2022/03/24 - 2022/03/24
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たびたびさん
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柳川のさげもんめぐりは、稲取の「雛のつるし飾り」(https://4travel.jp/travelogue/11114477)、酒田の「傘福」(https://4travel.jp/travelogue/10953173)と並ぶ日本三大つるし飾りのひとつ。以前、ちらりと拝見したことはありましたが、記憶がおぼろげ。改めて、じっくり味わってみたいと思って今回久しぶりに訪ねることにしました。
柳川古文書館の「松井家・立石家のお雛様」は旧家のひな人形らしい上質さが感じられるし、ほか雛道具類の充実度が素晴らしい内容。資料館らしい正統派の雛人形ですね。一方の一番期待していたお花は段飾りもさげもんも数が揃っているのはさすがなんですが、誤解を恐れずに言わせてもらうと平面的な飾り付けでちょっと遊び心には欠けるかなぁ。やっぱりひな飾りは遊び心が大事ですからね。そういう意味で一番印象に残ったのは古民家北島のひな飾り。段飾りとさげもんを重層的に配置して、さげもんの森を分け入って行くみたいな感覚。雛道具というか小物の類の組み合わせも細々ととっても賑やかで楽しいもの。女将さんの見る人を思い切り喜ばせたいという思いが詰まっているような飾り付けでした。
ところで、せっかくなので柳川のこと。柳川と聞けば、市街を縦横に走る掘割の川下りにうなぎのせいろ蒸し。北原白秋ほか多くの文人が輩出し、柳川藩主立花家の歴史を伝えるお花の松濤園も大きな見どころ。筑後を代表する郷土色が豊かな街というイメージが強いですよね。
少し遡って九州の歴史から整理すると。。戦国期の九州でまず台頭したのは豊後の大友宗麟。キリシタン大名としても知られる宗麟は、大内氏が陶氏に滅ぼされると九州からその勢力を駆逐し、豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後6カ国の守護へ。その後の毛利氏の侵攻にも耐えこれを撃退しますが、肥前の龍造寺隆信との今山の戦いでは鍋島直茂(後の佐賀藩主)の奇襲攻撃に遭い撤退。これが龍造寺氏の躍進につながり、九州は新興勢力の島津氏と合わせた三つ巴の構図が出来上がります。ただ、その均衡も長くは続かず、耳川の戦いで島津氏に大敗すると北部では龍造寺氏の攻勢も強まり、大友氏は防戦一方に。そして、その龍造寺氏も沖田畷の戦いで島津氏に敗れると島津氏の配下となり、九州は島津氏が席巻する勢い。しかし、大友氏が九州平定を目論む豊臣秀吉に助けを求めるとその圧倒的な兵力を前に島津氏は降伏。大友氏は豊後国一国を安堵されることとなりました。
少し長くなりましたが、この混乱期の筑後国にあって、反大友勢力の侵攻を食い止めていたのが、大友氏の一族であり重臣でもあった立花道雪や高橋紹運。その立花道雪の娘婿であり、高橋紹運を父とする立花宗茂が二人亡き後も秀吉の九州平定の先導役として大活躍。覚えめでたく筑後国柳川13万2千石を賜ったことで立花家と柳川の縁は決定的に。
時を経て、立花宗茂。関ヶ原の戦いでは西軍についたため、浪人となりますが、その才を惜しむ家康に拾われ、大坂夏の陣でもさすがの働きをみせる。柳川藩32万5千石は関ヶ原の戦いの功により田中家に与えられていましたが後継ぎがなく改易となると久留米藩21万石が有馬家に分割されるとともに、柳川藩には宗茂が10万9千石で復帰。元和6年(1620年)のこと。関ヶ原の戦いで改易された大名が旧領に復帰した唯一の事例となりました。宗茂の人物が大きかったのでしょうが、立花家と柳川はよくよくの縁だったのかなとも思います。
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福岡経由で柳川に到着。掘割と掘割のほとりに続く柳の並木。
これを見ると柳川に来た気がしますよね。 -
柳川駅から歩き始めて最初に訪れたのは柳川古文書館。企画展「松井家・立石家のおひな様」が行われていました。
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中に入るとさっそくさげもん。
ただ、吊るし雛は今やけっこうあちこちで増殖中。千葉県の「おんじゅくまちかど つるし雛めぐり」とかマイナーなひな祭りでもそれなりですからね。この感じだけでは、さすが柳川のさげもんということにはならないかな~ -
ところで、松井家は肥後細川藩の筆頭家老で、八代城を預かったあの松井家のこと。その子孫が立花家に嫁いだ際、持ってきた雛人形なんだそうで、立花笙子所蔵とありました。
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時代はそこまで古くないので格式ばった感じはしませんでしたが、
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品の良さは確かに感じます。
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隣りのひな人形も
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まあまあかな。
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こちらは、別の雛道具。
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イチオシ
ずいぶんきちんと揃っていて、
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これがなかなかいい感じ。
雛道具って、雛人形よりかえって味があることも多いです。 -
