1977/12/31 - 1978/01/01
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【1977年のジルヴェスター(大晦日)は古城ホテル ダルベンデン城でダンスも出来ないのにSilvester Party ジルヴェスターパーテイに参加した。】
クリスマスやSilvesterジルヴェスター(ドイツ語で12月31日、大晦日=年越しの意味)にデュッセルドルフを離れて、フランスやドイツなどの古城ホテルで過ごした事がある。
我が家は娘二人(7歳と5歳)がいて、ことのほか、こうした旅を楽しんでいた。
写真は1977.12.31. ノルトライン・ヴェストファーレン州Nordeifel北アイフェル地方のKall-Urftカール・ウルフトの町(人口11千人)にある古城ホテル Burg Dalbendenダルベンデン城のSilvesterfeier (abend)ジルヴェスター パーテイ(大晦日の祝)に参加した。
ダルベンデン城の小さな城門を入ると、これも小さな塔が出迎えた。城内の暖炉の広間に宴の準備が用意されていた。
- 旅行の満足度
- 4.0
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<1977年のジルヴェスター(大晦日=年越し)>
1977年のジルヴェスター(大晦日=年越し)の日に、デュッセルドルフから車でそう遠くもないベルギーとの国境に近い村に出かけた。
この年はAral Auto Buchアラル・オート観光案内書1974・75年版(ドイツで初めて自動車免許証を取得した際に、御祝に頂いた)の地図から、古城ホテルの印を見つけ、小さな古城ホテルBurg Dalbendenダルベンデン城を訪れたのだ。
写真はAral Auto Buch1974・75古城ホテルの地図:古城ホテル ダルベンデン城は赤*印メディエンハーフェン 散歩・街歩き
-
ダルベンデン城のあるUrftウルフトは、ドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州の南西、ラインラント・プファルツ州とベルギー王国との境にあるKreis Euskirchenオイスキルヒェン地区Kall-Urftカール・ウルフトの町(人口11千人)の一地区で、人口は約340人の小村だった。
写真はAral Auto Buch1974・75Map:古城ホテル ダルベンデン城(右C2)モンシャウ(中央B1)、古城ホテル ダス ブルクハウスKronenburg(下C3) -
デュッセルドルフの南Bilkビルクから走り出して、凡そ100km、1時間の距離である。
途中、ケルンを左に見乍ら、ライン川沿いに南下し、ブリュール、オイスキルヒェン、バートミュンスターアイフェルと行く、A46=>E31・E29=>L115 Zingsheim・L22・L204経由で古城に今少しまで走った。
(因みにダルベンデン城から「アイフェルの真珠」と称えられる、美しい古都Monschauモンシャウまで、北西に車で42km、40分の距離だ)
写真はAral Auto Buch1974・75古城ホテルの一覧表:古城ホテル ダルベンデン城は赤*印 -
この古城ホテルに向かうL204村道(農道)で、道路の雪だったか、凍っていた道にスリップして愛車のオペルが畑に危うく突っ込みそうになった。
(デュッセルドルフ周辺はライン川の傍と云う事もあってか、雪が降る事は少ないので、普段からスノータイヤもチェーンも着けずに走っていた)
辛うじてブレーキがきいて停まったが、車体が畑側に傾いてしまった。
自力では車をバックできず、怖い思いをした家族を降ろし、私も困惑してどうしようと立っていたら、通りかかったドイツ人家族が親切にも声をかけてくれた。車慣れしたドイツ人は車に常備しているケーブルをトランクから取り出し、それを利用し、彼の車と私の車を連結させて、引っ張り揚げてくれたのでした。
