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2020年11月30日(月)2時前、醍醐寺参拝を開始。下醍醐エリアを回る。まずは総門の北側に広がる三宝院から。三宝院入口(下の写真1)の左手の拝観受付で下醍醐伽藍にも有効な拝観料(大人1000円)を払って参拝開始。<br /><br />三宝院は真言宗醍醐派総本山醍醐寺の塔頭、大本山、門跡寺院。かつては明治維新後に真言宗に強制的に統合された修験道、当山派を統括する本山だった。三宝院門跡は醍醐寺座主を兼ね、真言宗醍醐派管長の猊座にある。<br /><br />平安時代後期の1115年に左大臣・源俊房の子で醍醐寺14代座主勝覚が灌頂院(かんじょういん)として開き、後に仏教の三宝にちなんで現在の名に改めた。1143年に鳥羽上皇の御願寺となる。勝覚が村上源氏の出身であったことから、初期には代々源氏の寺院とみなされていた。当時は下醍醐の仁王門を抜けた先の北側に仏堂と住房を兼ね備えた建築群と、密教固有の儀式を行なう御堂である灌頂堂が建てられていた。<br /><br />鎌倉時代に入り、7世成賢は朝廷や鎌倉幕府の信任が厚く多くの弟子を育成したが、亡くなった後には跡目争いが続く。それを収めたのは南北朝時代の21世賢俊で、足利尊氏の庇護を背景に三宝院のみならず報恩院・理性院・金剛王院も支配下に置いて他派を圧倒した。<br /><br />室町時代に入り、賢俊の没後には、三宝院の急激な台頭に対して内外の反発が起きるが、1374年以降3代将軍義満の特別な扱いを受ける。25世の満済は「黒衣の宰相」とも呼ばれ、1396年に義満の猶子(養子)となって醍醐寺座主に任じられ、続いて三宮に準ずる准三后となり、後には義教の6代将軍擁立でも暗躍する。<br /><br />以後、三宝院の歴代院主が醍醐寺座主を兼ねる慣例が成立した。また、古くから醍醐寺は真言宗系の修験の中心であったが、この頃から三宝院が真言宗系の修験者・山伏の取締にあたるようになる。この室町時代前期に住房機能が現在の場所の金剛輪院(創建は鎌倉時代末)へと移行し、三宝院は灌頂院として存続していた。しかし、1467年から11年間続いた応仁の乱で焼失し廃寺同然となる。<br /><br />それから1世紀余り経った安土桃山時代の1575年、この金剛輪院を再興したのが義演。1558年に関白、二条晴良の息子として生まれた義演は幼くして15代将軍義昭の猶子となり、1569年に醍醐寺に入り、理性院の堯助、報恩院の雅厳に師事し、1571年に大僧都に任ぜられる。<br /><br />金剛輪院再興後の1576年に19歳で醍醐寺第80代座主に就任すると、1579年に大僧正、1585年に准三后となる。1590年に太閤検地による寺領困窮を訴え、秀吉より替地を賜る。その礼として、翌年秀吉建立の方広寺大仏殿地鎮のため不動護摩を修する。<br /><br />こうして秀吉との関係を深めた義演は、1592年には秀吉の朝鮮出兵のために東寺で仁王経法を修した。天皇・上皇・武家の尊崇を受け、特に秀吉は花見などで度々醍醐寺を訪れ、多額の寄進を行う。そして、1598年3月、あの有名な「醍醐の花見」が催された。その後、金剛輪院を三宝院と改称し、義演は三宝院32世となった。なお、「醍醐の花見」が行われたのは、三宝院ではなく、上醍醐の中腹の槍山。<br /><br />義演は徳川家康からも信任を受け、江戸時代初期の天台宗系修験道である本山派本山の聖護院との相論では江戸幕府の支援を受けて、1613年に修験道法度が制定された。明治に入り、廃仏毀釈の影響で門跡号を差し止められるが、14年後に復称する。現在は、真言宗醍醐派総本山として宗務庁、醍醐寺の寺務所が三宝院内に設置され、醍醐派管長・醍醐寺座主・三宝院門跡の三職兼務が定められている。<br /><br />入場すると正面にあるのが大玄関で、右手に殿堂が続く。これらは全て「醍醐の花見」が催された1598年に建てられたもので、その大半が国の重文に指定されている。この大玄関も重文指定。三宝院御殿の特別拝観はにここで拝観料を払って入場する。我々はパスして、右手の小門を抜けて庭園の前に進む(下の写真2)。<br /><br />左手は、大玄関から続く勅使の間、秋草の間、葵の間でこれも国の重文。庭園の北西に建ち、庭園全体を見渡せる表書院は「醍醐の花見」の際に奈良から移された能の楽屋を再移転し、中門を付加するなど書院造風に整えたもの。寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物で、国宝に指定されている。<br /><br />表書院の奥の純浄観は花見の為に槍山に建てられた8棟の茶屋御殿のうち、最も立派であったものを移築したとされている。この建物のみ茅葺屋根(他は瓦葺き)。この位置からは見えないが、純浄観の正面奥には本堂の護摩堂があり、左奥には宸殿があり、その裏に庫裏が接続されている。全て国の重文。<br /><br />庭園は、秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭であり、今も桃山時代の華やかな雰囲気を伝えている。築造には「天下一の石組の名手」と称された賢庭の名も伝えられている。中央に据えられた藤戸石は聚楽第から運ばれた由緒のあるもので天下の名石として名高い。国の特別史跡・特別名勝。<br /><br />庭園の南西部にある国宝の唐門は秀吉の没後の1599年に建てられたと考えられている。元は三宝院内の別の場所に建てられていたが、その後に勅使門として現在の位置に移された。北政所の寄進、前田玄以の奉行により建立されたとの伝承もある。<br /><br />三間一戸の門の側面に唐破風が付く平唐門で、屋根は檜皮葺。扉には秀吉の家紋である五七桐が、両脇の袖壁には菊紋の浮き彫りが施されており、桃山建築らしい豪快かつ華やかなたたずまい。建立時、この門は黒漆で塗られ、紋には金箔が押されていたのが、長い年月を経て剥落していたが、2009年から2010年にかけて行われた解体修理の際に再び漆と金箔が施され、建立当初の姿が現代に蘇っている(下の写真3)。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5975135605889747&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />続いて下醍醐伽藍に向かうが、続く