雛人形の掛け軸に
手前は大きな柳川まり。糸を何重にも巻いて作る工芸品。熊本にも肥後てまりというのがありますけど、同じ九州だしルーツは同じようなことかもしれません。 -
衣装の色合いがいいですね。
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こちらの立石家の方は、大正時代もののようですが、
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黒い漆の雛段がシックで古風な印象。
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かわいらしさだけではなく
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人形の表情には遊び心があって
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そこの加減がけっこう絶妙。
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松井家の雛人形とは違った味わいがあると思います。
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イチオシ
これは、昭和の匂いがするような雛道具。
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生活感が感じられるのも面白いことだと思いますが、
ちょっとしたままごとの感覚かもしれません。 -
ここからはお花を目指しつつ、
ちょこちょこマイナースポットをチェックします。 -
柳川城堀というか掘割は、柳川の顔。柳川市街の中心部を縦横に走っていて、どこにでもある感じ。ただ、目的地にまっすぐ行こうとしても遠回りしないといけなかったりすることが割とあってちょっと厄介に感じることもなくはないですけどね。
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こちらは史跡柳川城塞水門とあって、お堀に水を引き入れる場所です。
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柳川は、北原白秋はじめ多くの文人を輩出している土地柄。柳川文学碑めぐりは、その文人や柳川を訪れた文人に因む文学碑を巡るもので、市街に30か所以上も建っているそうです。
こちらに建つのは、虚子が柳川を訪れて詠んだ「広ごれる春曙の水輪かな」の句碑です。 -
少し進んで、真勝寺。
こちらは、関ヶ原の合戦後、筑後国一国32万5千石の領主として柳川に入った田中吉政の菩提寺。面白いのは、本堂全体が田中吉政の墓とされていること。 -
お寺の関係者と話をしていたら、本堂の床下に墓石があるよう。それでは見ますか?と言われて、床下に入ってみることに。ここが入口です。
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身をかがめて狭いトンネルを進むと小さなスペースに確かに墓石。花が手向けられていますけど、こんなところにとは。。妙な感じではありますね。
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なお、境内には別途、田中吉政公顕彰碑も建っています。
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続いては、鶴味噌。創業明治3年。柳川で140年以上の歴史を持つお味噌屋さんです。
老舗の酒蔵みたいな重厚な店構えなんですが、お気軽にお立ち寄りくださいの張り紙があって、それではと中へ。 -
さらに事務所の方へもう一度入らしてもらうと、
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そこが小さな売場。フリーズドライの味噌汁を試しに買ってみましたが、鶴味噌が特にということでもないと思いますが、それにしても今のインスタントってすごくよくできているんですね。お湯を注いだだけでねぎの刻んだのなんかもしっかり再現されて。むしろ時代の進歩の方に驚いてしまったような気がします。
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すぐ脇の橋を渡って裏手へ。
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振り返るとお堀の脇に並んで建つ赤いレンガの蔵3棟が見えて、これが並倉。大正初期に建てられたものですが、風情があって、白秋も詩に詠ったほど。現在も鶴味噌醸造が使う現役の味噌蔵です。
橋の方からが正面になるのですが、この橋も、あのがばいばあちゃんに関係するものだそうです。 -
さらに進んで。
福厳寺は黄檗宗で、柳川藩主、立花家の菩提寺だった寺。山門の厳めしさはなんとなくそうした格式を感じさせるもの。 -
ただ、境内はがらんとしていてちょっと殺風景なくらい。
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本堂も大きいだけで、むしろ人けのないのが寂しく感じられます。
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市街の南西側に出てきまして、遠くに見えるのはかんぽの宿 柳川。
この辺りの掘割もまた雄大です。 -
ここから、からたち文人の足湯公園を目指しますが、その途中で目に入った成清海苔店。
何でもないような小さなお店ですが、店内に入ると色紙が掛けてあったり、車で乗り付けて大量買いしていくお客さんがいたり。地元でしっかり支持のあるお店であることが窺えました。 -