情けないことに、動転していた私は助けてくれた彼の名前も聞かず、ありがとう!ありがとうと繰り返し、ろくにお礼の言葉も言えなかった思い出が残っている。この辺りは恥ずかしながら、「daruma外伝・恥ずかしながら:ドイツでドイツ人の緊急時に下駄を履く!」の話に通じるのだが・・・。
https://4travel.jp/travelogue/11680759
写真は古城ホテル ダルベンデン城:2015年周辺をアイフェルの森林地帯に囲まれた景観 -
さて、緊張を抱えてダルベンデン城の小さな城門を入る。
ダルベンデン城の小さな塔が出迎え、玄関の階段を登って、家族でホテルのレセプションに向かう。
城内の暖炉は暖かい火が燃え、良い雰囲気がいっぱいだ。暖炉の間のテーブル上には今夕の食事がビュッフェ式で祝宴の準備が用意されていた。
写真は1977.12.31. ノルトライン・ヴェストファーレン州Nordeifel北アイフェル地方のKall-Urftカール・ウルフトの町(人口11千人)にある古城ホテル Burg Dalbendenダルベンデン城のSilvesterfeier (abend)ジルヴェスター パーテイ(大晦日の祝)に参加した。
ダルベンデン城の小さな城門を入ると、これも小さな塔が出迎えた。
城内の暖炉の広間に宴の準備が用意されていた。 -
古城ホテル ダルベンデン城でチェックインすると、予想していなかったのだが、この日は城内で近隣の方やホテルのお客たちの為に「ジルヴェスターパーテイ」が行われることとなっていて、宿泊客である私共はなんと幾つかの家族と、少し離れたガストハウス(ホテル)に泊まることになった。
ホテルに予約した時に詳細を聞かなかったのが悪かったが、思わぬ成り行きになってしまった。
それはそれで結果として珍しい、思わぬ体験をしたのだが。
写真は古城ホテル ダルベンデン城:2015年の写真だが、きれいに改装されていたBurghofブルクホフ(中庭) -
カールの町はケルン、アーヘン、トリアーの三角間の北アイフェルの端に位置し、標高399~538mの海抜に位置する。ウルフトではKallbachハルバッハが流れ、周辺一帯は大きな森林地帯に囲まれている。
ダルベンデン城はウルフトの北に水城として12世紀に築城された。
ダルベンデン城は16世紀にブウルクホーフやその他の建物が建てられて、城郭は拡張された。18世紀の拡張で今日のブルク公園が出来た。
写真は古城ホテル ダルベンデン城:2015年白い小さなTurm塔 -
1964年ダルベンデン城は火災で深刻な影響を受けた。
再建・修復後、最初にホテルとレストランとして運営され、その後、ダルベンデン城はBurgparkブルク公園として、或いはJaeger- und Foersterhaus狩猟者や営林関係者(森林監督)の住宅施設になっている。
・・・
写真は古城ホテル ダルベンデン城:2015年俯瞰・城門は左・・・北アイフェル地方のKall-Urftカール・ウルフトにある。 -
写真は古城ホテル ダルベンデン城:2015年Innenhofzugang中庭への入口
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写真は古城ホテル ダルベンデン城:2015年Haupthaus・Ost本館・東側
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写真は古城ホテル ダルベンデン城:2015年Eingangsportal neben dem Turm塔傍の本館玄関入口
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ガストハウスに子供たち(子供用の夕食は準備されていた)だけ残して、迎えの車で古城ホテルに戻り、夫婦でジルヴェスターパーテイに参加した。
写真は古城ホテル ダルベンデン城:2015年Innenhof, Haupthaus mit Treppe中庭から本館への石段 -
イチオシ
食事や会話、そしてダンスを楽しむ参会者で城内はいっぱいになっている。
