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2020年11月30日(月)2時過ぎ、醍醐寺の下醍醐伽藍エリアに入る。醍醐寺は醍醐山(笠取山)全体を寺域とするが、山上を上醍醐、裾野を下醍醐と呼ぶ。下醍醐には国宝の金堂をはじめ、京都最古の木造建築物とされる五重塔など見どころが多い。<br /><br />三宝院の南側の参道(下の写真1)を東に進むと仁王門。西大門で、豊臣秀頼が金堂の再建の後、1605年に再建したもの。安置されている国の重文の仁王像は、元は南大門に祀られていたもので、平安後期の1134年に仏師勢増・仁増によって造立された尊像。体内の墨書、納札等に南大門から移された経緯などが書かれている。<br /><br />仁王門を入ると参道の両側に空き地が広がるが、北側は三宝院の前身の灌頂院が、南側は醍醐五門跡の一つの塔頭・無量光院があったところ(下の写真2)。<br /><br />参道は段差に突き当たり、いったん右に折れて緩い坂道を上り、さらに左に折れるクランク状になっているが、この高くなったところに建つのが国宝の金堂。醍醐寺中心のお堂で、安置されている薬師如来坐像が醍醐寺の本尊でこちらは国の重文。入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面5間。<br /><br />現在の金堂は平安時代後期の建立で、秀吉の発願により紀伊国から移築したもの。1598年から移築を開始し、秀吉没後の1600年、秀頼の代になって落慶した。紀州国湯浅の満願寺本堂で、秀吉が紀州征伐を行った時、湯浅一帯を支配していた守護・畠山氏の家臣・白樫氏が満願寺一帯を拠点としており、その居城である白樫城と共に焼き討ちされようとしたが、醍醐寺座主が応仁の乱で大内氏に焼かれた醍醐寺金堂の再建を欲していたこともあり、満願寺の建築物を秀吉に差し出すことを条件にして焼き討ちが回避された。<br /><br />元の金堂は醍醐天皇の御願により926年に創建された建物で、当時は釈迦堂と云われていたが、鎌倉後期の永仁年間と室町時代の文明年間に2度焼失した。<br /><br />現在の金堂は平安時代のものだが、湯浅にあった鎌倉時代に改修を受けており、移築時の桃山時代の手法も混在している。組物が統一されておらず、正面が出三斗、側面と背面が平三斗という異例のデザインを持つのが特徴で、平三斗は創建当時のもの、正面の出三斗は鎌倉時代の補修の際に付け加えられたものと考えられている。立ちの高い入母屋屋根は近世風で、移築時の改修。<br /><br />内部にはご本尊の薬師如来坐像と日光菩薩・月光菩薩と四天王像を安置する。堂内は内陣と外陣(礼堂)の境に結界や間仕切りがなく、一体の空間とする点に特色がある。<br /><br />金堂の正面、参道の反対側の東側に建つのが国宝の五重塔。京都府下最古の木造建造物で、京都に残る数少ない平安時代の建築物。初層の内部には両界曼荼羅や真言八祖が描かれており、日本密教絵画の源流をなすものとして重要であり、塔本体とは別に「絵画」として国宝に指定されている。<br /><br />高さは約38mで、屋根の上の相輪が約13mあり全体の3割以上を占め、安定感を与えている。屋根の逓減率が大きく、塔身の立ちが低いため、後世の塔のような細長いプロポーションとは異なる。前に枝垂桜があり、桜の時期には絵になるだろうなあ(下の写真3)。<br /><br />931年にその前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を祈るために第三皇子の代明親王が発願し、穏子皇太后の令旨で建立が計画された。しかし、937年の代明親王の死去などの影響で工事は停滞し、朱雀天皇が引き継ぐも、村上天皇の951年、発願の20年後に完成した。<br /><br />創建以来修理を重ねたが、特に1586年の天正地震では一部の軒が垂れ下がるなどの甚大な被害を受けたため、秀吉の援助で1598年に修理が完成している。1950年のジェーン台風でも被害を受け、1960年に修理が完成した。<br /><br />五重塔の正面には清瀧宮がある。醍醐寺の総鎮守清瀧権現を祀る鎮守社。毎年4月1日から21日まで清瀧権現桜会として様々な法要が行われている。拝殿は1599年に義演僧正により建てられたもの。拝殿の西側にある本殿は1097年に、最初に建立された上醍醐より分身を移されたが、その後兵火により焼失。現在の社殿は1517年に再建されたもので、国の重文(下の写真4)。<br /><br />金堂の一段上(東側)、五重塔の北側にあるのが不動堂。入母屋造の本瓦葺で、堂内には不動明王を中心に五体の明王を奉安している。また、堂前の護摩道場では、当山派修験道の柴燈護摩が焚かれ、世界平和など様々な祈願を行っている。<br /><br />不動堂のさらに1段上にあるのが真如三昧耶堂。真如苑の開祖・伊藤真乗が興した密教法流「真如三昧耶流」を顕彰するため醍醐寺により1997年に建立されたもので、金色の涅槃像を祀る。元々は朱雀天皇の御願により創建された法華三昧堂が建っていたが、1470年に焼失した。<br /><br />真如三昧耶堂から参道に戻り少し先に進んだ左手にある祖師堂は、1605年に義演准后により建立されたもので、真言宗を開いた弘法大師・空海と、その孫弟子で、醍醐寺を開創した理源大師・聖宝とが祀られている。弘法大師の誕生日である6月15日には、降誕会が行われる。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5975155915887716&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />下醍醐奥の大伝法院に進むが、続く