有明産の振りかける焼き海苔をいただきまして。うちに帰ってさっそくバラ寿司にかけたりしましたが、この上質感はたまりませんね。今まで食べていた海苔も変なものは食べていないはずなんですが、比較するとなんだったんだろうという感じ。女将さん曰く、自分は熱い湯に溶いておすましみたいにして食べるのが好きですとおっしゃっていましたが、やっぱりそれはちょっともったいないかなとも思うし。この後どうしようかなと悩んでいるところです。
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ほどなく、からたち文人の足湯。かんぽの宿 柳川の東側に隣接した公園のような場所。
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屋根付きの予想外に大きな足湯の傍らには、北原白秋、檀一雄、長谷健、木村緑平ほか7人の地元ゆかりの文人が紹介されたパネルがありました。
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街が熟してくるといろんな文化人が輩出されるのですが、画家とか歌人とかはまだ初期のもの。私的には文人が出てくるといよいよ成熟したという感じがします。
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ただ、柳川がそのようなことになった理由はなんでしょうね。
松本清張を生んだ小倉だと森鴎外の滞在が刺激になってとか。さらに高知だと紀貫之や絶海中津からの歴史とか。ありますけど、文人は個人の資質だけではなくて、それを育む地域全体の滋養がないとなかなか難しいというのが私の感覚。そういう意味では立花家の気風も関係しているかもしれません。 -
ここからは、いよいよお花に向かいます。
お花の南側に続く水辺の散歩道。こうしたお堀沿いに整備された道は市街のあちらこちらにあると思いますが、この辺りもいいですねえ。 -
散歩道に続く並木とお堀のバランスが良くて、これぞ柳川の原風景といった感じ。歩いているだけで気持ちが穏やかになると思います。
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川向うにはお花が見えています。
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ぐるりと回って
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これが正面玄関。正面奥には白い洋館も見えています。
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ソテツのロータリ―を過ぎて
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ここが入口。
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あんまり記憶はないですけどね~
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入口入ってすぐにさげもんの展示もありましたが、やっぱり、ここに来たらまずは松濤園。やっぱり、松濤園がお花の最大の見どころですからね。この大広間の先です。
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お花、松濤園は、明治に入って、14代当主の立花寛治が造営したもの。
側面から部分部分の眺めになってしまいますが、大池に配されたこの松の緑と小島のバランスはちょっと類を見ないもの。 -
敢えて言えば、金閣寺の庭園もそうした性格を持っていますが、主役は金閣ですから、それが主役になり切っているわけではない。ここは、それを前面に出していますから、本当に革新的。一説には宮城の松島を模したとも言われますが、私としてはあんまりはっきりとしたことは分かっていないというのも想像力を掻き立てられますね。
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例えば、長い縁のどこから見てもそれぞれの眺めがちゃんと遜色ないことになっていて、
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イチオシ
やっぱり計算され尽くしたお庭であることも見逃せない。大きく言えば、座観式の庭ですが、そのベストポイントは一点ではなくていくつもある感じ。
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その点では、以前拝見した黒石の大石武学流の庭に近いような感じもするのですが、いかがでしょうか。
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改めて、この長い縁
そのどこから見ても -
さすがの眺めだし、
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大広間の開放感のある造りとの対比もやっぱり絶妙ですよね。
前回は、下手のビルから見下ろしたので全体が一望して、そのまとまり具合に感動したのですが、今回、大広間や縁からじっくり眺めて、またこの庭のすごさが分かったような気がしました。 -
大広間から
次は洋館の方へ。 -
和と洋を組み合わせた設計は明治時代なら基本的な建て方。
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和は住まいの空間であり、洋はお客を迎える公的な役割を持ちました。
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二階の
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これも
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大広間。
