2021/07/09 - 2021/07/12
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しにあの旅人さん
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続日本紀天平17年(745年)5月11日、
★この日天皇は恭仁京から平城京に行幸し、中宮院を御在所とした。(中略)各宮司の役人たちもそれぞれ元の役所に戻った。★
あっさりと言ってくれますが、5年間にわたりあちこち遷都でひきずり回された役人としては、たまったものではありません。
6月14日には「平城宮の宮門に大楯を樹(た)てた。」とあります。正式に平城宮を都と定めたことになります。
写真は内裏跡。円い柱のような植木は、柱の跡です
引用した参考書などは、「六国史の旅 元祖4トラベラー聖武天皇1」に列挙しました。引用に際し、僭越ながら敬称を略させていただきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
-
↑というわけで、今回はBy妻の出番はありません。
-
平城宮跡、第2大極殿跡です。南より、壬生門方向を見ております。復元第1大極殿はこの右。
内裏を恭仁京に移したとは書いてないので、聖武天皇、とりあえず住むところはあったはずです。中宮院とはこの中にあったのではないでしょうか。
大極殿は恭仁京に移築し、置いてきたのでもうありません。第2大極殿は745年から建築が始まったでしょうが、急に出来るはずがない。これに似た茫漠たる風景だったはず。
続日本紀にはいつ大極殿が完成したか書いてないのです。
朝廷では毎年、正月1日の朝賀は大極殿で行われます、大極殿があれば。
平城遷都の翌年、天平18年(745年)春正月1日、
★朝賀をとり止めた。★
翌19年(747年)も取りやめ、20年(748年)もなし。年号が変わって天平勝宝元年(749年)もなし。まだできてないということです。
ところが、
天平勝宝元年(749年)秋7月2日、
★皇太子(阿倍内親王)は位を聖武天皇から禅(ゆず)られて、大極殿で即位した。★
ここで大極殿が完成していることが分かります。(745年)5月以来まる4年です。 -
これは復元された第1次大極殿ですが、これと同じものを4年で造るというのは、大変な建築能力でしょう。
-
これは復元大極殿の柱です。直径60センチくらいあります。これを伐採からやったのでは絶対に4年ではできない。こんな太い柱が1年や2年で十分に乾燥するはずがない。乾燥不十分の木材を使えば、あとで必ず木材は暴れます。つまり収縮して建物全体がゆがむのです。樹種によりますが、欅などは最低10年の乾燥が必要だそうです。
この時代、こういうこともあろうかと、あらかじめ木材を伐採し、どこかで乾燥、保管していたのです。
日本書紀斉明元年(655年)冬10月13日、
★小墾田に大宮を造って、瓦葺きにしようと思われた。しかし深山幽谷にある宮殿造営用の材は、朽ちたものが多くて、宮を造るのを中止された。★
素晴らしい計画性ですが、こういうこともありました。 -
5年間放っておかれた平城京がどうなっていたか。例によって続日本紀は不親切で、なんにも教えてくれません。
万葉集がちょっと穴を埋めてくれます。巻6-1044から1047 P72、
★寧楽の都の荒れたる墟(あと)を痛み惜しみて作れる歌三首 作者審(つまび)らかならず。★
★紅に深く染(し)みにし情(こころ)かも寧楽の京師(みやこ)に年の経ぬべき★ 6-1044
△紅のような都ぶりに深く染まってしまったわが心よ。奈良の都には、こうして荒廃のままに年が経過してしまってよいのだろうか。△
★世間を常無きものと今そ知る平城(なら)の京師の移ろふみれば★ 6-1045
△世間の無常を今こそ思い知ることだ。奈良の都がさびれていくのを見ると。△
★石綱(いはつな)のまた変若(を)ちかえりあおによし奈良の都をまた見なんかも★ 6-1046
△岩に這う蔦のようにまた若返って、青丹色美しい奈良の都をまた見るようになるだろうかなあ。△ -
1047-1049は恭仁京を歌い上げた田辺福麿(たなべの・さきまろ)の歌です。
1047は長歌で、恭仁京遷都の後、奈良の都は、
△大君が人々をお連れ去りになるに従って、人々は春の花のように移りかわり、鳥の群の朝立ちのようにいっせいに立っていったので、さす竹の大宮の人々が踏み固めては通った道も、馬とて行くことなく、人も行かないまま、荒れてしまったことよ。△
