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2020年11月30日(月)11時半過ぎ、勧修寺参拝を終えて、今度は地下鉄が通っている外環状線の反対側、東側の少し南にある隨心院へ。地下鉄小野駅の出口からなら、勧修寺は北側の道を西に向かったが、隨心院は南側の道を東に向かう。駅から5分ほど。<br /><br />隨心院は真言宗善通寺派の大本山で、ご本尊は如意輪観世音菩薩で寺紋は九条藤。この辺りは、第5代孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命(あめのおしたらしひこのみこと)を祖とする和珥(わに)氏の枝氏で、7世紀前半から平安時代中期にかけて活躍した小野氏の根拠地とされ、随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られている。<br /><br />ちなみに小野小町は遣隋使で有名な小野妹子の7代後の子孫なんだ(諸説あり)。昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたと云う小野篁(たかむら)は小町の祖父と云われる。<br /><br />この寺は、そもそもは仁海(にんがい)僧正が創建した牛皮山曼荼羅寺の塔頭。仁海僧正は平安時代中期の真言宗の僧で、真言宗小野流の祖。弘法大師より8代目の弟子に当たり、宮中の帰依を受け、神泉苑にて雨乞の祈祷を9回行い、そのたびに雨を降らせたとされ、雨僧正の通称があった。雨海僧正、小野僧正とも称される。<br /><br />曼荼羅寺は第66代一条天皇から小野氏邸宅の隣を寺地として下賜され、991年に建立された。曼荼羅寺の名は、僧正が夢で亡き母が牛に生まれ変わっていることを知り、その牛を鳥羽のあたりに尋ね求めて飼養したが、日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅を画き本尊にしたことに因んでいる。また山科の東側、大津市との間の牛尾山は僧正が牛の尾を山上に埋めて菩堤を弔ったことからその名になった。<br /><br />随心院は第5世住持の増俊阿闍梨の時代に曼荼羅寺の塔頭の一つとして建てられた。続く6世顕厳の時に順徳天皇、後堀河天皇、四条天皇の祈願所となり、東寺長者や東大寺別当を務めた7世親厳大僧正が、1229年に後堀河天皇より、門跡の宣旨を賜り、以来隨心院門跡と称され、その以降、一条家、二条家、九条家などの出身者が多く入寺している。<br /><br />以後、多くの伽藍が建造され、七堂伽藍は壮美を誇り、山城国、播磨国、紀伊国などに多くの寺領を有したが、承久の乱・応仁の乱によりほとんど焼失した。応仁の乱後は寺地九条唐橋や相国寺近辺などへたびたび移転した。<br /><br />安土桃山時代末期の1599年、24世増孝の時にこの地に本堂が再興され、以後九条二条両摂家より門跡が入山し、両摂家の由緒をもって寄進再建された。江戸時代中期の門跡であった堯厳は関白の子で、大僧正に至ったが、その後還俗し、九条尚実と名乗って関白、太政大臣の位に至っている。<br /><br />真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。1907年(明治40年)に小野派は独立、随心院は小野派本山となった。その後1931年(昭和6年)には小野派は善通寺派と改称し、1941年(昭和16年)には香川県の善通寺が総本山に昇格した。現在は宗祖空海の生誕地に建つ善通寺が善通寺派で総本山、随心院は同派大本山と位置づけられ、善通寺には管長が住し、随心院には能化が置かれている。<br /><br />小野小町は絶世の美女として知られており、今も美人の代表になっている。宮中で仁明天皇に仕え歌人として知られる彼女もこの地の出身で、宮中を退いて後もここで過ごしたとされる。<br /><br />随心院は深草少将の百夜通いのエピソードの舞台。小町に恋文を送った少将は「百夜訪ねて来てくれたなら、お心に従いましょう」との返事を信じて、毎夜、伏見・墨染の欣浄寺からこの寺まで片道約5㎞の道のりを通ったが、99夜目に大雪に見舞われ、寒さと疲労で力突き、凍死してしまったと云う話。この話はフィクションだが、少将のモデルとなった人物は存在したと云われる。<br /><br /><br />境内に入るが、続く

