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安永五年(1776)には、相馬霊場第三十七番土佐岩本寺写しとなり、本尊は聖観世音とされた。そして、大師堂は本堂前庭にあった鐘楼堂のあきに建てられていたという。それが大正四年に本堂の裏手に移されたのは、竹内神社にあった二十一番札所を当寺に移すことになったためで、そこには、三十七番と二十一番と二棟の大師堂が並んで建っている。碑文によれば、大正六年の記念碑に「第二十一番大師堂石塔喜捨芳名」が記され、同じ大正六年の碑に「大正六年十月一日暴風雨ノ為大師堂破損修繕並石橋新設」とある。こうしてみると、大師堂の維持管理にもいろいろなことがあったが、二十一番札所は、徴兵年齢の青年の参詣祈願がさかんであったという。大正十三年には、御籠堂、説教所が建立された。本堂わきの石段を登ったところにそれらがあり、休憩ができる茶店もあって、そこから右へ一段高く登ると、二棟の大師堂があり、沼の方への眺望がひらけていた。(「我孫子市史」より)参考にさせていただいたブログは下記です。石仏神心 84-2 北総石仏 我孫子市の石仏 布佐に詳しく書かれています。<br />http://sekibutu.blogspot.com/<br />

我孫子市の布佐・大師堂・相馬霊場(21)(37)・石仏

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2021/04/03 - 2021/04/03

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中国の風景

中国の風景さん

安永五年(1776)には、相馬霊場第三十七番土佐岩本寺写しとなり、本尊は聖観世音とされた。そして、大師堂は本堂前庭にあった鐘楼堂のあきに建てられていたという。それが大正四年に本堂の裏手に移されたのは、竹内神社にあった二十一番札所を当寺に移すことになったためで、そこには、三十七番と二十一番と二棟の大師堂が並んで建っている。碑文によれば、大正六年の記念碑に「第二十一番大師堂石塔喜捨芳名」が記され、同じ大正六年の碑に「大正六年十月一日暴風雨ノ為大師堂破損修繕並石橋新設」とある。こうしてみると、大師堂の維持管理にもいろいろなことがあったが、二十一番札所は、徴兵年齢の青年の参詣祈願がさかんであったという。大正十三年には、御籠堂、説教所が建立された。本堂わきの石段を登ったところにそれらがあり、休憩ができる茶店もあって、そこから右へ一段高く登ると、二棟の大師堂があり、沼の方への眺望がひらけていた。(「我孫子市史」より)参考にさせていただいたブログは下記です。石仏神心 84-2 北総石仏 我孫子市の石仏 布佐に詳しく書かれています。
http://sekibutu.blogspot.com/

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通
4.0
同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 愛宕神社の脇道の先に大師堂が在ります。

    愛宕神社の脇道の先に大師堂が在ります。

  • 大師堂入り口。

    大師堂入り口。

  • 石燈籠。

    石燈籠。

  • 新四国相馬霊場八十八ヶ所第二十一番、第三十七番大師堂再建記念碑。

    新四国相馬霊場八十八ヶ所第二十一番、第三十七番大師堂再建記念碑。

  • 大師堂。

    大師堂。

  • 新四国相馬霊場八十八ヶ所第二十一番の木札。

    新四国相馬霊場八十八ヶ所第二十一番の木札。

  • 弘法大師像。

    弘法大師像。

  • 新四国相馬霊場八十八ヶ所第三十七番石碑。

    新四国相馬霊場八十八ヶ所第三十七番石碑。

  • 大師堂、新四国相馬霊場八十八ヶ所第三十七番の木札。<br />

    大師堂、新四国相馬霊場八十八ヶ所第三十七番の木札。

  • 聖観世音菩薩三十七番御詠歌。

    聖観世音菩薩三十七番御詠歌。

  • 弘法大師像。<br />

    弘法大師像。

  • 大師堂左に見えるのは阿弥陀坐像です。大正8年皇太子殿下御成年紀念の基礎銘があります。

    大師堂左に見えるのは阿弥陀坐像です。大正8年皇太子殿下御成年紀念の基礎銘があります。

  • 戦没者の忠魂碑。その前に並ぶ左から寛文十三年(1673)聖観音・十五夜念仏塔、延宝六年(1678)勢至観音・十五夜塔、元禄九年(1696)聖観音・十九夜塔、寛文十三年(1673)来迎印阿弥陀塔、寛永十一年(1634)法界定印の胎蔵界大日如来塔、宝暦六年(1756)湯殿山大権現石祠となっています。

    戦没者の忠魂碑。その前に並ぶ左から寛文十三年(1673)聖観音・十五夜念仏塔、延宝六年(1678)勢至観音・十五夜塔、元禄九年(1696)聖観音・十九夜塔、寛文十三年(1673)来迎印阿弥陀塔、寛永十一年(1634)法界定印の胎蔵界大日如来塔、宝暦六年(1756)湯殿山大権現石祠となっています。

  • 戦没者の忠魂碑。

    戦没者の忠魂碑。

  • 乱雑な無縁塚。

    乱雑な無縁塚。

  • 石造物が並ぶ。大正8年阿弥陀坐像の左は庚申塔など8基の石仏が集められています。左列前は寛保壬戌(二年・1742)水神。その後も火の見櫓旧在の文政十一年(1828)文字庚申塔です。その奥3列目は傷んだ年不明廿三夜塔となっています。中央にあるのは明和二年(1765)六臂合掌青面金剛塔です。その後は年不明文字庚申塔残欠があります。右の列は手前から文化四年(1807)萬人講の標識、その後ろが寛政七年(1795)文字青面金剛塔、三列目は天明二年(1782)弐十三夜供養塔となっています。<br />

    石造物が並ぶ。大正8年阿弥陀坐像の左は庚申塔など8基の石仏が集められています。左列前は寛保壬戌(二年・1742)水神。その後も火の見櫓旧在の文政十一年(1828)文字庚申塔です。その奥3列目は傷んだ年不明廿三夜塔となっています。中央にあるのは明和二年(1765)六臂合掌青面金剛塔です。その後は年不明文字庚申塔残欠があります。右の列は手前から文化四年(1807)萬人講の標識、その後ろが寛政七年(1795)文字青面金剛塔、三列目は天明二年(1782)弐十三夜供養塔となっています。

  • 乱雑な無縁塚。

    乱雑な無縁塚。

  • 大きな石燈籠。

    大きな石燈籠。

  • 石造物が並ぶ。そちらに4基の石碑が並んでいます。右から文政二年(1819)建立の和田氏墓碑で明応九年(1500)より三百二十年周年を記念しての建立です。その左は昭和八年「布佐和田城址和田塚略記」で當所が和田義盛の居城であるとの口伝を記したものです。隣は昭和9年和田八幡祠です。左端は大谷石に嵌め込まれた種子一尊・青石塔婆(板碑)です。ほとんど読めませんが、明應年号(1492~1501)と阿弥陀一尊種子を刻んでいます

    石造物が並ぶ。そちらに4基の石碑が並んでいます。右から文政二年(1819)建立の和田氏墓碑で明応九年(1500)より三百二十年周年を記念しての建立です。その左は昭和八年「布佐和田城址和田塚略記」で當所が和田義盛の居城であるとの口伝を記したものです。隣は昭和9年和田八幡祠です。左端は大谷石に嵌め込まれた種子一尊・青石塔婆(板碑)です。ほとんど読めませんが、明應年号(1492~1501)と阿弥陀一尊種子を刻んでいます

  • 鯖大師万人講。

    鯖大師万人講。

  • 墓地。

    墓地。

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