして東欧におけるスウェーデンの覇権と争った戦争)や、ポーランドに対するアウグスト強王の政治・外交に意見や干渉をしすぎた為、王や側近たちの政治的思惑から、又、同時に王に新しい寵妃ができた事もあり、その地位を追われた。
1713年、ドレスデンのSchloss Pillnitzピルニッツ城に送られた。
ドレスデンからエルベ川を10km程上ったかつてのピルニッツ村の川畔に立つ優美なバロック宮殿Schloss Pillnitzはアウグスト強王が当時、愛妾であったコーゼル伯爵夫人に、この宮殿を贈り、自らも避暑がてらドレスデンの宮殿からゴンドラ船を仕立てて、この宮殿に通ったそうです。
1715年、コーゼル伯爵夫人は突然、プロイセンか、ロシアに逃げようとした。
(シュトルペン城の展示で見たマイセン磁器“伯爵夫人の脱走”の作品)
当時、ザクセン兵がプロイセンに脱走すると、送り返された後処刑されていた。彼女の脱走はそれと等しく、国家反逆罪で逮捕された。アウグスト強王にとっては痛手であったが、決断した。
1716年、クリスマス後の26日、病気で1カ月滞在していたSchloss Nossenノッセン城から、コーゼル伯爵夫人はBurg Stolpenシュトルペン城に護送され、その後の人生をこの城内で過ごした。
彼女が国家機密を知っていた事もあって、最初の内は厳しい監視下に置かれていたが、時が経つうちに城内を歩きまわる自由が持てた。
ついで城内の城主の部屋で生活もしていたが、城の補修費用が不十分になった理由で、居住地域で生活することを禁じられた。
最後の2年間はヨハネの塔に移った。人々はこの為、ヨハネの塔をコーゼルの塔と呼んだ。36歳の時から、49年を幽囚され、1765年3月31日に死去。
享年85歳であった。
そうした彼女が失脚した後の人生をどう思っていたのか?他人にはうかがい知れないのですが、王の寵を受け、華やかな宮廷生活にあり、しかもその言が重く用いられたといった過去と現在の幽囚生活との大きな落差を思えば、相当な精神的苦痛があったことでしょう。
それを乗り越えた49年の幽囚生活に、しかも当時としては(今もそうですが)85歳という高齢まで生きぬいた事に、コーゼル伯爵夫人のすごさを感じるのです。
コーゼル伯爵夫人の幽囚前半の日常生活は人間的な楽しみからは隔絶したものであり、最初の頃は誰とも口をきくことを禁じられたそうですから、良く耐えたと言えましょう。
当時の伯爵夫人にとり、食料、身の回り品などは自弁であったと書いてあり、彼女は財産家であったとかで、資金的には不自由はしていなかったようだ。
幽囚が長くなるとともに成長した子供たちに会う事や手紙のやり取りも許されています。
アウグスト強王が亡くなった7年後、コーゼル夫人が60歳になった頃には城内を散歩する事も許され、小さな庭を自ら耕作するもできた。更には、知人、子供たち、主治医、財産管理人の訪問を受ける事も許されたとあります。
彼女の蔵書はおよそ3000冊もあったとか。コーゼル伯爵夫人は当時の女性としては聡明で、識見も高かったようで、幽囚中は聖書を読み、新旧のキリスト教にも詳しかったと云われている。
・・・が、死ぬ直前にキリスト教徒をひどく非難し、宗教儀式をののしったとも、書かれていて、その死に際し、彼女はどのような宗教観、信仰を持っていたのか?と、読んだ小冊子中で指摘されている。
そうしてみると老齢になっても達観していなかったかもしれません。むしろ人間として当然の気持ちとして、自らの境遇を歎き、恨んでいたかもしれません。
その気持ちが逆に長生き出来た理由かもしれない。
コーゼル伯爵夫人の最後の年も塔内の部屋に住み、その小さな部屋には絨毯もなく、2つの古い、汚れた椅子、ちいさな、ひどい木の机、大きな木の寝台、夫人用の椅子、2つの古い羽毛入りクッション、暖炉、中央の天井から吊り下げたランプ、壁には古びた時計が掛っていたと小冊子に書かれています。
その侘しい、寒々とした様子が窺われる。
アウグスト強王が1733年に死去したにも拘らず、王の後継者・唯一の嫡出子アウグスト3世(王妃クリスティアーネ・フォン・ブランデンブルク=バイロイトの子)はこの幽囚を解いていない。
何故、強王の死後も幽閉が続いたのか、彼女のような、一種の政治犯は強王の死去の時点で通常は自由になりそうですから、とても不思議に思える。
真実かどうかは分かりませんが、そのあたりの事情を書かれているのを見つけた。
XXX
1733年の強王の死後、いわゆる某から、”幽囚から自由の身”にとの申し出があったと云う。しかし、彼女はシュトルペン城に留まる事を選んだそうだ。
歴史の証言は何も残っていないが・・・。
また、歴史上、Friedrich der Grosseフリードリヒ大王と称されるプロイセンの王・フリードリヒ2世( 1712年~1786年)は7年戦争(1756‐1763年;Siebenjaehriger Krieg、はプロイセンとイギリスと、オーストリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争である)の最中の1760年、ドレスデンを攻撃し、破壊している。この時、人口の3分の1が失われたそうだ。
その大王がザクセンを占領していた時期、コーゼル伯爵夫人に対し恩給(あるいは賄い料・食費)を支給したとある。
・・・・・
前半部分ではコーゼル伯爵夫人の毅然とした精神、または達観した所も見て取れる。
後半部分は政治的思惑があって支給したのか?分からないが、強王に対峙したプロイセンからコーゼル伯爵夫人が支援されたのも、歴史は面白いものだ。
幽囚の起因になったのもポーランド王問題が背景にあったわけで、コーゼル伯爵夫人がプロイセンの支援を受けた事はザクセン人にとってみれば、度重なる裏切り行為に思えたことでしょう。
今は観光客が年間凡そ14万人を数えるそうで、そのザクセン人も観光、お土産の「種」にしているのも皮肉ですね。
写真はシュトルペン城・コーゼルの塔内:強王の Maetresseメトレッセ(愛妾)であった美形のコーゼル伯爵夫人 -
