1983/03/27 - 1983/03/27
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jijidarumaさん
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【古城ホテル好きが訪れたSchloss Rheydtライト城の歴史にも、ケルンやデュッセルドルフの「都市の自治権」を獲得できた「Schlacht von Worringenヴォリンゲンの戦」があった】
(日本の戦国時代を彷彿させるヴォリンゲンの戦い)
私はドイツの古城・古城ホテル好きで、デュッセルドルフ駐在中や退職後のドイツ感傷旅行でも、ドイツ国内や周辺国にも出かける際には、古城・古城ホテルを目標に出かけることが多かった。
とりわけ、週末にはデュッセルドルフ近郊の古城・古城ホテルを家族でドライブがてら楽しんだものだ。
古いアルバムを見ていたら、かつて折に触れて訪れたSchloss Rheydtライト城で春の旬シュパーゲル(白アスパラガス)料理を食べた写真があった。
1983年3月27日、
オランダ国境にも近いMönchengladbachメンヒェングラートバッハにあるライト城を訪ねた。
この日は二度目のデュッセルドルフ駐在がちょうど1年が経過し、漸く落ち着いた日々が続いていた。私も中堅社員、40歳になる年でした。
さて、今回はこのライト城について書いてみたい。
写真はライト城で来独1周年の祝に大好きなシュパーゲル(白アスパラガス)料理を食べた。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 家族旅行
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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写真は訪れたことがあるSchloss Rheydtライト城&Burg Wassenbergヴァッセンべルク城の Map(観光本Aral Auto Buch1974・75年)・・・上部のVenloフェンロ(Maasマース川沿い:この川は全長925km、フランス北東部の水源からフランス、ベルギー、オランダを流れ北海に注ぐ)はオランダの町で、此処に日本の煎餅を売る店があり、よく買いに出かけた。
デュッセルドルフ旧市街には歴史を語る二つの彫刻、ヴォリンゲンの戦いと勝利を祝った側転像がある。 by jijidarumaさん旧市街アルトシュタット 旧市街・古い町並み
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<Städtisches Museum Schloss Rheydt市立ライト城博物館>
D-41238 Mönchengladbach、Schlossstraße 508
Öffnungszeiten開館時間:
Di bis Fr 11 bis 17 Uhr 火~金11時~17時
Sa und So 11 bis 18 Uhr土日は11時~18時
Schloss Rheydtライト城はデュッセルドルフの西25kmにあるMönchengladbachメンヒェングラートバッハの近郊にある。
メンヒェングラートバッハはノルトライン・ヴェストファーレン州に属し、人口は約27万人である。ライン川の約15km西に位置する工業都市で、近隣の都市としては、約25km東にデュッセルドルフ、約20km北東にKrefeldクレーフェルトが位置している。西のオランダ国境まで約20kmと近い。
19世紀より綿織物産業が発展した。第二次世界大戦の際に激しい攻撃を受けたが、戦後に復興を果たした。
参考写真はライト城:縄張り図 -
そのSchloss Rheydtライト城は深い森の中にある水城で、ルネサンス様式のファサードをもった城には軍事的な砲郭、周囲を囲む堀が見られ、郷土博物館的な小さな博物館もあった。
時々古城には見ることがあるが、此処には孔雀が放し飼いにされていた。
写真はライト城:時計回りに左上から水城の俯瞰、デュッセルドルフの市内や近隣のレストランの紹介冊子のライト城の紹介記事、ライト城の博物館前。 -
イチオシ
当時はHotel&Restaurantとして、デュッセルドルフからちょっとしたドライブで訪れるのには丁度良かった。
城門棟と言って良いだろう建物にはホテルとレストランがあった。レストランの上にホテルの部屋があった記憶があるが、宿泊はしていないから、印象は残っていないものの、規模からして小さなホテルだったようだ。
写真はライト城:来独1周年の祝に大好きなシュパーゲル(白アスパラガス)料理を食べた。 -
<デュッセルドルフの市内や近隣のレストランの紹介冊子(デュッセルドルフの小史を含む80数頁)>を当時手に入れていて、週末はそれに掲載されたレストランや古城ホテルを訪れていた。“先人”が上手に纏められた冊子は写真入りで大変役立ったものだった。
とりわけ、春がやってくると、春の旬である*Spargelシュパーゲル(白アスパラガス)料理を食べに、いろいろの場所を訪れたものだ。
*ドイツの春には欠かせないのが、シュパーゲル(白アスパラ)料理です。
