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≪空を飛ぶ伯爵夫人メリッタ・シュタウフェンベルクは、索敵中の米軍機に撃墜され、無念の死を遂げた≫
Le monde de Kitchiル モンド デ キッチ
Donnerstag, 3. September 2015 2015年9月3日(木)
Great Women # 33:
Melitta Schenk Graefin von Stauffenberg
偉大な女性#33:
メリッタ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人
この記事の序にこんな言葉を見た。
「Flieger, gruess mir die Sonne, gruess mir die Sterne und gruess mir den Mond」・・・「空を飛んで、私は太陽を迎え、星を迎え、月にも挨拶する」・・・子供の頃、私はこの一節を民謡だと思っていた。
私の父は航空に興味を持っていて、私に影響を与えたようです。
父は空を飛ぶとは、スチュワーデスの職業を選ぶのだと思っていたようでした。
しかし、私は所謂「ばかげた職業」を見つけたのです。私は良きスチュワーデスではなく、自ら飛行機を操縦する道を選んだのです。
・・・・・・
写真は飛行中のメリッタ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
本章は『番外編:ヒトラーの報復:1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件関与者の子供たちの運命は如何に!』から派生したものだ。
https://4travel.jp/travelogue/11706228
元の話からドンドンと話が派生する過程は嫌いではない。知ってしまって、それが気になると、調べる気が出て、時間を費やすから困ったものだが・・・。
さて、≪ドイツ2012年・麗しの5月:バイエルンの田舎に育った絶世の美女Sisiシシー(皇妃エリザベート)≫で書いたことを初めに引用する。
ドイツ人は「starken Frauenたくましき女性たち、あるいは強い女性たち」といった表現を好むらしい。
“シシーの城”、3階建てのかつての狩猟の館内は特別展・『Sisi und die starken Frauenシシーとたくましき女性たち』が開かれていた。勿論シシーを中心としたもので、シシーと同じパプスブルク家の実力者女帝マリア・テレジア、女王クレオパトラ、アレクサンドリアの聖カタリナ(287~305年・殉教者)、アンゲリカ・カウフマン(1741~1807年・画家)など、そこには良く知らない名前もあったが・・・。
彼女らは単に男勝りで、男を従えていただけでなく、ファッション、文化、時代の好尚(流行)に大いに影響を与えたと云う。
写真はアイヒャッハのSisi Schlossシシーの城の小冊子 -
イチオシ
さて、シュタウフェンベルク大佐の子供たちの叔母、Melitta Schenk Graefin von Stauffenbergメリッタ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人が1944年のクリスマスに、バート・ザクサのナチスの児童養護施設(再教育の家)に収容されていた子供たちを訪問し、寂しい思いをしていた子供たちには大きな喜びとなった。
その結果、シュタウフェンベルク伯爵の家族・一族、そして子供たちの母ニーナ・シュタウフェンベルク伯爵夫人も、後に子供たちが住んでいた場所、そこでどのように彼らが世話をされ、世話をしてきた事を知ったのです。
(以上は番外編:ヒトラーの報復で書いた)
写真はメリッタ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人 -
メリッタ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人(1903年~1945年)はどんな人かと好奇心がはたらいた。
Wikiを始め、本やメディアに取り上げられた内容は、思っていた以上に彼女は優秀で、偉大だった。
その一端をここで紹介したい。
写真はメリッタ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人 -
メリッタはAlexander Schenk Graf von Stauffenbergアレクサンダー・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(1905年~1964年、古代史家、作家)の妻でした。
