2021/12/01 - 2021/12/03
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しにあの旅人さん
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日本書紀には大津皇子がどこでうまれたか、書いてありません。生年とされる天智2年(663年)、母の太田皇女が九州那大津(なの・おおつ)にいたので、ここで生まれたということです。
那大津は現在の福岡市ですが、そのどこかは分かりません。
なんとかもうちょっとピンポイントできないか。
福岡市にやって来ました。
ずばり結論から。
現在の福岡城跡内鴻臚館跡そのものか、その近く。
お代は見てのお帰り。さあさ、みなの衆、投げ銭のご用意を。
一書に曰く、
博多に帰ってきました。
博多というか福岡市は、私by妻の、中国で言うところの本貫地であります。
と申しましても、戦後のドサクサに生まれた私としましては、父の生育地、祖父母の家の在るところというだけですが。
祖父母の家は、その後伯父の息子が建て替えてしまったし、町もすっかり変わってしまいました。
今やお墓参りに行くだけの地ではあります。
が、なにやら、あの「、、、だからですね。」なんて話し方には、キュン。
啄木の ふるさとの なまり懐かし、停車場に そをききにゆく。
が、身にしみます。
思わず、九州人に悪い人はなか。なんて、言っちゃいそう。
そんなはずは、絶対にないのにね。
私も、短い期間でしたが、大濠公園の前を通る路面電車で、小学校に通っていたことがあります。
ここ大濠公園が、そんなところだとは夢にも思いませんで、電車の中では、マンガ読んでいました。よく見ておくべきでした。
その頃は、西鉄ライオンズ、今はないですね。そういうチームが勢いのある頃で、鉄腕稲尾、中西太、あと、豊田なんだっけ?そういう人が大人気で、担任の先生なんか、授業の前に、「フレー、フレッ!ライオンズ!」とかやっていました。
50才代のおばちゃんの先生だったけれど。
あれは、もはや、野球を超えて、愛国心の発露だった。
By妻
六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1 大津皇子訳語田邸」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ことの発端は、福岡市大濠公園の南東に「草香江」という地名を見つけたとき。
現在は「くさがえ」と読みます。
くさがえ→くさかえ→くさかべ、このくらい替わってもおかしくない。
えっ!「草壁」じゃないですか!ということは草壁皇子の出生地?
行ってきました。 -
草香江公園があり、
-
幼稚園児の皆様が楽しく遊んでおいでです。
-
交差点まである。
調べたところ、とても古い地名だそうです。 -
鴻臚館展示パネルより。鴻臚館復元図です。
北が下になっております。北を上にすると、草ヶ江は図の左、西になります。 -
この時代、現在の大濠公園のあたりは「草ヶ江」という入江でありました。
大濠公園 公園・植物園
-
九州国立博物館展示パネルより。
博多湾の古代と現代の海岸線です。実線が現代の海岸線。鴻臚館跡はほぼ古代海岸線にありました。現代の大濠公園は、鴻臚館跡の西、一致します。
「長岡歴史の会」ホームページによれば、この時代鴻臚館跡つまり現在の福岡城址がある丘陵を境にして、東が那ノ津、西が草香江と呼ばれておりました。
「長岡歴史の会」長岡古史
http://nagaoka.blog.jp/archives/2310027.html -
大来皇女は斉明7年(661年)1月8日、大伯の海(現在の岡山県邑久/おく)で生まれました。「それでこの子を大伯(大来)皇女と名づけた」とあります。(書紀斉明7年春1月6日)
663年生まれの大津皇子も、那の大津生まれで大津皇子。
662年生まれの草壁皇子も、地名草香江にちなんで命名されたと考えていい。
この3人は出生地名=呼び名のトリオなのです。
母親菟野皇女は、草香江近くに住まいがあったことになります。
