2021/07/09 - 2021/07/12
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しにあの旅人さん
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更新記録:2022/01/26 長屋王木簡写真のあとに前日光さん提供の情報追加。末尾に木簡写真追加。
続日本紀天平勝宝4年(752年)4月9日、
★東大寺の盧舎那仏の像が完成して、開眼供養をした。★
日本古代史上有名なイベントです。
私は、大仏開眼の日、の朝が気になります。
聖武太上上皇、光明皇太后、孝謙天皇は、どんなふうに二条大路を通って、開眼の式場に行ったのかな。
そもそも、この御三方はどこに住んでいたのだろう。
つまらないことが気になるたちでして。
引用した参考書などは、「六国史の旅 元祖4トラベラー聖武天皇1」に列挙しました。引用に際し、僭越ながら敬称を略させていただきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
藤原京跡資料館にあった平城京の配置図です。
今回ちゃんと見たら、東宮に大極殿がある。ということは、これは聖武天皇が遷都道楽から帰ってきた後の平城宮ということです。
続日本紀天平17年(745年)5月11日、
★この日天皇は恭仁京から平城京に行幸し、中宮院を御在所とした。(中略)各宮司の役人たちもそれぞれ元の役所に戻った。★
これですね。
中宮院というのがどこだか分かりませんでしたが、内裏のどこかでしょう。 -
平城京内裏跡に行ってきました。
なんじゃ、これは。
エイリアンの卵みたいなものが林立しておりました。刈り込まれた植木。
発掘した内裏跡の柱の位置だそうです。
遠くの白い建物は復元工事中の南大門覆屋。 -
内裏は第1次大極殿の東にあったことがよく分かります。
-
第2次大極殿跡復元基壇より北方向、内裏跡。その左に復元第1大極殿。
一書に曰く、
平城京内裏跡は、いつ行ってもガランとしていました。
それでも、コロナ前の日曜日には、家族連れが、のんびり、子供に自転車させながら太陽を浴びていましたが、コロナ以後は、ひとっ子一人いない。
そんな中、私たちは、はるばる運んできたシルバー号と、まだ名前もない号とで走ります。by夫には、器物に名前をつける趣味はないのです。
最初は感激したこの道も、慣れるとなんともなくなり、日本は国土狭いというけれど、いいのか?こんな空間ほっといて。
なんて、ミ・ナーラ新館を造りたいみたいな考えがよぎります。
それくらい草ぼーぼー。人いない。
あんまりな空間に、ここが昔は内裏であった。ということは、ここにお后さんやら皇子たちが、、、なんて想像も風に吹き飛びました。
By妻 -
大仏造立が始まったら、聖武さんは、日一日と高くなる大仏さんを見ていました。
などとは、どこにも書いてありません。
でも見ていたにちがいない。
大仏造立のスケジュールは、
天平17年(745年)8月23日に今の東大寺の地で改めて大仏造立が開始された。
天平19年(747年)9月29日大仏の鋳造開始。
天平勝宝元年(749年)10月24日鋳造終了。
天平勝宝4年(752年)4月9日大仏開眼。
聖武さんとしては、毎日でも造立現場に行って、工事の進捗状況を見たかったはず。
他に仕事もあるし、そうもいかない。
でも大仏の鋳造が始まった後は、行かなくてもいいのです。
なぜかというと、内裏から大仏造立工事現場が見えるのです。 -
2020年11月18日に南大門復元工事現場に行きました。現場は覆屋に蔽われておりました。
建設現場が見学できるように足場ができておりました。
この足場の最上階で東を見ると、 -
大仏殿の西側面が見えます。
平城京は北から南にゆるやかに登っております。つまり内裏はここよりさらに標高が高い。 -
手前の木立が邪魔です。もし当時も木があれば、そこは独裁者聖武天皇です。
「伐れ!」の一言で、翌朝にはありません。 -
飛鳥の万葉文化館展示より。
このようなものが見えた。
決まりです。内裏のどこか、なるべく高いところに天皇専用展望台があったはず。 -
一書に曰く、
自転車を駐めて、鍵をかけようと、鍵を探しますが、なかなかみつからない。手間取っていると、ガードマンさんが、大丈夫ですよ。見ててあげますよ。と、声をかけて下さる。
と同時に鍵見つかったので、無事自転車を駐輪しましたが、日本ですねえ。
何か少し感動。
なにしろ、記念撮影しに、荷物をおいて、カメラを構えた、その瞬時に荷物が無くなるという国に長いこと住んでいましたもので。
盗む事は、もちろん悪いのですが、盗まれる事をしている方も悪いと、しっかり教育されました。
カバーの掛かった工事現場の内側を拝見。
覗けるように窓が作ってあります。
足組が縦横に組まれて、そこを、こちらをちらりとも見ないで、ヘルメットの作業員達が走り回っておりました。
何がなんだか。
うむ。しっかり働いてくださいよ。
建設会社の社長でもないのに、よしよし。とか言ってその場をあとにしました。
By妻 -
平城宮跡遺構館でおもしろい物をみつけました。
天平17年(745年)以降の内裏の発掘結果です。5年間の引っ越し道楽から帰ってきた聖武天皇の住まい。
「南面の両端に楼閣が建設されました」
「楼閣」という以上、それなりの高さがあったはず。