アレクサンダー・フォン・シュタウフェンベルクは『1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件』に加担して、刑死した兄弟とは別の道を歩んだ。
アレクサンダーは刑死したベルトルト・シュタウフェンベルク伯爵の双子の弟であり、2歳年下の弟に事件の実行者として刑死した陸軍大佐クラウス・シュタウフェンベルク伯爵がいた。
メリッタはドイツの女性飛行家でテストパイロットとして有名だった。
義弟シュタウフェンベルク大佐の1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に加担したとされ、他のシュタウフェンベルクの一族メンバーと共に逮捕された。
彼女はテストフライト義務を続けることを約束して、9月2日に放免された。
1945年4月8日にアメリカの戦闘機により撃ち落とされ、重傷を負った。
それがもとで42歳という若さで亡くなった(戦死?!)。
写真はメリッタ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人 -
この写真に見られるように、既刊本の表紙には二人の写真と「ヒトラーの為に飛行した女性飛行士」といった言葉がある。
右はメリッタの写真である。
左の飛行帽姿の女性は*Hanna Reitschハンナ・ライチュと言い、当時の女性飛行士の第一人者であった。
1945年4月26日、ライチュは危険を冒して、包囲下にあるベルリンに進入飛行を成功した事は総統ヒトラーを感激させ、その忠誠心を褒め称えた。
ベルリン陥落直前にあたる3日間をヒトラー総統の地下壕で過ごし、ヒトラーの命令で再びベルリンを脱出したから、こうした表現は間違いではない。
それに、メリッタの戦死を見ると、そうした表現も当たっているのかもしれない。
写真は「ヒトラーの為に飛行した女性飛行士」本の表紙 -
また、メリッタの写真2枚と簡単な履歴が追記されたものを見つけたが、メリッタは「彼女の女性飛行士の能力が自身を救った」と書かれている。
彼女はテストパイロットの能力を評価されていたことは事実で、生前の1943年1月22日に女性で二人目となるEiserne Kreuz II. Klasse 2級鉄十字勲章を授与され、またFrontflugspange空軍前線飛行章を授与された。
写真は子供たちと再会できずに亡くなったメリッタ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人の写真2枚と簡単な履歴 -
<Wikiによれば、メリッタの42年の人生はル モンドの記事のようだった>
メリッタ・クララ・シェンク・グラフィン・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人(1903年1月9日~1945年4月8日)はKrotoschin, Provinz Posenクロトシン (南プロイセン・ポズナン州)生まれの Ingenieurinエンジニアで、Fliegerin飛行士でした。
写真はメリッタが関与した、搭乗したドルニエDo 18飛行艇・1936年 -
<生い立ち>
Melitta Schillerメリッタ・シラー(旧姓)は建築評議会のメンバーであり、<ユダヤ人の毛皮商人の家族>、プロイセンの役人をしていたMichael Schillerミヒャエル・シラーの娘でした。(ここで、メリッタがユダヤ人だと云う事に驚いた)
母親のMargaret Ebersteinマルガレーテ・エーベルシュタインはプロイセン・Brombergブロムベルク出身。彼女にはMarie-Luiseマリー・ルイーズ、 Ottoオットー、 Juttaユッタ、Klaraクララの4人の兄弟姉妹がいた。
第一次世界大戦中、メリッタはSchlesienシレジアの祖母と一緒に住んでいた。というのも、彼女の父親は前線にいて、母親と年長の姉が看護活動に従事していたからだ。
戦後、プロイセンのポズナン州はポーランドに属したので、家族はシレジアのHirschbergヒルシュベルクに引っ越し、メリッタは1922年にAbitur高校を卒業した。
その後、メリッタはミュンヘン工科大学で数学、物理学、飛行力学を学び、1927年に優秀な成績で卒業した。
彼女の父親は戦争で傷病者になった為、彼女の教育に資金を提供することができなかったから、メリッタは家庭教師などをして、学業資金を稼いだ。