私のドイツの春はこれと共にスタートする。旬の季節は4月半ばから6月中旬までの凡そ2ヶ月間である。私の好きなオランダ風バターソースが、やはり主流だが、バターだけをシュパーゲル(アスパラ)の上に載せ、塩気のあるバターをその熱で溶かすケースもある。
写真は来独1周年の祝に食べたシュパーゲル(白アスパラガス)料理ではないが、参考に添付した写真(20180511:ウンターフランケンのマインシュライフェ)。 -
デュッセルドルフの近郊Essen-Kettwigエッセン・ケットヴィヒ の森の中にあったHotel Schloss Hugenpoet古城ホテル フーゲンポエト城は私共家族にはお気に入りであったが、少々格式ばった5星でした。
それに比較するとHotel&Restaurant Schloss Rheydtホテル&レストラン ライト城は気安い、親しみやすい、好ましい場所でした。
写真はライト城:1983.03.27.来独1周年はSchloss Rheydtライト城の博物館を見学 -
イチオシ
この年の4月半ばにも、日本から出張してきたI君(都立立川高校野球部の同期で某社の精密工学の技術者)を連れて食事に訪れている。
写真はライト城:1983.04.16.~17.日本から友人が出張で来独したの夕食に出かけた 。時計回りに左上からライト城で友人ととシュパーゲルで夕食、ライン川の洪水、デュッセルドルフの市内Königsalleケーニヒスアレー(王様の小道)を散策、ケーのKugelspielerinボールと遊ぶ少女像前で。 -
城主の郷土博物館が改装され、中身も充実した様子だ。かつての城主から町に全てが譲渡され、今はライト城も「Städtisches Museum Schloss Rheydt市立ライト城博物館」と称している。
多分、こぢんまりした規模のHotel&Restaurantはを維持するには採算的に無理だったようだ。
参考写真はライト城:案内冊子から -
今回、改めてSchloss Rheydtライト城の歴史を垣間見ると、ライト城には私も知らなかった、11世紀にまでさかのぼる豊かで魅力的な歴史がありました。
この城について最初に文書で言及されたのは1180年と古く、その時以来、*「Bylandtバイラント王朝」(下記)を含むさまざまな貴族の居城であった歴史があった。
参考写真はライト城博物館:展示品のSchrankシュランク(食器棚、書棚)は素晴らしい。 -
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*「Bylandtバイラント王朝」はドイツ好き、歴史好きでもあまり知られていないが、ライン川下流、Niederrheinニーダーライン(下ライン)地方の封建領主(貴族)であったHerzogtum Kleveクレーフェ公国(首都Kleveクレーフェ、その領域はライン川両岸に広がっていた)から出た王朝である。
1500年頃に3つの家系が形成され、最初にBylandt-Wellバイランド・ヴェル(Geldern)、その後、Bylandt-Rheydtバイランド・ライト(Rheydt)、最後に Bylandt-Halt-Spaldorfバイランド・ハルト・シュパルドルフ(Halt 、 Spaldorf)といった王朝の系譜ができたと云う。
写真はBylandtバイラント家のWappen紋章・・・紋章には、金地の盾の中央に黒い十字架が描かれ、兜、金色の王冠、その上に冠を被ったHahnハーン(雄鶏)が立っている。 -
当初、祖先は珍しいDoysドイズという姓でしたが、後に支配地の地名バイラントを家名とした。この家系の最初の祖先は、1260年に登場した Wilhelmus dictus Doysウィルヘルムス・ディクトゥス・ドイズという。
参考写真はライト城博物館:騎士の間 -
1275年の文書ではライン川の左岸にあるクレーフェの北に位置する彼の Burg Scateスカテ城、つまりBilantバイラントはGraf von Kleveクレーフェ伯爵(1417年にHerzogtum Kleve クレーフェ公国となる)の封土(ほうど)であったと言及されている。
参考写真はライト城博物館:絵画の間 -
彼は1288年に「Schlacht von Worringen.ヴォリンゲンの戦い」で戦死したとあった。(クレーフェ伯の家臣であったようだが、この戦いでケルン大司教派についたのか定かでない)
参考写真はライト城博物館:見事な展示品の間 -
彼の後継者であるDietrichディートリヒはGüter Bylandt und Pannerdenバイラントとパンナーデンを所領し、1294年に Deus de Bylandtデウス・ド・バイラントと名乗った。
次の世代の1317年以降、バイランドの名は文書で継続的に使用されている。
参考写真はライト城博物館:歴史を感じる天井 -
さて、Schloss Rheydtライト城の歴史を読むうちに、Bilantバイラントの先祖が1288年に「Schlacht von Worringen.ヴォリンゲンの戦い」で戦死したとあった。(クレーフェ伯の家臣であったようだが、この戦いでケルン大司教派についたのか定かでない)という文章を読んだ。
