2022/05/02 - 2022/05/02
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kummingさん
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4日目
つかの間、世界平和のことも、コロナのことも頭から消えて、毎日が命の洗濯♪
神前で手を合わす時、世界平和、コロナ撃退、お祈りし、ぷー珍暗殺、家族の健康、海外に行けますように、などなど、お願い申し上げる事が日に日に増えて、いく~(笑)手を合わせた回数も半端ないので、少しは効果あるかも?
見渡す限り何もないほぼ原っぱ、そんなところを電動チャリで風切って走っていたら、ついつい妄想が古代へと羽ばたき、気付いた時には迷子
おばちゃん、藤原京跡近辺を電動チャリで疾走~の巻
↓よろしかったらこちらも♪
https://4travel.jp/travelogue/11714008
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
1日置いて
再度訪れた橿原神宮前駅
ここからバスで
色んな処は行けるらしい
今日の行き先は、バスで廻るか(本数少なく、乗り継ぎ不便、滞在時間がなくなる)
電動チャリにするか?
ずいぶん熟考を重ねた結果 -
10時開店前30分着
ここのおじちゃんが「自転車で楽々行ける!」
と
太鼓判♪
でもね、地元の人には既知の道
私には初めての道?
おじちゃんの自信も、安請合いも、額面通りには受け取れませぬ -
まあ、大きい道は順調~
道案内もありました♪ -
到着^ ^
本薬師寺跡
ちょっと見、フツーの一軒家、みたい
https://youtu.be/OCzolTo-T08 -
忘れ草
わが紐に付く香具山の
故りにし里を忘れむがため
大伴旅人
忘れ草を自分の紐につける。香具山のあたりの
あの懐かしい故郷をひとときでもわすれるために。
碑文は作家黒岩重吾氏による -
本薬師寺跡(もとやくしじあと)
本薬師寺は『日本書紀』によると、680年に天武天皇が皇后(持統天皇)の病気平癒を祈念して発願された。建立が開始された時期は不明だが、天武天皇崩御後の688年に行われた仏事には少なくとも堂塔の一部が完成していたと考えられる。その後、697年に開眼会が開かれ、翌698年に伽藍はほぼ完成したと伝えられている。
寺域は藤原京右京八条三坊を占めていたが、平城京遷都に伴い718年に平城京右京六条三坊に移転された(『薬師寺長和縁起』)。『中右記』によると、寺が移転した後も平安時代中頃まで伽藍の存在が確認できる。また、この頃には平城京の薬師寺に対して本薬師寺と呼び、区別するようになった。
伽藍は、中心に金堂、その前面、左右対称に東・西塔を配置し、南に中門を開きその両翼から回廊を巡らせ金堂北側の講堂に取り付くいわゆる薬師寺式伽藍配置と呼ばれるもの。 -
司馬遼太郎が考えたこと
無題(「わが憩いの場所」欄)
拙宅からは20分も行けば、大和盆地への峠がある。それを越えて3、40分もゆくと飛鳥の古墳と丘陵のむれのなかに入る。近所だと思って、ときどきゆく。飛鳥は同じ大和でも奈良、西の京、斑鳩などとはちがい、荒れることからややまぬがれている。修学旅行団も、観光バスもここまではあまり来ない。きょう、田の中にある元薬師寺の礎石の群れをさがしあてた。礎石のむこうは葦牙(あしかび)のにおいたつような万葉ふうの野、といいたいが、そこまでは注文どおりにはいかない。畝傍の裏のただの畑である。 (昭和41年6月) -
おじゃましま~す
-
ただの石!