写真はメリッタが関与した、搭乗したブローム&ヴォスHa139 4発の水上機・1937年 -
1928年からBerlin-Adlershofベルリン・アドラースホフにあったドイツ航空研究所(DVL)でエンジニアとして働いた。
その後の8年間、メリッタは可変ピッチプロペラの理論的および実験的調査を行った。さらに、自分で科学的な仕事に必要な試験飛行を行うことができるように、航空機のパイロットとして訓練を受けました。
この間、メリッタは歴史家アレクサンダー・シュタウフェンベルクや、後のヒトラー暗殺未遂事件の実行者、弟のクラウス・シュタウフェンベルクの伯爵兄弟と知りあった。メリッタはアレクサンダーと1937年に結婚した。
結婚後も子供のいないままでした。
1936年、メリッタはエンジニアとしてAskania-Werken in Berlin-Friedenauベルリン・フリーデナウのアスカニア・ヴェルケに転職した。ここで彼女は航空機の自動制御の問題に対処した。
1935/36年のドイツ航空研究所(DVL)時代、1936/37年の冬には、ハノーバーとBreslauブレスラウのルフトハンザのBlindfluglehrgaengenブラインドフライトコースに参加し、アスカニアでテストパイロットとしても働いていた。
(彼女は4,000mの高度から、1 日15 回まで戦闘機でテスト降下を行った)
写真はメリッタが関与した、搭乗したユンカースJu 87急降下爆撃機・1943年 -
そこでメリッタはDornier Do 18ドルニエDo 18(第二次世界大戦の開戦前にドイツ空軍で使用された飛行艇)とBlohm & Voss Ha 139ブローム&ヴォスHa139(第二次世界大戦の開戦前にドイツで生産された4発の水上機である)のためのナビゲーションと制御システムを開発した。
彼女はまた、アスカニア3軸制御の開発に関与し、メリッタによってテストされた自動制御はJunkers Ju 87ユンカースJu 87(ドイツのユンカース社が開発し、第二次世界大戦中にドイツ空軍などで運用された急降下爆撃機・・・Ju87は1939年にはじまるポーランド侵攻や開戦当初のBlitzkriegブリッツクリーク(電撃戦)において非常に大きな戦果を挙げた)の試作機で使用された。
https://www.youtube.com/watch?v=k9vdHk14vVc
https://www.youtube.com/watch?v=sBEQzSom5jw
写真はメリッタが関与した、搭乗したユンカースJu 87急降下爆撃機・1943年 -
メリッタはMotorflugzeugen動力航空機、Kunstflugschein曲技飛行ライセンス、SegelflugscheineグライダーライセンスのすべてのクラスのFlugzeugfuehrerscheineパイロットライセンスを取得した。
1937年10月28日、メリッタはFlugkapitaen機長に任命され、*Hanna Reitschハンナ・ライチュに次ぐ、ドイツで2人目の女性となった。
*Hanna Reitschハンナ・ライチュ(1912年~1979年)はプロイセン・シレジア地方のヒルシュベルク生まれ、パイロット、テストパイロットであった。
女性初のヘリコプター、ロケット戦闘機、ジェット戦闘機搭乗者として知られる。
1941年3月、ヒトラー総統に二級鉄十字章を授与される。
1944年2月28日にはドイツ人女性唯一の一級鉄十字章を授与される。
彼女の卓抜した飛行技能は、1930年代後半から40年代初めにかけてナチス党の恰好の宣伝に使用された。
写真は1941年3月、ヒトラー総統に二級鉄十字章を授与されるハンナ・ライチュ
(中央にヘルマン・ゲーリング元帥の姿が見える) -
第二次大戦後もグライダー部門における女性世界記録を塗り替え、同時期、第1回世界ヘリコプター大会女性部門で1位にもなった。
67歳没。生涯独身だった。
写真は1941年4月ハンナ・ライチュ、故郷ヒルシュベルクを凱旋訪問 -
*Hermann Goeringヘルマン・ゲーリング(1893年~1946年)は、ドイツの政治家、第一次大戦のエースパイロット、軍人。
最終階級は全ドイツ軍で最高位のReichsmarschall国家元帥になった。
ニュルンベルク裁判での刑執行前、1946年10月15日、独房内で服毒自殺した。
写真はHermann_Goeringヘルマン・ゲーリング元帥52歳 -
<第二次世界大戦(1939年~1945年)>
メリッタは1939年10月に徴兵され、ドイツ空軍のRechlinレクリン試験場に(ベルリンから北西に100km)配属された。