京都 醍醐 醍醐寺 下醍醐(Shimo(lower)-Daigo, Daigoji Temple, Daigo, Kyoto, JP)

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2020/11/30 - 2020/11/30

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旅行記グループ 小野・醍醐

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月30日(月)2時過ぎ、醍醐寺の下醍醐伽藍エリアに入る。醍醐寺は醍醐山(笠取山)全体を寺域とするが、山上を上醍醐、裾野を下醍醐と呼ぶ。下醍醐には国宝の金堂をはじめ、京都最古の木造建築物とされる五重塔など見どころが多い。

三宝院の南側の参道(下の写真1)を東に進むと仁王門。西大門で、豊臣秀頼が金堂の再建の後、1605年に再建したもの。安置されている国の重文の仁王像は、元は南大門に祀られていたもので、平安後期の1134年に仏師勢増・仁増によって造立された尊像。体内の墨書、納札等に南大門から移された経緯などが書かれている。

仁王門を入ると参道の両側に空き地が広がるが、北側は三宝院の前身の灌頂院が、南側は醍醐五門跡の一つの塔頭・無量光院があったところ(下の写真2)。

参道は段差に突き当たり、いったん右に折れて緩い坂道を上り、さらに左に折れるクランク状になっているが、この高くなったところに建つのが国宝の金堂。醍醐寺中心のお堂で、安置されている薬師如来坐像が醍醐寺の本尊でこちらは国の重文。入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面5間。

現在の金堂は平安時代後期の建立で、秀吉の発願により紀伊国から移築したもの。1598年から移築を開始し、秀吉没後の1600年、秀頼の代になって落慶した。紀州国湯浅の満願寺本堂で、秀吉が紀州征伐を行った時、湯浅一帯を支配していた守護・畠山氏の家臣・白樫氏が満願寺一帯を拠点としており、その居城である白樫城と共に焼き討ちされようとしたが、醍醐寺座主が応仁の乱で大内氏に焼かれた醍醐寺金堂の再建を欲していたこともあり、満願寺の建築物を秀吉に差し出すことを条件にして焼き討ちが回避された。

