2021/12/13 - 2021/12/13
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kojikojiさん
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鹿児島の旅の2日目は朝風呂から始まりました。ゆっくり湯につかって朝ご飯をいただくと温泉に来たと実感できます。指宿温泉を出た後は鹿児島湾沿いを鹿児島市に向かって北上します。屋久島杉の工房に立ち寄りつつ市内に入ります。と言っても鹿児島市内の観光は予定に入ってはおらず、「ザビエル公園」を通過して、中央公園から西郷玉盛像の下を通過して「城下展望台」に向かいます。駐車場から少し登った先にある展望台からの景色は家にあった古い写真の場所でした。昭和43年の1968年に父が仕事で九州の支社巡りをした際に立ち寄ったようです。鹿児島市内を観光するのは初めてのことだったので写真を見てもピンときませんでしたが、こうやってその場に立つといろいろなことが分かってきます。次はまたバスに乗って「仙厳園」に移動します。ここも1時間ほどの自由時間が与えられますが、庭園と御殿を駆け足で見るだけでその時間は足りなくなりました。ここを満足するだけ観光するには最低でもあと1時間は欲しいところです。バスに戻ると皆さんはすでの揃っていて、桜島へ向かうフェリーターミナルに向かいます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス 船 JALグループ 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- JTB
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前日は深夜まで部屋飲みをしながらも、旅先の朝では午前5時過ぎには目が覚めてしまいます。朝日が昇るにつれて対岸の大隅半島と鹿児島湾の姿が見えてきました。
指宿温泉ホテル翔月 宿・ホテル
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早朝の大浴場でゆっくり温泉を楽しんでからの朝ご飯です。前の晩と同じ3階の宴会場でセットメニューでした。コロナ禍になってからはセットメニューの方が煩わしくなくて良いです。食事中に女将さんが挨拶に来られました。
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食事の後は1階のロビーでコーヒーのサービスがありました。
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部屋に戻ると東の空から太陽が上がってきます。ツアー2日目も天気は良さそうです。
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指宿温泉は1960年代のハネムーンブームで東洋のハワイと呼ばれ、一躍有名になったそうです。海岸の北側にある魚見岳を南側から望む姿がハワイのダイヤモンド・ヘッドに似ていることも指宿が東洋のハワイと呼ばれている由縁だそうです。
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2日目は午前8時に「ホテル翔月」を出発します。
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全部で50室ほどの小さなホテルなので、いろいろなところに気配りが出来ているように思えました。
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「いわさきホテル」で同じツアーのメンバーをピックアップして出発です。1泊8,000円追加する価値があったのかは分かりませんが、「ホテル翔月」で十分でした。
指宿温泉 指宿いわさきホテル 宿・ホテル
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昨晩行った「砂むし会館 砂楽」の前を通過しました。
砂むし会館「砂楽」 温泉
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知覧は陸軍の航空基地でしたが、指宿には海軍の基地があったそうです。「指宿海軍航空基地跡」が海岸線に残されていました。この丘はかつての退避壕で、現在この上に指宿海軍航空基地哀惜の碑と観音像が安置されているそうです。特攻隊が出撃したのは知覧だけではなく、鹿児島県本土だけでも10か所ほどの陸海軍の航空基地があり、そのそれぞれから特攻機が飛び立ったそうです。
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当時のこの基地に配備されていたのは下駄履きと呼ばれた水上機や飛行艇だそうです。一般の戦闘機に比べスピードや性能が劣っていたにもかかわらず、これらの飛行機まで特攻に使われたのは悲劇としかいいようがないです。
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沖合に「知林ヶ島」が見えてきました。干潮時には海の中に道が出来て歩いて渡れるそうです。ただ戻るときに満潮になると無人島なので、電話が1本置かれてあるだけだそうです。電話をすると漁船か何かが迎えに来てくれると添乗員さんがおっしゃっていました。
知林ヶ島 自然・景勝地
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この指宿商業高校と隣接する今和泉小学校の敷地に徳川幕府第13代将軍家定の正室となった天璋院篤姫の生家があったそうです。篤姫は天保6年の1836年に屋敷を構える薩摩藩の今和泉島津家別邸に産まれました。