京都 醍醐 醍醐寺 三宝院(Sanbo-in, Daigoji Temple, Daigo, Kyoto, JP)

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2020/11/30 - 2020/11/30

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月30日(月)2時前、醍醐寺参拝を開始。下醍醐エリアを回る。まずは総門の北側に広がる三宝院から。三宝院入口(下の写真1)の左手の拝観受付で下醍醐伽藍にも有効な拝観料(大人1000円)を払って参拝開始。

三宝院は真言宗醍醐派総本山醍醐寺の塔頭、大本山、門跡寺院。かつては明治維新後に真言宗に強制的に統合された修験道、当山派を統括する本山だった。三宝院門跡は醍醐寺座主を兼ね、真言宗醍醐派管長の猊座にある。

平安時代後期の1115年に左大臣・源俊房の子で醍醐寺14代座主勝覚が灌頂院(かんじょういん)として開き、後に仏教の三宝にちなんで現在の名に改めた。1143年に鳥羽上皇の御願寺となる。勝覚が村上源氏の出身であったことから、初期には代々源氏の寺院とみなされていた。当時は下醍醐の仁王門を抜けた先の北側に仏堂と住房を兼ね備えた建築群と、密教固有の儀式を行なう御堂である灌頂堂が建てられていた。

鎌倉時代に入り、7世成賢は朝廷や鎌倉幕府の信任が厚く多くの弟子を育成したが、亡くなった後には跡目争いが続く。それを収めたのは南北朝時代の21世賢俊で、足利尊氏の庇護を背景に三宝院のみならず報恩院・理性院・金剛王院も支配下に置いて他派を圧倒した。

室町時代に入り、賢俊の没後には、三宝院の急激な台頭に対して内外の反発が起きるが、1374年以降3代将軍義満の特別な扱いを受ける。25世の満済は「黒衣の宰相」とも呼ばれ、1396年に義満の猶子(養子)となって醍醐寺座主に任じられ、続いて三宮に準ずる准三后となり、後には義教の6代将軍擁立でも暗躍する。