ここで彼女はSturzflug急降下(ダイビング)用のターゲット器機や射撃の照尺の仕事を続けた。
機材・器機の改善を試すために、彼女自身はStukas Junkers Ju 87 und Ju 88シュトゥーカ・ユンカースJu 87とJu 88で約2500回の急降下を行った。
(Sturzkampfflugzeug の略語で、ドイツ空軍の急降下爆撃機の事)
1940年、メリッタの祖父母は帝国一族研究事務所によりユダヤ人と特定され、その結果、メリッタ・シュタウフェンベルク伯爵夫人は*ナチスの人種法制によって「第一級ユダヤ人混血」となった。
しかし、おそらくメリッタの仕事は「戦争にとって重要」と分類され、1941年に「Gleichstellung mit arischen Personenアーリア人との平等=Ehrenarier名誉アーリア人」申請が承認された。
写真はメリッタとハンナ・ライチュ。彼女らは当時の花形パイロットだった。 -
*Nuernberger Gesetzeニュルンベルク法は1935年9月15日にナチス政権下のドイツにおいて制定された2つの法律「Gesetz zum Schutze des deutschen Blutes und der deutschen Ehreドイツ人の血と名誉を守るための法律」と「Reichsbuergergesetz帝国市民法」の総称である。
ユダヤ人から公民権を奪い取った法律として名高い。「非アーリア人種」とはユダヤ人の事で、両親・祖父母のうち誰か一人でもユダヤ教徒であれば、その当人の信仰が何であれ(あるいは無神論者であれ)、すべてユダヤ人となると定めた。このユダヤ人の定義付けは「アーリア条項」と呼ばれた。
1937年の内務省調査によると、「完全ユダヤ人」は77万5000人。そのうちユダヤ教徒ユダヤ人は47万5000人、非ユダヤ教徒ユダヤ人は30万人であった。「第1級混血」と「第2級混血」の合計は75万人であり、総数150万人を超えるもので、これほどの人間をドイツ社会から完全に排除してしまうことは問題が多かったと云う。実際にはユダヤ系だったとしても、その出生記録を改竄した例もみられた。
また、ニュルンベルク法の実際の運用には便宜的なものがあったという一例であるが、「Ehrenarier名誉アーリア人」はその対象となる人々の貢献がドイツの経済や戦争遂行のために、または単に政治上またはプロパガンダ上の理由で価値があると見なされたのである。
因みにヒトラーは「日本人は名誉アーリア人である」と宣言した。
(1940年9月、独墺伊(三国)同盟が結ばれていた)
・・・・・
写真はEisernes Kreuz II. Klasse 2級鉄十字勲章(1939年ナチス制定) -
1942年からメリッタはBerlin-Gatowベルリン・ガトウのTechnische Akademie der Luftwaffeドイツ空軍技術アカデミーに移り、そこで試験飛行を続けた。
1943年1月22日、「Eiserne Kreuz II. Klasse 2級鉄十字勲章」を授与され、「ダイヤモンドとルビー付きのゴールドFrontflugspange軍用飛行士バッジ(ドイツ空軍前線飛行章」)を受領した。
(尚、『Pilotin und Graefinパイロットと伯爵夫人2012年3月21日』の記事では、1943年1月28日、メリッタは*Hermann Goeringヘルマン・ゲーリングの別荘に招かれ、ランチの前にゲーリング航空大臣・空軍最高司令官により2級鉄十字勲章を授与された。ダイヤモンドとルビー付きのゴールド軍用飛行士バッジと共に・・・とある)
写真はFrontflugspange軍用飛行士バッジ(ドイツ空軍前線飛行章」) -
その1ヶ月後、メリッタはダイヤモンドの付いた金のパイロット・オブザーバーバッジを授与された。
1944 年の初めに、メリッタは評価「非常に良い」という博士号を受領した。
1944年5月1日から、メリッタは特殊航空機のテストセンターにおける技術主任に任命された。
写真はFlugzeugfuehrer und Beobachterabzeichenパイロット・オブザーバー(観察者)バッジ -
イチオシ
<シュタウフェンベルク兄弟たちのクーデター謀議と、その事件後>
さて、メリッタはBerlin-Nikolasseeベルリン・ニコラーゼのTristanstrasseトリスタンシュトラーセ8-10にあるアパートで、クラウスとベルトルト・シュタウフェンベルク兄弟と定期的に接触していた。
