2020/11/18 - 2020/11/21
2682位(同エリア4761件中)
エンジュさん
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金沢市内を観光しました。尾山神社→金沢城→兼六園とまわりました。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.5
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- その他
- 利用旅行会社
- 近畿日本ツーリスト
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ホテル金沢の部屋からの景色、冷房が効かないので、熟睡できなかった。でもせっかくだから元気出して出発しました。
ホテル金沢 宿・ホテル
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鼓門・金沢駅バスロータリー(東口)から周遊バスで尾山神社へ行きました。
金沢駅バスターミナル 乗り物
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尾山神社バス停留所から少し歩き、交差点を曲がると、尾山神社 神門が見えてきました。尾山神社の前身は前田一族を祀っていた卯辰(うたつ)八幡宮で、1873年に今の場所へ移りました。
尾山神社 寺・神社・教会
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尾山神社 神門・オランダ人によって設計された門で、レンガと木材の3層構造で建造されました。最も特徴的なのは第3層に作られた西洋のステンドグラスです。最上部には日本最古の避雷針が設置されています。
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尾山神社 本殿・和漢折衷の神社本殿です。本殿の屋根には中国の伝統的な建築様式が採用されており、ひとつの建築物の中に日本と中国、2つの国の要素が混ざり合っています。
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金谷神社・二代藩主前田利長公をはじめ三代から十七代までの藩主、当主と正室(夫人)をお祀りしています。
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前田利家公像・新しい物好きであった前田利家は、当時まだまだ未発展だった金沢を開発し、現在の金沢の経済や文化、教育などの基礎を固めました。
織田信長公に仕え青年時代は赤母衣衆として従軍しました。槍の名手だったため、「槍の又左」の異名をもって敵軍に怖れられました。 -
お松の方像・前田利家公の正室
出兵する旦那を静かに見守る姿を描いているそうです。
お松の方は「戦国BASARA」のイメージが強いのですが、実際には大和撫子な感じだったのでしょうね。 -
尾山神社神苑・旧金谷御殿(前田家別邸)の庭園、、古代舞楽の楽器を模した地泉廻遊式の名園です。神苑の水は、三代藩主利常公の命により完成した辰巳用水の水を高低差を利用して、兼六園から暗渠で導き、響遠瀑から落としていました。現在は、当時の水路が断絶したので、井戸を堀り地下水を池に流しています。
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東神門・尾山神社の後方にある東神門は、もともともと金沢城に備え付けられていたものです。東神門を通れば、前田一族がかつて暮らした金沢城遺跡へ行くことが出来ます。
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東神門・境内から出て外から撮影しました。見事な造りです。旧金沢城の二の丸の唐門で、明治3年以来旧卯辰山招魂社前にあったものを、昭和38年に当社境内地に移築しました。金沢城は、たびたび火災にあい、そのほとんどが焼失しましたが、この門が幸い難をのがれたのは、唐門の二匹の竜が水を呼んだためと言い伝えられています。今では、桃山風御殿建築の様式を偲ぶ貴重な建造物です。
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鼠多門橋・お堀通りに出て、撮影しました。尾山神社から金沢城公園に移動がスムーズに出来るようになりました。金沢の歴史を堪能しながら城下町を巡る「加賀百万石回遊ルート」が新しく誕生しました。
鼠多門とともに、明治期に失われて以来約140年ぶりに復元整備されました。
尾山神社側は階段とスロープがありますのでどなたも安心して渡れます。 -
鼠多門・黒い海鼠漆喰が特徴です。建物内部も無料で見学できます。
金沢城公園 鼠多門 名所・史跡
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鼠多門に入るとすぐに階段をのぼります。階段昇降機を設置し、バリアフリーにも対応しています。
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鼠多門は復元されたばかりなので建物内部はピカピカです。思ったより広いです。
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金沢城公園が窓から見えました。
天正8年(1580年)、織田信長軍の佐久間盛政が加賀一向一揆の拠点だった金沢御堂(かなざわみどう)を攻め落とし築城したのが始まり。
その後、天正11年(1583年)、加賀に入封した前田利家が加賀支配の拠点とすべく近世城郭へと改修した。
城郭構造は梯郭式平山城。城跡は国の史跡に指定されている。 -
鼠多門を出て、玉泉院丸庭園にきました。
金沢城公園 玉泉院丸庭園 名所・史跡
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玉泉院丸庭園は、加賀藩三代藩主「前田利常」による寛永11年(1634)の作庭を始まりとし、その後五代「綱紀」や十三代「斉泰」などの歴代の藩主により手を加えられながら、廃藩時まで金沢城内玉泉院丸に存在していた庭園です。饗応の場として活用された「兼六園」に比べ、藩主の内庭としての性格が強い庭園だったと考えられています。庭園は、城内に引かれた辰巳用水を水源とする池泉回遊式の大名庭園で、池底からの周囲の石垣最上段までの高低差が22mもある立体的な造形でした。滝と一体となった色紙短冊積石垣などの、意匠性の高い石垣群を庭の構成要素とする、他に類を見ない独創的な庭園であったと考えられています。