さて、ちょっと思い入れもあったシュトルペン城を菜の花畑の先に遠望してから、ザクセンワイン街道というか、“ザクセンのスイス”に向かう。途中の道から遠く見たバスタイは逆光の中、霞んで見える。
19kmでBasteiバスタイの駐車場に着いた(12:30・Euro3)。
<ザクセン・スイス地方観光>
Nationalpark Saechsische Schweizザクセン・スイス国立公園:
Elbsandstein-Gebirgeエルベ砂岩山地であるザクセン・スイス国立公園には息を呑むほどの奇妙な形の岩がそびえ立つ峡谷が続いている。
巨石群バスタイとバスタイ橋、Liliensteinリリエンシュタイン百合の岩、Festung Koenigsteinケーニヒシュタイン要塞(後述)などが代表的なものだ。
【Basteiバスタイ】
12:30~~14:30
駐車場から、御者の掛け声に誘われて、つい乗ってしまったのは乗合馬車(Euro3)、10人ほどの乗客がいっぱいに乗るまで待っていた御者は、大声でパノラマを連呼する。森の道をBerghotelベルクホテルまでの短い距離を乗っただけで、バスタイのパノラマを見ながら走るわけではなかった。
小父さんが幻想を売っていたのだ。
とはいえ、巨石群バスタイの景観とエルベ川を下に臨む光景はやはり美しい。ともかくにも私共にとっては写真で見たバスタイではなく、実感としてのバスタイがそこにあった。
バスタイ地方は19世紀以来、ハイカーや登山家に人気があった所で、奇妙な形の岩がそそり立つ景観を楽しんだそうである。現在、エルベ川の渓谷から見えるエルベ砂岩山地の眺めは世界的にも知られて、毎年の観光客も多い。
エルベ川クルーズも、バスタイ橋も観光客に大変人気が高いが、ベルクホテル近くの突き出た展望台からバスタイの奇観を見たら、お尻がむずむずして、もう十分の気分になった。
写真は巨石群バスタイの景観 -
イチオシ
【Festung Koenigsteinケーニッヒシュタイン大要塞】
D-01824 Koenigstein
http://www.festung-koenigstein.de/
ドレスデンからチェコ国境に至るエルベ川流域は”Saechsische Schweizザクセンのスイス”と呼ばれる景勝の地である。このあたりはElbsandsteinエルベ砂岩の山塊が続き、川による侵食で所々に台地が残り、独特の美しい景観を造っている。
そのエルベ川が湾曲するあたりに巨大な台地・ケーニッヒシュタイン“王の岩”とも称されるものがあり、台上(海抜361m)は広さ9.5haもある。
ドイツ最大の要塞として、750年間の歴史的な建物が30も建っている。
後期ゴシック、ルネッサンス、バロック、19世紀の様々な時代の集合である。
古くはゲルマンの一部族が台上に拠点を設けていたと云われ、最も古い歴史文書には1233年Gerhard von Steinゲルハルト・フォン・シュタインにより城郭が築かれたとあるそうだ。
中世当時はチェコのボヘミア王の支配下だったが、15世紀の初めより、ザクセンの領主の所有となっている。1516年、台上に”奇跡のマリアを称賛する”僧院がBaertigenのGeorg公によって設けられた。
1589年にはザクセン選帝侯Christian1世が大要塞を完成させる。このザクセン王国の時代には首都ドレスデンの防御として、重要な拠点となり、ヨーロッパ内でも最強の要塞と謳われたと云う。16世紀の終わり頃から20世紀(第一次・第二次世界大戦)に至るまで、しばしばここは戦時捕虜の収用所や政治犯の牢獄として使われることになる。
1806年ナポレオンの台頭によって、ザクセン王国は彼の支配下になり、1813年にはナポレオン自らが要塞の視察を行った。要塞はRheinbundライン同盟(連邦とも言い、ナポレオンを盟主とした南ドイツ諸邦の連合体で、プロイセン・オーストリア連合に対抗したもの)のものとなる。
1955年には軍事博物館が開設され、1989年のベルリンの壁崩壊後はザクセン州の所有となり、2000年には民間所有と変わっている。
この長い歴史の中で、不思議なことに築城した思惑とは異なり、HPを読む限りはこの要塞が大きな攻防戦を戦ったという記述が無い。
写真は2001年5月8日ゲーテ街道・古城街道の旅:Festung Koenigsteinケーニッヒシュタイン大要塞、Schloss Moritzburgモーリッツ城(右下)ケーニヒシュタイン城塞 城・宮殿
-
<2001年5月8日の大要塞見学>
10:30~13:25 、DM16
城内めぐり見物(Zum Rundgang)には66のポイントがあり、最短2時間は必要らしい。城内には橋を渡って、城門をくぐって行く道とチケット販売所傍に岩壁をくりぬいたエレベーター(1970年完工)があり、昇りは楽なこれにした。
崖上にそびえる13世紀に造られた城砦。9.5ヘクタールの敷地内に武器博物館など30以上もの建物がある。
台上に上がると一気に展望が開けた。
要塞からのザクセン・スイス地方とボヘミア中央山塊の眺めは一段と素晴しいものがある。
写真は2001年5月8日ドレスデンとモーリッツ城 -
<城内めぐり>で選択して見たのは次のような場所だ。
①見張りの塔(1601、1600年)、
②兵営、
③29エレベーター、
④突出した岩壁角、
⑤クラニッヒ台地、
⑥世紀から使用されたパン工房、
⑦旧武器庫(1594年)、
⑧Koenigsnase“王の鼻”と呼ばれる東に突き出た岩壁角、
⑨雷痕の高台(300年もの歳古びた樫の木にしばしば雷が落ちたという。)、
⑩Friedrichsburg(見張りの塔として、1589年に建設。1731年にバロックの円形建物に改築され、現在は事務所に利用されている。ここからの景色は絶景で、エルベの向こうには砂岩の台地“Lilienstein百合の岩”が見えて、雄大な美しさを日の光の下で見てみたかった。)、
⑫Hungerturm(飢えた塔・見張りの塔であったと云う。)。
これで2.2kmの城壁を巡る散策が一巡する。この散策はたいへん魅力的で、台上の森や庭園、そしてElbtalエルベ渓谷を眼下に見ることができた。