同席になったBild-Zeitungビルト紙の記者Redderレッダー夫妻(ビルト紙は1952年に創刊したドイツのタブロイドの日刊新聞。発行部数は約311万部(2010年2月)。ヨーロッパで1番売れている新聞で、世界でも6番目。 有名人のゴシップや写真を多用した紙面作りがウリでした)は子供連れで前述のガストハウスに泊まっていたから、往復のバスで一緒でした。
暖炉前の席でレッダー夫妻と食事をしながら、四方山話をする。写真もお互いに撮り合って、後日焼き増して送った。
夫婦でジルヴェスターパーテイを楽しむことに慣れているのでしょう、若々しいレッダー夫妻のダンスはさすがに様になっていた。
写真は古城ホテル ダルベンデン城:Silvesterfest(abend)ジルヴェスター パーテイ(夜)の様子・・・(上の左右)暖炉前の席でレッダー夫妻と会話や写真、(下の左右)レッダー夫妻が踊る。 -
イチオシ
親しく話かけてくれたのは薬局を経営されているというSchlichterシュリヒター夫妻でした。
ダンスが踊れる家内は薬局のご主人シュリヒター氏に誘われて楽しそうに踊っていた。私は不調法な男、シュリヒター夫人が踊ってもらいたい様子でしたのに。
申し訳ないと思いつつ、専ら私は写真班として、パーテイの場面を撮っていた。
私は壁の花!こうした時は踊れない男は間が持てないし、様にならないのだ。
写真は古城ホテル ダルベンデン城:Silvesterfest(abend)ジルヴェスターパーテイ(夜)の様子・・・(左上)シュリヒター氏が家内に声をかけてくれた。(右上)シュリヒター夫妻も仲良くダンスに興じて。 -
イチオシ
零時を過ぎると、新年を歓迎する盛大な花火が中庭で上がった。
お互いに乾杯をしながら、新年を祝った。
宴が終わると、古城ホテルのBurgschaenkeブルクシェンケ(酒場、レストラン)に新年用のパンも出ていた。
ブルクシェンケにも暖炉があり、狩猟で獲った鹿や熊と思われる動物の剥製も展示されていたのを、帰り際に気付いた。
帰りのバスを待つ暫時、子供たちはもう寝ただろうなと思いながら、バーカウンターで一休み。
写真は古城ホテル ダルベンデン城:Silvesterfest(abend)ジルヴェスター パーテイ(夜)の様子・・・バーカウンターで一休みの私と、剥製や暖炉の前で家内は満足げに。 -
楽しみにしていた、古城ホテルの城内に泊まる機会はなかったが、ドイツ人たちのジルヴェスターの楽しみをちょっと味わった夜でした。
ともあれ再び、この古城ホテル ダルベンデン城を訪れ、宿泊する機会は持てずに終わってしまった。
今検索してみると、古城ホテル ダルベンデン城はBurgparkブルク公園を維持しつつ、Jaeger- und Foersterhaus狩猟者や営林関係者(森林監督)の住宅施設になっている。
・・・・・
写真は古城ホテル ダルベンデン城:2015年俯瞰・・・城門入口は右上。 -
<ドイツのSilvester Partyジルヴェスターパーテイ>
当時のドイツでSilvester Partyジルヴェスターパーテイがどの程度行われていたのか、良く知らなかった。
ドイツではジルヴェスター(大晦日)を中心に開かれるクラシックのジルヴェスターコンサートと呼び、ドイツの年末を彩るイベントとして盛んである。
今Silvester Partyで検索してみると、ドイツ各地(勿論各国でもある)のデュッセルドルフ、ブレーメン、ハンブルク、ベルリン、フランクフルト、ミュンヘン等々でイベントが予定されていた。
例えば、Silvester Party Duesseldorf 2021/22
im wunderschoenen Bocconcino im Duesseldorfer Medienhafen
(素的なボッコンチーノ・デュッセルドルフ・メディエンハーフェンで)
ライン川の港地区にあるイタリア料理店で31日の18時から1日の5時まで夜通しのパーテイ、「2021年は完璧な終わりに来て、2022年を力強く始めましょう!」という言葉がお店の宣伝文句にある。チケットは前売りのみで400枚。
パーテイ内容は:
*自動車販売会社Levyの協賛でトヨタとレクサスのプレゼントが当たる!