反歌2首
★立ちかはり古き都となりぬれば道の芝草長く生いにけり★ 6-1048
△繁栄の昔とかわって今は故京となってしまったので、道のべの芝草も長く生いしげってしまったことだ。△
★なつきにし奈良の都の荒れゆけば出で立つごとに嘆きしまさる★
△慣れしたしんだ奈良の都が荒れていくので、道に出てみるたびに、嘆きはつのるばかりだ。△
貴族達はなんだかんだ理屈をこねて奈良の都に残ったのでないかと思っていましたが、本当に恭仁京や紫香楽京に移住させられたのです。
聖武天皇は「鳥の群の朝立ちのようにいっせいに」貴族どもを新しい都に拉致したことになります。旧都では、道に人馬の往来無く、雑草繁り放題。
天平13年(741年)3月15日、
★今後五位以上の者は、勝手に平城京にとどまってはいけない。(中略)現在平城京にいる者は、今月のうちに全部恭仁京に行くように促して出発させよ。これ以外の場所に散在している者も急いで召還せよ。★
これに対応しています。 -
脱線します。
新都恭仁京についての細かい記述がない続日本紀を補う万葉集については、このシリーズでも触れました。
その反対に荒れていく旧都をうたう歌。これもまた続日本紀の穴を埋めようという、意識的な万葉集の編集方針としか思えないのですが。
続日本紀の編纂完了は797年ですが、孝謙天皇までの記述は764年ごろまでには出来ていたという説もあるそうです。(ウイキペディア)
万葉集の最終編集者を大伴家持とすると、その死は785年です。家持が続日本紀の草稿を読んでいた可能性は、年代的にはありえます。
何度も出した、万葉集は家持の陰謀説の再登場です。
田辺福麿の歌と続日本紀3月15日の記事の対応は見事です。
続日本紀の最終編者菅野真道と家持は、どこかで秘かに談合したのではないか。
平城京某所某年某月某日、
真道「うちは漢文でしょ、いまいち日本人の感覚が表現しづらいんですよ。ここはひとつ万葉集でやってもらえませんかね」
家持「いいですよ、諸兄先生から引き継いだ、家来の田辺福麿家集にいいのがあります。やってみましょう」
真道「家持さんのデビュー作で初々しいんがあるじゃないですか、あれも入れたらどうでしょう」
家持「いえいえ、あれは若気の至りで・・・でもそうおっしゃるなら、入れちゃおかな」
家持晩年には作品がない。こういうので忙しかった。
ウソです。 -
やっと平城京に落ち着いた聖武天皇、甲賀寺で挫折した大仏建立を始めたはずですが、正史たる続日本紀をいくら読んでもいつ始めたのか分かりません。探して損した。書いてないのです。
ウイキペディアによれば、東大寺碑文という資料に、天平17年(745年)8月23日に今の東大寺の地で改めて大仏造立が開始された、とあるそうです。
この日の前後の続日本紀は、
8月15日、
★大安殿において無遮大会(むしゃだいえ)を行った。
8月24日、
地震があった。
同じ碑文に天平19年(747年)9月29日大仏の鋳造開始、天平勝宝元年(749年)10月24日鋳造終了。この日の前後にも関係ありそうな記事はなし。
これらを全部とばして、
天平勝宝4年(752年)4月9日、
★東大寺の盧舎那仏の像が完成して、開眼供養をした。★
天平勝宝元年(749年)秋7月2日に、聖武天皇は孝謙天皇に譲位していましたが、実権は聖武太上天皇にありました。聖武天皇の一大事業である大仏造立が、正史にちゃんと記録されていないのは、不思議。
知らなかったはずはない。記録がのこらなかったはずはない。続日本紀のポカかミスか。それともなにか特別な意味があるのか。何かを隠しているのか。 -
藤原京資料館、平城宮資料館といざない館の展示をもとに、平城宮の生活を想像してみることにします。藤原京は、平城京よりもう一つ前の都ですが、そこでの生活ぶりはそれほど多くの違いはないでしょう。
-
平城宮資料館より。
これは平城宮内裏の天皇の食事の様子だそうです。
天皇の手前の貴婦人、右側はお給仕係ですね。彼女のお膳がありません。右横2人は皇子さま。 -
この3人の関係はなんだろう。3人とも箸をもっているということは、一緒に食事しています。天皇と奥さん2人? 奥さんが何人いてもいいけれど、一緒に食事ということはないよね。
-
平城宮資料館より。
同じく。内輪の宴会というところでしょうか。