写真は2001.05.08.ザクセンのスイス:ケーニッヒシュタイン大要塞 -
要塞の中央には
⑬Magdalenenburg(1621年ルネッサンス様式の小城。アウグスト強王の命により、1725年に238,000Lが入る巨大なワイン樽が造られ、地下貯蔵庫に置かれたという。1818年防弾対策された食糧倉庫に建替えられた。)、
⑭Brunnenhaus井戸の小屋(1563年要塞にとって最重要の水を確保するために、152.5mもの深い井戸が掘られた。最初は巻き上げ機によったが、1912年になって電気仕掛けになった。1998年以来、“水汲みショー”が行われている。この日も大勢の観光客が詰め掛けていて、残念ながら私共は断念した。)、
⑮Schatzhaus宝物館(ザクセン王国の宝物の貯蔵庫。金貨を入れた樽が展示されていた。)、
⑯新武器庫(1631年、ザクセンの記念物を飾る催し場として建設。今は1806~1945年の要塞建設や軍事史の展示や、Bundeswehrドイツ軍の軍事博物館として大砲などの武器の陳列場となっていて、興味深い。)、
写真は2001.05.08.ザクセンのスイス:ケーニッヒシュタイン大要塞 -
⑰司令官の家(司令官家族の私室には19世紀の家具。)、
⑱Georgenburg(中世当時の城郭。1619年に改築し、最初は狩猟の館に、後に国家の政治犯の収容に使用された。)、
⑲Torhaus(1589年、東の昇り口にあたる台上に建てられた。要塞の中心になる建物。この建物下に暗い通路があって、城門に至る。)、○4Torravelin城門(1590年)、
⑳Rothe Bruecke赤い橋(入口に架かる橋。レンガの色からこの名がついた。)
などを見て回ったが、とても2時間どころではなく、昼食もせずに歩いたが、3時間もかかってしまった。
近くの保養地にでも宿泊して、ここもさることながら、ザクセンのスイスといわれる渓谷美を堪能して見たかった。
写真は2001.05.08.ザクセンのスイス:ケーニッヒシュタイン大要塞
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参考;
【Schloss Sonnensteinゾンネンシュタイン城】
D-01796 Pirna、 Schlosshof 2-4
ピルナの旧市街の高台に築城されたゾンネンシュタイン城は現在も部分的に要塞の形を残す城である。
1269年、Stolpenシュトルペンからチェコのプラハの道、ケーニヒシュタイン要塞からマイセンへの道の防御・備えの城・要塞であった。
現在は改装され、行政の事務所などに利用されている。
写真はPirnaピルナ:旧市街の高台に築城されたゾンネンシュタイン城(改装中)
(2011.08.29.) -
イチオシ
【Schlosshotel in Sachsenザクセン州の古城ホテルを楽しんだ】
um sich in Schlossherr oder Burgfrau zu verwandeln
(城主や城主夫人になって:2011年5月の旅)
尚、先に書いたBurghotel Gnandstein古城ホテル ブルクホテル グナンドシュタイン(Cafe Restaurant Hotel)は、この項では除外した。
*本編で掲載した古城ホテルも、ちょっと覗いてみたが、コロナ禍の中で、やむなく閉鎖してしまった所も出ているようだ。誠に残念である。
【Hotel Schloss Eckberg古城ホテル エックベルク城】
D-01099 Dresden 、Bautzner Strasse 134
http://www.schloss-eckberg.de/
http://www.schloss-eckberg.de/vrtour/html/de/vr_tour.swf
5星・全84室。このホテルはElbeエルベ川の上流、ドレスデンの旧市街とWeisser Hirsch白鹿地区の間に立地し、そこには緑地庭園にあり、昔からある木々に囲まれた豪華な5星ホテルである。
門からエックベルク城のホテル本棟まで数百メートル入っていく。
左に噴水のある小さな池、右手にホテルの別棟Cavalier's Houseキャヴァリアーハウス(騎士の家)が立ち、駐車している車も多い。
週末だけに食事に来る人も多いようだ。
2011年5月21日~23日、旧東独の旅で2泊した。その旅行記には;
410号室(3階)Junior -Suite im Turmzimmerジュニアスイート(塔内の部屋) ;Euro223x2=439(51,402円) Euro323x2=646 (*Arrangement:Dresdner Wochenendeドレスデンの週末:後述)
エックベルク城は歴史ある宮殿を利用したホテルで、1997年以来の家族経営。
この古城ホテルの静穏で高級な雰囲気と魅力的な庭園は特筆もので、川岸に面した本館や、あるいは美しいCavalier's Houseキャヴァリアーハウス(騎士の家)のエレガントな客室に滞在することができ、スパエリアも備わっている。
駐車場は無料。
市電の停留所はホテルからわずか150mにあり、そこからドレスデンの旧市街へ15分の距離である。
Restaurant Wintergartenヴィンターガルテン冬の庭(温室)、historischen Gartensaal歴史あるガルテン広間、holzgetaefelten など。
客室数:84(本城内17、騎士の家に67)。
薬剤師 のマイエンブルク家のオットーマル・ハインシウス(1865?1932)が歯磨き粉の開発・販売で得た大きな富で、1926年、エックベルク城を購入し、居住した。
その後、弟のゲオルクが所有し、あまり必要性のない増築・改造をしたとも云われている。
何度か、所有者が代わったが、1994年、ミュンヘンの不動産グループARGENTAアルゲンタが所有し、城の改修を行い、公園(1997年)を造った。
現在はイタリアのインテリアデザイナー・Danilo Silvestrinダニーロ・シルヴェストリンによって設計された最高級ホテルとなっている。