+5品コースメニューとパーテイ(チケットは250枚のみ、2名Euro189)
(22時からパーテイのみ参加のチケットは150枚のみ、1名Euro35)
+Glas Champagnerウェルカムドリンク(午後11時30分まで)
+ 特別シャンパン価格
+ライブミュージック&ディージェイ
+ハウスミュージック、80年代&クラシック
Dresscodeドレスコード在り;Elegant & Chic ( NO Jeans & Sportshoes )
コロナ禍なので、PCR検査など必須。
さすがにダンスフロアのダンスは不可、 花火も禁止です。
ご参考:パーテイの様子が見られる。
https://www.eventbrite.de/e/silvester-party-dusseldorf-2021-tickets-90956877469?aff=ebdssbdestsearch
写真はSilvester Party Duesseldorf
ジルヴェスターパーテイ デュッセルドルフ2021年=>2022年 -
ダルベンデン城の歴史を読んでいたら、この城に関わって、名を残している対照的な軍人と画家がいた。
<ダルベンデン城と関わりのあった人物について>
その一人は、1944年の*「Battle of the Bulgeバルジの戦い」の指揮を執った、ドイツ国防軍・西方総軍司令官であった陸軍元帥*Gerd von Rundstedtゲルト・フォン・ルンシュテットである。
彼の指揮本部がダルベンデン城に置かれた。その為、1944年12月18日にアメリカ空軍の攻撃によって爆撃され、軽微な被害を受けた。
*バルジの戦い(「Rundstedt Offensiveルントシュテット攻勢」とも呼ばれる)は第二次世界大戦における西部戦線において1944年12月から1945年1月の間、アルデンヌ高地で行われたドイツ国防軍とアメリカ軍を主体とする連合軍との戦闘の名称である。
ヒトラーの「最後の賭け」と称されたドイツ国防軍の奇襲作戦は当初功を奏したが、物量に勝る連合軍に徐々に押し返され、さらに東部戦線でもソ連軍が大兵力を集結しているという情報もあり、結局撤退を決め、多くの部隊が東部戦線に送られた。1月28日に「バルジの戦い」は終結した。
この作戦をテーマにした映画も多い。
<ヒトラーとの記念写真>
ルントシュテットは1923年に大佐に昇進し、1938年11月4日にBielefeldビーレフェルトで*第18歩兵連隊長(1925年4月~26年9月)に任命された際に、ベルリンの帝国首相官邸でヒトラーと一緒に撮った。
*第18歩兵連隊は、10万人のドイツ帝国軍の組織編成の際に、1921年1月1日にハノーファーの第6軍管区にあった旧王立プロイセン軍の部隊から組織された。第18歩兵連隊は3大隊で組織され、各歩兵大隊は18人の将校と後方事務や救護隊員がいて、それに下士官以下の兵員658人で構成されていた。
各Bataillon大隊は18+658=776人を数え、Regiment連隊人員はその3倍で凡そ2千4百人ほどであった。
写真はGerd von Rundstedtゲルト・フォン・ルントシュテット大佐 (右) とヒトラー総統・首相:ルントシュテット大佐が第18歩兵連隊長に任命された際に、ベルリンの帝国首相官邸でヒトラーと一緒に撮った。 -
①陸軍元帥ゲルト・フォン・ルントシュテット(1875~1953年)について:
Karl Rudolf Gerd von Rundstedtカール・ルドルフ・ゲルト・フォン・ルントシュテット(1875年~1953年)はドイツ軍人であり、「最後のプロイセン軍人」としばしば呼ばれるようにドイツ国防軍の象徴的存在であった。
1875年にドイツ領邦プロイセン王国ザクセンのアッシャースレーベンに軽騎兵将校ゲルト・フォン・ルントシュテット少将の息子として生まれた。
記録によると、ルントシュテット家は12世紀初めころにはハルツ地方・Halberstadtハルバーシュタットの司教に仕える宮内長官であったと云う。
その後一族の者がブランデンブルク辺境伯領へ移住し、ユンカー(地主貴族)となっていった。多くの軍人を輩出した名門軍人家庭であった。
ルントシュテットはプロイセン時代、第一次大戦、そして第二次世界大戦中の対ポーランド戦、対フランス戦、独ソ戦、西部戦線と各地の重要な戦線で戦功をあげた歴戦の勇士だった。
