2020/11/30 - 2020/11/30
1114位(同エリア1763件中)
ちふゆさん
2020年11月30日(月)12時半過ぎ、随心院参拝を終えて、今度は醍醐寺に向かうが、随心院の東側、南側はすぐ伏見区の醍醐地区になる。伏見区の東部で、醍醐山の西側の麓一帯をいう。醍醐寺や醍醐・朱雀天皇陵があり、奈良街道が通じる。旧宇治郡醍醐村で、1889年(明治22年)に発足し、1931年(昭和6年)に京都市に編入され、伏見区の一部となった。
平安時代初期に醍醐寺が創建されたのが起源。桃山時代には、豊臣秀吉が自ら作庭を手がけた醍醐寺の塔頭三宝院において、大規模な花見が行われたのが有名。山科南部と接しており、山科と同一の生活圏・経済圏を共有し、伏見区中心部との繋がりよりも深いといわれている。
醍醐の名の由来は、修行の場を求めていた空海の孫弟子の理源大師聖宝が、笠取山に湧いていた醍醐水を「醍醐味なるかな」と美味そうに飲む地主神に出会い草庵を創設し、笠取山の山頂付近を醍醐山と名付けられたことからと云われる。醍醐は五味の一つで、牛乳を精製してつくったもので、最も美味とされ、病をなおす妙薬とされる。そのことから醍醐味とは、最高の味という意味で用いらる。
伏見区は京都市を構成する11の行政区の一つで、京都市の南部に位置する。面積は4番目の大きさだが、人口は約27万人で一番多い。全国の政令指定都市の行政区の中でも上位10位に入る。伏見の名は桃山丘陵からの伏流水に由来し、古来伏水と書かれた。
山科区小野の随心院の本堂裏の小町庭苑からしか行けないが、その南側に位置する清瀧権現堂は伏見区醍醐にある。本殿域は塀と門で囲まれ、門は閉ざされているので入ることは出来ない(下の写真1)。
醍醐寺の上醍醐にある清瀧宮より勧請したもので、随心院の鎮守。醍醐寺の守護神が清瀧権現で、随心院の本尊・如意輪観音の化身と云われていることから勧請されたと云われる。また、清瀧権現は雨乞いの神である善女竜王と同一視されており、随心院の前身、曼荼羅寺の開祖である仁海僧正が雨僧正とも呼ばれることから随心院の鎮守となったとも思われる。
随心院の東、山科と六地蔵を結ぶ奈良街道の反対側にあるのが醍醐天皇の後山科陵(のちのやましなのみささぎ)。アプローチが南側の100mの参道からしか出来ないので、北側から来ると結構大回り。
埋葬主体は一辺約11m、深さ約2.7mの土壙を掘り、その中に一辺約3m、高さ約1.3mの校倉を納め、さらにその中に棺を入れたもの。外部構造としての墳丘はないが、陵上に卒塔婆3基を立て、没年の翌年の931年に空堀が掘られた。現陵は直径45mの円憤で、盛り土はなく周囲に周溝と外堤を巡らせている。
平安時代中期の897年に即位した第60代の醍醐天皇は、紀貫之らに古今和歌集の撰進を命じたことなどで知られている。父・宇多天皇が皇籍を離れていた期間に源維城(これざね)として生まれ、父の即位に伴って皇族に列せられた。皇族でない身分で生まれて即位した唯一の天皇。母は藤原胤子(いんし)。20人に近い女御・更衣をかかえ、のちの朱雀天皇や村上天皇をはじめ、36人の子女をもうけた。ハレホレ・・・
34年に渡り摂政や関白を置かずに延喜の治と称えられる治世を行った。最初に左大臣、右大臣に任命したのが藤原時平、菅原道真で、901年、時平の進言で醍醐天皇は道真を大宰府へ左遷するが、その後に災いが相次いだため、923年に道真の左遷を取り消し、右大臣の位に戻すなどして慰霊に努めた。
この陵は930年の没後に造られた円丘で、長く醍醐寺の管理下にあったため、所在が確定できる数少ない平安時代の陵の1つ。諱(いみな)は敦仁(あつぎみもしくはあつひと)で、醍醐寺を自らの祈願寺とし、近くに葬られたことから醍醐天皇と追号された。ちなみに鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇は理想の治世と云われた醍醐天皇に憧れて、自身の遺言で命名したと云われる。
後山科陵から約600mほど南南東にあるのは、朱雀(すざく)天皇の醍醐陵(だいごのみささぎ)。西側の参道から入る(下の写真2)。後山科陵に比べると小さい。
952年に亡くなった後、火葬され、父の後山科陵の脇に埋められ、祠が造られた。江戸中期の1698年に江戸幕府により御廟として認定され、幕末の1864年に拡張・整備された。直径6mの円形の盛土を中心とし、一辺18mの方形の土地に周溝がめぐらしてある円丘。古くは後山科陵が上ノ御陵、醍醐陵が下ノ御陵と呼ばれていた。
第61代朱雀天皇は醍醐天皇の第十一皇子で、諱は寛明(ゆたあきら)。930年に醍醐天皇の崩御を受けて8歳で即位。実質的には摂政となった藤原忠平が実権を握っていた。946年に24歳で弟の成明親王(後の第62代村上天皇)に譲位するが、平将門の乱、藤原純友の乱などの内乱や富士山の噴火や地震・洪水などの天災に悩まされた在位期間だった。譲位後、朱雀院を後院としたため、朱雀院と追号された。952年に出家し仁和寺に入った後、30歳で崩御。
醍醐陵の真南すぐ、ただし道が続いてないので、大回りしてしか行けないが、赤間薬師堂がある。通常非公開だが、内陣中央に京都市指定有形文化財である定朝様の薬師如来坐像がお祀りされている。平安時代後期の1185年に、壇ノ浦での最後の源平合戦を避け、赤間関から遷され安置されたと云う。以来、赤間の薬師さんと呼ばれ、地元民に親しまれてきた。
薬師堂の右手前には写真はないが、屋根と板壁で囲まれた井戸があるが、これが上醍醐の醍醐水、新町の独鈷水と並んで醍醐三水に数えられる赤間の威独水の井戸。
薬師堂から西に進むと醍醐寺の北門。門と云っても塀の端に柱が建っているだけだが、これを南に進むと醍醐寺になる。その参道の西側に広がるのが理性院(りしょういん)。太元さんとも呼ばれる醍醐寺子院の一つで、真言宗醍醐派の別格本山。元々は醍醐五門跡の一つ、小野六流中の理性院流の本寺で、山内有数の子院の一つとして知られている。
平安時代末期の創建。現在は江戸時代に再建された本堂、客殿、聖天堂が残っており、京都府の暫定登録文化財に指定されている。境内は通常非公開。ご本尊の太元師明王(大元帥明王)は80年に一回、公開されるだけで、次回公開予定は2087年とのこと。関係ないなあ~。同じく本堂にある木造不動明王坐像は国の重文で、月1回公開されてるそうだ。また、客殿の狩野探幽の障壁画は年に1回の公開らしい 。
山門から覗くと、正面奥におびただしい数の石地蔵が並べられている。千体地蔵と云い、先代住職が並べられたらしい。一つ一つの石地蔵はかなり古いもの(下の写真3)。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5950405798362728&type=1&l=223fe1adec
醍醐寺境内に進むが、続く
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