必要以上のアピールはなくて、内部は穏やかな印象です。
ざっと確認すればOKでしょう。 -
さて、ここからさげもんの展示の方へ。
中央に雛段を集めて、その周囲にさげもんを掛ける。そうですねえ~
稲取の吊るし雛と比べてしまうと、正直どうしても見劣りしてしまいます。インパクトが全然違いますよね。 -
こちらには、柳川まりのコレクション。
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四角く区切った箱の中に
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イチオシ
いろんな柳川まりが詰まっています。
ただ、こうやって撮ってもあんまり魅力は伝わらないかなあ。 -
なかなかこれといったアングルが見つからないんですよね。
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ただ、柳川のさげもんの魅力はやっぱり柳川まりのはず。
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もう一度気を取り直して
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チャレンジです!
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もともとは着物の端切れや
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イチオシ
ふとんの布の余りとかを使って作っていたという柳川まり
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このデザインからしたらそんなことはなくて
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まあるい形を前提にしたものなんですけどね。
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だんだん目線が慣れてきて
工芸品としての完成度の高さも感じられるようになりました。確かに雰囲気はありますね~
ただ、写真にそこのところがなかなか落とし込めない。難しいですね。私にはやっぱりここまでかなあ。 -
最後は、これもお花の敷地にある立花家史料館へ。
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柳川藩主、立花家に伝わる美術品を展示する資料館です。
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ここも久しぶりって感じですね。
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国宝、短刀銘吉光始め、
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狩野探幽の掛け軸は、いかにも大名好み。
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探幽ならではの活き活きとした筆運びが気持ちいいですね。
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唐物茶壷に能面、衣装なども
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大名家にふさわしい迫力ある品々。
こうしたものは大名家には必須アイテムのような気もします。 -
そして、ひな祭りの期間中だったので雛道具類も。
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雛人形よりも雛道具に力点が置かれていて
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雛人形が中心となる雛飾りのルーツはこんなところから。
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それがしっかり残っていて、これも貴重な感じがする逸品です。
これで少し気持ちが整いました。 -
再び、市内の散策ですが、ふと目に止まったのは古民家北島。
なんでしょうね。寄ってみますか。 -
玄関を入ると
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あれれ。
なんか賑やかそうな飾りつけですね。 -
奥の間に入ると
ほ~
なるほど~ -
日本間が三つ続いて
その日本間いっぱいに雛飾りがぎっしり。 -
イチオシ
段飾りもなにもかも
おびただしい数の飾り付けです。 -
手前の平場もこんな感じ。
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しかし、この賑やかさは全然乱れがなくて
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ぎっしり感があるゆえの
かわいらしさや美しさが溢れています。
女将さんが一人でがんばりましたとおっしゃっていましたが、そのセンスは称賛に値するものでしょう。 -
そして、それらを優しく包み込むさげもんとのバランスも最高じゃないですか。
雛飾りは特別いいものではないかもしれませんが、そういうことではないですよね。子供の成長を願い、幸せを祈る。その気持ちをどう表現するかということ。ここにはそんな思いが溢れていて、本当に嬉しくなってきます。ひな祭りはこうじゃないとね。ここまでちょっとモヤモヤしたところがありましたが、これで一気に心が晴れた思いです。 -
気分がよくなったところで。。
加藤商店は、 -