バルジの戦い以降、連合軍の反攻で1945年3月、レマーゲン鉄橋を米軍に奪取された(ライン川の渡河を許した)責任を問われ、西方総軍司令官を罷免された。
敗戦直前の1945年5月1日にバイエルン州バート・テルツで、息子のハンス・ゲルト・フォン・ルントシュテット少尉と共にアメリカ軍第36歩兵師団によって捕虜にされた。5月10日にイギリスに身柄を引き渡され、イギリス軍事法廷に戦犯として起訴された。しかし、70歳の高齢になっていたルントシュテットには裁判に耐えられるだけの体力は無く、1949年5月5日にルントュテットは心臓病を理由に裁判前に釈放され、1953年2月24日ハノーファーで死去した。
ルントシュテット元帥はヒトラーに直言できる数少ない将軍の1人で、第二次大戦中に自ら総統に対し具申を行い、ヒトラーの方針にも反対して、その職を解任される事がしばしばあった。所がヒトラーの策が上手くいかなくなると、その度に再び重要なポストを任された。
この事で、ヒトラーもルントシュテットを煙たがりながらも、敬意を抱いていたのだと云われている。
・・・
写真は左からルントシュテット元帥、イタリア宰相のMussolinムッソリーニ、Hitlerヒトラー総統 -
もう一人は、ダルベンデン城に在住したFriedrich Gustav August Julius Philipp Rudolf von Willeフリードリヒ・グスタフ・アウグスト・ユリアス・フィリップ・ルドルフ・フォン・ヴィレ(1860年~1941年)で、
Fritz von Willeフリッツ・フォン・ヴィレの名で知られた。
彼は大学教授、ドイツ(特にEifelアイフェル)の風景画家で有名である。
後にアイフェル地方の町ケルペンにあるケルペン城(1911年~1941年)の所有者になった。
写真はFritz von Willeフリッツ・フォン・ヴィレ(1892年) -
②ケルペン城を所有したアイフェルの風景画家フリッツ・ヴィレ
フリッツ・ヴィレは1860年にワイマールに生まれ、彼の両親は画家であった。
父アウグストはドイツの後期ロマン派風景画家、母クララは動物画家であった。
ヘッセン選帝侯の枢密顧問官の家系に生まれた父アウグストは1843年~1847年の間、カッセルの美術大学に学び、カール・アレクサンダー・ザクセン・ワイマール・アイゼナハ大公に招聘されて、1859年~1863年の間、大公が創設したワイマール画学校で教えた。
1863年にデュッセルドルフに家族で戻った。
写真はFritz von Willeフリッツ・フォン・ヴィレ作画:かつてのBurg Dalbendenダルベンデン城、1907年 画伯の家族も描いている。 -
フリッツも1879年~1882年、デュッセルドルフ美術アカデミー(美術大学)で絵を学んだ。
1885年以来、ヴィレは定期的にアイフェルに旅行した。
1899年夏の間、アイフェルに第二の家を持っていた。
それは1899年から1905年までReifferscheid住んだライファーシャイトの家「Haus Friedrichsruhハウス フリードリヒスルー」である。
次は Kall-Urftカール・ウルフトのダルベンデン城に1905年から1907年まで在住した。
その後はライファーシャイトの「Liebfrauenhofリーブフラウエンホフ」に、更に1911年には新たに購入したBurg Kerpenケルペン城に家族と共に移りすんだ。
写真はFritz von Willeフリッツ・フォン・ヴィレ作画:アイフェルの春 -
ケルペン城はラインラント・プファルツ州・アイフェル地方の町ケルペンの海抜500mに立っている古城である。
ケルペン城築城の正確な始まりはよく分からない。
築城は1136年の文書で最初に言及され、Sigibertus de Kerpeneシギベルトゥス・デ・ケルペネ、或いはその息子 Heinrich Iハインリヒ1世(1142~1177年)が築城したと思われる。
写真はFritz von Willeフリッツ・フォン・ヴィレが所有(1911年~1941年)した古城Burg Kerpenケルペン城の俯瞰 -
1911年、アイフェルの風景画家Fritz von Willeフリッツ・フォン・ヴィレはケルペン城を購入し、保守・修理作業を行った。
1941年に彼が亡くなると、この城の後ろの丘に埋葬された。