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ENEOSの喜入基地が見えてきました。浮き屋根式の石油備蓄タンクです。グーグルマップで見ると全部で54基ありますが、大きなものは直径100メートルもあるそうです。隣にENEOSのガソリンスタンドがありましたが、170円/リットルと表示がありました。原油基地があっても鹿児島県は日本有数のガソリンが高い土地です。
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だんだん桜島が近づいてきました。この午前中だけはバスの右側の景色が良かったですが、それ以外は左側の座席の方が良いと思います。前の1列が使われていないので写真を撮りたい時だけ移動していました。
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黄色い建物が見えてくると添乗員さんから到着の案内があります。2日目最初の立ち寄り先の「屋久杉見学工場アリヨシ民芸品店」でした。
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ここまで約1時間走っているのでトイレ休憩も兼ねているのだと思います。正直ここに寄るくらいなら鹿児島市内のどこかに連れて行ってもらいたいくらいです。
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ただバスから降りて桜島の美しい写真が撮れたのは良かったです。
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入り口には屋久杉の巨木がゴロゴロしています。現在では伐採が終了しているので土産物などの加工に使われている屋久杉は土埋木(どまいぼく)と呼ばれる物です。これには伐採の跡の切り株や台風などで倒れた倒木も含まれるそうです。
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この古びた木の中に美しい木材が埋もれているのだと思うと驚きではあります。
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円満人形というこけしのようなものの実演がありました。夫婦になっているようですが、首の輪っかが自在になっているのが面白いです。用材をろくろの軸先に固定して回転させ、専用の道具を用いてこけしの形に削っていきます。輪っかの部分を作るところが見どころですがそんな難しいものではないと思います。
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巨大な屋久杉の瘤がありました。推定樹齢4500年だそうです。重さは6トンもあるようです。屋久杉の場合は泡瘤(あわこぶ)と呼ばれるものもあるそうです。
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並んでいる飾り棚は無垢材と単板を練り付けたものなど様々です。元値が300萬円を半額みたいな感じで販売されていますが、相場が全く分かりません。
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木の根を磨き上げてクジャクのように見せた作品です。同じものを石垣島のホテルでも見たことがあります。屋久杉以外のものも多く売られていますし、この工房で作ったものではないものたくさんあります。ベトナムのホイアンの近くのキムポン村で見たことがあったり、台湾でも見たような…。
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桜島は刻一刻と姿を変えていくので見ていても飽きないです。
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午前9時から20分の滞在でしたが、皆さんすごい勢いで買い物されていて出発は10分ほど遅れました。
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鹿児島市内にバスは入り、新幹線の鹿児島中央駅の前を通過しました。これは薩摩藩がイギリスへ派遣した留学生一行の像で、NHKの大河ドラマ「青天を衝け」の番組の最後で紹介されていたのを見た記憶がありました。薩英戦争でヨーロッパの力を知った薩摩藩は慶応元年の1865年に、藩の優秀な青少年15名と使節団4名、計19名の「薩摩藩遣英使節団」をイギリスに派遣しました。このうち、学生として現地で学んだ15名は「薩摩藩第一次英国留学生」または「薩摩スチューデント」とも呼ばれています。当時最年少だった長沢鼎は13歳でした。現地で学問や技術を習得し、彼らの留学経験は日本の近代化に大きく活かされました。昭和57年の1982年に50万人都市達成を記念して建立されたもので、作者は大久保利通像も制作した中村晋也氏です。
鹿児島中央駅 駅
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続いて大久保利通像の前も通過します。隣の席のおばちゃんが邪魔になって写真が撮れませんでした。
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鹿児島に初めて路面電車が走ったのは1912年のことで、当初は「鹿児島電気軌道株式会社」という民間会社でしたが、鹿児島市が1928年に会社を買い取って「市営電車(市電)」となりました。現役の車両で最も古いものは1955年製だそうです。また軌道が緑化されているのも素晴らしいなと思いました。