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色紙短冊積石垣・石垣の上部に滝を組み込んだ特別な石垣です。
滝口には黒色の坪野石でV字形の石樋をしつらえ、落水の背後には色紙形(正方形の石材に加えて短冊形(縦長方形)の戸室石を段違いに配しています。城郭石垣の技術と庭園としての意匠とが見事に融合した金沢城ならではの傑作とされています。 -
段落ちの滝・発掘調査では、斜面を4段で流れ落ちる滝の遺構が確認されました。遺構保存のための盛土を行い、その上に発掘調査で確認された石組みを参考に、新たに石組を整備し、滝を再現しています。
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庭園内は、古絵図を参考に、石川県内産の仕立てマツを主とした植栽にしています。また、絵図の描写や発掘調査の検出状況に基づき、各所に県内産の景石を配置しています。
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石垣群・庭園に面した石垣は、形状や色彩など外観の意匠に趣向をこらした、「見せる石垣」として造られており、庭園の景色を特徴づける重要な要素となっています。
金沢城公園 玉泉院丸庭園 名所・史跡
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色紙短冊積石垣と段落ちの滝・一緒に見ると迫力がありました。
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旧第六旅団司令部・この建物は明治31年(1898)に第六旅団司令部として金沢城跡に建てられたものです。木造平屋建て、寄棟、桟瓦葺き、基礎立上り部煉瓦積み、縦長の上げ下げ窓を採用しています。平面的には中央玄関部分を外壁面から前に張り出させ、その屋根には妻面正面に見せ、正面性を強調されています。窓台やマグサ、玄関開口部、玄関屋根妻面のレリーフ、蛇腹などに当時の洋風建築の要素が見られます。
金沢城公園 玉泉院丸庭園 名所・史跡
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菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・三つ名前を並んで表記しましたが、中でつながってる多門櫓です。2001年(平成13年)に木造復元されました。明治以降の木造城郭建築物としては最大規模だそうです。サムライパスポートを提示して、リーフレットをもらい入館しました。
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階段をのぼります。復元にあたっては、伝統的な木造軸組工法に加え、階段昇降機やエレベーターなどを設置し、二階まではバリアフリーとなっています。
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五十間長屋から二の丸の発掘調査の作業がみえました。
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建物そのものが展示物で、内部の建物構造がわかる工夫やコンピューターグラフィックス映像、各種の模型、発掘調査出土品、音声ガイドなどを備えた展示施設となっています。
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橋爪門(二の門)・2015年(平成27年)3月に第2期復元整備事業として橋爪門二の門が復元整備されました。、二の門内部には番所が置かれ枡形は城内最大規模を誇ります。
金沢城公園 玉泉院丸庭園 名所・史跡
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橋爪門(一の門)・橋爪門は、寛永八年(一六三一)の大火後に整備された二の丸の正門です。高麗門(こうらいもん)形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形(ますがた)」、櫓門(やぐらもん)形式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇ります。「石川門」、「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられていました。文化五年(一八〇八)の二の丸火災で焼失した後、文化六年(一八〇九)に再建された姿を復元しています。
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橋爪門(一の門)を通ると、内堀があり橋爪橋が掛かっています。
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橋爪橋・内堀の上の橋を渡りました。
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石川櫓と紅葉が綺麗でした。
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河北門・少し離れた所に見えました。金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。
金沢城公園 玉泉院丸庭園 名所・史跡
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紅葉が綺麗で、まだまだ見どころ満載の金沢城公園ですが、気温が27℃と高く体感温度はもっと高く、ほどほどにして、兼六園に行きました。
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石川門を通り、兼六園へ移動しました。
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石川門は金沢城の搦手門(からめてもん)にあたる門です。白門とも呼ばれています。
兼六園に近い門なので、現在はメインゲートとして多くの方に利用されています。