大津皇子の母親太田皇女も、その近くで子供を産んだ。いくら姉妹でも同居はしていなかったでしょう。同居していたら、夫は妻の家に行ったとき、どっちの寝所に行くべきか、はなはだ具合の悪い選択を迫られることになります。できれば、相互に見えないところに住まわせたい。2人とも兄である次期天皇、中大兄皇子の娘です。機嫌は損ねたくない。
遠いと不便、夫である大海人皇子もその近くに住んだ。つまり本営を構えていた。
えらい人の娘を2人も妻にしていると苦労が多いのです。
661年から664年にかけて、大海人皇子は兄の中大兄皇子を補佐して百済救援軍を指揮しておりました。つまりこのとき彼がどこに指揮所、本営を構えていたかが分かれば、大津皇子の出生地が分かることになります。 -
斉明天皇は、百済救援軍を送ることを決意しました。自ら九州まで大本営を進めます。
天皇、中大兄皇子、大海人皇子の動線をたどります。
天皇の動線。出典は書紀斉明7年(661年)1月6日~秋7月24日。
斉明7年(661年)1月6日、難波津発。
14日―25日、伊予の熱田津(にたつ)の岩湯行宮(現在の道後温泉)滞在。
3月25日、那大津の磐瀬行宮に入る。磐瀬を長津に改名。
5月9日、朝倉橘広庭宮に移る。
7月24日、朝倉宮にて崩御。
中大兄皇子、大海人皇子の記述はありませんが、3月25日の磐瀬行宮までは同行していたはず。 -
書紀斉明7年(661年)8月1日、
★皇太子(中大兄、訳注)は天皇の喪をつとめ、帰って磐瀬宮につかれた。★
「帰って磐瀬宮につかれた。」とあります。中大兄皇子は磐瀬宮にいて、天皇の喪に服するために朝倉宮に来たことがわかります。つまり磐瀬宮以降は天皇と別行動です。
この救援軍派遣の実際上の総司令官は中大兄皇子、総司令部磐瀬宮で指揮をとった。
朝倉宮は儀礼的な天皇の宮廷でした。
外国使節の謁見をしております。
5月23日、
★たんら(済州島)がはじめて王子阿波技(あわぎ)らを遣わして調を奉った。★ -
朝倉宮跡に行ってきました。
橘の宮広庭公園 朝倉宮の駐車場 by しにあの旅人さん橘の広庭公園 公園・植物園
-
朝闇(ちょうあん)神社という小さな神社の右手、緩い坂をのぼります。
-
小高い丘の上に石碑が建っております。
-
「朝倉橘広庭宮」ということで、ミカンが植えられていました。
一書に曰く、
みかんが、沢山植えてありました。
ミカンに限らず、果樹の生産地らしい。冬枯れの寂しい畑野の中で、ミカンの黄色は太陽を凝縮したように暖かです。
お宮の階段の下で写真を撮ったりしていたら、こんにちは!という声。
驚いて振り返ると、はるかむこうの人家近くから、小学生くらいの男の子。
手を振って応えました。いい子だなあ。
なにかお話したかったけれど、話すことないんだよなあ。
いくら、ずうずうしい私でも、用事もないのに、話しかけられません。
残念でした。
By妻 -
このくらいの平地が記念碑を取り巻いておりました。広庭というほど広くありません。せいぜい直径30m。
坂を上った丘の上ですし、天皇の宮廷を作れるほどの面積はない。
天皇の宮殿は、6世紀末の敏達天皇の訳語田宮以降は平地に作られました。
丘の麓の案内板によると、周辺の発掘調査から8世紀前半の古代寺院の存在が確認されました。
長安寺というお寺の跡ではないか。
「続日本紀に天智天皇が、斉明天皇の冥福を祈って観世音寺と筑紫尼寺を創建した、とあることから、長安寺とは朝倉橘広庭宮の跡に営まれた筑紫尼寺のことではないかといわれている。」
しかしいずれにしてもこのあたりに朝倉宮があったことは間違いないようです。 -
地元の伝承では、近くの「天子の森」が宮廷跡とされています。
-
一面の柿畑の真ん中で、平地、大規模な建物を作れる地形ではあります。
-
朝倉宮は那の津の鴻臚館、つまり古代海岸線から直線距離約20km、現代の道路で42kmくらい離れています。古代でも同じくらいの距離はあったでしょう。馬を乗り継いでも2時間半くらいかかります。
こんなに離れていては、全国から那の津に集結する軍勢をまとめ、また那の津から朝鮮に向け出帆する艦隊の指揮をとることなどできません。斉明天皇の朝倉宮、いわゆる大本営は、名目的なモノであったことが分かります。