これでしょう! -
これは東院庭園南東隅の望楼。おそらくこのような建物だったでしょう。
世紀の大発見だと思って、By妻を呼んだら、晩ご飯のハンバーグをつくりに台所に行っちゃいました。
でもありえる話だと思います。 -
天平勝宝元年(749年)秋7月2日、
★皇太子(阿倍内親王)は位を聖武天皇から禅られて、大極殿で即位した。★
この日から、内裏の主は孝謙天皇になりました。
その前、5月23日、
★(聖武)天皇は薬師寺の宮に還御して、そこを御在所とされた。★
また引っ越しです。でも「還御」というのは住まいを変えるだけ。孝謙天皇への譲位の準備ということです。
「薬師寺の宮」というのはどこだか分かりません。
譲位したとはいえ、実権を握る聖武太上天皇、内裏中にいないと不便なので、いずれにしても内裏内のどこかでしょう。 -
聖武天皇の連続引っ越し騒ぎの前の内裏です。
「東北隅の建物は、内裏後殿と同規模であることから、元正太上天皇の住まいと考えられています。」とあります。
太上天皇の宮殿が内裏にあった例です。敷地内同居ということです。
元正太上天皇は聖武さんの伯母さんです。美人でありましたが、生涯独身でした。聖武さんは、この21歳年上の伯母さんにとても優しいのです。光明皇后は、隣接しているものの、皇后宮を内裏の外に構えておりました。
皇后より伯母さんを大事にしている感じ。
このお話は、先のことですが、別の縦の旅にしたいと思います。
2021年6月に、東院御苑の北側に大規模な宮殿跡が発見されました。孝謙天皇の宮殿跡の可能性があるそうです。檜皮葺の建物で、プライベートな住まいであろうとのこと。
私たちはこのあたりに21年7月に行っているのですが、まったく気づかず。
kummingさんの21年3月の旅行記、
「おのぼりさん 奈良を往く♪ 2日目 の1 迷走の平城宮跡歴史公園」
https://4travel.jp/travelogue/11677435
の後半の「絶賛発掘調査中」写真が、たぶんこの発掘現場だと思います。
この種の重要な遺跡の発表の時は、通常現場説明会があるのですが、なし。
それこそコロナ絶賛拡大中、私たちみたいなマニア、別名古代オタクが殺到するのを恐れたのでありましょう。
今回は平城宮跡資料館遺構展示館の展示物に御世話になっています。この博物館は2度行っていますが、地味だし場所もよくないので、2度とも私たちで独占。とてもいい展示がいっぱいあります。必見です。
詳しい内容は、kummingさんのブログを見て下さい。
聖武太上天皇は内裏に住み続けて、孝謙天皇はなにかイベントがあると、内裏正殿や大極殿に出向いたのかな。雨の時はいやだろうな、などといらぬお節介です。
孝謙天皇は内裏に聖武太上天皇と同居か、近くの東院に別居ということになります。 -
光明皇后のお住まいははっきりしています。
父である藤原不比等の死後、平城京に隣接する4町の広大な屋敷を引き継ぎ、皇后宮としました。 -
いざない館の平城京有名人マップ。
赤四角が旧不比等邸です。
ところがちょっと困るのは、天平17年(745年)、皇后宮を宮寺にしているのです。
5月11日(聖武天皇が遷都道楽から平城宮に還ってきた日です)、
★もとの皇后宮(父不比等の邸を光明子が皇后宮としていたもの-訳注)を宮寺とした。★
この日から天平勝宝4年(752年)4月9日、大仏開眼の日まで、光明皇后はどこに住んでいたのだろう。恭仁宮でさえ、天皇の住まいとは別に皇后宮を構えていた光明子さんです、宮寺を造るからといって素直に外に出て、ちんけな皇后宮で満足するかな。そういう記録もないし。
「わたし、こんなの、いや!」と絶対言う。
このお寺が後年の法華寺ですが、法華寺が完成したのは延暦元年(782年)だそうです。
光明皇后の崩御は天平宝字4年(760年)ですから、そのころまで皇后はずっとここに住んで、死後大々的に工事が始まったと考えると、辻褄は合います。 -
現在の法華寺には残念ながら天平時代の建物は残っておりません。
本堂は、慶長6年(1601年)再建。 -
浴室。
「この浴室は古くから『からふろ』と呼ばれ法華寺本願光明皇后が難病者たちに入浴の恵みをたれ給うたところであります」
と説明にありました。皇后の有名な伝説です。
現在の建物は明和3年(1766年)の再建。
一書に曰く、
美しい建築物でした。中は見せてもらえなかったので、外だけでした。
ここで、ハンセン氏病の患者の膿を、光明皇后が吸い取ったというお話がありますが、その現場なのでしょうか。
この病は、業病と言われて、数々の悲劇を生みました。松本清張の「砂の器」が有名ですね。
私には、沖縄に一人の友人がおりまして、この人のお母上は、この病気の施設にボランティア活動に行っていらっしゃいました。
活動して、帰りにお風呂に入ってくるそうです。
人間が入って、いい湯だなと思うお湯で、この難病の菌は、死滅するのだとか。
ですから、光明皇后が、病人をお風呂に入れた事は正解です。
たぶんこのお風呂は蒸し風呂だっただろうから、かなりの高温の空気の中で、罹患率はぐっと下がったことでしょう。
それに、前回だかにこの時代の人々の食事を、by夫が紹介しましたが、貴族達は、バランスのいい栄養満点の食事でした。
貧しい庶民とは、抵抗力も違っていたことでしょう。
しかし、光明皇后さん、すごい度胸です。