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面白かったのが交通信号の手前の線路に砂を置いていることです。この「すべらない砂」は落ち葉などによる車輪の空転を防ぐため、滑り止めとしてレールと車輪の間にまいているものです。日置市にある山から採取した、水を吸いにくい砂を使っているそうです。すべらないということで、少量の砂を「合格祈願 すべらない砂」と書かれた写真と共にラミネート加工したカード型のお守りを造り、受験や入試にすべらないように2011年1月から毎年配布しているそうです。
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市電用の架線柱も他では見ない道路の中央に立てられているのが面白かったです。
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ザビエルの等身大像と彼の日本での布教に協力したヤジロウ、鹿児島のベルナルドと共に布教活動を行なう様子を描いた銅像がありました。これに安心してしまい、この先にある肝心な「ザビエル来日記念碑」を撮り逃しました。
ザビエル滞麑記念碑 名所・史跡
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「鹿児島市中央公民館」は大正13年1月の皇太子殿下(昭和天皇)のご成婚の記念事業として大正15年8月に起工し、昭和2年10月に完成しています。1918年竣工の「大阪市中央公会堂」の9年後の開館ですが、設計は同じ片岡安(かたおか やすし)です。1か月前に見てきたばかりなので見学してみたい気になります。
鹿児島市中央公民館 名所・史跡
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その公民館の建物の横には「西郷隆盛銅像」が建っています。この像は没後50年祭記念として鹿児島市出身の彫刻家で渋谷「忠犬ハチ公」の制作者でもある安藤照が8年をかけ製作し、昭和12年の1937年に完成したものです。日本初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちする高さ8メートルの堂々たるモニュメントです。
西郷隆盛銅像 名所・史跡
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江戸城無血開城や明治新政府樹立など明治維新に最大の功績を残した西郷隆盛ですが、突然職を辞めて鹿児島に帰郷してしまいます。 その後の西南戦争で新政府軍と戦い敗北し、この城山の地で自刃しました。
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「鶴丸城跡(鹿児島城)」の前も通過しました。初代薩摩藩主の島津家久が,関ヶ原の合戦直後の慶長6年の1601年頃に築城を始めた居城です。城の正式名称は「鹿児島城」で、「鶴丸城」の名前は背後の城山にちなんで呼ばれるようになります。御楼門は明治6年の1873)年の火災によって、本丸の建物とともに焼失してしまいましたが令和2年に再建されています。
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城山に向かう途中には五代友厚の生まれた地のそばを通りますが、トンネルを越えずに山道に入ります。「南洲翁洞中記念碑」とあります。
西郷洞窟 名所・史跡
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明治10年の1877年2月に鹿児島城下を出発した薩軍ですが、九州各地で転戦したのちに8月に解散します。その後西郷隆盛の一行は九州の山間地を越えて鹿児島を目指し、9月1日に再び城下に戻り城山に立て籠もりました。西郷が最後の5日間を過ごしたのがこの洞窟と伝えられています。明治10年9月24日未明、に山を包囲した政府軍は一斉に砲撃を開始し、薩軍は敵陣目掛けて岩崎谷を駆け下り、最後の抵抗を示しました。西郷隆盛は腰と太ももに銃弾を受け、この場所で別府晋介の介錯によって最後を遂げたと言われています。
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改めて西南戦争の地に足を踏み入れているのだと感じながらバスは「城山展望台」に向かいます。駐車場でバスを降りてしばらく歩くと眺望が広がります。
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ここまで走ってきた鹿児島市内がきれいに見渡せました。
城山公園 公園・植物園
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天気が良くて本当に良かったと思います。これで桜島が見えないのでは来た甲斐がありません。
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水中翼船は鹿児島から屋久島や種子島へ向かう航路のようです。指宿への航路もあるので乗ってみたかったです。
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城山からの眺めを見ていて思い出したことがありました。
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共同通信社に勤めていた父が鹿児島から熊本と別府の支社を巡った時の写真を見た記憶がありました。ネガには昭和43年の1968年と記載されていましたので、その出張の合間に城山展望台と仙厳園に立ち寄ったようです。
