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2020年11月30日(月)12時前、随心院の境内に入る。院への正面入口は、山科追分から山科盆地を南下し六地蔵から宇治・大久保に至る醍醐道とも呼ばれる旧奈良街道沿いの総門。地下鉄小野駅の1番出口からなら、1本南の道を東に進み、旧奈良街道との小野御霊町の交差点を少し南に下がったところにある。江戸中期の1753年に二条家より移築されたもの。<br /><br />総門を入って、そのまま東に100m足らず進むと長屋門。江戸時代の武家屋敷などで良く見られる形式で、両脇に門番や家来が住む部屋が配されているのが特徴(下の写真1)。<br /><br />長屋門を入ると、奥に庫裡があるが、これも総門と同じく1753年に二条家より移築されたもの。二条家の政所御殿だった。庫裡の入口の前には小野小町歌碑が立つ。超有名なあの歌。「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(花の色は色あせてしまったことよ、長雨が降り続く間に。むなしく私もこの世で月日を過ごしてしまった、物思いにふけっている間に)。古今和歌集に収録された歌で小倉百人一首にも選ばれている。<br /><br />歌碑の奥には花梨の木があり、ちょうど実がなっていた(下の写真2)。花梨は梨の原種で、春に淡紅色の花が咲き、写真のような秋に実る黄色い実には薬効がある。弘法大師が821年に唐から持ち帰った花梨の苗木を香川県の満濃町に植樹され、満濃町の町木になっている。この木は1988年に当時の皇太子(現上皇)ご夫妻が全国植樹祭で満濃池森林公園で手撒きされたものが成長した木。<br /><br />庫裡に入ると正面左手の受付で拝観料(大人500円)を支払い右手奥に進む。まずはライトペインティングアートの世界的な先駆者であるジミー西村さんの小野小町の衝立が迎えてくれる(下の写真3)。<br /><br />そのまま奥に進んで行くと大玄関に続く。江戸初期の寛永年間(1624-1631年)の建築で、 2代将軍秀忠の継室である崇源院(江)と前夫羽柴秀勝との間の娘、天真院尼の寄進。式台からは薬医門が見える(下の写真4)。置かれているのは小町榧の切り株。小野小町ゆかりの榧(かや)の木。深草少将の百夜通いのエピソードで行き倒れとなった少将の手には榧の実がひとつ、握りしめられていた。小町は少将を偲んで99個の榧の実を小野の里に撒いたそうで、この切り株は大木に育ったそのうちの1本だそうだ。<br /><br />大玄関の奥には表書院が続く。これも大玄関と同様に寛永年間の建築で、天真院尼の寄進。皇室など位の高い方をもてなす、いわば応接間のような場所で、畳廊下から柵越しにしか見ることが出来ず、写真撮影も禁止だが、襖絵は、狩野永納時代の物で「花鳥山水の図」、「四愛の図」が描かれている。反対側の庭園越しには本堂が望める。<br /><br />表書院はさらに能の間に続く。江戸中期の宝暦年間(1753-1764年)に九条家の寄進によりに建造されたもので、1991年に改修工事が行われた。ここで目を引くのは極彩色梅匂小町絵図の襖絵。2人組の絵描きユニット・だるま商店により2009年に制作されたもの。華やかで鮮やかな極彩色の彩りはなんか凄い。襖絵は4枚からなっており、左から右へ向けて小野小町の一生が描かれている。画面のあちらこちらに白いシルエットで描かれているのが小町で、死後の小町が昔を振り返っている様子を表している。他の襖絵は撮影禁止となっているが、これは撮影可。<br /><br />能の間のさらに奥に本堂。こちらは安土桃山時代末期の1599年の建立で、寝殿造り。本尊の如意輪観世音菩薩と他諸仏が奉安されている。写真は撮影できないが、仏様が優雅。本堂の奥、南側の庭園は正面が枯山水の苔庭で横に池がある池泉式庭園。雑誌か何かの撮影が行われていた(下の写真5)。<br /><br />本堂から北に回り込むと奥書院。江戸時代初期建立の建物で、狩野派絵師による「舞楽図」、「宮廷人物図」、「竹虎図」などの襖絵を見ることが出来る(撮影禁止)。奥書院前の庭園も美しい。十三重塔や小町堂(納骨堂)がある。このお堂は、女性のための永代供養の場として建立されたもの。<br /><br />建物内の参拝を終え、入場した長屋門を出て、左手(南)に進むと大玄関の式台から見えていた薬医門がある。これも大玄関や表書院と同様に寛永年間の建築で、天真院尼により寄進されたもの。<br /><br />薬医門の反対側(西)、総門から長屋門への表参道の南一帯には小野梅園が広がる。約230本の薄紅色のはねずの梅(八重紅梅)や山紅梅、白梅が植えられ、2月から3月に掛けて美しく咲き乱れる(入園料が別途必要)。なお、はねずとは白みをおびた薄い紅色の古い呼び方。この八重紅梅は奈良時代に遣隋使または遣唐使が中国から持ち帰ったものと伝えられる。<br /><br />小野梅園の南西には小野小町化粧井戸(けわいのいど)がある。小町の屋敷の井戸だったところで、小町はこの井戸の水を使い化粧をしていたと「都名所図会」に記されている。<br /><br />境内の裏手(東側)はうっそうとした森が広がり、小町庭苑(御苑)と呼ばれている。薬医門の南側から境内の南側を回り込んで行くことが出来る。森の中、ちょうど本堂裏辺りには小町文塚。深草少将をはじめ当時の貴公子たちから小町に寄せられた千束の手紙(ラブレター)を埋めた所と云われている。<br /><br />小町文塚の北側、境内の北東角には仁海僧正供養塔が建つ。僧正は随心院の前身、曼荼羅寺の開祖で、2005年の僧正生誕1050年の記念行事に合わせて建立された。供養塔の後ろには深草少将ゆかりと云われる榧の大木が立つ。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5930576117012363&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />小野から醍醐に向かうが、続く