写真はFritz von Willeフリッツ・フォン・ヴィレ作画:Eifellandschaftアイフェルの風景 -
彼の作品の最大のコレクションは、アイフェル地方Bitburgビットブルクにある文化センター「Haus Bedaハウス ベダ」の「Fritz-von-Wille-Museumフリッツ・フォン・ヴィレ博物館」にある。約100枚の絵画を見ることができる。
尚、フリッツの息子Ottoオットー(1901年~1977年)も、有名な風景・人物画家になった。
・・・・・・
写真はFritz von Willeフリッツ・フォン・ヴィレ作画:Winter in Bewingenベビンゲン1914年冬 -
以下はおまけで、
フリッツ・フォン・ヴィレの父、アウグスト・フォン・ヴィレの作品である。
写真はAugust von Willeアウグスト・フォン・ヴィレ作画: In a Wine Cellarワインセラーで(1886年) -
写真はAugust von Willeアウグスト・フォン・ヴィレ作画: Brand des Duesseldorfer Schlossesデュッセルドルフ城の焼失(1872年)
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2014年の旅でほら吹き男爵と称されたミュンヒハウゼン男爵の城に泊まった事があり、その際、ほら吹き男爵の御話しと描かれた作品を見ていた。
その作品の一つがこの絵だ。
写真はAugust von Willeアウグスト・フォン・ヴィレ作画:Baron Munchausen rides a cannonball ミュンヒハウゼン男爵が大砲の球に乗って飛ぶ (1872年以前)・・・思わぬところで、この絵の作者について知った。 -
Aerzenアエルツェン ・ミュンヒハウゼンの5星古城ホテルには2泊した。
ドイツの春:北方二州・シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州&メクレンブルク・フォアポンメルン州を中心に巡る旅
期間:2014年05月09日~23日 15日間)
Aerzenアエルツェンの町は人口11千人、Weserberglandヴェーザーベルクラント地方にあり、ハーメルンから南西約 10 km、Bad Pyrmontバート・ピルモントから北に約 7 km のHummetalフンメ渓谷に位置する。
写真は古城ホテルSchloss Muenchhausenミュンヒハウゼン城:2014.05.19.古城ホテルの俯瞰図・縄張り
①Parkplaetze:駐車場
②Golfschop:ゴルフ場敷設ショップ
③Zehntscheune:教会税10分の1税で運営された穀物納屋、今は36室の宿泊棟
④Kirche der Zehntscheune:教会・洗礼や結婚式場
⑤Tiefgarage:地下駐車場の出入口・ゴルフのキャディー控室
⑥Golfclub:ハーメルン・ゴルフクラブのクラブハウス
⑦Eiskeller:かつての冷蔵所、今はバーベキュー場
⑧Schwimmbad:プール、18mX5m
⑨Standesamt:結婚式用の登記所
⑩Kleine Muehle:小さな水車小屋・今は休暇用宿泊所
⑪Golfplatz Lucia von Reden:18ホールのゴルフ場(ルチア・レーデン)
⑫Driving Range:ゴルフの打ちっぱなし場、パター練習場
⑬Tagungspavillon:小さな会議場
⑭Seeterasse:レストラン シュロスケラー前のゼーテラス、50席
⑮Gourmetterasse:グルメテラス、150席
⑯Bootshaus:ボートハウス
⑰Ananaspavillion:17世紀のオランジェリーの名残であるアナナスパビリオン
⑱Hengstweide:かつて種馬の牧場、洋弓場、クリケット場、ヘリコプター乗降場
⑲Golfplatz Baron von Muenchhausen:主ゴルフ場18ホール・ミュンヒハウゼン男爵
05月19日(月)、05月20日(火)(2泊)
⑪⑫Schlosshotel Muenchhausen古城ホテル ミュンヒハウゼン
D-31855 Aerzen bei Hameln 、Schwoebber 9
Tel:+49(0)4351-6666-475 、Fax:‐470