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驚いたのがこの写真でしたが、調べてみると現在の空港の前に鹿児島市鴨池あたりに旧空港があったようです。旧海軍の「鹿児島航空基地」と、新川を隔てて西側には予科練がありました。1972年までこの場所が鹿児島県の空の玄関口「鹿児島(鴨池)空港」だったので着陸前に桜島が右手に見える訳も分かりました。
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「鹿児島市中央公民館」を上から眺めると中国の旧満州の長春(新京)にある帝冠洋式の建物を思い出します。
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望遠レンズで対岸の桜島を切り取ってみると「桜島港フェリーターミナル」が確認できました。左上に見えるのは「湯之平展望所」のようです。
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逆光になってしまったので桜島をバックの写真はうまく撮れませんでした。
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初めて間近かで眺める桜島に感慨深い思いがありましたが、このあと終日眺めることになりました。
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写真を撮ってゆっくり駐車場に戻ると、妻たちが売店に引っかかっています。
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きれいな桜島小ミカンが売っていました。この「紅さくら」は桜島小みかんの新品種。で、着色が早くて果皮は濃い紅色をしており、糖度が高く香りも強いのが特徴です。ネットで調べるとどこも完売になっているので迷わず1袋買い求めました。20個ほど入って550円と結構高いです。この後桜島や大隅半島でも売っていましたが、他の品種の路地者だと200円から300円くらいで買えました。
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「鶴丸城跡(鹿児島城)」を右手に眺めながら「仙厳園」に向かいます。
中央公園 公園・植物園
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「鹿児島紡績所技師館(異人館)」は第29代薩摩藩主の島津忠義が日本初の洋式紡績工場を作った際に招いたイギリス人技師の宿舎です。コロニアル様式のベランダや日本の寸法による設計など和洋折衷の建築様式ということです。見に行きたいところですが、「仙厳園」では50分しか時間が無いので無理な話です。
旧鹿児島紡績所技師館(異人館) 名所・史跡
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駐車場に入る前に日豊本線を走る電車と桜島を一緒に撮ることが出来ました。
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添乗員さんに率いられ全員で「仙厳園」に向かいます。入り口の手前で記念写真。最初は添乗員さんの案内で「望嶽楼」まで歩くとのことです。ここでの見学時間は1時間しかないので目的を絞らないとなりません。
仙巌園(磯庭園) 公園・植物園
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「反射炉跡」
オランダの技術書をもとに建設された大砲の砲身をつくる施設です。炉内部の天井や壁に炎と熱を反射させて鉄を溶かすため反射炉と呼ばれました。反射炉の建設は製煉所で小型のひな型をつくり、鉄の溶解実験からスタートしますが、実験は難航しました。斉彬は「西欧人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人もまた人なり」と藩士らを励まします。1852年に磯で建設された1号炉の建設は失敗に終わりました。2号炉が1857年に完成すると鉄製砲製造にも成功しますが、薩英戦争で破壊されたために現存するのは2号反射炉の基礎部分のみです。 -
石垣の上には蘇鉄がたくさん植えられていました。1か月前に行った桂離宮では「菰巻き」の作業中でしたが、温かい鹿児島ではこのまま冬を越すのでしょうか。桂離宮のソテツは薩摩の島津家から献上されたものです。
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「仙厳園」は江戸時代の万治年間の1658年頃に第19代当主島津光久によって磯に別邸として建設され、その別邸は「仙巌園」と名付けられました。寛文12年の1672年には13の部屋を有する「喜鶴亭」が建設されまあす。また元禄15年の1702年頃には曲水の庭が拡張されます。
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「錫門」
江戸時代の正門で、屋根は瓦ではなく鹿児島の特産である錫で葺かれています。高い身分の象徴であるこの朱塗りの門を通れるのは藩主と世継ぎだけだったそうです。錫は薩摩の特産品でもありました。 -
ここは大河ドラマ「西郷どん」のロケでも使われていました。島津斉彬が江戸に行き来するシーンでこの錫門が使われています。家臣の赤山靫負が途中まで同行していました。
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横には「獅子乗大石灯篭」の後ろ姿が見えます。
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このあたりから借景として眺める桜島が一番美しいと思いました。