彼女が、このアパートでシュタウフェンベルク兄弟や反ナチス・ヒトラーのグループであるクライザウ・サークルの有名な人物と最後に会ったのは1944年7月16日でした。
この事はメリッタ自身の日記で判明している。彼女自身が謀議に加担したという訳ではないが、全く義理の兄弟たちの計画について何も知らなかったと云う事でもないだろう。
写真は飛行中のメリッタ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人と副操縦士のフーベルトゥス?・・・表紙の写真の後だろうか? -
クーデター未遂の後、メリッタと夫のアレクサンダーはゲシュタポによって拘留された。メリッタは「戦争にとって重要な任務」のために6週間後に刑務所から釈放され、すぐに研究活動を再開した。
その後、シュタウフェンベルク家の名は忌避されて、彼女は正式名である「フォン・シュタウフェンベルク」を追加しない「Graefin Schenkシェンク伯爵夫人」と呼ばれた。
夫アレクサンダーは11名のシュタウフェンベルク家の家族とともに拘留されたままで、そこから強制収容所に移送された。メリッタは自分の立場を利用して、彼らを最大限に助けた。彼女は月に一度夫に会うことを許されていた。
(尚、以下の()内は別の記事から補足したものだ。・・・メリッタは強制収容所に収容されていたにもかかわらず、親族の中で収容されていた人たちとの接触を維持していた。当時のメリッタはドイツに忠誠を感じていたが、ナチスには忠誠心はありませんでした。従って、彼女はドイツ空軍を支持していた。彼女の日記の中で、この道徳的対立が彼女を苦しめたと告白している)
写真はメリッタが最後に搭乗したと思われるビュッカー Bue・ 181 ベストマン
1945年4月、彼女が務めるドイツ空軍技術アカデミーはベルリン・ガトウから夫アレクサンダーが一時的に収容されていたKZ Buchenwaldブーヘンヴァルト強制収容所近くのWeimar-Nohraワイマール・ノーラに移った。
ブーヘンヴァルト強制収容所の立ち退き後、メリッタは夫の行方を突き止めようとした。
(メリッタのドイツ空軍における職業的地位と、ドイツが最終的に陥落したときに特別な収容者が連合国との交渉に役立つ可能性があると思われ、これらの収容者は適度に世話をされていた。
メリッタは1945 年 3 月に夫がブーヘンヴァルト強制収容所にいることがわかると、そこに数回も飛行機で行ったと云う。ドイツ空軍技術アカデミーの施設はソ連の侵攻に先立ち、ベルリンから分散された。メリッタの飛行は、RAF (Royal Air Force英空軍)の空襲によってヴュルツブルクの彼女の家が破壊されていた事も知った。
4 月 4 日、副操縦士のフーベルトゥスと共にブーヘンヴァルト強制収容所に向けて出発し、機上から特別な収容者たちの収容所が空っぽであることを確認した。
特別な収容者たちはレーゲンスブルクに移送されていた) -
<空を飛ぶ伯爵夫人は索敵中の米軍機に撃墜され、無念の死を遂げた>
1945年4月8日、メリッタはBuecker Bue 181 Bestmannビュッカー Bue 181 ベストマン(1940年代にドイツ空軍で使用された単発練習機で攻撃機としても使用された)に乗って、夫アレクサンダーが特別な収容者たちの一人として輸送されているのを見つけようとしてした。
Straubingシュトラウビング近くの Strassskirchenシュトラスキルヒェンに至った時、索敵中のアメリカ空軍のJagdflugzeug戦闘機に銃撃された。
メリッタはそれでもまだ緊急着陸することができたが、重傷を負って数時間以内に死亡した。
メリッタが死を迎えた時、彼女の夫はバイエルンの森のSchoenbergシェーンベルクの学校にいて、輸送中の一時的休息を取っていたと云う。
写真はLautlingenラウトリンゲンにあるメリッタの墓 -
(その時までに、メリッタの夫と他の収容者たちは再び移動していた。メリッタは連行されたというシェーンベルク(Passauパッサウから38km)の司令官を訪ねるべく、ゲシュタポの許可を得ました。
彼女は 1945 年 4 月 8 日に早朝に離陸し、航行のために鉄道の線路に沿って低空飛行していた。線路に沿って攻撃する列車を探していたアメリカの戦闘機にシュトラスキルヒェンの近くでメリッタの乗機は襲われた。彼女は搭乗機を不時着させ、民間人が救助に到着した時にはまだ意識があった.
メリッタは搭乗機から脱出する支援を要請し、生きたまま航空機から救出された。救助者の話によると、彼女の最も深刻な怪我は足の骨折だったようだ.