それでデュッセルドルフの旧市街にある“ヴォリンゲンの戦いに勝利した像”や“側転”像と噴水の事が思い浮かんだ。
以下の3枚の写真がそうだが、デュッセルドルフ(2022年時点の人口は約63万人)にも関係ふかい「Schlacht von Worringen.ヴォリンゲンの戦い」をこの際、調べてみたくなった
しかも、Schlachtdenkmal戦いの記念碑“Worringenヴォリンゲンの戦いに勝利した像”も近年1988年になって、旧市街の中に作られた。
写真は(20161026)デュッセルドルフの旧市街:“Worringenヴォリンゲンの戦いに勝利した像” -
イチオシ
その先のBurgplatzブルグ広場がある。そして、訪れる度に「Radschlagerbrunnenラートシュレーガーブルネン側転の泉」を撮る。
写真は(20161026)デュッセルドルフの旧市街:「Radschlagerbrunnenラートシュレーガーブルネン側転の泉」
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神聖ローマ皇帝Friedrich I.フリードリヒ1世(1122~1190年)の治世下、デュッセルドルフ北部のKaiserswerthカイザースヴェルトという小さな町があり、そこに要塞が築かれ兵士たちの駐屯地を設け、ライン川上の動きを監視していた。
1186年にデュッセルドルフはGraf Adolf von Bergアドルフ・フォン・ベルク伯爵の支配下となった。当時はまだSolingenゾーリンゲンのSchloss Burg an der Wupperブルク城がベルク伯の居城だった。 -
1288年6月5日、ケルン大司教の軍に対し、これに対抗したブラバント公ヨハン1世とベルクのアドルフ伯に従うデュッセルドルフ市民達の軍がヴォリンゲンの戦いに勝利し、1288年8月14日デュッセルドルフ市民は都市の自治権を獲得する。
この勝利を祝って、凱旋する兵を子供たちが“側転”をして出迎えたと言う故事に因んだもので、黄色くなったプラタナスの樹の下に“側転”像と噴水がある。
1380年に神聖ローマ皇帝(ドイツ王)のWenzelヴェンツェルがベルク伯爵Wilhelm IIヴィルヘルム2世を公爵(Herzog Wilhelm I. 公爵ヴィルヘルム1世と称した)に昇格させてから5年後、デュッセルドルフはベルク公国の首都となって発展した。Schloss Burg ブルク城は狩猟城として使用された。
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写真は2000年発行のデュッセルドルフのカーニバル175周年記念切手:側転するピエロ -
【1288年6月5日、Schlacht von Worringen.ヴォリンゲンの戦いが勃発した】
「ヴォリンゲンの戦い」とは、
Niederrheinニーダーライン(下ライン)地方全体を掌握しようとするケルン大司教と、それに対抗する諸侯及び自由を求めるケルンなどの市民、農民たちとの間で行われた戦闘である。
この戦いは元々、Herzogtum Limburgリンブルク大公国の相続の争いである。
当時のリンブルク大公国はベルギー・オランダの両リンブルフ州、さらに現在のドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州の一部にまたがって存在した国で、同時に神聖ローマ帝国の諸侯であった。
リンブルク大公のWalram IVヴァルラム4世(在位:1247~1279年)が一人娘 Frau Irmgard Herzog von Limburgイルムガルト女公(~1283年)を残して死去した。この時、女公イルムガルトの夫であるGraf Rainald I. von Geldernゲルデルン伯爵ライナルト1世(1255~1326年)は大公領相続の承認を国王から取りつけたが、関係者の間では女子後継者を介しての相続に対する疑問がくすぶっていた。
そんな中、1283年、女公イルムガルトが子供を持たないまま死去すると、そのいとこであるGraf Adolf V. von Bergアドルフ・フォン・ベルク伯爵(~1296年)を初め10人ほどが相続人として名乗りを上げた。
但し、ベルク伯は自分の力不足を自覚し、有力候の一人、Herzog Johann I. von Brabant ブラバント公ヨハン1世(1252~1294年)に協力を求めた。(後に、ベルク伯はブラバント公に相続権を売却する)
所が、これに対し、ゲルデルン伯爵ライナルト1世は Kölner Erzbischof. Siegfried von Westerburgケルン大司教ジークフリート・フォン・ヴェスターブルク(~1297年)に助力を請うた。この頃、ニーダーラインにおける勢力を伸ばしたがっていたケルン大司教にとって、近隣のブラバント公がリンブルク公領をも手に入れてさらに強大になるのは好ましいことではないため、ライナルト1世の申し出を受け入れた。
そして逆に Kölner Bürgerケルン市民は、大司教の支配権が強まって自分たちの自由が脅かされることを心配し、ブラバント公の陣営に加わった。