ちなみに「石川門」という名前の由来は、石川郡の方向を向いていたことから名づけられたそうです。金沢城公園 玉泉院丸庭園 名所・史跡
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石川門(二の門)・城内から撮影しました。
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石川門(二の門)をくぐり抜けて撮影しました。石川門は金沢城の搦手門(からめてもん)にあたる門です。白門とも呼ばれています。
兼六園に近い門なので、現在はメインゲートとして多くの方に利用されています。
ちなみに「石川門」という名前の由来は、石川郡の方向を向いていたことから名づけられたそうです。 -
石川門(一の門)・金沢城の搦手門(裏門)として重要な位置にあり、河北門、橋爪門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれた。櫓と櫓を長屋でつないだ重厚な枡形門に造られている。
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イチオシ
石川櫓・時期によって内部を見学できるそうです。
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イチオシ
石川橋・兼六園と金沢城址公園を結ぶ橋ですが、ここは「百間堀」と言われ、現在は石川橋の下は道路です。かつては市電も走っていたそうです。
金沢城公園 玉泉院丸庭園 名所・史跡
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兼六園は、加賀藩五代藩主前田綱紀が金沢城に付属してつくらせた蓮池庭を前身とし、代々の藩主が改修した大名庭園です。金沢市の中心部に位置し、四季折々の美しさを楽しめる庭園として、多くの県民や国内外の観光客に親しまれています。
兼六園 公園・植物園
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石川門から来たので、桂坂料金所でサムライパスポートを提示してリーフレットをもらい、入園しました。
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徽軫灯籠(ことじとうろう)が見えてきました。
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イチオシ
徽軫灯籠・兼六園のシンボルとしてよく知られ、観光写真でも度々登場する2本脚の灯籠。水面を照らすための雪見灯籠が変化したものです。形が楽器の琴の糸を支え、音を調整する琴柱(ことじ)に似ているため、その名が付いたと言われています。二股の脚は元々同じ長さでしたが、何かの原因で折れてしまい、石の上に片脚を乗せてバランスを保っています。手前に架かる虹橋と傍らのモミジの古木との三位一体となった風景はとても絵になり、多くの観光客がここで記念撮影を行っています。
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見事なすすきが秋の兼六園に趣きを醸し出しています。
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霞ヶ池(かすみがいけ)・徽軫灯籠と紅葉がみえます。13代藩主・前田斉泰( なりやす)がこの池を以前の三倍に拡張し、現在の形があります。
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唐崎松(からさきまつ)・兼六園のなかで最も枝ぶりの見事な樹木です。13代藩主・前田斉泰(なりやす)が近江八景の一つである琵琶湖畔の唐崎松から種子を取り寄せて育てた黒松です。雪の重みによる枝折れを防ぐために施される雪吊りは、冬の訪れを告げる風物詩としても有名。円錐型のシルエットが美しく、趣深い風情を紡ぎ出しています。
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兼六園という名前はそもそも、19世紀に入ってからの名前で前田斉広が松平定信に名前をつけてくれと依頼したというのが現在の定説となっています。
ではなぜ兼六園というのか。松平定信は中国の洛陽名園記の中で紹介されている16の名園のなかの「湖園」をうたった 「宏大(こうだい)」「幽邃(ゆうすい)」「人力(じんりょく)」「蒼古(そうこ)」「水泉(すいせん)」「眺望(ちょうぼう)」の六つを兼ね備える名園(六勝)というところから兼六園と名付けられたと言われています。 -
イチオシ
雪吊り・日本海側特有の湿った雪の重みで枝が折れないようにするため、枝に縄が施されています。雪吊りの種類には「しぼり」「みき吊り」「りんご吊り」の3種類があり、兼六園の名木、老樹には一番複雑な「りんご吊り」が施されます。雪吊りが必要な樹木には、松や桜、ツツジ、アオキ、八つ手があり、特に松の木は常緑の葉であるため、雪の重みがひときわ加わることから最も念入りにされることになっています。
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兼六園は「廻遊式」の要素が取り入れられた庭園。「廻遊式」とは寺の方丈や御殿の書院から見て楽しむ座観式の庭園ではなく、庭のなかに大きな池を穿ち、築山(つきやま)を築き、御亭(おちん)や茶屋を点在させ、それらに立ち寄りながら全体を遊覧できる庭園です。作庭における基本的な思想は「神仙思想」。大きな池を穿って大海に見立て、その中に不老不死の神仙人が住むと言われる島を配します。藩主たちは、長寿と永劫の繁栄を庭園に投影したのです。
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雁行橋(がんこうばし)(かりがねばし)
11枚の赤戸室石を使用し、雁が夕空に列をなして飛んでいく様をかたどった「雁行橋」。石の一枚一枚が亀の甲の形をしていることから「亀甲橋」とも言われ、この橋を渡ると長生きするとされてきましたが、現在は石の磨耗が著しいため、通行できなくなっています。 -
兼六園は、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン(観光版)で最高ランク三ツ星を獲得しています。