乳母の手をふりほどいて、皇子様が天皇様に「とーちゃん」と言って駆け寄る、の図。
かなりアット・ホームすぎる感じはしますが、天下の平城宮資料館がそう言っております。 -
こちらはいざない館展示の貴族の食事風景。
-
奥さんです。どこかで会ったことがあるような。
この時代、女もあぐらをかいていたんだ。 -
だんなですな。えなりかずきに似ているような気がします。
「お、今日はごちそうだな!」と言っております。この人は食いしん坊ですね。 -
どんなものを食べていたか。案内板によると、
★貴族の食事は各地から集めたさまざまな食材を使う、豪華なものでした。鹿や鴨などの肉、アワビやエビなどの海産物、蘇(そ)という貴重な乳製品も食べていました。食器として高級な漆器や金属器も使われていたようです。★
現代のメニューと比べて遜色ない。
清酒(きよざけ)というお酒も飲んでいたようです。
高カロリーすぎて、成人病に悩んでいたであろうとのこと。
お味は、
★奈良時代の料理は、調理ではあまり味付けせず、食べる人が調味料で味付けをしながら食べたとされています。そのため、味の決め手となるのが調味料。(中略)塩、酢のほか、味噌や醤油の原型とされる発酵調味料「末醤」(まっしょう)や「醤」(ひしお)、カツオの液体ダシのような「堅魚煎汁」(かつおいろり)もありました。★
手元で好みのお味をつくって、しゃぶしゃぶのような食べ方をしていたらしい。お味に関しては、たぶん現代の方が、いいのではないか。
かなり忙しい食べ方です。ほにゃらの朝臣なんとか夫婦の食事風景
「ばしゃばしゃ、旨いねえこのアワビ」
「あなた、ばしゃ、そんなにタレをつけるものじゃありません。ちょっとつけるのが平城っ子で、ばしゃ、イキなんですよ」
「そうはいってもね、ばしゃ、私はたっぷり味がしみているのが好きなんで、どぼん!」
「まあ、いやだ、下品」
とか。 -
一方、庶民の食事はというと、
-
ひどくね。
★庶民の食事は質素なものだったようです。主食はあまり精米していない米を炊いたご飯。汁物には青菜などが入っていたかもしれません。味付けは塩が基本でした。★
50世代くらい前の我が家の先祖も、間違いなくこの時代に生きていたのですが、このクラスです。よくもまあ生き延びて、私まで命を引き継いでくたれものです。 -
政府からは屋敷とお給料が支給されていました。年収の円換算の根拠は不明です。
-
いざない館より。
閣僚クラスの高位、三位以上だと、屋敷は約6万平米、年収は7490万円~3億7千460万円。藤原不比等は、年代が違いますが、正二位、1億2480万円。
五位以上は高級貴族とされています。五位の貴族で屋敷は1万5千平米、年収は1540万円。五位以上は奈良時代は大体100人から200人いたようです。
有名なところでは、従五位下筑前守の山上憶良は1540万もらっていました。これはいわば基本給。筑前守としての役職手当は別。
続日本紀養老5年(721年)6月10日の記事だと、按察使という正五位相当の役職手当として、田6町・仕丁5人となっています。筑前守憶良さん、従五位下ですから、このくらいの手当はもらっていたはず。それがいくらになるかは見当つきません。たぶん、いっぱい。
現代の総理大臣の年収は5141万円です。
中央官庁の官僚で、局長クラスは年収2291万円、局次長に相当する審議官で1390万円だそうです。憶良はその中間。
大伴家持の最終官位は従三位ですから、年収7490万円になります。中納言という役職手当は分かりません。飛鳥や佐保に大伴氏伝来の広大な私領がありましたので、その収入は別です。
役人の最下位、初位で住宅は480平米、年収260万円。年収はともかく住宅480平米つまり145坪は、現代の感覚でいうと、悪くない。広めの敷地で奥さんが大根でも栽培すれば、生活できたのではないか。 -
これは藤原宮資料館の展示です。1町つまり15000平米の敷地の屋敷です。平城京でも大差ないとすれば、五位の貴族の屋敷です。山上憶良は都ではこんな感じの屋敷に住んでいたことになります。
-
平城宮のお役所を見て回ります。
私たちのご先祖様、庶民の生活に興味があるのですが、残念ながら記録が残っていないようです。 -
平城宮には2官8省といわれるお役所がありました。およそ7000人の役人が勤務していたそうです。これはどのお役所か分かりませんが、こんなふうだったらしい。
-
こちらは宮内省。第2次大極殿のすぐ東です。