京都 山科 小野 隨心院境内(Zuishin-in Temple, Ono, Yamashina, Kyoto, JP)

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2020/11/30 - 2020/11/30

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旅行記グループ 小野・醍醐

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月30日(月)12時前、随心院の境内に入る。院への正面入口は、山科追分から山科盆地を南下し六地蔵から宇治・大久保に至る醍醐道とも呼ばれる旧奈良街道沿いの総門。地下鉄小野駅の1番出口からなら、1本南の道を東に進み、旧奈良街道との小野御霊町の交差点を少し南に下がったところにある。江戸中期の1753年に二条家より移築されたもの。

総門を入って、そのまま東に100m足らず進むと長屋門。江戸時代の武家屋敷などで良く見られる形式で、両脇に門番や家来が住む部屋が配されているのが特徴(下の写真1)。

長屋門を入ると、奥に庫裡があるが、これも総門と同じく1753年に二条家より移築されたもの。二条家の政所御殿だった。庫裡の入口の前には小野小町歌碑が立つ。超有名なあの歌。「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(花の色は色あせてしまったことよ、長雨が降り続く間に。むなしく私もこの世で月日を過ごしてしまった、物思いにふけっている間に)。古今和歌集に収録された歌で小倉百人一首にも選ばれている。

歌碑の奥には花梨の木があり、ちょうど実がなっていた(下の写真2)。花梨は梨の原種で、春に淡紅色の花が咲き、写真のような秋に実る黄色い実には薬効がある。弘法大師が821年に唐から持ち帰った花梨の苗木を香川県の満濃町に植樹され、満濃町の町木になっている。この木は1988年に当時の皇太子(現上皇)ご夫妻が全国植樹祭で満濃池森林公園で手撒きされたものが成長した木。

庫裡に入ると正面左手の受付で拝観料(大人500円)を支払い右手奥に進む。まずはライトペインティングアートの世界的な先駆者であるジミー西村さんの小野小町の衝立が迎えてくれる(下の写真3)。