年配のご夫婦とその息子さんかな。
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家族総勢でお団子作りをしていて、作ったはしから待っているお客さんに手渡ししていく繁盛ぶり。
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小さ目の串団子には餡子がきれいに塗られていて、団子のもっちり感と穏やかな甘さの餡子の組み合わせは落ち着いた味わい。インパクトがあるというのではないですが、いつもの味をいつものように味わいたいといったお団子なんだろうなと思います。
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お花エリアにある私的な水族館は、おきのはた水族館。無人なのでセルフで入場料を払います。
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有明海のむつごろうとか漁の道具とかはやっぱり地元らしいのですが、
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迫力があるのは鯉を入れた大水槽かな。
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えさを求めてでしょうかすごい勢いで群れていて、ちょっと怖いくらいでした。
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イチオシ
ここからは柳川駅に戻りつつの散策です。
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椛島氷菓は、ちょっと裏通り。
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知っている人じゃないとやってこないんじゃないかなというような場所ですけどね。
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いただいたのは、ミルクのアイス。薄味ですねえ。濃厚さや香りが今の流行だと思いますが、そうした意味だとこれが昔ながらってことなんでしょうか。爽やかにのどを潤すというそのためのアイスだと思います。
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そして、こちらは柳川城阯。柳川高校の敷地の一角にある小高い丘のような場所がそれ。
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上に上がると
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単なる芝生の平たい広場。
建物が建っていた跡を示す礎石のようなものもなくて、ちょっと寂しいですね。まあ、城堀はしっかり残っているので、町全体が城のようなことだったと想像すればいいのかなと思います。 -
また、お堀端に出て、これは田中吉政公之像。
冒頭でも触れましたが、関ヶ原の戦の後、柳川の城主となったのは田中吉政。豊臣秀吉の時代は豊臣秀次の筆頭家老となったのですが、事件の際もお咎めはなく逆に加増。秀吉の厚い信頼があったことが窺われます。また、関ヶ原の戦では、石田三成を捕らえた功績もありました。
ただ、柳川藩の跡を継いだ忠政は男子を残さず死去したため、田中家は改易に。これがなかったら立花家もなかったでしょうが、柳川の街の基礎を作ったという評価もあって、いまだにノスタルジーも感じる存在として慕われているように感じます。 -
お堀端を進んで、
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今度は日吉神社。
地元の産土神であったり、柳川城の鎮守であったりの神社ですが、正応3年(1290)、近江の日吉大社を勧請したのが始まりだそう。ひな祭りの期間中は、大きなお多福の面が入口に建っていて、それを通って境内に入ります。どういう意味があるのかは分かりませんが、とてもインパクトがあると思います。 -
まあ、そこから先は
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何ということはないんですけどね。
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さらに駅の方に戻ってきて
これは、柳川の名物、貝柱粕漬の水産堂というお店。 -
大正12年より受け継がれた伝統の味ということですが、貝はタイラギガイ。元々淡泊な貝ですよね。ご飯のお供としては少しパンチが弱いかもしれませんが、粕の部分にもおいしさが沁みだしていて、全体としてなんとも上品な仕上がり。どうかするとウニの感覚もあるかもしれません。
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同じ並びの白雪堂越山は、現在のご主人が5代目という老舗のお菓子屋さん。
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柳川ブランド品に認定されたという越山餅をいただきました。白餡を求肥で包んだお餅。ちょっと小さ目ですけど、白餡がしっかりした存在感があって、一個食べてもちゃんと満足感がありますね。求肥と白餡がちょっと溶け合うような感覚も悪くないと思います。
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そして、さげもんの最後は柳川よかもん館です。
こちらは、スーパーみたいな感じもある柳川の地元ブランドのショップなんですが、 -
ひな祭りの期間中、その一角に巨大なさげもんの飾り付けがあるんです。
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イチオシ