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地蔵堂・ひっそりとたたずむようにありました。
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明治紀念之標(めいじきねんのひょう)
中央に日本武尊像を、左に石川県戦士尽忠碑を据える明治紀念之標は、西南戦争で戦死した郷土軍人の霊を慰めるものです。銅像の身長は5.5m、明治13年(1880)日本で最初に建てられた銅像といわれている。両脇に植えられた赤松は「手向松(たむけまつ)」と呼ばれ、当時、京都の東西両本願寺の門跡から移されたものです。 -
花見橋・擬宝珠(ぎぼうし)の欄干がある木橋。橋から見る花の眺めがすばらしいことから、この名前がつきました。
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龍石・龍の頭に見える岩がある、その時はわからないまま撮影しましたが、画像を見るとその様な岩がありました。暑かったからボーとしていたのです。
この後、金澤神社にお参りするため、小立野口から出ました。 -
金澤神社・寛政6年(1794)十一代藩主前田治脩が、金城霊澤のほとりに菅原道真を祀ったことに始まります。創建当時は、藩校明倫堂の鎮守として、その後は竹沢御殿の鎮守とされました。明治7年(1874)兼六園公開とともに竹沢天神から金澤神社に改称されました。 学問の神様としても有名です。
金澤神社 寺・神社・教会
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明治以前は城下の婦子だけが参拝を許されていたと言われ、明治7年より兼六園が一般公開されると同時に、一般の参拝もOKとなりました。
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ご御祭神は、梅のマークでおわかりのように、ご存知学問の神であり前田家の先祖でもある菅原道真公と前田斉広(なりなが)公、前田斉泰公。金運・災難除の神の白蛇竜神様などです。そのため、合格祈願、金運アップの神社として金沢市の皆に愛される神社なのです。その他にも境内には商売繁盛お稲荷様もあります。
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稲荷さんがあるので鳥居が並んでいるのでしょうか。
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金城霊澤・金城池の南側にある泉。真夏の炎天の際も枯れることなく、また、長雨が降ってもあふれることなく、いつも清水をたたえています。12代藩主・斉広(なりなが)によって、現在のように丸い石の枠と屋根が設けられました。金城霊澤は昔砂金を洗うため、「金」の「沢」と言われ、これが金沢の名前の由来と言われています。
金城霊澤 自然・景勝地
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観光客が少なく、日影になっており、一息入れました。
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旧津田玄蕃邸・旧津田玄蕃邸(きゅう つだ げんば てい)は、唐破風の車寄せがある入母屋平屋武家書院造の武家屋敷です。元々は、大手門前にあったものを、1923年(大正12年)に兼六園内の現在地に移築されました。江戸時代は、加賀藩の重臣十二家(一万石以上の家柄)に数えられた津田家の屋敷であり、明治維新後は金沢医学館(後の金沢大学医学部)や乃木会館として利用され、兼六園に移ってからは兼六園管理事務所として利用されてきました。
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放生池(金城池)・かつての放水池(捉えた魚や鳥を放す池)
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松の傷・、この松の傷は1945年6月頃に当時の日本政府の指示で軍用航空機の燃料にするために松脂を採取したあとである。
随身坂口から再入園しました。入り口でリーフレットを見せると再入園できます。
ただし個人で入園した場合にかぎります。 -
兼六園(けんろくえん)は、国の特別名勝に指定されている。広さは約11.7ヘクタールです。
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日影が多く、暑い日でも歩きやすいです。
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瓢池(ひさごいけ)・ひさご池(瓢池)は兼六園で2番目に大きい池で、いちばん低い場所にある池です。
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瓢池(ひさごいけ)・ひさご池周辺は兼六園が作られる前には「蓮池(れんち)」と呼ばれ、ハスが生い茂る沼地でした。
蓮池にあった沼を利用して作られたのかひさご池で、ひさご池周辺の庭は兼六園と呼ばれるまでは蓮池庭(れんちてい)と呼ばれ、作庭されていました。
兼六園の始まりの場所であり、園内でもっとも古く作られた場所なのです。 -
真弓坂・この坂は、明治に入って兼六園が公園となり、一般解放されたのを機に開かれた坂道である。
もともとは、この真弓坂の端あたりに幕末まで物見(見物用建物)があった。加賀藩主や夫人、子供達は、祭礼や盆正月などの時に各町から趣向を凝らして繰り出したにぎやかなパレードを、この物見から見物していたとされる。 -
石浦神社・金沢最古の神社
バス停に行く途中に前を通りました。参拝したかったですが、時間がないので、あきらめました。石浦神社 寺・神社・教会
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金沢21世紀美術館・バス停からみえました。今回はあきらめます。残念です。
金沢21世紀美術館 美術館・博物館
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辰巳櫓跡・本丸から北東(丑寅)の方角にあるので「丑寅櫓」と名付けられました。
バス停からみえました。
ここからバスで近江町市場にいきました。
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