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右手には獅子乗大石灯篭が置かれ、正面には鶴燈籠も見えます。知覧の武家屋敷の庭園はこの仙厳園をリスペクトしてるのだろうと感じます。
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「獅子乗大石灯篭」
庭園の中で最も大きな灯籠で、笠石の大きさは8畳分もあります。上に乗る獅子は空から飛び降りてきて、着地した後に桜島の方を振り返った姿だそうです。 -
御殿前庭にも見覚えがありました。あまり真剣に大河ドラマは見ていないのですが、記憶は残っていました。
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御殿前で新藩主就任祝いの御前のシーンが撮影されていました。ここには1週間かけて土俵が設置されたそうで、西郷吉之助や大山格之助が相撲がリアルだったことを覚えています。
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「千尋巌」
11メートルある巨岩に「千尋巌」の3文字が刻まれています。景勝地の岩に文字を彫るのは中国ではよく見受けられますが、日本の大名庭園ではここだけのようです。中国の泰山や黄山の旅を思い出しました。 -
「望嶽楼」で解散した後は「祥福橋」を渡ったもう少し奥まで行ってみることにします。
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橋の上からも桜島が見えました。この川の護岸はまるで城郭の石垣のようです。藩主の邸宅なのでセキュリティーの整っていたようです。
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午前中の仙厳園は日差しが射し込むので眩しいくらいでした。そして12月とは思えないポカポカ陽気でした。
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京都の庭園をいくつも回ってきたばかりなので、石橋に気が行ってしまいます。ずいぶん長い切り石を2本合わせています。
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日当たりが良いので艶蕗(つわぶき)がきれいに咲いていました。
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どちらがどちらをサポートしているのかよく分からなくなってきました。2人の間では話し合っているのでしょうが、傍から見ていると共倒れになりそうです。
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「ひさご池」は曲水の流れを落とす滝と池で、この石組と石橋は英公使パークスが1866年に仙巌園を訪問した際にヨーロッパに紹介された風景のままです。
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ピンクの山茶花がきれいに咲いていました。
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コンビ解消したみたいで、親友はお土産を買いに先に戻ってしまったようです。
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仕方が無いので妻の手を引いて庭園を巡ることにしました。鹿児島県のテレビの天気予報では本日の風向きは西から東なので、鹿児島市内では洗濯物が干せそうです。
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桜島を往復するフェリーが見えました。早く桜島にもわたりたい気分ですが、仙厳園にももう少しいたいものです。
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日当たりの良い楓はきれいに紅葉していました。このまま「曲水の庭」にも行きたかったのですが、時間が無いので戻ることにします。中国の紹興でも会稽山に行けませんでしたが、鹿児島でも行けませんでした。
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「水力発電用ダム跡」の前も通りました。これは29代藩主島津忠義が建てた就成所(しゅうせいじょ)に送電した発電用の貯水槽跡です。貯水槽から流した水の落差を使って水車を回転させて電力を作るものでした。現在も少し水が流れているところにリアリティを感じます。
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この石階段も見覚えがありました。「西郷どん」で何度か見たことを思い出します。女子の格好をした竿合小吉が父の吉兵衛に叱られていたシーンや、斉彬の江戸行きに同行する若い藩士を求めている話で盛り上がっていました。
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ロケのシーンにはこのような看板が立てられているので同時に確認することが出来ます。写真を撮るにはちょっと邪魔ですが、記憶が鮮明になるので良いアイディアだと思います。
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「高枡」