初めての臣下出身の皇后ということで、がんばったのでしょうか。
By妻 -
現在の海龍王寺もかつての皇后宮の一隅にありました。
不比等邸の北東隅にあったので、隅寺と呼ばれていました。すみっコくらしとは関係ありません。 -
西金堂は天平3年(731年)建立とされています。何度も改修されていますが、場所も外観も変わっていません。
-
西金堂内の五重小塔。
これも光明皇后の時代のものです。模型ではなく、初めから屋内に置くために造られている。西金堂は、この五重小塔の覆屋です。
海龍王寺の説明板によると、
「710年(和銅3年)、平城京に都が移されたとき、藤原不比等がここに邸宅を構えるにあたり、付近一帯を治めている土師氏から土地を譲り受けた際、土師氏ゆかりの寺院がありましたが、寺院を取り壊さなかったので、邸宅の北東隅に残ることになりました。」
私たちは、不比等が娘の籐三娘と、並んで見ていた建物と小塔を、目の前にしていることになります。
籐三娘、9歳でありました。
光明皇后は、自分のことを「籐三娘」と呼んでおりました。聖武天皇の皇后であることより、藤原不比等の三女であることを誇りにしていた、と言われているのは皆様ご存知のとおり。 -
一書に曰く、
コロナだし、大雨だし、どこに行っても、どうにもなりませんわ~。って感じです。
雨が降るから、庭の手入れもできません。
ということで、草ボウボウ。
中の掃除も、いかなる理由か、手抜きな感じ。我が家じゃないんだよ。と心の中で突っ込みつつ拝観いたしました。
受付というのでしょうか、やる気なさそう。だれてます。
そこに、黒服の男の人が二、三人登場して、なにやらこそこそ相談しています。
受付さん、アンタ危ないところからお金借りたんちゃう?!
息を飲む思いで、見守りますが、やがて男達は、はっはっは。じゃあ、よろしく!とか言って、和やかにお帰りになりました。
考えてみれば、黒服は、お寺関係者なら、黒だよなあ。
ああ~もう、相棒シリーズ見るのやめよう。
By妻 -
天平勝宝4年(752年)4月9日、お3方はどのように東大寺にむかったか。
警備の関係で、3人は同時に平城宮を出て、二条大路を東に進むと考えます。 -
平城宮が東宮に移ってからは、壬生門が正門でした。
ここからお三方は二条大路に出たはず。 -
現在の壬生門は基壇だけ復元されております。芝生の部分はかつての大路です。
-
朱雀門より小ぶりではあったようです。
-
朱雀門前の、復元された二条大路です。残念ながら復元は壬生門の手前まで。
-
壬生門近くの説明板より。
解説を書き起こします。
「二条大路と壬生門
二条大路は、幅約35mで朱雀大路につぐ規模をもち、平城宮南辺を東西に通る。平城宮の正門の朱雀門、南面東門の壬生門、南面西門の若犬養門は、この大路に面していた。
奈良時代の後半になると、壬生門が朱雀門にかわって実質的には平城宮の正門として機能するようになる。
二条大路の南の地域は、宮域外の役所などとして利用され、平城宮に準じた重要な地域であることが分かってきた。」 -
これは朱雀門近くの説明板より。
朱雀門は壬生門より大きかったそうです。
「門前の広場は元日のお祝いなど儀式の場としても用いた」
ただし天平勝宝4年(752年)4月9日の朝は警備の兵士だけ。 -
壬生門跡を過ぎ、今は細い散歩道の二条大路をしばらく行くと、高速道路越しにミ・ナーラが見えきます。屋上の丸い展望台が目印。
-
二条大路を東、東大寺方向に延長しました。
かつての長屋王邸の北辺が接しています。 -
2020年11月に平城京資料館に行ったら、運よく長屋王展をやっていました。
「地下の正倉院展-重要文化財・長屋王家木簡」
木簡の特別展は撮影不可でしたが、一般展示はOKでした。
そこでゲットした長屋王邸復元模型図。模型図の上端が二条大路に面していました。
質問したいことがあったのですが、コロナ騒ぎの余波でボランティアの解説員はおやすみ。受付になんとかならないかとお願いしたら、なんと「奈良文化財研究所の担当者に電話して下さい。これが直通電話番号」
ラッキー!でした。
そこで教えていただいた貴重な情報。
質問。二条大路に面して門があるが、長屋王はこの門から二条大路に出て、平城宮に通勤していたのか。
回答は、
「たしかに二条大路に面する門の跡が発掘された。しかし本来は、いかなる邸も二条大路に面して出入り口を造ることは許されなかった。これは特例であろう」
質問。長屋王邸の正門はどこにあったか。
回答は、
「正門跡は推定。正門跡は発見されなかった」
長屋王邸跡は、1989年に奈良そごう店が建設されました。ところが2000年に閉店。
2003年にイトーヨーカドー奈良店がここに開店。これもまるっきり儲からず2017年に閉店。2018年にミ・ナーラとして再オープン。さあ、どうなるか。
いざない館のボランティアの解説員さんに聞いてみました。
「相次ぐ閉店は、長屋王の呪いだという噂が地元ではあるようですが」
解説員さんは、
「そういう噂はあります」
否定しませんでした。
そごう建設のときに、資金繰りの関係で、非常に急いでいたそうです。
それで十分な時間と手間をかけずに、発掘を中途半端にしたということです。一部の発掘ですら、35000点の木簡が発見され、古代史上の大発見でした。遺跡が保存され、丁寧な発掘がされたら、どんな発見があったか。
