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古い街道脇には、『大谷派(東本願寺)』の寺院の『真宗大谷派・西連寺』がありました。『お東』さんと通称されるこの派の寺院は、北陸地方・東海地方に多いとされます。いわゆる『加賀門徒』、『尾張門徒』、『三河門徒』などです。信長と10年に亘る『石山合戦』を戦いました。ただし、このお寺は、江戸時代に天台宗から転派したとされます。

2020新春、織田信長生誕の地(3/5):勝幡(3):勝幡城下町、勝幡稲荷社、西蓮寺、紅梅

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2020/02/23 - 2020/02/23

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旅人のくまさん

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古い街道脇には、『大谷派(東本願寺)』の寺院の『真宗大谷派・西連寺』がありました。『お東』さんと通称されるこの派の寺院は、北陸地方・東海地方に多いとされます。いわゆる『加賀門徒』、『尾張門徒』、『三河門徒』などです。信長と10年に亘る『石山合戦』を戦いました。ただし、このお寺は、江戸時代に天台宗から転派したとされます。

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  • 『真宗大谷派・西連寺』の石標と山門の光景です。真宗大谷派(しんしゅう・おおたには)は、浄土真宗の宗派の一つで、宗教法人法による宗教法人(包括宗教法人)です。 阿弥陀如来一佛を本尊とし、親鸞を宗祖とします。大谷派の根本道場である東本願寺を、所属するすべての寺院および教会の本山としています。『大派(だいは)』、『お東(おひがし)』の通称があります。

    イチオシ

    『真宗大谷派・西連寺』の石標と山門の光景です。真宗大谷派(しんしゅう・おおたには)は、浄土真宗の宗派の一つで、宗教法人法による宗教法人(包括宗教法人)です。 阿弥陀如来一佛を本尊とし、親鸞を宗祖とします。大谷派の根本道場である東本願寺を、所属するすべての寺院および教会の本山としています。『大派(だいは)』、『お東(おひがし)』の通称があります。

  • 『真宗大谷派・西蓮寺』の文字が刻まれた石標の光景です。宗派名は、『浄土真宗本願寺派』との区別の便宜上、大谷派は『お東』、本願寺派は『お西』と通称されています。慶長8年(1603年)、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より『親鸞上人木像』を迎え、本願寺(東本願寺)が開かれました。七条堀川の本願寺の東にあるため、後に『東本願寺』と通称されるようになりました。『准如(じゅんにょ):1577~1631年)』が継承した七条堀川の本願寺は、『西本願寺』と通称されるようになりました。

    『真宗大谷派・西蓮寺』の文字が刻まれた石標の光景です。宗派名は、『浄土真宗本願寺派』との区別の便宜上、大谷派は『お東』、本願寺派は『お西』と通称されています。慶長8年(1603年)、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より『親鸞上人木像』を迎え、本願寺(東本願寺)が開かれました。七条堀川の本願寺の東にあるため、後に『東本願寺』と通称されるようになりました。『准如(じゅんにょ):1577~1631年)』が継承した七条堀川の本願寺は、『西本願寺』と通称されるようになりました。

  • 『お東』さんと通称される『大谷派(東本願寺)』の寺院は、北陸地方・東海地方に特に多いとされます。いわゆる『加賀門徒』、『尾張門徒』、『三河門徒』などです。東西分派に至る歴史的経緯によるものとされます。写真は、山門越しに、振り返って眺めた『勝幡稲荷社』方面の光景です。

    『お東』さんと通称される『大谷派(東本願寺)』の寺院は、北陸地方・東海地方に特に多いとされます。いわゆる『加賀門徒』、『尾張門徒』、『三河門徒』などです。東西分派に至る歴史的経緯によるものとされます。写真は、山門越しに、振り返って眺めた『勝幡稲荷社』方面の光景です。