シュトラスキルヒェン出身の地元の医師、ハンス・シーゲルが現場に到着したが、ドイツ空軍の医師と他の軍人が現場にいたため、彼の治療は不要だった。
彼女は救急車で運ばれ、メリッタの負傷は命に別状はないように見えたが、彼女は2 時間後に死亡した。
メリッタの遺体はシュトラウビングの病院に運ばれ、町の遺体安置所には「頭蓋底骨折、左大腿部の裂傷、右足首の骨折」と、遺体の記録が残されている。
写真はGerhard Bracke - Page1Melitta -
彼女の夫アレクサンダーは数日後に彼女の死を知った。
メリッタの遺体は 4 月 13 日に シュトラウビング 空軍基地司令官の副官によって手配され、St. Michael聖ミヒャエル教会の墓地に埋葬された。
1945年9月に夫アレクサンダー・フォン・シュタウフェンベルク伯爵はメリッタ・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人の遺体を掘り起こし、シュタウフェンベルク伯爵家の故郷Lautlingenラウトリンゲンに輸送し、1945年9月8日、ラウトリンゲン城内の墓地に埋葬された)
・・・・・・・・・・・・・・・
(2021年8月20日Wiki他訳、編集・追記)
以下は参照:
『Gerhard Bracke:Melitta Graefin Stauffenberg. Das Leben einer Fliegerin. Herbig, Muenchen 2013』
ゲルハルト・ブラッケ著:
「メリッタ・シュタウフェンベルク伯爵夫人、飛行士の人生」
(改訂版:ハービグ、ミュンヘン 2013年)
写真はGerhard Bracke - Page1Melitta -
『Gerhard Bracke:Melitta Graefin Stauffenberg. Das Leben einer Fliegerin. Herbig, Muenchen 2013』
ゲルハルト・ブラッケ著:
「メリッタ・シュタウフェンベルク伯爵夫人、飛行士の人生」
(改訂版:ハービグ、ミュンヘン 2013年)
写真はGerhard Bracke - Page 2Melitta -
『Gerhard Bracke:Melitta Graefin Stauffenberg. Das Leben einer Fliegerin. Herbig, Muenchen 2013』
ゲルハルト・ブラッケ著:
「メリッタ・シュタウフェンベルク伯爵夫人、飛行士の人生」
(改訂版:ハービグ、ミュンヘン 2013年)
写真はGerhard Bracke - Page 3Melitta -
イチオシ
『Margot Fuchs:?Wir Fliegerinnen sind keine Suffragetten.“』
マーゴ・フックス著:
「私たち女性パイロットは婦人参政権論者ではありません」
:テストエンジニアで、急降下パイロットのメリッタ・シラー (1903~1945)
ミュンヘン: ベック , 1997年
『Cockpit』
SAMedia GmbH 、CH-5201 Brugg、Storchengasse 15
https://www.cockpit.aero/rubriken/detailseite/news/beruehmte-fliegerinnen-melitta-schenk-graefin-von-stauffenberg-ein-leben-fuer-die-deutsche-luftwaffe/?no_cache=1
22.09.2020 ? Rolf Mueller
写真は搭乗するメリッタ・シュタウフェンベルク伯爵夫人・ -
『Thomas Medicus:Melitta von Stauffenberg. Ein deutsches Leben.