以後、三宝院の歴代院主が醍醐寺座主を兼ねる慣例が成立した。また、古くから醍醐寺は真言宗系の修験の中心であったが、この頃から三宝院が真言宗系の修験者・山伏の取締にあたるようになる。この室町時代前期に住房機能が現在の場所の金剛輪院(創建は鎌倉時代末)へと移行し、三宝院は灌頂院として存続していた。しかし、1467年から11年間続いた応仁の乱で焼失し廃寺同然となる。

それから1世紀余り経った安土桃山時代の1575年、この金剛輪院を再興したのが義演。1558年に関白、二条晴良の息子として生まれた義演は幼くして15代将軍義昭の猶子となり、1569年に醍醐寺に入り、理性院の堯助、報恩院の雅厳に師事し、1571年に大僧都に任ぜられる。

金剛輪院再興後の1576年に19歳で醍醐寺第80代座主に就任すると、1579年に大僧正、1585年に准三后となる。1590年に太閤検地による寺領困窮を訴え、秀吉より替地を賜る。その礼として、翌年秀吉建立の方広寺大仏殿地鎮のため不動護摩を修する。

こうして秀吉との関係を深めた義演は、1592年には秀吉の朝鮮出兵のために東寺で仁王経法を修した。天皇・上皇・武家の尊崇を受け、特に秀吉は花見などで度々醍醐寺を訪れ、多額の寄進を行う。そして、1598年3月、あの有名な「醍醐の花見」が催された。その後、金剛輪院を三宝院と改称し、義演は三宝院32世となった。なお、「醍醐の花見」が行われたのは、三宝院ではなく、上醍醐の中腹の槍山。

義演は徳川家康からも信任を受け、江戸時代初期の天台宗系修験道である本山派本山の聖護院との相論では江戸幕府の支援を受けて、1613年に修験道法度が制定された。明治に入り、廃仏毀釈の影響で門跡号を差し止められるが、14年後に復称する。現在は、真言宗醍醐派総本山として宗務庁、醍醐寺の寺務所が三宝院内に設置され、醍醐派管長・醍醐寺座主・三宝院門跡の三職兼務が定められている。

入場すると正面にあるのが大玄関で、右手に殿堂が続く。これらは全て「醍醐の花見」が催された1598年に建てられたもので、その大半が国の重文に指定されている。この大玄関も重文指定。三宝院御殿の特別拝観はにここで拝観料を払って入場する。我々はパスして、右手の小門を抜けて庭園の前に進む(下の写真2)。

左手は、大玄関から続く勅使の間、秋草の間、葵の間でこれも国の重文。庭園の北西に建ち、庭園全体を見渡せる表書院は「醍醐の花見」の際に奈良から移された能の楽屋を再移転し、中門を付加するなど書院造風に整えたもの。寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物で、国宝に指定されている。

表書院の奥の純浄観は花見の為に槍山に建てられた8棟の茶屋御殿のうち、最も立派であったものを移築したとされている。この建物のみ茅葺屋根(他は瓦葺き)。この位置からは見えないが、純浄観の正面奥には本堂の護摩堂があり、左奥には宸殿があり、その裏に庫裏が接続されている。全て国の重文。

庭園は、秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭であり、今も桃山時代の華やかな雰囲気を伝えている。築造には「天下一の石組の名手」と称された賢庭の名も伝えられている。中央に据えられた藤戸石は聚楽第から運ばれた由緒のあるもので天下の名石として名高い。国の特別史跡・特別名勝。

庭園の南西部にある国宝の唐門は秀吉の没後の1599年に建てられたと考えられている。元は三宝院内の別の場所に建てられていたが、その後に勅使門として現在の位置に移された。北政所の寄進、前田玄以の奉行により建立されたとの伝承もある。

三間一戸の門の側面に唐破風が付く平唐門で、屋根は檜皮葺。扉には秀吉の家紋である五七桐が、両脇の袖壁には菊紋の浮き彫りが施されており、桃山建築らしい豪快かつ華やかなたたずまい。建立時、この門は黒漆で塗られ、紋には金箔が押されていたのが、長い年月を経て剥落していたが、2009年から2010年にかけて行われた解体修理の際に再び漆と金箔が施され、建立当初の姿が現代に蘇っている(下の写真3)。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5975135605889747&type=1&l=223fe1adec


続いて下醍醐伽藍に向かうが、続く

  • 写真1 三宝院入口

    写真1 三宝院入口

  • 写真2 庭園入口

    写真2 庭園入口

  • 写真3 唐門内側

    写真3 唐門内側

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