
2021/07/09 - 2021/07/12
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しにあの旅人さん
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天平15年(743年)冬10月15日、紫香楽宮にて、
★天皇は次のように詔された。(中略)ここに天平15年、天を十二年で一周する木星が癸末(みずのとひつじ)に宿る十月十五日を以て、菩薩の大願を発して、盧舎那仏の金銅像一体をお造りすることとする。★
有名な聖武天皇の盧舎那仏造営の詔です。
続いて、
10月19日、
★天皇は紫香楽宮に行幸された。盧舎那仏の像をお造りするために、初めて甲賀寺の寺地を開いた。行基法師はここで弟子たちを率いてひろく民衆に参加を勧誘した。★
その甲賀寺跡に行ってきました。
表紙写真は、世が世なれば大仏が建立された甲賀寺の金堂跡です。
引用した参考書などは、「元祖4トラベラー聖武天皇1」に列挙しました。引用に際し、僭越ながら敬称を略させていただきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
紫香楽宮跡と甲賀寺跡の位置関係です。真南に直線で約1.8km離れております。
-
1回目の甲賀寺、2020年11月16日です。中門を経て金堂にいたる参道です。ゆるい上り道です。のちの奈良の東大寺と違って、甲賀寺の金堂は岡の上にありました。
コロナ騒ぎの谷間でしたが、甲賀寺で出会った人は4人、そのうち2人は地元の方の散歩でした。 -
一書に曰く、
甲賀寺跡は、森の中にあって、入っていくとき、どこかによく似ているなあと、しばし考えました。
車から降りると、落ち葉が降りそそぎ、空いっぱいにまっかな紅葉の天蓋。
何という静けさ、なんという美しさ。
駐車場で、もう、うっとりして写真を撮りにうろうろします。
と、駐車場のすみに、趣のあるトイレ。
車で旅行すると、次にどこに行くのか分からないので、トイレを見たら、何はともあれ利用することにしております。
近づくと、その辺りの木は特に厚く繁っておりまして、よりしっとり湿気を感じます。ひんやり。
と、入口に札がかかっております。
「マムシ注意。」
ぎょっ。
回れ右。
でも、よくよく考えたら、季節はすでに冬に近い秋、こんなに紅葉がきれいなのですから、「あのかた」は、もう、冬眠していましたよね。
しかし、日本中いろいろなところで、この立て札を見ます。
「マムシ注意。」
ああ、そこで思い出しました。ここ甲賀寺跡の森は、軽井沢によく似ていました。
森の中の車道。そして落葉する木々。
そうか、聖武さんは、このときちょっと、立原道造入っちゃったんだ。
ま、気分は分かりますよ。
ときにはロマンティックになりたいときもあったでしょうよ。
やっとやっと生まれた坊やなんだからって、期待は重たかったでしょうし。
がんばる女達のなかの黒一点なのだから。
日本の女帝は、この聖武さんの周りに集中しております。
男はつらいよ。でございますね。
立原道造が、軽井沢で、心を休めたように、聖武さんもここで心を休めたかったのか。
それとも、元正天皇へのかなわぬ恋に傷ついて、ここに泣きにきたのか。
ロックだぜ!ベイビー。
あ、私、まだ光明皇后は樹木希林説から逃れられない。
森の中の坂道も、きれいに整えられて、階段にしてありました。両脇には木々が茂り、良い雰囲気の散歩道です。
お若いお二人が、降りていらっしゃいました。
デートですな。
こういう所をデートするって、つきあい始めなんだろうか、それとも結婚間近なんだろうか。
歴史の話なんかしたら、なかなか高尚な趣味だと、点数が高くなりそう。点数稼ぎのつきあい始め。
でも、お金かかんないよね。式のことを考えたら、無駄遣いはできないと考えたかな。
ま、どっちでもいいです。お幸せに!
