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『高崎線沿線ぶらり旅』の12回目は、鴻巣駅界隈。<br />鴻巣は、江戸時代まで中山道の宿場町として栄えた街である。また、徳川将軍家が鷹狩の際に使用した御殿が置かれていたこともある。現在は、江戸時代から続く鴻巣雛と呼ばれるひな人形の生産が、往時の繁栄を今に伝えている。今回は、旧中山道の他、関東における源氏の礎となった源経基の館跡などを訪ねてみた。<br /><br />(2021.11.08 投稿)

高崎線沿線ぶらり旅 ~鴻巣駅・旧中山道界隈~

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2021/11/03 - 2021/11/03

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『高崎線沿線ぶらり旅』の12回目は、鴻巣駅界隈。
鴻巣は、江戸時代まで中山道の宿場町として栄えた街である。また、徳川将軍家が鷹狩の際に使用した御殿が置かれていたこともある。現在は、江戸時代から続く鴻巣雛と呼ばれるひな人形の生産が、往時の繁栄を今に伝えている。今回は、旧中山道の他、関東における源氏の礎となった源経基の館跡などを訪ねてみた。

(2021.11.08 投稿)

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
ショッピング
3.5
交通
3.5
交通手段
JRローカル 徒歩
  • 鴻巣駅に着いたのは11時過ぎ。高崎線沿線では、上尾、熊谷、高崎に次ぐ繁華な駅前である。まずは、旧中山道へ出て、鴻巣宿の鎮守である鴻神社を目指すことにする。

    鴻巣駅に着いたのは11時過ぎ。高崎線沿線では、上尾、熊谷、高崎に次ぐ繁華な駅前である。まずは、旧中山道へ出て、鴻巣宿の鎮守である鴻神社を目指すことにする。

  • 鴻巣宿の石柱のある交差点で、旧中山道へ入る。その交差点を左折し歩いて行くと、歩道にコウノトリの石板が埋め込まれていた。鴻巣の地名の由来と云う『こうのとり伝説』に纏わるものらしい。とは言え、実際の地名の由来は、『国府の州』から転じたもので、武蔵国の国府があったと推定されているそうだ。

    鴻巣宿の石柱のある交差点で、旧中山道へ入る。その交差点を左折し歩いて行くと、歩道にコウノトリの石板が埋め込まれていた。鴻巣の地名の由来と云う『こうのとり伝説』に纏わるものらしい。とは言え、実際の地名の由来は、『国府の州』から転じたもので、武蔵国の国府があったと推定されているそうだ。

  • 旧鴻巣宿を歩いて行く。しかし、鴻巣宿の面影は全くと言っていいほど残っていない。街並み自体は、やや昭和の名残りを感じる程度である。

    旧鴻巣宿を歩いて行く。しかし、鴻巣宿の面影は全くと言っていいほど残っていない。街並み自体は、やや昭和の名残りを感じる程度である。

  • しばらくすると、右手の路地の奥に山門が見えた。法要寺と言う寺院で、寺紋は、前田家と同じ梅鉢紋である。加賀前田家の参勤交代の際、宿泊所として利用したことから、梅鉢紋の使用を認められたそうだ。

    しばらくすると、右手の路地の奥に山門が見えた。法要寺と言う寺院で、寺紋は、前田家と同じ梅鉢紋である。加賀前田家の参勤交代の際、宿泊所として利用したことから、梅鉢紋の使用を認められたそうだ。

  • 不動堂の前に置かれていた一対の狛犬は、台座に市神街と彫られていることから、宿場の中央に鎮座していた市神社にあったものだと考えられているらしい。

    不動堂の前に置かれていた一対の狛犬は、台座に市神街と彫られていることから、宿場の中央に鎮座していた市神社にあったものだと考えられているらしい。

  • 境内には、寛政2年の銘を持つ庚申塔や古い石仏もあった。高崎線沿線を歩き始めてから、庚申塔が数多く残されていることを知った。それこそ、至るところにあると言う感じである。