  • 一方、『お西』さんと通称される『本願寺派(西本願寺)』の末寺・門徒は、中国地方に特に多いとされます。いわゆる『安芸門徒』などです。写真は、六角形の立派な泉水の光景です。上部が蓮の花を模していました。噴水は吹き上がっていませんでしたが、僅かばかりの水が、蓮の花から滴り落ちていました。『西蓮寺』の名前に因む意匠の泉水のようでした。

    一方、『お西』さんと通称される『本願寺派(西本願寺)』の末寺・門徒は、中国地方に特に多いとされます。いわゆる『安芸門徒』などです。写真は、六角形の立派な泉水の光景です。上部が蓮の花を模していました。噴水は吹き上がっていませんでしたが、僅かばかりの水が、蓮の花から滴り落ちていました。『西蓮寺』の名前に因む意匠の泉水のようでした。

  • 西蓮寺の鐘楼の光景です。台座が、玉石を使った石垣でした。この後は、桶狭間の戦いから10年後の元亀元年9月(1570年10月)に始まった、織田信長と本願寺との間で起きた『石山合戦』を紹介します。『顕如(けんにょ):1543~1592年』とその長子の『教如(きょうにょ):1558~1614年』が徹底抗戦し、その戦いは10年に及びました。石山合戦の頃から、『大坂本願寺』は、『石山御坊』と呼ばれるようになりました。合戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂し、教団の内部分裂が、東西分派の遠因となりました。

    西蓮寺の鐘楼の光景です。台座が、玉石を使った石垣でした。この後は、桶狭間の戦いから10年後の元亀元年9月(1570年10月)に始まった、織田信長と本願寺との間で起きた『石山合戦』を紹介します。『顕如(けんにょ):1543~1592年』とその長子の『教如(きょうにょ):1558~1614年』が徹底抗戦し、その戦いは10年に及びました。石山合戦の頃から、『大坂本願寺』は、『石山御坊』と呼ばれるようになりました。合戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂し、教団の内部分裂が、東西分派の遠因となりました。

  • 鐘楼に吊り下げられていた、梵鐘のズームアップ光景です。なかなか立派な造りに見えました。『梵(ぼん)』は、梵語(サンスクリット)の 『Brahma (神聖・清浄)』を音訳したものとされます。『石山合戦』は、天正8年(1580年)3月、顕如は正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れ、石山本願寺から紀伊国鷺森(和歌山県和歌山市)へ退去しました。しかし、教如は徹底抗戦を主張し、このため顕如は、教如を義絶しました。その後も教如は石山本願寺に籠城しますが、8月2日、近衛前久の説得に応じ、信長に石山本願寺を明け渡しました。 その直後に、石山本願寺は失火により炎上し灰燼に帰しました。

    鐘楼に吊り下げられていた、梵鐘のズームアップ光景です。なかなか立派な造りに見えました。『梵(ぼん)』は、梵語(サンスクリット)の 『Brahma (神聖・清浄)』を音訳したものとされます。『石山合戦』は、天正8年(1580年)3月、顕如は正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れ、石山本願寺から紀伊国鷺森(和歌山県和歌山市)へ退去しました。しかし、教如は徹底抗戦を主張し、このため顕如は、教如を義絶しました。その後も教如は石山本願寺に籠城しますが、8月2日、近衛前久の説得に応じ、信長に石山本願寺を明け渡しました。 その直後に、石山本願寺は失火により炎上し灰燼に帰しました。

  • 鐘楼の基壇のズームアップ光景です。玉石を使った、立派な切込み接ぎの石垣でしたから、この後ズームアップでも紹介します。これまで見学したお城の中で、一番印象に残った玉石垣のお城は、静岡県掛川市に残る『横須賀城』でした。徳川家康が武田家の高天神城を締め付ける付城群の中核として、大須賀康高に命じて築いた城郭です。