By妻 -
中門あとの礎石です。
-
東大寺では中門から大仏殿まで約80mありますが、甲賀寺では写真中央の坂道だけです。写真手前は金堂の基壇。10mくらいでしょうか。
-
金堂跡は基壇が残っており、壇上には紫香楽宮という神社があります。
中門から金堂基壇まで。ご覧の通り、短い。 -
小さなお社です。甲賀寺と直接の関係はないようです。
一書に曰く、
登りきると、小さな、本当に小さな社殿がありました。
でも、備品がすべて小さくとも立派で、徳川将軍のお姫様のひいな遊びのようでした。
そして、その社殿の後は、開けた土地でした。
その開けているところが、跡なのでした。
By妻 -
現場パネルより。甲賀寺の復元図です。金堂は東大寺の大仏殿よりあきらかに小さい。聖武天皇がここで建立しようとした大仏は、後年の大仏よりはるかに小さい像だった。
-
現場パネルより。礎石図。
一書に曰く、
枯れた草の中に、規則正しく礎石が並んでいます。
by夫が、一歩二歩と、歩幅で石の間を測ったりしているとき、ビューンキーンと、チェーンソーの音がしました。
緑の中に、作業服の男の人が、木々の手入れをしています。
私たちが、礎石と礎石の間を、歩いて距離を測ったり、礎石の数を数えたりしているのを、何だと思っていらっしゃったことか。
お爺さんとお婆さんが、幼児にかえって遊んでいると思ったかも知れません。
というのも、チェーンソーの音が、一瞬途切れたのですよ。
ぎょっとして、じっとみつめたのかもしれません。
いえいえ、私らは、けっして、まだ、ぼけてはおりません。と一言申し上げたかったです。
が、あちら様は、働いている最中。声をかけていいものか。ふうっ。
変な人だと思われているんじゃないかと、気をもんでいるわたくしに、by夫は、うーむ、だいたい18メートルかな。とか無邪気なもんです。
まあ、いいか。この年になったら、恥も外聞もないや。
By妻 -
金堂東の塔跡。五重塔だったそうです。金堂跡からは明らかに一段低くなっており、岡の頂上の凸凹を利用して伽藍を配置したようです。
-
五重塔の第1階って、こんなに小さいかなと思いました。
-
見れば分かりますが。塔です。
-
僧坊跡です。
-
1房内に1人~数人が居住し、僧侶の読書、寝臥などにあてられた、とあります。
-
20室ありました。
-
経楼。
-
しっかりした礎石でした。
-
まだ貴重な写真があるのですが、説明板とばらばらになってしまい、どれがなんだか分からなくなりました。載せられません。残念。
-
ドローンの回転空撮は、全体の雰囲気をご紹介するにはいいと思いますが、木立が多すぎて、見通しがききません。
https://youtu.be/wRc6Cdg7Vm8
-
ここから本題。
甲賀の大仏さんを建立するはずだった金堂跡。 -
金堂は正面7間奥行4間。大仏を配したのは内陣で、正面5間奥行2間です。
-
写真は神社の裏手。
神社を囲んでいるのが内陣礎石正面です。左端1番目と右端5、6番目の礎石は木立に隠れて見えません。
礎石の中心から中心まで距離を測ってみました。1間はおおよそ2.52mとなりました。
私の歩幅ですから、おおよその距離です。
金堂本体は、
正面:約17.64m
奥行:約10.08m
内陣は、
正面:約12.6m
奥行:約7.7m
細かくこだわった理由は、東大寺大仏殿とくらべるためです。
あまりに有名なので写真はほんのちょっと。 -
ご存知大仏様と、
-
大仏殿。
大仏殿の縦横はすぐ分かりましたが、内陣の寸法が分かりませんでしたので、大仏殿本体からの類推です。
なおこれは鎌倉時代に再建された大仏殿の寸法で、創建当時は正面は86mで現在より大きかったのです。
内陣はあまり変わっていないようです。
大仏殿
正面:57.5m
奥行:50.5m
正面は7間ですから、ここで1間は8.2m
内陣
正面5間:41m
奥行3間:24.6m
本尊を安置する内陣は、甲賀寺は東大寺大仏殿の正面、奥行とも大体30%です。
甲賀寺に予定されていた大仏さんも、やはり東大寺に比べて30%くらいのものだったと推定されます。
大仏さんの創建時の像の高さは15.8m、幅は12mです。