とちょっと前の私なら通り過ぎていた(笑笑) -
発掘調査は1976年の寺域西南隅での調査に始まり、金堂・東塔・西塔・中門・回廊の一部で行われ、貴重な成果が得られた。
金堂・東塔・西塔は、基壇等の規模が平城京薬師寺とほぼ同じである一方、中門・回廊は、規模・構造ともに異なることが明らかになった。伽藍の造営は金堂に始まり、続いて東塔・中門・回廊、更に遅れて西塔の順に行われたことが分かった。 -
従来は堂塔の位置関係や礎石配置かが平城京薬師寺と一致することから移建説が有力視されていたが、発掘調査により、一部の堂塔は移建されないまま旧地に残っていた可能性があることが判明した。
-
色んな方向から見てみます
-
そして
外を歩いてみたら -
ん?
-
これですか?
しにあさんが見逃した、とおっしゃっていた?
https://youtu.be/IcHd9SWo4TY -
では
とくとご覧あれ
(動画+念のため、3枚もup、という大盤振る舞い) -
外をぐるっとまわって戻ってきた
-
史跡 本薬師寺跡
の碑文 -
-
お地蔵さま、たち
-
上空撮影 本薬師寺
藤原宮史料室展示より -
今
ココ(赤い印) -
あら~、空に飛行機雲♪
-
♪
-
藤原京朱雀大路跡
藤原京朱雀大路は、藤原京の左京右京ヲ分けるメインストリート。この場所から約200m先には、藤原宮の正面玄関にあたる南面中門(朱雀門)が位置し、その門から南に延びていた道。道の東西両側には溝が掘られ、発掘調査により、道路の路面幅約19m
、東西両側溝幅約4m、東西両側溝の中心間の距離が24mであることが判明した。 -
藤原宮朱雀大路跡
ここは藤原京の中央街路朱雀大路の跡です。ここから北200mのところに、藤原宮の正面玄(朱雀門)があります。その門から南にのびる道が朱雀大路です。
朱雀大路は京内を基盤目状に走る街路の中でも最も広いものです。
この大路は
ここからさらにまっすぐ南に日高山をこえ、飛鳥川をわたって、京の表玄関(羅城門)まで1.5km も続いていたと推定されます。
朱雀大路は正月元旦の儀式や外国使節を迎える際の儀式など、国家的行事に使われました。 -
説明書きによると
現在、芝生が張られているところが路面であり、バラスを敷き両側を石積みしている箇所が両側溝の位置 -
よくわからない(ーー;)
想像力に頼るロマン派
になりたいけれど、
力量不足の私のために、
VR とかARとかいう最先端技術で立体画像処理してくださ~い -
前方に見えるは
天香具山?! -
♪
-
このお山も
大和三山? ←耳成山だそうです
写真のおじちゃまに、お尋ねして、道を確認しました
藤原宮跡資料室はどちらですか? -
どこまでも続く一本の道♪
-
このように
案内板はいっぱいあれど
Google くんが~、と責任転嫁
かなり、ぐるりましてござる(o_o) -
目的地は
奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室 -
ようやく辿り着けた♪
奈良文化財研究所 藤原京跡資料室 -
藤原宮大極殿院の調査
藤原宮の中心に位置する大極殿院は、周囲を回廊で囲まれた空間で、その中央には儀式などの際に天皇が出御する大極殿がある。
中略)
藤原宮と前期難波宮では、規模や回廊の配置に類似性がみられる一方で、脇殿の有無など、建物配置には違いがあることが明らかになった。 -
-
おやあ~
小学生のみなさまが
そろってご静聴中
もしや、30年前この中に、いました?クサポンさん♪ -
こちらはどなただったかしらん?