    鐘楼の基壇のズームアップ光景です。玉石を使った、立派な切込み接ぎの石垣でしたから、この後ズームアップでも紹介します。これまで見学したお城の中で、一番印象に残った玉石垣のお城は、静岡県掛川市に残る『横須賀城』でした。徳川家康が武田家の高天神城を締め付ける付城群の中核として、大須賀康高に命じて築いた城郭です。

  • 鐘楼の台座になった石垣のズームアップ光景です。石段の右側の石垣部分です。丸い形の玉石を加工して、六角形に揃えてありました。これは人造ですが、自然界が作り出す柱状節理や、蜂が作り出すハニカム構造を連想させる光景です。シャボン玉の円形を七つくっ付けると、その中央が六角形になるようです。密集した円形から生じやすい形が六角形です。

    イチオシ

    鐘楼の台座になった石垣のズームアップ光景です。石段の右側の石垣部分です。丸い形の玉石を加工して、六角形に揃えてありました。これは人造ですが、自然界が作り出す柱状節理や、蜂が作り出すハニカム構造を連想させる光景です。シャボン玉の円形を七つくっ付けると、その中央が六角形になるようです。密集した円形から生じやすい形が六角形です。

  • 同じく、鐘楼の台座になった石垣のズームアップ光景です。こちらは石段の左側の石垣部分です。近くに日光川や三宅川がありますから、近くで採取された玉石かも知れません。硬い玉石を削って、一番加工しやすい切込み接ぎが六角形になるようです。

    同じく、鐘楼の台座になった石垣のズームアップ光景です。こちらは石段の左側の石垣部分です。近くに日光川や三宅川がありますから、近くで採取された玉石かも知れません。硬い玉石を削って、一番加工しやすい切込み接ぎが六角形になるようです。

  • 一段高い場所に設えられていた、慰霊碑らしい石塔の光景です。上部の円形の柱に『供養塔』の文字が刻まれていました。その下が、錠前が掛かった金属扉の収蔵庫のようでした。切り込み接ぎの石垣の基壇の正面には、手摺り付きの三段の石段が設けてありました。

    一段高い場所に設えられていた、慰霊碑らしい石塔の光景です。上部の円形の柱に『供養塔』の文字が刻まれていました。その下が、錠前が掛かった金属扉の収蔵庫のようでした。切り込み接ぎの石垣の基壇の正面には、手摺り付きの三段の石段が設けてありました。

  • 正面から眺めた、『真宗大谷派・西蓮寺』の本堂光景です。『石山合戦』の後日談です。天正10年(1582年)6月2日、明智光秀による本能寺の変が起こり、信長は自害しました。 同年6月23日、顕如に対し、後陽成天皇から教如の赦免が提案され、同年6月27日、教如は、顕如より義絶を赦免されました。赦免後は、顕如と共に住し、寺務を幇助しました。

    イチオシ

    正面から眺めた、『真宗大谷派・西蓮寺』の本堂光景です。『石山合戦』の後日談です。天正10年(1582年)6月2日、明智光秀による本能寺の変が起こり、信長は自害しました。 同年6月23日、顕如に対し、後陽成天皇から教如の赦免が提案され、同年6月27日、教如は、顕如より義絶を赦免されました。赦免後は、顕如と共に住し、寺務を幇助しました。

  • 振り返って眺めた、『真宗大谷派・西蓮寺』の山門光景です。左手に先ほど紹介した、蓮花意匠の泉水が見えていました。天正11年 (1583年)、石山本願寺跡地を含む一帯に、豊臣秀吉によって大坂城が築かれました。

    振り返って眺めた、『真宗大谷派・西蓮寺』の山門光景です。左手に先ほど紹介した、蓮花意匠の泉水が見えていました。天正11年 (1583年)、石山本願寺跡地を含む一帯に、豊臣秀吉によって大坂城が築かれました。

  • 『聖徳太子』の扁額が掛かったお堂の光景です。『聖徳太子(574~622年)』は、飛鳥時代の皇族で政治家です。用明天皇(生年不詳~587年)の第2皇子で、母は欽明天皇の皇女の穴穂部間人皇女です。『聖徳太子』の呼び名は、後代の尊称、ないしは諡号とされます。仏教や儒教を取り入れ、神道とともに信仰し、興隆に努めたとされます。