京都 山科 小野 隨心院(Zuishin-in Temple, Ono, Yamashina, Kyoto, JP)

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2020/11/30 - 2020/11/30

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旅行記グループ 小野・醍醐

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月30日(月)11時半過ぎ、勧修寺参拝を終えて、今度は地下鉄が通っている外環状線の反対側、東側の少し南にある隨心院へ。地下鉄小野駅の出口からなら、勧修寺は北側の道を西に向かったが、隨心院は南側の道を東に向かう。駅から5分ほど。

隨心院は真言宗善通寺派の大本山で、ご本尊は如意輪観世音菩薩で寺紋は九条藤。この辺りは、第5代孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命(あめのおしたらしひこのみこと)を祖とする和珥(わに)氏の枝氏で、7世紀前半から平安時代中期にかけて活躍した小野氏の根拠地とされ、随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られている。

ちなみに小野小町は遣隋使で有名な小野妹子の7代後の子孫なんだ(諸説あり)。昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたと云う小野篁(たかむら)は小町の祖父と云われる。

この寺は、そもそもは仁海(にんがい)僧正が創建した牛皮山曼荼羅寺の塔頭。仁海僧正は平安時代中期の真言宗の僧で、真言宗小野流の祖。弘法大師より8代目の弟子に当たり、宮中の帰依を受け、神泉苑にて雨乞の祈祷を9回行い、そのたびに雨を降らせたとされ、雨僧正の通称があった。雨海僧正、小野僧正とも称される。

曼荼羅寺は第66代一条天皇から小野氏邸宅の隣を寺地として下賜され、991年に建立された。曼荼羅寺の名は、僧正が夢で亡き母が牛に生まれ変わっていることを知り、その牛を鳥羽のあたりに尋ね求めて飼養したが、日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅を画き本尊にしたことに因んでいる。また山科の東側、大津市との間の牛尾山は僧正が牛の尾を山上に埋めて菩堤を弔ったことからその名になった。

随心院は第5世住持の増俊阿闍梨の時代に曼荼羅寺の塔頭の一つとして建てられた。続く6世顕厳の時に順徳天皇、後堀河天皇、四条天皇の祈願所となり、東寺長者や東大寺別当を務めた7世親厳大僧正が、1229年に後堀河天皇より、門跡の宣旨を賜り、以来隨心院門跡と称され、その以降、一条家、二条家、九条家などの出身者が多く入寺している。

以後、多くの伽藍が建造され、七堂伽藍は壮美を誇り、山城国、播磨国、紀伊国などに多くの寺領を有したが、承久の乱・応仁の乱によりほとんど焼失した。応仁の乱後は寺地九条唐橋や相国寺近辺などへたびたび移転した。

安土桃山時代末期の1599年、24世増孝の時にこの地に本堂が再興され、以後九条二条両摂家より門跡が入山し、両摂家の由緒をもって寄進再建された。江戸時代中期の門跡であった堯厳は関白の子で、大僧正に至ったが、その後還俗し、九条尚実と名乗って関白、太政大臣の位に至っている。

真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。1907年(明治40年)に小野派は独立、随心院は小野派本山となった。その後1931年(昭和6年)には小野派は善通寺派と改称し、1941年(昭和16年)には香川県の善通寺が総本山に昇格した。現在は宗祖空海の生誕地に建つ善通寺が善通寺派で総本山、随心院は同派大本山と位置づけられ、善通寺には管長が住し、随心院には能化が置かれている。

小野小町は絶世の美女として知られており、今も美人の代表になっている。宮中で仁明天皇に仕え歌人として知られる彼女もこの地の出身で、宮中を退いて後もここで過ごしたとされる。

随心院は深草少将の百夜通いのエピソードの舞台。小町に恋文を送った少将は「百夜訪ねて来てくれたなら、お心に従いましょう」との返事を信じて、毎夜、伏見・墨染の欣浄寺からこの寺まで片道約5㎞の道のりを通ったが、99夜目に大雪に見舞われ、寒さと疲労で力突き、凍死してしまったと云う話。この話はフィクションだが、少将のモデルとなった人物は存在したと云われる。


境内に入るが、続く

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