そのまま奥に進んで行くと大玄関に続く。江戸初期の寛永年間(1624-1631年)の建築で、 2代将軍秀忠の継室である崇源院(江)と前夫羽柴秀勝との間の娘、天真院尼の寄進。式台からは薬医門が見える(下の写真4)。置かれているのは小町榧の切り株。小野小町ゆかりの榧(かや)の木。深草少将の百夜通いのエピソードで行き倒れとなった少将の手には榧の実がひとつ、握りしめられていた。小町は少将を偲んで99個の榧の実を小野の里に撒いたそうで、この切り株は大木に育ったそのうちの1本だそうだ。

大玄関の奥には表書院が続く。これも大玄関と同様に寛永年間の建築で、天真院尼の寄進。皇室など位の高い方をもてなす、いわば応接間のような場所で、畳廊下から柵越しにしか見ることが出来ず、写真撮影も禁止だが、襖絵は、狩野永納時代の物で「花鳥山水の図」、「四愛の図」が描かれている。反対側の庭園越しには本堂が望める。

表書院はさらに能の間に続く。江戸中期の宝暦年間(1753-1764年)に九条家の寄進によりに建造されたもので、1991年に改修工事が行われた。ここで目を引くのは極彩色梅匂小町絵図の襖絵。2人組の絵描きユニット・だるま商店により2009年に制作されたもの。華やかで鮮やかな極彩色の彩りはなんか凄い。襖絵は4枚からなっており、左から右へ向けて小野小町の一生が描かれている。画面のあちらこちらに白いシルエットで描かれているのが小町で、死後の小町が昔を振り返っている様子を表している。他の襖絵は撮影禁止となっているが、これは撮影可。

能の間のさらに奥に本堂。こちらは安土桃山時代末期の1599年の建立で、寝殿造り。本尊の如意輪観世音菩薩と他諸仏が奉安されている。写真は撮影できないが、仏様が優雅。本堂の奥、南側の庭園は正面が枯山水の苔庭で横に池がある池泉式庭園。雑誌か何かの撮影が行われていた(下の写真5)。

本堂から北に回り込むと奥書院。江戸時代初期建立の建物で、狩野派絵師による「舞楽図」、「宮廷人物図」、「竹虎図」などの襖絵を見ることが出来る(撮影禁止)。奥書院前の庭園も美しい。十三重塔や小町堂(納骨堂)がある。このお堂は、女性のための永代供養の場として建立されたもの。

建物内の参拝を終え、入場した長屋門を出て、左手(南)に進むと大玄関の式台から見えていた薬医門がある。これも大玄関や表書院と同様に寛永年間の建築で、天真院尼により寄進されたもの。

薬医門の反対側(西)、総門から長屋門への表参道の南一帯には小野梅園が広がる。約230本の薄紅色のはねずの梅(八重紅梅)や山紅梅、白梅が植えられ、2月から3月に掛けて美しく咲き乱れる(入園料が別途必要)。なお、はねずとは白みをおびた薄い紅色の古い呼び方。この八重紅梅は奈良時代に遣隋使または遣唐使が中国から持ち帰ったものと伝えられる。

小野梅園の南西には小野小町化粧井戸(けわいのいど)がある。小町の屋敷の井戸だったところで、小町はこの井戸の水を使い化粧をしていたと「都名所図会」に記されている。

境内の裏手(東側)はうっそうとした森が広がり、小町庭苑(御苑)と呼ばれている。薬医門の南側から境内の南側を回り込んで行くことが出来る。森の中、ちょうど本堂裏辺りには小町文塚。深草少将をはじめ当時の貴公子たちから小町に寄せられた千束の手紙(ラブレター)を埋めた所と云われている。

小町文塚の北側、境内の北東角には仁海僧正供養塔が建つ。僧正は随心院の前身、曼荼羅寺の開祖で、2005年の僧正生誕1050年の記念行事に合わせて建立された。供養塔の後ろには深草少将ゆかりと云われる榧の大木が立つ。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5930576117012363&type=1&l=223fe1adec


小野から醍醐に向かうが、続く

  • 写真1 長屋門

    写真1 長屋門

  • 写真2 花梨の木

    写真2 花梨の木

  • 写真3 庫裏の玄関

    写真3 庫裏の玄関

  • 写真4 大玄関の式台からの薬医門

    写真4 大玄関の式台からの薬医門

  • 写真5 本堂前庭園で撮影中

    写真5 本堂前庭園で撮影中

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