元の金堂は醍醐天皇の御願により926年に創建された建物で、当時は釈迦堂と云われていたが、鎌倉後期の永仁年間と室町時代の文明年間に2度焼失した。

現在の金堂は平安時代のものだが、湯浅にあった鎌倉時代に改修を受けており、移築時の桃山時代の手法も混在している。組物が統一されておらず、正面が出三斗、側面と背面が平三斗という異例のデザインを持つのが特徴で、平三斗は創建当時のもの、正面の出三斗は鎌倉時代の補修の際に付け加えられたものと考えられている。立ちの高い入母屋屋根は近世風で、移築時の改修。

内部にはご本尊の薬師如来坐像と日光菩薩・月光菩薩と四天王像を安置する。堂内は内陣と外陣(礼堂)の境に結界や間仕切りがなく、一体の空間とする点に特色がある。

金堂の正面、参道の反対側の東側に建つのが国宝の五重塔。京都府下最古の木造建造物で、京都に残る数少ない平安時代の建築物。初層の内部には両界曼荼羅や真言八祖が描かれており、日本密教絵画の源流をなすものとして重要であり、塔本体とは別に「絵画」として国宝に指定されている。

高さは約38mで、屋根の上の相輪が約13mあり全体の3割以上を占め、安定感を与えている。屋根の逓減率が大きく、塔身の立ちが低いため、後世の塔のような細長いプロポーションとは異なる。前に枝垂桜があり、桜の時期には絵になるだろうなあ(下の写真3)。

931年にその前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を祈るために第三皇子の代明親王が発願し、穏子皇太后の令旨で建立が計画された。しかし、937年の代明親王の死去などの影響で工事は停滞し、朱雀天皇が引き継ぐも、村上天皇の951年、発願の20年後に完成した。

創建以来修理を重ねたが、特に1586年の天正地震では一部の軒が垂れ下がるなどの甚大な被害を受けたため、秀吉の援助で1598年に修理が完成している。1950年のジェーン台風でも被害を受け、1960年に修理が完成した。

五重塔の正面には清瀧宮がある。醍醐寺の総鎮守清瀧権現を祀る鎮守社。毎年4月1日から21日まで清瀧権現桜会として様々な法要が行われている。拝殿は1599年に義演僧正により建てられたもの。拝殿の西側にある本殿は1097年に、最初に建立された上醍醐より分身を移されたが、その後兵火により焼失。現在の社殿は1517年に再建されたもので、国の重文(下の写真4)。

金堂の一段上(東側)、五重塔の北側にあるのが不動堂。入母屋造の本瓦葺で、堂内には不動明王を中心に五体の明王を奉安している。また、堂前の護摩道場では、当山派修験道の柴燈護摩が焚かれ、世界平和など様々な祈願を行っている。

不動堂のさらに1段上にあるのが真如三昧耶堂。真如苑の開祖・伊藤真乗が興した密教法流「真如三昧耶流」を顕彰するため醍醐寺により1997年に建立されたもので、金色の涅槃像を祀る。元々は朱雀天皇の御願により創建された法華三昧堂が建っていたが、1470年に焼失した。

真如三昧耶堂から参道に戻り少し先に進んだ左手にある祖師堂は、1605年に義演准后により建立されたもので、真言宗を開いた弘法大師・空海と、その孫弟子で、醍醐寺を開創した理源大師・聖宝とが祀られている。弘法大師の誕生日である6月15日には、降誕会が行われる。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5975155915887716&type=1&l=223fe1adec


下醍醐奥の大伝法院に進むが、続く

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  • 写真1 仁王門前参道

    写真1 仁王門前参道

  • 写真2 仁王門奥参道

    写真2 仁王門奥参道

  • 写真3 五重塔と枝垂桜

    写真3 五重塔と枝垂桜

  • 写真4 金堂前の鐘楼でその奥が清瀧宮本殿

    写真4 金堂前の鐘楼でその奥が清瀧宮本殿

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