リンブルク大公領相続をめぐって、近隣諸侯の勢力争いが生じ、争いは各地で続いていた。
そしてついに1288年6月5日、ニーダーライン(下ライン)地方全体を巻き込んだ Limburger Erbfolgestreitリンブルク継承戦争が勃発した。
*話は日本の戦国時代を思わせるもので、次から次に読み込むことが増えて、纏まらなくなった。
ヴォリンゲンの戦いでは双方の戦闘団は両軍合わせて9000人と、日本の一大決戦、天下分け目の戦であった関ケ原の戦い(1600年10月21日、東西両軍合わせて約十数万人)に比すれば、規模も登場人物も少ない。
が、ただ一点、どちらも勢力争いで、勝利者は歴史書を記録する立場を得た。
参考写真はSchlacht_bei_Worringenヴォリンゲンの戦いの配置図(青の陣はブラバント公の陣営、赤の陣は大司教軍である) -
1288年6月5日、Die Schlacht bei Worringenヴォリンゲンの戦いはヴォリンゲンの南にある Fühlinger Heide フューリンガーハイデ(荒地)の朝に始まる。
これはラインの左岸にあるケルンと右岸にあるデュッセルドルフの間の最も重要な場所であった。当時の図を見ると、左に沼地、右にライン川の間にある荒地、左右にノイス街道と古ローマ街道に挟まれた平場に2つの強力な騎士と歩兵の一団凡そ9000人が向かい合って整列し、決戦の時を迎えていた。
一方は Kölner Erzbischof. Siegfried von Westerburgケルン大司教ジークフリート・フォン・ヴェスターブルクとGraf Rainald I. von Geldernゲルデルン伯爵ライナルト1世(女公イルムガルトの夫)が兵4200人(Panzerreiter =Ritter騎士2800人、Fußvolk歩兵1400人)を指揮しており、
もう一方はHerzog Johann I. von Brabant ブラバント公ヨハン1世(後にDer Siegreiche勝利王と呼ばれた:1253~1294年)とGraf Adolf V. von Bergアドルフ・フォン・ベルク伯爵が兵4800人(騎士2300人、ケルン市民兵1500人とベルクの農民兵500人、他地区の500人で歩兵2500人)を率いていた
参考写真:大司教軍はケルンの市の鍵をFahnenwagen軍旗馬車に積み戦場に出ていた。 -
早朝、朝のミサに出席して告白した後、ケルン大司教は野営地から軍隊を率いて12km先のヴォリンゲンへ向かった。
(興味深いことに、大司教軍は「ケルンの市の鍵」をFahnenwagen軍旗馬車に積み戦場に出ていた事だ、前の写真参照)
ブラバント公は大司教軍の接近を斥候から知らされ、ヴォリンゲンから彼を迎え撃つために南下し、ノイス街道と古ローマ街道に挟まれた平場に陣を敷いた。
午前11時頃、大司教は彼の軍を連れて平場に到着し、敵陣に対した。大司教の側ではルクセンブルクの軍がブラバント公に対して中央の位置を占めました。
戦闘が始まった直後、大司教はケルン市民兵とベルクの農民兵を圧倒し、彼らを蹴散らすのに成功した。
最も激しい戦いは中央に陣をしいた両軍、ブラバント公とルクセンブルク軍の間の戦いでした。
戦いの中で最初に、ルクセンブルク伯ハインリヒ6世の弟のワレラン1世(ルクセンブルク・リニー家)が戦死し、次にハインリヒ6世自身、庶子Heinrich von Houffalizeウッファリーズ領主ハインリヒ、Balduinボードゥアンと強力な兄弟がたて続けて戦死した。これで大司教軍の中央に位置したルクセンブルク伯軍は壊滅した。
参考写真:Die Schlacht von Worringenヴォリンゲンの戦いの図(Illustration von etwa 1440/50 )・・・左はブラバント公が中央に立ち、敵兵が倒れている図、右はケルン大司教がブラバント公派に生け捕りになった図である。こちらの図には左下にルクセンブルク伯ハインリヒ6世 -
午後3時頃には、ブラバント公派のベルク伯爵とマルク伯爵の騎士たちが、ケルンの都市貴族たち、ベルクの農民兵、ケルン市民兵とともに、再びケルン大司教軍を右翼から攻撃した。
最後の戦闘はSkavedrieschスカヴェドリーシュ(?)とMulrepasムレパ(?)の間で行われ、彼らはここで自分たちの紛争を戦っているように見えた。ついに、まだ生きていたスカヴェドリーシュが降伏し、すべての敵対行為が終結した。
戦いの終結は午後5時頃だったと思われる。
戦いはケルン大司教側で戦場での戦死者1100人、重傷を負った後の死亡者700人、計1800人の死者が出てと云う。(ブラバント公派の数字は不明だが、大司教側は戦士の43%を失う壊滅状態であったと思われる)
この日の戦いで敗北したケルン大司教は、捕虜となってSchloss Burg an der Wupperベルク伯の城に監禁され、身代金と多くの所領を差し出して、漸く1年後に自由の身になったが、大司教としてケルンに戻ることはできず、隣のBonnボンに身を落ちつけざるを得なくなった。
この事はまた、ケルン市民の「都市の自治権」を承認せざるを得ず、ケルンの町は実質的にFreie Stadt自由都市(帝国直属領で、かつ納税や軍役が免除される)の地位を得ることになった。