*"Dresdner Wochenendeドレスデンの週末":
Leistungen;サービス内容
2 Uebernachtungen incl. reichhaltigem Fruehstueck vom Buffet2泊 、朝食ビュッフェを含む
***
Eine Flasche Champagner im Zimmer 部屋にシャンパンのボトル1本
***
Saechsisches 3-Gang-Menue mit Begruessungscocktail ウェルカムカクテルとザクセン料理3品
***
5-Gang-Gala-Menue 5品料理
Preise pro Person im Doppelzimmer incl. gesetzlicher MwSt.:
im Schloss Euro298 、im Kavaliershaus im Park Euro 236 、Preisaenderungen vorbehalten
1人の料金 、付加価値税込:
城内泊スタンダードEuro 298.00 、塔内の部屋(Junior ?Suite)Euro 323.00、騎士の館内泊Euro 236.00 (価格は変更されることもある)
写真はHotel Schloss Eckberg古城ホテル エックベルク城の玄関正面ドレスデンの近郊、エルベ川畔に立つチューダー様式の5星古城ホテル エックベルク城 by jijidarumaさんHotel Schloss Eckberg ホテル
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エックベルク城の歴史:
エックベルク城はドレスデンのエルベ川右岸にあるヴィラであり、エルベの三つの小城(その他の二つはSchloss Albrechtsbergアルブレヒトベルク城、Lingnerschlossリングナー城)の一つと称される。
このテューダー様式の城は1851年から61年にかけて、大商人Jean Daniel Souchayジーン・ダニエル・ソルカイが建築主として発注し、Fabrikantenvillaファブリカンテンヴィラ(つまり工場主のヴィラ)と言われる建物を、ドレスデンの建築家Christian Friedrich Arnoldクリスチャン・フリードリッヒ・アーノルド(ドレスデンゼンパーオペラ劇場の建設者ゼンパーの弟子)の設計で、岩壁の張り出し部分に建てた。
写真はHotel Schloss Eckberg古城ホテル エックベルク城:門からのホテルまでの道 -
【Taschenbergpalaisタッシェンベルク宮殿】
D- 01067 Dresden 、Taschenberg 3
http://www.kempinski.com/de/dresden/Seiten/Welcome.aspx
7年のもの間、アウグスト強王の寵愛を一人占めしたと云われている、コーゼル伯爵夫人の宮殿である。
1705 ~1708年にかけて、アウグスト強王は彼女の為に新たにTaschenbergpalaisタッシェンベルク宮殿を建造し、これを与えた。
王のレジデンツ・シュロス王宮と新宮殿は2階につけられた空中回廊によって結ばれていたと云う。
ドレスデン・バロック様式の宮殿であったが、1945年、大空襲を受けて罹災している。
1995年3月、新たにバロック様式のホテルとして再建された。
現在、ツヴィンガー宮殿前にある、ドレスデンの最高級ホテルであり、総数215室(内32のスイート)の5星のホテルで知られるKempinski Hotel Taschenbergpalaisケンピンスキーホテルである。
2001年は市内の真ん中のホテルを敬遠し、古城ホテル エックベルク城を選んだが、レンタカーでなければ、こちらに泊まっても良かった。
写真はTaschenbergpalaisタッシェンベルク宮殿:現在は5星のKempinski Hotelケンピンスキーホテルである。ホテル タッシェンベルクパレス ケンピンスキー ホテル
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写真はタッシェンベルク宮殿ケンピンスキーホテルと空中回廊:王のレジデンツ・シュロス王宮とタッシェンベルク宮殿は2階につけられた空中回廊によって結ばれていたと云う。
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<アウグスト強王とコーゼル伯爵夫人の間に生まれた子供は?>
愛妾の内で最も長い7年(離婚後の1706~1713年・・・1704年からとする説もあるが)のもの間をアウグスト強王の寵愛を得ていたコーゼル伯爵夫人には、二人の娘(後に二人とも伯爵家に嫁ぐ)とニ人の息子(一人は早世し、もう一人は後にザクセン護衛部隊(近衛連隊)の司令官)が生まれている。
アウグスト強王が正式に認知した9人の子供たちの内、若い頃の愛妾ケーニヒスマルク伯爵夫人の子であったヘルマン・モーリッツ・フォン・ザクセン伯爵は独自に道を開いた感があるが、49年もの長い幽囚の憂き目を受けた愛妾コーゼル伯爵夫人が生んだ3人の子供たちには、強王は格別の処遇をしたように思われる。
1724年8月、強王はコーゼル伯爵夫人の3人の子供たちを其々伯爵・伯爵夫人の称号を与えた。そして強王は3人の子供たちには立派な結婚式を挙げさせ、きちんと面倒をみたようである。
コーゼル伯爵夫人の息子、Graf Friedrich August von Coselフリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵 (1712~1770年)は母方の遺産Gute Depenauグート・デペナウを得た事、Schloss Sabor in Schlesienシュレージエンのサボル城を購入。
1749年、Schloss Baerensteinシュロス・ベーレンシュタインの相続人であるGraefin Friederike Christiane von Holtzendorffフレデリカ・クリスティアン・フォン・ホルツェンドルフ伯爵夫人(1723~1793年)と結婚した。