-
展示瓦の使用建物
上左から
朝堂 大極殿 大極殿院南門 朝堂院回廊 -
右上 瓦
本薬師寺 大官大寺
左下 飛鳥・藤原京諸寺の瓦 右下 本薬師寺瓦 -
土器のうつりかわり
飛鳥藤原地域に都がおかれた100年の間に、土器は大きく変わった。飛鳥I~飛鳥Vの5つの段階に分けられる。最も変遷をつかみやすいのは食器の類。土師器では、銅鋺を模した杯(つき)があらわれ、形や光沢を忠実にうつした初期の段階かr、次第に平たい形となり、表面の磨きを省略するものへと変わっていく。須恵器も古墳時代以来の杯が7世紀中頃に姿を消し、銅鋺、仏器をうつした形の杯が多くなる。器の種類も増えてくる。
土器の実年代も文献や伴出の木簡を手がかりに推定でき、遺跡の実年代を判定する基準尺となっている。 -
左 藤原宮大極殿下層の運河
右 年紀を書いた木簡 -
左 藤原宮の東外濠と内濠
右 年号を書いた木簡 -
道づくり
道づくりは天武時代に始まっていた
条坊街路は宮域内でもみつかっている。しかし、それは藤原宮の建物よりも古く、建物を建てる前に埋められていた。そして、大極殿造営前の運河は、この条坊道路を壊して掘られていた。運河からみつかった年号を書いた木簡からすると、都の道づくりは天武時代の685年ごろにはすでに始まっていたらしい。
下
左から 元薬師寺東塔の跡
藤原宮造営前の条坊街路とその側溝
天武持統合葬陵 -
新しい都 ー藤原京ーをつくる
持統天皇は694年12月、飛鳥浄御原宮からその西北方、藤原宮へと遷った。710年平城京へうつるまで、持統・文武・元明3代の天皇に受け継がれた。
藤原の地への遷都はすでに天武天皇の時代には決まっていた。壬申の乱(672年)に勝利をおさめた天武天皇は、中国の制度を手本にした律令制にもとづく国づくりをめざした。新しいタイプの都がどうしても必要だった。新都の建設計画は、天皇の死によって中断したが、その遺志を受け継いだ持統天皇によって、日本最初の本格的な都が誕生する。藤原宮へ遷ったのは建設工事を再開して4年後のことだった。 -
建築資材を集める
太しき宮柱は近江上山(おうみたなかみやま)できり出す
宮の建設だけでも数万本にのぼる太い柱と大量の板材、そして巨大な礎石も数千個必要だった。『万葉集』の「藤原宮の役民の作る歌」によると、木材は近江の田上山できりだし、そこから筏にくんで宇治川を下し、木津川をさかのぼり、泉の津(木津)で陸あげし、奈良山越えで運んだらしい。藤原京にたどりつくには、佐保川や寺川などの水運を利用し、さらに新たに運河を掘って運びこんだ。田上山では奈良時代にも伐採が続き禿山となった。復旧工事は今も続いている。 -
柱、礎板
左下 右下 近江田上山で木材をきりだす
初めての瓦葺き宮殿
日高山の瓦工場 -
左 完成した都
藤原の都は、大和三山に囲まれた地につくられた、新しい形の都だった。中国の都にならって、基盤目状に大小の道路を通して整然とした人工の街をつくり、瓦葺きの宮殿を初めて採用し、また、天皇の代ごとに都を移すしきたりを改め天皇3代に引き継がれるなど、画期的な内容をもっていた。貴族や役人・庶民が住む藤原京は、幹線道によって区切られた東西5.3m、南北5.3mの大きさをもち、宮はその中央約1km四方の範囲をしめた。
右 藤原京の全景
日本最初の都・藤原京を1000分の1で表現した模型。
基盤状に区画された京の中心に藤原宮がある。その北に耳成山、東に香具山、西に畝傍山があり、飛鳥川が斜めに横切る。1km四方の藤原宮には、現在でいう、皇居と国会議事堂、そして霞ヶ関の官庁街にあたる機能が集まっていた。京には貴族、役人のほか庶民も住み、市場や大小の寺院もあった。 -
上段
北面中門(猪使門・いつかいもん)・大垣、外濠、内濠
中段
宮の正門 朱雀門
下段
御即位之図 紫宸殿前での即位式の模様 -
左上 右上
西方の役所跡 東方の役所跡
下
平城宮の役所? -
平城宮
と
藤原宮
の位置関係
と
唐の長安城
との大きさ比較 -
本薬師寺跡
金堂の東西に塔を並べるニ塔一金堂の新しい伽藍が初めて試みられた。 -
本薬師寺金堂跡
-
本薬師寺石敷き参道跡 中門、金堂、東西塔を十字形につなぐ
-
左 右
古代の役人の似顔絵 日本最古のカレンダー -
上
庶民の食事
左下 右下
貴族の食事 下級役人の食事 -
-
貴族の食事
↓コレって、gorgeous (*_*)
1 鴨とセリの汁
2 塩
3 醤(醤油に似て調味料)
4 ハスの実入りご飯
5 生鮭、大根、紫菜(のり)のなます
6 鹿肉の塩辛
7 生牡蠣
8 干し蛸
9 いりこ(ゆでて干したナマコを?したもの)??