発掘した屋敷跡全体を保全し、覆屋で覆い、巨大な屋外博物館として公開したら、デパート二つや三つ以上の利益をあげたでしょう。
1989年のそごうさん、残念なことです。 -
長屋王邸趾に残るのは記念碑だけ。
-
午後1時53分、人影まばらでした。
-
がら~~~ん。
一書に曰く、
ミ・ナーラなんて、一見外国語っぽい名前にして、現代の貴族の邸は存在しました。が、残念ながら、私たちは中には入りませんでした。
by夫は、ショッピングは、大嫌い。買うつもりもないのに、ぶらぶらなんて、時間の無駄、人生の損失だそうです。
長屋王の邸には、孔雀もいたそうです。
小学校の教科書に書いてありました。息子が習った教科書ですが。
今のミ・ナーラには、何があるのか見たかったのに。
長屋王が、こんなに広大な屋敷を持つことができたのは、もちろん、自身が大臣で、有力者だからですが、正妃が、吉備内親王だからだと言われています。吉備内親王は、文武天皇、元明天皇の兄弟です。
燦然と輝くロイヤルファミリーだったのです。
それを追撃する不比等ファミリー。
ふん、親ガチャ成功したと思って、かっこつけんなよ。と、片っぽが思えば、もう片っぽは、成り上がりものめ!とか。
小競り合いがあったのかな。
ムヒョヒョ、ドラマなら、盛り上がるところです。
By妻 -
ミ・ナーラ裏手。
長屋王邸の遺跡が眠っております。 -
神亀6年(729年)2月の長屋王の変は、藤原4兄弟が光明子を皇后にするために仕掛けた陰謀だと言われております。
神亀9年に天然痘で藤原4兄弟が死んだときは、長屋王を自殺に追い込んだ呪いだと言われていたそうです。
光明皇后がそれを知らないはずがない。
駐車場の左端、近鉄奈良線の線路辺りが、かつての二条大路です。
天平勝宝4年(752年)4月9日大仏開眼の日の朝、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇はこのあたりを通ったことになります。
そのとき、ここにはまだ邸はありました。
ただし、ここには皇后宮職がおかれておりました。光明皇后の宮を管理する家政機関です。 -
長屋王一家の惨劇は23年前、皇后として立后される前でした。籐三娘あるいは光明子28歳のときです。
大仏開眼の時51歳でした。
延々と続く土塀。小さな門が一つ。
なんと思ったか?
なにも思わなかった、でしょう。
呪いを恐れるくらいなら、自分の宮の家政機関を旧長屋王邸に置かせない。
長屋王は全国に広大な私領をもっておりました。 -
長屋王展のカタログ表紙です。
発見された木簡が展示されておりました。 -
そのなかに各地の私領から献上された物品の荷札がありました。
右から2枚。片岡から蓮葉を進上した。片岡は現在の奈良県北葛城郡王寺町から香芝市。
3枚目、阿波国から贄。
4、5枚目山城園から大根。
そのほか、平城京市内、摂津、飛鳥、山城国紀伊郡鳥羽郡、越前足羽郡羽根里(現在の福井市)、まだあります。
これらの領地からの献上品は屋敷の倉庫に保管されておりました。領地を管理する家政機関もありました。
これらは、そのまま皇后職に接収されたのです。
もちろん実際に手を下したのは籐三娘の兄弟藤原4兄弟。
しかしそれを黙ってやらせたというのは、並みの神経ではない。皇后職というのは、自分の邸の一部です。
長屋王の木簡の件で、前日光さんより、下記旅行記で貴重な情報を頂きました。
「猛暑の福井旅 2 繼體天皇潜龍之聖迹~永平寺へ」
https://4travel.jp/travelogue/11045001
真ん中あたりです。
長屋王邸で発掘された木簡です。
「丹生郡中津山里生部安部赤米一国」と書かれておりました。ここに長屋王の私領があり、赤米を送っていたのです。現在の越前市南中山地区です。
上記展覧会のカタログには「越前国足羽郡足羽里」からおくられた木簡が載っておりました。
これで長屋王は越前に複数の私領をもっていたことが、資料で証明されました。
丁寧な発掘がいかに大事かという見本です。
それにつけてもそごうの杜撰な発掘は残念。グチグチ、とグチを100回。
写真をあとから挟み込むのは面倒みたいなので、末尾に写真を追加しておきます。 -
これは光明皇后自筆の「楽毅論」(がっきろん、王羲之の書の臨書)です。
写真は前半、後半に分かれています。 -
ウイキペディア・コモンズより。
この著作物は、著作権の保護期間が著作者の没後70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
私みたいな書のずぶシロが見ても、雄渾、大胆であります。
出だし「楽毅論」の2番目の文字がすでに右にずれている。普通の人だったら、ここで書き直しですよね。
それからも字の大きさはまちまち、右や左に曲がろうが気にしない。最後の方は墨がかすれてきている。続行!
最後の日付「天平」のあと「十六」の太さが違う。ここでやっと筆に墨を含ませた。
「ありゃあまあ。でも気にしないわ!」
署名「籐三娘」なんて右によれています。本文より大きな字。
「いいの、私は籐三娘が好きなの!」
細かいことは一切無視で、一気呵成に思いっきり書いている。
日本楷書史上稀に見る力強い書だそうです。
こういう強い字を書く強い人が、怨霊などという、つまらんものに拘泥するとは思えないのであります。
一書に曰く、
光明子は、三女でした。長女は、聖武天皇の生母の宮子でした。
では、次女は?