    境内には、寛政2年の銘を持つ庚申塔や古い石仏もあった。高崎線沿線を歩き始めてから、庚申塔が数多く残されていることを知った。それこそ、至るところにあると言う感じである。

  • 鴻神社の近くまで来ると、道の向こうに古い建物が見えた。田沼家の蔵とあり、明治期に建てられたものらしいが、街道筋の風情を感じる佇まいであった。

    鴻神社の近くまで来ると、道の向こうに古い建物が見えた。田沼家の蔵とあり、明治期に建てられたものらしいが、街道筋の風情を感じる佇まいであった。

  • 鴻神社の手前に、渋い商店があった。竹ぼうきなどもあり、なかなか良い感じの店である。江戸時代で言えば、荒物屋であろうか。

    鴻神社の手前に、渋い商店があった。竹ぼうきなどもあり、なかなか良い感じの店である。江戸時代で言えば、荒物屋であろうか。

  • そして、鴻神社に着いた。鴻神社は、明治期に周辺の三つの社を合祀したものである。その三社とは、氷川神社(鴻巣郷総鎮守)、熊野社、竹ノ森雷電神社(鴻巣宿鎮守)である。現在社殿がある場所は、雷電社が鎮座していたところだそうだ。

    そして、鴻神社に着いた。鴻神社は、明治期に周辺の三つの社を合祀したものである。その三社とは、氷川神社(鴻巣郷総鎮守)、熊野社、竹ノ森雷電神社(鴻巣宿鎮守)である。現在社殿がある場所は、雷電社が鎮座していたところだそうだ。

  • 境内は、七五三の参拝客で賑わっていた。拝殿で参拝した後、脇に立つ『三狐稲荷神社』にも参拝。この社は、天狐・地狐・人狐の三狐を祀り、良縁を結び、悪縁を断つという御利益があるそうだ。総銅造りの社は、現在の職人では作るのが難しい物だそうだ。

    境内は、七五三の参拝客で賑わっていた。拝殿で参拝した後、脇に立つ『三狐稲荷神社』にも参拝。この社は、天狐・地狐・人狐の三狐を祀り、良縁を結び、悪縁を断つという御利益があるそうだ。総銅造りの社は、現在の職人では作るのが難しい物だそうだ。

  • 鴻神社は、中山道と忍行田道の追分となっていた場所である。交差点となっているその場所から、高崎線を潜って駅の西側へと向かう。その途中で、鴻巣市の市の花であるパンジーが描かれたマンホールがあった。

    鴻神社は、中山道と忍行田道の追分となっていた場所である。交差点となっているその場所から、高崎線を潜って駅の西側へと向かう。その途中で、鴻巣市の市の花であるパンジーが描かれたマンホールがあった。

  • 西側に出てからしばらく歩いて行くと、住宅街の中に鬱蒼とした森が見えて来る。そこが、清和天皇の孫であった源経基が館を構えていたと伝わる場所である。中へ入ってみると、外からは想像も付かないくらい綺麗に整備されていた。土塁が良好に残され、城館であったことがよく分かる。

    西側に出てからしばらく歩いて行くと、住宅街の中に鬱蒼とした森が見えて来る。そこが、清和天皇の孫であった源経基が館を構えていたと伝わる場所である。中へ入ってみると、外からは想像も付かないくらい綺麗に整備されていた。土塁が良好に残され、城館であったことがよく分かる。

  • 一段高くなった場所には、『六孫王経基城址』と刻まれた石碑が建っていた。『六孫王』とは、経基が皇族であった時の名と云われているが、実際に皇族であった時期があったかは不明だそうだ。この館跡も、『伝源経基館跡』であり、確証があるわけではないのである。

    一段高くなった場所には、『六孫王経基城址』と刻まれた石碑が建っていた。『六孫王』とは、経基が皇族であった時の名と云われているが、実際に皇族であった時期があったかは不明だそうだ。この館跡も、『伝源経基館跡』であり、確証があるわけではないのである。