高枡は水の分岐と水量を調整するための水道施設ですが、この庭園内にもありました。表面がしっとりと濡れて苔むしていてこれ何だろうと思い説明書きを読んできると「園内の湧き水を石造りの水管で集めサイフォンの原理を用いて、この高枡から御殿前の池などに配水しています」とありました。 -
「千尋巌」の3文字には「とても大きな岩」とうような意味があり、島津家27代齊興が約3,900人もの人を使い、約3ヶ月の期間をかけて作りました。これには薩摩藩士たちの雇用確保の目的があったそうです。
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御殿近くの庭には藤の古木が藤棚になっていました。11月に行った平等院の庭園や仙洞御所の庭を思い出してしまいます。
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仙巌園の「亀石」は御殿前と望嶽楼の間にあり、一定の角度から見ると亀のように見えることからこの呼び名が付いています。こちらから見るとなんだか分かりませんが、左側から見るとか目に見えるのが不思議です。
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ここまで約20分の時間が経過しています。残り40分しかありません。妻は友人を探してお土産を買ったり、両棒餅(じゃんぼもち)を食べたいというのでここでお別れです。
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御殿の見学は別料金500円が必要ですが、ここを観なかったら後悔しそうなので先を急ぎます。仙巌園は「迎賓館」として使われ、幕末には篤姫や幕臣の勝海舟、維新後もロシア皇帝ニコライ2世、英国国王エドワード8世が皇太子時代に訪れています。
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「鳳印の間(玄関の間)」
30代忠重が12歳まで過ごした部屋です。忠重は父の忠義の死にともない家督を継いで公爵となりました。後に海軍に進み、海軍大学校教官から英国大使館付武官を勤めた人物です。 -
薩摩焼の見事な置物です。狆(ちん)という日本の犬種です。こちらをつぶらな瞳で見つめます。薩摩焼ではこのような人形などの置物細工を捻り物(ひねりもの)といいます。これは薩摩焼15代の沈壽官(ちんじゅかん)の作品です。
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床の間に置かれた子供用の甲冑も可愛らしいで、前立てが白い鳩になっています。兜には島津家の家紋の十字紋も見えます。
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床の間の甲冑はロシア皇帝ニコライ2世が訪れた際に島津忠重が着ていたもののレプリカだそうです。
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時間があればガイドツアーに参加したいところですが、団体ツアーではそんな選択肢も無く、時計を見ながら先を急ぐだけです。
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奥の座敷に「西郷どん」で使われた衣装や小道具が展示されていました。
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「薄萌黄色地四季花小紋柄織打掛」は篤姫役の北川景子が着用したものだそうです。
後に篤姫と名乗る於一が相撲大会を見学した際に着用していました。篤姫は斉彬の養女になり13代将軍徳川家定(又吉直樹)に嫁ぎました。 -
「革色系洋が柄織袴に無地柄織洋生地羽織/スタンドシャツに薄鼠織ベスト」
渡辺謙演じる島津斉彬が着用していたものです。ドラマのいろいろなシーンが思い出されます。 -
「電信機」
幕末に薩摩藩が出版した「遠西奇器述」に、電気信号を用いて伝える電信機の技術が紹介されています。島津斉彬は藩内外の研究者に電信機を完成させます。江戸の薩摩藩邸で試験が行われた後に鹿児島城内で約600メートルの通信実験が行われて成功します。ここにはその模型が展示されています。 -
「蒸気機関模型」
島津成柿らは翻訳書の研究や長崎での研修を通して蒸気機関の製造に当たります。集成館にも「蒸気方細工所」が供えられていたことが絵図にも記されています。斉彬は完成した蒸気機関を船に取り付け、日本初の蒸気船の雲行丸も完成させます。
これもドラマで見た覚えのある模型です。 -
館の中には年表などの展示もありますが、ゆっくり見ている時間はありません。大きな一対の薩摩焼の壺が置かれてあり、その見事さには驚きました。薩摩焼は16世紀末に朝鮮から渡来した陶工によって始められました。鹿児島を代表する工芸品で、豪華絢爛な「近代薩摩焼」は斉彬の代に誕生しました。
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この一対の壺は高さは約90センチの大作で、明治29年の1896年に当時のロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式の際に島津家から贈られたとされるものを再現したものです。当時の作品は現在もロシアのエルミタージュ美術館に保管されているそうです。薩摩焼の特徴ともいえる滑らかで美しい白地に、金を基調に繊細かつ優美な色絵が施されています。反対側の中央には王冠とアルファベットの紋章が精巧に描かれています。オリジナルは薩摩焼窯元12代沈壽官窯で製作したもので、江戸時代から続く薩摩焼の名窯の職人たちが1年半かけて造り上げました。
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中庭までやってきました。池をのぞむ中庭の池の中には八角形のくぼみがあり、中国文化(風水)の影響を感じることができます。