10 車エビの塩焼き
11 タケノコ、フキ、菜の花の炊き合わせ
12 焼きアワビ
13 蘇(牛乳を煮詰めた乳製品)
14 塩水に漬けて発酵させた漬物
15 ナスとウリを醤に漬けた漬物
16 菓子(干し柿、草モチ、煮あずき)
17 4(ハスの実入りご飯)をハスの葉で包んだもの -
上段 土馬
祈りやまじないの道具
中段 左 人形
人形は7世紀後半からあらわれる。身体のなかの病気を人形に移し、それを溝に流すことによって病気を治すことができると考えられた。土馬や船形なども水に流され、けがれや罪、わざわいを運ぶ役割をになったらしい。
中段 右 薬物を記した木簡
疫病と薬
病気になると皇族は内薬司、役人は典薬寮で治療を受けた。診療は医師・針師・按摩師・呪禁師らが行う。漢方の薬草は菜園で栽培したり、全国から集めた。疫病は罪やけがれが原因と考えられ、呪術も医療行為であった。
下
「観世音経」の木簡
観世音経は観世音菩薩信仰の基本的な経典で、日本列島におけるその存在を示す最古の史料 -
イチオシ
藤原宮の木簡にみえる食品
貴族の給料・役人の給料
全ての役人に位に応じて品物(布・綿・鍬など)が支給されたが、貴族とそれ以下の役人とでは大きな差があった。貴族は位と身分によって、さらに多くの品物や水田なども支給され、使用人も国の費用でついた。当時、成人男子の日当は1文。笠朝臣安の給料は約310人分にあたる。
ひとこと♪
ええっ(*_*) 不比等さまったら、309070人分、独り占め?
そのくらいのお働きが評価されていたに違いない(^O^) -
上写真
「持統天皇文武天皇藤原宮趾」の石碑
高殿説を支持する立場から建てられた石碑が大宮土壇の一角に今も残る。
藤原宮論争
藤原宮の研究は江戸時代に始まる。その場所については多くの論争があった。飛鳥寺東方の明日香村大原説、「大宮土壇」のある高殿説、そして鷺す神社北方約1kmにある「長谷田土壇」が大極殿だとする醍醐説。現在の位置に初めて藤原宮を推定したのは、江戸時代中期の国学者、賀茂真淵。『万葉考』の中で藤原宮は「香具耳成畝火の三山の真中也。今も大宮殿と云い、いささかの所を畑にすき残して松立るある是なり」と書きのこしている。 -
藤原宮の御井の歌 「万葉集」巻一
都が奈良に移った後、藤原宮があった場所は長い間わからなくなってしまう。条理制による耕地整理で田んぼとなり、宮の跡や町割りの跡がかき消され、研究の手がかりとなる史料も少なかったためである。
わずかに、「万葉集」巻一の「藤原宮の御井の歌」から大和三山に囲まれた範囲にあったことがわかり、また、鎌倉時代に表された『扶桑略記』や『釈日本紀』が「鷺す坂」の北にあったことを伝えるのみである。 -
1966年、23年ぶりに藤原宮の発掘調査が再開された。国道165号線のバイパス建設に先だって奈良県教育委員会が行ったもの。発掘は1969年まで6次にわたって行われ、宮の北と東、西を限る大垣と外濠をみつけ、宮域を確定する大きな成果をおさめた。初めて木簡を発見し、郡、評論争に決着がつく大きな成果もあった。そして、世論の強い後押しもあえい、バイパスは路線を宮域外の西に変更、宮跡は保存されることになった。
郡評論争とはなんぞや?