  • 館跡沿いの道を歩いて行くと、濠の跡もかなり良く残っている。平安時代の館跡が、これほど良好に残っていることから推測すれば、後世にも城館として使用されていたのであろう。

    館跡沿いの道を歩いて行くと、濠の跡もかなり良く残っている。平安時代の館跡が、これほど良好に残っていることから推測すれば、後世にも城館として使用されていたのであろう。

  • 駅へと戻り、昼食とした。その後、再び東口へと出て、散策を再開した。次に訪れたのは、日本一小さな東照宮である。その場所は、江戸初期に、徳川将軍家が鷹狩の際の宿泊所としていた鴻巣御殿が建っていた場所である。現在は、住宅街の中に小さな石の祠が建っているだけであった。

    駅へと戻り、昼食とした。その後、再び東口へと出て、散策を再開した。次に訪れたのは、日本一小さな東照宮である。その場所は、江戸初期に、徳川将軍家が鷹狩の際の宿泊所としていた鴻巣御殿が建っていた場所である。現在は、住宅街の中に小さな石の祠が建っているだけであった。

  • 東照宮の近くに、勝願寺と言う寺院があった。かなり大きな寺院で、立派な本堂が建っていた。彫刻も見事だったが、入口の上に鏝絵のようなものが施されていて、なかなか見応えがあった。

    東照宮の近くに、勝願寺と言う寺院があった。かなり大きな寺院で、立派な本堂が建っていた。彫刻も見事だったが、入口の上に鏝絵のようなものが施されていて、なかなか見応えがあった。

  • 本堂に向かって左手には、大小四つの墓が建っていた。一番右にあったのが、本田忠勝の娘で真田信之の正室となった小松姫のもの。その隣が、信之の三男真田信重の墓で、ひと際大きいものが、その正室のものだった。その左側にあった一番小さなものは、鴻巣で死去した小諸藩初代藩主仙石秀久の墓だそうだ。

    本堂に向かって左手には、大小四つの墓が建っていた。一番右にあったのが、本田忠勝の娘で真田信之の正室となった小松姫のもの。その隣が、信之の三男真田信重の墓で、ひと際大きいものが、その正室のものだった。その左側にあった一番小さなものは、鴻巣で死去した小諸藩初代藩主仙石秀久の墓だそうだ。

  • さらに、墓地には伊奈忠次、忠治親子の立派な墓もあった。伊奈氏は、三河以来の徳川家の家臣で、江戸幕府初期に関東郡代を務め、その後の幕府財政の基盤を作ったことで有名である。利根川や荒川の付け替え、新田開発、農民への養蚕などの普及など、その業績は素晴らしいものがある。

    さらに、墓地には伊奈忠次、忠治親子の立派な墓もあった。伊奈氏は、三河以来の徳川家の家臣で、江戸幕府初期に関東郡代を務め、その後の幕府財政の基盤を作ったことで有名である。利根川や荒川の付け替え、新田開発、農民への養蚕などの普及など、その業績は素晴らしいものがある。

    伊奈忠次の墓 名所・史跡

  • 山門の方へ向かうと、鐘楼の前に石仏が建っていた。かなり古そうなので観てみると、延宝元年に造られたものだった。優し気で、少し微笑んでいるようなお顔をしていた。

    山門の方へ向かうと、鐘楼の前に石仏が建っていた。かなり古そうなので観てみると、延宝元年に造られたものだった。優し気で、少し微笑んでいるようなお顔をしていた。

  • 山門を出ると、目の前が公園になっていた。そこから振り返ると、すでに冬枯れのような姿の樹々の向こうに山門などの建物が佇んでいる。勝願寺は、徳川家康も鷹狩の折りに立ち寄ったことがあり、三つ葉葵紋の使用も許されていたそうだ。大名家の墓があるなど、当時は相当格の高い寺院だったようだ。