1762年からドレスデンにCoselpalaisコーゼル・パレス(宮殿)を建設。
1770年、夫のフリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵の死去。その後、1783年にフレデリカ・クリスティアン伯爵夫人は、フランスの元帥ニコラウス・フォン・ラックナーにグート・デペナウを売却した。
<Coselpalaisコーゼル・パレス(宮殿)>
Grand Cafe & Restaurant
D-01067 Dresden 、An der Frauenkirche 12
営業時間は毎日 11:00~ 23:00時
ロゴによると1765年以来とある。
コーゼル・パレス(宮殿)と言うと、人は息子のコーゼル伯爵ではなく、あの有名なアウグスト強王の愛妾コーゼル伯爵夫人を思い浮かべる。
が、彼女にとっては無関係の場所だ。コーゼル伯爵夫人が住んだのはかつてのタッシェンベルク宮殿(現ケンピンスキーホテル)であり、ドレスデンの東にある夏の離宮のピルニッツ宮殿でした。
息子のコーゼル伯爵はシュトルペン城で母の墓石を立てる事は許されなかったが、Coselpalaisコーゼル・パレスと呼ばれた宮殿の建築主にはなれた。
唯、彼も母方の遺産Gute Depenauグート・デペナウのように、実質的にコーゼル・パレス(宮殿)に住んだことが無かったと云うから、この宮殿はコーゼル伯爵夫人であれ、息子のコーゼル伯爵であれ、その名前だけが残り、実質が伴わなかったようだ。
コーゼル・パレス(宮殿)は聖母教会の傍にあったので、今回の旅では目に入ったものの、そのまま“君主の行列の壁画”を見る為に通り過ぎてしまった。
コーゼル・パレス(宮殿)を詳しく知っていれば、お茶でも飲んだかもしれない。
・・・・・
写真はエックベルク城 -
【Schloss Pillnitzピルニッツ宮殿】
D-01326 Dresden 、Schloss Pillnitz 、August-Boeckstiegel-Strasse 2
http://www.schloesser-dresden.de/
1721年にザクセンのアウグスト強王の夏の宮殿として建てられた。ドレスデンからエルベ川を10km程上った、かつてのピルニッツ村の川畔に立つ、優美なバロックの宮殿である。
門を入って上手にBergpalais山の宮殿、下手にWasserpalais水の宮殿があり、どちらも中国風に建てられたのだと云う。そう見えぬでもないが・・・。真中には噴水のある池とLustgarten遊園で彩られている。
アウグスト強王と愛妾コーゼル伯爵夫人が歩いただろう美しい、広大なSchlosspark庭園も宮殿横に見られる。庭園には250年の樹齢と云う日本種のKamellie椿もあるそうだ。
写真はSchloss Pillnitzピルニッツ宮殿:山の宮殿ピルニッツ城 城・宮殿
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アウグスト強王は当時の愛妾であったコーゼル伯爵夫人にピルニッツ宮殿を贈り、自らも避暑がてら、ドレスデンの宮殿からゴンドラを仕立てて、この宮殿に通ったと云う。
水の宮殿の裏手にエルベ川から上陸する階段が残っており、ここから強王は船を下り、宮殿に上がった。
今もドレスデンから外輪蒸気船の便が出ているそうである。
写真はSchloss Pillnitzピルニッツ宮殿内 -
【Schlosshotel Dresden -Pillnitz 古城ホテル ドレスデン - ピルニッツ】
D-01326 Dresden 、August - Boeckstiegel - Strasse 10
http://www.schlosshotel-pillnitz.de/
4星・全45室。Euro127、135。
18世紀のピルニッツ宮殿の敷地内に立つツエップ家により個人経営されている古城ホテル。
ザクセン州の州都であるドレスデンのザクセン王家の絵のように美しい、かつての夏の離宮であった古城 & 古城庭園の中にあります。それはエルベ川側の美しい環境にあり、ブドウ畑と果樹園に囲まれている。
修復されたばかりの古き良きヨーロッパ情緒の残る館となっている。
ここも宿泊先として検討したが、好みとしてはSchloss Eckberg古城ホテル エックベルク城の方が優っていた。
写真はSchlosshotel Dresden -Pillnitz古古城ホテル ドレスデン - ピルニッツ
・・・・・ザクセン王家の夏の離宮・ピルニッツ宮殿前に立っている古城ホテル ドレスデン - ピルニッツ by jijidarumaさんシュロス ホテル ドレスデン ピリンツ ホテル
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以下の様々な古城ホテルは宿泊先の候補として参考に纏めたものだ(HP参照):
Schloss Wackerbarth古城ホテル ヴァッケルバルト城:
D-01445 Radebeul 、Wackerbarthstrasse 1
http://www.schloss-wackerbarth.de/
4星・全16室。
神聖ローマ帝国直属の貴族のクリストフ・アウグスト・ヴァッケルバルトが1727年にナウンドルフの司教区に開いたぶどう園と城。
しかし、1808年には歴史家でアートコレクターだった城の建築主のアウグスト・ヨーゼフ・フリードリッヒ・ヴァッケルバルトは破産した為、甥が受け継いだ。
いろんな人の手に渡り、一時は荒廃したぶどう園だったが、2002年にイーブリン・シュミットによりぶどう園としても、また観光地としても大成功を収め、今ではザクセン州随一美味しいワインが獲れる場所に変った。
ガストハウスが併設されている。
写真はBurg Schoenburgシェーンブルク城
D-06618 Schoenburg 、Burg 1
http://www.burg-schoenburg.de/ -