郡評論争とは、大化改新ごろの地方行政を示す文字として、「郡」が用いられたか、「評」であったか、という点を軸に展開された論争。
藤原京から発見された大量の木簡によって、「郡」は大宝律令(701年制定)にもとづく単位で、それ以前は「評」の用語が使用されていた事が判明した。
したがって、『日本書紀』(702年完成)記載の改新の詔(646年発令)に「郡」の文字が使用されているのは、この詔が『日本書紀』編纂の段階で大宝律令による修飾をうけた!事を示している。
やっぱりね^o^ 修飾、じゃなくて、加筆、改竄じゃない?? -
仮整備が行われている大極殿地区
-
見学終わった小学生のみなさん
「何か質問はありませんか?」
「見学して思ったことは?」
などなど、質疑応答、がんばってま~す♪
この後、みなさんとご一緒に(途中ではぐれますが)
藤原宮跡へ大移動^ ^ -
この資料室も実は遺跡の上、にあるらしい
この庁舎は藤原京の中央やや東寄りの左京六条三坊に設置している。建設前に行った発掘調査によって多くの建物や塀・溝・井戸などがみつかり、この坊全体が一つの敷地として利用されていたことが判った。
そのため建設にあたっては、地下遺構を保存するためさまざまな工夫をこらし、一部は地上に復元あるいは位置を表示した。
ここでは盛り土芝張りで建物の範囲を、ツゲの木で柱の位置を示した。また東方の板塀は当時の技法にのっとって再現したもので、金具の一つ一つまで忠実に作ってある。 -
唐居敷(からいしき)と礎石
いずれも藤原宮の西面中門の調査でみつかった。花崗閃緑岩を加工した巨大なもので、宮城門の規模や細部構造を知る上で貴重な資料である。(中略)
唐居敷には長辺にそって蹴放しを作り出し、上面に方立の柄穴が、またその脇に扉の軸を受ける軸摺り穴の半分が彫りくぼめてある。蹴放しの先端は柱の円弧に合わせた凹面となっている。 -
ふ~ん
何となくわかりますか? -
ちょっと前だったら、
通り過ぎてた、ただの
『石』
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この旅行記へのコメント (4)
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- しにあの旅人さん 2022/06/09 10:50:47
- 本薬師寺からあの辺りですね。
- 本薬師寺だ。
私たちが行った時と何かが違います。
周りの田んぼが、耕作放棄地になっていませんか。ちょっと離れた田んぼは稲が植わっている。
のどかな田舎です。藤原京が廃れてから、1200年くらいかな。あまり変わっていない。ここ数十年で家が出来始めたんでしょうね。
石ころなんかは、「わーい、人が来た!」って喜んでいるはず。
無題「わが憩いの場所」
初めに横書きで、「司馬遼太郎が考えたこと」って書いてあるので、司馬遼太郎じゃないですかね。
By妻が見つけた時は、新聞の切り抜きのコピーがぺっちょ~と張ってあっただけだそうです。
出世して、ちゃんと額に入っている。本薬師寺も面倒見る人がいるんだ。
By妻が粗末だと書いたんで、読んで反省したのかも。
金堂の石なんて、言われなかったらただの石ですよね。
誰でも通り過ぎます。
塔の礎石です。見逃したやつ。たぶん西塔。
朱雀大路跡に、路面と側溝が復元されている、こんなところあったけ?