推測、あるいは邪推です。斉明天皇はホニャラの神を祀れとか蜂の頭とか、作戦にいろいろ口出ししてきた。中大兄皇子は天皇つまり母親を、体よく遠く離れた山の中に追っ払ったのではないか。
屁のつっぱりにもならない神祀りなど、作戦中の多忙な総司令官にとって迷惑な話です。
「母上、あの山上にお祈りの御殿をつくります。そこでしっかり神様にお祈りをお願いします。さすれば我が軍必勝間違いなし」とかなんとか言ったにちがいない。
文字通り山上に祭り上げた。 -
磐瀬宮はどこにあったか、正確には分かっておりません。
上記「長岡歴史の会」によれば、現在の高宮八幡宮の近くではないか。高宮八幡宮、日本書紀の磐瀬宮はこのあたりか。 by しにあの旅人さん高宮八幡宮 寺・神社・教会
-
現在の鴻臚館跡、つまり古代の海岸線まで直線で約3.4kmです。
このあたりに6世紀後半から7世紀にいたる大型居館のあとが出土しているそうです。磐瀬宮の時代に相当します。 -
鴻臚館展示パネルから。古代官道推定図。
だいたい赤〇辺りに、古代官道の美野駅がありました。壱岐・対馬路と西海道西路、東路が交差し、北九州を東西、南北に結ぶ情報伝達の要で、中大兄皇子が総司令部を置くにはもっとも都合いい。
磐瀬宮つまり現在の高宮八幡宮の近くです。 -
現在の高宮八幡宮そのものに中大兄皇子の司令部があったとは思えません。狭い。しかしこの岡の上からは那の津への眺望が開いています。
-
恵比寿様などの背後が現在の福岡市のどこかわかりませんが、那の津が見えたはず。
-
全国各地から兵士を乗せて入港してくる船、朝鮮にむけて出港していく船を直接目視できたでしょう。浜辺から丘の麓まで駐屯する軍団も一目瞭然。
中大兄皇子は時間があればここまで登ってきて、満足げに、あるいは不満げに、軍勢の集合状況を確認したのではないか。
一書に曰く、
ここにいると、海の神様が祀ってあるのが不思議なほど、気分的には山の中でした。
が、遠く望めば、確かに海は近く、もしかして、漁師が魚群を見張ったところだったかもしれません。魚釣り舟が港に戻るときの目印だったかもしれません。
海の民にとって、重要なところだったことでしょう。
ここを拠点とする男達の多くも、戦いに出たのでしょうね。
この戦いに海人族が果たした役割は重かったということです。
そのうち何人帰ってきたのか?
どんな姿で帰ってきたのか?
今も昔も、デスクワークの、つまり現場にいない人間には、実感のないことです。
この辺りの男達と、その家族は悔し涙を流したかもしれません。
でなければ、あの水城造成に、協力はしなかったのではないでしょうか。
By妻 -
ここからが主題です。
私は、中大兄皇子と大海人皇子は、業務を分担していたのでないかと想像しています。
中大兄皇子は戦争の指導全般。基本的な戦略を立て、それに基づく外交を立案実行。必要な兵力を想定し、諸国の豪族に出兵命令をだし、朝鮮での決戦の場所と時期を決める。
一方大海人皇子はその輸送、兵站を担当したのではないか。その根拠は、
日本書紀天武天皇記冒頭、
★(天武天皇は)天文や占星の術をよくされた。★
古代、天文・占星術は数学そのものでありました。大海人皇子は数学、数値計算に巧みだったのです。
百済救援作戦の兵站とは、まず中大兄皇子が動員をかけた全国各地の豪族軍を那の大津に集結させ、その兵を朝鮮半島に送ります。そのために必要な船舶数、食料などを計算し、運行スケジュールを立てなくてはなりません。綿密な数値計算が必要になります。
大海人皇子はそれが自分でできた。
「大海人皇子」という名からも、全国の海人(あま)族の支持があったのではないか。船と水夫の動員を海人族に頼める。
兵站作戦を実行する司令部にふさわしい場所はどこか。
福岡城址天守台跡に行ってみれば分かります。
一書に曰く、
大濠公園の中、歩いて登って行きます。
冷たい風が強く、私なぞは、おっととと、風に吹き飛ばされそう。
なのに、結構な人出、と申しましても、休日でもない日ですから、ぱらぱらですが、それでも誰もいないかと思っていたので、びっくりです。