次女さんは、なが子という人で、長屋王のお后になりました。
長屋王の変のときは、この人とその子供達は、救い出されたそうです。お市の方と同じですね。
日の出の勢いの不比等一家、一家一致団結して、ぐんぐん伸びていったのです。その空気を、藤三娘という名告りから感じますね。
By妻 -
養老2年(718年)生まれですから、この時34歳。在位2年目です。長屋王の変の時は11歳。
話には聞いていたでしょうが、とくに何も思わなかったのではないか。「わたしのせいじゃないし」
天皇はこの日の主役です。意気揚々と行幸の列の先頭を進んだでありましょう。
気分はルンルン。
なぜかというと、ちょっと意味深な記事が続日本紀にあります。
現代風にいうと、お泊まりの予定があったのです。
天平勝宝4年(752年)4月9日記事文末、
★この日の夕は、天皇は大納言藤原朝臣仲麻呂の田村邸に入られ、御在所とされた。★
藤原仲麻呂はこのとき、天皇の最初の寵臣でありました。二人目は道鏡。
「左京四條二房の東半分八町。法華寺の南」という訳注がありました。不比等の邸でさえ4町でしたから、8町の邸というのはすごい。
法華寺の隣なら、自分のおうちの隣でもあります。家に帰ればいいのに。 -
万葉文化会館の孝謙天皇の筆跡です。「宣」という字に見えるのですが。
あまり特徴のない字です。 -
大宝元年(701年)生まれですから、このとき光明皇后と同じ51歳。2年前に譲位しておりました。
長屋王の変の時は28歳、在位5年目でした。
この事件は、不比等の娘である光明子を皇后にすることに反対した長屋王を排除しようという、藤原4兄弟の陰謀であるというのが通説です。聖武天皇はそれを認可または黙認したわけで、後ろめたさはあったでしょうね。
かつての長屋王邸跡を通って大仏開眼という晴れの舞台に赴くことは、さあ、どうでしょう、あまりいい気持ちはしなかった。
なお、大仏開眼の式典に聖武上皇は出席しなかった、という説もあるそうです。
理由は、続日本紀天平勝宝4年(752年)夏4月9日の記事は、
★東大寺の盧舎那大仏の像が完成して、開眼供養をした。この日、天皇は東大寺に行幸し、天皇みずから文武の官人たちをひきつれて(以下略)★
とあり、孝謙天皇一人しか明示していない。
大仏造立は聖武天皇生涯の大事業です。その開眼に、出席しないなどということは、よほどのことがなければありえない。よほどのことがあれば、必ず続日本紀に記録が残ったはず。やはり出席したでしょうね。
しかし、非常にいわくありげな続日本紀です。
そのわずか2年前、天平勝宝元年12月27日、宇佐大神が東大寺に参拝する記事です。なぜ宇佐神宮の神様が東大寺に参拝するかは別の問題として、百官、僧5000人が参加する、開眼に匹敵する大事業でした。
★天皇(孝謙)・太上天皇(聖武)・皇太后(光明子)も(東大寺に)行幸された。★
孝謙天皇、聖武太上天皇、皇太后が明記されています。
この2大イベントの出席者の書き方の差異、続日本紀は何を言いたいのか、さあ、なんでしょう、分かりません。 -
ウイキペディア・コモンズより。
この著作物は、著作権の保護期間が著作者の没後70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
聖武天皇直筆。雑集。
天皇は、光明皇后とともに奈良時代の能筆として有名だそうです。
雄渾な字だそうですが、明らかに奥さんより繊細、むしろ女性的。
聖武さんは本当は、長屋王邸の裏手なんか通りたくなかった。でも皇后に「そんな弱気でどうするのですか」とか言われて、勇気を奮い起こした。
一書に曰く、
聖武天皇という人も体の弱い人だったそうですね。それが、この字に現れているようです。この人が転々と遷都を繰り返したのは、体と共に、心も何かあったのでしょうね。
生母の宮子は、聖武天皇を産んですぐに、心の病にかかりまして、聖武天皇が三十何歳かのときに、正気に返ったそうです。
そして、この不幸な母は又、美人で有名だったそうです。
かぐや姫のモデルだとか、髪長ひめだとか。
精神を病んだ母を持つ芥川龍之介は、生涯そのことを気にかけておりました。そして彼自身、精神を病んでしまいました。
聖武天皇が、彼と同じだとはいえませんが、共通のものがあってもおかしくはないでしょう。
しかも、不比等一家の傀儡とされている自分に気がつかないほどの鈍い人でもなかったかと。
心の安寧を願い、仏にすがって、ただ一心にすがって、たどり着いた大仏建立。
鑑真さんも来たし、大成功でした。
よかったねえ。
By妻 -
万葉文化館の聖武天皇の直筆。
「勅」でしょう。
私は最初「刺」かと思った。聖武天皇はそういう、とげとげしい性格だと思っていたので、先入観念による間違いです。
でもなにか、ぐさっとくる激しさを感じます。こういう方は、光明皇后ほどではないにしても、長屋王家跡あとから立ち上がる怨念にも耐えたのではないか。
元祖4トラベラー聖武天皇の引っ越し騒ぎを、ミ・ナーラの駐車場で終わらせるのは、まさに竜頭蛇尾。しかしネタ切れですので、いたしかたありません。 -
前日光さん情報関連。
右は「阿須波里」と読めます。「越前国足羽郡足羽里」に該当するそうです。現在の福井市。
左は裏で、「宮仏物俵」ではないかと。仏様用の俵物でしょうか。
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この旅行記へのコメント (12)
-
- kummingさん 2022/01/22 23:44:03
- さてその日の朝、3人はどこを通ったのでしょう?