    山門を出ると、目の前が公園になっていた。そこから振り返ると、すでに冬枯れのような姿の樹々の向こうに山門などの建物が佇んでいる。勝願寺は、徳川家康も鷹狩の折りに立ち寄ったことがあり、三つ葉葵紋の使用も許されていたそうだ。大名家の墓があるなど、当時は相当格の高い寺院だったようだ。

  • 勝願寺から南へと向かうと、踏切の近くに古い石柱が二つ建っていた。それらは、中山道から、松山や秩父へと向かう吉見道の分岐に建っていたものだそうだ。右側のものには寛政7年(1795)の銘があり、左側のものは庚申塔を兼ねている。埼玉県の市町村は、庚申塔や道標などを良く保存していて感心である。

    勝願寺から南へと向かうと、踏切の近くに古い石柱が二つ建っていた。それらは、中山道から、松山や秩父へと向かう吉見道の分岐に建っていたものだそうだ。右側のものには寛政7年(1795)の銘があり、左側のものは庚申塔を兼ねている。埼玉県の市町村は、庚申塔や道標などを良く保存していて感心である。

  • 道標の建つ場所から、旧中山道へと出た。そこから、街道沿いに駅へと戻る。その途中に、鴻巣市産業観光館『ひなの里』と言う施設があったので立ち寄る。館内には、江戸時代から昭和にかけてのひな人形が多く展示されていた。

    道標の建つ場所から、旧中山道へと出た。そこから、街道沿いに駅へと戻る。その途中に、鴻巣市産業観光館『ひなの里』と言う施設があったので立ち寄る。館内には、江戸時代から昭和にかけてのひな人形が多く展示されていた。

    鴻巣市産業観光館ひなの里 名所・史跡

  • 旧中山道の鴻巣宿を歩いて行く。古い建物がほとんど無いのが残念である。それでも、微かに街道筋の風情を感じる。

    旧中山道の鴻巣宿を歩いて行く。古い建物がほとんど無いのが残念である。それでも、微かに街道筋の風情を感じる。

  • 歩いていると、道の向こう側に趣のある建物が見えた。明治38年創業の木材業を営む会社の建物であった。新建材ののっぺりとした家屋が増える昨今、このような建物があるとほっとする。

    歩いていると、道の向こう側に趣のある建物が見えた。明治38年創業の木材業を営む会社の建物であった。新建材ののっぺりとした家屋が増える昨今、このような建物があるとほっとする。

  • その先に、鴻巣本陣跡の石柱が建っていた。現在は、予備校の敷地となっていたが、石柱があるだけでもありがたい。

    その先に、鴻巣本陣跡の石柱が建っていた。現在は、予備校の敷地となっていたが、石柱があるだけでもありがたい。

  • 最後に、『ひなの里』で教えていただいた鴻巣御殿の模型を観に行く。徳川将軍家の宿所に使われただけあり、かなり広く、建物も多い。しかし、実際に将軍が泊った回数は少なく、三代将軍家光の代で使われなくなったそうだ。その後、明暦の大火により江戸城が焼けたため、御殿の建物は解体され、江戸城の再建に使われたそうだ。この後、近くの酒屋で『鴻巣御殿』と言う酒を買い込み、鴻巣を離れた。

    最後に、『ひなの里』で教えていただいた鴻巣御殿の模型を観に行く。徳川将軍家の宿所に使われただけあり、かなり広く、建物も多い。しかし、実際に将軍が泊った回数は少なく、三代将軍家光の代で使われなくなったそうだ。その後、明暦の大火により江戸城が焼けたため、御殿の建物は解体され、江戸城の再建に使われたそうだ。この後、近くの酒屋で『鴻巣御殿』と言う酒を買い込み、鴻巣を離れた。

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この旅行記へのコメント (4)

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  • hot chocolateさん 2021/11/09 02:51:27
    高崎線鴻巣駅界隈
    旅猫さま

    こんばんは。
    「高崎線沿線ぶらり旅 ~鴻巣駅・旧中山道界隈~」の旅行記にお邪魔しています。
    折角コメントを書いたのに、用事があって中断していたら、何故か消えていました。