したがってその30%、甲賀寺は像の高さ4.74m、幅3.6mくらいになります。 -
仏像のサイズは丈六、4.8mの整数倍、縮小するときは2分の1、3分の1などと決まっておりました。座像ならばその半分となります。
こちらは飛鳥寺の飛鳥大仏様。丈六の座像、2.4mです。
その2倍は4.8mとなります。
甲賀寺の仏像の推定サイズとほぼ一致します。 -
これは飛鳥資料館に展示されていた、飛鳥の山田廃寺の仏頭複製です。写真使用許可取得済みです。
撮影時By妻を横に並ばせてあとでサイズを推定しました。頭と冠の境目がはっきりしませんが、顎から頭まで約100cmでした。全体を類推すると、像の高さ4m~5mの座像です。丈六の2倍、約4.8mとなります。 -
東大寺大仏殿の脇侍如意輪観音様です。江戸時代の造立。台座を含めて高さ約7m、台座を別にすると丈六2倍でありましょう。
-
同じく東大寺の虚空蔵菩薩様。同じサイズ。
甲賀寺に予定されていたのは、このような大きさの盧舎那仏様だったと、推定されます。
私が不思議に思うのは、甲賀寺の大仏の小ささです。
丈六2倍の坐像なら、すでに山田寺にありました。山田寺の大仏様は685年には完成しております。1411年の火災で焼け落ちるまでは確実に存在しておりました。聖武天皇が実際に見ているかどうかは分かりませんが、存在を知らないはずがない。
それなのに、「盧舎那仏造営の詔」というたいそうな宣言をして造るほどのものか。
聖武天皇がイメージしていたものは、もっともっと大きなものだった。
それなのに実際に甲賀寺で作り始めてみると、思いのほか小さいものになる。
それじゃ、やめよう。
聖武天皇なら、このくらいの気まぐれはやりそう。
思い通りの盧舎那仏ができないなら、紫香楽宮なんかいらない。ついでに恭仁京も捨てちまえ。
この想像は、案外あっているかも、と思っています。
一書に曰く、
甲賀寺跡を見ると、その規模が思いがけなく小さくて驚きます。
奈良の東大寺と比較しているのですが、この小ささを考えると、最初は、気まぐれだったのだなあ。とにかく、現状を打破したい、というだけの思いだったのではないかと私には思えます。
最悪な今の世から、新世界へ!って、思ったのでしょうか。
ちょっと、グチの代わりに、思いついたアイディアを漏らしたら、プロがどんどん実現しようと計画が進んで、「ありゃ、そういうことなら、この場所はできません、もっと違う場所でないと。」とかいうことだったのかな。
アメリカへアメリカへ。希望を抱いて旧大陸から新大陸を目指した人々と同じ気持ちだったのかも。
ガラガラポン!と、最初から全てをやり直したかったのですかね。
不安で、追い立てられるように転々としたのか、気まぐれのアイディアが、次々出てきて、ワクワクドキドキで、引っ越したのか。
聖武さんをとっ捕まえて、きっちり問い詰めたいところです。
By妻 -
続日本紀天平16年(744年)11月13日、
★甲賀寺に初めて盧舎那仏の体骨柱を建てた。天皇は親しくその場に臨んで、自らの手でその綱を引かれた。★
「体骨柱」というのは、たぶん像の骨組みだと思います。私は、除幕式みたいなのがあって、聖武天皇が除幕の縄を引いたと、勝手に思っていたのです。
一方、諏訪の御柱の立ち上げみたいに、綱を引いて、体骨の中心になる柱を建てた、その縄を引いた、とも読める。
もしかして基礎堅めのえんやこらのことかな。儀式にしても、天皇がみずからえんやこらの縄を引いた。
「えんやこら」は私と同年代の方は、ご存知ですよね。昭和20年代、ご覧になったこともあると思います。お若いかたは、ググって下さい。
聖武さん、このときは、大仏建立に気合いが入っています。
このときは・・・
しかし、半年後、
天平17年(745年)5月5日、
★天皇は恭仁宮に還り、参議・従四位下の紀朝臣麻路を甲賀宮(紫香楽宮-訳注)の留守官に任じた。★
聖武天皇は紫香楽京を放棄しました。
甲賀寺の大仏は、このあと歴史から姿を消します。
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