2020/02/23 - 2020/02/23
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織田信長生誕の地の勝幡城祉紹介の締め括りです。勝幡城は、信長の祖父織田信定公が『天の利』、『地の利』、『和の創造』を実行する拠点と決め、津島港と尾張国府(稲沢市)の松下とを三宅川で往来し、尾張西部を手中にした古跡です。
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『二級河川・三宅川(ミヤケ・リヴァー)・愛知県』などの表示があった濃い青色の看板光景です。予め調べた資料では、『勝幡城址』は三宅川と日光川に挟まれた三角州に位置するようでした。写真は、三宅川に架かる『東城橋』です。ネット検索では、平成4年(1992年)3月竣工と紹介されていました。
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『二級河川・三宅川』に架かる『東城橋(とうじょう・はし)』の袂の光景です。小さな金属柵に、桜の花飾りがありました。かつての『勝幡城址』の縄張りの東南端に近い位置になるようです。現在の東城橋は、県道126号線『給父西枇杷島線』が通る橋です。
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歩道の路面に設置されていた、桜の花が描かれたカラータイルの光景です。花と一緒に緑の葉が描かれていましたから、染井吉野ではなく、ヤマザクラ当たりかも知れません。花の色は、背景が白地ですから、少し濃い色に表現されているようです。
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東城橋を渡って、さらに西方面に歩きました。この通りが、先ほど紹介した、県道126号線の『給父西枇杷島線』になるようです。『愛知県道126号給父西枇杷島線 (あいちけんどう126ごう きゅうぶにしびわじません)』は、 愛知県愛西市から清須市に至る一般県道です。1959年(昭和34年)12月15日に県道認定されました。街路樹が桜の樹でした。
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県道126号線の南側に広がる田圃光景です。この辺りの現在の地名は、稲沢市平和町の大字『東城』になるようです。小字では『新宮前』、『外山』、『岩名』や『天神』などが残されているようです。
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田圃や畑が広がる中に、ぽつんと立っていた蜜柑の樹の光景です。収穫はされないらしく、辺りに成熟したらしい実が転がっていました。少し離れた場所から、ズームアップでの撮影です。
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『菜の花』畑の光景です。まだ十分に生育していない、苗のような『菜の花』ですが、黄色い花が少しだけ咲いていました。アブラナ科アブラナ属の花の総称とされる呼び名です。
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三宅川と日光川の中間を流れていた水路の光景です。地図を参照しますと、この水路の行き先は、『黒田排水機場』方面のようでした。この辺りはゼロメートル地帯、この用水の水は、天井川にポンプで組み上げているようです。
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目的地の勝幡城跡近くに到着したようです。前方に見えるのは、日光川に架かる『嫁振橋』です。この辺りの現在の住所は、稲沢市平和町『城之内』になります。勝幡城に因む字名が残っているようでした。日光川の右岸には、同じ平和町の『城西』、左岸には『城東』の字名や、愛西市勝幡町には、旧名の『塩畑』の字名も残っています。
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イチオシ
日光川に架かる『嫁振橋』欄干には、かつての勝幡城の想像図が描かれています。江戸時代のような天守閣のある城ではなく、巨大な屋敷のような中世の城だったと想定されています。勝幡城は天文3年(1534年)、織田信秀の三男として信長が生誕した城として、近年脚光を浴びました。それまでは、現在の名古屋城の二の丸になる『那古野城』が信長生誕の地とされてきました。
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天井川とされる日光川の光景です。その日光川に架かる『嫁振橋』の左岸から眺めた下流方面の光景です。愛知県北部から愛知県西部へ流れ、伊勢湾に注ぐ二級河川です。古くは『萩原川』と呼ばれ、木曽八流の一つとされています。
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こちらが石碑の表面になるようです。『勝幡城址・愛知縣』の文字が刻まれていました。稲沢市の市指定文化財からの紹介文です。『勝幡城は、永正年中(1504~1521)織田弾正忠信定によって築かれたと伝えられている。信定は岩倉城主織田敏信の弟で、初め小口城主となり木下城主を兼ねたが、ここに築城して居住し、享禄元年に没したという。信定の長子信秀は、永正5年この城に生まれ、父の没後その後を継ぎ、尾張守護斯波氏の三奉行として、清須に勤仕した。』と紹介されていました。
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イチオシ
『勝幡城址・愛知縣』の文字が刻まれた石標のズームアップ光景です。稲沢市の市指定文化財からの紹介の続きです。規模・構造については、『東西四十八間、南北七十間、大手口東西二重堀、四方に惣堀有、惣構の外南北百二十間、東西百十四間』「尾陽雑記」と紹介されていました。また、勝幡城の城域は、『愛西市・稲沢市に広がるが、城の中心は平和町城西(現在の城之内)付近と推定され、当該地は城跡の南端部分と考えられる。尾張の中近世史を考えるうえで、重要な城跡である。』とも紹介されていました。
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『信長生誕を育む会』の名前で設置されていた、『勝幡城址』の文字と織田家の家紋が記された、大きな看板の光景です。『織田信定築城・1534年(天文3年)5月・信長生誕』の文字も記されていました。内閣府の『NPO法人ポータルサイト』に登録された団体です。そのポータルサイトによれば、恒川鋭夫氏が代表で、2011年03月11日に設立されました。