    『聖徳太子』の扁額が掛かったお堂の光景です。『聖徳太子(574~622年)』は、飛鳥時代の皇族で政治家です。用明天皇(生年不詳~587年)の第2皇子で、母は欽明天皇の皇女の穴穂部間人皇女です。『聖徳太子』の呼び名は、後代の尊称、ないしは諡号とされます。仏教や儒教を取り入れ、神道とともに信仰し、興隆に努めたとされます。

  • 『聖徳太子』の文字が印された扁額のズームアップ光景です。いわゆる、銘木板のようです。大木の根っこの部分が輪切りにされているようです。聖徳太子は、推古天皇(554~628年)のもと、蘇我馬子(551~626年)と協調して政治を行い、国際的緊張の中で遣隋使を派遣し、進んでいる中国の文化・制度を学び、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど、中央集権国家体制の確立を図りました。

    『聖徳太子』の文字が印された扁額のズームアップ光景です。いわゆる、銘木板のようです。大木の根っこの部分が輪切りにされているようです。聖徳太子は、推古天皇(554~628年)のもと、蘇我馬子(551~626年)と協調して政治を行い、国際的緊張の中で遣隋使を派遣し、進んでいる中国の文化・制度を学び、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど、中央集権国家体制の確立を図りました。

  • オート撮影でのピントが合いませんでしたが、白木蓮らしい樹木の枝先光景です。綿毛に覆われた蕾が膨らみ始めていました。『ハクモクレン(白木蓮)』は、モクレン科モクレン属の落葉樹で、花期は3~4月です。

    オート撮影でのピントが合いませんでしたが、白木蓮らしい樹木の枝先光景です。綿毛に覆われた蕾が膨らみ始めていました。『ハクモクレン(白木蓮)』は、モクレン科モクレン属の落葉樹で、花期は3~4月です。

  • 春日灯篭型の石灯篭の光景です。灯籠といえば春日型を指すほど、灯籠の基本となる春日型灯籠です。宝珠は下から露盤、請花、宝珠の三層で請花は複弁の六枚花弁です。笠は六角形で上部中央から角に向かって隆棟があり、各隅に蕨手を刻り出します。火袋は六面、前後に火口があり、正面から左回りに鹿、雲、後戸、三笠山、透かしの順になる約束事があります。

    春日灯篭型の石灯篭の光景です。灯籠といえば春日型を指すほど、灯籠の基本となる春日型灯籠です。宝珠は下から露盤、請花、宝珠の三層で請花は複弁の六枚花弁です。笠は六角形で上部中央から角に向かって隆棟があり、各隅に蕨手を刻り出します。火袋は六面、前後に火口があり、正面から左回りに鹿、雲、後戸、三笠山、透かしの順になる約束事があります。

  • 同じく、一対で置かれていた、もう一方の春日灯篭形式の石灯篭の光景です。六面の火袋は、一対で立てる時は変化します。中台は上部に六角形の受け壇が二段。側面は複弁の六枚花弁の請蓮華です。柱は上、中、下部に節を浮き刻りにし、節にそって子節をつけます。太さは上下同じです。柱の下の地輪の花弁は六枚、八枚、最高十二枚までつくることがあります。全体にバランスのとれた形の良い灯籠です。

    同じく、一対で置かれていた、もう一方の春日灯篭形式の石灯篭の光景です。六面の火袋は、一対で立てる時は変化します。中台は上部に六角形の受け壇が二段。側面は複弁の六枚花弁の請蓮華です。柱は上、中、下部に節を浮き刻りにし、節にそって子節をつけます。太さは上下同じです。柱の下の地輪の花弁は六枚、八枚、最高十二枚までつくることがあります。全体にバランスのとれた形の良い灯籠です。