Schloss Scharfenberg古城ホテル シャーフェンベルク城:
D-01665 Klipphausen 、Schlossweg 1
http://www.schloss-scharfenberg.de/
?星・全13室。ドレスデンとマイセンの中間にエルベ川を見下ろす高台に立っている。
938年にこの地にスラブ人の植民地をScharfenbergシャーフェンベルク家が開拓した。
1403年以来、ザクセンのMiltitzミルティッツ家が、この城を所有。30年戦争の1645年ではスウェーデン軍に攻撃され、城の一部が破壊された。
1654年にはHaubold von Miltitzハウボルト・ミルティッツが、城をルネッサンス様式に再建した。19世紀の初めには、この城にもドイツロマン主義の息吹が起こった。
1800~1824年の間に、Dietrich & Karl Borromaeus von Miltitzディートリッヒ及び、カール・ボロマウス・ミルティッツのもとに文化人たちが集った。
初期ロマン主義の中心人物である詩人・小説家のNovalisノヴァーリス(本名;Friedrich von Hardenbergフリードリヒ・フォン・ハルデンベルク)、小説家のFriedrich de la Motte Fouquéフリードリヒ・ド・ラ・モット・フーケ、Johann August Apelヨハン・アウグスト・アペル、E.T.A. Hoffmannエタ・ホフマン、Theodor Koernerテオドール・ケルナーなどの文化人である。
Gert Lippold.ゲルト・リッポルトが1997年、シャーフェンベルク城を購入し、改装して、レストラン・ホテルを開業した。
写真はBurg Schoenburgシェーンブルク城:古城はザーレ川から40mの砂岩上に立っている。この城の眼下にザーレ川がゆったりと流れ、遥か遠く、ナウムブルクの有名な大聖堂の姿も見え、ブドウ畑も加わった景観は見事なものである。 -
Pension Jagdschloss Herzogswalde古城ホテル ヘルツォグスヴァルデ狩猟城館
D-01723 Herzogswalde 、Hauptstrasse 13
http://www.pension-jagdschloss.de/
?星・全?室。情報は殆んどない。人口700人。
1445年、Familie Schoenbergシェーンベルク家が Herzogswaldeヘルツォグスヴァルデ と Limbachリンバッハを取得します。
1813 年 11 月 11 日、ヘルツォグスヴァルデにてナポレオン解放戦争の一過性の出来事があった。オーストリア帝國大佐 Rothkirchロートキルヒ、ロシア帝國の大佐 Murawiew ムラミエフと、フランス帝國の大佐Mariou und Perrinマリオとペリンとで降伏協定文書を取り交わしたと公表した。但し、批准されずに、幻に終わったと云う。
19 世紀の初め、シェーンベルクの領主がネオ ・ ゴシック様式の城を建てた。
写真はBurg Schoenburgシェーンブルク城:16世紀の建物内にはBurgschaenkeブルグシェンケ(食事処)があり、昼食をとった部屋Die Gaststubeガストシュツーベにはこの城の歴史が壁面にフレスコ画で描いている。 -
Schloss Reichstaedt古城ホテル ライヒシュテット城:
D-01744 Reichstaedt 、Am Schloss 1
http://www.schloss-reichstaedt.de/
?星・全6室。ドレスデンから南に22 kmの距離にある。
1336年、Herren von Reichenstadtライヒシュテットの騎士領主の居城になった事が文書に記されていた。
1535年、城主Heinrich von Maltitzハインリッヒ・マルティッツが、水城に造り変えた。1569年にはKurfuersten August I von Sachsenザクセン選帝侯アウグスト1世が狩猟城館とした。
30年戦争でHeinrich Graf von Holkハインリッヒ・ホルク伯の軍隊が城の一部を破壊。1639年にHeinrich von Taubeハインリッヒ・タウベが城を再建した。
1717年には城主のGottlob von Nostitz ゴットロブ・ノスティッツは姉のCharlotte Christiane von Nostitzシャルロッテ・クリスティアーネ・ノスティッツ(Caspar Abraham von Schoenbergカスパー・アブラハム・シェーンベルクの夫人)城を売り渡した。
この後、ザクセンでも知られたFamilie Schoenbergシェーンベルク家はライヒシュテット城を1945年まで所有し、1998年にDr. Ilse von Schoenbergイルゼ・シェーンベルク博士が再び所有することになる。現在、城は改装され、古城ホテルになっている。
写真はEckartsburgエッカルツブルク城
D-06648 Eckartsberga 、Eckartsburg
http://www.eckartsburg.de/ -
Schlosshotel Gaussig古城ホテル ガウシッヒ城:
D-02633 Gaussig 、An der Kirche 2
http://www.schloss-gaussig.de/
4星・全16室。
1245年に騎士の居城が建てられたのが始まりである。
1700年頃、ドレスデンの宮廷の廷臣であったNeitschuetzナイツシュッツ家、帝国伯Heinrich von Bruehlハインリヒ・ブリュール、ロシア大使だったHermann Carl Graf von Keyserlingkヘルマン・カール・ケイザーリング伯などにより、大規模のバロック風城館となっていった。
2005年にはアンドレアス・ブリュール伯爵により城・庭園が改装され、古城ホテルとして経営されている。
写真はEckartsburgエッカルツブルク城:レストランRittersaal騎士の間 -