Rowohlt, Berlin 2012』
トーマス・メディカス著:
「メリッタ・シュタウフェンベルク伯爵夫人、あるドイツ人の人生」
ロウルト、ベルリン2012、
写真は -
写真は
-
『Sabrina Kiefner :Sturzflug・Die unglaubliche Geschichte der Graefin Melitta von Stauffenberg 』
サブリナ・キーフナー 著:
急降下爆撃機・メリッタ・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人の信じられないほどの物語
2020年8月1日版、Sturzkampfflugzeugは急降下爆撃機の意味。
写真は急降下爆撃機・メリッタ・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人の信じられないほどの物語 -
『Der andere Stauffenberg:Der Historiker und Dichter Alexander von Stauffenberg』
Karl Christ カール・クリスト著:
もう一方のシュタウフェンベルク
2008年3月17日版
Alexander Schenk Graf von Stauffenbergアレクサンダー・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(1905年~1964年)は古代史家、作家であった。
アレクサンダーは1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に加担して、刑死した兄弟とは別の道を歩んだ。
アレクサンダーは刑死したBerthold Alfred Graf Schenk von Stauffenbergベルトルト・アルフレート・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵の双子の弟であり、2歳年下の弟に事件の実行者として刑死した陸軍大佐クラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵がいた。
写真はアレクサンダー・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵 -
写真はある日の仲睦まじいメリッタとアレクサンダー・シュタウフェンベルク伯爵夫妻
・・・・・
こうしてみると、シュタウフェンベルク伯爵家や一族は優秀な家系であった。
様々な分野で活躍している。
*クラウス・シュタウフェンベルク伯爵・参謀大佐の妻『ニーナ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人の人物像』を書いた娘のKonstanze von Schulthessコンスタンツェ・フォン・シュルテス(1945年~)(作家)、
*その息子、つまり孫であるPhilipp von Schulthessフィリップ・フォン・シュルテス(1973年~)は俳優、企業家。フィリップはトム・クルーズがクラウス・シュタウフェンベルク伯爵・参謀大佐を主演したヴァルキューレ(ワルキューレ作戦)で、連作の章にも出て来るトレスコウ陸軍少将の副官ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ中尉役で出演した。
*孫娘Sophie von Bechtolsheimゾフィー・フォン・ベヒトルスハイム(作家)は『Stauffenberg - mein Grossvater war kein Attentaeter シュタウフェンベルク - 私の祖父は暗殺者ではなかった』、
『Stauffenberg. Folgen Zwoelf Begegnungen mit der Geschichte
シュタウフェンベルクを継承する。歴史との12の出会い』等を出版した。
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お立ち寄りの皆様へ:
暑い夏、豪雨災害の夏、そして何とも悔しい武漢ウイルスの夏は、
シュタウフェンベルク大佐たちが起こした1944年7月20日の
ヒトラー暗殺未遂事件関係の番外編・4編と共に終わってしまった。
エアコンをかけずに扇風機だけで過ごす2階の部屋は暑いのだが、
汗はどちらかというと冷や汗で、よく分からないドイツ語の単語
を見ながら、辞書を片手に四苦八苦した。
それでも自動車免許の更新を控えた痴呆症検査に少し効果があった
と思えば良いのかもしれない。
既に立秋も過ぎて、残暑見舞いの頃になってしまった。
皆様、お元気でお過ごしください。
jijidaruma
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1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与した人たち
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番外編:ヒトラーが好んだWolfヴォルフは狼のことだが、Wulffヴルフも狼か!
2011/05/20~
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≪1944年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件の実行者:クラウス・シュタウフェンベルク伯爵≫
2009/04/17~
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≪1944年7月20日:映画・ワルキューレ作戦Operation ”Walkuere“について≫
2009/04/17~
ベルリン州
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≪1944年7月20日:”反逆者”シュタウフェンベルグ伯爵夫人と子供たちのその後
2009/04/17~
バーデン・ビュルテンベルク州
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2011/05/13~
ザクセン・アンハルト州
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番外編:財宝を隠した城主は『ワルキューレ』作戦実行の反ナチ・ヒトラー運動メンバーとして歴史に名を残した。
2011/05/20~
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ザクセン州
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番外編:ヒトラーの報復・1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件関与者の子供たちの運命は如何に!
2011/05/20~
ニーダーザクセン州
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番外編:空を飛ぶ伯爵夫人メリッタ・シュタウフェンベルクは、索敵中の米軍機に撃墜され、無念の死を遂げた。
2011/05/20~
バイエルン州
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番外編:ヒトラーが好んだWolfヴォルフは狼のことだが、Wulffヴルフも狼か!
2011/05/20~
ニーダーザクセン州
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≪1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与したベーゼラーガー騎兵団の指揮官・ゲオルクとフィリップ・ベ...
2014/05/09~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
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番外編:ベーゼラーガー騎兵団の指揮官ゲオルク大佐は山本五十六元帥と同じ剣付柏葉騎士鉄十字章を授与された。
2014/05/21~
その他の都市
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番外編:ハン・ミュンデン:ヒトラー暗殺未遂事件に関与し、処刑された一人の弁護士
2019/09/18~
ハン・ミュンデン
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番外編:「ヴェストファーレンのローテンブルク」と称されるハンザ都市ヴァールブルクにも反ヒトラーの闘士がいた。
2019/09/29~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
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旅行記グループ 1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与した人たち
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