  • 正面からズームアップした、『真宗大谷派・西蓮寺』の本堂光景です。扁額は懸かっていないようでした。正面手前に4本の主柱が並び、その間がすべて正面入口の階段となっていました。写真は、その4本の柱の中央2本の間の光景です。

    正面からズームアップした、『真宗大谷派・西蓮寺』の本堂光景です。扁額は懸かっていないようでした。正面手前に4本の主柱が並び、その間がすべて正面入口の階段となっていました。写真は、その4本の柱の中央2本の間の光景です。

  • 本堂の前から眺めた、右手方面になる庫裏と庭園の光景です。手入れが行き届いた庭園でした。西蓮寺の山号は『蓮池山』と号し、寺伝によれば天正10年(1582年)に浄空による創建とされます。元は天台宗で旧佐屋町落合にあり、正保4年(1647年)に真宗大谷派に転派したとされます。

    本堂の前から眺めた、右手方面になる庫裏と庭園の光景です。手入れが行き届いた庭園でした。西蓮寺の山号は『蓮池山』と号し、寺伝によれば天正10年(1582年)に浄空による創建とされます。元は天台宗で旧佐屋町落合にあり、正保4年(1647年)に真宗大谷派に転派したとされます。

  • 左手に見える建物が鐘楼、右手に見える建物が『聖徳太子』の扁額が掛かったお堂の光景です。未利用部分があり、敷地に随分と余裕があるようでした。真宗大谷派は、阿弥陀如来一佛を本尊としますが、本尊とともに安置する影像は、『正法弘通の恩徳を謝するため、宗祖親鸞聖人、聖徳太子、七高僧及び歴代御門跡の影像を安置する』と定めています。

    左手に見える建物が鐘楼、右手に見える建物が『聖徳太子』の扁額が掛かったお堂の光景です。未利用部分があり、敷地に随分と余裕があるようでした。真宗大谷派は、阿弥陀如来一佛を本尊としますが、本尊とともに安置する影像は、『正法弘通の恩徳を謝するため、宗祖親鸞聖人、聖徳太子、七高僧及び歴代御門跡の影像を安置する』と定めています。

  • 手入れされた庭木越しに眺めた、庫裏の建物の光景です。本堂が、この写真の左手になります。正依の聖教として、次の『浄土三部経』を定めているようです。 <br />『佛説無量寿経』 曹魏康僧鎧訳<br />『佛説観無量寿経』 劉宋畺良耶舎訳<br />『佛説阿弥陀経』 姚秦鳩摩羅什訳<br />

    手入れされた庭木越しに眺めた、庫裏の建物の光景です。本堂が、この写真の左手になります。正依の聖教として、次の『浄土三部経』を定めているようです。
    『佛説無量寿経』 曹魏康僧鎧訳
    『佛説観無量寿経』 劉宋畺良耶舎訳
    『佛説阿弥陀経』 姚秦鳩摩羅什訳

  • 境内に生えていた常緑樹の大木の光景です。『カイヅカイブキ(貝塚伊吹)』の大木のようなイメージでした。カイヅカイブキですと、ヒノキ科ビャクシン属の小高木になります。<br />

    境内に生えていた常緑樹の大木の光景です。『カイヅカイブキ(貝塚伊吹)』の大木のようなイメージでした。カイヅカイブキですと、ヒノキ科ビャクシン属の小高木になります。

  • 『コウバイ(紅梅)』<br />品種:不明(八重咲)<br />分類:バラ科サクラ属の落葉高木。<br />特徴:観賞用の『花梅』のようです。<br />その他:まだ蕾の状態でした。

    『コウバイ(紅梅)』
    品種:不明(八重咲)
    分類:バラ科サクラ属の落葉高木。
    特徴:観賞用の『花梅』のようです。
    その他:まだ蕾の状態でした。