この戦いはドイツ北西部の権力構造を大きく変えたヴォリンゲンの戦いとして歴史に名を残している。
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デュッセルドルフに駐在中、ヴォリンゲンの戦いについてはザックリとした話は「子供たちの側転」や、旧市街にある「Radschlagerbrunnenラートシュレーガーブルネン(側転の泉)」の事で知っていたが、今回初めて、この戦いで争った諸侯たちの戦いの要因とその後の歴史を調べてみた。
土地勘のあるノルトライン・ヴェストファーレン州やヘッセン州の各地の町の名が出て来るので、興味深く、各人各様の歴史ですが、訳してみた。
以下に紹介する。
参考写真:Siegfried von Westerburg auf dem Schlachtfeld von Worringen戦いで敗北したケルン大司教はがブラバント公派に生け捕りになってしまった。左下にルクセンブルク伯爵ハインリヒ6世が兄弟を助けようとしている。 -
<敗退した大司教派>
*ケルン大司教Siegfried von Westerburgジークフリート・フォン・ヴェスターブルクは上の写真で兵士に囲まれている騎士(捕囚)
ケルン大司教ジークフリート(~1297年)はRunkel im Lahntalルンケル(ヘッセン州ラーン渓谷)とWesterburgヴェスターブルクim Westerwaldkreis (ラインラント・プファルツ州ヴェスターヴァルト郡)という二つの所領をもった裕福な領主貴族の出身であった。
多分、大司教の父と思しきSiegfried III. von Runkelジークフリート3世フォン・ルンケルは1209年に「von Runkel und Westerburg フォン・ルンケルとヴェスターブルク」と呼ばれているので、この頃に2つの所領を持つことになったのだろう。彼は二人の息子、Siegfried IVジークフリート4世にヴェスターブルクを、Dietrich Iディートリヒ1世にルンケルを相続させた。
おそらく、ジークフリートは1250年代からケルン大聖堂の律修司祭(運営の責任を負う司祭職)となり、1259年からマインツ大聖堂の学長を務めていた。
1275年4月3日、ジークフリートは教皇グレゴリウス10世によってケルン大司教に(個人的に)任命された。(これには反対派が多かった為、個人的としたらしい)
1279年9月15日、ジークフリート大司教はケルンの南西約20kmにあったボン<=>アーヘンHeerstraße軍用道路沿いに位置していたLechenichレヘニヒ(Erftstadt の大部分を占めた)の町に都市権(交易権や組合結成権などの諸権利、或いは自治権や課税権)の特権を与えた。
1279年10月14日には大司教はKreis Dürenデューレン地区にあるPingsheimピンスハイムの Grafen von Jülichユーリヒ伯爵(14世紀にユーリヒ公国となり、15世紀にベルク公国と合併してJülich-Berg ユーリヒ・ベルク公国と呼ばれた)とPingsheimer Friedeピンスハイムの和平条約を締結した。
尚、ユーリヒ伯はヴォリンゲンの戦いではブラバント公派についた。
1283年頃、大司教ジークフリートはリンブルフ家の後継者争いでゲルデルン伯爵ライナルト1世に味方した。
1285年4月27日、大司教ジークフリートはケルンの南にあるBrühlブリュールに都市権を与えた。
1287年7月、ケルン市民から「忠誠の誓い」を受け、大司教ジークフリートはリンブルクの継承紛争におけるケルンの戦争費用を補うために市の関税を免除した。
しかし、ケルン市民は大司教の支配権が強まり、自分たちの自由が脅かされることを心配し、各地の市民、農民たちと共にヴォリンゲンの戦いではブラバント公の陣営に加わったから、日本の戦国時代を思わせる、権謀術数(けんぼうじゅっすう:「権」は権力、「謀」は謀略、「術」は技法、「数」は計算を意味する)の中世であった。
ケルン大司教ジークフリートがリンブルフ家の後継者争いに干渉したため、1288年6月5日にヴォリンゲンの戦い(前述参照)が勃発した。
ケルン大司教ジークフリートはGerhard Overstolzenゲルハルト・オーバーシュトルツェン(Kölner Patriziat)が指揮したケルン市民とWalter Doddeヴァルター・ドッデ率いるBergische Abteilungベルギッシュ分遣隊が参戦した戦いに敗れ、ブラバント公ヨハネス1世に捕えられた。その後、ベルク伯アドルフ5世に引き渡されました。モンハイムで一晩監禁された後、ベルク伯の居城ブルク城に連行されて、投獄された。
彼は1289年7月6日に釈放されたが、投獄中に重病にかかった。
これに先立った1289年5月19日、ケルン大司教ジークフリートはヴォリンゲンの勝者とFriedensverträge平和条約を締結し、更にベルク伯にReparationen賠償金として12,000マルク(銀約3トン)を支払うこととになった。