    高崎線の鴻巣駅、以前行ったはず、でもあれは青梅線だった…
    鴻巣駅ではなく鳩ノ巣駅でした。
    鴻と鳩とは大違い。

    勝願寺の4つのお墓、
    >一番右にあったのが、本田忠勝の娘で真田信之の正室となった小松姫のもの。
    >その隣が、信之の三男真田信重の墓で、ひと際大きいものが、その正室のものだった。

    真田信重の正妻ってどんな方だったのでしょうね。
    気になります。
    調べてみました。
    鳥居忠政の六女なんですね。なんとなく納得。

    高崎線の鴻巣駅界隈には、中山道の宿場町の名残が感じられますね。
    歴史上名高い人物の墓や庚申塔や古い石仏、明治時代の建築物等、往時の繁栄が窺がわれて興味深いです。

    hot choco

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2021/11/09 08:17:55
    RE: 高崎線鴻巣駅界隈
    hot chocoさん、こんにちは。

    書き込みありがとうございます。
    旅行記や掲示板などの書き込みは、時間を置くと登録されないことがありますね。
    私は、登録ボタンを押す前にコピーしています。
    消えると、ショックが大きいので(笑)

    鴻巣は、訪れることは普通は無いですよね。
    息子の正室の墓が一番大きいというのも変わっていますよね。
    小松姫のほうが、家康の養女なので、格はずっと上なのですが。

    鴻巣は、桶川に比べると宿場の面影が無くなってしまっていますが、微かに面影が残っています。
    寺社などに、歴史が残っているが幸いです。

    旅猫
  • ポテのお散歩さん 2021/11/08 12:34:00
    鴻巣
    旅猫さん こんにちは。

    ぶらり旅を拝見するたびに、新しいものを作るのは簡単だけど
    古いものを残すのは難しいと改めて感じます。

    ある時代の人間が造った物を ある時代の人間が壊してしまうのは
    仕方がないのかもしれませんね。 
    更に時を経た時代に生きている旅猫さんが、消え残った僅かな証を
    たよりに当時の面影を訪ねて歩くのが『ぶらり旅』の良さですね。

    墓石や石柱が城壁になっていたり、お寺の鐘までもが戦争の為の
    武器の原料になった事を思えば、いま 残っているものだけでも
    次の世代に引き継ぎたいですね。

      ポテ

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2021/11/08 18:11:03
    RE: 鴻巣
    ポテさん、こんばんは。

    書き込みありがとうございます。
    新しいものを創るのは簡単ですよね。
    でも、古いものは壊してしまえば、もう元に戻すことは出来ない。
    今、昭和のものは古臭いと壊していますが、もう、二度と作ることは出来ない。
    昔は、古いものを大切にしていましたが、平成くらいからそれが無くなった感じがします。
    今は古臭いかもしれないけど、100年後には、明治や大正のもののような価値が出る。
    ただ、昭和の高度経済成長期以降のものは、効率ばかりで、それまでのような時を経て価値が高まるようなものが作られていないような気がします。

    平成や令和のものは、たぶん価値は無いでしょう。
    六本木ヒルズも、コレド室町も、百年後の人たちが文化財としませんよね。
    原宿の竹下通りがそのまま残っても、重伝建にはならない。
    今を生きる私たちは、何を未来の人たちに残せるのでしょう。
    飛鳥から昭和初期までのものは、これからも日本人の歴史を伝えてくれると言うのに。
    情けない。。。

    ポテさんは、歴史の残り香を分かってくれる方のようですね。
    今を生きる人は、後世の人に負の遺産を残してはいけない。
    後世の人たちに、令和とは凄い時代だったと思ってもらうくらいじゃないと。
    今の世代は、あの第二次世界大戦の悲惨さを何とか知り得る世代。
    これ以上失わず、この国の良い所を残していかないと駄目だ思います。

    旅猫

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