- by妻さんが冬ごもりから社会復帰された由、よろしゅうございました♪ きっと前日光さんはじめ、ファンの待望論、熱が伝わったのでしょう^ ^
大仏開眼の朝、3人がどの道通って式場に行ったのか? が今回のテーマとの事。
南大門復元現場に建設現場を見学出来る足場があった?そうですが、私、気がつきませなんだ(-。-; で、確かにそこから大仏殿が見え、内裏南面に楼閣が作られた!のであれば、聖武さんはきっと毎日朝な夕に大仏建立の進捗状況を見守っていたに違いありません! ハンバーグ作ってるばやいではないかも?
皆さんご存知の、光明子は「藤三娘」である事を誇りに思っていた、私知りませなんだ(-。-; 宮子が心の病から抜け出すきっかけになったお坊さま(名前忘れました)に帰依し、仏教にのめり込み、その影響で光明子も聖武天皇も仏教に心酔する様になった、とか、藤原氏のやりたい放題を懺悔する、贖罪の意味で仏教振興に力注いだ、という様な説を信じていたので、光明子が施薬院、悲田院とか建てて善行に努めたのも、その流れかと思っていました。聖武さんの強迫観念に駆られた引越し癖、すみっこ好き、も、宮子の心の病遺伝子を畏れた説、大いにあり得ますね。
長屋王邸跡地から大量の木簡出土、の記事はどこかで見た記憶があります。もしかしたら、ご紹介の地下の正倉院のチラシをネットか何かで見たのかも? 発掘もそこそこに跡地にそごう→イトーヨーカドー、とたてつづけに閉鎖→現状のミ ナーラ、への変遷の裏には「長屋王の呪い」臭、ぷんぷんです!
元正天皇と孝謙天皇の恋話は、今後のお楽しみ♪
書、については不見識ですが、光明子の筆の大胆さ、聖武さんの一見繊細そうながら「勅」の文字の豪胆さも併せ持つ二面性、以上の観点を総合的に勘案しましたところ、3人は揃って長屋王邸跡の近く(心の内はさておいて)を通って、大仏開眼の朝、式場にむかいましたとさ♪
最後に、前回に続き私のブログのご紹介頂き、身の引き締まる思いm(_ _)m
当節流行の「すみっコくらし」のみならず「親がちゃ」までご存知とは(*_*) 私も恐る恐る、息子に「◯×△から選ぶ」3択で問うてみました(笑)
- しにあの旅人さん からの返信 2022/01/23 11:29:02
- Re: さてその日の朝、3人はどこを通ったのでしょう?
- 熊が冬眠の穴から出てくるイラストを探したのですが、適当なのがありませんでした。
聖武さんは毎日楼閣に登って大仏を眺めていたとおもいます。じゃなければ、あんなところに塔を作る意味がありません。本当は一つだけ、もっと高い火の見やぐらみたいなものを作りたかったのではないか。それだとあまりに不恰好と、奥さんからクレームが入った。1ぽんだけだとバランスが取れないので、東西に作った、のではないか。
光明さん籐三娘誇り常識説は、私もどっかで読んで、「えっ、そうなの?」と思ったのです。それいらい一度でいいから言ってみたかった。
ミナーラ呪い説は、地元では常識みたい。見てください、がらーん。店の前も駐車場もガラガラです。あそこにいたときの数分、自転車のおばさんが1人入っただけでした。
あそこが長屋王邸であったことは古から知られていて、だーれも何も作らなかった。
呪いは昔から信じられていたのです。
聖武さんと元正さんの叶わぬ恋説は、後日。
持統さんと元明さんの、日本最初の嫁姑問題というのをかつて書いたのですが、あまりに突飛なのでやめました。それと抱き合わせで、週刊誌的、発言小町風に仕上げようかな。
書は私もドしろーと。でも字は人なりともうします。
光明さんも1300年後、自分の字があーだこーだと言われるとは思っていなかった。
思っていても、「好きにすれば。私は書きたいように書く」かな。
- kummingさん からの返信 2022/01/23 12:13:10
- 追伸♪
- 親がちゃ成功派 vs 成り上がり達成派
ドラマ化、大賛成^o^
-
- ryujiさん 2022/01/22 21:05:28
- タイトルの旅行記を拝見で~す!
- こんばんは、しにあの旅人(By妻)さん。 ご無沙汰しております。
オミクロン株猛威の中、いかがお過ごしでしょうか?。 当方は家の中に閉じこもっている毎日です。
「六国史の旅」シリーズを興味深く見させて頂いております。 今回の「聖武天皇8」では、私のファンである「長屋王の登場」で大いに胸のときめきを感じた次第です。 長屋王邸宅跡についてですが、私は見聞無くして旅行記に投稿し、恥ずかしくも申し訳ない思いでいます。 しにあの旅人By妻さんからの、血・肉となる豊富な情報を頂き、自身が体験した思いでいます。(調子に乗ってしまいました) 長屋王家系について、貴女(方)様と全く同意見です。 まさにロイヤルファミリーそのものですね。 天皇家を凌ぐ程の資産家と私は想像します。1・2代の成り上がりの藤原氏(四家)とは格段の財力差があったのではなかろうか?。 これは「長屋王の変」の一因で妬み・嫉みであったとも思われる。(私の旅行記では述べなかった)
素敵な旅行記をありがとうございます。
ryuji
- しにあの旅人さん からの返信 2022/01/23 06:41:34
- Re: タイトルの旅行記を拝見で~す!