修学旅行生らしき少年達、なぜかその内の一人が、この寒さの中、ワイシャツ一枚でした。
もしやイジメではと、しばし観察。
彼が寒さに震えていたら、これは上着をむりやりに奪われた証拠と、じっと見ますが、かの少年、私にニッコリして、こんにちは!だって。
震えてもいないし。
アムンゼンだかスコットだかは、子供時代に、冒険家を夢見て寒さに耐性をつけるべく、雪の夜に窓を開けて眠ったそうです。
それなのかしらん。
そう言えば、わが息子も、小学校低学年頃の冬の朝、息子を起こしに行くとき、私は、まず窓を閉めてましたね。
また開いてる。とか言って。
彼も冒険家に憧れていたのですね。今気がつきました。
窓の扉が古くなっているのだとばっかり思っていました。
「なんで開いちゃうのよ。今度直してもらわないと。」なんて。
その少年は、今や「寒さしのぎに、いっぱい。」とかいう中年おっちゃんに育ちました。
By妻 -
木立の向こう、黄色い大屋根が鴻臚館跡展示館です。鴻臚館跡は標高9mです。
その西の丘陵地に福岡城天守台跡があります。舞鶴公園第一駐車場 天守台にのぼるにはこの駐車場 by しにあの旅人さん舞鶴公園 (福岡城跡) 名所・史跡
-
天守台跡です。もとより古代にこのようなものはありません。しかし福岡城を築いた黒田長政はこの丘陵地が両側の草香江、那の大津を見渡せる絶好の地理的条件に注目したに違いありません。
それは大海人皇子も同じ。なるべく海に近く、丘陵の最高地点。そこに司令部を構え、櫓でも建てれば、博多湾と海岸全域を見渡せます。 -
天守台跡より南。鴻臚館跡の少し先が古代の浜辺です。那の津。
-
西。大濠公園。
-
ドローンを上げればもっといい俯瞰写真がとれるのですが、この日は風が強くてダメ。
大濠公園の池の水面が見えます。
このあたりが古代の草香江です。
この丘陵の高台は、浜辺近くで、船の発着の指揮をとる兵站の指揮官には最適です。伝令をまたずどの豪族の船が入ってきたか一目で分かる。
兵站の司令官大海人皇子、彼の司令部はここで間違いないでしょう。
太田皇女の屋敷つまり、まだ幼い大来皇女が暮らし、大津皇子の生まれたところもこの近くになります。
同様に草壁皇子もこの辺りで生まれた。
もうちょっと絞れないかな。
一書に曰く、
この時代の結婚は、政治以外の何物でもなかったって事でしょうが、何故もめ事の種を作るかなあ。右に大津で、左に草香江?
ふうん。
大海人様こちらに向かっていらっしゃるぞ。とか用意してると、ありゃ、曲がっちゃった、、。
とか、
妹が姉のところに遊びにいっていると、あれっ、皇子様おいであそばした。
えーっうちに来ないんかい?
「あれ、ここに居ったのか、さっき行ったら、留守だったから、ここに来た。」と、つい大海人も言ったりして。
白々しい!
「えっそうなの?うちには、仕方無いから来たの?あっちが留守だから?
そりゃあ、すみませんでしたね。」なんて、姉もくすぶるし。
大変そう。
By妻
大海人皇子は次期天皇の中大兄皇子の娘である太田皇女と菟野皇女の機嫌を損ねたくない。どちらの屋敷に行くのももう片一方から見られたくない。
自分の司令部のある丘陵の東西に住まわせればいい。
たとえば現在の福岡城南丸跡。 -
南丸跡と多門櫓。
-
こちらは鴻臚館跡展示館。
鴻臚館跡展示館 名所・史跡
-
鴻臚館あとは那の大津に面する高台、南丸跡からは草香江を見下ろすことができます。
鴻臚館跡と南丸跡は、天守台跡の高台を中心にして対角線上にあり、お互いに見えません。
いかがでしょう、日本書紀の記述に、大海人皇子、太田皇女、菟野皇女の三角関係を加味すると、この配置がぴったりだと思いませんか。
さあさ、皆の衆、ご用意の投げ銭を。
チャリン。
和同開珎1枚だけよ。
By妻 -
以下は蛇足です。念のため↑は足つきへびです。初イラスト。
白村江でボロ負けしたあと、中大兄皇子はいそぎ体制建て直しのため飛鳥の都に帰りました。
負けたとはいえ、送り出した1000隻の船のうち600隻は生き残っております。敗残の兵士もいっぱい、亡命希望の百済人もたぶん1万人くらい。
彼らを那の津で受け入れたのは大海人皇子でしょう。このとき彼は中大兄皇子に次ぐNO2です。