宮内省跡の説明パネル。 -
一部が復元されております。
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復元にあたっては、できるだけ当時の工法を用いたそうです。
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平城宮お役所の勤務風景。出典平城宮資料館。
テーブルと椅子だ。現代と同じ。右下の子供はなんだろう。子供が役所にトーチャンを訪ねてきたか、んなわけないな。 -
椅子とテーブル。正倉院などの資料をもとに忠実に再現したものです。合板などないので、全部木製。現代だと、ものすごい高級品です。
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再現ビデオより。パソコンがないだけで、やっている仕事の内容は今とほとんど同じでしょう。ひたすら書類をつくる。
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こちらは木簡になにか書いている。書き直しは小刀で木簡を削るので、腕になにか巻いています。木簡は伝票のようなものが多かったので、この人は物品の発出係というところかな。
-
課長に伝票をもってきた。
「だめだよ、こんなの。やり直し!」 -
「申し訳ありません。」
-
「課長にこれもっていってね。」
-
「ふむふむ、まあ、いいんじゃないの」
-
平城宮では給食が出ていたのです。
-
平城宮の台所。出典いざない館
「いざない館」説明板より。
★夜明け前に集合となると、朝食はどうしたのかと心配になる。奈良時代は、朝夕の二食が原則であった。それぞれの役所では、官人たちに食事を支給しており、「朝夕常食」と称されていた。昼に食事が支給されることもあり、「間食」と称される。常食や間食の請求には木簡が使われた。奈良時代の役人は給食を食べていたわけだ。★ -
どんな食事かというと、こんなものらしい。これはもう一つ前の都、藤原京での下級役人の給食。
★玄米の主食に煮魚やなますがつくことがある。酒は糟酒だが、楽しみの一つ。宮内からは、給食や宴会に使った土器・須恵器の食器が大量にみつかっている」
メニュー:玄米、青菜(あさつき)のみそ汁、いわしの煮付け、かぶの酢の物、きゅうりの塩漬け、糟湯酒、塩★
貴族の栄養過多の豪華めしにははるかに及びませんが、この時代としてはまあまあか。糟湯酒というのはどんなモノだろう。酒がでるということは宴会用でしょうか。
いずれにしてもこういう飯が朝晩でるなら、みなさん仕事場には来たでしょうな。カミさんとしては、亭主がうちにいたら食費がかかるので、多少熱があろうとなんだろうと、仕事に送り出したにちがいない。 -
台所ではこういうこともあった。
★何百人もがんばって作っているのに、「おかずがまずい」と文句をつけられるなんて、あんまりです。★
おねえさん、気持ちはわかりますが、包丁をもって、こわい顔しないでください。
以上「いざない館」展示より。 -
平城京いざない館。
平城京を感じるには、いざない館、平城宮資料館、平城宮跡遺構展示館、藤原宮資料室は必見です。なにはともあれ、行くことをお勧めします。
平城宮跡遺構展示館は次回御世話になります。
平城宮跡については、kummingさんの詳しい旅行記があります。
「おのぼりさん 奈良を往く♪ 2日目 の1 迷走の平城宮跡歴史公園」
https://4travel.jp/travelogue/11677435 -
★トイレ跡は、平城宮や藤原休などでみつかっていますが、京内のトイレ事情はまだよくわかっていません。ただ、おしりふきに使った細長い木切れ「籌木」(ちゅうぎ)は溝などでよく出土しています。
それらの遺構の土を顕微鏡で観察すると、もとはウンチに含まれていた、淡水魚や獣肉を十分加熱せずに食べた人に見られる寄生虫の卵がみつかります。ウンチは当時の人々の食生活や病気を知るための手がかりなのです。★
出典いざない館。 -
★ペルシャ系の役人もいた
大学寮から式部省への宿直責任者の報告です。当時は「宿」が夜勤、「直」が日勤のことです。破斯清道(はしのきよみち)はペルシャ(今のイラン)にルーツをもつ人物と考えられます。★
なんのためにペルシャ系の役人がいたのでしょう。天平神護元年(765年)正月(?)24日に書かれた木簡です。