また、大司教ジークフリートが所有していた領土(すべての司教権を持つ)、即ちLünenリューネン、Westhofenヴェストホーフェン、Brackelブラッケル、 Werlヴェルル、Mendenメンデン、Isenbergイーゼンベルク、 Raffenbergラッフェンベルクの町や村を譲渡し、さらにStift Essenエッセン修道院をGraf Eberhard II. von Markマルク伯エーバーハルト2世(エーバーハルト1世の息子)に譲渡しなければならなかった。
したがって、ヴォリンゲンでの勝利から最も恩恵を受けたのは、Deutz (Köln)
ドゥーツの町、Burg Lechenichレヘニヒ城を含むいくつかの城でした。
Worringenヴォリンゲン、Zonsツォンス、Volmarsteinフォルマールシュタインなどの他の城は破壊されてしまった。
リンブルフ公国はブラバント公ヨハン1世によって占領された。
敗北したケルン大司教は、捕虜となってSchloss Burg an der Wupperベルク伯の城に監禁され、身代金と多くの所領を差し出して、漸く1年後に自由の身になったが、大司教としてケルンに戻ることはできず、隣のボンに身を落ちつけざるを得なくなった。
ジークフリートは1297年4月7日にボンで亡くなり、ケルンの人々が大司教のケルン大聖堂に埋葬することに反対したため、Bonner Münsterボンミンスター教会に埋葬された。
1652年に彼の墓は強盗によって冒涜、略奪され、1794年には再びフランス革命軍により略奪を受けた。
1947年、ジークフリートの安置所は科学的検査の上、参詣が再開された。
参考写真:ルクセンブルク伯爵ハインリヒ6世が兄弟を助けようとしている(拡大) -
*Graf Heinrich VI. von Luxemburgルクセンブルク伯爵ハインリヒ6世は上の写真で下の兄弟を助けようとしている騎士(戦死)
Heinrich VI. von Luxemburgハインリヒ6世(1240年頃~1288年6月5日)は、ドイツ・フランス系のルクセンブルク伯(在位:1281年 - 1288年)で獅子伯と呼ばれた。ルクセンブルク伯Heinrich V.ハインリヒ5世とその妻でバル伯アンリ2世の娘であるMargarete von Bar マルグリット・ド・バルの間の長男として生まれた。1270年、父が主君のフランス王König Ludwig IX.ルイ9世率いる第8回十字軍に参加した際は、伯家の摂政を務めた。
リンブルク継承戦争ではゲルデルン伯家に味方し、ブラバント公家に敵対する。1288年6月5日、リンブルク継承戦争中のヴォリンゲンの戦いに参加した際、弟のWalram I. von Luxemburg-Lignyリニー領主ワレラン1世(リンブルク・クセンブルク家の17世紀まで続いた傍系ルクセンブルク・リニー家の始祖にあたる。~1288年)、父の2人の庶子BalduinボードゥアンおよびHeinrich von Houffalizeウッファリーズ領主ハインリヒとともに戦死した。
尚、ルクセンブルクには、ルクセンブルクをかつて統治したルクセンブルク伯、ルクセンブルク公、および現在のルクセンブルク大公国がある。
①Graf von Luxemburg ルクセンブルク伯(963?1353年)
ルクセンブルク・アルデンヌ家(リュッツェルブルク家)
ナミュール・ルクセンブルク家
リンブルク・ルクセンブルク家には前述のハインリヒ6世(1281年 - 1288年)、その息子のハインリヒ7世(1288年 - 1310年) - ローマ王(1308年 - 1313年)、神聖ローマ皇帝(1312年 - 1313年)がいる。
②Herzoge von Luxemburgルクセンブルク公(1354~1814年)
③Großherzog von Luxemburgルクセンブルク大公(1815年~)
*Graf Rainald I. von Geldernゲルデルン伯爵ライナルト1世(女公イルムガルトの夫)
ヴォリンゲンの戦いで受けた傷がもとで、精神を病んだ。1316年にゲルデルンで息子のRainald II.ライナルト2世が反乱を起こした。1320年に彼は狡猾な方法で父を捕らえ、牢獄に閉じ込めた。ライナルト1世は1326年死去した。
*Graf Adolf von Nassauナッサウ伯爵アドルフ(1250~1298年)
ナッサウ伯爵アドルフは1288年、ヴォリンゲンの戦いにおいてゲルデルン伯ライナルト1世側で戦い敗北し、捕虜となったものの、無償で釈放された。
後に神聖ローマ帝国のローマ王(ドイツ王、在位:1292~1298年)になった。ナッサウ家出身で唯一の帝国君主だったが、権力基盤は脆弱で、正式な皇帝として戴冠するためのイタリア出兵を行わないまま、宿敵のハプスブルク家Albrecht I.アルブレヒト1世(後に神聖ローマ帝国のローマ王(ドイツ王、在位:1298~1308年)に敗れ戦死した。
*Dietrich Luf II. (Kleve) ディートリヒ・ルフ2世(クレーフェ)
ディートリヒ・ルフ2世はゲルデルン伯爵とケルン大司教に家臣として仕えていたので、従軍した。
*Graf Dietrich von Altena-Isenbergアルテナ・イーゼンベルク伯爵ディートリヒ
リンブルフ家の後継者争いとそれに伴う1288年のヴォリンゲンの戦いでは、ディートリヒ伯はケルン大司教ジークフリート・フォン・ヴェスターブルクの側に立った。