  • 『真宗大谷派・西蓮寺』の見学を終え、山門から退出した後に、振り返って眺めた本堂方面の光景です。真宗大谷派は、『真宗本廟』をすべての寺院及び教会の本山と定めています。また、大谷祖廟は、宗祖聖人墳墓の地であって、大谷派に属する者は、これを敬仰・護持しなければならないと定めています。現門首は、第25代の大谷暢顯(淨如)師です。

    『真宗大谷派・西蓮寺』の見学を終え、山門から退出した後に、振り返って眺めた本堂方面の光景です。真宗大谷派は、『真宗本廟』をすべての寺院及び教会の本山と定めています。また、大谷祖廟は、宗祖聖人墳墓の地であって、大谷派に属する者は、これを敬仰・護持しなければならないと定めています。現門首は、第25代の大谷暢顯(淨如)師です。

  • 山門に正対していた、『勝幡稲荷社』の鳥居と扁額のズームアップ光景です。愛知県の神社一覧では、近くの『勝幡神社』は、住所が『勝幡町字大縄場2820』と紹介されていましたが、『勝幡稲荷社』はリストにありませんでした。

    山門に正対していた、『勝幡稲荷社』の鳥居と扁額のズームアップ光景です。愛知県の神社一覧では、近くの『勝幡神社』は、住所が『勝幡町字大縄場2820』と紹介されていましたが、『勝幡稲荷社』はリストにありませんでした。

  • 『コウバイ(紅梅)』<br />品種:不明(八重咲)<br />分類:バラ科サクラ属の落葉高木。<br />特徴:観賞用の『花梅』のようです。<br />その他:見頃のピンク色の花の光景です。

    『コウバイ(紅梅)』
    品種:不明(八重咲)
    分類:バラ科サクラ属の落葉高木。
    特徴:観賞用の『花梅』のようです。
    その他:見頃のピンク色の花の光景です。

  • 『コウバイ(紅梅)』<br />品種:不明(八重咲)<br />分類:バラ科サクラ属の落葉高木。<br />特徴:観賞用の『花梅』のようです。<br />その他:見頃のピンク色の花のズームアップ光景です。

    『コウバイ(紅梅)』
    品種:不明(八重咲)
    分類:バラ科サクラ属の落葉高木。
    特徴:観賞用の『花梅』のようです。
    その他:見頃のピンク色の花のズームアップ光景です。

  • 本瓦が葺かれた、武家屋敷風の入口門の光景です。その先に見えるかなりの広さの敷地は更地になっていましたが、その奥には建物光景もありました。門徒一部の塀だけが新しい、不思議な街角光景です。

    本瓦が葺かれた、武家屋敷風の入口門の光景です。その先に見えるかなりの広さの敷地は更地になっていましたが、その奥には建物光景もありました。門徒一部の塀だけが新しい、不思議な街角光景です。

  • 『御菓子司・近江屋本店』の看板があった、歴史がありそうなお店の光景です正面のガラス戸に、『草餅』、『さくら餅』と『柿ころも』の三つのお品書きがありました。

    『御菓子司・近江屋本店』の看板があった、歴史がありそうなお店の光景です正面のガラス戸に、『草餅』、『さくら餅』と『柿ころも』の三つのお品書きがありました。

  • 『御菓子司・近江屋本店』の横の脇道光景です。細い道がカーブしながら続いていました。近江屋本店の建物は、この道に沿ってかなりの奥行きがありました。製造と販売のお店のようです『近江(おうみ)』は、滋賀県北東部、米原市南西部の旧町域で、琵琶湖を意味する『あわうみ(淡海)』の音変化と解されています。<br />

    『御菓子司・近江屋本店』の横の脇道光景です。細い道がカーブしながら続いていました。近江屋本店の建物は、この道に沿ってかなりの奥行きがありました。製造と販売のお店のようです『近江(おうみ)』は、滋賀県北東部、米原市南西部の旧町域で、琵琶湖を意味する『あわうみ(淡海)』の音変化と解されています。

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