こういう「え~~~!」というような資料がいっぱいです。
出典いざない館。
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この旅行記へのコメント (5)
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- 前日光さん 2022/01/18 00:12:23
- 一書に曰く。。。
- が、この旅行記にはないのか!と思ったとたんに、意欲が減退し。。。
あ、しにあさん、ゴメンナサイ(^^;)
by妻さんの、あの小気味よいトンデモ妄想話が聞けないというのは、まぁ、それくらいがっかり(-_-)ということでして(^◇^;)
こんばんは、しにあさん
記述に基づいた役人の年収や庶民の食事等々、彼らは霞を食べて生きていたわけではないので、現実には食べ物も食べれば、お勤めもあって。。。
オマケに聖武くんの気まぐれのせいもあって大極殿は5年間も建てられず。。
大変だったのですね。
あのえなりくんに似ている人物は「幸楽」のラーメンを食していたのではないでしょうか?
「宮殿での暮らし」の男性一人と女性二人の関係ですか?
これは二人の姉が、食事をしながら弟の嫁について、ああだこうだと文句を言っており、仕方なく弟も「その通り!」なんて日頃頭の上がらない姉たちに同調するふりをしているところなのですよ。
昔も今も「男はつらいよ」なんですねぇ。
え?家持と真道の談合ですと?
家持が後年歌を残さなかったのは、「続日本紀」と「万葉集」の辻褄合わせに奔走していたから?
うーーん、しにあ説を採用すると、すべてがギャグになってしまいますねぇ。
衰運を辿りつつある名門に生まれた貴公子が、本来の文人気質を押し隠して武人として生きようとしたという私のロマンティックな解釈は、どこかに行ってしまいますねぇ。
でも現実なんて、意外にしにあ説の方が正しかったりして。
それにしても若き家持のあの歌は、若気の至りとは思えない良い歌だと私は思います。
振りさけて 若月(みかづき)見れば 一目見し
人の眉引(まよび)き 思ほゆるかも
ウワッ、あの右手に包丁、左手にカブを持った女性は、迫力ありますね!
なんで、あんなにリアルなんでしょう。
「いざない館」の意図が読めません。
え?ペルシャ系の役人もいた?
シルクロードの東端である日本に、ガラスの器や五弦の琵琶なんかといっしょに、ちょっとした手違いで混ざって来ちゃったのでは?
ああ、by妻さんの説が聞きたいです!(^^)!
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2022/01/18 21:13:40
- Re: 一書に曰く。。。
- By妻によく言って聞かせました。楽しみにしているファンがいるのだから、冬眠はやめなさい。多分次回は穴から出てくると思います。
平城京博物館巡りは楽しかった。修学旅行の定番らしいいざない館以外は人は少なくて、もったいなかったです。
3人の食事風景はなるほど、弟と姉2人。こういう組み合わせがないかな。光明子さんところは、男兄弟はいっぱいいすぎますね。
日本書紀と万葉集の補完関係はありあり。こっちは家持が一方的に切り込んでいる。
万葉集と続日本紀の組み合わせは本当によくできています。こっちは編集者が同時代人ですから、疑ってみるのはおもしろい。
専門の学者で、何か言っていませんかね。
万葉集は文学で、続日本紀は歴史だから、学者の縄張りが違うのでしょうか。家持さんと真道さんは面識あったと思うんだけどなあ。
振りさけて 若月(みかづき)見れば 一目見し人の眉引(まよび)き 思ほゆるかも
これ何番ですか。「一目見し人」ってだれだろう。
九州で薩摩川内に行ってきました。薩摩国府があったところです。家持さんの銅像がありました。九州旅編でそのうちアップします。
-
- kummingさん 2022/01/17 10:36:27
- 秘蔵写真♪
- しにあさん、こんにちは~
今回、も、by妻さんは冬ごもり中との事、私も寒いのちょう苦手です。おみくろんがただの風邪、に変異するまでおこもりの構えです。
以前の平城宮跡のブログでupされなかった秘蔵写真の蔵出し一挙大公開♪ 隠し持っていらっしゃったのですね^ ^
例によって、続日本紀の穴を埋める意識的な万葉集編集方針との事。それにしても、大仏造営不記載はなぞい!←ココんとこ、今後深掘りのご予定ですか?