戦いの勝者であるブラバント公ヨハン1世は、その後ディートリヒ伯の居城Schloss Hohenlimburgホーエンリンブルク城(Hagenハーゲン)を攻めたので、ディートリヒと家族はStyrumシュタイラム(Mülheim an der Ruhr)に避難した。そしてこの地にSchloss Styrumシュタイラム城を築いて居城とした。
参考写真:13世紀から14世紀ドイツのハプスブルク家(茶色)、ルクセンブルク家(紫色)、ヴィッテルスバッハ家(黄緑色)の支配地を色分けしたMap -
<勝利したブラバント公派>
*Herzog Johann I. von Brabant ブラバント公ヨハン1世(Der Siegreiche勝利王:1253~1294年)
1292年、ナッサウ家出身の神聖ローマ帝国のローマ王(ドイツ王、在位:1292~1298年)Adolf von Nassauアドルフによってライン川下流の帝国行政官に任命され、神聖ローマ帝国内で広範な独立を達成した。
(アドルフは皮肉にも1288年、ヴォリンゲンの戦いにおいてゲルデルン伯ライナルト1世側で戦い敗北し、捕虜となった。その後、無償で釈放された)
ブラバント公ヨハン1世は中世の騎士の馬上試合(Turnierトーナメント)では、恐れられた騎士でした。ヴォリンゲンの戦いでもブラバント公は強く、ルクセンブルク伯ハインリヒ6世と彼の3人の兄弟を倒したとされている。
ブラバント公ヨハン1世はまた、芸術好きで、詩人としてその才能を示した。それはハイデルベルクのCodex Manesseマネッセ写本(マネッセ写本は中世盛期におけるドイツの代表的な140人の宮廷詩人(ミンネゼンガー)の詩歌を収録した大型の豪華彩飾写本。詩節 総計 6000)に掲載された9作品によって知られている。
ブラバント公ヨハン1世は地主階級に対する法的関係を新しく成文化したというから文武両道の騎士であったようだ。
因みに1293年9月20日、彼はBar le Ducバル・ル・デュク(フランス北東部の町)で行われた中世の騎士の馬上試合(Turnierトーナメント)に出場し、重傷を負った。1294年5月3日に長い闘病生活の末に亡くなった。
参考写真:Worringen_1288・・・ブラバント公ヨハン1世がルクセンブルク伯爵ハインリヒ6世の4兄弟を倒した。 -
*Graf Adolf V. von Bergアドルフ5世ベルク伯爵
1288年6月5日、アドルフ5世伯爵はブラバント公に味方し、ヴォリンゲンの戦いでケルン大司教ジークフリート・フォン・ヴェスターブルクを破った。
この戦いは中世最後の大きな、そして最も血なまぐさい戦いでしたが、その支配地の市民や農民たちにも別の意味の勝利をもたらした。
1288年8月14日、戦いへの市民や農民たちの献身を認め、アドルフ5世はデュッセルドルフをWipperfürth,ヴィッパーフュルト、Lennepレネップ、Ratingenラーティンゲン(1276年に昇格済)に次ぎ、伯爵領で4番目の都市の地位に昇格させました。
対立したケルン大司教ジークフリート・フォン・ヴェスターブルクは Schloss Burgブルク城( Solingenゾーリンゲンにあったベルク伯爵の居城)で13ヶ月間、戦時捕虜として投獄された。
だがその一方で、アドルフ5世伯爵は、1292年にケルン大司教の狡猾な策略により捕虜となり、1296年9月28日または29日に拘留中に死亡した。
*Graf Otto I. von Waldeckバルデック伯オットー1世
オットー1世は1276年にヴェストファーレンの和平同盟に参加したが、祖父の西方に対する拡張主義的な政策も続けた。(バルデックはヘッセン州北部に位置する)これは主に、ケルン大司教が所有していたHerzogtum Westfalenヴェストファーレン公国に向けられたものだった。
1288年、リンブルフの後継者争いの際、オットー1世は騎士諸侯と共にケルン大司教ジークフリート・フォン・ヴェスターブルクに敵対し、ブラバント公ヨハン1世の側についてヴォリンゲンの戦いに参加した。この戦いはブラバント公の決定的な勝利となり、ケルン大司教の拡張主義的な野望に終止符を打った。
この戦争の過程で、オットー1世はケルン大司教が創設した町Hallenbergハレンベルク(高地ザウアーラント)を破壊し、更にヴォリンゲンの戦いに勝利した後、Volkmarsenフォルクマルゼンの町(北ヘッセン、カッセルの西北西約 28 kmのバルデック盆地北端に位置する)とフォルクマルゼンにあるKugelsburgクーゲルスブルクの半分を手に入れた。
*Graf Eberhard I. von der Markマルク伯エーバーハルト1世
エーバーハルト伯爵は生涯を通してケルン大司教の権力と戦っている。1287年から1288年にかけての冬、彼はまずケルンの人々に占領されていたHagenハーゲン近郊のLimburgリンブルフを解放し、次に反対側のRaffenburgラッフェンブルクを包囲することに成功し、そこからケルン大司教に対するヴォリンゲンの戦いに臨んだ。その後、彼はWerlヴェルル(ゾースト)の都市とエッセンの Neue Isenburg ノイエ・イーゼンブルクを攻略した。この出来事の背景には、リンブルフ家の継承権争い(前述参照)があった。