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こちらも、『信長生誕を育む会』の名前で設置されていた、『勝幡城址』の説明看板です。『NPO法人ポータルサイト』への届け出書によれば、この看板の末尾の野島精二氏が設立時の会長、先ほど紹介した恒川鋭夫氏が理事の一人でした。届け出書の記載欄には、会の目的、活動範囲などが記されていました。決算報告などにも目を通しましたが、残念ながらあまり活発な活動ではないようです。
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『勝幡城址』のタイトルの案内看板付近の光景です。『信長生誕を育む会』の説明看板委は、『信長の父信秀公が津島を拠点にして勢力を拡大し巨万の富を権勢拡大に使い尾張の雄となった。信長の誕生は1534年5月、平手政秀公による養育で「うつけ」として就業し情報を万人よりもらい天下人となり平定に努めた』と紹介されていました。
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自由に出入りが出来そうな、『勝幡城址』の一部になるよう名一角の光景です。しかし、私有地らしい雰囲気でしたから、石段を登るのは遠慮しておきました。標識類や案内看板なども見当たりませんでした。
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『勝幡城址碑』の裏面の光景です。完全に逆光での撮影になってしまいました。この後紹介する資料には、その裏面には1915年にこの碑を建立した地元の9名の方の名前と、当時の松井茂県知事の名前が刻まれているようでした。『松井茂(まつい・しげる:1866年11月4日(慶応2年9月27日)~1945年(昭和20年)9月9日)』は、広島県生まれの日本の内務官僚で政治家です。日本における警察と消防行政の基礎を築いた人とされます。1913年に愛知県知事に就任しました。
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『勝幡城址碑』の裏面のズームアップ光景です。少し時間を掛ければ解読できそうな漢文が刻まれていました。勝幡城の歴史などです。また、先ほど紹介した9名の方は、村長をはじめとする地区代表の方達のようでした。末尾に大正4年(1915年)の忌日が記されていました。
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文化財・勝幡城址の碑の説明文です。『規模:高さ2.3m、幅0.82m、厚み0.21mで、その石は、縄文時代の根府川石(ねぶかわいし・ねぶかいし)です。1915年に裏面に記された9人の人を中心に地域の住人により愛知県知事松井茂にお願いして建立されました。石が硬質のため明確に読み取れます。この石を使った日光大猷寺の石畳は有名で、第四代将軍・徳川家綱公の命で敷き詰められました』
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根府川石の説明文と並んで表示されていた説明文です。写真も添えられていましたが、説明文は先程の根府川石の説明と重複していました。根府川石は、神奈川県小田原市根府川付近で産出する、灰黒色の輝石安山岩の石材で、江戸城築城に使用されたことでも知られます。
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イチオシ
大正4年(1915年)に愛知県名で建てられた『勝幡城址碑』と、『信長生誕を育む会』の名前で設置された『勝幡城址』の看板の光景です。
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見学を終えて勝幡駅に向かう途中、振り返って眺めた『勝幡城址』方面の光景です。前方の日光川に向かって道路が上り坂になっているのは、日光川が天井川であることを示しているようでした。
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街道脇で実っていた蜜柑の樹の光景です。小さな実でしたから、『キンカン(金柑)』のようでした。『キンカン(金柑)』は、ミカン科キンカン属の常緑低木です。『キンキツ(金橘)』の別名を持ちます。
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これで、信長の生誕地との説が強まった『勝幡城址』の紹介はお終いです。勝幡城で生まれ、那古野城、清州城、小牧山城、岐阜城と移り、最後の居城が安土城となった織田信長です。自ら築城したのは、小牧山城が初めてでした。
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信長公所縁の城(その1):那古野城址
これまでは、信長公生誕の地とされてきたお城です。現在の名古屋城二ノ丸址になります。 -
信長公所縁の城(その2):古渡城跡
信長公の元服が行われたお城です。古渡城(ふるわたりじょう)は、1534年(天文3年)に織田信秀により尾張国愛知郡(現・愛知県名古屋市中区)に築城された平城です。1548年(天文17年)に廃城となりました。 -
信長公所縁の城(その4):小牧山城跡
信長公が、初めて自ら築いたお城です。小牧山城は、信長時代と小牧長久手の戦いの家康の陣城として、2度重要な戦略拠点となりました。その間は約17年間です。永禄6年(1563年)に清須から小牧に移った信長は、4年ほどの在城でした。今も発掘調査が続きます。 -
信長公所縁の城(その3):清州城跡
一時期尾張国の守護所として栄え、京鎌倉往還と伊勢街道が合流し中山道にも連絡する交通の要所として重視されたお城です。信長は、この城から桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清須を居城としました。 -
信長公所縁の城(その5):岐阜城跡(麓の信長館跡)
岐阜城(稲葉山城)は、鎌倉時代以来の歴史を持つ山城です。本格的な城郭整備は戦国時代、斎藤道三公の時期と考えられています。永禄10年(1567年)、織田信長公は稲葉山城を占領し、本拠地を小牧山から移しました。写真は、フロイスの日本記にも記された、金華山麓の館の大石です。 -
信長公所縁の城(その6):安土城跡
安土城は、織田信長が天正4年(1576年)、丹羽長秀に命じ、約3年の歳月をかけて完成しました。信長公の最後の居城となりました。
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