かなり巨大で、使われている柳川まりは、それこそバスケットのボールくらい。びっくり破格の大きさです。
写真だとなかなかその大きさが伝わらないですけどね -
近くの洋菓子屋さんル・ロン・ポワンは、柳川市街の裏通り。お堀伝いに回り込んだところが入口で、ちょっと隠れ家みたいなひっそり感が面白いですね。
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いただいたのは、半熟チーズのケーキ。正統派のケーキですけど、やっぱりプレミアムロールが気になりましたね。一人で食べれないので諦めましたが、今でも気になるひと品です。
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ほとんど終盤ですが、三柱神社の方にやってきました。
三柱神社はこの橋の向こう。越えたあたりから境内の方一帯は、高畑公園という名前が付いています。 -
しかし、特に公園という感じはしなくて、ただの広い場所というくらい。この日は近々行われる流鏑馬の準備がしてあったり、お花見用の夜のぼんぼりが下がっているくらいです。
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鳥居の手前にあるのは、松月文人館。元遊女屋である「懐月楼」で、その後料亭「松月」として営業していた建物に設けられたギャラリーです。
入り口を入って -
階段を上がった先の日本間がギャラリーで
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北原白秋をはじめ「五足の靴」に関係する面々や彼らを慕ってここを訪れた文人墨客が残した多くの色紙や写真など。拝見するとその熱い思いが今でも感じられるよう。大きな足跡を残したことが改めて分かります。
ちなみに、五足の靴は、与謝野寛が、まだ学生だった木下杢太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を連れて旅した紀行文。これに続く、北原白秋のは詩集、邪宗門もそうですが、明治末期から大正期の文壇にキリシタンや南蛮趣味の影響を与えました。天草島原の乱とかを始めとして、こうした分野はマイナスのイメージも強かったはず。その後の観光地としての発展の基礎にもつながっているのではないかと思います。 -
そこからすぐの安東省菴の墓「三忠苑」。朱舜水に師事して藩学の伝統を築いた儒学者安東省菴とその一門の墓所です。
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ちょっとした公園のように整備された一角。顕彰碑とかには、安東省菴ほど偉大な人はいないくらい絶賛しまくっていて、なかなかすごいことになっています。
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さて、ここからは晩飯まで含めて一気にグルメタイムです。
まずは、立花うどん。 -
悠々とした広さで、これはまさしく庶民派のお店ですね。
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イチオシ
人気の肉うどんとまぜめしをいただきます。ペロンペロンに柔らかいうどんはさすが福岡のうどんですが、ペロンペロンでいてここのはそれなりにコシも感じるのがすごいところ。甘めの出汁と合わせるとちょっと気持ちまでとろけそうです。そして、まぜめしがまた面白い。甘く味付けした具材をごはんと混ぜたもの。バラ寿司でも五目飯でもない。個性のある新しい味ですね。これは名物間違いなしのお店です。
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大松下飴本舗は、柳川では昔ながらの味と言われる飴のお店。
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130年以上の伝統の製法は、砂糖を一切使わず、蒸したもち米に麦芽を加えて、絞った汁を煮詰めて練り上げるというもの。
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練り上げた時に空気を含むんだと思いますが、ほんのりした甘さに独特の柔らかさが加わります。柔らかさは気温によって大きく変化するので、その加減を考えながら作っていますということ。インパクトはないですが、じんわり沁みてくる優しい甘さがいいと思います。
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そして、元祖本吉屋では鰻のせいろ蒸し。以前、柳川の別のお店で食べたことはあったのですが、そんなにうまいものではないというイメージが残ったので、そういう意味では今回はリベンジなんですよね。
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イチオシ
で、結論から言えば、鰻のせいろ蒸しはなかなかうまいものですね。熱々のご飯がモチ米みたいに粘りがあって、完全には柔らかくなり切れていないうなぎとの程よいバランスを感じます。それに、錦糸卵も見た目の鮮やかさだけではなくて、その玉子の風味でちゃんとごはんとうなぎのつなぎの役割も果たしています。なるほどねという感じ。
ただ、うな丼よりもせいろ蒸しの方が旨いかと言われれば、そういうものでもない。うな丼はうな丼、せいろ蒸しはせいろ蒸し。それぞれのおいしさがあるということかなとは思います。 -
これで柳川は終了。
ここからバスで明日の佐賀市の宿に向かいます。 -
宿はサガシティホテル。
明日は、レンタサイクルも活用して佐賀市の北部を中心に回る予定。もうひと頑張りです。
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