http://www.schlosshotel-muenchhausen.com/
2004年にオープンした古城ホテルは5星・全68室。 Comfort DZ im Schloss :ゴルフ場・庭園側ビューの201号室(3階)。Euro198X2=396(55,999円)。浴用ガウン・スリッパ有、広く、素晴らしい部屋に納得。
≪Schloss Schwoebber シュヴェプバー城=>Schlosshotel Muenchhausenの歴史≫
古城ホテル ミュンヒハウゼンは元々、Schloss Schwoebber シュヴェプバー城と称しており、ヴェーザー・ルネサンス様式の建築で、三翼をもつ、水城である。
シュヴェプバー城はWeserberglandヴェーザーベルクラント(ヴェーザー山地自然公園)のアエルツェン村にある。笛吹き男の話で有名なハーメルンの近郊10kmにあって、8haの起伏に富んで小川が流れる公園とバロック庭園を持った城は世に良く知られていた。
21世紀になり、16世紀の宮殿を改装し、シュヴェプバー城のかつての城主ミュンヒハウゼン男爵の名前を取って、今は古城ホテル ミュンヒハウゼンとなっている。
州都ハノーファーまでB1・B217で凡そ50kmと近く、18ホールのゴルフコースを利用するお客も多いと云う。
1510年から1919年まで400年間、シュヴェプバー城はニーダーザクセンの貴族Freiherr von Muenchhausenミュンヒハウゼン男爵家の居城であった。
『ほら吹き男爵の冒険』で有名な、18世紀のKarl Friedrich Hieronymus Freiherr von Muenchhausenカール・フリードリヒ・ヒエロニュムス・ミュンヒハウゼン男爵はその家系である。
1985年から2002年まで、シュヴェプバー城はゴルフ場のクラブハウス、ゴルフ客の宿泊ホテルとして利用される。
1992年の10月、シュヴェプバー城の3翼のうち、本館中央の翼が大火災になった。
2002年、Ursula und Friedrich Popkenウルスラ&フリードリヒ・ポプケン夫妻(ファッショングループPopkenのオーナー・・30ヶ国、700支店、グループ従業員4千人)が、シュヴェプバー城を購入した。
その間、崩壊しそうになっていた古城を修理・改装し、3500万ユーロ(約49億円)を投資して、近代的な建物に甦らせた。
2004年、シュヴェプバー城のかつての城主ミュンヒハウゼン男爵の名前を取って、古城ホテル ミュンヒハウゼンとし、グルメ・レストランGourmetrestaurantルネサンス・ロイメンを持つ5星ホテルを開業した。
ルネサンス・ロイメンはミシュラン1星、ゴー・ミョ17点、Schlemmer Atlas “Spoon“4本・17.5点、ドイツランク76位に評価されている。
ミシュランの星は2004年のグルメ・レストラン開設以来10年間、1星を維持しているが、これはまたすごいことだ。 -
≪『ほら吹き男爵の冒険』とミュンヒハウゼン男爵の古城≫
http://4travel.jp/travelogue/10977115
写真は古城ホテルSchloss Muenchhausenミュンヒハウゼン城:ほら吹き男爵と称されたKarl Friedrich Hieronymus Freiherr von Muenchhausen ミュンヒハウゼン男爵、1752年の肖像画
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皆様のお立ち寄りに感謝し、また来年も宜しくお願いします。
Wir wuenschen Ihnen viel Glueck , sowie gute Gesundheit zum neuen Jahr!幸せで、健康な新年をお迎えください。
Wir wuenschen Ihnen einen guten Rutsch ins neue Jahr!
新年あけましておめでとうございます!
Einen guten Rutsch!=Frohes neues Jahr!!
明けましておめでとう!
(2021年12月31日Wiki・HP参考、訳・編集・追記)
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