唐・新羅連合軍の来襲があるかもしれない。中大兄皇子は防衛戦で足手まといになりそうな女子供は連れて帰ったはず。太田皇女とその子供2人大来皇女、大津皇子そして草壁皇子。
ここで、菟野皇女は夫と残ったと仮定します。
引き上げ第一船団が朝鮮の港弖礼(てれ)を出たのは9月25日、西暦ですと10月末です。続々と帰ってくる豪族の族長や兵士を、夫婦2人で懸命に受け入れた。菟野さんはたすき掛けに姉さんかむりで、高菜のにぎりめしと水炊きの炊き出し。西暦晩秋から冬になるころ、暖かいおにぎりと水炊きはおいしいですよ。
このとき菟野さん18才、日本書紀は美人だとは書いておりませんが、修羅場の若い紅一点、女神に見えたでありましょうな。
族長と兵士たちは嬉しかったでしょう。亡命百済人もほっとしたはず。
大海人皇子は、陸路故郷に帰る豪族には食料、遠国の兵士には船を手配。
このとき663年。
時は流れて672年、壬申の乱。吉備国以西、不破の関以東の豪族、渡来人は大海人皇子の味方につきました。
那の津での大海人皇子夫婦の厚情を彼らは忘れていなかった、という説はいかがでしょう。
天智天皇の死後、大海人皇子は近江京から吉野へ落ちてゆきます。これに菟野皇女は従った。とりあえず吉野でおとなしくする。吉野から東国に脱出すれば、那の津での経験から、遠国の豪族は必ず味方になるという確信があった。確信があったからこそ、吉野についていった。
吉野逼塞、脱出、壬申の乱という一連の筋書きは、菟野皇女の発案で、大海人皇子はそれを具体化した、という説もどうですかね。
そうすると、天武天皇の菟野皇女への盤石の信頼の説明がつきます。夫の死後持統天皇となってからも、遠国に不穏な気配は一切なかった。
チャリン。
和同開珎もう1枚きたわ。
By妻
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この旅行記へのコメント (8)
-
- 前日光さん 2022/02/03 23:25:51
- 考えたことがなかったです(>_<)
- 何を?って、大来・大津・草壁の出生地が飛鳥ではなかったということをです。
確かに百済に援軍を送るため、天皇一行が九州に向かったということは歴史の教科書にも載っていました。
その途中で大来・大津が生まれたということは、後で知りましたが。
昔の女性は皇室といえども、遠征中に出産なんかがあったりして大変だなぁとは、ちらっと思いはしましたよ。
でも要するに、具体的にイメージできなかったのです。
一人の人間をこの世に送り出すためには最低十ヶ月はかかるのに、大来は岡山で、大津、さらに草壁まで、この西の地で生まれていたのですねぇ。
くさがえ→くさかえ→くさかべ、と言う変遷は、ありうることでしょう。
草壁九州出生説→これを唱えたのは、しにあさんが初ですか?
すごいコジツケ、いや、発見ですよね?(^◇^;)
大海人は天智皇女の姉妹を妻としていましたが、今日はどっちに行こうかな?菟野はキツイところがあるから、心が安まるのは大田なんだよね、なんて悩みながら(贅沢な悩み!)現在の福岡辺を歩いていたのかなと思うと、実に身近な気分になりますねぇ。
また朝倉の宮が海から離れていたということは、kummingさんも旅行記に書いていたような?
なぜこんな場所に?という疑問に、しにあさんの説=「二兄弟が口うるさい母の言葉を聞かないで済むように遠くに宮を造った」に、和同開珎をチャリンと投じたいと思います。
福岡に行ったのに、その時は私は黒田勘兵衛絡みの場所と、伊藤伝右衛門の屋敷を訪ねることに夢中で、古代に思いを馳せることに欠けておりました。
だいたい大濠公園に行っていないのです。
次の福岡訪問があったら、この旅行記の場所には行かないと!と思っています。
ところでkummingさんのおっしゃる「古代幻想ロマンシリーズ」は、作者の長岡良子氏が現在休筆されているようなので、一般書店では入手できないと思います。
それにしても、このシリーズに登場する不比等はイケメンです。
かつて不比等に対してそのようなイメージを持っていなかった私としては、当初かなり面食らいましたが、読み進むうちに、すっかり不比等の擒になってしまいました!