参考写真:Herzog Johann von Brabant ブラバント公ヨハン1世のヴォリンゲンの戦いの図(獅子の旗と盾の中央の騎士がヨハン1世:Codex Manesseマネッセ写本)
(2024年10月18日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
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更にライトの町の歴史を読むと、出身者にこんな人がいた。
ヒトラーの遺書によりドイツ帝国首相に任命されたヨーゼフ・ゲッベルスである。
貧しいが敬虔なカトリック信者 の父母に彼は育てられ、彼の他に兄が2人と姉妹2人がいて、出来の良かった3男は司祭になるように両親から望まれていた。
Paul Joseph Goebbelsパウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(1897~1945年)は、ドイツの政治家。 ナチ党政権下では国民啓蒙・宣伝大臣を務め、*強制的同一化を推進した。
第二次世界大戦の敗戦の直前、ヒトラーの遺書によってドイツ国首相に任命されるが、自らの意志でそれに背き、ヒトラーの後を追って、家族を殺害後に自殺した。
*Gleichschaltung グライヒシャルトゥング(強制的同一化、均一化)とは、国家社会主義ドイツ労働者党によるドイツ国内の権力の掌握後に行われた、政治や社会全体を「均質化」しようとするナチス・ドイツの根本政策およびその思想を指す言葉。具体的には中央政府への政治経済的イデオロギー的権力集中の過程を指し、州自治(地方自治)の吸収や、政党・労働組合の解体も含む。
参考写真:Goebbelsゲッベルスの肖像写真 (1942年)
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この旅行記へのコメント (2)
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- 旅猫さん 2024/11/21 09:40:15
- 歴史
- jijidarumaさん、こんにちは。
ドイツの古城や古城ホテルがお好きでしたか。
欧州の古城と言うと、どうしてもドラキュラを思い浮かべてしまいます。
それにしても、日本と同じく、やはり戦乱の時代はどこにでもありますね。
それぞれに歴史があり、大きな時代の転換点となる戦いがあり。
個人的には国内ばかりですが、欧州の中世の歴史も面白そうです。
旅猫
- jijidarumaさん からの返信 2024/11/21 19:14:03
- Re: 歴史
- 旅猫さん、
今晩は。お立ち寄りとコメント書き込み、ありがとうございました。
本編は私も途中であきらめかけたものですから、読む方すれば、たいへん面倒であったことでしょう。私の家族に残す意味もあって、出来るだけ固有名詞はドイツ語を併記しますので、多分読みにくいし、ドイツ人の氏名などは読んでいる最中に忘れてしまい、元に戻って読み直す事になりがちです。
日本の戦国時代を思わせる、ドイツの地方・地域の争いを投稿しましたので、本編にご興味を持っていただいただけで、深謝しております。
さて、欧州の古城というと、ドラキュラ(ルーマニアのブラン城)が旅猫さんのイメージに御有りの様子、ドイツの古城に拘泥したばかり、残念にもドラキュラの城は見ていません(苦笑)。
ドイツ感傷旅行と称して、退職後の旅を十数回訪れましたが、目的は古城ホテルや古城探訪、そして古城ホテルのグルメレストランの食事を楽しむことでした。
例えば、2016年秋の旅ではライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの4つの地域を中心に巡り、15日間、機中1泊、ホテル13泊のうち12泊を古城ホテルに泊まるといった旅をしました。
従って、かつて宿泊した古城ホテルも相当な数になっています。
レンタカーで田舎を巡りますのでそうした事が出来るのです。水城、山城、平城の古城・宮殿も様々で、古城の歴史を読み解く面白さもありますが、時には伝説が残る古城もあり、伝説好きでもある私には実に興味深いのです。
<古城巡り(私の覚えにこんな事を書き残しています)>
2012年の春に走った地域は古城群が実に多く、訪れる事が出来たのは52の古城でした。2013年の秋の旅は30の古城を訪れ、2014年の春の旅では29の古城を訪れた。2015年の夏は数が減ったものの、21の古城めぐりが出来た。
2016年は昨年同様の21の古城を数えた。
古城・古城ホテル好きとしては、まずまず満足でした。
この5年で合計153の古城数になっているが、ドイツの古城群は2万とか3万とか、桁が違う数があります。
ドイツの旅は、もう困難でしょう。昔のアルバムをめくって、楽しむしかなさそうです。
それではまた、ありがとうございました。
jijidaruma
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