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敷砂の箒目と呼ばれる文様が美しいです。渦紋(うずもん)は水面の変化を表現する文様です。
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中央の池から外側の敷き砂までが水を表しているようです。
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島津家歴代を祀っていた祖霊社の跡には園内の神社に奉納されていた神馬が展示されています。
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御殿の中には杉戸絵や襖絵がたくさんありますが、その多くが保存のためにガラスで覆われていました。亀に乗った仙人は前漢の武帝の時代の黄安です。3尺もある亀に乗っており、その亀は3000年に1回しか首を出さなかったと言われています。黄安は5回出したのを見たといわれるので、15000年生きたことになります。武帝が亡くなった後は人知れず何処かへ消えていたといわれます。
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外廊下を通って「謁見の間」まで来ました。謁見の間は名前の通りに来客への応接に使用された部屋です。2間続きで廊下も畳敷きであることから、一度にたくさんの人と会うことができました。
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謁見の間からほかの部屋の杉戸には美しい絵が描かれています。波濤の上を舞う丹頂と滝と紅葉の下を遊ぶ白鹿が描かれています。テーブルの上には色とりどりの薩摩切子のワイングラスがセッティングされています。
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天井の照明器具は明治期からこの御殿で使われていたものだそうです。当時は水力発電で電気を供給していました。照明の傘には島津家の家紋の丸十紋が施されています。
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父の遺した写真の中にこの謁見の間の写真がありました。50年以上前と比べるときれいに直されているであろうことが分かります。
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美しい大名火鉢には丸十紋は、入り右手には呼び鈴でしょうか、鈴が置かれてあります。肘を置く脇息(きょうそく)や鈴の台も家紋で埋め尽くされています。
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巨大な陶器製の手水鉢は中から水が湧きだしています。これは先ほど見た「高桝」の水をサイフォンの原理で湧き出しているのでしょうか。
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「御居間」
島津家29代忠義が1日の大半が過ごした居室で、書類の決裁や昼の食事をここで摂っていたそうです。部屋からは桜島をはじめ亀石や鶴燈籠や御庭下段の梅の花とヤクタネゴヨウの松が目に入ります。裏山には孟宗竹の竹林もあり、仙厳園は中国の理想郷「蓬莱さん」の象徴である松竹梅と鶴亀の揃った風水上の良い場所とされています。 -
「御小座(化粧の間)」
忠義が着替えたり髪を結ったりするための部屋です。忠義は古い習慣を守る人物で、息子の忠重が随筆「炉辺南国記」に「父は終生丁髷(ちょんまげ)を残していた。」と書いているそうです。 -
部屋の調度品も衣装盆や化粧道具入れや鏡などが設えてあります。
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この部屋からも桜島と亀石と斜めに生えたヤクタネゴヨウの松の木が見えます。
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「御寝所」
忠義は毎日規則正しい生活を送っていたそうです。朝には先祖の霊に礼拝し、日中は表(おもて)と呼ばれる公式の時間で、羽織袴姿で仕事をしました。夕方4時頃には「おななつ」と呼ばれるおやつを食べたり散歩したりして、午後9時には就寝していあそうです。 -
部屋の床下にはもみ殻が敷き詰められた層が設けられており、断熱材の効果があったそうです。
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「御小座(披露の間)」
この部屋は島津家への贈り物が届いた際にお披露目が行われた部屋です。円形のテーブル及び椅子は昭和天皇と香淳皇后が行幸された際に使われたものです。香淳皇后は忠義の孫にあたります。 -
一見シンプルな白薩摩の花瓶ですが胴の部分には松竹梅の彫と透かし彫りまで施されています。
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「御湯殿」
当主専用の浴室で当時は別の場所でお湯を沸かして運んでいたようです。 -
11月に京都の二条陣屋の湯殿を見てきましたが、システム的にはそちらの方が現代に近い湯沸かしや追い炊きなどが完備されています。温かい鹿児島では溜め置きの湯で十分だったのでしょう。
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手洗いの水盤も白薩摩の家紋入りの素晴らしいものです。ほとんど真新しいので近年に新しく再現されたものだと思います。もっともこの用途であれば磁器で作らなければ陶器では貫入から汚れてしまうと思います。