いつの間にか不比等=思慮深いイケメン、氷高が不比等に父性を見いだしたように、落ち着いた大人の男、頭が良い等々のプラスイメージが増幅して現在に至っています。
また「天智天皇と倭皇后」の愛を描いた「夢の奥城」も、なかなかのものです。
このシリーズを読んでいると、私が妄想する古代の世界がそのまま描かれているように感じられ、相当に影響を受けております。
たかが漫画と侮れないところがありますよ。
最後の足のあるピンクの蛇は、かわいらしいですねぇ。
by妻さんも、これなら少しは蛇に親近感を持ったかも( ̄∇ ̄)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2022/02/04 07:05:57
- Re: 考えたことがなかったです(>_<)
- おはようございます。
草壁さんの出生地については、誰も興味ないようです。目立たない地味な皇子さんでした。
菟野さんは姉さん同様、夫の大海人皇子と一緒に九州に行っているはずで、そうすると草壁さんも九州生まれになります。大来、草壁、大津の順で1年おきに生まれています。菟野さんが飛鳥に残って草壁さんが飛鳥生まれとすると、「え、誰の子?」と、大変な騒ぎになります。
次回福岡では古代妄想旅をお楽しみください。
朝倉宮、斉明天皇のもがりの宮があった(といわれている)恵蘇八幡宮もいいですよ。恵蘇八幡宮は別のところで取り上げます。
私たちが朝倉宮に行ったときは曇り空だったので、「あのバカ息子、私をこんなところに祭り上げて」という斉明天皇の怒りが漂っていたような、感じ。んなわけありません。
一面の柿畑でした。柿のシーズンなら多分美味しい柿が安く食べられます。
伊藤伝右衛門って、あの柳原白蓮の伊藤さん。ブログ見つけました。これから読みます。
不比等イケメン説は賛成です。しかも若い頃不遇だったので、苦労人でもある。三千代さんが妻、持統さん、元明さんと女帝に仕えて、女心の機微もわかっていた人物でしょう。晩年の大来皇女と持統天皇の仲を取り持って夏目廃寺を作ったというのが私の妄説です。
イケメンであっても、シブーい大人であったでしょう。
氷高内親王との組み合わせ、うらやまけしからんという感じはします
長岡良子の作品は、アマゾンで最初の数ページが見本で読めました。伝統的な少女コミックという感じでした。山岸涼子なんかは表紙だけですが、これ、青春前期、多感な女の子に見せていいのかよ、という感じでありました。
こういういわば古典的なコミックは、もう書店にはないようです。かなりの歴史知識を前提としますからね。
足つきへび、By妻はヘビはなんであれ、ダメだそうです。
これからも、イラスト、試してみます。
九州シリーズ、長引きます、お付き合いください。
- kummingさん からの返信 2022/02/04 22:35:19
- 確かに!
- 前日光さんが指摘されるまで気が付かず(ーー;) 確かに、草壁君九州出世説はしにあさんの発見された新説!
そして出生の秘密、といえば長岡良子作「眉月の誓い」も、鎌足の長男定慧が孝徳帝のご落胤説、更に、不比等も天智天皇のご落胤という、鎌足が男児に恵まれず、2代天皇の女をたまわり、その落とし胤を息子にした説、を基に、不比等自身も天武天皇亡き後その女を賜った、という話(こちらも史書に記された事実だとか?)で、その女性が実は母違いか父違いの妹で、幼い頃から恋仲だった、という恋話。
そして、草壁君も凡庸というより徳の高い、でも大津皇子の様な人目につく才能があった訳ではなく、大津がもし「脳ある鷹は爪隠す」タイプで、高市皇子の様に一歩引いて草壁君を支える姿勢であったなら…、という視点から、物語っています。
前日光さんオシの大伴家持と坂上郎女の娘の恋話(家持さまも、もちろんイケメン♪)や坂上郎女と穂積王子の恋話、天智天皇と倭の皇女の話、かぐや姫は氷高皇女で言いよる5人衆の1人車持ち皇子が不比等説、などなど、恋愛にフォーカスしがちですが、古代史の一面が描かれているような気がします。
史実かどうか曖昧なグレーゾーンに創造羽を羽ばたかせた古代ロマン♪ といえば惚れたに違いないおのこを描かせたらこの人の右に出る者はいない?塩野七生さんオシ=私のオシ、カエサル、チェザーレボルジア、FDll、の3人に並べるのはちょっと?ですが、不比等も入れて、イケメンかどうかに関わらず、人たらし、女性心理を操る才能に秀でた、ちょいワル系おのこたち、ではなかったか?と思う今日この頃です。
-
- mistralさん 2022/02/02 23:43:40
- いよいよ九州へ。
- しにあの旅人さん
by妻さん
こんばんは。
いよいよ九州編ですね。
九州編が始まる前に投稿されておられた口コミの中に、川内のものがあったように思いました。
まもなく我が家でも川内、出水に参ります。
出水に残されている夫の家の古いお墓の整理のためです。
by妻さんが九州のご出身とは思いませんでした。
今回の旅の目的には、やはりお墓参りもあったのでしょうか。
まずは大津皇子の出生地の特定、
那大津という事までは分かっていても、ピンポイントで特定するにはなかなか大変なんですね。
大来皇女は大伯の海あたりで生まれたという事までは知っていましたが、なんと
草壁皇子もどうやら出生地に因んで名づけられていたんですね。
しにあさんのフィールドワークによって斉明天皇がおられた朝倉宮は古代の海岸線からはかなりの距離があり、戦線の指揮を取るには甚だ不便。
という事は中大兄皇子は、我が高齢の母親には安全な地で儀礼的な役割に励んでほしいとお願いした事は頷けることですね。
中大兄皇子と大海人皇子、二人の関係は弟君が何事にも実行面を担当して来た、とはどこかで読んだことがあります。
天文、占星の術に秀でていたとされる大海人皇子が緻密な頭脳の持ち主であり、その役割を果たすにはふさわしかったことはなんとなく想像が出来ますね。
斉明天皇が亡くなり、白村江で惨敗した中大兄皇子は、対策を練るために飛鳥へ戻る際
大海人皇子の妃や小さかった皇女、皇子たちも一緒に連れ帰ったそうですね。
それゆえ大津宮には、大海人皇子の一族が一緒に住んでいた、と納得できることです
。
菟野皇女がその折に残ったかどうか?その可能性は考えてもみませんでした。
中大兄皇子は、わが娘をもしかしたら危険な戦場になるかも知れない地に残ることを許したどうか?