Schlosshotel Althoernitz古城ホテル アルトヘルニッツ城:
D-02763 Bertsdorf-Hoernitz 、Zittauer Strasse 9
https://www.schlosshotel-althoernitz.com
3S星・全74室。Bertsdorf-Hoernitz ベルツドルフ・ヘルニッツは人口2300人の村。Goeritzゲルリッツの南西34kmにあるZittauツィッタウの町には6km、もうチェコ国境に近い。ドレスデンから100km離れた、3万㎡の庭園の中に古城ホテルがある。
この城はZittauer Buergermeister Dr. Christian von Hartigツィッタウの市長クリスチアン・ハイティヒ博士が1651~1654年にかけて建てた。この博士は錬金術実験で知られ、マイセン陶器の生みの親とも云われているらしい。
ヘルニッツ城の古い塔の下は十字形のドームに覆われていた。ここでハイティヒ博士の息子Jakobヤコブが、凹面鏡発明者であり、マイセン磁器の創始者であるEhrenfried Walther von Tschirnhausエーレンフリート・ヴァルター・チルンハウスと共に錬金術の実験を行っていた。所が、研究室が火事になったので、ヤコブは逃げてしまい、この事に驚き怯えた村人達は“魔術師チルンハウス”を村から追放してしまったと云う。
ともあれ、マイセンの陶磁器の開発にとって、重要な議論や実験がヘルニッツで行われた事は確かな事でしょう。その後、チルンハウスがJohann Friedrich Boettgerヨハン・フリードリッヒ・ベトガーに助言をして、ベトガーがヨーロッパにおける磁器の発明者として知られる事となった。つまり、マイセン陶磁器の製造者としてその名が残っている。
ヘルニッツ城はハイティヒの家系が1771年まで続いたが、その後は城主がしばしば代わって行った。DDR時代(1948~1991年)は自由労働者組合の休暇施設に利用されていた。
1993 年に信託財団が城と庭園を取得し、16ヶ月をかけて改装・改築を加え、1996 年 2 月にホテルは開業された。
写真はSchloss Marienthal古城ホテル マリエンタール
D-06648 Marienthal 、Kastanienallee 15
http://www.schloss-marienthal.de/ -
Fledermausschloss Weissig ノネズミ城 ヴァイシッヒ:
D-02999 Lohsa 、Am Eichberg 24
http://www.fledermausschloss.de/
3星・全12室。700ヘクタールの英国風庭園の中に古城ホテルがある。
20世紀の初めに、Steinitz-Kolbitzシュタイニッツ・コルビッツ家の狩猟城館として建てられた。1921年にSchoenburg-Waldenburgシェーンブルク・ヴァルテンブルクの王子、ヴァイシッヒがこの城館を購入しているが、翌年には最後の城主になったベルリンの弁護士Adolf Oerenアドルフ・オーレンに譲渡している。
1996年、Liepertリーペルト夫妻が購入し、1年以上をかけて城館を改装し、1998年にホテルを開業した。
写真はSchloss Marienthal古城ホテル マリエンタール:ドーム2階のスイート -
Schloss Wurzen 古城ホテル ヴルツェン城:
D-04808 Wurzen 、Amtshof 2
http://www.schloss-wurzen.de/
3星・全14室。Leipzig中心から東に車で20分、約26km。
城は町の歴史地区の、静かな町の中心の西側にある。近くにMarktマルクト広場、Dom聖堂、Muldeムルデ川畔がある。城内博物館あり。
15世紀末に、Johann von Saalhausenザールハウゼンの司教ヨハン6世が城を建てた。
1581年にはマイセンの司教の住居になり、1856年最後の司教はJohann IX. von Haugwitzハウグヴィッツ9世、彼は古いヴルツェン城で感謝祭を開いて退位した。
2002年にFamilie Wedekindヴェデキント家が城を購入。2003年に地下倉庫にレストランを開き、2004年にはホテルが開業した。
夕食はCandle Light Dinnerキャンドル ライトディナーのアレンジメントがあり、Turmzimmer塔の間で蝋燭の火で、或いはJagtzimmer狩猟の間で暖炉の火で食事をするかの、選択がある。
写真はSchloss Marienthal古城ホテル マリエンタール:庭園から見たドーム(2階がスイート) -
Schloss Wolfsbrunn古城ホテル ヴォルフスブルン城:
D-08118 Hartenstein 、Stein 8
http://www.gaestehaus-wolfsbrunn.de/
4星・全24室。ハルテンシュタインのツヴィッカー司教区にある。
Dr. Karl Georg Wolfカール・ゲオルク・ヴォルフ博士が 1912年にユーゲント(アールヌーボー)様式の城館を建てた。豪華なヴィラは6ヘクタールの庭園内に立ち、中世のBurg Steinシュタイン城やZwickauer Muldeツヴィッカー・ムルデ川にも近い。
旧東独時代は英語学校、軍の将校たちの病院になっていた。
1997年には5星の最高級ホテルと生まれ変わった。
写真はDie drei Dornburger Schloesser (ドルンブルクの3つの古城群)
D-07778 Dornburg
http://www.dornburg-saale.de/
公園の右手奥に赤い屋根、灰色の壁をした①ゴシック様式の城Alte Schloss;
城の起源は937年皇帝Otto Iオットー大帝に遡り、現在の姿は15世紀のもの。きれいに改装した後、Jena大学(現シラー大学と改称)の会議場施設になっている。
中央に青い屋根、ピンク、黄色の壁をした②ロココ様式のRokokoschloss;