- おはようございます。
オミクロンについては、こちらも同様です。今月中に3回目のワクチン接種券が届くはずで、待っております。
それまではひたすら亀の子作戦です。
長屋王邸情報で、少しはお役に立てればうれしい。
二条大路に門を作ってはいけない件は、ほかでは聞いたことがないので、ヒットだと思っています。
いざない館だと思うのですが、長屋王邸内、犬を飼っていたイラストがありました。写真を撮ったはずなのですが、どこにいったかわからない。ブログを1本書けるくらいのネタがありました。
長屋王さんはお金持ちだったみたい。全国からの荷物の送り状の木簡がいっぱい出てきています。
藤原一族との利権の取り合いみたいなものが、本当はあったのかもしれません。この時代、まだ班田収授の制度はあったはずで、政府高官が私領を持っているのは、本当はオカシイのです。でもそこはそれ、いろいろあったようです。
次回から九州の旅シリーズです。オミクロンの冬の夜、お付き合いいただければ幸いです。
- 前日光さん からの返信 2022/01/23 22:16:47
- 横レス失礼いたします(^^;)
- 長屋王への、全国からの荷物の送り状の木簡がいっぱい出てきたとのことですが、確かに昔、福井の旅に行った時、越前市でそこの赤米が長屋王に送られたということが書かれていた田んぼの近くを通りました。
その時は、そこが小規模な田んぼアートになっていたのですが。
旅行記は、以下のものです。
↓
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11045001/
もしお時間がありましたら、ご覧になってくださいまし(^◇^;)
前日光
-
- mistralさん 2022/01/22 20:40:24
- 古代史トラベラー、しにあさん
- しにあの旅人さん
by妻さん
こんばんは。
前回の旅行記はby妻さんは不参加でしたが、ようこそお戻りやす。
一度今回の旅行記にふら~っと立ち寄りまして、ちょっと拝見したら
ダメダメ、中途半端な立ち寄り方では理解出来ないから、と思い直して
再びの訪問となりました。
以前私は帚木蓬生さんの「国銅」という大仏建立にまつわる小説を読んだことがありました。
今回の聖武天皇シリーズを拝見しながら、その折の小説をぼんやりと思い出していました。
当時の民衆が、大仏建立にあたって(多分遷都のたびも)どれほどの苦役を強いられたか、
その為の生活苦なども描かれていたものですから、
聖武天皇のトラベラーぶりには共感出来ずにいました。
(そうはいっても時の最高権力者が、右向け、と言ったら従わずにはいられないのはいつの時代でもそうなのでしょうから、私ごときがどうこう言えることではないのですが。)
一方、聖武天皇の性向を想像してみると、母親との関係、その結果恐らくは満たされなかった欲求、光明皇后との関係などの要素が絡まり合い、遷都を繰り返したりするより他なかったのか?など思います。
そういう夫婦の関係性を筆跡から読み解かれたのは興味深いですね。
「藤三娘」さんのそれは、自由奔放、何にも気にしていない、
しかし聖武天皇の直筆とされる書は繊細な文字が連なっているのに、旅行記最後の一文字は堂々としている風にみえる。気分の変動があるやも?などの妄想を。
書が残っていると、後世の人々にあれこれと分析されてしまいますね。無名であればそんな心配はいらないのでしょうが。
藤原四兄弟の策謀によって滅ぼされた長屋王、邸宅跡地にはどんな立派な建物を建てても上手くいかないのは呪われた地故?との質問をぶつけたり、
さらには文化財研究所?担当の方に直で質問されるしにあさん、
さすが縦横斜めにも時空を行き交うトラベラーである故にできることと想いました。
私も石原さとみさん演ずる孝謙天皇のドラマを見た記憶があります。
細部はほとんど覚えていませんが、少しかじった今見たら、もう少し楽しめたかもしれません。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2022/01/23 06:16:50
- Re: 古代史トラベラー、しにあさん
- 聖武さんという方は、読み方によっては、ご本人の性格や好みがそのまま歴史として続日本紀に書かれているみたい。これほどツッコミどころのある人物はおりません。
母の宮子さんなんて、30いくつにもなって、いきなり「坊や」と言われたわけで、聖武さんとしても困ったでしょうね。
恐妻家だったでしょうね。
聖武さんの書はちょっと読みにくい。聖武天皇、書でぐぐると、もっと鮮明なのが、かんたんにでてくるはず。「雄渾」と言われていますが、お世辞ですね。達筆ですが、繊細、女性的。
あの字の光明さんですからね、シリにしかれていたのは間違いなし。
書が残っているというのはすばらしい。写真や音声が残っているのと同じです。
奈文研の担当者に質問できたのはラッキーでした。二条大路に門を作ってはいけない規則なんて、どの文献にもかいてありません。例外が長屋王屋敷にあったのは、さすが。緊急連絡用ですかね。
旅行で、紙にはない情報をゲットできるのは、人との出会いです。
平城宮から大仏殿が見えるのをおしえてくれたのは、第一次大極殿の警備員さんでした。その時はガスって見えませんでしたが、南大門の工事現場ではばっちり見えた。知らなかったら探しませんでした。
-
- 前日光さん 2022/01/21 23:52:13
- 残念なミ・ナーラ
- こんばんは、しにあさん&by妻さん
特にby妻さん、どうやら冬眠から目覚めていただいたようで、一ファンとして喜ばしいことです。
ところで今日は、この冬一番の寒さだったかも。
PCに現在のこの地の温度が表示されていますが、マイナス3℃とあります。
明日の朝が思いやられます。
大昔、たぶんNHKのドラマで珍しく古代を舞台にしたものがありました。
大仏開眼だったか天皇の即位だったのか混同していますが、たしか石原さとみ扮する孝謙天皇が、華やかに着飾って大極殿に鎮座していたのを覚えています。
道鏡役も聖武役も覚えていないのですが、なぜか孝謙女帝だけが記憶に残っています。
大仏開眼の日、の朝ですか。
さて、件のお三方は、どんなふうに二条大路を通って、開眼の会場に行かれたのか、細かい所が気になるのですね?