それでも残った故に、他の妃たちを差し置いて、その後の夫婦の絆が深まった可能性は高まりますね。
しにあさんの旅行記を拝見しながら、いまだに私も当時の世にタイムスリップした気分でいます。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2022/02/03 07:33:24
- Re: いよいよ九州へ。
- おはようございます。
By妻は福岡生まれ、お墓も福岡市内にあります。年に1回、墓参りを口実に九州旅行を楽しんできました。
2カ所親戚のお墓も回ることにしているのですが、7月に行った時に一ヶ所お墓がなくなっていました。地元では旧家だったそうですが、係累の方が皆さん東京に出てしまって、墓じまいをしたそうです。
ご主人のご一家もそのケースですね。
出水は通っただけです。薩摩川内では2泊しました。あのあたりの中心都市のはずですが、過疎化がすごかったです。山形屋という九州では老舗のデパートがある市の中心部でも、メインストリートを一本外れたら、シャッター街でした。人口そのものも減っているでしょうが、郊外の大規模ショッピングセンターにお客さんを取られたみたい。
市内には若い人も多くて、結構活気がありましたが。
大来さん、大津さんの出生地は大体わかっていますが、なぜか草壁くんは話題にもなっていません。地味な皇子さんでしたから、皆さん興味を持たないみたい。福岡生まれは間違いない。私でも気が付いたくらいで、ちょっと探したら草香江は出てくると思うのですが。私はいい線いっていると思います。
中大兄皇子が母親を気遣った、というのはMistralさんがやさしいから。私はうるさいから追っ払ったんじゃないかと思います。
中大兄皇子さんが深刻に大海人皇子なんかと会議していると、「ホニャラの神のお祭りはいつにしようかね」などとひっきりなしに言ってくる、「お母さん、あっちに行っててください!」となります。
母親の死後、大来大津姉弟が近江で天智天皇に育てられたのは間違いないので、ここでつれて帰ったのでしょう。そのご数年で太田皇女は亡くなっています。
菟野さんが後に残った説は、ありかと。普通の人なら大人しく帰るけれど、のちの持統天皇ですよ。お兄さんのいうこともきかず、「私がんばる!」ということで、夫と共に残って、獅子奮迅の働き。十分にあり得る。
そうすると後々の歴史がよく理解できます。
これから九州シリーズが延々と続きます。お付き合いお願いします。
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- kummingさん 2022/02/02 17:52:49
- 馴染みの地名が続々と~
- しにあさん、by妻さん、こんにちは♪
とうとう九州入りされたのですね、おいでませ~^o^
那の津、草香江、荒江、片江、長尾、油山、高宮、朝倉、などなど、住まいから車で30分~1時間圏内の地名が登場、何も知らずにその辺ウロウロしていた私です。
大迫、大津、草壁が生誕地名由来の名前3姉兄弟だったとは!
草香江(くさがえ→くさかえ→くさかべ)という地名読み替えがインスピレーションの発端だった(*_*)
横道に逸れますm(._.)m
西鉄時代の鉄腕稲生伝説、幼少時父から耳にタコ出来るほど聞かされました。当時、スクーターに家族5人乗り(運転席前に立ち乗りの兄、父の股間に座る姉、後部座席座る母に背負われた私)で平和台球場まで??という武勇伝が、実家に残っています。現実的に、そんな事出来るのか???