7月だったから、蛇が怖くて草むらに入らなかった。
大丈夫でしたか?あの長いの、お好きじゃないですよね。
先日我が家の近くで散歩中に今年初オニョロに出会いました。70センチ級の大物。縁起がいいかも。By妻は10mほどダッシュで逃げました。この時は思いのほか敏捷。
畑耕作中のおじちゃまの背後はたぶん耳なし。
藤原宮資料室は、すごい!
しっかり見ていますね。
私はほとんどパスしている。
材木を近江で切り出した話なんか、どこにあったのだろう。こういう話は好きなのですが。
ただの石も、背景を知ると実に奥深い。石ころ一つで1000年を語り合おうではありませんか。
- kummingさん からの返信 2022/06/09 18:18:19
- Re: 本薬師寺からあの辺りですね。
- しにあさん、こんにちは♪
藤原京跡はまだ発掘調査が進んでいないそうですが、本薬師寺跡もこのまま何もない原っぱ、でも良いのでは? と、私も司馬遼太郎さんに賛成(ほんとだ、上↑の方に書いてある)♪ 観光客や団体さんがどっと押し寄せるようなメジャーな観光地にはなって欲しくないです。平城宮跡、みたいな復原も、あちらはあちらで、楽しめますが♪
しにあさんby妻さんがいらした時から、ちょっと手が入っているのですね。管理する人がいるのでしょう。
藤原宮資料室にあった、本薬師寺跡の空撮写真と、自分が目で見た石たちを、照らし合わせてもよく分かりませんが、ただの石、ではない!と思って眺めて参りました。
朱雀大路跡はGoogle map で表示されたので、そこは通らなきゃ!と、気を付けてチャリ徐行していたら、あの説明板に遭遇しました。あそこと藤原宮跡がどう繋がるのか、いまいち分かりません(-。-;
藤原宮資料室の展示の中で木簡と一緒に「藤原朝臣不比等」のお給料を見つけて、嬉しかった♪ 藤原宮こそ、不比等さまが活躍していた地、なのに、その足跡は今何処?(;_;)
石ころで1000年の歴史を語る、はしにあさんby妻さんにお任せしますm(._.)m
-
- さっくんさん 2022/06/08 18:25:28
- こんばんは
- 舞台が日本に移っても歴史への憧憬が伝わって来ます。
ぷー暗殺、さらりと恐ろしい事を(笑)
本当に許せない行為でありますが、一方アメリカも…ウクライナがまるでアメリカ製武器の実戦見本市の様になっています( ノД`)…
なんかシリアがウクライナにシフトとしただけで、超大国が算盤を弾く下で小国が破壊の限りを尽くされる構図は永遠変わらない事に憤りを感じます。
- kummingさん からの返信 2022/06/09 17:50:02
- Re: こんばんは
- さっくんさん、ご訪問&ぽち&カキコまで、ありがとうございます♪
ぷー珍、1人で世界を混乱に陥れているんじゃ? さっくんさんのおっしゃる様に、西側がいつも正しいとは思っていませんし、アフガン、イラク、東欧でアメリカがやった事をぷーが真似している、とも言えるし、NATO がロシアを追い詰めた面もあるけど、それはロシアの仲間になりたい、と他国に思わせる魅力がないからであって。誰も保護して貰いたがってない地域に勝手にしゃしゃり出て、時代錯誤的帝国主義思想を振り翳すぷーは、やっぱりおかしいと思う。冷戦後の国力低下を認めず、大国としてのプライドだけで負け犬の遠吠え?この後、もし武力制圧に失敗しても、ロシアの地位を、どこに落とし込んで行くか、難しい舵取りを迫られますね。
確かに、アメリカの武器商人は一人勝ちの様相。
5月末、オイルサーチャージが上がる直前、フライト予約、ぽちりそうになりました(ーー;) 来年春過ぎても渡航出来ないなら、もうどうやって自分を持ち上げたらいいか?分かりません(TT)
本日、1€→144円也(*_*)
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