2020/02/23 - 2020/02/23
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旅人のくまさんさん
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織田信長生誕の地、勝幡城跡の紹介です。従来は、現在の名古屋城の二の丸跡に位置する、那古屋城跡が信長の生誕の地とされてきましたが、近年の文献調査などにより、かつての勝幡城跡が生誕地であるとする説が有力になりました。
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はじめて降り立った、名鉄津島線の『勝幡駅』の光景です。間違って駅南の出口の方に出ました。少し遠回りして、駅北の出口への移動です。朝、家を出る時には、傘がいるほどの振りでしたが、天気予報通り、雨は止み、次第に天候回復してきたようです。ただし、時折、場所によっては風と雨があるとの予報でした。
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名鉄線路を横断して、北側にやってきました。こちらが勝幡駅の表玄関になるようです。線路を南北に跨いだ、上空の通路に『勝幡駅』の表示がありました。事前のネット検索では、駅前に勝幡城模型や、織田信秀夫妻と赤ん坊時代の信長の像があると紹介されていました。
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『勝幡駅』の駅北にあった、『勝幡城模型』の紹介です。模型の紹介の前に説明文の方を紹介しておきます。タイトルは『織田信長年譜』でした。1534年(天文3年)5月28日、勝幡城で生まれ、幼名が『吉法師』であることから説明が始まっていました。年譜の最後が、本能寺の変が起きた1582年(天正10年)6月2日、未明の自刃でした。
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二重、三重の濠と川に囲まれた、『勝幡城』の模型の紹介です。築城年代は定かではありませんが、永正元年(1504年)頃に織田弾正忠信定によって築かれたと言われています。 織田信定(生年不詳~1538年)は、織田信長の祖父で、尾張下四郡の守護代『織田大和守家』の庶流でした。信定は勝幡城を築いて、津島神社の門前町として栄えた津島を押さえていました。
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反時計回りに、90度ほど回りながらの『勝幡城模型』の紹介が続きます。織田信定は、天文年間(1532年~1555年)の始めに家督を継ぎ、豊かな経済力を背景に勢力を拡げました。天文元年(1532年)頃に今川氏豊の居城だった那古屋城を攻略して移り、勝幡城には武藤掃部を置きました。那古屋城跡は、現在の名古屋城の二の丸付近とされます。
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イチオシ
周りの写り込みが少ない場所からの『勝幡城模型』の紹介です。天守はなく、土塁と堀に囲まれた戦国時代のお城です。勝幡城は日光川付近に築かれていたため、流域の変化により、現在は城跡は、かなりの部分が日光川の河川敷内になったようです。かつてのお城は、城のすぐそばを流れる日光川、三宅川と、領内川などの水運が利用できたとされます。
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繰り返しになりますが、織田家が勢力を伸ばすことが出来たのは、経済力の豊かな津島の商人を抑えていたからと想定されます。信長の生誕の地が、従来の那古屋城ではなく、勝幡城とされた根拠もその前提での文献調査の成果があったようです。左下に方角表示がありますが、概ね、この写真の右側が『北側』です。方角表示の横に、『三宅川』が記されていました。
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最後になる『勝幡城模型』の紹介です。勝幡城の規模は東西205m、南北216m、二重の濠を備えた城だったようです。現在の愛西市勝幡町、稲沢市平和町六輪にまたがる地域が城跡と推定されています。室町時代の形式の館として模型にされていました。この地で財力をつけた信定の子の『織田信秀(1511~1552年)』は、今川氏から那古野城を謀略で奪取し、拠点を移しました。
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イチオシ
意図的に演じていたのか、あるいは平手政秀の命を懸けた諫言で後に目が覚めたのか、『うつけもの』と言われていた時代の信長像です。タイルを使ったモザイク画の紹介です。題名が『水郷の吉法師』、2014年制作、作者が『碧亜希子』さんでした。写真を拡大しましたら、思いを内面に込めた賢そうな信長の顔付きでした。碧亜希子(あお・あきこ)さんは、モザイク造形作家で、エゲオ工房主宰者です。大学卒業後アテネ留学、アテネ、パレスチナ自治区などでモザイクを制作後、2010年に拠点を故郷の愛知県稲沢市に移したとネット紹介されていました。
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勝幡駅前に展示してあった地元の生徒さん達の作品などです。父の信秀の後を継『織田信長(1534~1582年)』は、弘治元年(1555年)、主家にあたる織田大和守家を滅ぼし、その居城だった清洲城を本拠としました。それに伴い、勝幡城を守った武藤雄政も尾張野府城へ移ったため、勝幡城は次第に使われなくなり、廃城となりました。
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同じく、地元の生徒さん達の作品などの展示です。織田家の外交役だった『平手政秀』の紹介の時に触れましたが、天文2年(1533年)には公卿の山科言継が勝幡城に招待されています。その際に城の規模や出来栄えに驚いたという記録が『言継卿記』に残されています。当時としては、かなり規模の大きな城だったことが伺えます。財力が豊かだった織田氏だったようです。
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イチオシ
『土田御膳』に抱かれた赤ん坊時代の『信長』と、父の織田信秀公のブロンズ像の光景です。台座のプレートに『織田信秀と土田御膳に抱かれた幼少期の信長』のタイトルが記してありました。海東郡勝幡城に埋めれた信長の幼名は、『吉法師』であることも紹介されていました。