本題に戻ります。
那の津と草香江が福博の街が始まる2つの入江だった由。
朝倉橘広庭園まで行かれたのですね。長安寺、という名は見ましたが、朝倉宮との関係にも気が付かず、天子の森?なんて石碑ありましたっけ?確かに、あの狭い所に宮があったとは思えません、と言われて気付く(笑)目的意識、見識ある人が見ると、こうなる、の好例かと。
が、百済救援派遣の陣地にしては遠くない?とは私ですら、思っていました。大本営をこんな奥地に?しにあさん説、余計なご神託だのお節介を避ける為、声の届かない地、を敢えて選んだのでしょう。
兄の娘姉妹を妻にもつ大海人皇子のご苦労、心中お察し致します。数学が得意で兵站を任され、大海人という名前から全国の海人族の支持を得ていた。そこから、持統さんも居残り手伝いで兵たちに顔を売った、とは昨今の政治家の選挙活動の様相。
壬申の乱までの立案、経緯に持統さんも加担していたのは間違いない!と思わせる運び、お見事でございます♪
さて、持統天皇の話が出たので、再度横道に~
先だって、前日光さんに教えて頂いた古代史コミック、全十数巻中5巻を図書館経由でゲット(他図書館からの貸し出しです)。内容に踏み込むと、カキコが果てしなくなるので、この先は前日光さんのご登場を待ちたいと思います。一点だけご紹介すると、不比等が超いけイケメンで、チェザーレみたい^o^
平城宮跡に大型バス専用駐車場ができ、更に、大極門(第一次大極殿の正門にあたる南門)の復元が3月19日に完成する、との事。
- kummingさん からの返信 2022/02/02 18:54:26
- 蛇足♪
- あ~っ、書く事が多くて、大事な事を忘れていましたm(._.)m
イラストデビュー、おめでとうございます♪
かわいすぎる蛇足、ピンクなので女の子?
高宮→磐瀬公園→磐瀬の宮、決まりでしょう、ココから朝鮮出兵に向け軍勢の集合状況を見守っていた。
太田皇女宅にするべきか、鸕野讚良皇女宅にするべきか?♪どちらにしようかな、神さまのいうとおり、…◯△◇♪なあんて、道の分かれ目でやってたのかな~
大迫→大伯皇女(大来)でしたm(_ _)m
- しにあの旅人さん からの返信 2022/02/03 05:50:16
- Re: 馴染みの地名が続々と~
- まずスクーター家族5人乗り、ご無事で何より。
今なら確実にお巡りさんに捕まりますが、当時であれば「ライオンズの応援に行くけん、文句あるとや?」でおkかな。お巡りさんだって、ライオンズファン間違いなし。
By妻の父も熱狂的なライオンズファンだったそうです。
九州シリーズ、始まりました。これから延々と続きます。飽きずにお付き合いください。本当は奈良飛鳥ものがまだあるのですが、塩漬の上冷凍しておきます。
時計回りで行きますので、次は大分。最後に太宰府、福岡に戻ります。いつになるか。
朝倉宮が海岸から遠いのは、専門の学者さんもあんまり問題視しておりません。私は太田さん、菟野さんのお産の場所ではないかと思ったのですが、日本書紀の記述に合わない。やっぱ、煙ったい母親を祭り上げる説が、いちばん合理的ではないかな。
天使の森はすぐ近くで、柿畑の真ん中でした。朝倉に来る途中も、高速両側、柿、柿。庭の柿の木というレベルではなかった。一面の柿。
さすがに房総では、九州産の柿というのは見ません。
姉妹を嫁にするというのは、モンゴルなど、北アジア遊牧民の風習だそうです。古代日本にこのあたりの民族が入ってきた証拠という学説をどっかで見たことある。
しかしBy妻の真に迫った描写の通り、無理ですよね。その後の日本に例がないので、定着しなかった。夫としてはかったるかったでしょうね。姉妹が仲がよかったら2:1で締め上げられるし、悪かったらご機嫌取るのが大変。
前日光さん直伝のコミックですが、本屋の新刊売場で立ち読みしようかと思ったら、全部ビニールコーティング。もともとこの種の古典的なコミックは置いてないみたいです。
図書館で借りる手がありました。美人の司書さんに相談してみます。
古文献ばかり注文してきた爺さんが何を血迷ったかと思うに違いない。
平城京あとの南門は昨年7月で外観はほぼできていました。写真も撮ってきたのですが、使うところがありませんでした。いつになるかわかりませんが、次回はしっかり見ます。
イラストレーター?デビューです。Windowsについてくるペイントなんとかというお絵かきソフトです。三角形や半月など、出来合いのパターンを組み合わせるだけで、結構楽しそうなものができます。童心にかえってお試しあれ。
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