古代のお食事やお役人さまの仕事ぶりなど、なるほど~、でございます。中でも、なんでも”しゃぶしゃぶって“食べていた情景描写は秀逸(笑)脳内再生出来ました。
国の大事を差配し、律法から正史編纂にまで関わっていた人の年収が1億2千万?とは、ち~っと安過ぎやしませんか?諸外国のCEOが法外な高額収入を得る昨今、かのゴーンでさえ7~8億超だったような?これは時代考証しないと、一概に比較できませんね。
えなりかずき、この時代直系のお顔だったとは(*_*)
左手にカブ、右手に包丁握りしめ、正面をガン見するおねえさん、なにをか言わんとす?
細長い木切れ、こんなものがウオシュレット!?
この時代、既にシルクロードは開通していたのですか?確か、正倉院にもペルシア伝来のモノありますよね?
平城宮資料館、いざない館、大阪途中下車付きで、いつかきっと^o^
キレ切れのコメントになりm(_ _)m
私事ですが、一昨日、所用で日帰り新幹線鹿児島行き、昨日は半日オーストラリア連邦裁判所のライヴ配信をぼーっと眺めて(ほぼ聴きとれないのに)家におこもりしていました。4tr前からの趣味、テニス関係のSNSに振舞わされ、ますます4trお留守になっています。
- しにあの旅人さん からの返信 2022/01/18 07:38:20
- Re: 秘蔵写真♪
- オーストラリアのライブ配信とは、例のジョコヴィッチさんのことですね。半日ライブ配信するほどの、テニス界の一大事件なのですね。
テニスか旅行かの二択ではなく、テニスで旅行に行っちゃうkumming さんならでは、です。
賞味期限寸前の在庫放出を急いでおります。旅行記は直後にざっと書き上げて冷凍、up前に解凍して書き直すというスタイルなのですが、最後の1本の解凍がうまくいきません。
このところ、あまりに前のことなので、by妻もよく覚えていないみたい。
ペルシャ系の役人って、なんでしょうね。この時代って、江戸時代なんかよりよっぽど国際的だったみたい。
大仏不記載は不思議。それだけじゃなくて、大仏さんには変な記事が続日本紀にあります。次の九州シリーズでとりあげます。
お役人さんのお給料は多いから少ないか。いくら1億円もらっても、何に使うか。テニスの試合を観にヨーロッパまで行けるkummingさんのほうが、幸せなお金の使い方だと思います。
ご馳走でも、この時期の私たちの鍋の方が、いいなあ。
今夜は福岡の飛行場で買ってきたかねふくの水炊きのもとを使おう。
最後の一袋です。
カラシ高菜がおいしかった。九州の高菜漬けをやっと房総の田舎スーパーでもみっけたので、これをなんとかカラシ高菜にしてみたい。
これをパスタに混ぜて、カラシ高菜・スパゲッティ・アラビアータにしてくれと、冬眠中のby妻に頼んでいます。
- kummingさん からの返信 2022/01/22 22:19:51
- からし高菜♪
- 明太子、ではなく辛子高菜、さすがしにあさんの目の付け所でございますね!
我が家の夕食、冬場は週5鍋、週1ノンアルDAY(ご飯もの)、週1手抜きDAY(主婦業さぼり日)、その日はパスタで辛子明太子ペペロンチーノや辛子高菜ペペロンチーノが登場します。何故ペペロンチーノか?というと激辛好きの私が鷹の爪を大量に入れるから(笑)バッカス君は汗かきながらビールで流し込む(ーー;)
うちでは、高菜漬けと鷹の爪を胡麻油で炒めたら、辛子高菜の出来上がり♪ 水炊きのもと?があるとは初耳です!
お料理談義してるばやいではないですよね、さっき気づいた新作、これからじっくり拝見させて頂きます^o^
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