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『織田信秀と土田御膳に抱かれた幼少期の信長』の像のズームアップ光景です。『土田御前(どたごぜん/つちだごぜん:生年不詳~文禄3年1月7日(1594年2月26日)』は、織田信秀の継室です。夫・信秀の死後、次男・信行とともに末森城に住んでいました。『うつけ』と呼ばれた信長を嫌い、品行方正な信行を可愛がったと伝わります。信長と信行の家督争いで信行が敗れますと、信長に信行の赦免を願い、一度は赦されました。しかし、後に信行は再び信長への反逆を図ったため、信長はそれを許しませんでした。私見ですが、日本人彫刻家によるブロンズ像ではないような作品でした。石造作品でも、いくつか類似のケースを目にしました。
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勝幡駅前にあった、観光案内看板の紹介です。横に長い看板でしたので、この後、左右に分割して紹介します。右側に観光案内の写真4枚とその説明文、それに道案内の拡大図でした。左側が広域の観光案内地図です。
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先程紹介した横長の観光案内看板の、右側部分の紹介です。5枚の写真の内の4枚と、その説明文です。上から『勝幡城跡』、『勝幡神社』、『奥津神社』と『釡地蔵寺』でした。『勝幡城跡』は見学しましたので、後ほど紹介します。
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先程紹介した横長の観光案内看板の、左側部分の紹介です。全体のタイトルは、『勝幡駅付近案内図』でした。右下の道案の拡大図には、南口から北口までの通路がオレンジ色で記してありました。残念ながら先程通ったのは、この通路ではなく、一旦南口から出て、少し大回りしたコースでした。と言っても、僅かばかりの遠回りです。
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三宅川に架かる『塩畑橋』の袂光景です。欄干の名札は『しおはたばし』の平仮名表示になっていました。三宅川は、この下流で日光川に合流します。下流は、この写真の左側です。
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欄干に『しおはたばし』の表示があった橋の袂の光景です。『しおはた(塩畑)』は、『しょばた(勝幡)』の語源とされています。この地は、元々『塩畑(しおばた)』と呼ばれていましたが、縁起が悪いという理由で、織田信定または信秀が『勝ち旗』の意で『勝幡』と改名したと言われています。
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『しおはたばし』の上から眺めた、三宅川の下流方面の光景です。この後にも紹介しますが、この付近の川は、周りの土地より高くなった『天井川』になるようです。『排水機』が降った雨が集まる低地に設置され、屋根より高い川へ水を汲み出しています。
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『しおはたばし』の上から眺めた、三宅川の上流方面の光景です。愛西市の公式HPでは、『古くから海部地域は農業が盛んでしたが、農地が低地にあるため農家は排水に困っていました。このため、これらの排水機や排水路の大部分が農地や建物などを災害から守る事業で建設され、農家の団体である土地改良区などが管理を行っているのが大きな特徴です』と紹介されていました。
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三宅川で泳ぐ、『カルガモ(軽鴨)』さんの光景です。カルガモは、カモ目カモ科マガモ属の鳥類で、親子の引っ越し光景などが報道されて、その可愛さで人気が高くなりました。 和名は、和名は『軽の池』に因むとも言われます。
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『キンセンカ(金盞花)』
分類:キク科キンセンカ属
分布:カレンデュラ、ポットマリーゴールドなどの呼び名があります。
特徴:野生化した小花の金盞花のようです。
その他:30年ほど前に鉢植えで育てた記憶があります。 -
『キンセンカ(金盞花)』
分類:キク科キンセンカ属
分布:カレンデュラ、ポットマリーゴールドなどの呼び名があります。
特徴:野生化した小花の金盞花のようです。
その他:30年ほど前に鉢植えで育てた記憶があります。 -
『勝幡駅』で目にした案内図を頼りにして、ここまでやって来ました。目的地は、勝幡城跡と、その近くに残る神社やお寺の見学です。
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前方左手に見える交通標識には、121号線直進が『一宮』、126号線右折が『あま』、左折が『海津』の表示がありました。また、信号機の地名表示は『東城橋西』でした、目的地の勝幡城跡は、愛西市と稲沢市に跨るようです。
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『稲沢市』の標識の光景です。その左側に『信長公生誕の地・勝幡城跡』の幟が見えました。どうやら、目的地付近にやって来たようです。
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『勝幡城』の表示があった2箇所の内の1箇所です。縄張図を参照しますと、勝幡城の西南付近になるようです。現在は排水場で、周りには用水がありました。前方に見えるのは、『黒田排水機場』の建物です。お城をイメージしたようなデザインでした。
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『黒田排水機場』の建物のズームアップ光景です。愛西市の公式HPからの紹介です。『愛西市をはじめとする海部地域は、昭和30年代中ごろから地下水のくみ上げにより、地面が急に沈んで、ほぼ全部の地域で地面の高さが海の水面より低い状態、いわゆるゼロメートル地帯になっています』このため、排水機場が不可欠と紹介されていました。
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愛西市の公式HPからの紹介の続きです。『この地域は日光川や木曽川など河川へ排水されますが、ゼロメートル地帯を流れるこれらの川は、土地や建物よりも上にある天井川なので、降った雨が自然に川へはいり、海へ流れ出ることはありません』現在、海部地域には、大小合わせ約130か所の排水機が農業用施設として設置され、いつも動いています。
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『ハクバイ(白梅)』
品種:不明(八重咲)
分類:バラ科サクラ属の落葉高木
特徴:花を観賞する『花梅』か、『実梅』か微妙な梅です。
その他:五分咲ほどの花の光景です。
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