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トイレの蓋の鳥居のような丸い棒の部分が「きんかくし」です。きんかくしは日本独自のものですが、この「きんかくし」を後ろにして用を足します。この当時「きんかくし」は「きぬかけ」という言葉が変わった物で、上に着た服の裾をこれに掛けて汚れないようにしました。
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仙厳園の全部で1時間の見学時間しかないのでほとんど摺足の駆け足の見学になってしまって残念です。鹿児島市内も見学もできなかったので、近い将来に再び訪れたいと思いました。
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結婚式の前撮りの写真撮影も行われていました。こういった名所旧跡が近くにあるといいですね。
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「正門」
明治になって開通した道路に合わせて29代の島津忠義が建てさせた正門だそうです。明治以前は磯庭園と呼ばれたように、この前まで船で乗り付けたそうです。 -
材は裏山の楠(くすのき)を使い、上部には丸十紋と桐紋が彫られています。そして左右には桐の御紋も見えます。
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海側から眺めると立派な門ですが、道路までスペースが無いので全体像を眺めることは出来ません。
仙巌園(磯庭園) 正門 名所・史跡
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門の上の瓦にも丸十紋が見えます。そして四方を獅子が睨んでいます。
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残りの時間も20分を切ってしまいました。もうお土産を買ったり両棒餅(ジャンボ餅)を食べている時間はありません。
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10分くらいで「仙厳園ブランドショップ」を覗いてみることにします。復刻した薩摩切子の1つでも買いたいと思っていたのですが、ちょっと手が出ない金額です。お店の方もそう思ってか「写真撮影していただいて大丈夫ですよ。」とのことです。
仙巌園 - 薩摩切子ギャラリーショップ 専門店
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この蝙蝠の「舟形鉢」は見事でした。江戸時代のオリジナルはサントリー美術館が収蔵しているそうです。
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「三段重」は側面をホプネイル文で覆われ、最も特徴的な点は縦長に色ガラスを削り取った2筋の透明ガラスの帯です。このような意匠はヨーロッパの切子には見られない薩摩切子の独創的なデザインです。
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「香炉(うたた寝猫)」15代沈壽官(ちんじゅかん)
居眠りしている猫の首輪が可愛らしいです。背中に鼠がいるのにも気づかないほど気持ちよさそうに寝ています。 -
「薩摩金襴手龍図」廣田実雪
飾り皿で693,000円というお値段です。 -
「薩摩龍目透竹雀香炉」15代沈壽官(ちんじゅかん)の作品です。曲面に施された透かしの正確さには驚かされます。
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先に戻った妻から両棒餅の写真が送られてきました。一応3人前注文してくれたようですが、食べる時間はありません。お土産にしてくれたので、フェリーの中でいただけました。
仙巌園 両棒屋 グルメ・レストラン
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かるかんも妻が買っておいてくれたので、家に帰って美味しくいただきました。
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バスに戻るとすぐに出発になりました。「尚古集成館」にも行きたかったのですが、車窓から眺めるだけです。あと1時間は無いと納得できる観光は出来ないですね。
尚古集成館 美術館・博物館
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ギャラリーショップの前も通過してしまいます。
薩摩ガラス工芸 専門店
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仙厳園のスターバックスもこんな建物で営業しています。
スターバックス コーヒー (鹿児島仙巌園店) グルメ・レストラン
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鹿児島駅前を通過します。
鹿児島駅 駅
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桜島へ渡るフェリーターミナルに到着しました。このフェリーに乗るための時間に縛りがあるので見学時間も調整されてしまうようです。鹿児島市内を離れて桜島に渡ります。
鹿児島港フェリーターミナル 乗り物
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