Johann Wolfgang Goetheゲーテ(1749?1832)によって新しい城とも名づけられた、この城は三つの城の中で最も新しい。
ザクセン・ワイマール・アイゼナッハ大公のErnst Augustエルンスト・アウグスト公爵により、狩猟館もしくは別荘として、11年をかけて1747年に完工された。
城の成り立ちもあって、色鮮やかなFestsaalフェストザール(催しの広間)、マイセン磁器等、他の城より立派なものが展示されていた。
左手に白壁に風見鳥の塔を持つ③ルネサンス様式のRenaissanceschloss;
1540年に騎士の居城として建設された。その後、1824年ザクセン・ワイマール・アイゼナッハ大公のCarl Augustカール・アウグスト公爵が購入した。
1828年夏、ゲーテが最後に滞在した、質素なGoethezimmerゲーテの部屋もある。1766~1822年の間にゲーテはしばしば(20回を越える滞在と云う)この地を訪れて、詩作に励んだと云われている。 -
Hotel Schloss Schweinsburg古城ホテル シュヴァインスブルク城:
D-08459 Neukirchen / Pleisse bei Zwickau 、Hauptstrasse 147 ? 149
http://www.schloss-schweinsburg.de/
4星・全75室。グランドシティ ホテル&リゾートに加盟したホテル。ドレスデンから110km、ツヴィッカウから北西に15km。
12世紀後半、東方植民を目的にしたザクセン人入植者が昔からのスラブの地、Crimmitschauクリミッチャウに侵攻した。クリミッチャウの領主はザクセン人と話し合い、時の皇帝Otto IVオットー4世を仲介して二つの部族の領地にエルツ山を境に国境を設けることにした。
しかし、13世紀にクリミッチャウの支配者が死亡すると、そこにザクセン人の軍勢がなだれ込んだ。そして、ザクセンの前になすすべが無く、クリミッチャウは陥落した。
そこに城を築いた際に、シュヴァインスブルクの城の名前が使用されていた。
1743年、城主Berbisdorfベルビスドルフがバロック風城館に改築した。
1946~89年の間は、ドイツ共産党やドイツ社会主義統一党の党学校に使用された。
1998年、改装の後、今は立派な古城ホテルになっている。
写真はDie drei Dornburger Schloesser (ドルンブルクの3つの古城群)
D-07778 Dornburg
ルネサンス様式のRenaissanceschloss -
Schloss-gut-Hotel Joessnitz古城ホテル イェスニッツ城:
D-08547 Plauen-Joessnitz 、Schlossstrasse 2
http://www.schlosshotel-joessnitz.de/
3星・全8室。
1300年頃、Herren von Lobdaburg-Elsterbergロブダブルク・エルスターベルクの騎士領主が築城した。
この城は30年戦争中の1643年に火災で被害を受けたが、その後再建されている。
第二次大戦後の1947 年から 1973 年まで、城は学校の校舎に利用された。
その後、破損修理を行う資金不足の為、使用しないままにしていた。1992年にイェスニッツ城保存協会が設立し、漸く歴史的な建造物の改修・改装が可能になった。
1998年、ホテル・レストランが開業している。
写真はRudolstadtルドルシュタット・Schloss Heidecksburgハイデクスブルク宮殿
Thueringer Landesmuseum Heidecksburg
D- 07407 Rudolstadt 、Schlossbezirk 1
http://www.heidecksburg.de/ -
Schlosshotel Purschenstein古城ホテル プルシェンシュタイン城:
D-09544 Neuhausen/Erzgebirge 、Purschenstein 1
http://www.purschenstein.de/
4星・全48室。ドレスデンの南西70km、チェコとの国境沿いにある。
エルツ山地の美しい風景に囲まれるNeuhausenノイウハウゼンの古城ホテル。
1200年頃、Boresch Iボレシュ一世が塩をドイツ中部からボヘミア地方、プラハに運ぶ所謂、Salzstrasseザルツシュトラッセ(塩街道)沿いに、街道の防御の為に造った城と推測されている。
1289年にはプルシェンシュタイン城をMarkgrafen von Meissenマイセンの司教が所有し、その20年後には、城はFamilie von Schoenbergシェーンベルク家のものとなり、それを機にルネサンス様式の城に改築された。
30年戦争で破壊されると、1776年から1789年にかけてバロック様式の城に再建された。
1800年に落雷により火災にあい、またしても城は甚大な被害にあう。
そして、再建するも1842年にまたしても火災にあって、天守閣の古い部分が燃えたために、そこの壁を隠すように重ね、壁の厚さを13・14世紀の当初の壁より厚い2.8mにした。
1945年には旧東独政府に城は接収され、共産党員育成のための学校に使用された。
1989年にまたまた火事で罹災したが、2001年に再建し、2005年にオランダ人が購入し、4星のホテルをオープンした。
写真はSchloss Landsberg Meiningen古城ホテル シュロス ランドスベルグ マイニンゲン
D-98617 Meiningen 、Landsberger Str. 150
http://www.meininger-hotels-mit-flair.de/
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(2022年11月4日Wiki/Hp参考、訳、編集追記)
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