右京さんといっしょですねぇ。
でも細かい所に真実があったりするのですよね。
聖武くんの母の宮子さま、そうそう、そもそもこのお方が心を病んでおられたのでした。だから幼い聖武くんは母の愛どころではなくて、寂しい少年だったようですね。
そこへ文字の大小や曲がり具合なんか気にしない「藤三娘」が妻となっては、気が休まりませんね。
その割に残された聖武くんの直筆は、元気が良いというか、ヤケクソというか、意外にも男らしい文字!繊細で消え入りそうな文字を書くのかと思っていたのに、妄想を裏切ってくれました。
孝謙天皇の直筆は、確かに真意が読めません。
仲麻呂や道鏡とのおつき合いに、うつつを抜かしている人の文字にも見えませんね。
さて、そごう →イトーヨーカドー →ミ・ナーラと変遷した「長屋王屋敷跡」、やはりこれは王の怨霊としか思えませんね。
ここは、しっかり遺跡を掘り起こして、史跡にでもしない限り、この後もうまくいかないのでは?
私はイトーヨーカドーが在った頃に、この辺りを訪れております。
「長屋王屋敷跡」の標示しかないなんて、あんまりだと思った記憶があります。
それにしても、現在の法華寺や海龍王寺辺りで、あの光明皇后が慈善活動に励んでいたなんて、にわかには信じがたいですが、そういう一面は彼女にはあったのでしょうか?
「藤三娘」の名を背負った、彼女なりのパフォーマンスだったのでしょうかねぇ?
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2022/01/22 11:51:10
- Re: 残念なミ・ナーラ
- 今朝は房総もマイナス3度。洗面台の水が8時くらいまで出ませんでした。軽く凍ったらしい。
石原さとみの孝謙天皇ですか。ググったら、2010年3月、4月放映だそうです。大仏のお話で、吉備真備が吉岡秀隆。藤原仲麻呂が悪役で高橋克典。
なんでドクターコトーが吉備真備なんだという違和感はありますが、今見たら面白かったでしょうね。続日本紀で背景をたどれる。
孝謙天皇という方は、非常に思い込みの激しいお方で、これと思った男に惚れ込むタイプ。
メアリー・ステュアートに似た感じ。ただメアリーは典型的なダメンズ・ウオーカーで、惚れ込んだ男が揃いも揃ってダメンズばかり。惚れた男が政治的、軍事的に有能かどうか、判断できない。
4トラ最初のイギリス2017でおっかけました。
孝謙さんは人物を見る目はあったようです。ただ惚れ込み方が激しいので、惚れ込まれた方がビビるのではないかな。なんとかの深情けというやつです。孝謙さんからみると、かわいさあまって憎さが100倍。
続日本紀はそういう書き方をしています。
籐三娘の実像は、相当気の強い傑物ではないか。確かに聖武さんもきつかっただろうとおもいます。
難病治療の話は後世の伝説ではないですかね。
長屋王邸あとはもうだめみたいです。ミ・ナーラの建物部分は、正殿跡をもろ潰しているようです。あれだけの建物ですから、相当深く基礎を打ち込んでいるはず。駐車場部分は、丁寧に舗装を剥がせばなにか出てくるかもしれません。そごうの前までは、1300年間もてつかずの荒地だったようです。惜しいことをしました。
法華寺の南は仲麻呂の邸でした。今は民家が建て込んでいます。車で迷い込んだことがあります。
国が優先して土地を買い上げるシステムがあるのですかね。
緩やかに、こまめに国が土地を回収していけば、100年くらいで更地になるかもしれません。
強制収用などできっこないし、やるべきでもありません。
これで元祖4トラの旅はおしまい。
次はいよいよ九州です。
- しにあの旅人さん からの返信 2022/01/26 08:28:17
- 福井の赤米の木簡
- 大変貴重な情報をいただきました。
「猛暑の福井旅 2 繼體天皇潜龍之聖迹~永平寺へ」
へのリンクを張りました。
長屋王木簡写真の後です。
- 前日光さん からの返信 2022/01/28 22:46:31
- Re: 残念なミ・ナーラ
- こんばんは、しにあさん。
この福井の神社、「繼體天皇潜龍之聖迹」の石碑はもちろん、和紙に関心のある人はこの奥にある本殿にお参りするそうです。
私が見たのは拝殿で、本殿はもう少し奥の方にあるようです。
これはたまたまテレビとネットの両方で見たのですが、その格調の高さと神秘的な雰囲気に圧倒されました。
あそこまで行きながら、なぜ見逃してしまったのかと悔やまれてなりません。
何らかの機会に、この神社の本殿をぜひ訪れてみたいと思っています。
長屋王に関する部分にリンクを張っていただいたようで、恐縮です。
福井の、今となっては小さな村と、長屋王が繋がっていたなんて、どこでどんな風に関連性が出てくるのか分かりませんね。
前日光
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